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夏川結衣のドラマを見る [映画タ行]

『尋ね人』

夏川結衣4.jpg

WOWOWの無料放送でやってた。
主演が夏川結衣とあっては、まずは見なくてはならない。

監督は篠原哲雄。先月「TIFF」で見た日中合作の『スイートハート・チョコレート』はガッカリな出来だったので、どうかなとは思ったが。

これは今年出版された谷村志穂の小説をドラマ化したものだが、筋を追いながら、なんだか篠原哲雄監督が2000年に撮った『はつ恋』と、プロットが似てるなあと思った。


『尋ね人』で夏川結衣が演じるヒロイン李恵は、東京で服飾デザインの会社を経営してたが、仕事でも私生活でもパートナーだった男に裏切られ、地元の函館に戻ってくる。

病床に臥す母親を自宅で看病するためだったが、傷心を癒すためでもあった。
だが家に戻ると、母親から思いもかけない頼まれごとをされる。

母親の美月は、自身の余命が僅かであることを察していた。
命尽きる前にと、母親がどうしても確かめたかったこと、それは50年前の初恋の人の消息だった。


昭和27年、函館の児童施設で働いていた美月は、仙台の大学から函館を訪れた藤一郎と知り合う。
二人は親密になると共に、藤一郎は大学の休みを見つけては、青函連絡船に乗って、仙台からやってきた。
旅費もかなりかかるはずだが、藤一郎は仙台の土地持ちのせがれだったのだ。

親友によれば、それまでは女にも手が早い、遊び人だったが、美月と出会い、その純真さに打たれて、本気で彼女を愛するようになったと。

美月も藤一郎との将来を心に決めていた。
「次に会う時は、ご両親にも紹介してね」

藤一郎はその言葉に頷いたが、帰り際、市電乗り場で一緒に乗り込むはずが、二人はそこで別れ別れになってしまう。
藤一郎は不意に市電乗り場から立ち去り、それきり姿を消してしまったのだ。

以来手紙を出しても返事は来ず、心当りに連絡しても、誰ひとり藤一郎の居場所を知らない。

「私がなにか気に触ることでも言ってしまったのか?」
美月は思い悩む日々を送った。

そして傷心にけじめをつけるべく、2年後に、紹介を受けた見合い相手と結婚を決め、そして李恵が生まれたのだ。


「なんで50年も前の恋にこだわるの?」
「私やお父さんは、一体なんなの?」
李恵は母親の申し出をとても納得できはしなかった。

だが母親が藤一郎と交わした、100通にも及ぶ恋文を目のあたりにして、余命僅かな母親の真剣な心情に思い及ぶようになっていった。


地元のいきつけのバーで、そんな話を漏らした李恵に、そばに居た無精ひげの男が
「それは失踪ですよ」と口を挟んだ。
「自分から望んで失踪した場合、まず見つけだすのは不可能だ」
男のぶっきらぼうな口調にカチンとくる李恵。

だがその言葉が引っかかり、後日、男が営んでる「浮気調査」の事務所に顔を出す。
男は「失踪人の調査はしない」と断るが、李恵の率直な性格に惹かれるものがあり、手助けをするようになる。
恋文の文面から手がかりを探り、糸をたぐるように、藤一郎の足跡を見つけて行く。


藤一郎はあの後、仙台の実家にも戻らず、バーテンをして渡り歩いていた。
大阪のバーに当時の藤一郎を知る主人がいた。

藤一郎には実は親が決めた許婚がおり、美月との恋の狭間で、悩んでいたという。
美月からも将来を乞われ、許婚との式も迫り、その女たちの視線に耐えられなくなり、藤一郎は衝動的に姿を消したのだという。

だが2年が経ち、やはり美月への思いは断ちがたく、藤一郎は大阪から、再び函館へと向かった。

その時すでに美月は結婚し、児童施設も辞めていた。
藤一郎は後悔を胸に、昭和29年9月、嵐の近づく青函連絡船・洞爺丸の乗客となっていた。


夏川結衣は、母親の恋の消息を辿るなかで、自らの過去の恋との訣別をはかるヒロインの心の揺らぎを、丁寧に演じてた。
男を寝取った、自分の部下でもあった若い女から、男の部屋にあった私物を函館に送りつけられ、屈辱に涙する場面もいいが、その男が函館にやってきて、ホテルで復縁をちらつかせる態度に、きっぱり拒絶を示し、
「では、お元気で!」と立ち去る、
その切れ味に夏川結衣の本領が出てた。

無精ひげの男を演じてるのは安田顕。ファンからは「ヤスケン」と呼ばれてるんだね。
うらぶれた感じは、若い頃の山崎努を思わせるものがあり、舞台に立ってるからか、声がいい。

俺はこの人の芝居を初めて見るんだが、普段の芸風とはちがうようで、盟友の大泉洋が見たら
「おまえ、なにカッコつけちゃってるんだよ!」
とツッコミ入るところか。
大泉洋も『探偵はBARにいる』で十分カッコつけてたから、お相子だろうけど。

はつ恋.jpg

さて前述した篠原哲雄監督の『はつ恋』だが、あの映画では田中麗奈演じる女子高生が、やはり母親の昔の初恋相手への想いを知り、その男性を探すという出だし。
母親が病に倒れ、余命いくばくもないというのも同じ。

