インドネシア容赦ない『ザ・レイド』 [映画サ行]
『ザ・レイド』
ブルース・リーが十数分だけ出てる「主演作」の『死亡遊戯』を、封切りの時に、日比谷映画で見た。
黄色に黒のラインが入ったトラックスーツを着た、ブルース・リーによる格闘場面が十数分撮られたまま、彼の死で未完となった「幻の映画」を、代役を使って完成させたものだ。
短編を長編映画に作り直すということは、よくあることだが、断片的なフッテージから、1本の長編映画をこしらえるというのは稀だろう。
その無理矢理感は公開前の段階からプンプン臭ってはいたが、映画オープニングの、ジョン・バリーのテーマ曲のカッコよさに
「ああ、これはちゃんとした映画になってるはず」
と、つかの間胸を撫で下ろした。
だが本編に入り、リーとおぼしき主人公は現れてからは、もういけない。
黒いグラサンで目は覆っているが、本人ではないことは一目瞭然だった。
一応代役の人たちも、それなりカンフーを習得してるから、動きは悪くない。
遠目でアクションを見てる分にはいいが、寄るともろバレで、場面によっては、ブルース・リーの顔をはめこんだりしてる。
本来なら「ふざけんな!」ってとこなんだろうが、俺を含めて、映画を見てた客たちは、
「なんであれ努力してることは認める」
というスタンスだったと思う。そして代役であれ、
「あれはブルース・リーなのだ」
と、自分の中で脳内変換させて見てたのだ。
こんなに観客に気を遣わせる映画もない。
そこにはもちろん商売っ気があったにせよ、ブルース・リーの雄姿を、いま一度スクリーンに甦らせようとした、作り手の執念と、そのことを踏まえて気を遣いながら見る観客の、そんな不思議な連帯感があの映画を形作ってたんだと思う。
その観客の気遣いが終盤の「レッドペッパー・タワー」(唐辛子塔ってどうよ?)での本人登場で報われる。
と同時に代役たちに「今までご苦労さん」と言う気持ちにもなった。
階を上がるごとに刺客が現れ、本物のブルース・リーが打ち倒していく。
ヌンチャクの戦いも見れる。
ただ最上階のラスボスの、カリーム・アブドゥル・ジャバーがな。
俺はその時は胸に閉まっといたが、あれはどう見ても「ただのノッポ」だ。
バスケ選手としてはスターでも、リーのもとでジークンドーを習ってたとは云っても、あんな蹴りでブルース・リーの相手は務まらない。
チャック・ノリスに見劣りしすぎる。
そのラスボスの残念感だけは拭えなかった。
でようやく、この『ザ・レイド』に話がつながる。
日本に入ってくること自体が珍しいインドネシア映画だが、『死亡遊戯』の「レッドペッパー・タワー」でのシークェンスだけを抽出したような、全編が殺し合いという凄まじさなのだ。
ジャカルタにある、麻薬王が君臨する、スラムのような30階建ての高層アパートに、20人のSWATチームが突入する。
プロットはそれだけだ。
スピルバーグの『激突!』なみにシンプル。
SWATチームは完全武装して乗り込んでるが、見張りの一人に逃げられ、麻薬王リヤディは、突入の事実を知る。
アパートの各階に設置されたカメラによって、SWATチームの位置が把握され、リヤディはモニタールームから、全館に通知する。
「当ビルに害虫が侵入した。駆除に協力してくれた者には、アパートの永住権を与えよう」
それを聞いて、ドアというドアから、住人たちがワサワサと襲い掛かってきた。
襲撃に備えて、向かいのビルに配置してた麻薬王のスナイパーたちの銃撃も受け、20人いたSWAT隊員は、瞬く間に半数以下となる。
SWATのチームリーダーのジャカは、奇襲作戦を計画したワヒュ警部補に、本部に応援を要請してほしいと告げる。
だがこの作戦は警部補が独断で決めたもので、応援は来ないことが判明。
退路も断たれたSWATチームは、一転窮地に陥る。
屈強なジャカは徹底抗戦を覚悟するが、自分のチームの中に、救世主となる男がいることに気づいてなかった。
SWATに配属されたばかりの新人警官ラマは、インドネシア発祥の格闘術「プンチャック・シラット」の使い手だった。
リーダーのジャカと別行動となったラマは、なみいる敵を次々に打ち倒していった。
凄まじい速さの拳と蹴り。
ナイフや棒も自在に操り、容赦なく留めを刺してく。
6階からリヤディのいる15階まで、ラマは徐々に歩を進めつつあった。
階が上がるごとに、銃撃戦から肉弾戦へと様相は変わっていった。
そしてリヤディの側近「マッドドッグ」が動いた。
ジャカが銃を突きつけられると、マッドドッグは、銃など必要ないというジェスチャーで、ジャカを呼び寄せる。
素手でカタをつける気だ。
ジャカも腕に覚えはあるが、マッドドッグの強靭さは想像を超えていた。
拳も蹴りもまるでダメージを与えられない。
ジャカの表情に絶望の色が滲んでくる。
二人の戦いを知る由もないラマは、後から後から湧いてくる敵に、満身創痍となりながらも、前進を続けていた。
もはやラマが15階に辿り着いた時、マッドドッグと相まみえることは、避けようがなかった。
主役ラマを演じるイコ・ウワイスはマスクもいいし、格闘のスキルも半端ないので、これはトニー・ジャー以来のスターになりそう。
この映画が前述した『死亡遊戯』より優れてるのは、なんといってもラスボスがガチに強いという所だ。
マッドドッグを演じるヤヤン・ルヒアンは1968年生まれというから、映画の撮影時には43才になってるが、29才のイコ・ウワイスに全く遜色ない、動きの速さと技の切れを見せる。
この人はプンチャック・シラットの他、さまざまなマーシャルアーツを習得してるだけでなく、
「インナーブリージング」という、衝撃に耐えられる体を作るテクニックも持っているという。
「拳も蹴りもまるでダメージを与えられない」という設定は絵空事ではないのだ。
こういうマーシャルアーツ系の映画は、とにかく肉弾戦を「ひえええ」とか「うはあああ」とか感嘆を漏らしながら、画面に釘付けになるというのが楽しいのであって、その意味ではアドレナリン出まくりで、見終わってグッタリするほどだ。
インドネシアおそるべし。
ジャカを演じたジョー・タスリムという役者は、口ひげのはやし方とか、全体の印象が、フィリピンの歴代最強ボクサー、マニー・パッキャオそっくりで、これは本人が意識してやってるんだろう。
監督がイギリス人のギャレス・エヴァンズという人で、演出スタイルに垢抜けた感覚がある。
アジアの監督だともう少しドロ臭くなるところだろう。
2012年11月5日
ブルース・リーが十数分だけ出てる「主演作」の『死亡遊戯』を、封切りの時に、日比谷映画で見た。
黄色に黒のラインが入ったトラックスーツを着た、ブルース・リーによる格闘場面が十数分撮られたまま、彼の死で未完となった「幻の映画」を、代役を使って完成させたものだ。
短編を長編映画に作り直すということは、よくあることだが、断片的なフッテージから、1本の長編映画をこしらえるというのは稀だろう。
その無理矢理感は公開前の段階からプンプン臭ってはいたが、映画オープニングの、ジョン・バリーのテーマ曲のカッコよさに
「ああ、これはちゃんとした映画になってるはず」
と、つかの間胸を撫で下ろした。
だが本編に入り、リーとおぼしき主人公は現れてからは、もういけない。
黒いグラサンで目は覆っているが、本人ではないことは一目瞭然だった。
一応代役の人たちも、それなりカンフーを習得してるから、動きは悪くない。
遠目でアクションを見てる分にはいいが、寄るともろバレで、場面によっては、ブルース・リーの顔をはめこんだりしてる。
本来なら「ふざけんな!」ってとこなんだろうが、俺を含めて、映画を見てた客たちは、
