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押し入れからビデオ⑲『ジプシーのとき』 [押し入れからビデオ]

『ジプシーのとき』

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先日『ディクテーター…』のコメント入れた折りに、『ボラット』に『ジプシーのとき』の音楽が流用されてたと書いた。で、久々にその曲が聴きたくなったんで、ビデオを探し出してきた。

エミール・クストリッツァ監督作では、つい最近『アンダーグラウンド』がブルーレイ化されたが、その前作の1989年作『ジプシーのとき』は、ビデオは廃版で、DVD化すらされてない。
俺は「こっちをブルーレイにしてくれ!」と叫びたい気分だ。

俺の持ってるビデオは音もあまり良くないので、あの心震えるような合唱曲「エデレジ」を、大音響で聴きたいのだ。
本当はニュープリント、デジタルリマスター版でリバイバル上映してほしい所なんだが。


主人公はロマ族の少年ペルハン。ニット帽に黒縁メガネ。
その片方のレンズは割れてて、紙が貼っつけてある。
「ロマ族ののび太」みたいな雰囲気だな。
ドラえもんがいない代わりに、ペルハン自身には、同居する祖母から受け継いだ、ちょっとした念力が備わってる。
空き缶を動かしてみたり、スプーンを壁に投げると、それがひっついて、自在に壁を這わすことができる。だがそれが実生活の役にはたってない。

ペルハンには足の悪い妹がいて、得意のアコーデオンで彼女を慰めてやったりする。
妹思いの兄さんなのだ。
ペルハンには両親がいない。父親は軍人だったらしいが、ペルハンには記憶がない。
母親は妹ダニラを産んですぐ死んだ。
祖母の家には、彼ら兄妹のほかに、叔父のメルジャンが同居してる。
女好き、バクチ好きでどーしょーもない。

ペルハンは同じ村に住む、アズラという美少女に恋をしていた。
彼女も満更でもなかったが、アズラの母親は、貧しいペルハンに娘を嫁にやる気などない。

ペルハンは、ロマ族の祭り「エデレジ」に、アズラと二人でいる。
無数の松明が揺らめく、川に胸までつかってる。
裸になったアズラのふくよかな乳房に目は吸い寄せられる。
二人で手漕ぎボートに寝そべってる。
それは現実のようであり、夢想のようでもあった。

そんな村にジーダ兄弟が、高級車で帰ってきた。
兄貴のアーメドが仕切る一味は、このユーゴスラヴィアから、イタリアに渡り、悪事を働いて懐を肥やし、村で一番羽振りがよかった。
バクチ好きの叔父メルジャンは、アーメドの弟にポーカーでカモにされ、借金を背負う。
祖母に泣きつくが、金はないと言われると、ブチ切れて、板を張り合わせた家の上屋を、ロープで括り、車で引き剥がしてしまう。降りしきる雨の中、祖母と幼い兄妹はただ立ち尽くす。


その祖母の元に、アーメドが駆け込んできた。
まだ1才くらいの息子の容態がおかしい。
ペルハンの祖母なら治せると思ってるらしい。
アーメドの家で小さな息子の体をさする祖母。
なにがしかの魔力を持ってるようだ。
昏睡状態だったアーメドの息子は意識を取り戻した。

祖母とペルハンたちが上屋を失くした家に戻ると、叔父のメルジャンは、頭を刈られ、ズボンも奪われてしょんぼりしてる。礼に訪れたアーメドに、祖母は食ってかかった。
「あんたの息子を治してやったお礼がこれかい?」
「メルジャンのことは弟がやったことだ」

だがアーメドはお詫びにと、ペルハンの妹を都会の病院へ連れて行き、足の治療を受けさせると請け負った。そのままイタリアに仕事に戻るという。ペルハンは妹に付き添うと言った。


兄妹を乗せたバンには、村を出るまでに何人か乗り込んできた。
どうやらアーメドが、イタリアでの仕事に使おうという者たちらしい。

妹のダニラは心細くて、しくしく泣いてる。車は夜の高速道路をひた走る。
ペルハンはおとぎ話を聞かせてやり、窓の外に視線を促した。
ダニラが窓に目をやると、花嫁姿の母親が宙に浮いていた。まるでダニラに会いに来たように。
そのまま車の天井に浮遊し、やがて消えた。

「ママが見えたよ」
「どんな顔してた?」
「きれいだった」
花嫁のベールだけが、まだ道路の上を舞っている。ダニラは泣くのをやめた。

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アーメドに伴われ、病院に入ると、妹はすぐに入院だと、引き離された。
付き添うと約束してたペルハンは途方にくれた。
アーメドは「どこにも行くあてがないのなら、イタリアに一緒に来い」
とペルハンを車に乗せる。
「お前もばあさんや妹のために稼がなきゃな」

だがアーメドは、ミラノに着くと、スリや物乞い、売春など、ロマの人間たちを束ねて、その上がりを取り立てていた。
最初は「悪事を働くのはイヤだ」と拒否してたペルハンだが、一味の男たちにリンチを受け、従わざるを得なくなる。

ペルハンは邸宅を狙っては空き巣を働き、戦利品をアーメドに献上した。
盗んだ金品の隠し場所も確保していた。
高血圧で一度倒れたアーメドは、親身になって介抱してくれたペルハンを信頼し、一味の頭の座を譲ると言った。
妹の手術費用は毎月送金してる。故郷に新しい家も建ててやる。
アーメドはそう言った。
スーツを着て、身なりも整ったペルハンに、悪事を働くことの罪悪感はもはや無かった。


アーメドから遠征して仕事をしてくるよう言われたペルハンは、内緒で故郷の村に戻ることにした。
アーメドからは「村では事件が起きてて、警官が多いから帰るな」
と言われてた。
だが羽振りのいい自分を祖母たちに見せたかった。

村に戻ったペルハンは、さっそく札束を持って、アズラの家に行った。
これで結婚にも文句は出ないだろう。
だがベッドで寝てるアズラは妊娠してた。
相手は叔父のメルジャンに決まってる。

さらに、アーメドが約束してた新しい家など、建ててる様子もなかった。
ペルハンは何も信じられなくなった。

久々に孫の顔を見た祖母は、あの純朴なペルハンの面影がなくなってたことを嘆いた。
アズラはペルハンとの結婚を望んでいた。
お腹の子は、「エデレジ」の日に抱き合った、その時の子だと。
だがペルハンはその言葉が信じられず、
「生まれた子供は売る」ということを条件に、結婚すると、アズラの母親に告げた。

結局ふたりは式を挙げることとなり、初夜を迎える。
だが服を脱いだアズラを、ペルハンは抱こうとしなかった。
アズラは悲しそうに見つめるだけだ。


ペルハンはお腹の大きなアズラを伴って、イタリアに戻った。
アーメドの嘘っぱちを責め立て、二人が諍い合ってる間に、アズラの姿が見えなくなった。
ペルハンもアーメドも、アズラを探し回る。

線路脇でアズラが横たわってる。その体がゆっくりと宙に浮く。
彼女の背後を列車が通過し、その音と、彼女の陣痛の叫び声が重なる。
すると赤ん坊の泣き声がして、アズラの体はゆっくりと地上に降りてゆく。
花嫁衣裳のまま出産したアズラの、白いドレスの下半身は血で染まっている。

「男の子だぞ!」アーメドが赤ん坊を抱く。
ペルハンはアズラの首に手を回す。
呼びかけるがアズラはこと切れる。
ペルハンはその体を抱いて声を上げて泣いた。

アズラの言葉を信じることができず、結果彼女を失い、さらに大雨によって、空き巣で得た金品の隠し場所も水没し、ペルハンは何もかも失った。
悪事に手を染めた自分への戒めと感じ、アーメドとの仕事から足を洗うことにした。


妹ダニラが入院してるはずの病院を訪ねたが、ダニラは居なかった。
看護婦に聞くと、実は入院すらしておらず、ダニラはローマに連れて行かれたらしいと。
ペルハンはただ妹の消息を訪ねて、ローマをさまよっていた。
祖母には度々手紙を書いた。

ある日、足を引き摺った少女が、車に乗り込むのを目撃した。
ペルハンは必死でその車を追った。
橋のたもとで少女は車から降ろされ、杖をついて歩き始めた。

息切れするほど走ったペルハンは叫んだ
「ダニラ!」
少女は振り向いて、一瞬怪訝な顔をした。
視線の先に誰がいるのかやっとわかった
「ペルハン!」
二人は抱き合った。あれから4年が経っていた。

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ダニラは「事情を聞きたい?」と言って話しだした。
ローマに連れて行かれた後、足が悪いからと、物乞いをさせられてたと。
もちろん入院も治療も受けてない。足はまだ痛む。

アズラの産んだ子はアーメドが引き取って育ててる。
アーメドはこのローマで新しい妻を迎えて、結婚式を挙げるという。

ペルハンは、ダニラに案内され、式の会場のそばまで来た。
子供たちが遊んでる。ダニラは一人の男の子の手を引いてきた。
「ペルハンの子だよ」
その男の子は名前を尋ねた。ペルハンと答えると
「嘘だい」と言う。その子もペルハンと名づけられてたのだ。
「俺の子だ」その顔を見て確信した。

だがペルハンにはしなければならないことがあった。
自分をとことん裏切ったアーメドへの復讐だ。
役に立たなかった念力を使う覚悟でいた。


冒頭のペルハンの暮らす村での、狂騒の気分から、クストリッツァ監督の世界に、グイと腕つかまれて引っ張りこまれる感じなのだが、ペルハンのナードなキャラや、叔父のロクデナシ感が楽しい。

ペルハンは、祖母に貰った七面鳥とも魂を通わすことができるようで、その描写は微笑ましいんだが、叔父はその七面鳥を鍋で煮込んでしまったよ。

随所に挟まれる「浮遊する」イメージと、そこに流れる、ゴラン・ブレゴヴィッチによる、エモーショナルな合唱曲。
全編を「ロマニ語」で撮影されてる、ロマの少年のビルドゥングスロマンたる傑作だ。

2012年9月17日

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押し入れからビデオ⑱『メルビンとハワード』 [押し入れからビデオ]

『メルビンとハワード』

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このブログでは『アメリカン・グラフィティ』組から、リチャード・ドレイファス主演作『この生命(いのち)誰のもの』と『ボーイ・ワンダーの孤独』を、「押し入れ」でコメントし、数日前にはチャールズ・マーティン・スミスの監督作『イルカと少年』にもコメント入れた。

今回は『アメグラ』のイケメン担当だったポール・ル・マットの主演作について書こうと思う。

前に『レイチェルの結婚』のコメントの中でも少し触れたが、
この『メルビンとハワード』は、ジョナサン・デミ監督の1980年の日本未公開作。WOWOWで以前放映されたのを録画したものだ。


ポール・ル・マット演じるメルビンは、ネヴァダ州の砂漠の町で、マグネシウム工場に勤務してる、妻子持ち。ハワードとは、大富豪ハワード・ヒューズのことだ。
題名からイメージすると、この二人の係わり合いを軸に描いてくものと思うが、ハワード・ヒューズが出てくるのは最初だけだ。
演じてるのはジェイソン・ロバーツで、もうかなり年をとってる。

その老人ヒューズが、砂漠をひとりバイクで疾走してる。
だがハンドルを誤って転倒、通りかかったメルヴィンの車に助けられた。
砂まみれの汚い老人に、メルビンは「寒いから着とけよ」と自分のジャンパーをかけてやる。

助手席の老人は、医者に連れてくと言っても拒否。
「どこに行きたいんだ?」
「ラス・ヴェガスまで頼む」
またべらぼうに遠いぞ。メルビンの住む場所からは、カジノの町ならリノの方がよっぽど近い。
だがメルビンは人が善いのか、老人の頼み通りにヴェガスへ向かうことに。