初恋相手はわりとすぐに見つかるんだが、真田広之演じるその男は、初恋のイメージをブチ壊すような、うらぶれた風情の中年男で、女子高生は
「こんなじゃ母親に会わせらんない」と、男を改造するべく奮闘する。

男は結婚生活に破れ、その痛手を引きずってグズグズしてるという設定だが、
これも『尋ね人』の安田顕演じる無精ひげの男が、妻と離婚し、いまは幼い息子に会うことも適わず、失意の日々にあるというのと一緒だ。
真田広之演じる男の名が藤木真一路といい、藤一郎と似てなくもないし。

監督の篠原哲雄がこういう話が好きで、『尋ね人』の監督を引き受けたのか、原作の谷村志穂が、『はつ恋』のプロットからヒントを得て、小説を書き上げたのか、なんにせよ偶然すぎる一致に思える。

2012年11月9日

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パリの家政婦は見た [映画ヤ行]

『屋根裏部屋のマリアたち』

img3883.jpg

この映画は昨年の「フランス映画祭」で上映されてたが、その時にはスルーし、「文化村ルシネマ」で一般公開された時にも見逃した。
ようやく横浜でつかまえて見た。

昨日コメント入れた『桃(タオ)さんのしあわせ』もルシネマで上映されていて、家政婦映画を同じ年に2本かけてたことになる。
どちらもいい映画だ。だがテイストは異なっている。

この『屋根裏部屋のマリアたち』は、60年代パリのアパルトマンを舞台にした、ブルジョワの雇い主と、屋根裏住まいのスペイン人メイドたちによる、一種のユートピア映画。

軽やかな人生賛歌の趣きがある。
こんないい気分に浸れる映画をスルーしてたとは、俺のバカ。


ジャン=ルイは、祖父の代からの証券会社を経営してる。
パリの古いアパルトマンには妻と二人暮らし。
息子二人は格式ある寄宿学校に入れている。

ジャン=ルイはブルジョワ層の身分だが、妻のシュザンヌは田舎育ちで、そのコンプレックスから、ブルジョワ的暮らしに強いこだわりを持ってる。
ジャン=ルイは淡々と仕事をこなし、生活に不満もないが、情熱も沸き起こらない。

彼の唯一のこだわりは、朝食に出されるゆで卵の、「3分半」というゆで時間のみだ。

先代から仕える年配のメイドは、家の中の一切を仕切ってたが、料理は下手で、卵のゆで時間が守れない。
だがそのメイドは、シュザンヌが亡き義母の部屋を改装するのに反発して、仕事を辞めてしまった。

奥様連中とのランチで、シュザンヌはその件をボヤくと、いまはスペイン人がメイドの主流だと教えられる。
1962年当時パリには、フランコ独裁政権下から、自由と仕事を求めて、多くのスペイン人が逃れてきていた。
アドバイスを受けて、パリにあるスペイン教会を訪れたシュザンヌは、叔母を頼ってパリに出てきたばかりの、若いマリアに声をかける。


メイドとしての適正をテストされる初日に、マリアはジャン=ルイの云う通りに、ゆで卵を3分半きっかりに出した。
夫婦が出かけた後は、同じアパルトマンの屋根裏部屋に暮らしている、叔母たち住人に声をかけて、膨大な家事を手分けしてもらい、無事に正式採用となった。

給与を示すジャン=ルイに、マリアは強気で交渉する。
スペイン女性はタフだった。
それでもジャン=ルイが彼女を雇い入れたのは、ゆで卵の件だけでなく、マリアが若くてきれいだったことも、もちろんあっただろう。


マリアはジャン=ルイ夫妻の部屋の裏手にある使用人階段を上って、屋根裏部屋の寝室をあてがわれた。
雇い主がその階段を上がることなどなかったし、屋根裏部屋の住人たちがどんな暮らしをしてるのか、知る由もなかった。

屋根裏の物置を覗きにいったジャン=ルイは、そこで初めてスペイン人のメイドたちと顔を合わせた。
彼女たちは気さくだったが、生活環境は苛酷だった。
狭い部屋には暖房もなく、お湯も使えず、共同トイレは詰まったまま。

そのトイレの惨状にショックを受けたジャン=ルイは、すぐに修理を呼んだ。
それがきっかけで、ジャン=ルイと階上の女たちは、少しずつ交流を深めていく。

6人のスペイン人はそれぞれに過去や悩み事を抱えており、ジャン=ルイは手の及ぶ範囲で、彼女たちの力になってやった。
気分が乗るとみなで唄いだすような、陽気な彼女たちといると、表情の乏しい生活を続けてきたジャン=ルイの気持ちも、不思議と浮き立つようだった。


ホームパーティで客を招いた際には、ウェイターがマリアに言い寄るのを見て、激しい嫉妬に駆られた。
そんな感情が自分の中に湧き上がるとは。
ついマリアに辛辣にあたり、しばらくは口もきいてもらえなくなる。