「なんであれ努力してることは認める」
というスタンスだったと思う。そして代役であれ、
「あれはブルース・リーなのだ」
と、自分の中で脳内変換させて見てたのだ。
こんなに観客に気を遣わせる映画もない。
そこにはもちろん商売っ気があったにせよ、ブルース・リーの雄姿を、いま一度スクリーンに甦らせようとした、作り手の執念と、そのことを踏まえて気を遣いながら見る観客の、そんな不思議な連帯感があの映画を形作ってたんだと思う。
その観客の気遣いが終盤の「レッドペッパー・タワー」(唐辛子塔ってどうよ?)での本人登場で報われる。
と同時に代役たちに「今までご苦労さん」と言う気持ちにもなった。
階を上がるごとに刺客が現れ、本物のブルース・リーが打ち倒していく。
ヌンチャクの戦いも見れる。
ただ最上階のラスボスの、カリーム・アブドゥル・ジャバーがな。
俺はその時は胸に閉まっといたが、あれはどう見ても「ただのノッポ」だ。
バスケ選手としてはスターでも、リーのもとでジークンドーを習ってたとは云っても、あんな蹴りでブルース・リーの相手は務まらない。
チャック・ノリスに見劣りしすぎる。
そのラスボスの残念感だけは拭えなかった。
でようやく、この『ザ・レイド』に話がつながる。
日本に入ってくること自体が珍しいインドネシア映画だが、『死亡遊戯』の「レッドペッパー・タワー」でのシークェンスだけを抽出したような、全編が殺し合いという凄まじさなのだ。
ジャカルタにある、麻薬王が君臨する、スラムのような30階建ての高層アパートに、20人のSWATチームが突入する。
プロットはそれだけだ。
スピルバーグの『激突!』なみにシンプル。
SWATチームは完全武装して乗り込んでるが、見張りの一人に逃げられ、麻薬王リヤディは、突入の事実を知る。
アパートの各階に設置されたカメラによって、SWATチームの位置が把握され、リヤディはモニタールームから、全館に通知する。
「当ビルに害虫が侵入した。駆除に協力してくれた者には、アパートの永住権を与えよう」
それを聞いて、ドアというドアから、住人たちがワサワサと襲い掛かってきた。
襲撃に備えて、向かいのビルに配置してた麻薬王のスナイパーたちの銃撃も受け、20人いたSWAT隊員は、瞬く間に半数以下となる。
SWATのチームリーダーのジャカは、奇襲作戦を計画したワヒュ警部補に、本部に応援を要請してほしいと告げる。
だがこの作戦は警部補が独断で決めたもので、応援は来ないことが判明。
退路も断たれたSWATチームは、一転窮地に陥る。
屈強なジャカは徹底抗戦を覚悟するが、自分のチームの中に、救世主となる男がいることに気づいてなかった。
SWATに配属されたばかりの新人警官ラマは、インドネシア発祥の格闘術「プンチャック・シラット」の使い手だった。
リーダーのジャカと別行動となったラマは、なみいる敵を次々に打ち倒していった。
凄まじい速さの拳と蹴り。
ナイフや棒も自在に操り、容赦なく留めを刺してく。
6階からリヤディのいる15階まで、ラマは徐々に歩を進めつつあった。
階が上がるごとに、銃撃戦から肉弾戦へと様相は変わっていった。
そしてリヤディの側近「マッドドッグ」が動いた。
ジャカが銃を突きつけられると、マッドドッグは、銃など必要ないというジェスチャーで、ジャカを呼び寄せる。
素手でカタをつける気だ。
ジャカも腕に覚えはあるが、マッドドッグの強靭さは想像を超えていた。
拳も蹴りもまるでダメージを与えられない。
ジャカの表情に絶望の色が滲んでくる。
二人の戦いを知る由もないラマは、後から後から湧いてくる敵に、満身創痍となりながらも、前進を続けていた。
もはやラマが15階に辿り着いた時、マッドドッグと相まみえることは、避けようがなかった。
主役ラマを演じるイコ・ウワイスはマスクもいいし、格闘のスキルも半端ないので、これはトニー・ジャー以来のスターになりそう。
この映画が前述した『死亡遊戯』より優れてるのは、なんといってもラスボスがガチに強いという所だ。
マッドドッグを演じるヤヤン・ルヒアンは1968年生まれというから、映画の撮影時には43才になってるが、29才のイコ・ウワイスに全く遜色ない、動きの速さと技の切れを見せる。
この人はプンチャック・シラットの他、さまざまなマーシャルアーツを習得してるだけでなく、
「インナーブリージング」という、衝撃に耐えられる体を作るテクニックも持っているという。
「拳も蹴りもまるでダメージを与えられない」という設定は絵空事ではないのだ。
こういうマーシャルアーツ系の映画は、とにかく肉弾戦を「ひえええ」とか「うはあああ」とか感嘆を漏らしながら、画面に釘付けになるというのが楽しいのであって、その意味ではアドレナリン出まくりで、見終わってグッタリするほどだ。
インドネシアおそるべし。
ジャカを演じたジョー・タスリムという役者は、口ひげのはやし方とか、全体の印象が、フィリピンの歴代最強ボクサー、マニー・パッキャオそっくりで、これは本人が意識してやってるんだろう。
監督がイギリス人のギャレス・エヴァンズという人で、演出スタイルに垢抜けた感覚がある。
アジアの監督だともう少しドロ臭くなるところだろう。
2012年11月5日
ステイサムと少女のニューヨーク逃走劇 [映画サ行]
『SAFE』
ジェイソン・ステイサム主演作というと、「ステイサム映画」というブランドとして捉えられる印象がある。
機敏な身のこなしと、マーシャルアーツの見せ場がふんだんに織り込まれたアクションだろうと。
今回もその特徴は備えてはいるが、ステイサムのファンだけに留まるのは勿体ないなと思わせる内容だった。
アクション俳優というのは、人気のピークが過ぎると、あとは似たりよったりの新作を作り続けるという循環に入る。
そして監督も「おかかえ」のように、何度も同じ人間と組むようになるのだ。
ブロンソンしかり、ヴァン・ダムやセガールしかり。
ステイサムがそれらのスターたちと違うのは、シリーズ作以外は、同じ監督と組むことがない。
なので馴れ合いにならず、毎回少しずつ雰囲気が変わって、飽きられることがないのだ。
まあ映画のテイストは変わっても、ステイサムの出で立ちはほぼ変わらないし、絶対死ぬ事もないので、ファンにとっては「安心のステイサム・ブランド」となるわけだが。
今回の『SAFE』は、偶然出会った中国人の少女を、ステイサムが守りぬくという、『レオン』や『アジョシ』を思わせる筋立てで、アクションだけ目当てのファン以外にも、広くアピールできる要素を含んでいる。
この二人の結びつきが軸にはなってるが、先の2作ほどにウェットにはならない。
中年男と12才の少女の間には、ハードボイルドな空気が流れてる。
中国人の少女メイを演じるキャサリン・チェンという子は、松坂大輔に似てる、はっきり愛嬌に欠ける顔だちなんだが、その目つきの悪さも、媚びがなくていい。
目の前で人が殺されすぎるんで、これはPTSD発症するだろと思ってしまうほどに、過酷な目に遭わされる。
監督はエンドクレジットで気づいたが、ボアズ・イェーキンだった。
この映画のプロデューサー、ローレンス・ベンダーと組んだ
1994年の監督デビュー作『フレッシュ』を見てると、納得できるのだ。
あの映画でも、メイと同じ12才の黒人少年が、麻薬売買に手を染め、否応なしに、血まみれな抗争劇のただ中に放り込まれていく姿が描かれていた。
『フレッシュ』とこの『SAFE』も、ニューヨーク、ブルックリンを舞台にしていて、ボアズ・イェーキン監督にとっては、あの黒人少年の過酷な体験を、同い年の少女に再び辿らせてるような所がある。
