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ダイ・ハードなアイリッシュギャング [映画カ行]

『キル・ザ・ギャング』

キルザギャング.jpg

副題に「36回の爆破でも死ななかった男」とついてるが、これは事実誤認を誘発する。
「36回」というのは、1976年夏に、オハイオ州クリーブランドで起きた、ギャング間の抗争事件における、爆破件数を示したもの。

その抗争の主役となるのが、地元で生まれ育ったアイルランド系のギャング、ダニー・グリーンだ。
実在のギャングの生涯をタイトに描いて、「東映実録路線」のようなテイストの2011年作で日本未公開。
DVDリリースを待ちかねてた。
まずキャスティングが小躍りしたくなるほど渋いので列記しとく。

ダニー・グリーン(主人公のアイリッシュギャング)=レイ・スティーヴンソン 
ジョー・マンディツキ(幼なじみでクリーブランド市警刑事)=ヴァル・キルマー 
ジョン・ナルディ(地元ギャングでダニーと意気投合)=ヴィンセント・ドノフリオ 
キース・リットソン(ゴミ回収業を通じてダニーの仲間に)=ヴィニー・ジョーンズ 
ションドー・バーンズ(ダニーの腕を買う高利貸し)=クリストファー・ウォーケン 
ジェリー・ミーク(港湾局の組合長)=ボブ・ガントン 
リカヴォリ(地元のイタリアン・マフィア)=トニー・ロー・ビアンコ 
“ファット・トニー”サレルノ(ガンビーノ・ファミリー直系のNYのマフィア)=
ポール・ソルヴィーノ 
レイ・フェリーノ(サレルノが仕事を依頼するロスの殺し屋)=ロバート・ダヴィ

これだけ揃えても、喜ぶのは映画好きだけなのだろう、劇場公開に至らなかったのが残念だ。

クリーブランドといえば、MLBのインディアンズの本拠地というイメージくらいで、こんなギャングの抗争に揺れてた時代があったとは、初めて知った。
クリーブランド東部の下町コリンウッド周辺が舞台となってる。


ここで生まれ育ったダニーは、2m近い巨躯で、腕っぷしも強いが、人望もあった。
1960年代に地元の港湾労働者として働いてたが、労働条件は劣悪で、仲間からは、港湾局の組合長に立候補してくれと頼まれてた。
冷酷な組合長ジェリー・ミークは「余計なことは考えるな」とダニーを牽制した。

幼なじみにバクチで借金を作ったと泣きつかれたダニーは、地元のマフィアの元に話をつけに行く。
そこでジョン・ナルディと顔見知りとなり、借金をチャラにする条件として、港の倉庫から物品を強奪する仕事を請け負う。

だがそれをダニーの仕業と見抜いた組合長ミークは、自分が警察に通報すれば、今後一生組合長になどなれないぞと脅す。
そして奪った物品の利益を半分寄こせと。

ミークのボディガードが金を受け取りに来るが、ダニーは銃を向ける相手に、
「そんな物しまって、俺と踊らないか?」
と挑発する。
踊るとは、素手で殴りあうという意味だった。
挑発にのったボディガードは、ダニーの拳によって床に沈む。


翌朝、組合長の椅子に座るダニーに驚き、ボディガードを呼ぶが、誰も来ない。
ミークは、ここを立ち去れという意味で
「3秒やる」と云うと、
ダニーは「なんのために?」と応え、ミークを何度も平手打ちして、事務所から追い出してしまう。

腕づくで港湾局の組合長の座に就いたダニー。
だが、ダニーの羽振りのいい生活から、汚職の匂いを嗅ぎつけた、幼なじみで今は市警察の刑事であるジョー・マンディツキによって、ダニーは逮捕され監獄へ。


出所したのは1971年だった。金もなくなり、妻のジョアンと幼い娘たちを連れ、町でも治安の悪そうな地区に一軒家を借りた。

近所にはバイクの騒音を轟かせる暴走族がたむろしてたが、ダニーは臆せず乗り込んでいき、リーダーを引っ張り出すと、またもや
「俺と踊らないか?」
その場で返り血を浴びる位にブチのめして、追い払ってしまう。

ジョン・ナルディの口ききで、ダニーはレストラン経営者のションドー・バーンズに挨拶に出向いた。
ションドーはカジノも経営しており、バクチの負けを取り立てるため、高利貸しも同時に営んでいた。

ダニーの体格と腕っぷしを見込んだションドーは、借金の取立てを任せた。
ダニーは有無を言わさずに取り立てて回り、ションドーの信頼を得る。

キルザギャング3.jpg

その報酬だけでは十分でないと感じていたダニーは、隣人のフラートが自前のトラックで行ってる、ゴミ回収業に目をつける。
ビジネスを仕切ってるのは地元のイタリアン・マフィア、リカヴォリだった。

ゴミ回収業の男たちは気が荒く、人の云うことを聞かない。
リカヴォリは男たちを組合に加入させることができれば、ダニーにゴミ回収ビジネスに噛ませてやると条件を出す。
男たちを組合員にできれば、組合費として売上げをピンハネできるからだ。


ダニーは回収業者でも猛者と呼ばれるキース・リットソンを抱き込み、これも半ば強引な手法で、男たちを組合に加入させていく。
だが隣人のフラートは頑として拒んだ。

一人でも加入しない者がいると、みんな右へ倣えとなる。
ダニーはリカヴォリから、隣人を始末しろと命じられる。

その話を聞き及んだフラートは、先にダニーに銃を向けてきた。
撃ち合いとなり、フラートは死んだ。
妻のジョアンは、常に不穏な空気に包まれてるダニーとの生活に耐えられなくなり、子供を連れて出ていった。


4年後の1975年、ダニーはそろそろ堅気の仕事がしたいと思い、ションドーに
「ダブリン風のパブを出したい」
と持ちかける。ションドーは
「成功者は自分の金は出さないもんだ」
と云い、ニューヨークのガンビーノ・ファミリーに融資を掛け合う。

だがファミリーから金を受け取った、ションドーの使いが、その7万ドルを着服。
麻薬売買の現場を警官に押さえられたことで、金も押収されてしまう。

金の返済を巡って、ダニーはションドーと揉める。
ションドーは目をかけてきたダニーの態度に怒り、その首に2万5千ドルもの賞金をかけた。

車に爆弾を仕掛けられたが、間一髪で難を逃れたダニーは、すぐさま報復。
ションドーを同じように車で爆死させてしまう。

ダニーをこのまま野放しにはできない。リカヴォリは手下を動かし、ダニーの自宅に爆弾を投げ込む。
ダニーはつきあってたエリーの身を庇い、全壊した家屋の下敷きとなったが、ここでも奇跡的に生き伸びた。

ダニーは仲間と結束し、地元のイタリアン・マフィアとの全面戦争に突入した。
ひと夏に36回の爆破事件が起きたが、ダニーはまだ生きていた。


いくら殺そうとしても、平然と生き続ける「ダイハード」なアイルランド野郎に、リカヴォリはついに手打ちを提案。

だがその席でダニーは
「俺は骨までしゃぶられてきたんだ」
「もう言いなりにはならない」
と、好きに振舞うと言い放った。

もはや自分の手に余ると感じたリカヴォリは、ブルックリンに拠点を置く、上層部のマフィア、“ファット・トニー”サレルノに始末を依頼する。

サレルノは、ロスに使いを寄こし、殺し屋のレイ・フェリーノに仕事を託した。
そのサレルノの元を、なんとダニーが挨拶に訪れた。
その申し出は意外なものだった。


ダニー・グリーンというギャングの人物像が、ちょっと掴みどころがない感じで、そこに面白みがある。
普段は本を読むのが好きな「静かなる男」という印象なんだが、いざとなると腕に任せて決着を図る。
小細工はないのだ。

長いものに巻かれるのを好しとしないため、常に軋轢を生むし、トラブルを屁とも思ってない。
野心はあるんだろうが、具体的にどこまで上ろうとか、そういうギラギラ感はない。

クスリはおろか、酒も呑まないから、私生活も乱れた風にはならない。
アイリッシュとしての誇りは高かったようだ。


演じるレイ・スティーヴンソンは、『パニッシャー ウォーゾーン』で主役を張ったものの、その後は地味に糊口をしのいでる感じだったが、この映画はキャリアの代表作になりそうな快演ぶりだ。

特に口ひげをたくわえてからが、いかにも70年代のタフガイの風情が出て、過去の出演作では感じさせなかった色気も漂わせている。

『マイティ・ソー』の時も、一際デカさが目立ってたが、今回も何が驚きって、『スナッチ』とかどの映画に出てても、一番デカいなと感じてたヴィニー・ジョーンズが、レイ・スティーヴンソンと並ぶと小柄に見えるという!

キルザギャング2.jpg

男の映画だから女優は飾り程度になってしまうが、エリーを演じるローラ・ラムジーは可愛い。
いきなりオッパイ丸出しでダニーを誘う場面は、思わぬサービスカットになってる。

監督は『パニッシャー』シリーズの、レイ・スティーヴンソンではなく、トム・ジェーンが主役を演じた1作目の方を撮ったジョナサン・ヘンズリー。
俺は『パニッシャー』はけっこう好き。

この映画70年代のロックがかなり流れてるんだが、相当に渋い選曲と思われ、1曲も知らなかった。
こんなのは珍しい。サントラがあれば買って聴いてみたい。

「野太く生きて、パッと散った」男の話だ。
ギャングの実録はだから面白いのだ。

2012年11月4日

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もう三谷幸喜より内田けんじかも [映画カ行]

『鍵泥棒のメソッド』

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35才の売れない役者・桜井は、ボロいアパートの一室で首を吊るも失敗に終わり、体は汗だくだし、とりあえず銭湯のタダ券があったので、汗を流しに出かける。

一方その前の晩、とあるアパートの前に車を停めた男が、カーステレオでベートーヴェンを聴いている。
腕時計のアラームが鳴ると同時に、アパートの玄関から会社員風の中年男が出てくる。
車の中の男は雨がっぱにマスクとサングラスをつけて、車を降りる。
中年男が車の後ろを横切ろうとした瞬間、男はナイフで腹を数回刺して、そのままトランクへ放りこむ。
返り血を浴びた雨がっぱとナイフをビニール袋にすばやくしまい、男は車を出す。
物陰からその一部始終を見てた若い男がいた。