ジャン=ルイはそれでも、階上の彼女たちの助けにはなり、DV夫から逃れるメイドのために、新しい住み込みの職を世話してやる。
その入居祝いに招かれたジャン=ルイは、同じく駆けつけたマリアと和解することができた。


最近夫が妙に活き活きとしてると、怪訝に感じていた妻のシュザンヌは、夫の顧客で色気を振りまく未亡人との浮気を疑った

妻の勘違いを敢えて否定することもせず、家を追い出されたジャン=ルイは、なんと屋根裏部屋に移り住む。
もちろん妻はそれを知らない。
住人のスペイン女性たちは、呆れはしたが、まあ気の済むようにと眺めてる。

だがジャン=ルイとマリアの距離が近づいていることには危惧もしていた。
所詮は身分も背景もちがう者同士。どちらにとっても幸せな結果は得られるはずもない。

そしてジャン=ルイは知らなかった。
若いマリアは未婚の母で、息子は養子に出され、資産家の元に暮らしてることを。

ナタリアべルべケ.jpg

ジャン=ルイを演じるのは、エリック・ロメール作品の常連で、多彩な役柄をこなすベテランのファブリス・ルキーニ。
俺は出演作の中では『百貨店大百科』が印象に残ってるが、彼は喜怒哀楽がはっきり出ない顔をしてる。
昨年スピルバーグがフルCGで『タンタンの冒険』を作ったが、若い頃のファブリス・ルキーニなら、実写で主役にハマると思う位の「タンタン顔」だと思ってる。


その彼の最小限の表情で、心が動いていくさまが、見る者に伝わってくる、そこにこの映画の「描きすぎない」良さが表れてるのだ。
人情話として、もっと濃い味に仕上げることも可能だが、そこをいい塩梅に抑えている。

でもエピローグでは「そうだよね、そうあってほしいよね」と観客が思うであろう結末を用意してる。
ここですっかり気持ちよくなってしまうのだ。

こういう映画は作れそうで、なかなかこんな風には仕上げるのは難しいだろう。
フランス映画というと、個性的な映画監督がいて、「作家主義」的に語られることが多いが、映画をほどよく語る上手さも見逃せない美点だと思う。
今年前半に見た『ある秘密』にも通じてる。

この映画の細やかさは、妻のシュザンヌの存在を、マリアとジャン=ルイへの「アンチ」として描いてはいない所だ。
シュザンヌ自身は身につかないブルジョワの生活に、いまもストレスを抱えてる。

スペイン人のメイドたちが、ジャン=ルイと交流するように、彼女もブルジョワのジャン=ルイと、生活を共にすると決まった当初は、環境や身分の違いに身がこわばっただろう。
ジャン=ルイとの関係は、だからメイドたちと実はそう変わらないのではないか。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、芯の強さと可憐さが同居していて、これは惚れてまうだろという納得のキャスティングだ。

2012年11月8日

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香港の家政婦は見た [映画タ行]

『桃(タオ)さんのしあわせ』

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父親の実家に昔、住み込みの家政婦さんがいた。
別に大層な家でもないのだが、俺の祖母というのが、料理や家事の一切をしないという人だったので、早くから雇い入れていたようだ。

ガキの頃、家族で帰省すると、決まって駅まで出迎えに来てくれた。
俺は「なあさん」と呼んでた。
語尾に「なあ」がつくんで、そう呼ぶようになったんだろう。

祖父が死に、祖母も入院するようになり、なあさんは暇をもらったようだ。
それはいつの頃だったか。
それどころか、俺はいまも「なあさん」の本名を知らないのだ。

彼女がどんな風に育ち、青春時代を送り、結婚した様子もなく、俺の父親の実家に住み込んで、長い時間を過ごしてきた、そのことをほとんど知らないままだ。

香港のベテラン女性監督アン・ホイによる、この『桃(タオ)さんのしあわせ』を見ながら、なあさんの顔を思い浮かべていた。


幼い頃に養子に出され、養父の死後には、梁家の家政婦となった桃さん。
その後彼女は4代に仕え、もう60年の月日が流れていた。
梁家は現在サンフランシスコに移住し、独身で映画プロデューサーのロジャーだけが香港のマンションに残っている。
桃さんはそのロジャーの身の回りの世話をしてるのだ。

夕飯の食材を探して市場に出向き、ロジャーのために手をかけた料理を出す。
ロジャーは旨いとも何とも云わず、当たり前のように黙々と食べると、中国に出張に出る。

桃さんとロジャーは母親と息子のような間柄となっており、息子は母親の作った料理を、褒めることもせず食べるだけという、この描写はチクリと心に刺さる。
息子であった者なら、思い当たるふしがあるからだ。

台詞で説明せず、テキパキと的確な画をつないで描いていく、ベテラン監督らしい進め方が気持ちいい。

ロジャーが出張から戻ると、桃さんは脳卒中で倒れていた。
退院はできたが、治療は継続し、完全な回復は望めないと知り、桃さんは、
「家政婦を辞めて、老人ホームに入る」とロジャーに告げる。
多少の貯えはあるから、費用も世話にならないと。


ロジャーは桃さんのために、顔見知りの役者バッタが経営する老人ホームを、格安で手配した。
個室と云われた部屋は、間仕切りで囲われただけで、ホームに入居する老人たちの風体や、味付けに気を配ってない食事など、桃さんには気が滅入ることばかり。