メイが幼くして数学の天才で、一度記憶した数字を忘れないという能力を持ってるという設定は、やはり天才少年が、偶然に政府の機密事項にかかわる暗号を解読してしまい、命を狙われる
『マーキュリー・ライジング』を連想させる。
どちらも子供を守るのがゲーハーな主人公というのも一緒。
この『SAFE』はボアズ・イェーキンの演出がいい。普通つかみに持ってくるような、冒頭部分でのアクションというのがない。
無関係なステイサムと、中国人少女がどうやって出会うのかまでを、互いの経緯を交互させながら、無駄を省いて描いていく。
ステイサム演じるルークは、ニュージャージーで行われてる、地下格闘技の試合で、八百長に背いて、誤って相手をKO。
その拳の破壊力は、相手を意識不明に陥らせ、見舞いに行った病院では、母親が掴みかかってくる。
その八百長では、ロシアン・マフィアのボスが、ルークの負けに大金を賭けていた。
そのことを知ったルークは自宅の妻に電話し、家を離れろと警告するが遅かった。
ルークが帰宅した時、妻は銃で蜂の巣にされた後だった。
ルークは待ち受けてたロシアン・マフィアたちの前で膝をついた。
ここまでの演出が省略を効かせてる。
八百長試合も、ルークが殴る前でカットが変わり、病院の場面になっていて、ルークの自宅でも、妻の死ぬ場面や遺体などは見せない。
無残に殺されたのは、セリフでわかる。
ボスの息子は抵抗の意志も見せないルークに言う。
「お前を殺しはしない」
「だがこれから先、ずっとお前を見張ってやる」
「お前が誰かと知り合ったりすれば、その人間を殺してやる」
「お前は一生一人でいるんだ」
「自殺するのは構わん。妻と会えるしな」
「だが自殺だって簡単にはできやしないぞ」
こういう脅しの方法は初めて見た。
自分ではなく、自分と縁のできた人間が殺されるってのはきついな。
頼るものもなくなり、ルークはホームレス同然に、教会が運営するシェルターに寝床を求めるまでに落ちる。
有り金をスリに奪われ、食料品店で騒ぎを起こして、警官にパトカーに乗せられるが、連れて来られたのはビルの廃墟。
そこでルークは、連絡を受けた刑事たちに袋叩きにあう。
ルークと刑事たちには因縁があった。
ルークは元は市長から直々に任命された、ニューヨーク市警特捜班の特命刑事だった。
ルークの鬼の粛清で、ニューヨークの組織犯罪はほぼ一掃されたのだが、その過程で、権力を私服を肥やすことに利用した同僚たちを告発。
特捜班は解散となり、ルークは裏切り者として刑事たちからも目の敵にされ、警察を去ったのだ。
同僚の悪事をもみ消そうとする組織の中で、唯一証言台に立ち、警察内で孤立無援となる主人公というと、チャック・ノリス主演の『野獣捜査線』を思い起こさせる。
『マーキュリー・ライジング』のブルース・ウィリス、『野獣捜査線』チャック・ノリス、そしてジェイソン・ステイサムが、同じ画面に立ち並ぶという『エクスペンダブル2』は、そんなことでも期待大なのだ。
さて孤立無援、天涯孤独状態に陥ったルークは、ニューヨークの地下鉄のホームに立ち尽くしていた。
投身自殺が頭をよぎる。
その時、目の端に入ったのが、中国人の少女の不安な表情だった。
中国・南京の小学生だったメイは、その並外れた数字への理解力と、記憶力をマフィアのボスに利用される。
病気の母親をいい病院で診せてやると、右腕的な部下チャンの養子にメイを迎え、アメリカに移住させたのだ。
ニューヨークのチャイナタウンを仕切るボスのハンは、組織の売上げ金や、隠し金をパソコンのデータには残さず、メイに記憶させた。
そして組織が経営するカジノの地下金庫の、複雑な暗証番号も憶えさせた。
ニューヨークの縄張りを巡って、チャイニーズ・マフィアと争いを起こしていたロシアン・マフィアは、メイの存在を知り、この12才の少女を拉致しようとしてたのだ。
二大組織の暗闘は、もちろんニューヨーク市警も把握してたが、過去にルークを警察から追いおとした悪徳警部のウルフは、二つの組織を天秤にかけ、より賄賂を吸い取れる方につこうという腹だった。
ロシアン・マフィアはメイを拉致し、頭の中の数字を言えと脅すが、チャイニーズ・マフィア側から通報を受けた市警察の警官隊が、ロシアン・マフィアのアジトを急襲してきた。
その混乱に紛れて、メイはビルから逃げ出して、地下鉄のホームまでやってきたのだ。
少女の様子が気になったルークの目に、ロシア人らしき男たちの後ろ姿が。
地下鉄に乗った少女を追って、男たちも乗り込む。
ホームを滑り出した地下鉄の最後部に手をかけて、ルークは車両にしがみ付いた。
ここまではほぼアクションはないのだが、このあとの地下鉄内での格闘場面を皮切りに、妻を殺され、失うもののないステイサムが、
「中国人もロシア人もクソ野郎」
と等しくブチ倒していく。後半は怒涛のステイサム劇場となってる。
格闘のスキルだけでなく、二つのマフィアと悪徳警官、その三者を翻弄するような立ち回り方も憎いのだ。
車を使った銃撃の場面も、工夫が凝らされており、視点を車内に限定して、バックミラー越しに状況を見せたり、バックして跳ねられたマフィアが、ボンネットに落下して、路上に落ちると、それを前進してまた跳ねるとか、スタントも大変だね。
ラスボス的に出てくる相手が案外つまらなかったり、終盤に向うにしたがい、アクションが雑になってくのは惜しいが、94分で語ることをきっちり語ってる、人物造形に手を抜かない感じがよかった。
2012年10月20日
ジェイソン・ステイサム主演作というと、「ステイサム映画」というブランドとして捉えられる印象がある。
機敏な身のこなしと、マーシャルアーツの見せ場がふんだんに織り込まれたアクションだろうと。
今回もその特徴は備えてはいるが、ステイサムのファンだけに留まるのは勿体ないなと思わせる内容だった。
アクション俳優というのは、人気のピークが過ぎると、あとは似たりよったりの新作を作り続けるという循環に入る。
そして監督も「おかかえ」のように、何度も同じ人間と組むようになるのだ。
ブロンソンしかり、ヴァン・ダムやセガールしかり。
ステイサムがそれらのスターたちと違うのは、シリーズ作以外は、同じ監督と組むことがない。
なので馴れ合いにならず、毎回少しずつ雰囲気が変わって、飽きられることがないのだ。
まあ映画のテイストは変わっても、ステイサムの出で立ちはほぼ変わらないし、絶対死ぬ事もないので、ファンにとっては「安心のステイサム・ブランド」となるわけだが。
今回の『SAFE』は、偶然出会った中国人の少女を、ステイサムが守りぬくという、『レオン』や『アジョシ』を思わせる筋立てで、アクションだけ目当てのファン以外にも、広くアピールできる要素を含んでいる。
この二人の結びつきが軸にはなってるが、先の2作ほどにウェットにはならない。
中年男と12才の少女の間には、ハードボイルドな空気が流れてる。
中国人の少女メイを演じるキャサリン・チェンという子は、松坂大輔に似てる、はっきり愛嬌に欠ける顔だちなんだが、その目つきの悪さも、媚びがなくていい。
目の前で人が殺されすぎるんで、これはPTSD発症するだろと思ってしまうほどに、過酷な目に遭わされる。
監督はエンドクレジットで気づいたが、ボアズ・イェーキンだった。
この映画のプロデューサー、ローレンス・ベンダーと組んだ
1994年の監督デビュー作『フレッシュ』を見てると、納得できるのだ。
あの映画でも、メイと同じ12才の黒人少年が、麻薬売買に手を染め、否応なしに、血まみれな抗争劇のただ中に放り込まれていく姿が描かれていた。