翌日、男は映画撮影の渋滞に巻き込まれていた。
苛立ってふと腕時計に目をやると、腕に返り血が残っていた。
うんざりして外に目を向けると、銭湯の煙突が見えた。

桜井と同じ時間に、ヤバい仕事を終えた後の男が、銭湯にやってきて、桜井の隣りのロッカーに、分厚い財布を入れた。
桜井は先に体を洗ってたが、隣りのじいさんの石鹸を拝借しようとして、手で払われた。
その拍子に石鹸は床を滑っていき、丁度入ってきた男がそれを踏んで、転倒して頭を強打。
その拍子にロッカーの鍵が桜井の足元に。

風呂場は騒然とし、桜井はとっさに、自分のロッカーの鍵とすり替えた。
救急隊員が男を運び出し、ロッカーから所持品を持って行った。それは桜井の物だった。
桜井は周りに人がはけてから、男のロッカーの鍵を差し込んだ。
黒の上下のスーツに、黒のネクタイ。車のオートキーもあった。

銭湯の外に出て、キーを押してみると、「プイプイ」と音を立ててるのは、見るからに高そうな、クライスラーだった。


翌朝クライスラーで桜井は方々を回り、借金をしてた相手に金を返して回った。
もちろんその金は、頭を打った男の財布に入ってたものだ。

最後に向ったのは元カノのアパートだった。
桜井は一時はそこに一緒に暮らしてたのだ。
彼女にも借りてた金を返した。彼女は結婚相手とともに、アパートを出るところだった。
桜井と一緒に写ってる写真が残ってると、ゴミ袋からかきだして渡される。
桜井は車の中で、その思い出の写真を見ながら泣くと、写真を外に放り捨てる。


病室にいる男を、桜井は様子を伺いにやってきた。
紙袋には男の私物である腕時計やスーツが入ってた。

寝てる男のサイドボードの上に、自分の私物が置かれてる。
そっと手を伸ばそうとして、急に男に手を掴まれ、桜井は動揺する。
だが男は何も憶えてないようだ。

ふいに「桜井武史」と呼ばれ、桜井はビクッとなる。
「いや、それが私の名前らしいんですが…」
男が手にしてるのは、桜井が銭湯の行きがけにポストから抜き取った、税金の督促状だった。
その宛名を見てるのだ。
桜井は「あの時銭湯にいたんで、様子を見にきただけで」
と言い、男の私物が入った紙袋を再び持って、病室から立ち去った。


同じ病院の別の病室に香苗はいた。
母と姉とともに、父親の見舞いに来てたのだ。

何事につけ几帳面な性格の香苗は、恋には臆病で、彼氏ができない。
だが病床の父親は、香苗の花嫁姿を生きてるうちに見たいと願ってる。
雑誌社で編集長をしてる香苗は、編集部員の前で結婚宣言をしてた。
相手探しに協力してほしいと。
「健康で、努力家の方なら」という条件だった。

男は退院できることになったが、自分が何者かわからない。
少ない所持金の中からノートとペンを買い、手掛かりになることを書き上げていった。
几帳面さが感じられる筆致だった。

編集部員がセッティングしてくれた合コンに参加するため、母と姉とは、病院の前で別れた香苗。
そこに後から出てきた男が声をかけた。
税金の督促状に書かれた、宛先の住所の方角がわからないと言う。
30分はかかるという道を、歩いて行こうとする男の後ろ姿に、香苗は
「私、車ですけど」と声をかけた。


桜井は男の免許証に書かれてるマンションの前にいた。
免許証の名前は「山崎」となってた。
山崎が記憶喪失に陥ってることは思いがけなかった。

桜井は山崎の部屋に入って、自分のアパートとのあまりの違いに目を見張った。
だが罪悪感に苛まれ、目の前にあったビデオカメラに、謝罪のメッセージを残した。
その後、何気なくクローゼットを開けて、呆然となった。

あらゆる種類の服や、カツラ、盗聴グッズ、なにより山崎は、夥しい数の偽IDをファイリングしていた。山崎という男は詐欺師なのか?

本を模った箱に目が留まった。中を開けると、拳銃が隠してあった。
もとより自殺しようとしてた桜井だ。
いっそこの場でと、拳銃をこめかみにあて、引き金を引こうとした瞬間、ケータイの着メロが鳴り、ビビッて拳銃を落としてしまう。
鳴ってるのは山崎のスマホだった。おそるおそる通話ボタンを押す。

「コンドウさんですか?」
この相手は山崎のことをコンドウだと思ってる。
「ギャラを支払いたいんですが」
「ギャラって?…いくら?」
「500万です」
「場所を指定してもらえれば、そこに置いておきます」
桜井は少し考え、自分のボロアパートのポストを指定した。



俺はこの映画を見に行って、パンフを買い、見終わった晩にパンフを読んだ。
このパンフは最近のものには珍しく、「シナリオ再録」が掲載されてる。
これは映画のシナリオを、そのまま書き写したもので、これにじっくり目を通した。
映画で見落としてた細かい伏線というか、小道具的な要素を、読んで気づかされ、もう一度見に行ったのだ。

すると内田けんじ監督の脚本の周到さがより明確に伝わってきて、1回目に見た時よりも、結末などはジンときてしまった。
これは筋がわかってても、2度見た方がより楽しめると思う。
もちろん映画の中の山崎なみに、観察力の細かい人なら、一度ですべての伏線に、神経を行き届かせることが可能だろうが。


ボロアパートに住んでる桜井に、否応なしに入れ替わられた山崎が、桜井のアパートの部屋に残った所持品から、自分がどういう人間なのかを探っていく。

香苗も記憶喪失の山崎に興味を抱いて、一緒に手掛かりを探してくれる。
無名の役者だったようだと見当がつき、カレンダーにあった、エキストラ出演の日に、現場に行ってみる。
そして次第に演技というものに興味を抱いていく。


香川照之は、記憶喪失に陥りながら、悲観することなく、自分が何者なのかを手探りしつつ、その過程で人生の情熱めいたものを見出していく、そういうキャラクター像を、非常に的確に表現していて、その抑えた演技の中に、ほのかな可笑しみをたたえた按配が見事だと思う。

一方の桜井を演じる堺雅人は、行き当たりばったりの人生が行き詰ってしまった、売れない役者というキャラを、すねたユーモアで表現してる。
香川照之のような細密さの感じられる演技ではないが、これは役どころが、くっきりとした笑いを取らなければならないという部分があり、「持ち場」の違いということだろう。


売れないなりに「演技」を仕事としてきた桜井が、「コンドウ」という名の殺し屋に、実際に扮しなければならなくなる。
一方、実人生でいくつもの偽の名前を演じてきた山崎が、役者という「役を演じる」仕事に打ち込んでいく。
本当の自分ではない誰かを演じる二人の男に対し、香苗は男の本質を見極めようとする。

「健康で、努力家の方なら」というのは、見た目は問題ではないのだ。
金のあるなしでもない。
この几帳面で融通は利かなそうだが、真っ直ぐに人を見ることができる香苗を、広末涼子が役にハマったように見事に演じてる。
彼女の映画をそんなに見てるわけではないが、見た中では一番いいと思う。

殺し屋「コンドウ」に仕事を依頼した工藤を演じてるのが荒川良々だ。
いつもは出てくるだけで笑いを誘うようなルックスの彼が、ヤクザ者を演じ、静かな口調でドスを利かせてる。あの顔が逆に凄みを感じさせ、誰も笑ってない。
ただ1カットだけ、彼ならではの表情が一瞬見れるので、そこはホント可笑しい。


ここから先はイチャモンみたいなもので、これを書いたからといって、いささかも映画の面白さに影響はないとは思う。

山崎は殺し屋「コンドウ」を名乗って、工藤のような人間から依頼を受けてるという設定だ。
実はこれにも裏があるんだが、いずれにせよ、殺しを依頼した側は、殺しの証拠を求めると思うんだよな。証拠もなしに口頭だけで、報酬の支払いはしないだろう。
そこを「コンドウ」はどうしてたのか?その描写がない。
映画を見ればわかるけど、いくら周到な山崎でも、あの「仕事」の仕方が成立するだろうか?とは考えてしまう。

あと、小道具がほとんど伏線として機能してたけど、桜井が山崎の部屋で謝罪メッセージを録画した、あのビデオカメラ。
あれが後半のどこかで使われるのかなと思ってたが、スルーされたんでそこは残念だった。
些細なことではある。

2012年9月27日

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出た!ソン・ガンホの飛び蹴り [映画カ行]

『凍える牙』

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乃南アサの直木賞受賞作を韓国で映画化。
過去に日本では2度テレビドラマ化されてるというが、俺は見てない。
狼と犬を掛け合わせた「ウルフドッグ」の仕業による連続殺人事件を、刑事が追うという内容は、なにやら1981年の『ウルフェン』を思い起こさせもする。

韓国映画で刑事ものといったら、飛び蹴りはつきもので、期待しつつ物語を追ってたら、やってくれましたソン・ガンホ。ただし犯人にじゃなく、同僚にだったけど。


ソウル市の駐車場で、車の炎上事故があり、運転席にいた男性が焼け死んだ。
目撃者によると、運転席の男性の体から発火したという。
灯油をかぶるような素振りもなくだ。

現場を調べる中年刑事サンギルは面白くなかった。
班長から、白バイ上がりの新米女性刑事ウニョンと、捜査に当たれと命じられたからだ。
何度も昇進を見送られてるサンギルは、こんな自殺と思しき事件など、解明できても手柄にならない。
おまけに新米の教育を押し付けられる。

ウニョンに早速毒づいても、言い返してくるわけでもない。
愛想のない陰気な女だ。

サンギルは私生活でも問題を抱えていた。
妻は2人の子供を置いて出ていった。上の息子はモロに反抗期で手に負えない。
ウニョンも夫と離婚していた。
両親とも早くに死に別れ、家族と呼べる者は誰もいないと言う。


黒焦げで指紋も採取できない死体から、科学捜査班は興味深い検死結果を出してきた。
尿から覚醒剤反応が出た。
巻いてたベルトのバックルには、タイマーと点火装置、そして引火性の高い化学物質が仕込まれてた。
そのベルトを誰かが贈ったのだとしたら、これは殺人事件となる。
ウニョンは、死体の太ももに、何かに噛まれた傷跡があると、サンギルにその部分を見せた。
バックルとその傷跡に関連性はあるのか?

