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映画は人を騙し、人を救う [映画ア行]

『アルゴ』

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1979年、イランの前国王パーレビが、癌の治療のため、アメリカに入国。
イランの過激派は、恐怖政治の中で私服を肥やしたパーレビを、自国で裁きにかけるため、身柄の引渡しを要求。
時のカーター政権はこれを拒否したため、過激派に煽動された民衆たちによる大規模なデモが起こる。

デモの大群は、在イラン米国大使館を取り囲み、最悪の事態を予感した大使館員たちは、書類のすべてを焼却、あるいはシュレッダーにかけた。

怒りに駆られた民衆たちは、大使館の塀を乗り越え、敷地内になだれ込む。
52人の大使館員が拘束された。
だが混乱に乗じて、6人が大使館を脱出し、カナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

アメリカ人を匿ったことがイラン側に察知されれば、自分と妻の身も危ない。
だがカナダ大使は、アメリカ大使館員6人を、客人として滞在させることにした。

カナダ大使から連絡を受けた米国防省は、CIAに応援を要請。
人質奪還のプロ、トニー・メンデスの手腕に委ねた。


すでに、どうやって6人をイランから脱出させるかの案は上がっていた。
2つの案はトニーによって即座に否定される。

車を使うと検問にかかるので、自転車でトルコ国境を越える案。
これは国境まで600キロもあるので非現実的。
外国人教師を装うという案も、すでに反西欧に傾いていた当時のイラン国内には、英語教師などはいなくなってると、トニーは指摘。

「では代案はあるのか?」
との問いには、その場では答えられなかった。

だが自宅に戻り、幼い息子に電話しながら、テレビで放映されてる『最後の猿の惑星』を眺めてたトニーは、ある突拍子もないアイデアが閃いた。


1977年『スター・ウォーズ』の空前の大ヒットにより、SF映画ブームが到来していた。
カナダ大使私邸に滞在する6人の、アメリカ人大使館員を、カナダの映画クルーに装わせる。

荒涼とした砂漠の惑星のロケーションに、エジプトやイランなど、中東諸国が適してるとして、撮影に訪れたことにする。
トニー自身が映画の資料を持って、イランの役人にロケの許可を得る。
そしてカナダ大使私邸で、6人と合流し、一緒に空港へ向かい、出国審査をクリアして、民間機で脱出するという筋書きだった。

だが過激派は大使館内のシュレッダーから、裁断された紙の断片を回収。
子供たちを動員させ、なんとジグソーパズルよろしく、断片をつなぎ合わせる作業をさせていた。

その紙の中には、6人の大使館員たちのプロフィールも含まれ、顔写真が照合されれば、人質の中に6人がいないことがバレてしまう。

入国時に書かされる証明書も、控えは空港職員のもとにある。
出国時にトニーと、6人の入国日が違うことを指摘されたら?
薄氷の上を渡るような作戦は、決行の時を真近に迎えていた。


前作の『ザ・タウン』と同様に、監督・主演を兼ねたベン・アフレックだが、前作がアクション描写を強調した作りになってたのに対し、この『アルゴ』は、じっくりと腰を据えて、物語の展開をコントロールしていこうという姿勢だ。

前半に動きのある場面なんかを入れて、メリハリを効かそうとか、そういう色気を出すことがない。

これは事実自体が十分面白いのだから、それをなるべく明解に、駆け足にならずに観客に提示する。
ベン・アフレックの「功をあせらない」演出ぶりで、事件の背景や、登場人物の関わり合いが把握しやすい。
それでも前半は単調に感じる人もいるだろう。
だが映画好きなら、前半から身を乗り出して見てしまうようなネタが蒔かれてるのだ。


『アルゴ』とは、映画会社のボツ脚本の山に埋もれていた、SF映画の題名による。
『スター・ウォーズ』に便乗して、ロジャー・コーマンが手掛けた『スペース・レイダース』とか『宇宙の7人』とか、そんなパチモン感が漂う。
トニーはまずこのSF映画を製作するという、既成事実つくりから行う。

「敵を欺くにはまず味方から」ということで、特殊メイクマンと、映画プロデューサーに声をかけ、
「架空の映画話をデッチ上げる」と。

ストーリーボードを描かせ、エキストラ役者を集めて、コスチュームを着せ、製作発表の席で、台本を読み合わせさせる。
ポスターの図柄が、製作発表の記事とともに、映画業界誌「バラエティ」に載る。

「バラエティ」誌は、世界どの国の映画人でもその名を知ってる業界誌であり、この雑誌に載ったということが、アリバイ作りの成立を意味してるのだ。

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実際の映画業界でも、製作発表をして、イメージポスターも作って、だけどその後に話がポシャることはザラにある。
企画をブチ上げて資金を募って、そのまま雲隠れする、自称プロデューサーなんて輩も珍しくない。

映画というのは、そういった「いかがわしさ」の中で日々生み出されているものなのだ。


製作発表の内容通りに、映画が完成したとして、それが巧妙な宣伝によって、映画館にかかったとして、その「クソみたいな」出来栄えに、それこそブログやツイッターなんかで
「金返せ!時間返せ!」の合唱が沸き起こったとしても。

もしそうなったとしても、その観客の内の誰かが、監督やプロデューサーのもとに押しかけて
「つまらないもの見せやがって!」
と刃物振りかざすようなことにはならない。

映画というのは不思議なもので、どんなにつまらない映画でも、殺意を抱かせるまでには至らず、観客は
「そのつまらなさも一つの存在価値」などと、生暖かい目で見てくれたりする。

面白いと思って「騙された」としても、観客は刃物までは手にしないが、この
『アルゴ』の場合は、「騙された」と気づいたら、銃を向けてくるであろう人間たちが相手なのだ。

ハシにも棒にもかからない脚本を拾いあげて、チープなSF映画をデッチ上げて、だがその映画こそが、6人の人命を救う「切り札」になるという痛快さ。


映画の終盤は、一気呵成に見せてく演出で、もちろん脱出のスリルは十分に味わえるが、俺はこの映画の主眼は、やはり「映画を語る映画」という部分にあると思う。

映画を作るという行為は、いわば「上手に嘘をつく」ことだ。
観客も嘘を承知で楽しむ術を心得てる。
作り手と観客の間には、暗黙の了解があるわけだ。

だが『アルゴ』の嘘は「命がけ」でつかなければならない嘘だ。
その作戦自体が、「バクチ」といわれる映画製作そのものを表してる。

だから自分たちも、映画に騙されたと思って、いちいち目くじら立ててちゃいけないのだ。
そんな映画が人を救うことだってあるのだから。
70年代のワーナー映画のロゴから始まるところも憎い。

2012年11月3日

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吹替版で見よう「消耗品軍団」 [映画ア行]

『エクスペンダブルズ2』

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シルベスター・スタローン(バーニー・ロス)=ささきいさお
ジェイソン・ステイサム(リー・クリスマス)=山路和弘
ドルフ・ラングレン(ガンナー・ヤンセン)=大塚明夫
ジェット・リー(イン・ヤン)=池田秀一
チャック・ノリス(ブッカー)=堀勝之祐
ジャン=クロード・ヴァン・ダム(ヴィラン)=山寺宏一
ブルース・ウィリス(チャーチ)=綿引勝彦
アーノルド・シュワルツェネッガー(トレンチ)=玄田哲章

どうよ、この吹替版の声優のメンツ。これでこそ「吹替版」を名乗る資格があるってもんだ。
普通ならもちろん洋画は字幕版で見るんだが、これは別だ。
本編に負けず劣らず、こんな声の顔ぶれが一堂に揃うなんてことは滅多にないのだ。

都内近郊いろいろネットで調べてみて、吹替版が大きなスクリーンでかかってる所ということで、今まで足を運んだことなかった「109シネマズ木場」を選んだ。
しかし俺の見た回は、他に男性客ひとりだけ。なんだこの「選択に負けた」感は。

吹替自体は文句なしに素晴らしかった。
CMでブルース・ウィリスと「共演」してる綿引勝彦が、
「ちゃんと覚えとくんだ、ブルゥース!」って云うのかなと期待しちゃったよ。

パンフは800円と高めだが、ささきいさお、玄田哲章、綿引勝彦による対談も載ってるし、内容盛りだくさんで、値段に見合ってる。


基本1作目とやってることは変わんない。
スタローンは今回監督はサイモン・ウェストに任せて、自分は演技に徹してるが、それとて、スタローンの演出とどこが違うとか差も感じないし。

冒頭でネパールの武装反乱軍に拉致された、中国の富豪を救い出すというミッションに臨む「消耗品軍団」。
最初っから殺しまくりだ。
徹底的に殺して破壊し尽くして、ミッションを終えて国へ帰ると、新入りの凄腕スナイパー、ビリーが仕事の血生臭さに耐えられないと、バーニーに訴える。

バーニーは「俺もお前くらいの頃、同じように悩んだもんだ」
と云い、その胸の痛み、わかるぞみたいな熱い眼差しを注ぐ。

俺はスタローン好きだし、映画もほとんど見てるけど、彼の悪い癖は、こういうウェットな訴えかけをしてくる所だ。
あれだけ他所の国の人間を虫けらみたいに殺しまくっといて、
「でも俺たちも家に帰れば、一人の人間なんだよなあ」みたいなアピールはいらんわ。
殺しが仕事なら、殺しに徹してくれ。