『フレッシュ』とこの『SAFE』も、ニューヨーク、ブルックリンを舞台にしていて、ボアズ・イェーキン監督にとっては、あの黒人少年の過酷な体験を、同い年の少女に再び辿らせてるような所がある。
メイが幼くして数学の天才で、一度記憶した数字を忘れないという能力を持ってるという設定は、やはり天才少年が、偶然に政府の機密事項にかかわる暗号を解読してしまい、命を狙われる
『マーキュリー・ライジング』を連想させる。
どちらも子供を守るのがゲーハーな主人公というのも一緒。
この『SAFE』はボアズ・イェーキンの演出がいい。普通つかみに持ってくるような、冒頭部分でのアクションというのがない。
無関係なステイサムと、中国人少女がどうやって出会うのかまでを、互いの経緯を交互させながら、無駄を省いて描いていく。
ステイサム演じるルークは、ニュージャージーで行われてる、地下格闘技の試合で、八百長に背いて、誤って相手をKO。
その拳の破壊力は、相手を意識不明に陥らせ、見舞いに行った病院では、母親が掴みかかってくる。
その八百長では、ロシアン・マフィアのボスが、ルークの負けに大金を賭けていた。
そのことを知ったルークは自宅の妻に電話し、家を離れろと警告するが遅かった。
ルークが帰宅した時、妻は銃で蜂の巣にされた後だった。
ルークは待ち受けてたロシアン・マフィアたちの前で膝をついた。
ここまでの演出が省略を効かせてる。
八百長試合も、ルークが殴る前でカットが変わり、病院の場面になっていて、ルークの自宅でも、妻の死ぬ場面や遺体などは見せない。
無残に殺されたのは、セリフでわかる。
ボスの息子は抵抗の意志も見せないルークに言う。
「お前を殺しはしない」
「だがこれから先、ずっとお前を見張ってやる」
「お前が誰かと知り合ったりすれば、その人間を殺してやる」
「お前は一生一人でいるんだ」
「自殺するのは構わん。妻と会えるしな」
「だが自殺だって簡単にはできやしないぞ」
こういう脅しの方法は初めて見た。
自分ではなく、自分と縁のできた人間が殺されるってのはきついな。
頼るものもなくなり、ルークはホームレス同然に、教会が運営するシェルターに寝床を求めるまでに落ちる。
有り金をスリに奪われ、食料品店で騒ぎを起こして、警官にパトカーに乗せられるが、連れて来られたのはビルの廃墟。
そこでルークは、連絡を受けた刑事たちに袋叩きにあう。
ルークと刑事たちには因縁があった。
ルークは元は市長から直々に任命された、ニューヨーク市警特捜班の特命刑事だった。
ルークの鬼の粛清で、ニューヨークの組織犯罪はほぼ一掃されたのだが、その過程で、権力を私服を肥やすことに利用した同僚たちを告発。
特捜班は解散となり、ルークは裏切り者として刑事たちからも目の敵にされ、警察を去ったのだ。
同僚の悪事をもみ消そうとする組織の中で、唯一証言台に立ち、警察内で孤立無援となる主人公というと、チャック・ノリス主演の『野獣捜査線』を思い起こさせる。
『マーキュリー・ライジング』のブルース・ウィリス、『野獣捜査線』チャック・ノリス、そしてジェイソン・ステイサムが、同じ画面に立ち並ぶという『エクスペンダブル2』は、そんなことでも期待大なのだ。
さて孤立無援、天涯孤独状態に陥ったルークは、ニューヨークの地下鉄のホームに立ち尽くしていた。
投身自殺が頭をよぎる。
その時、目の端に入ったのが、中国人の少女の不安な表情だった。
中国・南京の小学生だったメイは、その並外れた数字への理解力と、記憶力をマフィアのボスに利用される。
病気の母親をいい病院で診せてやると、右腕的な部下チャンの養子にメイを迎え、アメリカに移住させたのだ。
ニューヨークのチャイナタウンを仕切るボスのハンは、組織の売上げ金や、隠し金をパソコンのデータには残さず、メイに記憶させた。
そして組織が経営するカジノの地下金庫の、複雑な暗証番号も憶えさせた。
ニューヨークの縄張りを巡って、チャイニーズ・マフィアと争いを起こしていたロシアン・マフィアは、メイの存在を知り、この12才の少女を拉致しようとしてたのだ。
二大組織の暗闘は、もちろんニューヨーク市警も把握してたが、過去にルークを警察から追いおとした悪徳警部のウルフは、二つの組織を天秤にかけ、より賄賂を吸い取れる方につこうという腹だった。
ロシアン・マフィアはメイを拉致し、頭の中の数字を言えと脅すが、チャイニーズ・マフィア側から通報を受けた市警察の警官隊が、ロシアン・マフィアのアジトを急襲してきた。
その混乱に紛れて、メイはビルから逃げ出して、地下鉄のホームまでやってきたのだ。
少女の様子が気になったルークの目に、ロシア人らしき男たちの後ろ姿が。
地下鉄に乗った少女を追って、男たちも乗り込む。
ホームを滑り出した地下鉄の最後部に手をかけて、ルークは車両にしがみ付いた。
ここまではほぼアクションはないのだが、このあとの地下鉄内での格闘場面を皮切りに、妻を殺され、失うもののないステイサムが、
「中国人もロシア人もクソ野郎」
と等しくブチ倒していく。後半は怒涛のステイサム劇場となってる。
格闘のスキルだけでなく、二つのマフィアと悪徳警官、その三者を翻弄するような立ち回り方も憎いのだ。
車を使った銃撃の場面も、工夫が凝らされており、視点を車内に限定して、バックミラー越しに状況を見せたり、バックして跳ねられたマフィアが、ボンネットに落下して、路上に落ちると、それを前進してまた跳ねるとか、スタントも大変だね。
ラスボス的に出てくる相手が案外つまらなかったり、終盤に向うにしたがい、アクションが雑になってくのは惜しいが、94分で語ることをきっちり語ってる、人物造形に手を抜かない感じがよかった。
2012年10月20日
今年一番おだやかでない題名 [映画サ行]
『先生を流産させる会』
愛知県の中学校で起きた事件に材を取った映画。
事件を起こした男子中学生たちは、映画では女子中学生に書き換えられてる。
女性教師と生徒との「対決」の構図という部分から、松たか子主演の『告白』と較べられもするが、なによりも二つの作品は「子供を殺す」という内容の一致がある。
『告白』では学校内のプールで、女性教師の幼い娘が溺死させられてた。
この映画では女子中学生が「妊娠なんてキモい」という理由で、担任の女性教師を流産させようと、執拗に手を打ってくる。
なぜ女性教師なのか?そして『告白』においても、この『先生を流産させる会』においても、教師の夫の姿は出てこない。
思春期の生徒たちは、女性教師が自分の子を育てている、あるいは身篭っていることに、反発するのか。
「教師として自分たちを導いていくように見えても、いざとなれば自分の子が一番かわいいのだ」
つまり生徒たちの中では、教師であることと、母親であることは並び立たない。
家で自分に対してガミガミと干渉してくる母親の姿が、教師に投影された時点で、もう教師としては見れなくなる。
それはもう言いがかりのレベルだが、両方の映画に夫の影も見えないという所からも、女性教師の孤立無援の状況が剥き出しにされている。
俺の中学の頃を思い返してみても、女性教師はしんどいだろうなあと感じた。
中学になると、生徒がほとんど言うことをきかなくなる。
女性教師はどうしても舐められてしまうのだ。
学級崩壊に至るケースも、女性担任の場合が多いという。
この映画の中にもエゲツない位のモンペアが出てきて、女性担任のサワコに暴言吐きまくってくのだが、その後にサワコが、同僚の女性教師に
「バカがバカを産んで、そのバカがまた子供を育てる」
「教師はそのバカの機嫌をとるだけなのよ」と吐き捨ててる。
学校側の姿勢にも問題があるとはいえ、こんなことを言ってやりたいと思ってる、実際の女性教師もいるのではないか?