無愛想な老人に、メルビンは勝手に話しかけた。
「いろいろ働いてるんだが、向いてる仕事がないんだ」
「ボーイングとか、ヒューズとかの航空会社も受けたんだけどな」
「どうだった?」
「不採用だよ」
「そりゃあ残念だ」
「あんたが残念がることじゃない」
「そうでもないぞ」
「わしはハワード・ヒューズだ」
だがメルビンは呆れた顔で
「誰でも大富豪を名乗るのは自由だよ」

道中は長かった。歌は得意なメルビンは、老人が聞きたくないと言ってるのに、かまわず自作のクリスマスソングを披露する。
「サンタの改造ソリ」という歌を
「ほら、あんたも」と無理矢理ハモらせる。
「あんたもなにか知ってる歌があるだろ?」
老人はしつこさに根負けして「バイバイ・ブラックバード」を歌い出す。

「悩みをカバンにつめて、低く歌いながら旅立つ」
「きっと優しい誰かが、どこかで俺を待ってる」
「誰も愛してくれない、わかってくれない」
「辛いことばかりが、降りかかってくる」
「だからベッドを整え、ライトを灯して」
「今夜は遅くまで帰らない」
「ブラックバードに別れを告げよう」

夜通し走って、ヴェガスに着くと、適当な場所で停めろという。
降り際に老人は「金あるか?」
善意でヴェガスまで乗っけて、金までせびるかと思うが、メルビンは人が善いのか、ポケットの中の有り金を渡す。
老人はもう無愛想ではなく、幾分笑顔で、車の外からメルビンを眺めてる。
「気をつけなよ」メルビンは言い残すと車を出した。
ハワード・ヒューズが出てくるのはこの場面までだ。

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メルビンが、自宅のモーターハウスに戻ると、妻のリンダは娘のダーシーを連れて出てくという。
男が車で待っていた。
「じゃあね!パパ」
あっけらかんとした娘の声とともに、妻と娘はリノへと立ち去った。

だがリノに着いた途端、リンダは男とケンカ別れする。
リノで職を見つけるというリンダに、娘のダーシーは
「パパのもとに帰りたい」と。
リンダは娘をバスに乗せて見送った。
リンダを演じるのは、この映画でアカデミー助演女優賞を受賞したメアリー・スティーンバーゲンだ。

娘が戻ってきてホッとするが、やはりリンダのことが気にかかる。
マイケル・J・ポラード演じる、マグネシウム工場の同僚リトル・レッドが、週末に妻に会いにサンフランシスコまで行くというので、メルビンは「リノまで乗せてってくれ」と頼む。
リンダの滞在してる宿は知ってたのだ。
勘が働いたのか、リノのストリップ・クラブを覗くと、案の定リンダが踊ってた。

メルビンの御人好しぶりは最初の方で描かれてたが、妻のリンダも屈託がないというのか、踊ってる最中に、自分の亭主が
「そこを降りろ!」って言ってるのに
「あと10分待って!」とか答えてるし。
メルビンが従業員と揉めはじめ、経営者に
「こういうの困るんだよ」
「そうよね、私辞めます」ってあっさり。
「みんな頑張ってね」とか言いながら店を出てく。

別の晩にまたリノを訪れると、ちがう店で際どい格好でウェイトレスをやってる。
リンダは離婚を求めていて、メルビンは離婚届けを持ってきたのだ。
だが娘のダーシーは手元に置くと言われ、リンダはカッとなる。夫婦喧嘩に経営者が
「こういうの困るんだよ」
「そうよね、私辞めます」

結局、半年後に離婚は成立、リンダはアナハイムにある母親の家に移っていた。
「娘の声が聞きたい」と電話してきたリンダに
「妊娠してるだろ」
言葉通り、リンダのお腹は大きい。
「ダーシーに会いたければヴェガスへ来いよ」
「なんで?」
「もう一度結婚しよう」
離婚成立から日も経ってないのに、二人はヴェガスで再婚。
ヴェガスはごく簡素な手続きで、結婚式が挙げられるのだ。
式には同僚のリトル・レッドも参列した。


一家はカリフォルニア州グレンデールに引っ越した。
メルビンは牛乳配達業者に勤め、その配達範囲でトップの成績を収めていた。
二人目の子供が産まれ、家も手狭になってきた。

メルビンには自分でも特殊な才能と思うものがあった。
テレビの懸賞番組を見てて、必ず一番高い賞品の番号を当てられるのだ。
収録に応募し、リンダに出てもらうことにした。
舞台で特技を披露し、観客の支持を集めれば、賞品の当たるクジを引ける。

リンダはリノで覚えたのか、タップダンスを披露し、観客の喝采を浴びる。
メルビンは客席からクジの番号を叫んだが、リンダはちがう番号を宣言。
それが1万3千ドル相当の賞品となった。

それを元手に念願の一軒家を手に入れる。
だが新居に越して早々に、メルビンはモーターボートを買ってくる。
「なんであるだけ使っちゃうの?」
リンダはまたも愛想を尽かして、子供二人を連れて出て行く。


残されたメルビンは、牛乳配達業者の同僚ボニーと懇意になる。
ボニーはモルモン教徒の独身女性で、ユタの油田を従兄が手放すといい、一緒に暮らさないかと持ち掛ける。

数年後ユタ州のグレート・ソルトレイクで、メルビンはボニーの兄弟たちとともに、ガソリンスタンドを営んでいた。

テレビでは大富豪ハワード・ヒューズの死を報じてる。
「そういや前に車で拾ってやった」
「ヒューズだって言ってたけど、似てないな」

ほどなくして、スタンドに黒いスーツを着た男が現れ、キャメルをくれと言った。
メルビンが「少々お待ちを」とカウンターを離れると、男は封筒を置いて立ち去った。

封筒の表には「遺言状 ハワード・ヒューズ」とあった。
中身を確かめると、なぜかそれを持って、モルモン教本部のビルへと向かった。
オフィスに人がいないのを確かめると、信者向けの郵送物の中に、遺言状の封筒を紛れこませた。
メルビンは何か不安に駆られて、そんなことをしてしまったのだ。

だが自宅にはすぐに連絡が入り、ボニーがその電話を受けた。
メルビンがハワード・ヒューズの遺産を受け取る16人に選ばれているというものだった。
金額にして1億5千6百万ドルという、途方もない額だった。


一躍時の人となり、マスコミがユタの地味な町に押しかけた。
メルビンは、ハワード・ヒューズを車に乗せた時のことを、ありのままに話した。
だが遺言状は偽造されたものだとか、やっかみとも非難ともつかない声が、国中に巻き起こっていた。

ボニーが嬉しかったのは、メルビンを知る人間たちは、取材に応じて、誰も悪く言わなかった。
その人柄は、つきあった者ならわかるのだ。

遺言状の真偽を巡る裁判の場でも、公正なはずの判事までもが、メルビンに疑いの目を向けていた。
そんなシンデレラ・ストーリーなど現実にあり得ない。
それはもはや嫉妬でしかなかった。
筆跡鑑定においては、それが唯一の遺言状であることが認められた。

だがヒューズの親族側は当然控訴してくるし、これから先、裁判費用など、いくらかかるかわからない。金を作っておかないとと言う、ボニーの従兄に、

「もういいんだよ」
「そんな遺産が転がりこむなんて、もともと思っちゃいない」
「ハワードは俺の歌を唄ってくれた」
「それだけでいいんだ」

1978年、上位栽は遺言状を無効と断定。
正式な遺言状は見つかってないという。


「アメリカン・ドリームをつかみそこねた男」の話と捉えもできるが、不思議と後味は苦くない。

それはメルビンとリンダという、夫婦のあり方がなんだか面白いからだ。
くっついたり、離れたりしながら、さすらってるように見える。
夫婦でさすらうんじゃなく、互いが相手の周りを衛星のように回ってるような感じなのだ。


実話を元にした脚本を書いたのは『カッコーの巣の上で』『ローズ』と、この時期秀作を連発させてたボー・ゴールドマン。

メアリー・スティーンバーゲン演じるリンダの人物造形がユニークだ。
リンダは、元夫が莫大な遺産を手にするかも知れないとわかっても、物欲しげにするでもない。
なにかに執着するということがないんだね。
そのさっぱりしてるのか、一風変わってるのか、その微妙な線をメアリーが表現してる。

ポール・ル・マットは『アメリカン・グラフィティ』ではリーゼントで、ジェームズ・ディーン風にキメてたが、地は垢抜けない部分があり、この映画では「田舎町の素朴な兄ちゃん」のキャラに合ってた。
ジェイソン・ロバーツはさすがの渋さだ。

2012年9月3日

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押し入れからビデオ⑰『監督ミケーレの黄金の夢』 [押し入れからビデオ]

『監督ミケーレの黄金の夢』

ナンニ・モレッティ イタリアが笑う.jpg

このブログでは「イタリア映画祭2012」の時にコメント入れた、ナンニ・モレッティ監督の新作
『ローマ法王の休日』が、一般公開されてるが、やはりあのエンディングで途方に暮れてる人は多いようだ。
「新しいローマ法王に選出された司教が、そのプレッシャーに耐え切れず、バチカンを脱け出して、ローマの町で過ごすうちに、自分を見つめなおすヒューマン・コメディ」
というような体裁の予告編をバンバン流した、ギャガによるミスリードが効いてるね。
あの予告からあの結末は想像つかんよ。

こういう状態のことを俺は「感動難民」と呼んでる。
感動できそうな予告編につられて見に行って、映画のエンディングで取り残されてしまうような観客を指す。『ツリー・オブ・ライフ』の時にも大量の難民が生まれてたようだが。

難民にならないためにはどうすればいいか?
映画を見に行く前に、その監督がどんな映画を作ってきたのか調べておけばいいのだ。
調べるだけでなく、できれば旧作を見ておく。

『ツリー・オブ・ライフ』だって、テレンス・マリック監督の映画を見ていれば、感動のエンディングなんてものを志向しない監督だと、納得できたはずだ。
ナンニ・モレッティ監督にしても同じこと。『ローマ法王の休日』のエンディングはまさしくモレッティの映画だとわかるのだ。
ただテレンス・マリックの旧作は全部DVDで見ることができるけど、モレッティの旧作は、例えばレンタル店で目にすることが難しい。


モレッティ監督作は新作『ローマ法王の休日』を除くと9本が日本公開されてるが、レンタル店の棚で手に取れるのは、2001年のカンヌ・パルムドール作『息子の部屋』くらいだろう。

1985年の『ジュリオの当惑(とまどい)』
1993年の『親愛なる日記』
1998年の『ナンニ・モレッティのエイプリル』は、
DVD化はされてるが、セル専用でレンタル店の棚には並ばないからだ。

それよりもまず、モレッティの作家性を知るのに格好な、「ミケーレ」シリーズ4部作が、1本もDVD化されてないのが痛い。
1978年の監督デビュー作『青春のくずや~おはらい』
1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』
1984年の『僕のビアンカ』
1989年の『赤いシュート』だ。
その内、前の3本はTDKコアというメーカーから、昔ビデオで一挙に発売された。

今回紹介する『監督ミケーレの黄金の夢』も、そのビデオを中古で手に入れたものだ。
メーカー名からわかるようにTDKが洋画のライセンスを買って、ビデオを出してた。
ビデオメーカーバブルの時代で、音響機器関係の会社が、次々に映画ビデオビジネスに参入しては、撤退してった時期だった。
東芝は有名な方で、レコード針のナガオカや、カーステレオのクラリオン、ゲームメーカーのコナミも参入してたな。

監督ミケーレの黄金の夢.jpg

この『監督ミケーレの黄金の夢』で、ナンニ・モレッティ自身が演じる映画監督ミケーレは、過去に2本撮った映画がそこそこ成功を収めて、3作目の構想に入ってるんだが、一向に進んでない。
過去の自作の上映会の引き合いはあり、上映後にQ&Aを行うため、上映会場に出向いて行く。

小さな町の集会所であったり、大学の講堂であったり、時には修道院にまで出向くが、どこへ行っても必ずいる男が、必ず同じ発言をしてくる。
「あなたの映画は、家族と学校と若者と1968年と、こればかりだ」
「地方の労働者や、トレビーソ市の主婦や、羊飼いがこれを楽しめるのか?」