覚醒剤の売人から、焼死した男性は学習塾の経営者とわかる。
その塾を調べてみると、隠し扉の向こうに、いくつもの部屋があることがわかった。
売春に使われてたのは明らかだ。部屋には覚醒剤の錠剤もあった。
また焼死した男性のケータイは、損傷が激しかったが、男の後ろ姿が映る動画が残っていた。

これは大がかりな背景を持った事件だ。解決させれば昇進は間違いない。
ウニョンは何度も「班長に報告しましょう」
と言うが、サンギルは手柄を横取りされるからと、二人で捜査を続行していく。


新たな死体が検死に回されてきた。
会社員風の男性で、喉を噛みつかれたことによる失血死だった。
一報を受けて解剖室に駆けつけたサンギルは、前回の死体に残された証拠について、なんの報告もしてなかったことを、班長から激しく叱責された。
その場にいたウニョンは、サンギルの後輩で、つい先日に警部に昇進したヨンチョルから
「お前も手柄に目がくらんだか」
と頬を張られる。

ヨンチョルはカラオケ宴会の場で、ウニョンに迫り、拒絶されたのを根に持っていた。
サンギルは勇み足だったと認め、二人は捜査の脇に追いやられた。
死体の喉の傷から大型の野犬か闘犬の可能性があると、サンギルとウニョンは、犬探しに回される。

犬の正体を探る過程で、サンギルとウニョンは、犬とオオカミを交配させた
「ウルフドッグ」の存在に辿り着く。
その犬は、事件につながると踏んで、サンギルとウニョンが張り込んでた民家の家宅捜索で、住人とつかみ合いとなる最中、不意に現れた。
少女たちを乗せたライトバンを運転する女性を襲って、その喉笛に噛み付いて絶命させた。
ウニョンは刑事たちの中で、唯一その場面に出くわし、そのウルフドッグと目を合わせていた。


ウニョンは、家宅捜索の際に腹をしたたか蹴られ、入院を余儀なくされた。
だがウルフドッグのことが頭から離れず、警察犬トレーナーに関わりがないか、資料をあたり始めた。
現役のトレーナーに疑う部分はない。
だが退職した人間だったら?

過去の人事ファイルをあたり、ミョンホという、警察犬トレーナーの元刑事の存在が浮かび上がった。
ミョンホには娘がいて、麻薬中毒から精神療養施設に預けられたはずと情報を掴んだ。

だが情報を辿って行っても、娘のジョンアは捜し出せない。
それでもウニョンは地道な捜査を諦めなかった。

そして、ミョンホの娘ジョンアが少女売春を強要されてた事実をつかみ、この不可解な連続殺人事件の被害者が、その売春組織につながりがあるらしいこともわかってきた。

バックルの発火による、一見無関係に思える事件も、ある一点で結び着く。
だがウニョンがその鍵を握る場所に向かったことを、サンギルは把握してなかった。


映画のオープニング・タイトルで、疾走するバイクの映像が、早くもテンションを上げさせるんだが、バイクを駆るウニョンを演じるのはイ・ナヨン。
俺は彼女の出てる映画はこれが初めてだが、こういう顔は好きだ。
日本でいうと田中美奈子と阿木曜子をミックスした感じかな。

とにかく刑事として配属されるのに、そのハブられ方が露骨すぎ。
そういう境遇に耐えながら、捜査に加わる滑り出しで、彼女に肩入れしてしまう。
映画終盤で彼女がバイクで、ウルフドッグを追う場面には、
「がんばれ、ここ見せ場!」と思って見てた。

家庭ではいい父親とはいえないサンギルを演じるソン・ガンホは、出世に見放された屈折を抱える中年刑事を、大袈裟な芝居をせずに演じてる。
ともに警察官という職務に愚直であろうとするあまりに、妻に逃げられ、夫に逃げられた二人の刑事。
その間にほのかなロマンスなど生まれはしないのが、甘ったるい後味にならずに済んだ。


このウルフドッグのチルプンとなる犬がいい。
底冷えするような目で、じっと見つめる場面は迫力がある。
一方で最後の場面などは、ほんとうにそういう表情を作ってるように見えて、グッとこさせるものがある。
まだ小さな娘のジョンアと戯れる、仔犬時代のチルプンの回想場面の挟み方は、ベタそのものなんだが、それを変な照れを感じさせずに、きっちり絵として見せてくれるのがいいのだ。

この映画は目を見張るアクション場面とか、唸るような語り口の上手さとか、そういうものは持ち合わせてない。「通俗的」な刑事サスペンスなんだが、何と言うか
「きちんと通俗を貫いてる」ので、最後まで堪能できたのだと思う。

2012年9月14日

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君たちレオン・ニキータ・ドミノだね。 [映画カ行]

『コロンビアーナ』

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いや昔「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね。」っていう曲がヒットしてましてね、それをモジってみただけだが。
要はそういった映画をなぞった内容で、とりたてての目新しさも感じられなかった。


1992年、コロンビアの麻薬組織を束ねるドン・ルイスの下から独立を図ったファビオは、組織の手によって、家を襲われ、妻とともに殺される。
ファビオは顧客データを収めたフロッピーをドン・ルイスに返していたが、それ以外の内情に関わるデータをまだ握ってる。ドン・ルイスはそう睨んでいた。
ファビオを殺し、家さがしするが、見つからない。

組織の殺し屋マルコは、ファビオの9才の娘カトレアが、キッチンに残ってるのを発見。
「父親から預かってるものはないか?」
テーブルの向かいに座り、静かな口調で訊いた。カトレアは
「これでしょう?」
と、テーブルの下で握っていた包丁を、マルコの掌に思い切り突き立てた。

カトレアはキッチンの窓から飛び出し、猫のような身のこなしで、逃げ出した。
マルコたちを振り切って、アメリカ大使館に駆け込んだ。

父親ファビオは、カトレアに、ドン・ルイスの麻薬取引のデータを託していたのだ。
何かあったらこれを大使館の人間に渡せと。
そのデータと引換えに、カトレアはアメリカ行きの旅券を手にする。

父親からは1枚のメモも渡されていた。
シカゴで祖母と暮らす叔父のエミリオの住所が書かれていた。
9才の少女は、ひとりっきりの心細い旅の果てに、ようやくシカゴへと辿り着いた。


カトレアはエミリオたち家族に暖かく迎え入れられたが、彼女の望みは、アメリカで他の子供たちと一緒に、学校に通うような生活ではなかった。
カトレアは叔父のエミリオに、殺し屋になる手ほどきを頼んだ。
冗談で言ってるようには見えなかった。
エミリオは突然路上で発砲してみせた。周囲はパニックとなった。

叔父はカトレアに言った。
「お前はこういうことがしたいのか?」
「学校に通うってことは、知識を身につけ、善悪の判断がつけられるようになることだ」
「知性がなければ、ただ銃を撃ちまくって、射殺されて、人生は終わりになる」
「お前はどっちを選ぶ?」
通学カバンと拳銃を差し出され、カトレアはカバンを手にとった。


15年が経った。学校に通いはしたものの、カトレアはやはり、プロの殺し屋になる道を選んでいた。
仕事は叔父のエミリオが持ってきた。
警察の拘置所内に入れられた標的を暗殺することも、難なくこなす凄腕ぶりで、すでに4年間で22人を葬っていた。

だがカトレアは叔父に隠し事をしていた。
自分の両親を殺したドン・ルイスにつながる標的を暗殺した際には、その死体にカトレアの花を描いておいたのだ。

なぜそんなことをするのか?カトレアが殺し屋になったのは、両親の復讐のためであり、だがその標的とするはずのドン・ルイスと片腕のマルコは、コロンビアから姿を消している。

ドン・ルイスは、殺したファビオに娘がいて、カトレアという名だと知っている。
死体にメッセージを残すことで、ドン・ルイスが動くのを待っていたのだ。


FBI捜査官のロスは、連続殺人の捜査が手詰まりとなり、死体に描かれたカトレアの花の写真を、マスコミに公開する。
ドン・ルイスとマルコは、新聞でその写真を目にした。
そしてファビオの9才の娘の存在を思い出した。
マルコの掌に包丁を突き刺した、あのガキならやりかねん。

カトレアの抹殺に組織は動き出した。
ドン・ルイスは麻薬取引の情報提供と交換に、CIAの保護を受けていや。
今はアメリカ南部の町に移り住んでいたのだ。


カトレアにとって、殺しと復讐という、殺伐とした人生を逃れる、つかの間の時間が、恋人ダニーとのひとときだった。
彼女はジェニファーと名乗り、自分のことはほとんど話さなかった。
画家のダニーは、彼女が心に何か抱えてることは知ってたが、いまは目の前の彼女だけを愛していた。

ダニーは、ベッドでまだ眠るジェニファーの寝顔をケータイで撮り、画像を保存した。
ダニーはその日、友達にカフェで何気なく、その画像を見せた。
だがそこから画像データが傍受されて、FBIは過去の犯罪者データと顔のマッチングを行い、拘置所に入れられた経歴を持つカトレアを焙り出す。

その時期に拘置所内で殺人事件が起こっていたことも。
カトレアはドン・ルイスの組織と、FBIと、双方から追いつめられていく。


冒頭部分の目の前で家族が殺され、ひとり生き残るってのは、『レオン』の悪徳警官ゲイリー・オールドマンが、家宅捜索だと押し入って、家族を殺してく場面と同じだし、恋人ダニーの存在は、『ニキータ』のジャン・ユーク・アングラードの役どころと一緒。

演じるマイケル・ヴァルタンの優男な感じまで似てる。
彼は『マンイーター』では頼りなさそうで、けっこう頑張るツーリストを演じてたが。
『ドミノ』と似てるってのは女殺し屋ってとこぐらいだが。
ドミノも大学進学はしてたんだよな。

カトレアを演じるゾーイ・サルダナは、細身で女豹のような身のこなしで、格闘場面も動きが機敏だし、そこんとこはいいんだが、ルックスも含めて、女優として、押し出しがいまいち弱い。
『ニキータ』のアンヌ・パリローとか、『ドミノ』のキーラ・ナイトレイのインパクトに、どうしても見劣りする。