まあしかしウェットなのはそこまでで、後はひたすら撃ちまくり殺しまくりしか描かれないので、安心して見てられたが。

今回はジェット・リーが冒頭のミッションで、ちょっと暴れてみせただけで、映画から退場してしまうのはがっかりだが、前回仇役っぽい位置づけだったドルフ・ラングレンが、なんとコメディリリーフを任されてる。
これが悪くないのだ。スタローンはこういう人の使い方が上手い。

ちなみにドルフの役名のガンナー・ヤンセンというのは、同じ北欧出身で、『悪魔のいけにえ』でレザーフェイスを演じた、ガーナー・ハンセンをもじってると俺は踏んでる。

前作ではオファーを蹴ったヴァン・ダムが、今回満を持して悪役として登場。
役名がヴィラン(悪党)ってそのままじゃないか。
サングラスかけて凄みを感じさせるが、最後の見せ場でそのサングラスを外すと、なんか目が変になってる。
スタローンも同じなんだが、アクション映画に出続けた頃に、筋肉増強剤をかなり服用してたんだろう。
その副作用めいたものが、顔の妙なゆがみに現れてる気がする。

スタローン対ヴァン・ダムの「ゆがみ顔対決」も見ものだが、格闘の切れのよさでは、ジェイソン・ステイサムと、敵の腹心スコット・アドキンスのマーシャルアーツ対決の方が見応えはある。

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だが俺にとっては、この映画はチャック・ノリスに尽きる。
もうここからはチャック・ノリスの事しか書かないが、実は途中まで彼は出てこない。
俺も見ながら「あと誰か出てくるはずだよなあ」
などとボンヤリ考えてたら、敵に囲まれた「消耗品軍団」のピンチを一人で解決した男が現れた。
なぜか『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲に乗って、歩いてくるのがチャック・ノリスだ。

俺はこの場面で、二人しかいない劇場内で、ケラケラ笑い出してしまった。
別にギャグの場面でもないし、俺は「こういうのわかってるんだぜ」というような、笑いのアピールをするのは好かない。
時々映画見てるといるんだよ、そういう手合いが。
笑おうと思って笑ったんじゃなく、自然に笑いが止まらなくなってしまったのだ。
スタローンが「ブルース・リーと拳を交えた男」に、最大の敬意を払ってることに嬉しくなったのかも。

チャック・ノリス演じるブッカーは、傭兵の業界では「ローンウルフ(一匹狼)」と呼ばれてるのだ。
ローンウルフという呼称と、マカロニウェスタンの音楽となれば、これは
1983年のチャック・ノリス主演作『テキサスSWAT』へのオマージュだとわかる。

原題は『ローンウルフ・マッコード』といい、現代版マカロニウェスタンを目指したような作りの活劇で、フランチェスコ・デマージによる音楽は、モロにマカロニテイストでカッコよかった。

あの映画の仇役はデヴィッド・キャラダインだった。
テレビドラマ『燃えよ!カンフー』で一躍名を上げたキャラダインと、ブルース・リーとの対決で名を上げたノリスが、最後に野っぱらで、カンフーで雌雄を決する様は、
『ドラゴンへの道』の記憶を喚起させたもんだ。

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俺は自分の人生の持ち時間を、人に比べてチャック・ノリスの映画に結構費やしてきてる方だ。
1977年の『暗黒殺人指令』から、1993年のTVムービー『テキサス・レンジャー』あたりまで、ほとんど見てきてる。
キャリアとしての最盛期は、この『テキサスSWAT』から、『地獄のヒーロー』『野獣捜査線』『デルタフォース』『地獄のコマンド』の5連発だろう。

『地獄のコマンド』なんて、原題は「合衆国侵略」と大きく出てるわりには、フロリダの先っぽの方で小競り合いしてるレベルの話だったが、キャノン・プロ製作だから、見せ場もエグくて楽しめた。

なによりこの時期の「チャック・ノリス映画」はテーマ曲がみんないいのだ。
『野獣捜査線』はラロ・シフリン風にクールだし、アラン・シルベストリによる『デルタフォース』のテーマは、一時期「プロ野球ニュース」の試合ダイジェストで必ず流れてた。

『エクスペンダブルズ2』のチャック・ノリス参上で、こんなにテンション上がるのは、彼の映画に付き合ってきた者だけに表れる症状なのだ。

2012年11月2日
  
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『アイアン・スカイ』に足りない現場感 [映画ア行]

『アイアン・スカイ』

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ナチスドイツの残党が南米に逃れ、そこで秘密基地を作り、空飛ぶ円盤を製造してるなんてことは、「ムー世代」の人間ならよく耳にしたことだが、この映画では、ナチスは月の裏側に「第三帝国」を築き、70年もの間、地球侵略の機会を虎視眈々と覗ってたということになってる。

月面には巨大な「鍵十字」型の要塞都市が建設されており、月面探査にやってきたアメリカの宇宙飛行士を捕える。
宇宙飛行士が黒人と知り、月面のアーリア人たちはショックを受けるが、黒人が持ってたスマホにも驚愕する。
この機械の演算能力があれば、「神々の黄昏号」が完成でき、地球侵略のメドがたつ。
スマホの大量調達のため、将校クラウスと、そのフィアンセで地球学者のレナーテが、地球潜入のミッションに赴く。


ニューヨークに降り立ったクラウスは、政府の広報官ヴィヴィアンを誘拐。
大統領に合わせるよう迫る。
支持率が低迷し、再選に向けて、決め手を欠くヴィヴィアンは、ある思惑を抱いて、クラウスとレナーテをホワイトハウスに。

女性大統領は、ナチスの宣伝戦略や、理想主義を鼓舞するそのスタイルが、選挙キャンペーンに効を奏すると感じ、二人をパブリシストに雇う。
実は野心家のクラウスは、アメリカと同盟を結んで、ゆくゆくは月の総統の座を得ようと企んでいた。


だが裏切りを察知した、月面ナチスの総統コーツフライシュは、ただちに建造した宇宙船で、地球攻撃を開始。
国連の会議は紛糾した。あの飛行体はどこの国が製造したのか?

どの国の代表も首を横に振る中で、北朝鮮の代表が
「あれは我が国のものだ」
と発言。一同から「ププッ」と笑われるのみだった。

もし宇宙からの侵略だとすれば、そんなの想定してないぞ。
だがアメリカ大統領は高らかに言い放った。

「我々に任せなさい。宇宙戦艦作ってあるから」
宇宙の軍事利用をあっさり認めて悪びれる様子もない。
そして宇宙戦艦「ジョージ・W・ブッシュ」は、ナチスの艦隊と一戦交えるべく出撃した。


フィンランド人のティモ・ヴオレンソラ監督は、ナチスドイツもアメリカも同じようにコケにしていて、その心意気は買える。

アメリカが2018年に、なんでいきなり月面探査船を打ち上げたりしたのか、その理由も皮肉に富んでおり、ある意味ナチスドイツより悪辣な「アメリカ帝国」という図が描かれてる。
VFXも緻密に表現されてて、安っぽさはない。

だがなんだろうな、見ていて気持ちが浮き立つようなことがない。
作り手が風刺のこもった脚本を「ドヤ顔」で開陳してるんだが、その部分に留まってしまってる。
どこか映画が「閉じてる」感じがしてしまう。

これに似た印象を受けたのが、2004年の『スカイ・キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』だった。
ミシガン在住の映像オタクだったケリー・コンランが、自宅のパソコンで4年かけて作った短編が、ハリウッドに認められ、その短編SFの世界観をスケールアップさせた映画だ。

1939年のニューヨークをすべてCGで再現し、そこに空からロボットが襲撃してくるという、レトロフューチャーなイメージは目に新しく、ジュード・ロウほか俳優以外は、すべてCGで描かれているというのも斬新ではあった。

だがストーリーには面白みがなく、斬新と思えた画面にも飽きてくる。
映画が弾んでこないのだ。

この『アイアン・スカイ』にも通じることだが、監督が構想を形にすることに腐心していて、頭でっかちに感じられてしまう。
青島刑事のセリフを流用すれば
「映画は机の上で出来るんじゃない、現場で出来るんだ!」
と言いたくなるような、「現場感」が足りないんだと思う。


物語に入り込めない理由のひとつは、登場人物の誰にフォーカスしてるのか、それが曖昧なところだ。
ナチスに心酔しながら、地球にやってきてその現実に愕然となる、美貌の地球学者レナーテが一応ヒロインということだろう。

演じるユリア・ディーツェは色っぽいとは思うが、周りにアクの強いキャラが居並ぶので、意外に目立たない。
ナチスの博士によって白人化させられてしまう、黒人宇宙飛行士だとか、まんまサラ・ペイリンという、合衆国の女性大統領とか。
ウド・キアが、ヒトラー亡きあと総統の座についたコーツフライシュを演じてたりするんで。
滑稽な人たちを眺めてるだけという、引き気味の視線で見ることになってしまう。


例えば俺は『ギャラクシー・クエスト』が大好きだが、あの筋立てはこうだ。

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昔『宇宙大作戦』みたいなSFドラマに出演してたキャストたちが、ファンの集いに出席したら、その場に本物の宇宙人たちがやってきた。
彼らの星では、そのSFドラマが放映されており、「嘘」という概念を持たない宇宙人たちは、キャストの面々を本物のヒーローと思い込んでる。

「ぜひ侵略されそうな我らの星を救ってほしい」
なにかの冗談かと軽く流してると、いきなりその星にワープさせられる。

彼らの目の前には、番組ではミニチュアでしか見たことがなかった、エンタープライズ号みたいな宇宙船の実物が。
宇宙人たちは、ヒーローたちのために、宇宙船まで用意してたのだ。
この場面で、宇宙船を呆然と眺める、船長役のティム・アレンの表情を見るたび、泣けてくるのだ。