なんでその男が修道院の上映会にまで居るのか謎だが、ミケーレもうんざりしてる。
俺も映画祭に行くと、上映後のQ&Aを聞いてたりすることがあるが、大抵はありきたりな質問が飛び交っていて、「監督もこんな質問何十回も聞かされてるんだろうなあ」と眺めてる。

映画監督が主人公の映画というのは、それこそフェリーニの自画像的な
『8 1/2』をはじめ、けっこう数もあると思うが、この映画は、監督の屈折がちょっとシュールな笑いで表現されてるのが特徴的なのだ。


ミケーレが以前に自分の映画かけてくれた映画館を訪れる場面。支配人はもう憶えてない。
館内に案内されると、ミケーレの後継者と目されてる新人監督チミノの映画が上映されてて、本人も見に来てる。広い客席が埋まってるように見える。
だがよく見ると空いてる席には、客のかわりに胸像が置いてあるのだ。支配人曰く
「広い客席に客がまばらだと寂しいので」

テレビ出演の依頼があり、地方の小さな局だが、映画について意見を語らせてくれるというので、ミケーレはスタジオに入る。カメラが1台と、スタッフ1人しかいない。
カメラが回り始め、ミケーレが話し出すと、スタッフは何かの用で、スタジオから出て行く。
誰もいないカメラに向かって話し続けるが、ついには
「助けてぇ!」「助けてぇ!」
とスタジオ内で叫び出すミケーレ。

バーで静かに酒を飲んでても、なまじ顔を知られてるから、話しかけられる。
「アメリカ映画がいい。頭を使わないからね」という男に、
「そうかい、ではチャオ」
と場を離れようとすると、
「ちょっと待て、チャオは俺が言うんだ。これじゃ俺が君に見限られたみたいだろ」
そう言われて元の場所に戻されると
「ではチャオ」
と言って男は立ち去る。


ミケーレは30過ぎだが、独身で母親と一緒に暮らしてる。
母親はイタリアの国政にも意見を持ってるが、息子は新聞は一面読んだら、あとは映画欄しか見ないとくさす。ついには掴み合いのケンカになって
「もう家を出ていきなさい!」
「出てくもんか!」
「マザコンの何が悪いんだ!」と逆ギレ。
その自身の鬱屈は脚本に反映され、フロイトはマザコンだったという、新作の撮影にかかる。

ミケーレが脚本を書いてる場面と、撮影中の映画の場面をシンクロさせてるのも可笑しい。
フロイト役の役者がセリフを言ってるんだが、ミケーレのペンが止まってしまう。
役者もしゃべれないままだ。
ミケーレが「ここはなにか即興で…」とつぶやくと、撮影中の役者が
「フロイトが即興なんてできるはずないだろ!」
とキレてる。撮影もスムーズに進まない。

現場で役者の芝居をつけてると、ミケーレはなにか臭うと言う。
「タバコですか?」
そんな臭いじゃない。気になってしょーがないので、ミケーレは臭いの元を探って行く。
セットの壁をずらすと、スタッフの男と女が熱い抱擁を交わしてた。
そんな臭いがわかるのか?


ミケーレは高校で教師の職も持ってるんだが、映画監督としてのスランプは、教師としての授業っぷりにも反映され、ほとんど情熱も感じられない。
だから生徒もチェスをしたり、物を食べたり、まともに聞いてない。
そんな生徒を次々追い出し、無表情で授業を続ける。

女子学生のシルヴィアは、そんなミケーレに真っ向意見する。
「先生は年寄りとおんなじ。自分の部屋の外のことには何の関心も持ってない」
「そんな教師の授業を聞く価値はないわ」
シルヴィアの言葉と強い視線に射抜かれ、まともに目も見れない。
それにシルヴィアはちょっと美人だ。

ベッドで夢にうなされる。シルヴィアの後を校門から追っているミケーレ。
彼女はボーイフレンドと歩いてる。
そしてアパートの窓際でキスを交わしてる。
それを柵越しに見ながら「シルヴィア~!」と叫ぶ。
『望郷』のジャン・ギャバンのように。

別の晩には、またシルヴィアの夢。彼女はボーイフレンドと共に、南アフリカに旅立つという。
二人の前に立ちはだかったミケーレは、子供のように地面で「イヤイヤ」をしてる。


新作『フロイトの母』はなんとか完成のメドもついてきた。
ミケーレの後継者と呼ばれる新人監督チミノは、学生運動をミュージカル化した新作で評判を取っていた。
テレビのバラエティショウで、ミケーレとチミノは、どっちが監督として優れてるか、さまざまなゲームで競うことになった。

最初のディベートでは、ミケーレの「お前のかあさんデベソ」的な、ただの悪口攻めが効を奏し先制。
だがセックス観を語るコーナーでは、観客からまさかの総スカンを食う。
ならばと隠し芸コーナーでも、歌を披露するがまったくの音痴で勝負にならない。
ボクシングでは体格差を生かしてポイント稼いだが、最後にペンギンの着ぐるみで、どっちが先に巨大な卵を割れるでしょーゲームで負けを喫し、チミノは名実ともに(?)ミケーレを凌ぐ映画監督の座を勝ち取ったのだ。

町はずれの小さな映画館で封切りの日を迎えた『フロイトの母』。
その夜、ミケーレはまたシルヴィアと夢で再会する。

南アフリカから帰ってきたシルヴィアと、レストランの席で向かい合うミケーレ。
だが彼女が手を触れようとした時、ミケーレの手は毛深く変わり、顔は狼男に変貌していた。
叫び声を上げて逃げ出すシルヴィアを、ミケーレは追いかけていくのだった。


映画はここで終わりだ。つまりなんか解決するとかそういうことはないのだ。モレッティの映画では。
この1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』と、新作の『ローマ法王の休日』には通じる部分がある。
それはどちらの主人公も、自らの境遇を「荷が重い」と感じてることだ。

監督ミケーレは観客から新作を期待されてるが、自分の中にはもう大したものがないことを悟ってる。
後輩の監督の前では尊大な態度を通すが、そのプライドも何の役にも立たないことを、あのバラエティショウの場面で思い切り戯画化してるのだ。

モレッティはその自意識過剰っぷりを、さらにデフォルメすることで笑いへ転化させている。
ウディ・アレンが似た作風でありながら、映画としてまとめ所には気を遣ってるのに対し、そんな自分にすんなり折り合いはつけられないという、悪あがきをそのまま提示して終わらせる。
そこにモレッティという人の生真面目さを見る思いがするのだ。

2012年8月29日

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押し入れからビデオ⑯『新ジキル博士とハイド氏』 [押し入れからビデオ]

『新ジキル博士とハイド氏』

新ジキル博士とハイド氏.jpg

1982年のコメディで、この題名はCICビクターからビデオ発売された時のもの。
なんでそんな但し書きをつけるかと言うと、これは劇場未公開作で、ビデオに先立って、テレビ放映されてたのだ。
その時の題名は『ジキルとハイド 爆笑大作戦』だった。

本来はそっちの題名で紹介したかったんだが、テレビ放映された時には録画してなかった。
深夜たまたまチャンネル合わせて見てたら、すげぇ笑えるじゃんか!と、すっかりのめり込んでしまったのだ。
その後にビデオを中古で手に入れたんだが、この映画の面白さは、ひとえにテレビ放映時の青野武の吹替えによるものだと痛感した。
市販されてた(今は廃版)ビデオは字幕版で、その字幕ではあまり笑えないのだ。

なので今回この映画を取り上げたのは、スティングレイでもキングレコードでもいいので、是非テレビ放映時の吹替え版を収録したDVDを出してもらいたいという願いからだ。

ここから先は映画のディテール紹介になるけど、マニアックな固有名詞がいつにも増して出てくることになろう。

まず主役の外科医ジキルと変身後のハイドの二役を演じる、マーク・ブランクフィールドという役者を、ほとんどの人は知らないだろう。
他の出演作をチェックしてみると『続・天国から落ちた男』とか『スプラッシュ2』とか、作ってたことすら知らない続編に主演してる。
ということはスティーヴ・マーティンやトム・ハンクスの代打として重宝されてたような存在か。

ルックス的には、素の外科医ジキルの時だけ見れば、ゲリット・グレアムに似てる。
『ユーズド・カー』でカート・ラッセルの相棒を演じてたり、デパルマの『ファントム・オブ・パラダイス』で、ロックスター「ビーフ」を演じてた役者だ。感電死してたが。

このマーク・ブランクフィールドが、ハイドに変身して以降は、もうやぶれかぶれと思えるような怪演を見せてる。

「ジキル博士とハイド氏」というのはロバート・ルイス・スティーブンソンの怪奇小説で、ジキル博士が自ら開発した薬品を飲んだことで、獣のような別人格のハイドが現れるという、解離性二重人格をテーマにしてるのだが、この映画はそのモチーフを、ドラッグねたに流用してるのだ。

丁度この時代に人気を博してた、チーチ&チョンの「マリファナ」コメディの変種といえる。


総合病院の天才外科医ジキルは、院長から大富豪のオペを命じられる。
大富豪の名前がヒューバート・ハウズという、モロにハワード・ヒューズをモデルにしてるんだが、ほとんど死にかけてて、『血の唇』のじいさんみたいになってる。
大富豪ハウズは、内臓の全器官移植を望んでいて、それができるのはジキルだけだと名指ししてきた。

だがジキルは外科医のメスを置き、研究に専念したいと考えていた。
高額な手術に頼らずとも、人間の本来持っている生命力を高め、獣性を呼び覚ますことで、病気やストレスにも打ち克つことがきっと可能だ。
そんな「ドラッグ」を開発しようとしてたのだ。

ジキルの勤める総合病院には「慈善病棟」というものがある。
小ぎれいで洗練された一般病棟から、扉ひとつ隔たれた部屋は「ここはレ・ミゼラブルの世界ですか?」と思うような薄暗く不潔なベッドに、貧乏な人たちが横たわってる。

ジキル医師はこういう人たちを助けたいと思ってたのだ。
ジキルは院長の娘メアリーとつきあってたが、院長は
「大富豪のオペを断れば結婚はご破算にする」と脅してくる。


とにかく自説を証明するため、ドラッグの開発に余念がないジキル。
だが野暮用が多くて研究に専念できない。

今日もナースが
「異物がはさまったまま抜けなくなってる患者がきてます!」
「異物がどこに?」
「V・A・G・I・N・Aに」
と単語を区切って言うので、ジキルはすぐには判らず黒板に書いてみる。
最後の単語を書き終わる前にやっと気づくんだが、字幕で「おまん…」て出てる。
ギャグに関してはスベッてる字幕なんだが、こういう所は攻めてるんだな。

診断に行ってみると、白人の美女と、ミスター・オクレみたいな風貌の日本人(たぶんそういう設定)が合体してる。オクレは日本語ともつかないような日本語で怒鳴ってる。
黒澤時代劇の口調だろうね。
で合体してた美女は、チャイナタウンの「マダム・ウー・ウー」という怪しげな店のコールガール兼歌手で、アイビーと言った。
「穴あいちゃったから」と言って脱いだ黒ストッキングを頭に被せられ、ジキルはその色気にやられた。

病室を出ると廊下を通りかかった重症患者から
「ぜひジキル先生にオペを」
と頼まれるが、黒スト被ったままのジキルを見て
「やっぱり女房に縫ってもらいます」


ようやく研究室に戻れたが、疲れてつい開発中のドラッグに顔をつっぷして眠ってしまう。
途端にジキル医師の体に変調が起きる。

ハードロックの華麗なギターソロをバックに、ジキルの白衣はいつの間にか襟の高いビロードのシャツに変わり、その開いた胸元からは、胸毛が生えだし、金のネックレスまで。
髪型はアフロに変わり、ケツは上に持ち上がり、軽やかにステップを踏む。
身悶えながら指を見ると、なんと指の皮膚を突き破ってデカい指輪が出現。
小指の爪だけがグーンと伸びる。
なんでかというと、その爪をスプーン代わりに、コカインを吸い込むためだ。