おまけに名前を「お手伝いさんみたい」と云われ、いよいよ腹も立つ。
だが桃さんは、ここで暮らしていくほかはなかった。

ロジャーは以前に心臓の病気で倒れたことがあり、その時に桃さんが献身的に看病してくれたことを感謝してる。
なのでホームにもよく顔を出し、今度は自分が世話する番と、桃さんの晩年に付き添う。
映画はその二人の関係を「心あたたまる物語」にしつらえてる訳ではない。


桃さんは60年に渡り、「いい家」に住み込みで働いてきたのだ。
その家の主人ではないが、生活をともにし、同じ窓の外の景色を眺めて生きてきた。
だから彼女の中では、生い立ちは貧しくとも、本来同じ「階級」ではない梁家の元に仕えることで、いつしか自分も庶民とは違う場所にいると、思いこんでたかも知れない。

老人ホームに入って、裕福とは云えない入居者たちと接することは、否応なく自分が本来いた場所を思い知らされる。

多少体の具合が悪くなっても、なんとかロジャーの下で暮らすことはできただろう。
「ホームに入る」と告げた時に、止めてくれるかもという思いもどこかにあっただろうか。
だが彼女にはプライドがあった。
使用人として、雇い主に迷惑はかけられないという。


ロジャーも「ほんとにいい人」という描かれ方ではない。
あのホームを見れば、桃さんのためにもう少しいい環境をと思ってもいいはずだ。
仕事があるから、桃さんを家で看るのは不可能と最初から決めている。

彼がなぜ独身でいるのかはわからないが、桃さんが家から居なくなり、電気製品の使い方ひとつわからないことを痛感する描写がある。
すべてを桃さんに任せっきりにしてきた。

相手が母親なら、さすがにある程度年齢がいけば、依存することにも躊躇するだろうが、桃さんが家政婦だということで、その存在に甘えてきたのではないか。

ロジャーにとって、桃さんは都合のいい母親だったのだ。


桃さんにも、ロジャーにも、ちょっと辛辣な視線を向けることで、ベタついた感傷から逃れる映画となってる。
それでもロジャーが桃さんを外出に連れ出す、2つの場面はいい。

ロジャーはプロデュースした映画の完成披露試写会に、桃さんをエスコートする。
化粧にも気をかけなかった桃さんが、心浮き立たせながら鏡に向かい、とっておきのドレスに身を包んで、お出かけする。

会場でロジャーは桃さんを「僕の義母です」と紹介した。
桃さんの人生で一番華やいだ夜だったろう。


もうひとつの場面は、ホームに入ってから、脳梗塞の症状を繰り返した桃さんが、ロジャーに車椅子を押されて、公園に散歩に出る。

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同じ言葉を繰り返す桃さんに、もう以前の表情はない。
彼女に背を向けてゴミ箱に向かう時のロジャーが痛切だ。

人は家族であれ、友人であれ、恋人であれ、つながりのあった相手に
「もう少しなにかしてあげられたかもしれない」
と、後から思う。
そういう思いが積み重なることが、歳をとるということなのだ。
ロジャーはあの時、そんなことを思っていたのかも。

俺の父親にとっても「おふくろの味」とは、このロジャーのように、母親でなく家政婦「なあさん」の作った料理の味だったのか。

この映画を父親が見れば、なにかしら感じ入るものもあったかもしれない。
だが映画を勧めようにも、その術はもうない。

ロジャーを静かに演じるアンディ・ラウもいいし、プライドと淋しさの狭間で揺れる、桃さんを演じたデイニー・イップも見事。
女好きのホームの入居者、キンさんを演じるチョン・プイが最後に泣かせる。

2012年11月7日

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昔『ヨーロッパの夜』というモンド映画があったが [映画ナ行]

『眠れぬ夜の仕事図鑑』

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ガキの頃から夜型だった。10才の時に「手作りラジオ」のキットというものを買ってもらい、夜中にたまたまスイッチを入れたら、ラジオ番組をやってる。
夜中にやってるなんて知らなかったので、イヤホンつけて聴いてるうちに、それが日課になってしまった。
学校では眠くてしょーがない。

若い頃には夜勤の仕事も何年かやった。夜勤明けに映画を見に行く。
平日の初回なんてガラガラだし、今のように指定席ではなかったから、好きな席に座って、退屈ならそのまま寝ればいい位の心持ちで見てたが、意外と眠らずに見てしまえる。

夜中に仕事して稼いで、平日の昼間に映画を見る。
若い頃はそれが効率的と思えてたが、あの時期の暮らし方で、心臓の寿命を縮めてたんではないか?と振り返って思う。
明らかに体に負荷はかかってるのだ。

映画を見終わって、まだ陽の高い屋外に出て、これから寝に帰ろうという時には、目の周りがズーンと重くなり、後頭部もボウッとした感覚になってる。
でもその感覚を「充実した時間を過ごした証」と解釈してたのだ。