或いは『第9地区』で、ヨハネスブルグに飛来した宇宙難民の「エビ星人」に隔離政策を施そうとする政府側の役人だった男が、謎の液体を浴びて、徐々に「エビ星人」化していく。

二つのアイデンティティに引き裂かれるような状況下で、男はエビ星人の親子を守るため、モビルスーツに乗り込んで、人間と闘う決断を下す場面。
ここも盛り上がるんだよなあ。

『ギャラクエ』にしろ『第9地区』にしろ、ひと捻りしたストーリーに留まらず、見る側の感情がバァーッと高まるような場面が用意されてる。
この『アイアン・スカイ』にはそれが欠けてるのだと思う。

2012年10月5日

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スター男優たちをボコりまくるジーナ・カラーノ [映画ア行]

『エージェント・マロリー』

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TOHOシネマズで見たが、入り口でチケット渡したら、「マロニーちゃん」のタイアップ販促物「エージェント・マロニー」100gをもらった。ちゃんと袋に映画のスチルがプリントされてる。
失礼ながらあまりヒットしてる形跡もないので、この販促物はコレクターズ・アイテムになるかも。ならないかも。

女殺し屋の映画としては、ちょっと先行して『コロンビアーナ』が公開されてたから、「またかよ」的な印象も否めない。
だがこちらの主役はプロの格闘家ジーナ・カラーノだ。
といっても俺は知らなかったが、とにかく最近のアクション映画にありがちな、アクロバティックな格闘演出を避けて、彼女の格闘家としてのスキルを見せようという演出になってる。
女性でありながら、パンチや蹴りが重そうで、関節技も熟知してるようだ。
体格も男に見劣りしない。


映画冒頭の田舎のダイナーで、チャニング・テイタムといきなり肉弾戦。
その描写から、ジーナ・カラーノの肉体の強さを見せつけられる。
だがリアリズムで行こうというわりには、淹れたてのコーヒーを顔に浴びせられるマロリーが、戦いが終わったあとも平然としてられるのは解せない。
顔は火傷に近い状態になってるんだから、冷やすなりの応急処置を施さなければ、車の運転などできないだろう。熱湯に強い皮膚なんて鍛え方はできないはずだ。

そのダイナーに居合わせた地元の青年スコットを店から連れ出し、彼の車を(強制的に)借りるマロリー。
「買ってまだ2週間なのに」と不安一杯のスコットを助手席に乗せ、マロリーは店での格闘に至る経緯を話し始める。そういう構成になってる。


マロリーは危険な仕事を請け負う、フリーランスの女性秘密工作員だ。
仕事はユアン・マクレガーが演じる、民間軍事企業のオーナー、ケネスから発注される。
トラブルの元となったのは、バルセロナでのミッションだった。

監禁されてる中国人ジャーナリストの奪還を依頼され、チャニング・テイタム演じるアーロン他2名と動いた。
奪還は成功し、その身柄はケネスに仕事を依頼したスペインの政府関係者ロドリコに引き渡した。
アントニオ・バンデラス演じるロドリコは、マイケル・ダグラス演じる、アメリカ政府の高官コブレンツと繋がっていた。

ミッションを成功させ、サンディエゴの自宅に戻ったマロリーを、ケネスが訪ねてきた。
英国諜報機関「MI-6」から依頼された仕事があるという。
マロリーとケネスはかつては恋人同士だったが、マロリーはもう仕事上の関係も清算しようと思っていた。
だが「バカンスみたいなもんだから」と懇願され、しぶしぶダブリンへと飛んだ。

目印となるブローチをつけたマロリーは、現地で諜報員のポールと接触。
マイケル・ファスヴェンダー演じるポールと、新婚夫婦を装い、フランス人実業家スチューダーの動向を探るというもの。
だがこれはマロリーを罠にかけ、殺人の濡れ衣を着させるための筋立てだった。


映画の中で女優は彼女ひとりで、その周りを名のある男優たちが固める。
その中でジーナ・カラーノと格闘に及ぶのは、チャニング・テイタム、マイケル・ファスヴェンダー、ユアン・マクレガーの3人だ。
チャニングは肉体派だからいいとして、他の二人は優男だろう。
まあファスヴェンダーはフルボッコが似合うマゾ体質なんで、
「今度もやってくれたなあ」と思いながら見てたけど。
ユアン・マクレガーなんか弱っちくて可哀相になってくる。

やっぱり相手にも一人くらいはプロを出しちゃどうだったのか。
これだと「ハリウッドスターたちが、美貌の女格闘家にボコられたい」
って願望を実現させたような、一種のSMプレイみたいに見えてしまうが。

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ストーリーラインとしては、ありがちだし、目を見張るほどのアクション場面があるわけじゃない。
だけど退屈はしない。
ハラハラするというより、心地よく見てられるのだ。

それは監督スティーヴン・ソダーバーグならではの手つきに拠るもの。
彼は今回も例によって別名義で撮影監督も兼ねており、体温の低そうな画面の質感と、デヴィッド・ホームズの、ジャズやラウンジミュージックの要素を巧みに取り入れたスコアが、「乗り心地のよさ」を体感させてくれる。

近年のアクション映画はどれも似た印象を受けてしまうんだが、それは手振れバリバリのカメラとか、スタントとCGの組み合わせ具合とか、そういった演出上のトレンドという以外に、コンポーザーの音楽表現が、似たりよったりのものばかりだという事も大きい。

対して『アウト・オブ・サイト』以降、度々ソダーバーグの映画を手がけてるデヴィッド・ホームズの音は、例えばマイケル・ケインの『狙撃者』の、ロイ・バットのスコアとか、ラロ・シフリンがつけた数々のアクション映画のスコアを彷彿とさせる。
ちょっと古風で渋いのだ。

マロリーが警察の狙撃隊に追われて、ダブリンの町を逃げ回るシークェンスは、描写としては尺を取りすぎてる気もするんだが、デヴィッド・ホームズの変化に富んだ、軽快なスコアを聞けるんだから、しばらく逃げててくれていいよ、と思いながら見てたのだ。


ジーナ・カラーノは、格闘家という体つきはしてるが、「ゴツい」という印象はさほどなく、若い頃のレネ・ルッソみたいだ。
演技はどうこうというものではなく、ソダーバーグもそこは期待してないだろう。

『ガールフレンド・エクスペリメンツ』の時も主演にポルノ女優を起用していて、やはり感情の起伏を表に出さないようなキャラクター設定にしてた。
今回もジーナ・カラーノには、とにかく動いていてくれれば絵になるという、そういう演出で臨んでる。

彼女はこの後、『ワイルド・スピード』のシリーズ第6弾への出演と、
女性版『エクスペンダブルズ』への出演が内定してるようだ。
他に暴れる女性キャラが居る中で、どの程度目立てるのか、真価が問われるのはその時だろう。

2012年10月4日

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クリスチーナ・リンドバーグの映画にステランが [映画ア行]

『異常性欲アニタ』

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この映画は1973年のスウェーデン映画で、アット・エンタティンメントから発売されたDVDのタイトルは『クリスチーナ・リンドバーグinアニタ』だが、1976年にポルノ映画として日本公開された時の題名が『異常性欲アニタ』なのだ。

クリスチーナ・リンドバーグは、1971年に21才で主演した『露出』が日本公開され、ロリ顔のポルノ女優として一躍人気を博した。
東映に招かれ『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』と『ポルノの女王 ニッポンSEX旅行』に出てる。

ステラン・スカルスガルドは、この『異常性欲アニタ』の準主役として、22才の時に出演してる。
クリスチーナより1つ年下だ。

映画の中身自体は、クリスチーナはポンポン脱いではいるが、ヘアが見えるという程度で、SEX描写もおとなしいもの。だがこれでも当時は「ポルノ映画」として製作されてたのだろう。

ステランは「ニンフォマニア」のクリスチーナの力になろうとする、心理学専攻の学生を演じてる。
整った顔をしてはいるが、なんというか、のっぺりした感じで個性に欠ける。

彼が役者として注目浴び始めるのは、日本では「北欧映画祭」でのみ上映された、1987年の『ヒップ・ヒップ・フラ!(原題)』あたりからで、30代後半になって、表情に陰影が帯びるようになり、「いい顔」になってきたということだろう。

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クリスチーナ・リンドバーグ演じるアニタは、16才なんだが、とにかく男としたいという欲求が抑えられない。
彼女が住んでるのは、スウェーデン第2の都市イェーテボリで、この町は昨年のTIFFのコンペ出品作
『プレイ』でも舞台になってたが、空港やら駅やらで男に声をかけては、コトに及んでるのだ。

アニタはただ「やりたい」だけなので、金を受け取るわけでもない。
なので「本職」の女たちからは目の仇にされてる。

男なら年齢も職業も問わない、どうやら自分が通ってる高校の教師の相手もしてるという、そういう意味では偏見を持たない「いい娘」ではあるんだが、毎日そんなことしてるんで、とっくに町の有名人になってる。
場所がないと、工事現場のテントの中でも済ますというのが凄い。

アニタの父親は出世欲バリバリの軍人で、母親は常に厚化粧。
妹はアニタに言わせると
「親の機嫌取りのうまい、偽善者」
だが裕福な家庭でなぜ彼女だけがそんなことになってしまったのか?