そして股間も大変なことになってるのだ。
このあたりの描写は『ハウリング』だねほとんど。


すっかりファンキーマンのハイドに変貌して、病院を脱け出すと、知らない人の車を奪って、
「マダム・ウー・ウー」へ直行する。
中華系のはずなんだが、日本人の板前がお出迎え。

「ハイ!ハイ!」と「バカヤロー!」しか言わないが。
この小太りな板前が俺のツボを突きまくってくる。

店内ではニューウェーブ系のツンツン頭の若者たちが踊ってるのか暴れてるのか、そんな中でアイビーがバンド引き連れてステージに登場。パット・ベネター風かな。
歌が終わるとハイドは、アイビーを引っ張って「個室」へと消える。

翌朝、素に戻ったジキル医師は、激しいセックスを物語る部屋の惨状に呆然とする。
「僕はどこまで野獣になったんだ?」
部屋のすみにはなぜか羊もいて
「お前とも?」
羊はウンウンと頷いてる。
こういうくだらないギャグが連発されるんで、覚悟が必要だ。

「メアリーを裏切ってしまった!」と自責の念にかられ、彼女の部屋に窓から忍び込む。
「僕には君しかいない」
メアリーとも一戦交えて、タバコを吸ってると、院長がライフル片手に押し入ってくる。
「娘が犯される声が聞こえたぞ」
ジキルがとっさに「大富豪のオペをやります!」と言うと
「そうか!」
「じゃあハメ倒せ」


ジキルは「フォーミュラ143」と名づけたドラッグを、トイレに流そうとしていた。
だが流れる瞬間に手を突っ込んで取り出してしまう。
いけないと思いつつ、誘惑に抗えない。

ドラッグを吸い込んで、またしてもハイドに変貌して、ファンキーに町へと飛び出して行く。
何度もドラッグに手を出すうちに、普段からハイド化が進むようになってしまうジキル医師。

大富豪ヒューバート・ハウズのオペの最中にもハイドに変貌し、用意された臓器を床にぶちまけて出て行ってしまう。
オペに立ち会ってた院長は、オペに失敗したら、病院一体を買い占めて爆破すると大富豪から脅されてたので、もうしょーがないと、上半身裸になって、
「俺のを使え」と部下に命じる。
腹のくくれる男じゃないか。

半ばハイド化したジキル医師は、整形外科医のラニヨンに
「なんとかしてくれ!」と泣きつく。
「俺の中にもうひとりの俺がいるんだよお!」
「もう一人の自分を隠すことはない」
ラニヨンはそう言うと白衣を脱ぐ。黒いブラとパンティをつけてる。
ラニヨンは女装趣味だった。ジキルは窓を破って逃げ出した。


ドラッグの開発費用も底をつき、困り果ててたジキルは、1枚の招待状を目にする。
実はメアリーがジキルの研究内容を、イギリスのパッツプラー賞委員会に送っていて、その受賞が決まったというのだ。賞金は50万ドル。

今やハイドと化したまま、旅客機の貨物室に潜り込んでイギリスを目指す。
メアリーも受賞式に参加するため、ロンドンへ。なぜかアイビーも向かっていた。

受賞式の壇上でジョージ・チャキリス本人から名前を呼ばれたジキル医師。
だが出てきたのはハイドだ。
モータウン風のサウンドで歌い始め、
「人間の獣性を呼び覚ませ!」と服を脱ぎ始めたんで会場は騒然。
「あいつを捕まえろ!」と大捕り物が展開される。

ハイドが会場を逃げ出すと、ロンドンの町はモノクロになってる。
『ジキル博士とハイド氏』の最初の映画化は、1930年代のモノクロ作品だったのだ。
昔の怪奇映画風の演出ってわけだ。

追い詰められたハイドは建物の屋上から落下。
駆けつけたメアリーとアイビーは火花を散らす。
「私とのセックスは凄いんだからこの人!」
「私には紳士でとっても優しいのよ!」
意識を取り戻したジキル医師は
「僕のために争わないでくれ」
「じゃあ、二人で共有しましょう」
となってめでたしめでたし。

最後にロバート・ルイス・スティーブンソンの墓が映り、その地面の下で、スティーブンソンの骸骨が
「俺の小説を台なしにしやがってえ!」
と暴れてるとこでジ・エンド。まあたしかにね。


この字幕版を見ると、テレビの吹替えでは、青野武がアドリブ入れてる部分があるのがわかる。
そこが笑えたりしてたのだ。
女装のラニヨンから逃げ出す時に「こわ~い!」って言ってたりね。
主演のマーク・ブランクフィールドの怪演に、青野武もノリノリで声をあててるのが伝わってきた。

これを製作したのが、ローレンス・ゴードンとジョエル・シルバーの黄金コンビというのも凄い。
時期としては、ウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』から『ストリート・オブ・ファイヤー』という最盛期の作品を製作してる頃で、その合間になぜかこんな映画を作ってるのだ。

撮影も『殺しの分け前/ポイント・ブランク』や『ロリ・マドンナ戦争』などカルトな名作を手がけてるベテラン、フィリップ・ラスロップだ。
この映画と同じ年には、ヴェンダースがコッポラと、大揉めに揉めながらながら作った『ハメット』のカメラをやってる。

ハイドが歌い踊るモータウン風ナンバーなど、音楽担当はバリー・デ・ヴォーゾンだ。
彼の名は、ペリー・ボトキン・Jrと共同で書いた『妖精コマネチのテーマ』のヒットで知られてる。

これは元々はデ・ヴォーゾンが音楽を担当した、1971年の映画『動物と子供たちの詩』に使われてた曲を流用したものだった。
女子体操のナディア・コマネチが、当時どれだけスターだったかを物語ってる。

2012年8月28日

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押し入れからビデオ⑮『荒野に生きる』 [押し入れからビデオ]

『荒野に生きる』

荒野に生きる.jpg

前回の「押し入れ」でコメント入れた『ふたりだけの微笑み』と同じく、アンリ菅野がナビゲーターを務めてた、テレビ朝日の洋画枠「ウィークエンドシアター」で、1983年に放映されたのを録画したものだ。吹替版でリチャード・ハリスを内海賢二が、ジョン・ヒューストンを早野寿郎が声をあててる。

『荒野に生きる』は、1971年作、翌1972年に日本公開されてる。
俺が映画を本格的に見始めた頃には、すでに名画座にしろ何にしろ、スクリーンで見るような機会は無くなってた。最初に見たのは、たしか同じテレ朝の「日曜洋画劇場」での放映だった。

リチャード・C・サラフィアンは、監督5作目までに見るべきものがあった人だ。
だが1971年の『バニシング・ポイント』以外は、日本ではビデオ・DVD化されないという、不遇をかこってた。
つい最近になって、1973年のバート・レイノルズ主演の西部劇『キャット・ダンシング』がDVD化されたが、
1969年のデビュー作『野にかける白い馬のように』も、この『荒野に生きる』も、
1973年の『ロリ・マドンナ戦争』も、まだパッケージ化の動きはない。
『荒野に生きる』に関しては、アメリカでは、俺がこのブログを始めて間もない時期にコメント入れた、同じリチャード・ハリス主演の『死の追跡』と2作パッケージされたDVDが発売されてる。

ちなみにこのテレ朝の「ウィークエンドシアター」では、『荒野に生きる』の翌週に、カーク・ダグラスが監督・主演した異色西部劇『明日なき追撃』を放映していて、編成担当の好みの渋さが偲ばれる。
『明日なき追撃』もビデオ・DVD化されてないね。

ちょうど『THE GREY 凍える太陽』を見たあとで、なにやら「サバイバル」ネタが続く感じだが、
『荒野に生きる』はリチャード・ハリスの「被虐演技」の最高峰と呼べるものだ。


西部開拓の時期より少し前の1820年。アメリカ北西部も荒野を、異様な一団が通過してる。
いくつもの車輪のついた台車の上に、ノアの箱舟のような帆船が乗っかってる。
船首には大砲が一門据え付けられ、船長のキャプテン・ヘンリーが仁王立ちしてる。

陸の上ではその台車を18頭のラバに曳かせ、大きな川に出れば、帆を張ってリバーボートとして進むのだ。ラバとともに歩むのは猟師たち。
キャプテン・ヘンリーはこの船でビーバーなど、野生動物たちを狩猟し、その毛皮を金に替えるつもりだった。

土地を知るザック・バスは、一団を先導して進んでいた。
だが若い猟師が撃ちそこなった鹿を追って、茂みに分け入った所を、巨大なクマに襲われた。
猟銃を向けたが遅かった。

クマはザックの体をおもちゃのように引き摺り回し、キャプテン・ヘンリーたちが異変に気づいて駆けつけた時には、ザックは全身に深い傷を負い、虫の息だった。
ドクターは「樽一杯分くらいは出血してる」と言い、生きてるのが不思議なほどだと。


ヘンリーはドクターに、傷口を縫うだけの応急処置をさせ、ザックをこの場に置き去りにする事に。
この一帯は先住民族リッカー族の土地であり、先を急がないと、船を襲撃される。

ヘンリーは若い猟師と、年配の猟師フォガティを二人残し
「埋葬する穴を掘っておけ。明日の朝まだ生きてたら殺せ」と命ずる。
フォガティは「ザックの猟銃は値打ちものでして」と言うと、ヘンリーはその銃を取り上げた。

一団は出発し、二人は瀕死のザックとともに一晩を明かした。朝になり、まだ息のあるザックに、フォガティは銃口を向けるが、その時リッカー族の姿が見えた。
銃声で気づかれてしまう。
二人はザックをそのままにして立ち去ることに。
若い猟師はザックの脇に聖書を置いて
「すみません、ザックさん」と謝って去った。


リッカー族の酋長ロングホーは、瀕死のザックを見つける。
白人とわかるが、殺すわけでもないし、助ける素振りもない。
ただこれだけの怪我を負って、まだ生きてるという、その生命力には感服していた。
リッカー族は、岩の壁面に車のついた舟の絵を描いて、ヘンリーの一団の後を追った。


ザックはかすかに体を動かすことができた。
地面から這い出し、水辺に転がり込む。
水の感触が記憶も甦らせた。
ぼんやりとした視界の中に、ヘンリーがいて、自分を置き去りにしろと言ってる。

復讐心がザックの生命力に火を灯した。
まだ満足に動くことはできず、体温を奪われないために、体を落ち葉の中に埋めて、ただ眠った。


母親と二人きりだったザックは、その少年時代に、母親もコレラで失う。
牧師は「これも神の思し召しだ」と語りかけたが、天涯孤独の身となったザックは、
神など信じなかった。
密航を企て、ヘンリーの船に乗り込んだザックは、以来ヘンリーの下で成長してくことになる。

長じてザックは、グレイスという美しい女性と結婚し、妊娠を知らされる。
グレイスもまた神の愛をを唱えるが、ザックの心には響かない。
「お腹の子に話かけて」と言われ、ザックは生まれてくる子に話しかける。

「父親のことは忘れろ」
「お前の母親は心の優しい人だ。ふたりして生きていくのだ」
「いつかザック・バスだと、その名を聞く日が来るかもしれない」


動かない体の近くにいる虫など、生きてるものを手当たり次第、口にして命をつなぐザック。
物音に身を潜めてると、先住民族の女性を連れた白人の男が、リッカー族の襲撃を受けてる。
何人もが殺され、死体が転がる中を、ザックは這い出して、使えそうな物を物色する。
右足は完全に駄目だったが、這って移動するまでにはなっていた。

別の日には、バッファローの肉をあさる山犬たちを追い払い、そのレバーにかぶり付いた。
体力も次第に戻りつつあった。
罠をしかけて野ウサギを捕らえ、毛皮は杖の脇あての部分にし、やじりをこしらえて漁もできるようになる。

季節は秋から冬に入っていた。雪が舞う山肌を、杖をついてひたすら進むザック。
その視線の先に、いつヘンリーの船が見えるのか?