むしろ少女時代のカトレアを演じたアマンドラ・ステンバーグという女の子が、アップでも人を惹きつける力があった。
彼女がシカゴに辿り着くまでの、セリフのないシークェンスも、心細さと、見たことない光景への好奇心がないまぜの表情がよかった。

映画では9才からの15年間はすっぱり削ってあるんだが、学校に通いながら、次第に殺しのスキルも叩き込まれていく、そういう過程を見せた方がよかったんではないか?
というか俺が見たかったんだが。

マオリ族の血を引くクリフ・カーティスが、カトレアの叔父エミリオを演じている。
俺はこの役者が好きなんで、パンフでも写真入りで紹介してほしかったよ。


映画自体は銃撃戦やら格闘技やら、いつもの「ベッソン印」のアクションで手堅くまとまってる。
ただこれは考えすぎかも知れないが、ベッソンの絡んだ活劇には、どことなく「人種蔑視」の視線を時折感じるのだ。

広末とジャン・レノの出た『WASABI』とか『TAXi2』なんかは、日本人を小馬鹿にしてるような描写が目立つし、リーアム・ニーソンの『96時間』ではセルビア人が諸悪の根源みたいな感じだし。

『パリより愛をこめて』では、ジョン・トラボルタが、いきなりチャイニーズ・レストランで銃を乱射して、中国人皆殺しにしちゃうし。

この『コロンビアーナ』も、ヒロインをコロンビア人にしてる目新しさはあるが、ここに出てくるコロンビア人たちは、みんな麻薬やら犯罪に関わっていて、カタギの人間がいない。
ダニーはアメリカ人だ。
結局コロンビア人のカトレアが、コロンビア人と殺し合うという話であって
「コロンビア人だからしょーがないよねえ」と言ってるように見える。

リュック・ベッソンは、自分で監督する作品はそういう視線は感じられないし、新作でもアウンサン・スー・チーの生き方に共感を表明してるけど、なぜか「ヨーロッパ・コープ」の代表として、映画の製作に絡むと、そういう気になる部分が目立ってくるのだ。

そう思うのは俺だけかもしれんが。

2012年9月8日

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スクールカーストとゾンビサバイバル [映画カ行]

『桐島、部活やめるってよ』

桐島部活やめるってよ.jpg

学校生活において、チビであることは、けっこうな不利として働くんだよな。
社会に出て、仕事の場になれば、身長など誰も気にしないが、中学、高校、ふつうに飯食って、寝て、体動かしてりゃ、身長は伸びるって時期に、なんでお前はチビなんだよ。
十代ってのは残酷な季節だから、こんな風な理不尽な物言いにさらされる。

なので自分がチビだと自覚してる少年は、人一倍アグレッシブにならなきゃいけない。
「あいつチビのくせにすげえな」
こう言わせるようにならないとね。
野球をはじめ、小柄なアスリートに、闘志を前面に出すキャラが多いのは、そのせいだ。
思索的なチビというのは、存在を正しく理解してはもらえないのだ。

この映画は、アメリカの青春映画のような「スクール・カースト」を描いてもいるが、格差を生む要因は他にもあるのだ。
神木隆之介が実際はどのくらい身長があるのかは、わからない。
そんなに背は低くないのかも。
だが意図的に彼より背丈のある子たちを、周りにキャスティングしてる気がする。

神木君が演じる、映画部の部長・前田と、共鳴を起こしてるようなキャラなのが、バレーボール部の風助。
キャプテンの桐島が、部の練習に出て来なくなり、代わりに「リベロ」を任されるんだが、とても同じレベルには追いつかない。
副キャプテンの久保は、そのことに苛立ち、執拗に球を拾わせる。
バレーボール部だから、久保をはじめ、部員は背が高い。
風助は似つかわしくないほどチビなのだ。

胸ぐらをつかまれて、風助は久保に叫ぶ
「目一杯やって、このレベルなんだよ!」
は、胸に来るセリフだった。


田舎町の高校。バレーボール部のキャプテンで、技量的にも、精神的にも、部の要だった桐島が、部を辞めるという。
その噂は瞬く間に校内を駆け巡った。その噂が立って以来、校内で桐島を見た者はいない。
動揺は部員以外にも広まっていった。

桐島の「彼女」で、校内でも人気No1の梨紗は、そのことを本人から聞かされておらず、いつもの待ち合わせ場所で、桐島の部活帰りを待ってる。
桐島の親友で、スポーツ万能の、元野球部員・菊池も、同じく本人からメール一つもらってなかった。
桐島が部を辞めるという話は、バレーボール部のマネージャーたちから広まったのだ。


梨紗を中心とする「グループ女子」には、沙奈とかすみと実果がいる。
4人はつるんではいるが、その関係は微妙なバランスの上に成り立っていた。

沙奈は「学園の女王」たる梨紗の親友を自認することで、ステータスを感じてる。
そして自分は桐島の親友である菊池と付き合ってる。
教室で菊池の後ろの席にいる、吹奏楽部の亜矢が、菊池に想いを寄せていることを察知すると、亜矢が見てることを承知で、菊池とキスを交わしたりする。

かすみと実果はバトミントン部だ。
実果は死んだ姉と同じバトミントンに打ち込むが、かすみのような才能がないことを自覚してる。
だから部を抜けた桐島の代役を背負わされた、バレーボール部の風助の気持ちが痛いほどわかる。

なので桐島のことに一々動揺する生徒たちを、つい冷笑もする。
その態度が沙奈には気に食わない。

かすみはそのグループの中で、冷静に振舞っている。
だが菊池とつるんでる竜汰とつきあってることは、周りに明かしてない。
「女子のつきあいは大変なのよ色々」
竜汰はそう聞かされていた。


「グループ男子」の菊池と竜汰と友弘は、いずれも部活動をしておらず、いつも校舎裏でバスケをしながら、桐島を待つのが日課だった。
菊池は一応野球部のバッグを背負っていたが、いつの頃からか、部活に出なくなってしまっていた。

野球部のキャプテンは顔を合わすと
「練習に出なくてもいいから、試合には来てくれんか?」
とその才能を惜しんだ。
菊池はどこか醒めていて
「できる人間はなにやってもできるし、出来ない奴はなにやってもできないってだけ」
と簡単にシュートを決めながら言う。


ここにもう一つのグループがある。「グループ空気」だ。
映画部という、ほとんどの生徒がその存在も知らない部に所属し、自主制作映画を撮ってる前田と、映画愛でつながった親友の武文だ。
教室の片隅で、「映画秘宝」の最新号を二人で読んで盛り上がってる。

前田が監督した第1作目は「映画甲子園」の一次審査に通ったと、全校朝礼で発表もされるが、生徒たちからはおざなりな拍手をもらうだけだ。
二次審査には落ちたんだが。
映画部の顧問がつけたという寒いタイトルは、失笑すら買っていた。

前田は2作目の構想を顧問に告げた。タイトルは『生徒会オブ・ザ・デッド』
高校を舞台にしたゾンビ映画だった。即効却下された。

「ゾンビがリアルだと思うか?」
「先生はロメロを見てないんですか!」
前田は食い下がるが、顧問は
「お前たちの半径1メートル以内の話を描け」
「恋だとか、友情だとか、高校生らしいものがあるだろう」

彼らの半径1メートル以内に、描くことができる何があるというのだろう。
他の生徒たちの半径1メートル以内に、前田と武文が入ったとしても、その存在を認識してはもらえない。桐島が不在であることで、逆にその存在を色濃く生徒たちに刻印するのに対し、前田と武文は、存在そのものが「不在」と一緒なのだ。


教室で「グループ女子」が雑談してて、前田たちの映画のタイトルの話になる。
それを笑い話にしてて、ふと教室の隅の席に、前田が雑誌を読んでるのが目に入る。
「聞こえたんじゃない?」
「平気平気」なんて言ってる。
武文が「おまたあ」とやってきて、二人は教室を出る。
「おまたあ、だって!」
女子たちの哄笑が響く。

「グループ女子」視点の際には、聞こえてないような描かれ方だが、前田視点で描き直されると、しっかり女子の声は聞こえてる。
武文は「あいつら、絶対に映画には使ってやらない」
校舎というのは、音が反響するような構造になってるのだ。
予想以上に声は届いてると思うべきだよな。
二人が「空気」と思われてる証拠だ。


印象的な場面がある。休日に町のミニシアターで、前田は塚本晋也監督の『鉄男』を見ていた。
堪能したなあと、何気なく後ろの席に目をやると、かすみが見に来てたので驚いた。

劇場を出て、前田は自販機でコーラをおごり、教室ではひと言も話す機会のないかすみと、会話した。
映画のことしか話せず会話は弾まない。

前田とかすみは同じ中学で、その当時はよく話しもしてたのに、高校に入って、変わってしまった。
「前田くん変わってないよね」
かすみはコーラの礼を言うと立ち去った。

このシチュは前にも覚えがある。
大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン(グミ編)』に書かれてた。

クラスで口も聞いたことのない可愛い子がいて、その彼女と主人公の高校生が、名画座で偶然会う。
かかってたのはジョン・カーペンターの3本立てで、
彼女は「カーペンターの話が出来る人がクラスにいると思わなかった」と
「カーペンター!カーペンター!」
とピョンピョン飛び跳ねて喜んでる。
その姿にいっぺんに恋してしまうという、そんな描写だった。

「そんなことが起きればいいよなあ」
というボンクラ映画少年の妄想として完璧なシチュだったな。

そうはならんけどねと言うのが、この映画の描写だったが、かすみはその後、校内でゾンビ映画の撮影に情熱を燃やす前田に、好感を抱いてくのだ。


この映画はいま挙げた登場人物のエピソードを羅列してくんではなく、前半は同じ1日を、各々の視点から捉えなおすという手法を取っている。

『羅生門』方式と言えるが、これは教室では、誰かが主役というわけではなく、教室にいる生徒ひとりひとりに、語られるべきストーリーがあるのだということなのだろう。


前田を演じる神木隆之介は、キャリアを積んでて、さすがに上手い。
ユーモラスな演技は見ものだ。

校舎の屋上でゾンビを撮りたいのに、大後寿々花演じる亜矢が、サックスを吹いてるのが、画面に入ってしまう。
前田は女子でも運動部の子には強く出られないが、文化部となると、怖くはないらしい。
少しの間どいてほしいと頼むが、応じてくれない。
亜矢は屋上のその位置から、バスケに興じる菊池を眺めながら、サックスの練習をしてたのだ。
でもそんなことは言えない。