父親はアニタに「お前は家族の恥だ」
と言い放っておきながら、軍の高官たちを招いたホームパーティでは、娘たちにドレスを着させて、歌を唄わせる。
妹は引っ込み、アニタが「歌の次は踊りを」と言って、高官たちの前でストリップを始める。
もちろん高官大満足だ。
娘にそんなことさせといて、家族の恥とか、もう無茶苦茶でござりますがな。


ステラン演じるエリックは、偶然町でアニタとぶつかって怪我をさせたことで、治療のため、アパートに招く。そのアパートは、彼がリーダー役となってる、学生たちの楽団が共同生活を送ってる。
アニタはエリックの部屋でさっそく迫るが、エリックは断る。
行為を拒んだ男は初めてだったので、アニタはエリックを信頼するようになる。

心理学を専攻してたエリックは、彼女の身の上話を聞きながら、アニタが
「ニンフォマニア」(色情症)という病気であると判断する。
アニタは男とやりたくはなるが、性的満足は得られない。した後はいつも自己嫌悪に沈む。
エリックは彼女に
「オーガズムを感じたことは?」
と尋ねるが、アニタは首を振る。

アニタの欲求の根本には、両親からの精神的虐待がある。
頭のいい妹が贔屓され、自分は疎まれてる。
アニタが男と寝て回ってることが表沙汰になるほどに、両親は不快になり、そのことがアニタの溜飲を下げさせることになる。
だが同時に「達しない」SEXでは自己嫌悪を繰り返すばかりで、負のスパイラルからは脱け出せない。

エリックはアニタに課題を科した。
「まずは方法は問わないから、オーガズムを体験することだ」


ってそんなんでいいのか?ステランと思うんだが、アニタは素直な子だから、言われた通りにするわけです。
相手が一人だったから駄目だったのかもと、怪しいアパートに潜んでるイタリア人やらスペイン人やら、そういった男たちの前で裸になって、試してみたり。
だが翌日、警察の手入れが入り、男たちが連行されると、参考人として検事のオフィスに連行され。

「私はたまたま行っただけなのに」
と検事の秘書みたいな女性に慰めてもらう内に、
「そういえば女と試してなかった」ということになり。
レズシーンといっても裸になるだけだったが。

そうこうしてる内に「ストリップ劇場」で踊ってるアニタ。
学生たちの共同生活のアパートでも、男子学生と片っ端から及んでしまったため、女子学生の怒りを買い、それがもとで、アパートを出て行ってしまったアニタ。
エリックはいつしか彼女を愛し始めていて、彼女を探し回り、ようやくストリップ劇場の楽屋で再会するのだった。

「ニンフォマニア」という病気は、マイケル・ダグラスも発症してたくらいで、本人としちゃ、その辛さがわかってもらいづらい、しんどさがあるようだ。
この映画はそのあたりを「ネタ」としてでなく、シリアスに描こうという意図があり、「ポルノフィルム」というより「映画」として撮ってる感じはあった。

クリスチーナリンドバーグ.jpg

クリスチーナ・リンドバーグは演技がヘタというわけでもないが、今年集中して見た「日活ロマンポルノ」で出会った日本の女優たちが、いかに海外のポルノ女優に比べて、肌がきれいで、演技もできてたかというのが、逆にわかったりもした。

アット・エンタティンメントのDVDを見たんだが、フィルムが悪いね。
この手の映画にニュープリントなんてコストかけてられんということなんだろ。
ニュープリントならクリスチーナの肌ももう少し奇麗に映ったのかも。

この映画で一番の見せ場は、クリスチーナが男の前で、パンティを両手でグッと引き上げて「パチン」と引き千切っちゃう所。
あんなんで切れちゃうもんかな。なんか「仕事師」みたいでカッコよかったが。

2012年9月26日

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秘宝別冊とスーザン・ジョージ [映画ア行]

『おませなツインキー』

本屋に行ったら、なかなか面白いビジュアル本が出てるじゃないか。
「映画秘宝ex 思春期映画女優グラフィティ」という、70年代~80年代の洋画を飾った女優たちを網羅してる。だがその中にはメリル・ストリープとかグレン・クローズの名前はない。
つまりはそういう観点でセレクションされた女優図鑑なのだ。
どういう観点だかは察してほしい。ほとんどR45仕様ではあるが。

おませなツインキー雑誌.jpg

表紙を一番デカく飾ってるのが、ナスターシャ・キンスキーなので、これは俺に買えと無言のプレッシャーを与えてるようなもんである。

ちなみに裏表紙には『サンバーン』のファラ・フォーセットが。
サラフィアン監督とは思えないユルさの映画だったが、彼女の胸下までジッパーおろしたウェットスーツ姿の破壊力は、『死亡遊戯』の黄色いトラックスーツのブルース・リーに匹敵すると、当時クラスの男子の議論を沸騰させたのだ。

買ってひと通り眺めてみたが、おそろしいことに、この本に出てくるすべての女優の、ほとんどの映画を俺は見てるのだった。

スチルだけでなく、読み物も楽しい。
大槻ケンヂが、社会現象となってた『エマニエル夫人』に触れて、
小学校の同級生が「お前はエマニエルだ!」とアダ名されるイジメに合い、クラス会で
「●●君をエマニエルと呼ぶのはやめましょう」
と提案があったとか爆笑したわ。

みうらじゅんのインタビューでも、文系の自分らは『アメリカン・グラフィティ』見ても、どう考えてもチャーリー(・マーティン・スミス)の役でしかない。
とか本質を突いた語録に溢れており、これを読めるだけでも買った甲斐はあるってもんだ。

そんな楽しい本にも登場するのがスーザン・ジョージだ。
この『おませなツインキー』は彼女が19才の時に、16才の女子高生を演じた、1969年作。
日本では1972年に公開されてる。

おませなツィンキー.jpg

ロンドンのパブリック・スクールに通うツインキーは、毎朝ブレザーにミニのスカート、白のハイソで自転車通学。
家は裕福で、厳格な父親は朝食のテーブルで、ツインキーが官能小説を読み耽ってるのを見つけて叱りつける。しかも母親からは「あなたの日記読んだわよ」と言われピンチ。

なぜピンチかというと、ツインキーには恋人がいたのだ。
それも彼女が読んでた官能小説を書いた作家で、38才のアメリカ人スコットだった。

親子ほども歳の離れた二人が、どこでどう出会ったのか、ツインキーは登校前に、スコットのアパートに立ち寄り、まだ寝てる彼のために朝食を作る。
出来たものは黒こげになってるが。
歳は離れてたが、ツインキーは純粋にスコットのことを愛していた。
だが二人が恋人同士と明るみに出ると、イギリスの法律では「法廷強姦罪」が適応される可能性がある。有罪になれば7年の禁固刑だ。

ツインキーは「じゃあ、結婚して夫婦になればいいのよ!」
一応16才で結婚はできるが、二人の関係上、イギリスで認められるかわからない。

そんなスコットの元に、警察官がやってきた。
スコットのイギリス滞在ビザが明日で切れると言う。
更新手続きを踏まなかったのは迂闊だった。
この二つの問題を解決させる妙案があった。
スコットランドに行けば、すぐに結婚手続きが交わせるというのだ。
スコットとツインキーは、その日のうちにグラスゴーへと向かい、二人は晴れて夫婦となった。

ツインキーから事後報告を受けた両親はびっくり。すぐにスコットを家に呼び、審問が開かれた。
父親は「長続きするはずない」と結婚を認めない構えだが、母親はスコットの男前ぶりに満更でもないようだ。
いずれにせよ、結婚してしまったもんはしょーがない。
両親はその新婚生活を見守るしかなかった。


38才の作家が、16才のイギリス少女と結婚したというニュースは、大衆紙の格好の記事になった。
同級生が人妻になったと、学校でも大騒ぎ。

ツインキーは同級生の女の子たちを、スコットの家に招いてパーティを催した。
家に戻ったスコットは、たくさんの女子高生たちの視線に晒された。
だが仲睦まじく寄り添うツインキーを見て、同級生たちは一様に、裸の二人を想像してしまい、場は微妙な沈黙に支配される。
ツインキーの夫に会いたいとやってきた同級生たちは、そそくさと部屋を出て行った。

ツインキーの家族のことやら、なんやらと干渉に晒されるのを逃れるため、スコットはニューヨークに彼女を連れて戻ることにした。

ケネディ空港にはスコットの両親と、スコットのエージェントが出迎えた。
「イミグレーション」から出てきたツインキーを見て
「息子はロリコンだったのか」と親は絶句する。

ツインキーは本気で息子を愛してるようなので、スコットの両親もすぐに彼女を受け入れた。
エージェントは、スコットが一向に新作の執筆に入ってないことに焦っていた。
「小説が今すぐ無理ならCMの台本を頼む」と仕事を依頼した。


数日間はスコットの両親の家に同居したが、スコットの父親が、二人の寝室を覗ったりするんで、やはりアパートを探そうということに。
ニューヨークはデモの季節だった。
ツインキーにはその光景が物珍しく、スコットが目を離した隙に、いつの間にか、デモに加わって、プラカード持って歩いてる。
スコットはツインキーを連れ戻そうと、警官と揉み合いになり、つい殴ってしまう。
現行犯逮捕され、下されたのは30日間の拘留。

ツインキーはスコットが釈放されるまで、自分でアパートを探す決意をする。
彼女が見つけたのは、ハドソン河に架かる橋の傍にある、見晴らしのいい部屋だった。

可愛い女の子の独り住まいと思った大家は、快く契約を交わすが、後で人妻と知りがっくり。
ツインキーはアパートに暮らし始めると、すぐに仲良くなった人たちを呼んではパーティ三昧だった。

