TIFF2012・7日目『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』(ワールドシネマ)

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主にハリウッド映画のクリエイターたちが、フィルムからデジタルへの移行を、どのように捉えているのか、キアヌ・リーヴスが聞き手となり、その証言を集めたドキュメンタリー。

その中で、フィルム撮影の現場では、主導権を握るのは監督ではなく、DP(撮影監督)だったという認識を、監督たちが抱いてたのは面白かった。
監督の中にシーンのイメージはあっても、それを技術的に映像にするのはDPであり、撮ったフィルムを現像し、ラッシュにかけるまで、その成否はDPが握ってる。

デジタル撮影となったことで、現場で撮った画を、すぐにチェックできるようになり、カメラの操作も簡易となったため、監督の裁量の幅が広がったと。


インタビューではスコセッシやフィンチャー、リンチ、ノーラン、フォン・トリアー、ルーカス、キャメロン、ソダーバーグといった有名監督たちが次々に出てくるが、むしろ人数的にもDPへのインタビューに時間が割かれてる。

ヴィットリオ・ストラーロやミヒャエル・バルハウスといった大御所から、近年注目を浴びるアンソニー・ドッド・マントルや、女性DPのリード・モラーノなど、彼らは概ね、フィルムへの愛着はあるものの、積極的にデジタルでの表現を模索していこうという姿勢だ。

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ただ35mmのカメラを扱えるようになるには、技術の習得や経験、その技術が継承される環境が不可欠だが、デジタルカメラは、映画を撮りたいと思えば、誰にでも扱える。

映画を映画たらしめている、デッサン力や「風合い」といったものが、欠如した「映画と呼ばれる」作品が夥しい数生み出され続けてる、そんな冷ややかな視線も、フィルムを扱ってきたクリエイターたちの中にはあるようだ。



映画上映後に、映画監督の黒沢清監督と、撮影監督の栗田豊通によるトークショーが行なわれた。

黒沢は、DPへのインタビューはそれ自体が貴重としながらも、この作品に欠けてるものがあるとすれば、デジタルへの移行を、映画の観客はどう捉えてるのか?という視点だという。

一般的な観客は、映画館でかかってるものは、すべて「映画」だと認識してるんじゃないかと。
つまりフィルムで撮影されてようが、デジタルだろうが、その差異にどれだけの観客が気づくのか。

そしてこと日本においては、撮影現場の変化よりも、それを送り出す映画館のデジタル化というのが、ここ1年位で急激に進んでしまったことの方が問題だと。

レッドワンや、パナヴィジョン社の「ジェネシス」など、4Kのピクセルに到達したデジタルカメラの出現で、たしかに「ビデオの画」という先入観は払拭されつつある。

だが現場のクリエイターが、まだフィルムかデジタルかの選択肢に議論の余地がある段階で、早くも上映する環境では、フィルムをかけられなくなってるという事態が出来上がりつつある。
映画産業が自ら、芸術表現の幅を狭めているということに、黒沢は警鐘を鳴らす。

栗田は、フジフィルムのフィルム生産終了と、コダック社の倒産という事実が、デジタル化の時代を雄弁に示していると。
日本の撮影現場においては、デジタル撮影からデジタル編集がすでに主流で、ここ最近でフィルムで撮られてる作品は7本ほどという。
黒沢監督も、最後にフィルムで撮ったのが『トウキョウ・ソナタ』だった。


栗田はデジタルカメラは、映像表現を広げてくれるし、こういう転換期だからこそ、いま映画を作るとはどういうことなのか、自問する機会にもなるという。
デジタルだとラッシュを行なわなくとも、その場で画がチェックできる。

だが栗田が撮影監督として携わったロバート・アルトマンや、アラン・ルドルフといった監督たちは、「デイリー」と呼ばれる、毎日のラッシュ上映を、慣習としていた。

現場のスタッフたちが、部屋に集まって、ビール片手にラッシュを眺めて、意見を言い合う。
そういう行為も映画を作る現場ならではの楽しさであり、スタッフたちの意思疎通の場にもなってたと。
フィルムからデジタルへという、単に技術的な側面だけでなく、映画を作る場の雰囲気にも変革が起こるだろうと。

それはスタッフだけでなく、役を演じる俳優にも影響を与える。
フィルム撮影では、NGを出せば、その分のフィルムが無駄になり、またセッティングに時間も取られるから、俳優も演技への緊張感が高まる。

デジタルだとNGを出しても、データが書き換わるだけだから、無駄も出ないし、時間もかからない。
リラックスして演技に臨めるが、張り詰めた状態だからこそ発揮されるものもある。

ジョン・マルコヴィッチは、舞台出身の役者にとっては、演技を寸断されずに、すぐ続きに取り掛かれるデジタルの方がいいという。


黒沢と栗田がこのドキュメンタリーを見ていて、ともに反応してたのが、ハリウッド映画の製作現場における「カラリスト」という役割だ。

フィルムの場合であれば、現像技師にあたり、映画の最終的な色彩調整を担ってる。
その調整は本来であれば、撮影監督と技師の間で、細かいやり取りを通じてなされるのだが、このドキュメンタリーに出てきたカラリストは、パソコンでの編集の段階で、デジタルで色調整を施していく。
そこに監督や撮影監督が介在してないように見える。

映画のトーンを決めるのは、色彩調整であって、その一番重要な部分を、カラリストが自分の判断で行なってるように見えるのが、黒沢監督には衝撃だったと。

「これでいくと、将来監督は要らなくなるんじゃないか?」
そんな自虐なコメントが漏れた。


俺が特に映画館でのデジタル化の現状で、気になるのは、黒沢監督がいみじくも云った、
「映画館で上映されてるものは、すべて映画と思ってるんじゃないか?」
ということに関するもの。

「映画」とはここではフィルム素材によるものということだが、デジタルでのアウトプットが可能になり、素材のまちまちな物が、さも一緒のように映画館でかけられてる。

映画館のHPなどでは一応表記はされてるが、ブルーレイ上映や、DVD上映が混ざってる。
ブルーレイがきれいだとはいっても、スクリーンにかけると、色彩の明度が足りないのは一目瞭然。
これがDVD-CAMが素材ともなれば、輪郭はギザってるし、絵自体もぼやけた感じになるし、とてもDLP上映と同じクオリティとは云えない。

だが映画館及び配給会社側は、明らかに見た目が落ちる「商品」にも、同じ料金を請求してくる。
この変換期における、どさくさに紛れた商売の仕方が気に入らない。


それは一方でデジタルで安価に映画が作れるようになり、映画と呼べないようなシロモノも、いろんな事情で映画館にかけられるようになり、映画そのものが「軽く」なってしまったとも云える。

映画の送り手たちの中には、今の若い世代は、タブレット端末で映画を見ることに抵抗もない。
なのでスクリーンに映される映像のクオリティなんてものには関心を払わないのだ、という意識があるのだろう。
スクリーンに映ってる薄ぼけたモンを見に、金を払ってるわけじゃないんだが。

それにデジタル上映機材を導入するには、決して安くはない金がかかり、小さな経営規模のミニシアターが苦境に立ってるという。

映画産業にとって、観客に映画を届ける映画館が、これだけ困窮してるのに、例えば負担の少ない条件で、上映機材をリースするとか、なんかバックアップのしようがあるだろう。
デジタルに移行するもしないも、自己責任みたいなスタンスは、冷酷じゃないかね。

2012年10月26日

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