あまり頑固なので、前田も口調がきつくなる。
「屋上は君だけの物じゃないよね?」
そのいつもの弱気とちがい「言い負かしたる」な感じが笑いを誘う。
大後寿々花の「なんでイジワルするのよ」というウルウルな表情もいじらしい。

役者で良かったのは、武文を演じた前野朋哉だ。
神木隆之介は黒縁メガネで、オタクっぽさを出してはいるが、顔が整ってるというのは隠しようがないが、武文のリアル映画オタな風貌は、生々しすぎて心が痛くなりそうだ。

しかも状況によっては前田より芯が強かったりする。
運動部の連中への捨てゼリフも可笑しい。

あと出番は多くないが、野球部のキャプテンを演じた高橋周平という役者も、なんか独特のグルーヴを感じる、面白いセリフ回しをしてたな。


桐島の不在が、生徒たちの関係に、様々に連鎖していき、最後にどんな光景を描くのか。
その大団円も見ものだが、乱暴な言い方をすると、その場面がなくても、俺は十分に面白がれた。

菊池が野球部の練習を眺める場面があるが、グラウンドが、道路より下にあるのがいい。
その見下ろしてる感じが、なにか過去の情景を見てるような心持ちにさせるのだ。
照明に灯が入り、バットが白球を弾く音がこだまする。

前田がゾンビ映画のセリフに書いた
「僕らはこの世界で生きていかなきゃならない」
というのは、十代の当事者の、のっぴきならない状況への覚悟でもあるが、その世界はたかだか3年で過ぎ去っていく。
あのグラウンドの光景には、現実はすぐに郷愁に変わる、その移ろいを感じさせるのだ。

2012年9月5日

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女優が美しさを競う古典怪談 [映画カ行]

『画皮 あやかしの恋』

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レスリー・チャンとジョイ・ウォンの『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』を見たのも随分昔のことになるが、なんか久々にそんな感じのファンタジーに思えた。

それもそのはずで、原作となる、清の時代に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」という短編怪談集には、この『画皮 あやかしの恋』と共に『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』の元になる短編も収められてるのだという。


若き将軍・王生(ワン・シェン)は、西域での合戦に臨み、砂漠の盗賊に捕らえられていた美女・小唯(シャオウェイ)を救い出す。盗賊はその時すでに絶命していた。
王生は小唯を片腕で脇に抱え、連れ出した。

小唯は盗賊に襲われたわけではなかった。
むしろ色香で床に誘い出し、抱かせると見せかけて、その心臓を一突きしてたのだ。
知る由もない王生は、小唯から身よりがないことを聞かされると、故郷の町に連れ帰る。

王生には美しい妻・佩蓉(ペイロン)がいたが、妻に事情を話し、家に住まわせることにした。
小唯は狐の妖魔で、絵に描いた人間の顔に化けられる術を持っていた。
そんな小唯は、妖魔でありながら、自分を救い出した王生に、恋をしてしまった。
小唯が時折、夫に送る艶かしい視線を、妻の佩蓉も気づいていた。
佩蓉は自分より年若い、薄幸の美女を、優しく受け入れはしたが、次第に猜疑心も芽生えてきた。


小唯が家にきて数ヶ月後、町では心臓を抉り取られる殺人事件が頻発するようになる。
犯人はトカゲの妖魔・小易(シャオイー)だった。
人間に化け、姿を消すこともできる小易は、愛する小唯の下僕となって、心臓を集めていた。
小唯の美貌は、心臓を食らうことで維持されてたのだ。

佩蓉はただならぬ気配を覗かせる小唯を、人間ではなく魔物ではないかと疑い始めた。
だが夫の王生はまともに取り合わない。
王生はいまや小唯を、実の妹のように思っていたのだ。

佩蓉は、かつて王生が属していた軍の主将だった龐勇(パン・ヨン)に手紙を送った。
龐勇は無数の敵を相手に、ひとり薙刀で向かい、打ち負かしてしまうほどの戦士だったが、佩蓉が王生と結ばれることを知り、軍を去った。
龐勇は佩蓉への想いを口に出すことはできなかったのだ。


龐勇と時同じくして町にやってきた夏冰(シア・ピン)は、妖魔によって命を奪われた祖父の仇を討ちに来た降魔師だった
。女なのに色気もない夏冰を、龐勇はなぜか気に入り、行動を共にすることに。
王生の家に出向き、小唯と対面する二人。夏冰はやはりなにか邪気を感じる。

「妖魔なら体にあざがあるはず」
小唯は拒むこともせず、疑いをかける佩蓉と夏冰の前で、その肌をさらす。
どこにもあざは見当たらない。
小唯に辱めを受けさせてしまった。佩蓉は自己嫌悪に沈んだ。

だが謝罪の部屋を訪れた佩蓉に、小唯は思いがけない素顔をさらした。
美しい顔の皮膚を自らはがすと、無数の虫がうごめく、おぞましい顔が佩蓉の前に。
小唯は正体を明かし、自分は王生の妻になるつもりだと言った。
王生には妾でもいいから、と懇願したが、首を縦に振ってはもらえなかった。
思いが遂げられなければ、このまま町の人間たちの心臓を抉り続ける。


龐勇と夏冰は、トカゲの妖魔・小易を追い詰めたが、とり逃がしてしまっていた。
佩蓉は決心せざるを得なかった。妖魔に太刀打ちすることはできない。
私が身を引けば、人々の命も守られる。
佩蓉は小唯との取引に応じた。

小唯の差し出した酒を口にする。すると佩蓉の髪も肌も真っ白に変貌した。
その姿を見た王生も、町の者たちも、佩蓉が妖魔だったと思い込んでしまう。

武器を手にした町民たちに囲まれた佩蓉を救い出したのは龐勇だった。
毒を盛られたということは察しがついていた。
狐とトカゲの妖魔をいまこそ打ち負かさねばならない。
その鍵を握ってるのは、降魔師の夏冰だった。


龐勇を演じるドニー・イェンが、冒頭では立ち回りを披露するが、実は決定的な役割は担ってないのが、意外な展開だ。
いつもの無双な感じを控えて、脇に回ってる。
映画としては3人の女優のそれぞれの個性を楽しむような作りになってる。

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肌の白さと伴って、皮膚の薄い感じが、どこかこの世のものでない幽気を漂わせて、妖魔の小唯にはぴったりだと思うジョウ・シュン。
王生の妻・佩蓉を演じるヴィッキー・チャオとは、同じ1976年生まれというが、ジョウ・シュンの方が、顔に幼さが残るんで、年下に見える。
小唯と佩蓉がひとりの男を巡って、視線を戦わせてくあたりから、映画としても見応えが出てくる。

ヴィッキー・チャオが毒を飲まされ、変貌してく場面は、二人の女優の演技も、もっとも火花を散らす所で、これは「女たちの物語」だとわかるのだ。
俺は好みとしてはヴィッキー・チャオだなあ。

もうひとり、降魔師の血を受け継ぐ娘・夏冰を演じるスン・リーは、男みたいな出で立ちで、化粧っ気もないが、こういう勝気な少女キャラも好きな向きはいるだろう。
実際は他の二人に劣らず、奇麗な顔立ちをしてるが、クライマックスの戦いで、覆い被さるように倒れた龐勇を抱きかかえて泣く場面は、もう少しアングルを考えてやれと思った。

彼女の顔を下の方からあおり気味で撮ってるから、泣き顔がブサイク。
きっと本人も納得してないぞ。

王生を演じたチェン・クンは伊勢谷友介に似たイケメンだが、この王生の優柔不断さが、騒ぎを大きくしてるとも思えるね。

この手の中国・香港ファンタジーにしては、前半などは非常に静かな場面が続くのがちょっと意外。
もっとコテコテにいろんな見せ場を放り込んでくるかと思ってたので。

トカゲの妖魔・小易は、狐の妖魔・小唯に想いが届かず。
小唯は人間の男・王生に焦がれるが、やはり想いたがわず。
龐勇は佩蓉への想いを拭いさることはまだできてない。
佩蓉もそれは知っているが、二人が結ばれることはない。

おどろおどろしいホラー風味に見えて、その実、成就しない想いに繋がれた者たちの、因果な恋物語になってる所が、古典として読み継がれてる所以かも知れない。

2012年8月19日

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タルコフスキーを久々にスクリーンで [映画カ行]

『鏡』

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渋谷の「ユーロスペース」で、「タルコフスキー 生誕80周年映画祭」を開催していて、この監督の中で一番好きな『鏡』をもう一度スクリーンで見たいと思い、行ってきた。
『鏡』は1975年作で、日本では1980年に「岩波ホール」で初公開となってる。俺もその時に見たのが最初だ。

今回の上映素材は作品によってデジタルリマスターと、そうでないのとがあり、この『鏡』はデジタルリマスター版でないのが残念だった。
昔、岩波で見た時に、とにかく映像の質感がすばらしく、目の覚めるような、というより目に染みるようなロシアの森や草原の色に見入ってしまった。
出だしのショットから心をつかまれる。


映画の語り手である監督自身の、母親マリアが、庭の柵木に腰掛けて、煙草をくゆらしながら、目の前に広がる草原と森を眺めてる。
それを背中側から撮ってるんだが、マリアが腰掛けてる柵木のしなり具合が絶妙で、額縁に入れれば、そのまま絵画になる感じだ。

語り手が子供時代に育った家は、鬱蒼とした木立の中にあり、まわりに人家もない。
道を訊きに男がやってきて、マリアにちょっかいを出す素振りを見せ、一緒に柵木に座ると、柵木が折れて、二人は転倒する。
男は笑って、草原の中へと立ち去ると、周囲からザァーっと草を撫でるように風が吹き渡る。

最初に見た時にもこの風にやられたのだ。
あれは巨大なファンかなにかを使って吹かせたのか?
それとも偶然にあのタイミングで、風が一陣吹き渡ったのか?
まるで生き物にように草木が、大きく呼吸し、波打ってるように見える。