ようやく釈放されたスコットは、ツインキーと待望の新婚生活へ。
だが執筆活動に専念したいスコットと、常にかまってほしい若いツインキーの関係は、しだいにぎくしゃくしたものになっていく。


映画としては小品というイメージだったので、ロンドンとニューヨーク、二つの大都市でロケーションしてるスケールの大きさは意外だった。
ハイドパークとテムズ川を臨むロンドンの風景と、セントラル・パークとハドソン河のニューヨークが、対になってるように描かれてる。

他愛ないロマコメではあるが、設定が他愛ないどころか、今じゃアウトな内容なのだから、時代は進んでるのか戻ってるのか。
二人が裸で抱き合うような場面は一切ないが。

60年代後半のミニブームそのままに、スーザン・ジョージは終始ミニスカで、とにかく可愛い。
彼女はこの映画の後は、集団暴行される人妻役が衝撃を与えた『わらの犬』とか、
ピーター・フォンダと逃げる『ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー』で、思春期部分を直撃する女優となる。
庶民的な親しみ易さがあり「外人さんだけど、お願いすればなんとかなるんじゃないか?」という、都合のいい妄想に耽らせてくれた。
風吹ジュンがデビューした当時、スーザン・ジョージとカブるエロ気を感じたもんだ。


そんな彼女が惚れるのがチャールズ・ブロンソンというのが、「なぜ?」って感じなのだが。
父親が早くに亡くなって、以来ファザコンでというような設定ならわかるんだが、家には口うるさい父親がいるのに、なんでまたそんな年上と、と思わざるを得ない。

口ヒゲのないブロンソンも、エロ小説家という設定が、合ってるんだか、合わないんだか、微妙だけど、贅肉のないシルエットはカッコいいね。

前にこのブログでコメント入れた、オリヴィア・ハッセーの『青い騒音』というイギリス映画も、中年の妻子持ちとの恋愛を描いてたが、その時の男優もイケメンというより、ジミシブな感じの見た目だった。イギリスの女性の独特な好みがキャスティングに反映されてるのか。

監督はリチャード・ドナーで、この人は当時はテレビドラマとか、こういう小ぶりな映画を手がけてたのが、1976年の『オーメン』の大ヒットで確変起こして、以降は大作監督として名を成していく。
「ツイ~ンキ~♪」っていう軽快なテーマソングもいい。

ジェットリンクから出てるDVDは、フランス公開版を原版にしてるようで、タイトルはフランス語だった。画質はいいとは言えない。
なぜか後半のニューヨークの場面になると、画質がマシになってく印象があった。
錯覚かもしれんが。

2012年9月15日

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綾瀬はるかのリアル「キッザニア」映画 [映画ア行]

『映画 ひみつのアッコちゃん』

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豊洲のららぽーとの3Fにある「ユナイテッドシネマズ豊洲」は、よく利用するシネコンの一つなんだが、その同じフロアに、週末には親子連れの長い行列ができてる。

その行列の先にあるのが「キッザニア東京」という施設だ。
子供たちが、自分がなりたい職業をシミュレーション体験できるというコンセプトで、けっこうな種類の職業から選ぶことができる。
インストラクターがその仕事の手順とか、道具の使い方を補佐してくれるので、初めてでも戸惑うことがなく、リピーターも多いという。
こういうのがガキの頃にあったら、俺も行ってみたいと思っただろうな。

綾瀬はるかが、心は10才で外見は22才というヒロイン、「アッコ」こと加賀美あつ子を演じる、
『映画 ひみつのアッコちゃん』は、まさに子供の目から会社を見たらどんな風に映るのか、大人たちはどんな風に仕事をしてるのか?という「キッザニア・コンセプト」そのままの物語が展開されてく。

トム・ハンクスの『ビッグ』を下敷きにしたような内容だが、もっと近いのが、2004年の日本未公開作『13 ラブ 30 サーティン・ラブ・サーティ』だ。
ジェニファー・ガーナー演じるヒロインは、13才の誕生日の日に、好きな男の子のマットと喧嘩してしまう。
クローゼットに閉じこもって「早く30才の大人になりたい」と念じたら、翌朝には本当になってたという話。30才の自分はファッション誌のキャリアウーマンになってたが、心は13才のままなのだ。


綾瀬はるかの主演作は見たり見なかったりで、前作『ホタルノヒカリ』は、テレビドラマを見てないのでスルーしたが、『プリンセス・トヨトミ』や『おっぱいバレー』は見てる。

綾瀬はるかが演じてきた役柄は、かなり振り幅が広いというか、他の女優と比べてもユニークではある。
サイボーグだったり、女座頭市だったり、スッチーだったり、干物女だったり。
だがこれだけいろんな役を演じ分けてきてるわりには、「カメレオン女優」という風に呼ばれることもないし、演技的な評価をあまり受けることがない。

これは彼女がデニーロのような「メソッド演技」のアプローチで、その人物や役柄になり切ろうとする、そういう方向を目指してないからかもしれない。

自分の中で役のリアリティを追求するんじゃなく、例えて言うと
「コーチのいうことには全力で従います!」
的な、体育会系の演技に感じるのだ。
役者としての妙な野心とかがなく、一所懸命演じるだけという、そこに清々しさがあり、俺は彼女の演じたどの映画を見ても、気分悪く見終えたことはない。

この『映画 ひみつのアッコちゃん』においても、終始一貫、10才の子供口調と、子供の仕草で押し通しており、同世代の女優たちも
「あそこまではできないかも」と思うかもしれない。
なので、綾瀬はるかの「天然ブリキャラ」が苦手という人はきついかもな。


映画の冒頭は、子役の吉田里琴が演じる10才のアッコが、今はいない父親から貰った手鏡を割ってしまい、悲嘆にくれてる。
庭に埋めて「鏡のおはか」を作って供養する。
するとその夜、アッコの前に黒ずくめにサングラスの、見るからに怪しい男が光とともに現れる。
よく見れば香川照之だ。
『るろうに剣心』にも『夢売るふたり』にも『鍵泥棒のメソッド』にも、もうどこを向いても出てるな。仕事しすぎ。

男は「鏡の精」で、アッコに魔法のコンパクトをプレゼントする。
「テクマクマヤコン、テクマクマヤコンと唱えて、なりたいものの名前を言えば何にでもなれる」
「もとに戻る呪文は、ラミパスラミパス、ルルルルルだよ」
「でもこの秘密を人に知られたら、もう魔法は効かなくなる」

半信半疑で部屋に戻り、呪文を唱えると、たちまち22才の自分になった。
「胸大きい!」

冬休みに入り、アッコは親友のモコちゃんたちと遊園地に出かける。
アッコはつまづいてコンパクトが転がってしまうが、それを拾ってくれたのが、早瀬尚人という青年だった。
二人は観覧車の順番待ちで、再び顔を合わせた。
小さな観覧車に、一緒に乗ることになったアッコと尚人。
いや見知らぬ青年と小学生の女の子が、一緒には乗らんだろう観覧車と思うが。

尚人は夕焼けの町を眺めながらアッコに
「平日なのに遊園地に来てるのかい?」
「だって今は冬休みだもん」
「そうか、子供はいいな気楽で」
尚人の言葉にちょっとふくれるアッコ。
「ほら、きれいだよ」
「えっわたし?」
でも尚人はアッコの背後に見える夕焼け空を指差してた。

見ようによっては際どいシチュエーションだが、尚人を演じる岡田将生が、爽やかキャラなので、妙な空気にはなってない。
「1日の終わりに、ここに来て空を見るのが日課なんだ」
尚人はそう言った。


翌日コンパクトの魔法で、22才の自分に変身したアッコは、デパートの化粧品売り場で、メイクを受けていた。
そこに通りかかったのが尚人だった。
彼は化粧品会社「株式会社赤塚」の社員だったのだ。
思わず声をかけてしまうが、尚人にわかる筈はない。

逆に化粧品の感想を尋ねられた。アッコは率直に子供の目から見た印象をぶつけた。
尚人はアッコの感性を面白がり、そのまま会社に連れて行くことに。

アッコは名刺の漢字をよく読めなかったが、「企画開発室・室長待遇」と書かれていた。
そのまま専務たちが取り仕切る社内会議の場に。

尚人と専務たちとの間には、険悪なムードが漂っていた。
アッコには知る由もなかったが、「赤塚」の社内は揺れていた。
業績の伸びない会社を、専務はある企業に買収してもらう話を進めていたのだ。

専務は前社長を追い落とした張本人で、その社長を慕ってヒット商品を生んできた尚人は、社内の派閥争いに破れ、今や企画室は、商品を企画しても、ことごとく専務に握り潰される「閑職」と化していた。

「過去のブランドイメージにあぐらをかいて、このまま新商品も開発できなければ、会社は潰れます」
社内会議で尚人は訴えるが、それこそ専務の望む展開だった。
会社の株価が下がれば、黒い噂のある買収先の「ゴールド興業」からの出資も承認され易くなると踏んでるからだ。

尚人は「赤塚」という会社に勤めてることに誇りを持っていた。
なのでなんとかヒット商品を開発して、買収話を白紙に戻させようと思っていた。
アッコを冬休みの間、バイトとして雇い、化粧品のアイデアを出してもらおうと期待したのだ。

だが中身が10才のアッコには、会社で交わされる会話はチンプンカンプンで、まわりの社員にも変な目で見られてる。
それでも母親には塾に行くと言って、毎日会社に出社するアッコは、次第に大人の世界のいろんなことがわかってくるのだった。


ラブコメ乗りのファンタジーかと思ってたら、企業ドラマな展開になっていくのは意外だった。
「アッコちゃん」を見に来た子供は、それこそチンプンカンプンだろうな。
この脚本は思い切ったもんだ。