このドキュメンタリーは、ヨーロッパ10カ国をロケして回り、「夜寝ない人々」の光景を観察する。
そのテーマに関心を惹かれて見に行った。

俺が映画を見始める以前、1960年代には『ヨーロッパの夜』をはじめとする「夜」シリーズという、ドキュメンタリーが日本に入ってきてた。
当時の性風俗が捉えられていて、「夜のいかがわしさ」が扇情的に宣伝されてたようだ。

ヨーロッパの夜.jpg

夜というのは、普通の生活者は寝てる時間であって、その時間にごそごそ動き回ってる人々は、なにか疚しさと隠微さがまとわりついてる。

夜は24時間のうちの「下半身」だったのだ。
だが今の都市生活において、夜は「昼間の延長」でしかなくなった。

昼間と同じように夜も、その時間を経済活動に使えばいい。
人間はそうして夜の時間を、当たり前のように侵食してきたのだ。
だが1日の24時間というのは、「人間が何もしない」時間も含めて設定されてるものなのだ本来。

俺が心臓の寿命を縮めたと感じた、あの時期のように、夜まで食い尽くして繁栄しようという人類は、きっとそのぶん寿命を縮めてるんだろう。

クリント・イーストウッドが最近の週刊誌の記事の中で、「とにかくよく寝る」と語ってる。
1日に9時間は寝るそうだ。
「もう老い先短いから」などと焦るような素振りなど微塵もない。
たっぷりと寝て、あれだけ画面に力の漲った映画を撮り続けてる。


この『眠れぬ夜の仕事図鑑』では20の異なる場所の光景が映されてる。

世界の都市で一番監視カメラの数が多いと言われている、ロンドンの監視モニター室。
警備員が何十台とあるモニターの画面を眺めている。
路上では麻薬の取引も頻繁に行われてる。
街頭の灯りの光量で十分に目視できる。
もちろんズームも自在にコントロールできて、公園のベンチにいる男の顔がはっきり判別できる。
監視カメラの精度が高い。

これでは町に出てる限りにおいては、丸裸にされてるようなもんだ。
こういう仕事を黙々とこなしている監視員というのは、どんなことを考えてるんだろうか。

ただ監視を行うというのは単調だろうし、眠気も誘うだろう。
誰か特定の人間に的を絞って観察することはないのか?

例えば自分が気に入った女性だとか。
彼女がもし毎日同じ場所に現れれば、そこらじゅうにある監視カメラを駆使して、その行動パターンや、どのくらいの収入の仕事に就いてるかとか、いろんな個人情報を手にできるだろう。

監視員にとって、ストーキングの誘惑というものはないのか。

このロンドンの監視員と比べて、冒頭に出てくる、スロバキアの国境警備のモニターは地味の一言。
だだっ広い草地にカメラが設置され、フェンスの前をたまに横切るのは動物だけ。


そんな無人の光景と真逆なのが、ミュンヘンで開かれる「オクトーバーフェスト」の人の山。
いわゆるビール祭りなんだが、広大な空間を擁する会場が人で埋め尽くされてる。

真ん中あたりにステージがあり、
バンドが「ビール!ビール!ビール持ってこい!」みたいな歌を演奏してて、客も大合唱となってる。
東京中のビアガーデンが1箇所に集まったみたいな。

ウェイトレスがチキンを乗せた皿の山を運んでくが、人波をかき分け、よく落とさないもんだ。

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その会場でピーター・シリングの『メイジャー・トム』という曲が流れてた。
これはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』へのアンサーソングとして、80年代にビルボードのヒットチャートにもランクインしたポップソングだ。
ピーター・シリングはドイツ出身のミュージシャンなので、母国ではかなり有名な曲なのだろう。

ほかは医療現場、24時間のニュースチャンネルや、空港、不法移民たちの強制移住手続きなど、淡々と行われる夜間の仕事がほとんど。


『ヨーロッパの夜』的なネタとしては、プラハの売春宿があった。
ここでは客が行為を撮影され、有料ネット会員に向けて配信されるということを了承すれば、格安料金で利用できるという。
裸でまぐわってる男女にも、その後素っ裸でシャワー浴びて出てくる様子にも、ちっともエロさを感じない。
もう『ヨーロッパの夜』のようなエキゾチズムは、この星の夜からは失われてしまった。

2012年11月6日

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インドネシア容赦ない『ザ・レイド』 [映画サ行]

『ザ・レイド』

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ブルース・リーが十数分だけ出てる「主演作」の『死亡遊戯』を、封切りの時に、日比谷映画で見た。

黄色に黒のラインが入ったトラックスーツを着た、ブルース・リーによる格闘場面が十数分撮られたまま、彼の死で未完となった「幻の映画」を、代役を使って完成させたものだ。

短編を長編映画に作り直すということは、よくあることだが、断片的なフッテージから、1本の長編映画をこしらえるというのは稀だろう。

その無理矢理感は公開前の段階からプンプン臭ってはいたが、映画オープニングの、ジョン・バリーのテーマ曲のカッコよさに
「ああ、これはちゃんとした映画になってるはず」
と、つかの間胸を撫で下ろした。