担任のサワコが妊娠した。中学の女子生徒たちは敏感に反応した。
クラスでも異質な女子グループのリーダー的存在のミズキは云った。
「サワコ、セックスしたんだよ。キモくない?」
5人の女子たちは、ブラジル人向けの雑貨店から、指輪を万引きして、ラブホの廃墟にある、彼女たちの「アジト」に向かう。
田んぼのあぜ道が長く延びる、どこにでもある地方都市の風景だ。
5人は指輪をはめて、ローソクの火にかざし、結成の儀式とする。
「先生を流産させる会」は発足した。
理科室で薬品を盗むと、給食時間に、サワコのスープに混入させる。
飲んだサワコはその場でもどし、女子たちは「きたなぁ~い」と声を上げる。
保健室で横になるサワコの様子を見にきたミズキは、保健の先生に
「何ヶ月から人間なんですか?」
と尋ねながら、サワコの腹に触れてみる。
保健室から戻ったサワコは、クラス全員に紙を配る。
給食に異物を混入したのは誰か?
知ってる名前を書かせるためだ。
5人の女子グループの中に、やり過ぎだと思う子がおり、彼女が主犯格の名前を記入した。
サワコは5人を呼びつけ
「赤ちゃんがもし殺されたら、私はその人間を殺す」
「先生である前に女なんだよ!」
サワコは立場を超えて、生徒たちに啖呵を切るが、ミズキは手を緩めない。
担任の回転チェアの、背もたれ部分のネジを利かないように細工した。
生徒たちの脇の席で採点をし終えたサワコは、いつもの癖で、後ろに反り返り、外れた背もたれとともに、椅子から転落した。
生徒たちの哄笑が響く。
起き上がったサワコは、例の5人に平手打ちして回った。
その5人のグループの一人、フミホから話を聞かされた母親が、激しい剣幕で学校に乗り込んできた。
娘を溺愛する母親は、教師の言い分など聞く耳持たない。
校長たちはひたすら頭を下げるのみで、サワコは
「学校の評判に関わる」と始末書を書かされる。
ミズキの執拗さに、グループの女子たちは引くようになり、事は鎮静化するかに思えた。
だが複雑な家庭環境で育ったミズキの、女性教師に対するドス黒い感情は、増幅を続けていた。
この映画はまず女子中学生たちのキャスティングがいい。
ミズキを演じる小林香織という子は、この映画の撮影時にはまだ小6だったというが、その敵意まるだしの表情に見惚れてしまう。
彼女は血が混じってるようなルックスで、実体験でイジメに遭ったりした事がなかったのか。
なにか映画の設定同様に、複雑な背景を抱えてそうに見えてしまった。
その彼女以外の4人が、また正反対に地味で、顔の区別もつき辛いほどだ。
こういう映画では、大抵タレント事務所からキャスティングされたりするんで、どうしても見映えのいい子が揃ってしまう。
でも実際の中学生とか、俺の時代もそうだったが、ほんとに可愛い子なんて、クラスに2人くらいだったからね。地味なのが普通だよ。
この地味な見た目の女の子たちが、地味で見所もなさそうな地方の町をブラブラ歩いてる。
学校の屋上からの風景もよかった。夏でプールに水は張ってあるが、その水もなんか緑っぽい色してて奇麗じゃない。
ダラダラと準備体操をする女子たちの表情。
彼女たちの日常が淀んでしまってるのが、画面から匂いだしてくる。
60分強という短めの映画は、終盤にサワコとミズキの対決へとなだれ込んでくが、不穏な暗さをまとい続けてきた映画は、意外な道筋を辿る。
俺はこの展開を見ていて、サミュエル・L・ジャクソンが、荒廃した高校の教師を演じた
『187 ワンエイトセブン』という映画を思い出した。
あの映画も学園ドラマとしては、当時は相当に異色な内容だったな。
サワコという女性教師は、その内面があまり描かれないが、その立ち居振る舞いは、ハードボイルド映画の主人公のようだ。
自らが傷を負っても、一線は越えない。
ホラーテイストにも感じられる映画が、踏み止まってるのは、そのサワコの人物造形による。
2012年10月17日
愛知県の中学校で起きた事件に材を取った映画。
事件を起こした男子中学生たちは、映画では女子中学生に書き換えられてる。
女性教師と生徒との「対決」の構図という部分から、松たか子主演の『告白』と較べられもするが、なによりも二つの作品は「子供を殺す」という内容の一致がある。
『告白』では学校内のプールで、女性教師の幼い娘が溺死させられてた。
この映画では女子中学生が「妊娠なんてキモい」という理由で、担任の女性教師を流産させようと、執拗に手を打ってくる。
なぜ女性教師なのか?そして『告白』においても、この『先生を流産させる会』においても、教師の夫の姿は出てこない。
思春期の生徒たちは、女性教師が自分の子を育てている、あるいは身篭っていることに、反発するのか。
「教師として自分たちを導いていくように見えても、いざとなれば自分の子が一番かわいいのだ」
つまり生徒たちの中では、教師であることと、母親であることは並び立たない。
家で自分に対してガミガミと干渉してくる母親の姿が、教師に投影された時点で、もう教師としては見れなくなる。
それはもう言いがかりのレベルだが、両方の映画に夫の影も見えないという所からも、女性教師の孤立無援の状況が剥き出しにされている。
俺の中学の頃を思い返してみても、女性教師はしんどいだろうなあと感じた。
中学になると、生徒がほとんど言うことをきかなくなる。
女性教師はどうしても舐められてしまうのだ。
学級崩壊に至るケースも、女性担任の場合が多いという。
この映画の中にもエゲツない位のモンペアが出てきて、女性担任のサワコに暴言吐きまくってくのだが、その後にサワコが、同僚の女性教師に
「バカがバカを産んで、そのバカがまた子供を育てる」
「教師はそのバカの機嫌をとるだけなのよ」と吐き捨ててる。
学校側の姿勢にも問題があるとはいえ、こんなことを言ってやりたいと思ってる、実際の女性教師もいるのではないか?
担任のサワコが妊娠した。中学の女子生徒たちは敏感に反応した。
クラスでも異質な女子グループのリーダー的存在のミズキは云った。
「サワコ、セックスしたんだよ。キモくない?」
5人の女子たちは、ブラジル人向けの雑貨店から、指輪を万引きして、ラブホの廃墟にある、彼女たちの「アジト」に向かう。
田んぼのあぜ道が長く延びる、どこにでもある地方都市の風景だ。
5人は指輪をはめて、ローソクの火にかざし、結成の儀式とする。
「先生を流産させる会」は発足した。
理科室で薬品を盗むと、給食時間に、サワコのスープに混入させる。
飲んだサワコはその場でもどし、女子たちは「きたなぁ~い」と声を上げる。
保健室で横になるサワコの様子を見にきたミズキは、保健の先生に
「何ヶ月から人間なんですか?」
と尋ねながら、サワコの腹に触れてみる。
保健室から戻ったサワコは、クラス全員に紙を配る。
給食に異物を混入したのは誰か?