アッコは冬休み中の、自由研究を発表する登校日に、会社で覚えたパソコンのスキルで、資料をコピペしてプリントアウトしたものを提出。
「大人はみんなこうしてるよ」
と同級生に自慢気にするが、担任の先生にはやんわりとたしなめられる。

「アッコは、自分が提出した内容を、この場で言えるかい?」
全然頭に入ってないアッコは、言葉を継げない。
「自分で苦労して調べたり、考えたりしたことが、自分の身につくんだよ」

コピペしたデータを貼り付けてパワポで仕上げたようなプレゼン資料をやりとりする、現実の大人社会の仕事のやり方を皮肉ってる場面だった。
会社内の紛争は、株主総会の紛糾でピークを迎える。


もちろんシリアスな描写だけでなく、アッコが魔法のコンパクトを使って、いろんな人間に変身して状況を変えようと奮闘するので、変身された役者も「子供口調」で演じることになる。

専務を演じる谷原章介も、開発室の女性社員を演じる吹石一恵も。
中でも前社長を演じる大杉漣の、子供演技全開っぷりは爆笑ものだ。

終盤に向かうに従いマンガな展開になってくが、エピローグも気持ちよくまとめてあり、
「大人とはどういう人のことを言うのだろう」
と、映画が描こうとしたテーマを、判り易く観客の心に届くように作られてる。

『映画 ひみつのアッコちゃん』という題名で、俺みたいな物好きはともかく、大人の男性客が関心持つとは期待できないと思うが、これは侮れない仕上がりなのだ。

2012年9月12日

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銀座シネパトスの見納め作になるのか [映画ア行]

『ウェイバックー脱出6500kmー』

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取り壊しが決まってる、銀座シネパトスでの単館公開ということで、見に行ってきた。
銀座シネパトスは、先日「ロンドン・オリンピック」のメダル選手たちのパレードが盛大に行われた、銀座の目抜き通りの、三越交差点を歌舞伎座方向に2分ほど歩くとある。

「三原橋」という名称になってて、元は晴海通りの横断地下道だった場所に、飲食店と映画館が作られた。
シネパトスより前の時代は「銀座地球座」という館名で、主に洋ピンをかけてたと記憶する。

ヒューマックスシネマの経営会社が母体となって、「銀座シネパトス」として、スクリーンを増やし、3館体勢で営業してきた。
当初は2館で、後から1館増やしたんではなかったか?

初めてここに行った人なら「ここ銀座だよね?」と確認したくなってしまうほどに、ハイソな銀座のイメージにはほど遠い「昭和」の風情が、しぶとく張り付いてる、そんな一角なのだ。

ここと同じく、浅草でも「六区」の大規模な再開発に伴い、「浅草中映」をはじめとする名画座の取り壊しが発表された。
映画館における「昭和」の残像は、もうほとんど感じる場所も無くなる。

「銀座シネパトス」はここでしか封切られないアクション、ホラー、ちょいエロ系の新作と共に、近年では「名画座」としての機能もはたし、古い日本映画の特集上映など、プログラムに工夫を凝らしてきた。
スティーヴン・セガール新作の常設館としても、名は通っている。

俺はそう頻繁に通ったわけではないが、通算すると20回くらいは見に来てると思う。
ただここで何を見たのか、そのタイトルがよく思い出せないのだ。

古い所では1990年の公開されたイタリア・ユーゴ合作のホラー『ザ・トレイン』はここで見た筈だ。
あとスティーヴン・ボールドウィンが主演した潜水艦もの『サブダウン』とか、『スターシップ・トゥルーパーズ2』とか、いやもっとマシなもんも見てたと思うんだが、なぜか思い出せない。

『クライモリ』はここだった気がする。あれは面白かったな。


そんなわけで『ウェイバックー脱出6500kmー』だが、監督ピーター・ウィアーと、この顔ぶれが並んで、シネパトス単館公開とはなぜに?

思えば記憶に残る「パトスショック」としては、
イーストウッド監督・主演の『トゥルー・クライム』がある。
それまでにもイーストウッド監督作で、ごく小規模な公開となる例はあった。
『センチメンタル・アドベンチャー』や『バード』『ホワイトハンター、ブラックハート』など。

だがそれらはいわば彼の「趣味的」な作品で、娯楽映画のフォーマットからは外れていたんで、見る側も公開規模に納得な感じはあったが、『トゥルー・クライム』はイーストウッド王道の犯罪サスペンスの装いだった。
ファンとしては、彼の封切りの「指定席」でもあったパンテオンや渋谷東急、あるいは丸の内ピカデリーといった「松竹・東急系」のロードショー公開と思っていた。

それが「銀座シネパトス」の単館封切りと決まり、
「もうイーストウッドを大きな劇場では見れないのか」と肩を落としたものだ。
まあ映画を見てみれば、あれだけ地味だったら仕方がないなとは思ったが。

銀座シネパトス.jpg

この『ウェイバックー脱出6500kmー』は、主演が『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のジム・スタージェス、『崖っぷちの男』のエド・ハリス、『トータル・リコール』が公開中のコリン・ファレル、『第九軍団のワシ』のマーク・ストロングと、いずれも今年すでに出演作が公開されてる男優陣に、紅一点として『ハンナ』の美少女シアーシャ・ローナンが加わるという、これだけの顔ぶれなのだ。
本来ならシネコンにかかっていい規模だと思う。
それがなぜシネコンにかからなかったのか、見ていく内にわかってきた。


1940年、シベリアの強制収容所を脱走し、インドを目指し6500キロを踏破した男たちの実話に基づいた、細部はフィクションのサバイバル劇だ。

丁度アラスカの大地をサバイバルする『THE GRAY 凍える太陽』も上映中だが、オオカミに襲われたり、危機また危機という展開のあちらと比べて、このシベリア脱出行は、そういうアクション的な見せ場はほとんどない。

オオカミも襲って来ないし、ブリザードに紛れて脱走したんで、足跡も消され、ロシアの警備兵たちもあっさり追跡を断念してしまうのだ。

強制収容所の所長は、新参者たちを集めて言う。
「脱走を試みた所で、この広大なシベリアの大地がお前たちの行く手を阻む」
「脱走者には賞金をかけてあるから、村人にも襲われる」

そう言うんだが、実際は村人に襲われることもない。
外敵からの脅威はなく、ひたすらに歩いて行くのみとなる。

脱走者が何に襲われるかといえば、それは飢えや渇きであり、歩いても歩いても先の見えない徒労感であり、つまりは心が折れそうになる己との戦いとなるのだ。

監督のピーター・ウィアーはそこに焦点を絞って描いていくから、映画の見てくれとしては、地味で淡々と感じられるかも知れない。
だがサバイバルというのは、こういうものかも知れないなとも思う。


物語の中心人物となるポーランド人ヤヌシュをジム・スタージェスが演じてる。
ヤヌシュはスターリン批判とスパイ容疑でシベリア送りとなった。
拷問された彼の妻は、ヤヌシュの前で彼の容疑を裏付ける証言をさせられた。
強制収容所の劣悪な労働環境で、命を落とす者も後を絶たない。
ヤヌシュは中でも死と隣り合わせの炭鉱労働に駆り出され、精神的にも限界だった。

マーク・ストロング演じるロシア人のカバロフは、脱走する気があるなら、方法はあるぞと、ヤヌシュの表情を覗う。
南に向かいバイカル湖に辿り着けば、湖沿いを歩いて、モンゴル国境に出るという。
一人で脱走は無理だ。ヤヌシュは、アメリカ人の地下鉄技術者スミスに声をかけた。

エド・ハリス演じるスミスから出たのは意外な言葉だった。
「カバロフを信用するな。あいつは脱走する気などない」
「脱走に希望を抱く若い人間の姿を見ることで、それを生きる糧にしてるにすぎない奴だ」

その言葉通り、仲間を数名募って、カバロフに決行の手順を尋ねるが、曖昧な返事しか帰って来ない。
だがヤヌシュはやると決めていた。

スミスは収容所内でのヤヌシュの行いを見てきた。
「お前が脱走するならついて行く」
「お前の弱点が役に立つからだ」
「僕の弱点?」
「お前は優しい。人を見殺しにはできない奴だ」

脱走の計画を練ってることを嗅ぎつけた、荒くれ者のロシア人ヴァルカが、ヤヌシュにナイフを突きつけ、俺も加えろと迫った。
コリン・ファレル演じるヴァルカは、犯罪集団上がりで、平気で人を刺すこともわかってたが、ヴァルカの手にするナイフは、サバイバルに役立つとヤヌシュは考えていた。

脱走するのはヤヌシュ、スミス、ヴァルカの他に、ポーランド人が2人とラトビア人、ユーゴ人の計7人となった。カバロフの姿はなかった。
後になり、ヴァルカが密告を怖れてカバロフを刺し殺したことを知った。


ブリザードを突いて脱走は敢行され、追っ手の警備兵や犬もなんとか振り切った。
ヤヌシュはヴァルカからナイフを借りると、木の皮を剥いで、即席の吹雪よけマスクを作った。
影ができる位置から、方角を指し示す。
ヤヌシュのサバイバル能力に感服したヴァルカは、彼をリーダーとして忠誠を誓うと言った。

バイカル湖を目指す過程で、すでに蓄えてきた食糧も底を尽きてきた。
オオカミが仕留めた獲物を横取りして、オオカミのように輪になってかぶり着いた。
栄養失調で夜盲症となったポーランド人の若者カジクは、焚き木を集める間に道に迷い、翌朝凍りついた死体で発見された。