荒野に生きる2.jpg

一方ザックの先導を失い、ヘンリーの一団は迷走していた。
リッカー族と遭遇する場面があり、大砲で追い払ったものの、ヘンリーは進路を変えるよう指示。
南のミズーリ川を目指してた一団は、北に進路を変えていた。

船長の様子がおかしいということは、猟師の間でも囁かれていた。
ヘンリーはフォガティから、ザックを殺さずに置き去りにしたと報告を受けて以来、ザックの影に怯えているようだった。

ヘンリーは息子同然に面倒を見てきたザックには複雑な感情を抱いていた。
「あいつは自分の周りに垣根をつくり、決して歩みよろうとはしなかった」
だがザックの能力は認めていて
「俺が尊敬できる唯一の人間だ」とも言った。
ザックを置き去りにすると決めた時
「我々はただ狩猟をしてるんではない。もっと大きな仕事をやり遂げようとしてるのだ」
「そのためには、父親が息子を犠牲に差し出すのも厭わない」
と猟師たちに言った。


ザックは森の中で、リッカー族の姿を見かけ、木陰に身を隠した。
お腹の大きな女性が、ひとりで歩いてくる。倒木を見つけ、その前にしゃがみ込んだ。

両側に伸びた根の部分を両手で掴んでいる。ここで出産しようというのだ。
夫らしき男が馬の上からあたりを覗ってる。
先住民族の女性は一心にいきんでいる。
ザックはその様子を木陰から息を殺して見つめていた。
いいようのない感動が、ザックの胸に込み上げてきた。

女性が赤ちゃんを無事産み落とした時、ザックの頬には涙がつたっていた。
子供の頃から流したことなどなかったのに。

ザックは妻のグレイスの葬儀の日を思い返していた。
妻は息子を産んで、何年もしないうちに先立った。
墓のそばで、まだおぼつかない足取りで歩く息子をザックは眺めていた。
グレイスの母親に、息子のことはお願いしますと、その馬を立ち去ったのだ。


神も人の情愛も受け入れず、孤独の中に身を置くザックの心が、変わり始めていた。
後ろ足を骨折して動けないでいるウサギを見つけて、足に添え木をつけてやる。
食料としか思ってなかったウサギを、いまは胸に抱いている。
火種としてページを破くのみだった聖書を、いまは読む余裕も生まれていた。


ヘンリーの一団は大きな川に出た。だがまだ雪解け前で、船を浮かべるような水量ではなかった。
猟師たちは、船を捨てて、物資をラバに積み分けようと進言するが、ヘンリーは聞き入れない。
だが進退窮まってる所へ、ロングホーが率いる、リッカー族が大群を率いて、襲いかかってきた。

銃声や砲音が鳴り響く、その戦闘の場に、ザックは杖をつきながら近づいていく。
途中でリッカー族に捕まり、留めを刺されそうになるが、酋長のロングホーが止める。
ロングホーはザックの頬の傷跡を見て、あの瀕死の白人だと気づく。

「お前はこの大地で一度死んだ。もう死ぬことはないだろう」
「復讐をさせてやる」
ロングホーは自らの部隊に襲撃を止めさせ、ザックを船へと促す。


対岸からゆっくりと近づいてくるザックの姿を、猟師たちは身動きもせず、見つめている。
その目には畏敬の念すら浮かんでいた。

キャプテン・ヘンリーは船から降りて、ザックの前に立った。
無言で睨み合うふたり。先に口を開いたのはザックだった。
「その銃は俺のだ」
ヘンリーは手にしていたザックの猟銃を返した。

ザックはこわばった表情を少しだけ和らげ
「帰るよ。息子のもとに帰るんだ」
そう言うと、ヘンリーに背を向けて歩き始めた。

猟師たちは、ザックの後を追うように船から離れて行った。


上映時間99分の映画で、「ウィークエンドシアター」の2時間枠で放映されてるから、そんなにカットはされてないんだろうとは思う。

レッドフォードの『大いなる勇者』を思わせるプロットだけど、レッドフォードが、山に入っても美男子ぶりを失わないのに比べて、リチャード・ハリスのボロボロ感は徹底してる。
なにしろ映画の最初と最後と、あとは回想場面にしかセリフがないから、まさに全身と、表情の演技だけで、ザックという男を作り上げていくわけだ。

クマに襲われる冒頭の場面は、着ぐるみとかではなく、調教されたクマにやらせてる。
まあクマにしたらジャレてるようなもんだろうが、けっこうな迫力で、これはなまじのサバイバルものではないなと、早くも感じさせるに十分なのだ。

『THE GREY 凍える太陽』では、リーアム・ニーソンがサバイバルのはてに、神の不在を呪うように叫んでいたが、この『荒野に生きる』では、野生と一体化してくような中で、男が人間性を芽生えさせていくのが対照的だ。

音楽を担当してるジョニー・ハリスは聞いたことのない名前だが、キャプテン・ヘンリーの船が移動する場面で、必ず流れる勇壮なテーマ曲は、いかにも西部劇の気分を出してるし、エンディングの曲もきれいだった。

2012年8月23日

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押し入れからビデオ⑭『ふたりだけの微笑』 [押し入れからビデオ]

『ふたりだけの微笑』

試写状『ふたりだけの微笑』.jpg

歌手を夢見る青年ドリューと、耳のきこえないローズマリーが出会い、心を通わせていく様子を描いた1979年公開作。
今までビデオ・DVD化はされてなく、俺の手元にあるのは、テレビ放映時の吹替版を録画したビデオだ。『ダーティ・ハリー4』の宣伝スポットが流れるから、1984年の春頃の放映だろう。

テレビ朝日の深夜に「ウィークエンドシアター」という映画枠があり、ジャズ歌手のアンリ菅野が前説を行ってる。映画の舞台となるニュージャージーに関して話をしてる。
アメリカには州ごとに異なる「小売り売上げ税」があり、ニュージャージー州は、隣のニューヨーク州の半分の税率だそうだ。
日用品の買出しにはハドソン河の橋を渡って、ニュージャージーに行くのだという。
そのアンリ菅野は、2000年の6月にガンのため、世を去っている。

『ふたりだけの微笑』を公開当時に見に行った時は、正直そんなに期待はしてなかったのだ。
だが見終わって、とても気分がよかったのを憶えてる。
ハンデを負ったヒロインを描いた映画は多いが、この映画はあまり湿っぽくもならず、無理からな感動に持ってくわけでもない。ベースに「下町の人情」気質があるのがいい。

舞台となるニュージャージー州のホーボーケンは、ハドソン河の対岸に、マンハッタンのビル群を臨む、東京でいうと、足立区っぽい空気を感じる町だ。フランク・シナトラの生まれ故郷で、その名を冠した公園もある。


マイケル・オントーキン演じる26才のドリューは、この町で代々クリーニング店を営むロスマン家で、祖父と父親と、17才の弟と、男ばかり3世代4人で暮らしてる。
この男所帯のがさつな感じが上手く出ている。多分母親は早くに亡くなってるのだろう。
弟のレイモンドは、町のチンピラとつるんで、近くを通る車を停めては、「通行料」を巻き上げようとしてる。
それを見たドリューは、弟をたしなめるが、レイモンドは、賭けポーカーの負けが込み、その代金を払わないとボコられるという。

案の定、ポーカーを仕切る町のワルから手酷く痛めつけられるが、その姿を見て、ドリューと、父親、そしておじいちゃんまでもが、角材持って「お礼参り」に乗り込んでく。
叩きのめした後に、おじいちゃんが
「ロスマン家の人間を舐めるな!」
と啖呵切ってく。この場面は映画館で見た時に大ウケしたんだが、録画したテレビ放映版ではカットされててがっかりだ。
上映時間106分のものを、1時間半の番組枠で放映してるから、正味30分位は切られてるだろう。
完全な形でもう一度見たいんだがなあ。


ドリューはカセットテレコに自作の歌を吹き込んでは、レコード会社や、タレント・エージェントに送ってるが、テレコが壊れたんで、駅にある、カラオケボックスのような「レコーディングボックス」の中で熱唱してテープに吹き込んでる。

その最中に、階下の駅のエントランスを眺めると、ひとりの女性が目に入った。彼女は自分の名をパンチできる「コインメダル」のマシーンの前にいた。
彼女が去った後、ドリューはそのマシーンに1枚だけ取り忘れたメダルに気づいた。
「ローズマリー・レモン」と刻まれていた。

別の日、クリーニングの配達の途中に、バス停で彼女を見かけた。思い切って声をかけるが、彼女は無視するようにバスに乗り込む。運転手が手話で応対してるのを見て、ドリューは初めて気づいた。
次のバス停まで走って追いかけ、ようやくローズマリーの席の隣りに腰掛けた。彼女にメダルを渡す。
話しかけてもどのくらい理解されてるかわからない。

そのままローズマリーと同じバス停で降りると、彼女は聾唖学校の教師であることがわかった。
次に会う約束をとりつけたいが、ローズマリーは外で会いたくないようだ。
「君の家に行き、ドアベルを鳴らす。君が出なければ、諦めて帰る、それでどうかな?」
ローズマリーは承諾し、住所を紙に書いた。


ドリューは図書館で「手話」の解説本を借りてきて、部屋で練習した。耳がきこえない人の感覚を体験しようと、耳栓をして過ごしてみたりした。

祖父は声をかけてもしらんぷりで配達に出てしまう孫を怪訝に思った。
夕飯の食卓で、ドリューの帰りを待つ祖父と父親と弟。
レイモンドは「兄貴の部屋にこんなものが」と手話の本を父親に見せる。
「耳がきこえなくなってるのか?」
そこにドリューが帰ってくる。父親はわざと声を張り上げて
「配達はどうだった?」
「なに怒鳴ってんだよ」
「いいや、怒鳴ってなんかないぞ!」
と再び声を張り上げる。テーブルに手話の本があるのを見て、察したドリューは、
「そうじゃないよ。耳の聞こえない女の子と知り合ったんだ。手話を勉強しようかなと思ってね」

この場面のやりとりがユーモラスで、映画館でも笑いが起こってた。
飾り気のないユーモアが散りばめられてるのがいい。
父親を演じてるのは『ゴッドファーザー』などのアレックス・ロッコ。いかにもイタリアンなアクの強い顔した役者だが、ギャンブルには目がないという、ちょっと頼りない父親を、朗らかに演じてる。


ドリューはローズマリーの家を訪れ、彼女は迎え入れる。
出されたコーヒーに、ドリューは覚えたての手話で
「コーヒー、おいしい」と。
ローズマリーが初めて喜びの笑顔をみせた。

ローズマリーを演じるのは、エイミー・アーヴィング。『フューリー』の超能力少女など、エキセントリックな役のイメージがついてるが、この映画の彼女はまず可愛い。
彼女がこの場面で見せる笑顔には、なんか泣けてきそうになった。

この後、鳴ると光が点滅する電話を彼女が受ける場面がある。
電話機の隣にタイプライターのような機械があり、受話器をその上に乗せると、文字をタイプした内容が、電光掲示板のようなモニターに、スクロールされてくようになってる。
多分受話器を通じて、その音が相手側の同じ機械のモニターに、文字となって出る仕掛けなんだろう。

こういう機械は見たことがない。1970年代後半にはアメリカにあったんだろう。
日本に入ってきたりしてるんだろうか?