知ってる名前を書かせるためだ。
5人の女子グループの中に、やり過ぎだと思う子がおり、彼女が主犯格の名前を記入した。
サワコは5人を呼びつけ
「赤ちゃんがもし殺されたら、私はその人間を殺す」
「先生である前に女なんだよ!」
サワコは立場を超えて、生徒たちに啖呵を切るが、ミズキは手を緩めない。
担任の回転チェアの、背もたれ部分のネジを利かないように細工した。
生徒たちの脇の席で採点をし終えたサワコは、いつもの癖で、後ろに反り返り、外れた背もたれとともに、椅子から転落した。
生徒たちの哄笑が響く。
起き上がったサワコは、例の5人に平手打ちして回った。
その5人のグループの一人、フミホから話を聞かされた母親が、激しい剣幕で学校に乗り込んできた。
娘を溺愛する母親は、教師の言い分など聞く耳持たない。
校長たちはひたすら頭を下げるのみで、サワコは
「学校の評判に関わる」と始末書を書かされる。
ミズキの執拗さに、グループの女子たちは引くようになり、事は鎮静化するかに思えた。
だが複雑な家庭環境で育ったミズキの、女性教師に対するドス黒い感情は、増幅を続けていた。
この映画はまず女子中学生たちのキャスティングがいい。
ミズキを演じる小林香織という子は、この映画の撮影時にはまだ小6だったというが、その敵意まるだしの表情に見惚れてしまう。
彼女は血が混じってるようなルックスで、実体験でイジメに遭ったりした事がなかったのか。
なにか映画の設定同様に、複雑な背景を抱えてそうに見えてしまった。
その彼女以外の4人が、また正反対に地味で、顔の区別もつき辛いほどだ。
こういう映画では、大抵タレント事務所からキャスティングされたりするんで、どうしても見映えのいい子が揃ってしまう。
でも実際の中学生とか、俺の時代もそうだったが、ほんとに可愛い子なんて、クラスに2人くらいだったからね。地味なのが普通だよ。
この地味な見た目の女の子たちが、地味で見所もなさそうな地方の町をブラブラ歩いてる。
学校の屋上からの風景もよかった。夏でプールに水は張ってあるが、その水もなんか緑っぽい色してて奇麗じゃない。
ダラダラと準備体操をする女子たちの表情。
彼女たちの日常が淀んでしまってるのが、画面から匂いだしてくる。
60分強という短めの映画は、終盤にサワコとミズキの対決へとなだれ込んでくが、不穏な暗さをまとい続けてきた映画は、意外な道筋を辿る。
俺はこの展開を見ていて、サミュエル・L・ジャクソンが、荒廃した高校の教師を演じた
『187 ワンエイトセブン』という映画を思い出した。
あの映画も学園ドラマとしては、当時は相当に異色な内容だったな。
サワコという女性教師は、その内面があまり描かれないが、その立ち居振る舞いは、ハードボイルド映画の主人公のようだ。
自らが傷を負っても、一線は越えない。
ホラーテイストにも感じられる映画が、踏み止まってるのは、そのサワコの人物造形による。
2012年10月17日
架空のバンドドキュメンタリーが斬新 [映画サ行]
『スパイナル・タップ』
近々に封切られる新作で断トツに見たいのが『ロック・オブ・エイジス』だ。
トム・クルーズがカリスマ・ロックシンガーを演じてるという例のヤツだが、楽曲がほとんど、
1980年代の「産業ロック」系で固められてるというんだから、これは観客を選ぶだろうな。
本国アメリカではすでに「ラジー賞」の有力候補なんて言われてるらしいが、ラジーだかオジーだか、そんなこたぁ問題じゃない。
その高鳴る期待を胸に、露払い的に見るには最適と思われるのが
『スパイナル・タップ』だ。
ロブ・ライナーの監督第1作となる1984年作。
日本では劇場未公開に終わったが、ビデオがエンバシーから出てた。
廃版となり、しばらく経ってようやくDVD化されたのだ。
ロブ・ライナー自身が出演していて、スパイナル・タップという「架空」のロックバンドの、久々の全米ツアーに同行取材するという設定になってる。
いわば近年流行りの「モキュメンタリー」のはしりともいえる。
時代設定は1982年だ。スパイナル・タップは、デヴィッドとナイジェルの幼なじみ二人を中心に、1960年代半ばに、イギリスで結成された。
当初は「ザ・テムズメン」というバンド名で、ビートルズのフォロワー的な音を出してた。
当時のテレビ番組の演奏シーンが映るが、これももちろん作りこんだ映像だ。解像度の落ちたモノクロの画像がリアルに再現されてる。
その数年後には「サイケサウンド」に乗りかえ、ドノヴァンみたいなヴィジュアルで愛を唄った。
その後も時節を眺めつつ、節操なくスタイルを変えながら、アラフォーとなった現在は、ハードロック・バンドを名乗ってる。
彼らによると、計37人ものメンバーの出入りを経て、現在の5人になったという。
スパイナル・タップにはジンクスがあり、過去にドラマーだけが、相次いで変死を遂げてる。
一人めはガーデニングの最中に突然死し、別のドラマーはステージの演奏中に爆死して、緑色の液体が残されたという。
そんな彼らのライヴを見ると、ある時はチープ・トリック、ある時はシン・リジィ、またある時はブラック・サバス、そうかと思えば初期カンサスやスティクス風と、よく言えば何でもあり、でなければ一貫性がない。
70年代にはアルバムも売れ、全米ツアーもアリーナクラスの会場を回ったが、今回久々のニューアルバムを引っさげてのツアーは、前回の10分の1のキャパがほとんどで、人気の凋落ぶりは否めない。
しかもアルバムは完成して、タイトルも「手袋の匂いを嗅げ!」に決まってるのに、仕上がったジャケに、レコード会社が難色を示して、リリースできないでいる。
ハードロックにエロは不可欠と、首輪をはめて四つん這いになった女の、綱を引っ張る男が、手袋をはめた片手を、女の顔に押し付けてるというジャケだった。
デヴィッドもナイジェルも、その程度で猥褻ってことないだろと思ってる。
そして妥協策が示され、できたアルバムは真っ黒だった。
「顔が映るくらい真っ黒だぞ!」
プリンスの『ブラック・アルバム』を先んじたジャケとなったわけだ。
しかしアルバムの売れ行きはさっぱりで、大都市でのライヴは、キャンセルが相次ぐ。
意趣を凝らしたステージセットも裏目に出る。
『SF/ボディ・スナッチャー』みたいな繭の中から、デヴィッドとナイジェルとベースの3人が、イントロ部分で出てくるはずが、ベースの繭だけ開かずに、繭の中で窮屈そうにベース弾いてる。
スタッフにも開けることができず、ついにはバーナーで燃やし始める始末。
そうかと思えば、ナイジェルが作曲した壮大な組曲のために、巨大なストーンヘッジのはりぼてを発注したのに、ステージに下りてきたのは、パイプ椅子くらいの背丈しかなくて、もはや何を表現してるのかすらわからない。
この全米ツアーの混迷ぶりを招いたのは、デヴィッドが恋人のジャニーンを、勝手にツアーに同行させ始めたからだ。
ジャニーンは占星術に凝っていて、妙な意見を繰り出してくる。
ナイジェルは元々ジャニーンと反りが合わず、マネージャーもキレて、バンドから去ってしまう。
ジャニーンがツアーを仕切るようになるが、いよいよローカルな方向に進んで行く。
田舎のホリディ・インで、市民劇団と抱き合わせにライヴ。
空軍基地の兵士たちのパーティで、卑猥なバラード演ってドン引きされ、ナイジェルはギター叩きつけて、そのまま脱退。