その木立の中の家の敷地内にあった、干草を積む小屋が火事で全焼する場面も、深い緑の中に燃えさかるオレンジが、艶かしいほどに美しく見える。

タルコフスキーの『鏡』は全編このような映像が、心象風景のように脈略なく映し出される。
語り手は幼い頃を過ごした祖父の家を夢に見、母親マリアを、妻ナタリアの表情の中に見出し、妻や息子とうまく心を通わすことができない苦悩を滲ませる。


幼い日に、たらいで髪を洗う母親を見つめるイメージは、どことなく恐れを含んでいる。
たらいの水はオイルのようにぬめり、母親の顔は長い髪で覆われてる。
髪を前にたらしたまま、ゆっくりと上体を起こしていく母親マリア。
髪をかきあげると、光線の具合もあって、母親の顔に幾重もの影が差している。

この場面を改めて見て「これは貞子だな」と思った。
井戸の底から濡れた髪のまま這い出てくる貞子そのものだ。
中田秀夫監督は、『鏡』からイメージを移植したのかも。

子供の頃、母親と一緒に風呂に入ると、髪を洗う母親の、黒く長い髪に顔が隠れて怖かった憶えがある。『鏡』のこの場面は美しいモノクロで描かれてはいるが、言い知れぬ戦慄も同時に抱かせる。


タルコフスキーというと、とことんシリアスな印象があるが、この映画では妙なユーモアを感じる場面もある。
母親マリアの回想場面で、マリアはスターリン政権下の印刷所で、校正係をしている。
ある時、急に自分が校正し終わった原稿に、誤植があったかもと思いこみ、印刷所に駆け込んでくる。
その時代、特にスターリンに関する誤植は大ごとになりかねなかった。
同僚のエリザヴェータを伴って、輪転機へと走る。もうすでに印刷は始まってしまってたが、原稿をチェックし直しても、誤植はなかった。

ほっと胸を撫で下ろし、同僚と煙草をつけてると、エリザヴェータがやおらマリアを非難し始める。
「あんたはなんでも自分勝手にすすめる。結婚生活でも、そんなわがままを通すから、夫が逃げ出してしまったのよ」と。
親友と思ってたエリザヴェータから、そんなことを言われ、マリアは憤ってシャワー室に駆けて行き、ドアの鍵をかける。後を追ってきたエリザヴェータは
「どうしたって言うのよ、怒ったの?」
ってそりゃ怒るだろう。どうしたの?もないもんだ、変な女と見てて思った。
ユーモアというより、リアクションの理不尽さに笑ってしまう感じだ。


少年時代の語り手が、軍事教練を受ける場面。
一緒に教練を受けてるアサーフィエフという少年が可笑しい。
教官の「回れ右!」の号令に一回転する。みんなに背中を向けてる。

教官が「回れ右だぞ、命令がわからんか!」
「回れというから回りました。ロシア語で回るとは、360度回転することだと思います」
「屁理屈言うな、回れ右!」
アサーフィエフはまたしても一回転して、みなに背を向ける。
「親を呼ぶぞ!」
「誰の親ですか?」
「お前の親に決まっとる!」
だがアサーフィエフの親はレニングラード攻防戦で死んでるのだ。

漫才みたいなやりとりの後、アサーフィエフは別の組が教練を受ける射的場に向かって、手榴弾を転がす。教官はそれを見て、とっさに手榴弾の上に身をかがめて「伏せろ!」と叫ぶ。
だがなにも起こらない。アサーフィエフは「模擬弾です」と言う。

違いを見分けられなかった教官は、「歴戦の勇士が、情けない…」と肩を落とす。
この終始無表情の少年アサーフィエフが、いい味だしてる。


今回見直して面白かった場面は、語り手の自宅の空き部屋の場面。
息子のイグナートが廊下で祖母が来るのを待ってる。
すると誰も居ないはずの空き部屋のテーブルの前に、緑色の服を着た女性が座ってる。
促されて部屋に入るイグナート。
廊下にあるノートを取ってきてと言われ、さらにその中に書かれてる文章を読むように言われる。
緑色の服の女性は紅茶を飲んで、聞いている。

玄関のチャイムがなり、イグナートが開けると、祖母が立ってたが、祖母はイグナートだとわからずに
「部屋を間違えたわ」と立ち去る。
ドアを閉めて部屋に戻ると、緑色の服の女性の姿はない。
テーブルの上に残されたカップの痕の蒸気が、スウッと薄れてゆく。
女性がゴーストであったかのように。

こうだという説明はどの場面にもない。
浮かんでは消えていく、人生のイメージの断片のようだ。

深い森と、したたる水のイメージは、ラース・フォン・トリアー監督が『アンチクライスト』のラストで「この映画をタルコフスキーに捧げる」と献辞を出してるが、あんな映画でオマージュ捧げられても、タルコフスキーも天国で苦笑するしかないだろう。

2012年8月16日

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モンテカルロつながりで [映画カ行]

『恋するモンテカルロ』

恋するモンテカルロ.jpg

昨日コメント入れた『マダガスカル3』で最初に舞台となったモンテカルロつながりで、DVDレンタルしてみた。
ティーン・アイドル映画の範疇なんだろうな。
セレーナ・ゴメスが主演で、レイトン・ミースターとケイティ・キャシディがサポートしてるが、俺は3人ともよく知らない。
共通してるのは、アメリカのテレビドラマで人気を得た女優ということ。
テレビドラマは洋邦どちらも見ないから、役者にも疎い。

憧れのパリへの卒業旅行が、現地でのアクシデントで、モンテカルロへのセレブ旅行へとグレードアップという展開は、まあ全編他愛ないもんではある。
だがこういうヒロインが憧れの外国へ行くという話は、「おのぼりさん映画」なわけだから、他愛なくてもいいのだ。

俺は見てないけど、綾瀬はるかの『ホタルノヒカリ 劇場版』も、
「ローマの休日してきました!」っていうノリで、内容的には酷評が並んでたが、アメリカ映画も大して変わらんよと、これ見れば思うだろう。
異国のバカンス気分が味わえれば、それ以上のものを求める必要もない。

やはり俺は見てないけど、同じく酷評されてたジョニー・デップ&アンジーの『ツーリスト』も、ヴェネチア観光映画以上でも以下でもないんだろう。


この『恋するモンテカルロ』は他愛ないなりに、設定はちょっと面白い。
セレーナ演じる女子高生グレースは、地元テキサスのファミレスでバイトしてる。
パリへの卒業旅行の費用をこつこつ貯めてるのだ。

グレースと一緒に行くのが、バイト仲間のウェイトレスで、年上のエマ。地元の高校を中退して、モデルを目指してたが、挫折して町に舞い戻ってた。
けっこう長いつきあいになる、オーウェンという彼氏がいるが、オーウェンは、エマがパリの空気にのぼせて浮気するんじゃないかと気が気じゃない。

グレースの父親は、妻を亡くして、グレースの母親と再婚した。
前妻の間にはグレースより年上の娘メグがいる。
メグは母親の死を乗り越えられておらず、再婚した父親にもどこか苛立ちがある。
なので新しい母親の連れ子であるグレースとも折り合いはよくない。

そのメグは父親から、グレースの卒業旅行に同行するように言われて驚く。
両親としてはグレースの付き添いがエマでは心もとないのだ。
父親からのたっての願いを聞き入れたものの、気持ちは重い。
グレースだけが理由ではなく、エマはメグの同級生だったのだ。

真面目に大学に通ってるメグにとって、高校中退して、チャラチャラしてたあげくに、町に出戻ってウェイトレスやってるエマとはそもそも反りが合わない。
そんな二人と1週間も顔つきあわせるのか。ぎくしゃくムードで旅は始まるのだ。


仲良し3人組がキャピキャピはしゃぎ回るという設定じゃない。
3人の中では年上感がバリバリに出てる、エマを演じるケイティ・キャシディ。
一番堅物なメグを演じるのがレイトン・ミースターだ。

グレースは費用を安く上げようと、自分で選んだのが「魂の5日間ツアー」という、パリの名所という名所をバスで分刻みに巡るもの。移動は駆け足、ホテルも高級とは程遠い。

グレースは「どうせ寝るだけ」と自分は簡易ベッドに。
「どうなのよこのツアー」と思ってたメグだが、行く先々で偶然顔を合わせるオーストラリア人のイケメン、ライリーとエッフェル塔でも一緒となり、いい雰囲気に。
アバンチュールに一番縁のなさそうなメグが、最初に恋に落ちるとは。
だがその間に、ツアーバスは3人を残して出発。

取り残されて途方に暮れる3人の中で、急にグレースが
「どうせ私の計画が悪かったってことなんでしょ!」
と誰も言ってないのに逆ギレ。
おまけに雨に降られて、ズブ濡れで高級ホテルのトイレに駆け込んだ。
2人がなだめても納まらないグレースは、泣いてトイレに閉じこもる。


すると直後に入ってきたのがグレースそっくりの少女。なにやら高飛車に電話の相手に話してる。
少女が出ていった後、グレースの顔を見直して、髪型を変えさせてみる。
「ほんとそっくりだわ」
その少女はイギリスの大富豪の娘で、セレブとして有名なコーデリアだった。

ここパリからチャリティ・オークションに出席するため、モンテカルロに行く予定だったが、コーデリアはそれをすっぽかして島にバカンスに行くつもりだった。
ホテルに自分の荷物が着いてないとカンカンで、そのままホテルから出て行ってしまった。

ホテルの支配人は、トイレから出てきたグレースたちを見て、グレースをコーデリアと思い込む。
エマは機転を利かせて、2人は付き添いだと話し、支配人は、3人をスイートへと案内する。
セレブに成りすまして、突然の豪遊旅行に。

届いてなかった荷物が部屋に届く。大量のドレスや靴やアクセサリー。
「ちょっと拝借」と3人は思い思いに着飾って、セレブの社交界へ。
チャリティ財団のフランス人親子がお出迎え。
グレースはその息子テオにちょっと惹かれるが、テオはコーデリアの悪評を耳にしてるから、あまりフレンドリーではない。