だが本編に入り、リーとおぼしき主人公は現れてからは、もういけない。
黒いグラサンで目は覆っているが、本人ではないことは一目瞭然だった。

一応代役の人たちも、それなりカンフーを習得してるから、動きは悪くない。
遠目でアクションを見てる分にはいいが、寄るともろバレで、場面によっては、ブルース・リーの顔をはめこんだりしてる。

本来なら「ふざけんな!」ってとこなんだろうが、俺を含めて、映画を見てた客たちは、
「なんであれ努力してることは認める」
というスタンスだったと思う。そして代役であれ、
「あれはブルース・リーなのだ」
と、自分の中で脳内変換させて見てたのだ。

こんなに観客に気を遣わせる映画もない。

そこにはもちろん商売っ気があったにせよ、ブルース・リーの雄姿を、いま一度スクリーンに甦らせようとした、作り手の執念と、そのことを踏まえて気を遣いながら見る観客の、そんな不思議な連帯感があの映画を形作ってたんだと思う。

ブルース・リー 死亡遊戯.jpg

その観客の気遣いが終盤の「レッドペッパー・タワー」(唐辛子塔ってどうよ?)での本人登場で報われる。
と同時に代役たちに「今までご苦労さん」と言う気持ちにもなった。

階を上がるごとに刺客が現れ、本物のブルース・リーが打ち倒していく。
ヌンチャクの戦いも見れる。

ただ最上階のラスボスの、カリーム・アブドゥル・ジャバーがな。
俺はその時は胸に閉まっといたが、あれはどう見ても「ただのノッポ」だ。

バスケ選手としてはスターでも、リーのもとでジークンドーを習ってたとは云っても、あんな蹴りでブルース・リーの相手は務まらない。
チャック・ノリスに見劣りしすぎる。
そのラスボスの残念感だけは拭えなかった。


でようやく、この『ザ・レイド』に話がつながる。
日本に入ってくること自体が珍しいインドネシア映画だが、『死亡遊戯』の「レッドペッパー・タワー」でのシークェンスだけを抽出したような、全編が殺し合いという凄まじさなのだ。

ジャカルタにある、麻薬王が君臨する、スラムのような30階建ての高層アパートに、20人のSWATチームが突入する。
プロットはそれだけだ。
スピルバーグの『激突!』なみにシンプル。


SWATチームは完全武装して乗り込んでるが、見張りの一人に逃げられ、麻薬王リヤディは、突入の事実を知る。
アパートの各階に設置されたカメラによって、SWATチームの位置が把握され、リヤディはモニタールームから、全館に通知する。

「当ビルに害虫が侵入した。駆除に協力してくれた者には、アパートの永住権を与えよう」

それを聞いて、ドアというドアから、住人たちがワサワサと襲い掛かってきた。
襲撃に備えて、向かいのビルに配置してた麻薬王のスナイパーたちの銃撃も受け、20人いたSWAT隊員は、瞬く間に半数以下となる。

SWATのチームリーダーのジャカは、奇襲作戦を計画したワヒュ警部補に、本部に応援を要請してほしいと告げる。
だがこの作戦は警部補が独断で決めたもので、応援は来ないことが判明。
退路も断たれたSWATチームは、一転窮地に陥る。

屈強なジャカは徹底抗戦を覚悟するが、自分のチームの中に、救世主となる男がいることに気づいてなかった。


SWATに配属されたばかりの新人警官ラマは、インドネシア発祥の格闘術「プンチャック・シラット」の使い手だった。

リーダーのジャカと別行動となったラマは、なみいる敵を次々に打ち倒していった。
凄まじい速さの拳と蹴り。
ナイフや棒も自在に操り、容赦なく留めを刺してく。
6階からリヤディのいる15階まで、ラマは徐々に歩を進めつつあった。

階が上がるごとに、銃撃戦から肉弾戦へと様相は変わっていった。
そしてリヤディの側近「マッドドッグ」が動いた。

ジャカが銃を突きつけられると、マッドドッグは、銃など必要ないというジェスチャーで、ジャカを呼び寄せる。
素手でカタをつける気だ。

ジャカも腕に覚えはあるが、マッドドッグの強靭さは想像を超えていた。
拳も蹴りもまるでダメージを与えられない。
ジャカの表情に絶望の色が滲んでくる。

二人の戦いを知る由もないラマは、後から後から湧いてくる敵に、満身創痍となりながらも、前進を続けていた。
もはやラマが15階に辿り着いた時、マッドドッグと相まみえることは、避けようがなかった。

ザレイド2.jpg

主役ラマを演じるイコ・ウワイスはマスクもいいし、格闘のスキルも半端ないので、これはトニー・ジャー以来のスターになりそう。
この映画が前述した『死亡遊戯』より優れてるのは、なんといってもラスボスがガチに強いという所だ。

マッドドッグを演じるヤヤン・ルヒアンは1968年生まれというから、映画の撮影時には43才になってるが、29才のイコ・ウワイスに全く遜色ない、動きの速さと技の切れを見せる。

この人はプンチャック・シラットの他、さまざまなマーシャルアーツを習得してるだけでなく、
「インナーブリージング」という、衝撃に耐えられる体を作るテクニックも持っているという。