6人となった一行はようやくバイカル湖に辿り着いた。だがその森で何者かが後を尾けてきた。
賞金を狙う村人かと身構えるが、そこには少女がひとり立っていた。

名をイリーナといい、集団農場から逃げ出してきたという。何も食べてないようだ。
スミスたちは「足手まといになる」と反対するが、ヤヌシュはイリーナの同行を許した。
イリーナを演じるのはもちろんシアーシャ・ローナンで、彼女もこの後、容赦ないサバイバルの道行きを余儀なくされるわけだ。

バイカル湖を抜けて、シペリア鉄道の線路を越えると、そこはモンゴルの国境だ。
だがモンゴルに入り、砂漠に立つ門に、スターリンの肖像画が描かれているのを見て、
「ここも安全ではない」と愕然とする。
その先へ行くしかないが、そこはゴビとタクラマカンという、絶望的に広大な砂漠が広がっているのだ。


サバイバルでお決まりの展開というなら、一人の女を巡って、人間性を剥ぎ取った男たちが争うといった描写が入るようなもんだが、この映画はそうはならない。

男たちは常に飢えと渇きと、精神的な消耗にさらされる。
その殺伐とした足取りの中で、少女の存在が心を和ませるものになっていく。
自分が生き残るという気持ちから、この少女を守ろうという気持ちへと、モチベーションが外に向うことで、活性化されるのだ。

イリーナも、道中で男たち一人一人と、取り留めもない会話を交わしていく。
男たちの間では交わされない、それぞれの家族のことや、いままでの人生のこと。
それがイリーナを媒介に、互いの理解を深めることに繋がっていく。

スミスは水も食料も尽き果て、進退きわまるような状態になっても、なお前へ進むことを諦めないヤヌシュに、なぜそこまでと尋ねる。

ヤヌシュは妻を恨んでなどなかった。
むしろ拷問を受け、夫をシベリア送りにしたことへの、妻の罪悪感がいかばかりか。
妻は家に戻され、平穏に暮らしてるだろう。
だが一生その罪の意識に苛まれる。
彼女を救うために、自分は彼女の元へ帰らなければならないのだと。


極限の状態に陥った時でも、人を人たらしめているものがあるとすれば、それは何か?
ピーター・ウィアー監督の映画にいつも感じる、ある種の折り目正しさというか、人間に備わった「モノ」に対する信頼の視線を、この映画にも感じることができる。

もちろんこのサバイバルは甘くはない。男の体力でもギリギリまで消耗する砂漠の横断に、イリーナの体力は持たない。
日射病で動けなくなったイリーナを男たちが見つめる。
この場面は悲しいが、同時に人間の精神の美しさが静かに描写され、胸がつまる。


このサバイバル劇と同じような実話が以前に映画化されている。
2001年のドイツ映画『9000マイルの約束』だ。

これは2004年に日本公開されてるが、こちらはやはりシベリアに抑留されたドイツ兵が、脱走して3年がかりで、祖国の土を踏んだという内容だった。
9000マイルといえば、1万4千キロ以上はあるんで、『ウェイバックー脱出6500kmー』より全然過酷ってことになってしまうが。
しかもイランのテヘランまで追跡の手が伸びてきたというし。

なので脱走サバイバル劇としては、後塵を拝する形にはなるが、役者の顔ぶれもいいし、刻々と移りゆくロケーションも見応えあって、やはり単館では勿体なくはないか?

2012年9月9日

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兄弟喧嘩は家でやれ、ソーとロキ [映画ア行]

『アベンジャーズ』

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今更ここで書くまでもないが、もしこれから見に行くという人がいれば、声を大にして言っとくが
「エンドロールの途中で席を立たないように!」

俺も今までいろんな映画で、エンドロール明けの「おまけショット」を見て来たが、こんな最高なのはなかった。もし『アベンジャーズ』をもう見たという人で、エンドロール途中で出てしまったとすれば、それは痛恨のミスである。

俺はアメコミ系のファンというわけじゃないが、こういう「チームもの」は好きなのだ。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は2回見に行った。
この映画も、巷では「前半がたるい」と言われてるが、俺はこの一人づつ、見栄を切って登場してくるって感じが『七人の侍』パターンでテンション上がるんで、むしろ前半から楽しめた。

ヒーローたちがなんだかんだ言いながら、結束して、地球侵略を目論む悪の軍団と、ニューヨークで一大バトルを繰り広げる、言ってみればそれだけの話だ。

俺は『マイティ・ソー』を見てたが、あのソーとロキの兄弟の確執が、こんな大騒動の発端となってるんで、『マイティ・ソー』は見ておくといいと思う。


地球防衛本部みたいな「シールド」の基地を急襲し、地球を破壊する力を持つ「四次元キューブ」を奪い去ったのがロキ。
そのロキをドイツで、アイアンマンとキャプテン・アメリカとブラック・ウィドーの3人が、拘束に成功し、「空飛ぶ空母」ヘリキャリア船内にある、「シールド本部」に連行するわけだ。

その輸送機の中で、雷鳴を聞いたロキの顔色が変わる。
「雷が怖いのか?」
「鳴った後が問題なんだよ」
次の瞬間、衝撃とともにソーが飛来し、「家族の問題なんで」って感じで、開いた輸送機を扉から、
ロキを抱えて連れ去ってしまう。
みんな「えっ?」
このソーの登場場面がウケた。

キャストとしては、このロキを演じたトム・ヒドルストンが儲け役だ。
なにしろ並みいるヒーローたち相手に、ひとりで悪玉をしょって立ってるんだから。
ジャンルは全然ちがうが、今年春に公開された『ヘルプ 心がつながるストーリー』で、鼻持ちならない白人女を演じたブライス・ダラス=ハワードの、孤軍奮闘ぶりを思わせた。

神々の国アスガルドで、義兄のソーに、王位継承を阻まれたロキは、いわばその私怨から、ソーが守る地球をぶっ壊してやると気負ってるわけだ。
理由がそんなんだから、「シールド」のエージェント、クラークから
「お前には信念がない」と喝破される。

ハルクには「俺はお前みたいな野獣とちがって、高貴な身なん…」
と言い終わる前に「ベッタン!ベッタン!」やられてるし。
いやーロキ、いいよ。

相手が神だろうが何だろうが、どつき倒す「ハルク無双」ということがはっきりしたね、この映画で。

超人たちに混じって、普通の人間ブラック・ウィドーを演じるスカーレット・ヨハンソンの頑張りも目立った。もう途中から超人もどきの活躍し始めるのは笑った。


『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では敵方もキャラが立っていて、それぞれが得意の能力で、X-MENたちと渡り合うのが見応えあったが、この『アベンジャーズ』の場合は、ロキに率いられた軍団が、ただ物量で攻めてくるだけで、「顔」がないんで、そのあたりは「雌雄を決してる」感じが希薄で物足りない。
シリーズ化するんだろうから、次回はキャラの立った強敵を出してほしい。

まあしかしやっつけてもやっつけても、後から湧いてくるロキ軍団と戦い尽くしての、あの「おまけショット」である。
「そりゃ超人だって疲れるよな」という。

あのショットは何と言ってもロバート・ダウニー・Jrの表情だ。セリフはひと言もない。
あそこにはチーム全員が揃ってたが、ダウニー・Jrでなければ、あの表情は作れなかっただろう。
俺はずっと笑ってた。

欽ちゃんの仮装大賞でいえば、合格ラインまであと1点という所までランプが灯り、一拍おいてもう1点入った。そのくらい重みのある「追加点」となってるのだ。


有名キャラを一同に集めて活躍させれば、映画は大ヒットするかといえば、そんな保証はないことは、ショーン・コネリー主演の『リーグ・オブ・レジェンド』の大失敗が過去に物語ってる。

ショーン・コネリーといえば、奇しくも同名のスパイアクション『アベンジャーズ』もコケていて、この大作2本の興行的失敗が、俳優引退を決意させたとも言われてる。

こっちの『アベンジャーズ』はいい塩梅で各キャラを描きわけており、グラフィック・ノベル・ヒーローものに描かれがちな、葛藤とか宿命とか、そういう重たい部分をとっぱらって、笑いとばして大暴れさせてるのが、成功の要因かな。
「元気があってよろしい」というに尽きる。

昨日『プロメテウス』で長々と書きすぎたんで、今日はこの位で勘弁してやるって感じだが、最後にトリビアめいたネタを。

映画の中で、地上に落下したハルクを、倉庫の瓦礫の中で発見する老人を演じてるのが、
『パリ、テキサス』などの名優ハリー・ディーン・スタントン。
ニューヨークへの核ミサイル攻撃を命令する「お偉いさん」を演じて、モニター画面の中だけで登場するのがパワーズ・ブース。
この二人は1984年のジョン・ミリアス監督作『若き勇者たち』で脇役として共演してる。

その『若き勇者たち』はリメイク版が完成しており、その主演が「ソー」を演じるクリス・ヘムズワースなのだ。

2012年9月2日

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ロン・ハワードの背中を追う「アメグラ」同窓生 [映画ア行]

『イルカと少年』

イルカと少年2.jpg

その同窓生とはチャールズ・マーティン・スミスだ。
1974年の『アメリカン・グラフィティ』を封切りの時に見て、「アメリカ人にもこんなのがいるんだな」と親近感湧いてしまった。