パーティでコーデリアの叔母が、グレースに声をかける。なんかいつもと雰囲気がちがうと感じつつも、モンテカルロのチャリティは頼んだわよと。
初めて体験するお金持ちたちの世界からホテルに戻り、メグは堅物なんで、罪の意識が抜けないが、3人とも疲れてたんで、そのまま豪華なベッドで寝込んでしまう。


翌朝すっかり日は高くなり、おまけに本物のコーデリアがホテルに戻ってきた。3人は大あわてで部屋を元通りにし、ロビーを抜けると、用意されてた高級車に乗り込んだ。
空港からプライベートジェットで一路モンテカルロへ。

一方、部屋に入ったコーデリアは、荷物をチェック。ブルガリの超高級ネックレスがないことに気づく。それは前の晩、グレースがつけてたのだ。


この映画は女の子3人を常に一緒に行動させず、それぞれに出会いを設けて、エピソードを繋いでいく。その「つかずはなれず」の距離感がいいと思った。
ぎくしゃくしてた関係が、旅を通じて変化してく展開とか、それぞれのアバンチュールの描写とか、まあ収まる所に収まるんで、意外性はない。

セレーナ・ゴメスはグレースと、高飛車なコーデリアと二役を演じてるが、そんなに難しい演技でもない。ただ1箇所、グレースがコーデリアの口を手で塞ぐ場面を、ワンショットで収めてるのは、あれはどういう処理をしてるんだろ。

セレーナ・ゴメスは、女優としてより歌手として人気が高いらしいが、ヒスパニック系としては、ジェニファー・ロペス以来のスターとなるんだろうか。
調べてみたら、歌手としてはシングルで、パイロットの『マジック』をカバーしてるんだな。
パイロットは70年代の一時期、ヒット曲を連発したイギリスのポップロック・バンドで、メロディの良さと、ハイトーンのヴォーカルがインパクトあった。
俺も好きなバンドだったんで、このカバーは聴いてみたいな。
セレーナは小柄で、可愛らしい顔はしてるが、ちんくしゃな感じもあって、なんか不思議な持ち味は感じる。

それよりレイトン・ミースターのことを調べてて驚いた。家庭環境が凄すぎるな。
両親や祖父や叔母まで、一族そろって麻薬密売で財をなしてたってんだから。

それが家族が一網打尽となり、その時妊娠してた母親が、獄中で生んだのがレイトンだったと。
彼女の兄の一人も婦女暴行で逮捕されてる。
どんだけワイルドなファミリーなんだよ。

でも彼女は印象としてはヴァネッサ・パラディっぽい色白で、細やかな演技も見せるし、とてもそんな背景を持ってるように感じない。
家族がしてきたことと、彼女とは関係がないんだろうから、スポイルされずに、女優としてキャリアを伸ばしていけるといい。
陰ながら応援したくなったよ。

2012年8月14日

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ホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』 [映画カ行]

『影の列車』

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先月渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で開催されてた「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」にて上映された1997年作。
会期前に、上映作品を何度でも見れる「フリーパス券」を8000円で販売していたが、納得できた。
2度見たくなる映画ばかりなのだ。俺はこの『影の列車』を2度見に行った。

ストーリーを追う映画ではない。途中からの、エディターで映画のフィルムを何度も何度も巻き戻して「検証」してく場面の「シャアーシャコシャコシャコシャコ」っていう機械音がクセになってしまい、
「あれもう1回聴きたい」と思ったのだ。

『影の列車』は2回とも、他の作品の時より客が入ってた印象だ。半ば実験映画のような手つきの作品なので、イメージフォーラムに通うような客の嗜好に合うということなのか。


ジェラール・フルーリという名の弁護士が撮影した、プライベート・フィルムが発見されたという設定で映画は始まる。それは1928年から30年にかけて撮影されたもので、フルーリは当時高価な撮影カメラを所持した映画撮影愛好家だった。

そのフィルムが撮影された数ヶ月後に、オート=ノルマンディ地方の湖で行方不明になったとされる。
フィルムは湖近くにあった、フルーリの広大な屋敷での、家族や兄やメイドたちの、たわいない光景を映している。川辺でのピクニックの様子も撮影されている。
全体に痛みがひどく、夥しいフィルム傷が見られる。

本当に1930年当時に撮られたように見えるが、これはゲリン監督が、いかにもそういう風に加工したフィルムなのだ。タランティーノとロドリゲスが『グラインドハウス』で試みた「退色してノイズの乗った古いフィルム」の質感の、さらに手の込んだバージョンと思えばいい。

そのプライベート・フィルムを一通り見せた後に、現在のフルーリの屋敷や、周辺の町の様子を捉えたカラーフィルムが挿入される。このカラーの映像が瑞々しく美しい。
フルーリ家は無人となってるが、廃墟という寂れた佇まいではない。誰かが定期的にメンテナンスしてるようでもある。

この土地には昔鉄道が敷かれていたが、とうに廃線となってる。
森の中の廃線跡が映される。この風情がいい。
レールは鉄だから土には戻らないが、他の部分はすべて土に還った。雑草や落葉が敷き詰められて、森の風景の一部となってる。

フルーリの亡霊のようなものが映る、湖の湖畔。
夜になり誰もいない屋敷に、月明かりに照射された様々な影が躍る。
雷鳴とともにざわめく木々であったり、通りを行きかう車の航跡であったり。屋敷の中に霊のようなものは映らないが、その気配を感じさせるような描写だ。フルーリ家の亡霊が囁いているような。


その気配を漂わす思わせぶりなカラー画面から、再びプライベート・フィルムへと戻る。
ここでは、ゲリン監督が、古いフィルムをエディターにかけて、微に入り細に入り、そのコマに隠されたメッセージを解き明かそうとしてく。
フィルムを何度も巻き戻し、あるいはフィルムを複製して、2本を並列にヴューアーにかけて(という見てくれで)、被写体となる家族の人間の視線の交わり方から、秘められた感情を暴き出そうとする。


ポイントとなる人物は、撮影者のフルーリ自身のほかに、フルーリの長女オルタンス、彼女の叔父にあたるエティエンヌ、そして若いメイドだ。
フィルムは特に長女オルタンスを好んで撮影してるようだ。
オルタンスは20才前後だろうか。もう少し若いのか。

彼女はカメラに向け、しばしば意味深な視線を投げかけてる。艶かしいといってもいい。
撮られて無邪気に笑ってるというのではないのだ。
ゲリン監督はフィルムをコマ単位で解剖しつつ、オルタンスの視線の行く先に注意を払う。

もう1本のフィルムには叔父のエティエンヌの表情が捉えられていて、2本のフィルムのオルタンスと叔父エティエンヌの視線が交わる。この二人の間にはなにかあるのか?

さらにフィルムを検証していく。撮影者フルーリの手前に背中を向け立っているエティエンヌ。その前を自転車に乗ったオルタンスが通り過ぎようとしてる。
オルタンスは叔父に向かって手を上げて、叔父も応えてるように見える。

だが何度も巻き戻すうちに、画面にはもう一人映ってることがわかる。自転車で通り過ぎるオルタンスの後ろの木陰に、若いメイドが佇んでいるのだ。
叔父の視線はそのメイドの方に注がれているんではないか?

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映画はこの後、再現フィルムのように、オルタンスと叔父エティエンヌと、若いメイドと、撮影者フルーリを登場させる。ここはカラーとなってる。

俺は見てて判然としなかったが、この再現フィルムの場面に出てくる登場人物たちは、プライベート・フィルムの中の被写体と微妙に顔がちがうように思えた。同じ俳優だったかもしれないが、似た俳優を使ったかもしれない。
その「ちょっとちがう」感をわざわざ出そうという意図ならば、ゲリンあんた凝りすぎだよ。

その再現フィルムの中ではっきりするのは、エティエンヌが若いメイドに言い寄ってるという事だ。
長女のオルタンスは、叔父と禁じられた関係にあったのか?
もっと邪推すれば、父親フルーリとオルタンスはどうだったのか?

撮影者フルーリは、オルタンスが叔父とただならぬ関係になっていて、その叔父は自分とこの若いメイドに手を出してるらしい。そう思っていたのか?
フィルムを解剖していくなかから、メロドラマを紡ぎ出しているような。

映画は最後に、フルーリが行方不明になった朝の光景を映し出す。
ひと気のない屋敷にフルーリの亡霊が立ち現れる。亡霊だと思うのは、背景の木々などに、彼の姿が透けて見えるショットがあるから。
彼はカメラと三脚を携え、湖へと向かう。ボートで漕ぎ出し、霧の水面へと消えていく。


前に『ヒューゴの不思議な発明』のコメントで、「失われた映画が発見されることがある」というようなことを書いたんだが、この世の中には、商売として作られた映画のフィルムのほかに、個人が自分の家族や身の周りのものを記録した「プライベート・フィルム」も膨大な数存在するだろう。
この映画を見てて感じたのは、撮影者や被写体となった家族たちは、とうにこの世に存在しなくなっても、フィルムはどこかに眠っているのだろうということ。

死んだ家族は供養されるが、当たり前の如く、家族の姿を遺したフィルムは供養などされない。
だがなにかのきっかけで掘り起こされたり、発見されたりして、それをリールにかけられ、映写されれば、そこに映された家族の生きてきた時間が甦る。

この映画の中で映されたプライベート・フィルムのように、その細部に目を凝らしていくと、家族たちが生前は口にすることのなかった秘密が、浮かび上がってくる。
それはこの世にはもういない魂が、フィルムを通して語りかけてくるということで、
つまりこれはゴーストストーリーなのだ。

誰に看取られることもなく、放置されたままのフィルムの中に、成就されることのない想いが封印されている。そういうことがあるのではないか?