ローズマリーの電話の相手は、同じ聾唖者のボーイフレンドのようだ。
家に帰ってきたローズマリーの母親は、ドリューにいい感情を持たなかった。
歌手といってもプロではないし、下町のクリーニング店では裕福というわけでもない。
同じ境遇の彼氏がいて、その方が互いに分かり合って生活できるはずなのに、なぜふつうの男と付き合う必要があるのか?母親はそう思っていた。

初めてのデートが気まずく終わり、ローズマリーは自分の部屋で泣いた。決して声を出して話すことのない彼女が、声を上げて泣いた。


ドリューは彼女を諦めてはいなかった。聾唖学校を訪ね、彼女の授業風景を見学した。
耳の聞こえない子供たちに囲まれたローズマリー。
ひとりの子供が「先生、踊り、上手」というと、ドリューも
「僕もダンスを見たいな」と彼女に言う。
ローズマリーは子供たちの前で、歌詞を手話で表現しながら、なめらかに舞い踊った。
ドリューは彼女のダンスの才能を確信した。

その晩、ドリューはローズマリーとゆっくり話をした。彼女は6才の時に罹った「はしか」による高熱で、耳がきこえなくなったと。
相手の顔が正面にあれば、唇を読むこともできる。でも完全にはわからない。
ドリューは「きみの声がききたい」と言った。
ローズマリーはためらった。過去に声を出して笑われたりしたことがトラウマになってるのだろう。

だが勇気を出して目の前のドリューに言った
「わたしのこえ、へんでしょう?」
「どんな声だっていいさ。きみのすべてが好きなんだよ」
二人は初めてくちづけを交わした。

ドリューの家を訪れ、家族たちとも挨拶を交わしたローズマリー。
朝帰りした娘を母親が待っていた。
「あなたの彼氏は声で生きてこうとする人なのよ。でもあなたはその声がきこえない。
分かち合うことができないでしょ?」
「耳のきこえない人間と一緒に暮らすことの大変さを、彼が知った時、
それでも彼が離れないという保証がある?」


一方、ドリューはローズマリーとの結婚を意識するようになり、不安も芽生えてきた。
彼女は自分の言葉をたぶん半分も理解できてない。自分は彼女を支えていけるだろうか?

祖父に相談してみるが
「わしには確たることなど何も言えんよ」
「だがどんなことであれ、掴み取るのは簡単なことじゃない」
「ただ、お前の母さんは、きっとあの娘のことを気に入っただろうな」
ドリューはその言葉に背中を押されるような思いがした。


町の劇場でダンサーのオーディションが開かれることを知ったドリューは、ローズマリーに受けるようにと勧める。
ためらう彼女に「当日は僕も付いてるから」と。
だがその当日、ロスマン家のクリーニング店でボヤが発生、その消火に追われてる内に、オーディションは始まっていた。
ローズマリーは耳がきこえないことを、主催者に話さないまま、ステージに立ち、散々な結果に。
駆けつけたドリューの胸に飛び込んで泣いた。

ドリューは彼女の手を引いて、ステージに上がった。
「2分でいいから時間をください」
インストラクターに
「彼女の顔を見ながら指示をもらえますか?」
「それから」と、舞台にあったスピーカーの音の出る面を、床につけてねかせた。
「こうすれば足を通じてリズムが伝わるんです」
ドリューの熱意に主催者も折れ、オーディションは再開された。

ローズマリーは指示通りに、寸分たがわぬダンスを披露した。
躍動する彼女の笑顔を、ドリューは見つめてた。

ふたりだけの微笑.jpg

映画としては終盤が予定調和っぽいのが惜しいんだが、気分よく見てられるのは、役者に拠るところが大きい。
マイケル・オントーキンは、最初に見たのは、海外テレビドラマの『命がけの青春/ザ・ルーキーズ』だった。新米警官たちの奮闘を描いてた。
ホッケーをやってたことが買われ、その後『スラップ・ショット』で、ポール・ニューマンと共演する大役を得る。
『ふたりだけの微笑』はその翌年の、初の主演映画ということになる。
大泉洋ばりに、モジャモジャの天パーがトレードマークなんだが、目元が優しく、善良な青年が似合うのだ。
彼の気取りのなさが「ハンデキャップもの」という構えを取っ払う効果を生んでる。

エイミー・アーヴィングはここでも繊細な表情を見せて、耳のきこえないヒロインの怖れや、ためらいを表現してる。

ドリューが自作した歌がラストで歌われる。
『待ちきれなくて』という、この映画のテーマ曲となってるが、これはオントーキンが唄ってるのではなく、バートン・カミングスによるもの。
「全米TOP40」のリスナーには馴染みの名前で、元ロックバンド「ゲス・フー」のリードヴォーカルからソロに転向。
『スタンド・トール』という全米トップ10ヒットを持ってる。ダイナミックな歌唱に特徴があり、『スタンド・トール』もサビの大げさなまでの盛り上がり具合が、俺なんかツボだった。

この映画のテーマ曲『待ちきれなくて』も、後半どんどん歌い上げてく感じで、ポップスというより、ミュージカル・ナンバーのよう。

テーマ曲もいいんだが、ローズマリーが聾唖学校の子供たちの前で踊った時の曲、その歌詞がよかったんで、ここに書いておこうと思う。
これはハンデを背負った子供たちに向けて、またローズマリー自身にも、勇気を持って一歩踏み出してみようという内容なのだ。

「魚のように泳げるよ、泳ごうとさえすれば」
「クジラが驚くでしょう、深海であなたを見たら」

「川のように走れるよ、川をくだって海へと」
「海がうらやましがるでしょう、あなたが来るのを見たら」

「木のように大きくなれるよ、落ちるのを怖れなければ」
「ほかの木がねたむでしょう、あなたがまっすぐなのを見て」

「鳥のように飛べるでしょう、あなたが恐れなければ」
「ほかの鳥が尊敬するよ、あなたが踊るのを見たら」

2012年6月17日

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押し入れからビデオ⑬『ラリー 驚異の人間記録』 [押し入れからビデオ]

『ラリー 驚異の人間記録』

ラリー2.jpg

まず今日はすごい本が出たということを、ここに紹介しておきたい。
映画評論家・石上三登志の『私の映画史』
全588ページの大著で、3800円(税別)なり。いや全然高くないぞ、俺にとっちゃ。

俺が中1の時に初めて「キネマ旬報」を買った当時からすでに同誌に連載を持ってた人で、特にSF、ミステリー、スパイ映画に関する造詣の深さと、キネ旬ベストテンの選出作品のユニークさは、他の追随を許さないという感じだったのだ。
3部構成の第1部は70年代のキネ旬に連載していた、氏の自分史的な作品評論集。年代ごとのベストテンも掲載されてて、「こんな映画選んでる」と楽しい。
第2部はスパイ映画、ペキンパー、ロジャー・コーマンなど、偏愛ジャンルや映画人に関する博識的考察。
そして圧巻は第3部の「TVムービー作品事典」だ。
こういうのが欲しかったんだよお。

TVムービーというのは読んで字の如し「テレビ用の映画」の事だ。アメリカのテレビ局が製作するもので、ごくまれに『激突!』のように出来がいいと、海外では劇場公開されたりするが、基本は日本でもテレビ放映されて、そのほとんどはビデオ化すらされてない。
映画であれば、年鑑や公開リストなど、記録に残されてるものだが、TVムービーは今まで、まとまった形の評論などなかったのだ。
この本に掲載されてるのは、1970年代に放映されたTVムービーで、氏が当時評論してた作品を集めている。評論してた人自体がほとんど居なかったのだ。
製作規模としては映画のように金をかけられる訳じゃないんで、アイデア勝負な作品が結構あった。

例えば1972年の『ザ・マン 大統領の椅子』は、アメリカ初の黒人大統領の誕生を、近未来のアメリカの出来事として描いていて、今となれば「バラク・オバマ」を予見してたかのような内容。大統領役にはジェームズ・アール・ジョーンズだから、説得力も十分だった。

ザマン.jpg


或いは大統領つながりで言うと、同じ1972年の『暗殺 サンディエゴの熱い日』は、マイケル・クライトンが原作じゃなく監督を務めたサスペンス。

サンディエゴの熱い日.jpg

サンディエゴに遊説に来る大統領を、軍が開発した毒ガスを使って、市民もろとも殺害しようと企てた政治家が、毒ガスをセットした直後に事故死する。
犯人亡き後、毒ガスの在り処を推測する国防省捜査官にベン・ギャザラ。しかも政治家は自分を追うであろう捜査官の人事記録を入手しており、その捜査パターンを読んで、毒ガスをセッティングしてるという筋書き。
未曾有の災害をセッティングした犯人が死んでいるというのは『機動警察パトレイバー 劇場版』の第1作を思わせる。
その他にも、もう1回見たくても見る手立てがない作品が沢山あるのだ。ホント貴重な資料だと思う。
この本を毎日少しづつ読み進めてくのが目下の楽しみだ。

そんなわけで、この本には掲載されてなかった、70年代のTVムービーを選んでみた。



『ラリー 驚異の人間記録』という題名だが、なにか超人的な能力を持った男の話でも、ギネスに認定されるような記録を作った男の話でもない。『アルジャーノンに花束を』のような話だ。
これも実話に基づいている1974年製作のTVムービーで、ビデオ・DVD化はされてない。1984年にテレ東で放映されたのを録画してあった。


カリフォルニアの州立精神病院に移送されてきた、26才のラリー・ハーマン。応対した看護人のナンシーは、その様子から重度の精神薄弱であると思った。呼びかけには応じず、デスクに置いてある輪ゴムの束を口に放りこんだりする。ラリーの資料には生まれてすぐにネバタの精神薄弱児の施設に預けられ、そのまま今日まで過ごしてたとある。

ラリーは入所してほどなく、ほかの精神薄弱の患者と異なった行動を示した。色の好みがあり、赤よりも黄色いパジャマを選んで着た。テレビもアニメよりも、ショウ番組を見た。消灯後にひそかに絵本をめくったりもしていた。
「文字が読めるのだろうか?」

ナンシーは院長のマケイブに、ネバタで撮影されたラリーの診断ビデオを見てもらった。その中でラリーは医師の言葉を反芻し「M」という単語を発音しようとしてるように見えた。
ナンシーは、ラリーが精神薄弱ではない証明をさせてほしいと掛け合うが、マケイブ院長は
「君はヘレン・ケラーになるつもりか?」
と取り合おうとしない。だがナンシーには確信があった。

何日か経って、ナンシーは院長を同席させ、ラリーに形合わせパズルをさせた。ラリーはすんなりとクリアし、さらに簡単なジグソーパズルも完成させた。
「物事を理解し、記憶する」実践として、ナンシーは、4つの動作を順番にこなすことを要求し、ラリーは間違えずに行った。まだ半信半疑な院長の前で、ナンシーはラリーに質問する。
「想像するって、どういうことかしら?」
するとラリーは目の前に置かれたコップを床の上に下ろし、腕をコップがあった場所に持っていき、コップを握るフリをして、それをナンシーに手渡す動作をした。
院長もラリーが物の概念を理解してることを、納得せざるを得なかった。

ラリーは学習能力は高かったが、動作はぎこちないままだった。専門医が診ても、脳に異常は見られなかった。
だが筋肉が萎縮してしまってる。マケイブ院長は推測した。
ラリーは何かの間違いで、生まれながらに精神薄弱児の施設に入れられた。周りの子供たちの動作が自分にも身についてしまったのではないかと。
そしてなにか他の子と違う行動を取ったら、罰を受けたのかも。
罰への恐れから、周りとの同一化が進んだのだろうと。

IQは人並みであっても、生活習慣や人前でのマナーなど、ラリーはなにも教えられずに育ってきた。髪をとかすことすら最初はストレスだった。だがナンシーの献身的なサポートで、筋肉も普通に動かせるようになったラリーは、院長やナンシーとともに、外出できるまでになった。
初めて見る外の世界は、ラリーにとって刺激に満ち溢れてたが、一人で行動させると、すぐに手持ちの金を失ってしまう。他人に言われるままに払ってしまうからだ。
ラリーに、人を疑うことは教えてなかった。ラリーは
「外の世界に優しい人はいない」
と、引きこもるようになっていた。

その頃、膨大な資料から、ラリーの出生の秘密の糸口が見つかった。ラリーに毎月のように送金してくる人物がいたのだ。モーリン・ホイットンという名の女性の自宅を、ナンシーと院長は訪ねた。もう年配のモーリンは重い口を開いた。