残ったメンバーでブッキングされたのは、遊園地で人形劇と抱き合わせのライヴ。
今まで曲作りを担当してたナイジェルに替わって、ベースが提案した、フリージャズ・スタイルの演奏は観客から総スカン。
果てしない負のスパイラルに陥ってくのだ。
ギターのナイジェルの妙なこだわりが可笑しい。
彼のマーシャルのアンプは、音量メモリが「11」まである。
「ふつうは10までしかないだろ?」
「このひとメモリが大きくちがうんだよ」
「他のヤツが10までの音しか出せない所を、俺はその上の世界を創造できるんだ」
インタビュアーのロブ・ライナーが
「音量の設定を変えといて、メモリは10のままでもいいんじゃない?」
するとしばし黙りこみ
「いや、それはちがうんだよ」
クリーブランドのライヴステージでは、楽屋からバックステージの通路を辿って、ステージまで行く間に迷子になる。
配線工のオヤジに道順聞くけど、またオヤジの所に戻ってしまう。
それでも「ロケンロー!」って言いながら、ステージを探してるのが笑える。
バジェットはかけてなさそうだが、多分ロック演ってる人間なら、さらにウケるような小ネタが散りばめられてそう。
いちばんの肝なのが、スパイナル・タップが「ブサイク」なバンドだということ。
正直ハードロックやヘビメタで、イケメンが揃ったバンドなんてほとんど見あたらない。
ツェッペリンとかクイーンとかチープトリックとかは、特別な存在なのだ。
だがハードロックは顔じゃない。ギターのテクがあって、ヴォーカルがシャウトできて、いい曲作れれば、それでよかったのだ。
ハードロックやヘビメタは、女より男のファンに支えられてたからだ。
俺は70年代のイギリスのバンドで、スイートがお気に入りなんだが、彼らもあれだけカッコいい曲演れてんだから、もう少しルックスがよくてもバチはあたらんだろ、というくらいブサイク揃いだった。
逆に言えばブサイクでもスターになれるのが、ロックの世界とも言えるのだ。
ただブサイクでなければ、2割増し位には売れてるだろうが。
映画は一旦バンドを離れたナイジェルが、ライヴ前の楽屋に
「日本で俺たちの曲が売れてるらしいぜ」
と報告にきて、デヴィッドたちを送り出す場面がいい。
袖でライヴを眺めてるナイジェルを、デヴィッドが視線で招いて、ステージに立たせる。
「やっぱり俺たちこうでなきゃな!」
と盛り上がる次の場面は、熱狂に包まれる日本公演だ。
このラストの展開は、2009年に公開された、ロック・ドキュメンタリーの傑作
『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』のラストと奇しくもそっくりなのだ。
もう世間から忘れ去られたと感じてた、ヘビメタバンド、アンヴィルが日本のロックフェスに何十年ぶりかで呼ばれる。
その日のトップを飾る出番で、アンヴィルのメンバーは、まだ客なんか全然いないんじゃないか?と不安な表情でステージに上がると、ヘビメタファンの大歓声に迎えられるという、
「これぞハッピーエンド!」と快哉叫びたい場面となってた。
架空のバンド、スパイナル・タップと、実在のベテラン・ヘビメタバンドのアンヴィルが、同じ帰結を迎えるというのが凄い。
つまり『スパイナル・タップ』は、アンヴィルの、あの胸熱なエンディングを予言してたように思えるのだ。
2012年9月20日
近々に封切られる新作で断トツに見たいのが『ロック・オブ・エイジス』だ。
トム・クルーズがカリスマ・ロックシンガーを演じてるという例のヤツだが、楽曲がほとんど、
1980年代の「産業ロック」系で固められてるというんだから、これは観客を選ぶだろうな。
本国アメリカではすでに「ラジー賞」の有力候補なんて言われてるらしいが、ラジーだかオジーだか、そんなこたぁ問題じゃない。
その高鳴る期待を胸に、露払い的に見るには最適と思われるのが
『スパイナル・タップ』だ。
ロブ・ライナーの監督第1作となる1984年作。
日本では劇場未公開に終わったが、ビデオがエンバシーから出てた。
廃版となり、しばらく経ってようやくDVD化されたのだ。
ロブ・ライナー自身が出演していて、スパイナル・タップという「架空」のロックバンドの、久々の全米ツアーに同行取材するという設定になってる。
いわば近年流行りの「モキュメンタリー」のはしりともいえる。
時代設定は1982年だ。スパイナル・タップは、デヴィッドとナイジェルの幼なじみ二人を中心に、1960年代半ばに、イギリスで結成された。
当初は「ザ・テムズメン」というバンド名で、ビートルズのフォロワー的な音を出してた。
当時のテレビ番組の演奏シーンが映るが、これももちろん作りこんだ映像だ。解像度の落ちたモノクロの画像がリアルに再現されてる。
その数年後には「サイケサウンド」に乗りかえ、ドノヴァンみたいなヴィジュアルで愛を唄った。
その後も時節を眺めつつ、節操なくスタイルを変えながら、アラフォーとなった現在は、ハードロック・バンドを名乗ってる。
彼らによると、計37人ものメンバーの出入りを経て、現在の5人になったという。
スパイナル・タップにはジンクスがあり、過去にドラマーだけが、相次いで変死を遂げてる。
一人めはガーデニングの最中に突然死し、別のドラマーはステージの演奏中に爆死して、緑色の液体が残されたという。
そんな彼らのライヴを見ると、ある時はチープ・トリック、ある時はシン・リジィ、またある時はブラック・サバス、そうかと思えば初期カンサスやスティクス風と、よく言えば何でもあり、でなければ一貫性がない。
70年代にはアルバムも売れ、全米ツアーもアリーナクラスの会場を回ったが、今回久々のニューアルバムを引っさげてのツアーは、前回の10分の1のキャパがほとんどで、人気の凋落ぶりは否めない。
しかもアルバムは完成して、タイトルも「手袋の匂いを嗅げ!」に決まってるのに、仕上がったジャケに、レコード会社が難色を示して、リリースできないでいる。
ハードロックにエロは不可欠と、首輪をはめて四つん這いになった女の、綱を引っ張る男が、手袋をはめた片手を、女の顔に押し付けてるというジャケだった。
デヴィッドもナイジェルも、その程度で猥褻ってことないだろと思ってる。
そして妥協策が示され、できたアルバムは真っ黒だった。
「顔が映るくらい真っ黒だぞ!」
プリンスの『ブラック・アルバム』を先んじたジャケとなったわけだ。
しかしアルバムの売れ行きはさっぱりで、大都市でのライヴは、キャンセルが相次ぐ。
意趣を凝らしたステージセットも裏目に出る。
『SF/ボディ・スナッチャー』みたいな繭の中から、デヴィッドとナイジェルとベースの3人が、イントロ部分で出てくるはずが、ベースの繭だけ開かずに、繭の中で窮屈そうにベース弾いてる。
スタッフにも開けることができず、ついにはバーナーで燃やし始める始末。
そうかと思えば、ナイジェルが作曲した壮大な組曲のために、巨大なストーンヘッジのはりぼてを発注したのに、ステージに下りてきたのは、パイプ椅子くらいの背丈しかなくて、もはや何を表現してるのかすらわからない。
この全米ツアーの混迷ぶりを招いたのは、デヴィッドが恋人のジャニーンを、勝手にツアーに同行させ始めたからだ。
ジャニーンは占星術に凝っていて、妙な意見を繰り出してくる。
ナイジェルは元々ジャニーンと反りが合わず、マネージャーもキレて、バンドから去ってしまう。