ゲリン監督にとって、死者との邂逅というのは、おどろおどろしいものでも、おぞましいものでもなく、むしろ耳をすませば、その語りかけを聞き取れる、そう感じているのかもと、『ベルタのモチーフ』とこの映画とを見ると思うのだ。

影の列車.jpg

この映画で俺が一番好きなショットがあるんだが、それは大きな川を見下ろせる丘へ、フルーリの家族がピクニックに行くという、プライベート・フィルムの中の場面。
丘の稜線を家族が一列になって下ってくのを、ロングで捉えていて、高い木の間を行く家族が影絵のようなシルエットで映される。

ここは美しいショットなんだが、これを見て即座に思い出したのは、オランダのアニメ作家が作った8分間の短編『岸辺のふたり』の絵のタッチだ。

線画のように黒と余白の白だけで描かれたアニメで、有名な「ドナウ川のさざ波」の旋律に乗って、ナレーションもセリフもなく、絵だけで語られるストーリー。
自転車で高い木のそびえる一本道を走る横移動の画面が、ピクニックの画面と重なるのだ。

奇しくもこの『影の列車』と同じく、登場人物は娘と父親で、その父親は岸辺からボートにひとり乗ったまま帰らないのだ。
父親とその岸辺に自転車で遊びに来てた娘は、その後何年も何年も、自転車で岸辺に立っては父親の帰りを待つ。そのうち娘には恋人ができ、家族ができ、そして孫もできて、彼女のシルエットも前屈みになってくる。
それでも彼女は父親が忘れられず、その岸辺に立ち寄るが、もう水がなく、葦が生い茂ってる。
年老いてしまった娘がその葦に分け入ると、幼い日に父親が乗っていったボートが打ち捨てられていた。娘は涙にくれて、そのボートで眠りこけてしまう。
そして娘が物音に気づいて目覚めると、葦の向こうから、あの日の父親が現れた。

このストーリーを8分間で描いてるのだ。しかも娘の顔も父親の顔も描かれてはいない。それでも動作だけで、その心情が手に取るように伝わってくる。
娘が最後に出会うのはゴーストなのだろうという所あたりも、『影の列車』のフルーリの亡霊につながって見える。

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このアニメを俺はDVDで買って見て、感激したんで、その翌年2004年に、今はない新宿の「テアトルタイムズスクエア」で上映された時に、職場の同僚たちを引っ張って行った覚えがある。
なにせ8分しかないから、ほかに短編が何本かついてたと思う。
『岸辺のふたり』はほかの短編を挟んで、1回の上映で2度繰り返し見せるという、そんな異例の上映の仕方だった。
ゲリン監督は『岸辺のふたり』を見てたんじゃないかな?

2012年8月3日

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フィルムセンターで『カサンドラ・クロス』 [映画カ行]

『カサンドラ・クロス』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

1976年12月に「お正月映画」として、本命の『キングコング』(東宝東和)への対抗馬となった、日本ヘラルド映画配給作。
オールスターによるパニック大作だが、イタリア人プロデューサー、カルロ・ポンティが指揮を執り、ヨーロッパ資本で作られてるのが目新しかった。
なので当時アメリカでは大きな興行も打たれてないのだ。
アメリカが悪者扱いされてるのも、そんな製作の背景があるからだ。


ジュネーブにあるIHO(国際保健機構)に、救急隊員と患者を装ったテロリストが侵入。爆弾を仕掛けようとして、警備兵と撃ち合いになり、細菌研究室に逃げ込む。
警備兵の銃弾が細菌を保管するケースを破壊し、テロリスト二人は飛び散った細菌をモロに被る。
一人は窓を破って逃走し、ジュネーブからストックホルムへと向かう大陸横断列車に乗り込んだ。
取り押さえられたテロリストは、そのまま病室へ移されるが、すでに感染は体全体に広がっていた。

診察したスイス人の女医エレナは、伝染病の症状を疑った。
ほどなくアメリカ陸軍情報部のマッケンジー大佐がIHOに現れた。テロリストが浴びたのは、アメリカ軍が細菌兵器として開発途中の伝染病菌だと認めた。
逃げたもう一人を一刻も早く確保しないと、ヨーロッパ中に伝染してしまう。

大佐は病室にいるテロリストの所持品から、大陸横断列車の往復切符を見つけた。
もう一人はその列車の中だ。
乗客名簿を調べると、エレナもその名前を知る著名な医師チェンバレンが、偶然乗り合わせていた。

マッケンジー大佐は無線で大陸横断列車と交信、チェンバレンを呼び出して、事の顛末を説明すると、車内に潜むテロリストを探し出すよう告げる。大佐は言った。
「千人の乗客を隔離して、検疫収容するため、列車の進路を変える」


列車はポイントを切り替え、ポーランドのヤノフへと向かうことに。途中ニュールンベルグで列車は停車し、警備兵と医療班を乗り込ませた。
すでに車内で発見されたテロリストは、多くの乗客と接触しており、伝染病の症状を示す乗客たちも増えつつあった。
列車の昇降口、窓、通気口はすべて鉄板などでシールドされ、車内には高濃度酸素が送りこまれた。

この進路変更に恐怖したのは、ユダヤ人の老セールスマン、キャプランだった。
目的地であるヤノフには、第2次大戦時に、ナチスの強制収容所があり、キャプランの妻子はそこで命を絶たれていた。
しかもヤノフへ行く途中には「カサンドラ・クロッシング」と呼ばれる長い鉄橋が架かってる。
その鉄橋は終戦後は老朽化を理由に封鎖されており、橋の下の住民たちも立ち退いているのだと言う。


キャプランの口調が真に迫っており、チェンバレンは鉄橋の前で列車を停車すべきだと、大佐に掛け合うが、大佐は橋の安全性を確認してると取り合わない。

チェンバレンは通話口の向こうの、顔の見えないマッケンジー大佐の態度から、恐るべき意図を嗅ぎ取った。アメリカ軍は開発した細菌兵器の情報を隠蔽するため、千人の乗客たちの命を、列車もろとも橋から突き落としてしまおうとしてる。
チェンバレンは乗客の中から有志を募り、列車の奪還に動き出した。


各国から多彩な顔ぶれを揃えたキャストの中で、肝だと思うのは、マッケンジー大佐を演じたバート・ランカスターだろう。
なぜかと言うと、彼は過去に「列車を奪還」する側の主人公を演じたことがあるのだ。
1964年のジョン・フランケンハイマー監督作『大列車作戦』だ。

大列車作戦.jpg

第2次大戦で敗戦濃厚となったナチスドイツの大佐が、パリから名のある美術品を、根こそぎ47両編成の貨物列車で、ベルリンへと持ち去ろうと計画する。
軍事費に充てるという名目だったが、実際は大佐個人の欲望によるものだった。

フランス国有鉄道の操車係長ラビッシュは、仲間とともにレジスタンスとして立ち上がり、列車のベルリン到着を、様々なサボタージュで阻止していく。

中でも面白かったのは、列車には当然ナチスの警備兵たちが乗ってるわけだが、彼らは駅名がドイツ語に変わり、ベルリンが近づいてると喜んでる。だがそれはレジスタンスたちが、駅名表示板を架けかえていて、実際は列車はパリの周りを一晩中廻っていただけというもの。

ラビッシュを演じたバート・ランカスターは、映画の世界に入る前は、サーカスの団員だった。その身体能力が走る列車でのアクションに活かされていたのだ。

『大列車作戦』で列車の進路を阻止しようと体を張ってたランカスターが、この『カサンドラ・クロス』では、列車の見えない位置から、いわば遠隔操作のように、陰謀の進路へと向かわせる役回りに転じてる。


その陰謀を阻止しようとするチェンバレン医師を演じるのがリチャード・ハリスだ。
70年代のハリスは「映画のヒーロー」の一人だった。
だがマックィーンのようなひと目でわかるヒーローっぽさはない。
思えばルックスもちょっと不思議だ。般若のような顔立ちなのに、頭髪はポップス歌手みたいな、やんわりとしたウェーブがかかってる。そのアンバランス。マッチョ体形でもない。

でもこの人が「こうだ」と言うと、なんか説得されてしまうような、「修羅場」に強そうな大人な感じがあるんだね。

この人が実質主役なんだが、クレジットのトップにはソフィア・ローレンの名が。キャリアからいえばリチャード・ハリスより上だけど、前にも書いたが「男の活劇」にしゃしゃり出てくる悪い癖があるんだよ。この映画でも別に出てなくてもいい役だ。
製作してるのが旦那のカルロ・ポンティだから、ゴリ押しって感じもあるな。

その二人に次いで、クレジットの3番目に上がってるのが、当時はまだ名が知られてなかったマーティン・シーンだ。けっこうなスターが並んでる中で3番目というのは大したもんだが、俺も当時は顔を憶えたばかりで注目してたのだ。

マーティン・シーンは、エヴァ・ガードナー演じる武器製造メーカーの社長夫人のツバメみたいな存在で、その実は麻薬密輸の手配犯ナバロを演じてる。
社長夫人と同伴してれば、国境もフリーパスで通れることを見越してた。
まあ、ろくでなしなんだが、映画の最初の会話の中で、ナバロが「アルピニスト」でもあるというセリフが、後半のスタントの見せ場への伏線になってる。

そのナバロを秘かに追ってきた麻薬捜査官を演じるのがO・J・シンプソンだ。
実生活で追われる身になるのは、まだ先のことである。

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細菌兵器というのは、ナチスの強制収容所の「ガス室」を思わせ、シールドされた大陸横断列車は、強制収容所へユダヤ人たちを送りこんだ貨物車を当然思わせる。
ドイツの戦犯を裁いたニュールンベルグが、死へのポイント切り替え地点に設定されてるのも露骨な暗喩だ。
ちょっと社会派を気取ったあたりに、逆に底の浅さも指摘されてきた作品だが、汚染の被害者や、その事実を隠蔽しようする、国家権力の姿勢というのは、つい最近日本人が身に染みて味わったことだけに、このパニック映画をもう「絵空事」と笑えないのが情けない。

昔封切りを見た時には、感じなかったことだが、今回見直して、この映画には、一度も列車の機関士の姿が映らなかったのが気になった。
自動走行なんかできる車両ではないし、当然機関士は乗ってるはずだ。
こんな国際列車の運転を任されるんだから、それなりにキャリアも積んでるだろうし、ということは鉄路にも熟知してるだろう。
ヤノフへ向かう線は廃線となってて、しかも渡るには危険な老朽化した橋の存在も知ってるはず。
なぜすんなりと列車は向かってしまうのか?

どういう説得をされたか、または脅しをかけられてたのか?それともニュールンベルグで列車を下ろされ、軍の人間が代わりに運転席に座ったのか。
橋の直前で機関車両から飛び降りるような算段だったのか?
そこを数カットでも入れ込んでほしかった。
いやそういう描写を俺が見落としてたのかな。どうも釈然としないのだ。

2012年7月30日

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