彼女は昔、精神病院の院長と付き合っていて、妊娠し、出産もその病院内で行った。院長は産まれてくる子を自分の養子にすると言ったが、約束はなされなかった。
そして院長から赤ん坊が精神薄弱であると告げられたと。彼女は事実を確かめることもなく、院長の言葉を信じて、そのまま施設に預けてしまったと言う。
そして今さら何を言われても、自分の子とは思ってないと言った。

マケイブ院長は、ラリーの状態が思わしくないことを理由に、ナンシーを担当から外し、臨床医のトムに任せた。
トムは車の運転を教えてやったり、就職面接を受けるためのスーツを買いに、町に連れ出したりした。
ナンシーはラリーをこの病院で働かせればいいと考えてたが、院長は
「彼はここにいるべき人間じゃないんだ。外で暮らすべきなんだよ」
と言った。
だがラリーは試着したスーツを着たまま、逃げ出してしまった。

値札をぶら下げたまま町を歩き回る。夜になり、公衆電話をかけようとすると、若い女性に小銭をせがまれ、渡してしまう。彼女は電話したあと、ラリーが最後の小銭を自分に渡したことを知り驚いた。
「あなたどこに住んでるの?」
「州立精神病院さ」
「お医者さん?」
「いや患者だよ」
「あなた、話し方も普通だし、患者に見えないわ」
「ねえ、ヤブ医者ってわかる?へんな医者にかかると、
病気でもないのに、病気にさせられちゃうのよ」
その若い女性は礼を言って去って行ったが、彼女の言葉はラリーの心に引っかかった。

ラリーの行方を探していたナンシーは警察から連絡を受けた。ラリーはあの後、性質の悪い商売女に声をかけられ、有り金を奪われた上に、暴行を受けていた。
ナンシーは、ラリーが州立精神病院で引き続き暮らしていけるよう、役所からの承認を得た。
すでに傷の癒えていたラリーは、そんなナンシーに言った。
「ここを出ていきたい」
「外ではイヤな思いもするけど、生きてるって感じがした」
「ここではただ毎日を送ってるだけだ」
「ナンシー、僕は君のことが好きだ。本当だよ、君は僕の恩人なんだもの」
ラリーは泣いていた。
ナンシーはその言葉に頷くしかなかった。


このドラマのエピローグはとてもさりげなくていいのだ。
ラリーはトムの手配でアパートを借り、図書館での仕事を得て、自立への道を踏み出す。当初は週1回、ナンシーたちは顔を見に行ってたが、ラリーはその面会を疎ましく思うようになった。もう自分は病院生活とは無縁になったのだからと。
そして久しぶりにみんなで食事でもしようと、ラリーのアパートをナンシーたちが訪ねると、すでに部屋は空っぽだった。大家が言うには、ラリーは友達を頼って、サンフランシスコへ移ったらしい。
その後の消息はわからないという結び方だった。


ラリーを演じたのはフレデリック・フォレスト。前年1973年に『ザ・ファミリー』で映画初主演を果たした直後に出たTVムービーだ。重度の障害を思わせる導入部から、少しづつ回復していく過程を、きめ細やかな演技で見せる。

ナンシーを演じるタイン・デイリーは、この2年後の『ダーティ・ハリー3』で、ハリー・キャラハンの相棒に大抜擢されるが、このドラマでも意志の強さを感じさせる人物像を嫌味なく演じてた。

監督のウィリアム・A・グラハムは、このドラマと同じ1974年に『愛の花咲く家』という、詩情を感じさせる家族の物語を撮っている。これは劇場未公開で、地上波とWOWOWで放映されてるが、ビデオ・DVD化はされてない。

2012年3月15日

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押し入れからビデオ⑫『ナイトライダーズ』 [押し入れからビデオ]

『ナイトライダーズ』

ナイトライダーズ.jpg

ジョージ・A・ロメロ監督の「非ゾンビ」かつ「非ホラー」な内容の1981年作。日本では劇場未公開、ビデオ・DVDもリリースされておらず、昔WOWOWで放映されたのを録画してあった。
昨日コメントした『恋人たちのパレード』と繋がるんだが、これも「旅する一座」の物語なのだ。


冒頭、森の中で目覚めたエド・ハリスが、川で水浴をしている。木の枝でさかんに自分の背中を打っている。
中世の騎士の鎧のような衣装を身につけ、馬ではなくバイクに跨る。
エド・ハリス演じるビリーは、ペンシルベニア一帯を巡業して回る「一座」の座長だ。彼らの出し物は、中世の騎士が行ってた「ジュースティング」という馬上槍試合を、バイクで再現するというもの。もちろん本物の槍ではなく、長い竿を使う。
題名は「夜の」ではなく「騎士」のKNIGHTの方だ。
一座はアーサー王伝説に準えて、ビリーはウィリアム卿であり、マーリンと呼ばれる医者もいる。バイクに跨る騎士たち以外にも、楽隊やグッズを売る者や、なかなかの大所帯で、巡業先の設営地にテントを張ったり、トレーラーハウスで寝起きしたり、ヒッピーのコミューンのようでもある。

試合はモトクロス・バイクによるジュースティング以外にも、サイドカーを使った「戦車」レースなどもあり、観客を楽しませる。ビリーの強力なリーダーシップのもと、一座は結束していたが、ビリーは自分たちのやってるのは、ただの見世物ではないという意識が強かった。
試合には騎士道精神を謳い、自分たちは見る者に、名誉や礼節といった、今の世の中に失われてしまった価値観を伝える役目を負ってると考えていた。

設営地の使用料以外にも賄賂を要求してくる警官にも一切応じない。
ビリーの融通の利かなさは、一座の人間を戸惑わせることもあり、収入も十分とは言えなかった。それにビリーは、黒い鳥に襲われるという予知夢を見たと、マーリンに話していた。

賄賂を拒否された警官から、その晩ガサ入れを受け、団員の一人が大麻所持で連行されていく。
ビリーは一緒に行くといい、留置場で団員が殴りつけられるのを、激しい怒りとともに見つめていた。
ビリーに「戻るまで次の巡業地には行くな」と言われてた一座だったが、期日を守らないと違約金を取られるため、出発を決める。ビリーはそれを知り憤慨する。
先に次の巡業の町に着いた一座には、地元のTV局と、ワシントンD.C.の芸能プロダクションの人間が接触してきてた。
ビリー一座の公演の経費や契約を任されてる弁護士は、ビリーに名を売れば収入も増えると進言する。
殴られた団員は言った。
「俺は昔、揉め事を起こし、同じように死ぬほど殴られた。その時は味方もなく、自殺も考えた。
だが今回は殴られても笑ってたろ?それは仲間がいるってわかってるからだ。」
「この一座はバラバラになっちゃいけない」
今や、一座を離れて名を売ろうと思い始めてる団員と、ビリーとの間の齟齬は埋めようもない所まできていた。
だがビリーは言った
「この一座に大切なのは精神だ。俺がもし居なくなっても、それは引き継がれるべきものだ」と。

一座で黒騎士を演じてたモーガンは、ビリーに代わり王の座を欲したが、人望がなかった。モーガンは一座を去り、芸能プロダクションと契約する。ビリーとは親友の間柄でもあったアランも袂も分かっていった。
ビリーは新しい巡業の地に設営の許可を取り、しばらくそこに留まることにした。仲間たちが戻ってくることを信じたのだ。
モーガンは芸能の世界の不毛ぶりをすぐに目の当たりにして、失望していた。アランたちも、一座を出たものの、言い知れない物足りなさに包まれていた。

ある朝、公演の準備をしてると、バイクの轟音が響いてきた。出て行った仲間たちが戻ってきたのだ。
ショウはいつも以上の昂奮に包まれた。そして、ショウが終わりに近づいたその時、黒い鳥を模った鎧を身につけたバイカーが、ビリーの前に現れた。
ビリーは一騎打ちに臨む。激しい攻防に一座が息を呑む中、ビリーは黒い鳥をバイクから打ち落とす。
仮面を剥がすと、町で一座のパレードをじっと見つめていたネイティブ・アメリカンの若者だった。
その勇気ある戦いぶりを認めたビリーは、川面でひざまずく若者の肩に剣を掲げ、一座の騎士として認めた。
そしてモーガンに王冠を譲って、一座を去ることにした。

鉄兜を被り、バイクで平原の道を行くビリーの後ろには、騎士になったばかりの若者が、バイクで付き従っていた。

町のダイナーに立ち寄ると、あの賄賂の警官が食事をとっていた。ビリーはおもむろに殴りかかり、ピストルを奪うと、から揚げの油の中に落とす。ボッコボコに殴りつけてると、周りの客からも歓声が上がった。
ダイナーを出て、なおもバイクを走らせる。着いた先は小学校だった。巡業先でサインをねだった子供が通ってる教室を訪ねる。あの時、子供が手にしてたバイク雑誌の記事が、自分の意図に反すると、サインを拒否したのだ。

騎士の格好のビリーは、子供に黙って剣を手渡した。
これでやるべきことはやった。
ビリーは若者を付き従えて、また走り始めた。
一直線の道を走るうちに、草原を馬で駆ける騎士の姿が、ビリーの脳裡に浮かんでいた。
次の瞬間、トラックがビリーのバイクを粉々に破壊して、後ろを走る若者のバイクのそばで停まった。


この映画の前年1980年には、クリント・イーストウッドが監督・主演で
『ブロンコ・ビリー』を撮ってる。
ルイジアナ州をやはり巡業して回る「ワイルド・ウエスト・ショー」の一座の物語だった。
この映画のエド・ハリスが、中世の騎士道に取り憑かれ気味なのと、ちょっと似た意味で、『ブロンコ・ビリー』の座長イーストウッドも、自分が西部の時代に生きてるとカン違いしてるような面があった。ヤケを起こして列車強盗を企てる場面があるんだが、線路を来るのは、ゆったり走る蒸気機関車などじゃなく、猛スピードのアムトラックが、あっという間に通過してくというオチがあった。

もう1本「ジュースティング」を行う騎士の話といえば、2001年にヒース・レジャーが主演した『ロック・ユー!』がある。この『ナイトライダーズ』は、中世の騎士道を現代に再現するような話だが、『ロック・ユー!』は舞台は中世で、劇中に流れるクイーンやデヴィッド・ボウイの楽曲に「中世」の住人たちが踊ったりするという、現代を放り込むという遊びを試みた快作だった。


この映画はエド・ハリスの初主演作となるんだが、その他のキャストはほぼ無名。というより『ゾンビ』など、ロメロ映画で馴染みの顔ぶれが並んでる。トム・サビーニは黒騎士モーガンを演じていて、彼の出演キャリアの中じゃ、一番カッコいいと思う。
ロメロ映画の諸作に倣って、この映画もホームグラウンドのピッツバーグを拠点にロケされてる。緑豊かなロケーションが、中世の装いにもマッチしてるし、ホラーのホの字も見当たらない人間ドラマに仕上がってる。
結末にはアメリカン・ニュー・シネマの残り香を嗅ぐ感じもあった。


字幕の翻訳間違いがあった。ビリーがサインを拒否した子供の持ってた雑誌が「バイカー」雑誌で、イーヴェル・ニーヴェルが出てるものだった。

イーブル・ニーヴェル.jpg

翻訳では「こんな悪魔崇拝とは関係ない」とビリーは言うんだが、イーヴェル・ニーヴェルとは、1970年代に派手なバイク・スタントのショウで全米を湧かせたスタントマンの名だ。
映画『ビバ・ニーベル』に本人が主演してる。
翻訳者が彼のことを知らずに「イーヴェル」を「イーブル」と思い「悪魔崇拝」と訳してしまったんだろう。
ビリーとしては「ニーヴェルみたいな見世物スタントとは違うんだ」と言うのが本来の訳だ。

2012年3月5日

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押し入れからビデオ⑪『ボーイ・ワンダーの孤独』 [押し入れからビデオ]