「拳も蹴りもまるでダメージを与えられない」という設定は絵空事ではないのだ。


こういうマーシャルアーツ系の映画は、とにかく肉弾戦を「ひえええ」とか「うはあああ」とか感嘆を漏らしながら、画面に釘付けになるというのが楽しいのであって、その意味ではアドレナリン出まくりで、見終わってグッタリするほどだ。

インドネシアおそるべし。

ジャカを演じたジョー・タスリムという役者は、口ひげのはやし方とか、全体の印象が、フィリピンの歴代最強ボクサー、マニー・パッキャオそっくりで、これは本人が意識してやってるんだろう。

監督がイギリス人のギャレス・エヴァンズという人で、演出スタイルに垢抜けた感覚がある。
アジアの監督だともう少しドロ臭くなるところだろう。

2012年11月5日

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ダイ・ハードなアイリッシュギャング [映画カ行]

『キル・ザ・ギャング』

キルザギャング.jpg

副題に「36回の爆破でも死ななかった男」とついてるが、これは事実誤認を誘発する。
「36回」というのは、1976年夏に、オハイオ州クリーブランドで起きた、ギャング間の抗争事件における、爆破件数を示したもの。

その抗争の主役となるのが、地元で生まれ育ったアイルランド系のギャング、ダニー・グリーンだ。
実在のギャングの生涯をタイトに描いて、「東映実録路線」のようなテイストの2011年作で日本未公開。
DVDリリースを待ちかねてた。
まずキャスティングが小躍りしたくなるほど渋いので列記しとく。

ダニー・グリーン(主人公のアイリッシュギャング)=レイ・スティーヴンソン 
ジョー・マンディツキ(幼なじみでクリーブランド市警刑事)=ヴァル・キルマー 
ジョン・ナルディ(地元ギャングでダニーと意気投合)=ヴィンセント・ドノフリオ 
キース・リットソン(ゴミ回収業を通じてダニーの仲間に)=ヴィニー・ジョーンズ 
ションドー・バーンズ(ダニーの腕を買う高利貸し)=クリストファー・ウォーケン 
ジェリー・ミーク(港湾局の組合長)=ボブ・ガントン 
リカヴォリ(地元のイタリアン・マフィア)=トニー・ロー・ビアンコ 
“ファット・トニー”サレルノ(ガンビーノ・ファミリー直系のNYのマフィア)=
ポール・ソルヴィーノ 
レイ・フェリーノ(サレルノが仕事を依頼するロスの殺し屋)=ロバート・ダヴィ

これだけ揃えても、喜ぶのは映画好きだけなのだろう、劇場公開に至らなかったのが残念だ。

クリーブランドといえば、MLBのインディアンズの本拠地というイメージくらいで、こんなギャングの抗争に揺れてた時代があったとは、初めて知った。
クリーブランド東部の下町コリンウッド周辺が舞台となってる。


ここで生まれ育ったダニーは、2m近い巨躯で、腕っぷしも強いが、人望もあった。
1960年代に地元の港湾労働者として働いてたが、労働条件は劣悪で、仲間からは、港湾局の組合長に立候補してくれと頼まれてた。
冷酷な組合長ジェリー・ミークは「余計なことは考えるな」とダニーを牽制した。

幼なじみにバクチで借金を作ったと泣きつかれたダニーは、地元のマフィアの元に話をつけに行く。
そこでジョン・ナルディと顔見知りとなり、借金をチャラにする条件として、港の倉庫から物品を強奪する仕事を請け負う。

だがそれをダニーの仕業と見抜いた組合長ミークは、自分が警察に通報すれば、今後一生組合長になどなれないぞと脅す。
そして奪った物品の利益を半分寄こせと。

ミークのボディガードが金を受け取りに来るが、ダニーは銃を向ける相手に、
「そんな物しまって、俺と踊らないか?」
と挑発する。
踊るとは、素手で殴りあうという意味だった。
挑発にのったボディガードは、ダニーの拳によって床に沈む。


翌朝、組合長の椅子に座るダニーに驚き、ボディガードを呼ぶが、誰も来ない。
ミークは、ここを立ち去れという意味で
「3秒やる」と云うと、
ダニーは「なんのために?」と応え、ミークを何度も平手打ちして、事務所から追い出してしまう。

腕づくで港湾局の組合長の座に就いたダニー。
だが、ダニーの羽振りのいい生活から、汚職の匂いを嗅ぎつけた、幼なじみで今は市警察の刑事であるジョー・マンディツキによって、ダニーは逮捕され監獄へ。


出所したのは1971年だった。金もなくなり、妻のジョアンと幼い娘たちを連れ、町でも治安の悪そうな地区に一軒家を借りた。

近所にはバイクの騒音を轟かせる暴走族がたむろしてたが、ダニーは臆せず乗り込んでいき、リーダーを引っ張り出すと、またもや
「俺と踊らないか?」
その場で返り血を浴びる位にブチのめして、追い払ってしまう。

ジョン・ナルディの口ききで、ダニーはレストラン経営者のションドー・バーンズに挨拶に出向いた。
ションドーはカジノも経営しており、バクチの負けを取り立てるため、高利貸しも同時に営んでいた。