彼が演じたテリーは、高校生なのに中年おやじみたいな髪の分け方で、度の強い黒縁メガネ。
ベスパで登場して、いきなり駐車に失敗してる。
自分ではカッコつけたいんだけど、やることなすこと笑いのネタになる。
今の役者でいえば、『バス男』のジョン・ヘダーや『スーパーバッド 童貞ウォーズ』のマイケル・セラなんかに通じる「ナード系」の元祖かも。

いやそれまでにも『ジェレミー』のロビー・ベンソンとか、『少年は虹を渡る』のバット・コートとか、童貞キャラは居ないわけじゃなかったが、彼らの場合はどこか女性にアピールする「可愛げ」も持ち合わせてた。
だが『アメグラ』のチャールズ・マーティン・スミスの風貌は、「非モテ」のかすかな希望すら打ち砕くような冴えなさだった。
だが映画で最もインパクト残したのは、このテリーだった。

『アメリカン・グラフィティ』で共演したロン・ハワードは、青春スターとしての自分には早々に見切りをつけ、早い時期から監督業に乗り出し、いまやアメリカ映画を代表する監督のひとりにまで登りつめた。

チャールズ・マーティン・スミスも役者業の傍ら、1986年に『ハロウィン1988・地獄のロック&ローラー』で監督デビューを果たした。これはちゃんと日本でも公開されてる。


『アンタッチャブル』の会計士役など、歳を重ねて脇役としていい味出してきてるが、彼の役者としての代表作は、唯一の主演映画でもある、
1983年の『ネバー・クライ・ウルフ』だ。

ネバー・クライ・ウルフ.jpg

北極圏のトナカイの激減が、オオカミの仕業によるものなのか、その調査に、カナダ政府から派遣される、生物学者タイラーを演じてた。

これも封切りの時に見てるが、映画のようであり、ネイチャー・ドキュメンタリーのようでもあるという、その演出のスタンスが面白かった。
ロケはアラスカやカナダのブリティッシュ・コロンビア州で行われてるが、その大自然の景観や、野生動物たちを捉えたカメラが美しかった。
撮影監督は日系のヒロ・ナリタで、ちなみに昨日コメント入れた『THE GREY 凍える太陽』の撮影監督は、日本からアメリカに渡ってキャリアを積んでいるマサノブ・タカヤナギだ。

先日コメント入れた『THE GREY 凍える太陽』ではオオカミの獰猛さが強調されてたが、
『ネバー・クライ・ウルフ』では、タイラーが一匹の白いオオカミをずっと観察する様子が描かれ、オオカミへの理解の深さを感じさせた。


チャールズ・マーティン・スミスはこの映画に出たことで、原作者で博物学者でもあるファーレイ・モアットに傾倒したようで、
2003年の『ホワイト・クラッシュ』ではモアットの原作を自ら監督してるのだ。

バリー・ペッパー演じるアラスカの空輸パイロットが、結核に冒されたイヌイットの少女を、町の病院まで運ぶ仕事を引き受けるが、機体のトラブルで、アラスカの大湿原の真っ只中に墜落。一命は取り留めたものの、過酷なサバイバルを余儀なくされるというストーリー。

屈強にそうなパイロットより、病弱なイヌイットの少女が、大自然で生き抜く知恵を持っているのだ。
ここでは『THE GREY 凍える太陽』と同様に、絶望的に広大なアラスカの、人を寄せ付けない厳しさが描かれていた。

そんなわけで、「オオカミ」と「アラスカ」というキーワードで、昨日の『THE GREY 凍える太陽』から、チャールズ・マーティン・スミスに繋いだんだが、本来なら『ネバー・クライ・ウルフ』か『ホワイト・クラッシュ』にコメント入れる所だけど、『イルカと少年』だ。

これは同窓のロン・ハワードの背中を追うように、監督キャリアを重ねてきたチャールズ・マーティン・スミスにとって、初めての「全米興収第1位」を獲得した映画になったのだ。
俺の好きなアシュレイ・ジャッドも出てるというのに、日本では劇場公開に至らず、DVDスルーとなってしまった。


フロリダ沖で漁の網にからまってしまい、浜に打ち上げられたイルカを保護した実話を元にしてる。
イルカは地元のNPOが運営する、海洋生物保護施設「クリアウォーター」で、ウィンターと名づけられ、ケアされるが、深い傷を負っていて、尾ヒレが壊死すると見られたため、やむなく切断される。

だが泳げないイルカは生きてはいけない。
「クリアウォーター」の飼育員たちは、人工の尾ヒレを、ウィンターに装着させようと試みる。

この骨格の部分は事実の通りで、そこに文字通り、話にも「尾ヒレをつけて」ファミリー向けの感動作に仕立て上げてるわけだ。
まず浜に打ち上げられたウィンターと出会うのが、地元に住む11才の少年になってる。


少年ソーヤーは、父親が数年前に突然失踪して以来、ふさぎこむようになり、友達と遊ぶこともなく、家では部屋に閉じこもって、ラジコンヘリの組み立てに没頭してる。
高校の競泳記録を持つ従兄のカイルが、唯一の話相手だ。
そのカイルはオリンピックの資金稼ぎにと軍隊に入り、しばらくは会えない。

浜に打ち上げられたイルカに近づいたソーヤーは、体に巻きついた網を解いてやる。
イルカはレスキューに運ばれて行ったが、NPO施設「クリアウォーター」で、再会することになる。

まだ子供のイルカはウィンターと名づけられてたが、怪我の具合も悪く、何も食べようとせず、衰弱してる。だが網を解いてくれたソーヤーのことを憶えていて、ソーヤーが手にした哺乳瓶から、ミルクを飲むようになる。
ソーヤーは「クリアウォーター」の獣医クレイ先生から認められ、ウィンターの世話を手伝うことに。


クレイ先生には、ソーヤーと同い年くらいのヘイゼルという娘がいる。ヘイゼルは親の教育方針もあり、学校には通ってない。なのでソーヤーは、初めてできた友達なのだった。
ふさぎこんでたソーヤーは、ウィンターや、クレイ先生親子との触れ合いで、明るさを取り戻していく。

夏休みの補修授業にも出ずに、「クリアウォーター」に入り浸る息子を母親ロレインは叱るが、ソーヤーに手を引かれてウィンターのもとを訪れると、息子が普段とまったくちがう、快活な表情を見せることに驚き、その「夏の課外授業」を見守ることにする。

一方笑顔を取り戻したソーヤーと対象的に、明るかった従兄のカイルから笑顔が消えた。
カイルは軍の赴任先で爆弾により、脊髄を損傷し、片足が利かなくなり帰国したのだ。

ソーヤーたちにも会わず、町の病院で車椅子で過ごしていた。もう水泳選手の夢は絶たれた。
面会に来たソーヤーと母親にも背を向ける。
ソーヤーはカイルに「僕たちがどんな気持ちでいるのか、わからないの?」となじった。
その言葉はカイルの胸を突いた。


そのカイルの傍らにいたのが、義足の専門家マッカーシー博士だった。博士は
「人生はひと通りしかないなどと思い込むな」
「夢が消えたのなら、別の夢を追えばいい」とカイルを諭す。
カイルを通してマッカーシー博士と知り合ったソーヤーは、相談を持ちかける。
「ウィンターに会ってやって」

「クリアウォーター」を訪れた博士は、尾ヒレのないイルカと対面する。
ウィンターは尾ヒレを失った後、飼育プールの中で、体をくねらせる独特の泳ぎ方をしていた。
だがその無理な動きは、脊髄にダメージを与える危険性がある。
クレイ先生の説明を聞き、マッカーシー博士は、挑んだことのない、イルカ用の人工尾ヒレの製作を承諾した。


アシュレイ・ジャッドは、ソーヤーの母親ロレインを演じてるが、そうだねもう母親役が板についてきたというか、ほぼ同時期デビューのシャーリーズ・セロンとかキャメロン・ディアスのようには、いかなくなってきてるのはちと淋しくはある。

マッカーシー博士を演じるのはモーガン・フリーマン。安定の役柄だ。
クレイ先生の父親で、係留されたクルーザーで暮らしてるのがクリス・クリストファーソンという、何気に豪華キャストなのだ。

そしてクレイ先生を演じて、キャストの図柄でも真ん中にいるのが、ハリー・コニック・Jrだ。
昨日の『THE GREY 凍える太陽』に出てたダーモット・マローニーも、出るたび印象がちがって、すぐに本人と判らない役者と書いたが、ハリー・コニック・Jrも俺にとっては同じような印象がある。

もとはジャズピアニストだから、役者は本職じゃないはずだが、『メンフィス・ベル』『インディペンデンス・デイ』『閉ざされた森』と、軍人を好んで演じてるような所があり、意外とマッチョ志向なのかと。
この『イルカと少年』でも、首が太いし、上体が逞しいんで、最初は本人とわからず。
役柄もあって爽やかな印象だ。

クレイ博士はシングルファーザーで、ソーヤーの母親ロレインはシングルマザーなんで、二人のロマンスもあるのかと思いきや、そこはファミリー向けなんで、スルーだった。

イルカのウィンターは「本人」が出ていて、その表情やしぐさなどは、子供たちの心を掴むだろう。
悪人は一人も出てこないという「おとぎ話」みたいな内容だが、映画のエンディングには、実際の映像が映し出されてる。
ウィンターは今も、人工尾ヒレをつけ、「クリアウォーター」の水族館のプールで、手や足を失った子供たちの訪問を受けているのだ。
ウィンターの体に触れて歓声を上げてる子供たちの映像にはグッとくるものがある。

夏に涼しいシネコンで、親子連れで見るには最適じゃないかと思うんだがなあ。

2012年8月22日

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