映画は人を騙し、人を救う [映画ア行]

『アルゴ』

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1979年、イランの前国王パーレビが、癌の治療のため、アメリカに入国。
イランの過激派は、恐怖政治の中で私服を肥やしたパーレビを、自国で裁きにかけるため、身柄の引渡しを要求。
時のカーター政権はこれを拒否したため、過激派に煽動された民衆たちによる大規模なデモが起こる。

デモの大群は、在イラン米国大使館を取り囲み、最悪の事態を予感した大使館員たちは、書類のすべてを焼却、あるいはシュレッダーにかけた。

怒りに駆られた民衆たちは、大使館の塀を乗り越え、敷地内になだれ込む。
52人の大使館員が拘束された。
だが混乱に乗じて、6人が大使館を脱出し、カナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

アメリカ人を匿ったことがイラン側に察知されれば、自分と妻の身も危ない。
だがカナダ大使は、アメリカ大使館員6人を、客人として滞在させることにした。

カナダ大使から連絡を受けた米国防省は、CIAに応援を要請。
人質奪還のプロ、トニー・メンデスの手腕に委ねた。


すでに、どうやって6人をイランから脱出させるかの案は上がっていた。
2つの案はトニーによって即座に否定される。

車を使うと検問にかかるので、自転車でトルコ国境を越える案。
これは国境まで600キロもあるので非現実的。
外国人教師を装うという案も、すでに反西欧に傾いていた当時のイラン国内には、英語教師などはいなくなってると、トニーは指摘。

「では代案はあるのか?」
との問いには、その場では答えられなかった。

だが自宅に戻り、幼い息子に電話しながら、テレビで放映されてる『最後の猿の惑星』を眺めてたトニーは、ある突拍子もないアイデアが閃いた。


1977年『スター・ウォーズ』の空前の大ヒットにより、SF映画ブームが到来していた。
カナダ大使私邸に滞在する6人の、アメリカ人大使館員を、カナダの映画クルーに装わせる。

荒涼とした砂漠の惑星のロケーションに、エジプトやイランなど、中東諸国が適してるとして、撮影に訪れたことにする。
トニー自身が映画の資料を持って、イランの役人にロケの許可を得る。
そしてカナダ大使私邸で、6人と合流し、一緒に空港へ向かい、出国審査をクリアして、民間機で脱出するという筋書きだった。

だが過激派は大使館内のシュレッダーから、裁断された紙の断片を回収。
子供たちを動員させ、なんとジグソーパズルよろしく、断片をつなぎ合わせる作業をさせていた。

その紙の中には、6人の大使館員たちのプロフィールも含まれ、顔写真が照合されれば、人質の中に6人がいないことがバレてしまう。

入国時に書かされる証明書も、控えは空港職員のもとにある。
出国時にトニーと、6人の入国日が違うことを指摘されたら?
薄氷の上を渡るような作戦は、決行の時を真近に迎えていた。


前作の『ザ・タウン』と同様に、監督・主演を兼ねたベン・アフレックだが、前作がアクション描写を強調した作りになってたのに対し、この『アルゴ』は、じっくりと腰を据えて、物語の展開をコントロールしていこうという姿勢だ。

前半に動きのある場面なんかを入れて、メリハリを効かそうとか、そういう色気を出すことがない。

これは事実自体が十分面白いのだから、それをなるべく明解に、駆け足にならずに観客に提示する。
ベン・アフレックの「功をあせらない」演出ぶりで、事件の背景や、登場人物の関わり合いが把握しやすい。
それでも前半は単調に感じる人もいるだろう。
だが映画好きなら、前半から身を乗り出して見てしまうようなネタが蒔かれてるのだ。


『アルゴ』とは、映画会社のボツ脚本の山に埋もれていた、SF映画の題名による。
『スター・ウォーズ』に便乗して、ロジャー・コーマンが手掛けた『スペース・レイダース』とか『宇宙の7人』とか、そんなパチモン感が漂う。
トニーはまずこのSF映画を製作するという、既成事実つくりから行う。

「敵を欺くにはまず味方から」ということで、特殊メイクマンと、映画プロデューサーに声をかけ、
「架空の映画話をデッチ上げる」と。

ストーリーボードを描かせ、エキストラ役者を集めて、コスチュームを着せ、製作発表の席で、台本を読み合わせさせる。
ポスターの図柄が、製作発表の記事とともに、映画業界誌「バラエティ」に載る。

「バラエティ」誌は、世界どの国の映画人でもその名を知ってる業界誌であり、この雑誌に載ったということが、アリバイ作りの成立を意味してるのだ。

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実際の映画業界でも、製作発表をして、イメージポスターも作って、だけどその後に話がポシャることはザラにある。
企画をブチ上げて資金を募って、そのまま雲隠れする、自称プロデューサーなんて輩も珍しくない。

映画というのは、そういった「いかがわしさ」の中で日々生み出されているものなのだ。


製作発表の内容通りに、映画が完成したとして、それが巧妙な宣伝によって、映画館にかかったとして、その「クソみたいな」出来栄えに、それこそブログやツイッターなんかで
「金返せ!時間返せ!」の合唱が沸き起こったとしても。

もしそうなったとしても、その観客の内の誰かが、監督やプロデューサーのもとに押しかけて
「つまらないもの見せやがって!」
と刃物振りかざすようなことにはならない。

映画というのは不思議なもので、どんなにつまらない映画でも、殺意を抱かせるまでには至らず、観客は
「そのつまらなさも一つの存在価値」などと、生暖かい目で見てくれたりする。

面白いと思って「騙された」としても、観客は刃物までは手にしないが、この
『アルゴ』の場合は、「騙された」と気づいたら、銃を向けてくるであろう人間たちが相手なのだ。

ハシにも棒にもかからない脚本を拾いあげて、チープなSF映画をデッチ上げて、だがその映画こそが、6人の人命を救う「切り札」になるという痛快さ。


映画の終盤は、一気呵成に見せてく演出で、もちろん脱出のスリルは十分に味わえるが、俺はこの映画の主眼は、やはり「映画を語る映画」という部分にあると思う。

映画を作るという行為は、いわば「上手に嘘をつく」ことだ。
観客も嘘を承知で楽しむ術を心得てる。
作り手と観客の間には、暗黙の了解があるわけだ。

だが『アルゴ』の嘘は「命がけ」でつかなければならない嘘だ。
その作戦自体が、「バクチ」といわれる映画製作そのものを表してる。

だから自分たちも、映画に騙されたと思って、いちいち目くじら立ててちゃいけないのだ。
そんな映画が人を救うことだってあるのだから。
70年代のワーナー映画のロゴから始まるところも憎い。

2012年11月3日

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