ダニーの体格と腕っぷしを見込んだションドーは、借金の取立てを任せた。
ダニーは有無を言わさずに取り立てて回り、ションドーの信頼を得る。

キルザギャング3.jpg

その報酬だけでは十分でないと感じていたダニーは、隣人のフラートが自前のトラックで行ってる、ゴミ回収業に目をつける。
ビジネスを仕切ってるのは地元のイタリアン・マフィア、リカヴォリだった。

ゴミ回収業の男たちは気が荒く、人の云うことを聞かない。
リカヴォリは男たちを組合に加入させることができれば、ダニーにゴミ回収ビジネスに噛ませてやると条件を出す。
男たちを組合員にできれば、組合費として売上げをピンハネできるからだ。


ダニーは回収業者でも猛者と呼ばれるキース・リットソンを抱き込み、これも半ば強引な手法で、男たちを組合に加入させていく。
だが隣人のフラートは頑として拒んだ。

一人でも加入しない者がいると、みんな右へ倣えとなる。
ダニーはリカヴォリから、隣人を始末しろと命じられる。

その話を聞き及んだフラートは、先にダニーに銃を向けてきた。
撃ち合いとなり、フラートは死んだ。
妻のジョアンは、常に不穏な空気に包まれてるダニーとの生活に耐えられなくなり、子供を連れて出ていった。


4年後の1975年、ダニーはそろそろ堅気の仕事がしたいと思い、ションドーに
「ダブリン風のパブを出したい」
と持ちかける。ションドーは
「成功者は自分の金は出さないもんだ」
と云い、ニューヨークのガンビーノ・ファミリーに融資を掛け合う。

だがファミリーから金を受け取った、ションドーの使いが、その7万ドルを着服。
麻薬売買の現場を警官に押さえられたことで、金も押収されてしまう。

金の返済を巡って、ダニーはションドーと揉める。
ションドーは目をかけてきたダニーの態度に怒り、その首に2万5千ドルもの賞金をかけた。

車に爆弾を仕掛けられたが、間一髪で難を逃れたダニーは、すぐさま報復。
ションドーを同じように車で爆死させてしまう。

ダニーをこのまま野放しにはできない。リカヴォリは手下を動かし、ダニーの自宅に爆弾を投げ込む。
ダニーはつきあってたエリーの身を庇い、全壊した家屋の下敷きとなったが、ここでも奇跡的に生き伸びた。

ダニーは仲間と結束し、地元のイタリアン・マフィアとの全面戦争に突入した。
ひと夏に36回の爆破事件が起きたが、ダニーはまだ生きていた。


いくら殺そうとしても、平然と生き続ける「ダイハード」なアイルランド野郎に、リカヴォリはついに手打ちを提案。

だがその席でダニーは
「俺は骨までしゃぶられてきたんだ」
「もう言いなりにはならない」
と、好きに振舞うと言い放った。

もはや自分の手に余ると感じたリカヴォリは、ブルックリンに拠点を置く、上層部のマフィア、“ファット・トニー”サレルノに始末を依頼する。

サレルノは、ロスに使いを寄こし、殺し屋のレイ・フェリーノに仕事を託した。
そのサレルノの元を、なんとダニーが挨拶に訪れた。
その申し出は意外なものだった。


ダニー・グリーンというギャングの人物像が、ちょっと掴みどころがない感じで、そこに面白みがある。
普段は本を読むのが好きな「静かなる男」という印象なんだが、いざとなると腕に任せて決着を図る。
小細工はないのだ。

長いものに巻かれるのを好しとしないため、常に軋轢を生むし、トラブルを屁とも思ってない。
野心はあるんだろうが、具体的にどこまで上ろうとか、そういうギラギラ感はない。

クスリはおろか、酒も呑まないから、私生活も乱れた風にはならない。
アイリッシュとしての誇りは高かったようだ。


演じるレイ・スティーヴンソンは、『パニッシャー ウォーゾーン』で主役を張ったものの、その後は地味に糊口をしのいでる感じだったが、この映画はキャリアの代表作になりそうな快演ぶりだ。

特に口ひげをたくわえてからが、いかにも70年代のタフガイの風情が出て、過去の出演作では感じさせなかった色気も漂わせている。

『マイティ・ソー』の時も、一際デカさが目立ってたが、今回も何が驚きって、『スナッチ』とかどの映画に出てても、一番デカいなと感じてたヴィニー・ジョーンズが、レイ・スティーヴンソンと並ぶと小柄に見えるという!

キルザギャング2.jpg

男の映画だから女優は飾り程度になってしまうが、エリーを演じるローラ・ラムジーは可愛い。
いきなりオッパイ丸出しでダニーを誘う場面は、思わぬサービスカットになってる。

監督は『パニッシャー』シリーズの、レイ・スティーヴンソンではなく、トム・ジェーンが主役を演じた1作目の方を撮ったジョナサン・ヘンズリー。
俺は『パニッシャー』はけっこう好き。

この映画70年代のロックがかなり流れてるんだが、相当に渋い選曲と思われ、1曲も知らなかった。
こんなのは珍しい。サントラがあれば買って聴いてみたい。

「野太く生きて、パッと散った」男の話だ。
ギャングの実録はだから面白いのだ。

2012年11月4日

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