『ボーイ・ワンダーの孤独』

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今年のアカデミー賞を受賞したのは、サイレント映画そのままの手法で、サイレントからトーキーに移行する時期のハリウッドを、フランス人の監督・キャストで描いた『アーティスト』だった。
日本公開が楽しみだが、その『アーティスト』の時代設定と関連づけられそうな映画を、押し入れから探し出してきた。内容は全然ちがうけど。

リチャード・ドレイファスが『アメリカン・グラフィティ』と『ジョーズ』の間の1974年に主演した、日本劇場未公開作。
俺んちの押し入れからは『この生命(いのち)誰のもの』に続くドレイファス映画。なぜかウチにはドレイファスの未公開ものが数本あって、1978年の主演作『THE BIG FIX』(TV放映題名「私立探偵モーゼス」)も、時間かけて探せば出てくるはず。

この『ボーイ・ワンダーの孤独』は1989年にTBSの深夜に放映された時の題名で、原題は『INSERTS』だ。
この「挿入」という単語はダブル・ミーニングとなってる。
映画技法の用語「インサート・カット」と、男が女に「インサート」するという意味。


映画の主人公ボーイ・ワンダーは、サイレントからトーキーへと移り始めた、1930年代前半のハリウッドに暮らす映画監督。だがすでに才能は枯渇したと言われ、今は自宅で酒浸りになりながら、自宅内にスタジオを組んで「ブルー・フィルム」を撮るという無為な日々。
今日も主演女優でありガールフレンドでもあるハーレーンが、撮影のため家を訪れる。彼女もサイレント時代には人気の女優だったが、今は仕事もなく、ポルノで稼ぐようになる。稼ぐといっても、彼女のギャラはコカインで支払われる。ハーレーンは
「クラーク・ゲイブルっていう若い役者が、あんたの才能を褒め称えてたわよ」
などと言うが、ワンダーは関心も向かない。
ハーレーンは撮影前に「注射」を射ち、ワンダーを誘ってくるが、ワンダーは勃起もしない。

そのうち若い男優がやってきて、さらに撮影の様子を見ようと、プロデューサーのマックが若い愛人を連れてくるんで、ワンダーはますますクサる。
ハーレーンはマックのポケットからコカインの包みを受け取ると、ワンダーの制止も聞かず、上の寝室に射ちに行ってしまう。
ワンダーが人気監督だった時代に買った邸宅は、フリーウェイの建設予定地となっており、立ち退きに応じてれば大金が入ったのにと、マックはこの家から外にも出ず、隠遁生活を送るだけのワンダーを見下してる。
マックは、フリーウェイが通ったら、そこにハンバーガーのチェーン店をいくつも建てるんだなどと青写真を描いてる。

ワンダーがそんな無駄話を聞かされてると、若い男優が上の階から血相変えて降りて来る。
「彼女死んでるぞ!」

コカインの過剰摂取だ。だからあれほど止めたのに。ワンダーはその場を動く様子もなく、マックと男優が死体を運び出して、家を出て行った。
その間、ワンダーと、マックの連れて来た若い愛人が部屋に残ることに。

彼女はキャシーといい、まだ大学を出たてのようだった。マックは自分のことを「パパ」と呼ばせてたが、私はそんな子供じゃないわと。
キャシーはワンダーが撮影前に口にした「インサート」と言う言葉に盛んに反応した。
「ねえ、インサートってどういう意味?」
何度も聞いてくる。キャシーも女優志願だという。

ワンダーは、ハーレーンが死んで撮れなくなった分を、キャシーを代役に立てようかと思いついた。
巧みに言葉を弄して、キャシーを撮影用のベッドに上がらせ、ドレスを脱がせる。
「インサートカットがいるんだ」
なかなか乳房まで見せようとしないキャシーとの、一進一退の攻防が展開される。
無気力だったワンダーに、「映画的」情熱なのか、別のものなのかわからないが、込み上げてくるものがあった。

「女優を目指してるというなら、その意気込みを全身で表現してみろ」
キャシーはついに一糸まとわぬ所まで乗ってきた。
「おっぱいのアップは撮れた、次はアソコだ」
ワンダーは、どうせそこまではできないだろうとタカを括って言ったが、キャシーは動じなかった。
しかもいつの間にかワンダーの股間は大きくなっており、それを指摘されたことで、キャシーとの攻守が逆転してきた。カメラを回すならセックスしてもいいと。

ワンダーは最初は小娘だと鼻にもかけなかったキャシーに、今は我を忘れ、カメラを回す暇などなしに、彼女と体を重ねた。
ことが終わり、キャシーはカメラが回ってなかったことを知ると、途端に冷淡になった。
「単に、あなたとセックスなんかするわけないでしょ」
そして、二人がベッドに裸でいる所を、戻ってきたマックが目撃した。


この映画はアメリカ公開時には成人指定を食らって、監督とリチャード・ドレイファスは抗議を行ったという。
アメリカでは映画が成人指定になると、興行はもとより様々な面でハンデを抱える。例えば宣伝も規制がかかる。確か入場料金も割高に設定されてたはずだ。
成人指定というが、セックス場面はほぼ無い。ただ女優はほとんど半裸のまま演技してる。

最初に出てくるハーレーンを演じてるのはベロニカ・カートライト。『エイリアン』で、シガーニー・ウィーヴァーと共に、女性クルーとしてノストロモ号に乗船してた。『SF/ボディ・スナッチャー』にも出てたね。
そのベロニカが服を脱いで下着姿で、ワンダーを誘う場面で、足を広げると画面にボカシが入るのには驚いた。
民放で放映してるんだけどね。ヘアが映ってるのか、米国盤のDVDでも見れればわかるんだが。

それにも増して「よく出たな」と思ったのが、キャシーを演じるジェシカ・ハーパーだ。

ジェシカハーパー.jpg

『サスペリア』と『ファントム・オブ・パラダイス』の2本のカルト映画のヒロインとして、秘めやかに愛されてる女優だが、もう途中から脱ぎっ放しである。
全裸ではないが、彼女もボカシを入れられる場面があった。

ただベロニカにしろジェシカにしろ、痩せてるんで、ヌードになっても、なんかこう「もう服着ていいから」と気を遣いたくなってしまうんだよな。
この映画は彼女たちの「黒歴史」になってなきゃいいけど。
プロデューサーのマックを演じるのはボブ・ホスキンス。若い頃からあんな髪型だったんだな。

映画は主人公のワンダーの邸宅から、カメラは一歩も外に出ず、舞台劇のような印象だ。落ちぶれてしまった映画監督の隠遁ぶり、その鬱屈した心情を反映するように、風通し悪い密室感を演出してる。
登場人物も5人という、コストかかってないね。

サイレントの時代からブルー・フィルムというのは撮られていた。ジョン・シュレシンジャー監督が、やはり1930年代のハリウッドを描いた1975年作『イナゴの日』の中では、映画と言われて、ブルー・フィルムでレズシーンを撮らされて、カメラの前で泣いてる女優の卵を映した場面があった。

2012年3月1日

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押入れからビデオ⑩『エディ・コイルの友人たち』 [押し入れからビデオ]

『エディ・コイルの友人たち』

エディコイルの友人たち.jpg

先日ベン・ギャザラの訃報を聞き、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』でも見て偲ぼうと思ったんだが、録画してあったはずのビデオがどこ探しても見当たらない。
そうなると似たようなものでもいいから見たくなってきたんで、これを引っ張り出してきた。
1973年のピーター・イエーツ監督作。ボストンを舞台にした70年代版フィルム・ノワールだ。


ロバート・ミッチャムが演じる主人公エディ・コイルは、密造酒の輸送中にパクられ、起訴されて公判を待つ身。
50過ぎで前科持ちのエディは、財務省の捜査官フォリーから、組織の犯罪のネタを密告すれば、司法取引に応じてもいいと言われ、自分が組織のために調達している銃の密売人の情報を売る。

同じ頃、エディの調達した銃を使って、覆面をした男たちが銀行を次々と襲っていた。まず支店長の家に押し入り、家族を人質に取った上で、支店長を伴って開店前の銀行に入る。金庫のロックが解除されるのが朝の時間だからだ。行員たちには、支店長自ら、家族が人質になってると伝え、すべて犯人の指示に従うよう言い渡す。

捜査官フォリーは銃の密売人ジャッキー・ブラウンの身柄を確保、さらに、密売人の情報だけでは不十分と言われたエディが、リスクを犯して、銀行強盗の情報を渡そうとした、その前に、すでに強盗一味も逮捕していた。
だが組織の上層部は、銀行強盗の一件をタレ込んだのはエディだと目星をつけ、その始末を連絡役のディロンに任せる。
ディロンはエディが毎日のように立ち寄る、しがないバーの経営者で、古くからの顔なじみだった。


暗黒街の住人たちを主人公にしてるが、羽振りのいい男など出て来ない。組織の上の方の人間も顔を見せない。組織の末端で、吹き溜まってるような、男たちの日常が描かれる。

安い食堂のウィンドー越しに、ヌッと現れるロバート・ミッチャムの、くたびれた風貌が実にいい。
まだ若い銃の密売人と取引する場面だが、「人の話を簡単に信用するな」という教訓を、
「俺はお前より指の節が4つ多い」
と切り出すあたりから、会話の面白さに引き込まれる。
相手を信用して、引き出しに手を入れようとして、思いっきり閉められて、手を潰されたと。
若い密売人の名がジャッキー・ブラウンという所からも、この映画が、タランティーノ監督がリスペクトしてることがわかる。
この冒頭の会話の場面は、タランティーノ映画の、印象的な会話に繋がってる気がする。

もう1本この映画との繋がりを感じさせるのが、ベン・アフレック監督・主演の『ザ・タウン』だ。
舞台は同じボストンで、銀行強盗が出てくる。

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この映画で強盗たちが、銀行を後にして、目隠しをしたまま、車に乗せた支店長を、途中で解放する場面がある。海の近くで降ろし、
「ここから真っ直ぐ歩いて、100数えたら目隠しを外せ」
と言い、その間に車は立ち去る。
この場面は、『ザ・タウン』の中で、ベン・アフレックが、人質にとった女性行員レベッカ・ホールを解放するやり方と同じだった。

八方塞がりなロバート・ミッチャム演じるエディと違い、ジャッキー・ブラウンは383ヘミのエンジンを積んだダッジを転がす、イケイケの銃の密売人だ。
演じるスティーヴン・キーツは、『ブラック・サンデー』で、ロバート・ショウの相棒となる、イスラエル軍の特殊攻撃隊の隊員役で印象を残した。
弱い立場のエディにつけこんで、組織の情報を引き出そうとする、捜査官フォリーを演じるのはリチャード・ジョーダン。ミッチャムとは『ザ・ヤクザ』に続く共演だ。

そしてこの映画のキーマンとも言える、得体の知れない不気味さを放つのが、連絡役ディロンを演じるピーター・ボイルだ。
ディロンは組織上層部からエディ殺害を請け負うと、エディをアイスホッケーの観戦に誘う。
気の晴れない事ばかりのエディにとって、久々に憂さを晴らすことができ、ビールも旨い。
競技場からのディロンの車の中で、酔って寝てしまうエディに、その先はもはや無い。

監督がピーター・イエーツということで期待するようなカタルシスなどない。むしろこれで終わらせてしまうことで、後にカルト的に支持されることとなったとも言える。
多分監督自身も『ブリット』以降は何でもかんでもカーチェイスみたいなもんを求められてただろうし、ウンザリもしてただろう。
この映画にアクション場面といえる描写はほぼない。だが劇中に交される会話のほとんどが、フレンドリーなものではなく、相手を値踏みし、探りを入れ、優位に立とうとする、そういった緊張の糸がピンと張り詰めてる感覚は、しまりのないアクション映画などより、よっぽど見応えはあるのだ。

音楽はデイヴ・グルーシン。メインテーマなどは2年後の『コンドル』を彷彿とさせる。この映画の旋律をもう少し洗練させて『コンドル』が出来上がったという印象だ。

この映画は昔WOWOWで放映されたものを録画しておいたもので、
過去に一度もビデオ・DVD化はされてない。

2012年2月10日

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