ジャニーンがツアーを仕切るようになるが、いよいよローカルな方向に進んで行く。
田舎のホリディ・インで、市民劇団と抱き合わせにライヴ。
空軍基地の兵士たちのパーティで、卑猥なバラード演ってドン引きされ、ナイジェルはギター叩きつけて、そのまま脱退。
残ったメンバーでブッキングされたのは、遊園地で人形劇と抱き合わせのライヴ。
今まで曲作りを担当してたナイジェルに替わって、ベースが提案した、フリージャズ・スタイルの演奏は観客から総スカン。
果てしない負のスパイラルに陥ってくのだ。
ギターのナイジェルの妙なこだわりが可笑しい。
彼のマーシャルのアンプは、音量メモリが「11」まである。
「ふつうは10までしかないだろ?」
「このひとメモリが大きくちがうんだよ」
「他のヤツが10までの音しか出せない所を、俺はその上の世界を創造できるんだ」
インタビュアーのロブ・ライナーが
「音量の設定を変えといて、メモリは10のままでもいいんじゃない?」
するとしばし黙りこみ
「いや、それはちがうんだよ」
クリーブランドのライヴステージでは、楽屋からバックステージの通路を辿って、ステージまで行く間に迷子になる。
配線工のオヤジに道順聞くけど、またオヤジの所に戻ってしまう。
それでも「ロケンロー!」って言いながら、ステージを探してるのが笑える。
バジェットはかけてなさそうだが、多分ロック演ってる人間なら、さらにウケるような小ネタが散りばめられてそう。
いちばんの肝なのが、スパイナル・タップが「ブサイク」なバンドだということ。
正直ハードロックやヘビメタで、イケメンが揃ったバンドなんてほとんど見あたらない。
ツェッペリンとかクイーンとかチープトリックとかは、特別な存在なのだ。
だがハードロックは顔じゃない。ギターのテクがあって、ヴォーカルがシャウトできて、いい曲作れれば、それでよかったのだ。
ハードロックやヘビメタは、女より男のファンに支えられてたからだ。
俺は70年代のイギリスのバンドで、スイートがお気に入りなんだが、彼らもあれだけカッコいい曲演れてんだから、もう少しルックスがよくてもバチはあたらんだろ、というくらいブサイク揃いだった。
逆に言えばブサイクでもスターになれるのが、ロックの世界とも言えるのだ。
ただブサイクでなければ、2割増し位には売れてるだろうが。
映画は一旦バンドを離れたナイジェルが、ライヴ前の楽屋に
「日本で俺たちの曲が売れてるらしいぜ」
と報告にきて、デヴィッドたちを送り出す場面がいい。
袖でライヴを眺めてるナイジェルを、デヴィッドが視線で招いて、ステージに立たせる。
「やっぱり俺たちこうでなきゃな!」
と盛り上がる次の場面は、熱狂に包まれる日本公演だ。
このラストの展開は、2009年に公開された、ロック・ドキュメンタリーの傑作
『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』のラストと奇しくもそっくりなのだ。
もう世間から忘れ去られたと感じてた、ヘビメタバンド、アンヴィルが日本のロックフェスに何十年ぶりかで呼ばれる。
その日のトップを飾る出番で、アンヴィルのメンバーは、まだ客なんか全然いないんじゃないか?と不安な表情でステージに上がると、ヘビメタファンの大歓声に迎えられるという、
「これぞハッピーエンド!」と快哉叫びたい場面となってた。
架空のバンド、スパイナル・タップと、実在のベテラン・ヘビメタバンドのアンヴィルが、同じ帰結を迎えるというのが凄い。
つまり『スパイナル・タップ』は、アンヴィルの、あの胸熱なエンディングを予言してたように思えるのだ。
2012年9月20日
白雪姫リリー・コリンズがキュート [映画サ行]
『白雪姫と鏡の女王』
物語が終わり「THE END」のあとに、白雪姫リリー・コリンズが歌い踊る、マサラチックなミュージカル・エンディングを見ながら、俺は思ったのだ。
「なんで最初からミュージカル仕立てにしなかったんだろう?」
リリー・コリンズは歌手のキャリアはないものの、父親フィル・コリンズの遺伝子を受け継いでるだけあり、歌声も堂に入ったものだったし、女王の家臣ブライトンを演じるネイサン・レインは、『プロデューサーズ』など、ミュージカル経験もある。
まあジュリア・ロバーツは歌えるって印象はないけど。
なにより音楽を担当してるのが、『美女と野獣』や『アラジン』など、ディズニーのミュージカル・アニメを手がけてきたアラン・メンケンなのだ。
わざわざ彼を起用してるのは、ミュージカル的な作りを当初は意図してたということじゃないのかな。
監督のターセム・シン・ダンドワール(この人、新作撮るごとに名前が長くなってる気が)にしても、映画撮る前はREMのプロモとか手がけてるし、音楽と合わせるセンスはあると思うが。
国王が不慮の死を遂げ、後妻となった継母である女王に、その雪のような肌を「ムカつく」と思われて、子供時代から18才に至るまで、断崖に立てられた塔に幽閉されてた白雪姫。
贅を尽くした城に住んで、浪費とアンチエイジングに余念のない女王は、大がかりな舞踏会を催す資金が足りないと、「鏡よ鏡」と、魔法の鏡を頼ろうとするが、日銀じゃないんで財産は増やせないと、すげなく断られ、貧しい暮らしを強いられる国民から、さらに税金を徴収するのだった。
この「魔法の鏡」の性格づけに新味がある。
この『白雪姫と鏡の女王』においては、鏡の中に現れるのは、もう一人の女王だ。
正確に言うなら、女王の潜在意識とでもいうのか。
ジュリア・ロバーツが二役を演じてるが、鏡の中の彼女は、蒼白く陰気な表情をしてる。
表向きは何もかも手にしてるように見える女王だが、浪費が祟り、貯えも底を尽きていて、美容に熱を入れるも、老いは確実にやってくる。鏡の中の自分は、
「そんなことわかりきってるでしょ」と冷めた視線を投げ返すのだ。
元々「白雪姫」の物語においても、魔法の鏡は、女王の不安の象徴として描かれているんだろうが、この映画では、はっきり本人自身を投影させてる。
18才の誕生日だというのに、女王に祝ってももらえない白雪姫は、隙を見て城を脱け出し、村人たちの生活を見に行く。
もはや父親である国王が生きてた頃の、活気に満ちた村ではなくなっていて、その貧しさを目のあたりにした白雪姫はショックを受ける。
一方、森で盗賊の小人たちに、身ぐるみ剥がされた隣国の王子は、その森でばったり白雪姫と出会う。
吊るされたロープを切ってくれた彼女が、王国の姫だとは知るべくもなく、二人の関係は意外な運命を辿っていく。
裕福だが、ガマガエルのような男爵から、求婚されてたが拒否ってた女王は、城を訪れた、がっつり年下の隣国の王子にロックオン。
王子と結婚すれば財政問題も解決すると、「惚れ薬」まで用意して、王子に色目を使う。
村から戻った白雪姫は、その実情を女王に告げるが、聞く耳もたれない。
王国を女王の手から取り戻さねばという一念で、
「法的には、王位継承者は私なんですけど」
と言い放ってしまい、継母をブチ切れさせてしまう。
家臣のブライトンは、白雪姫を森に連れて行って殺しなさいと命じられてたが、森に置き去りにしたまま去ってしまう。
森の魔物の気配に逃げようとした白雪姫は、頭をぶつけて昏倒し、気がつくと7人の小人たちに囲まれていた。
映画としては、この小人たちが出てきて、テンポがよくなってくる。
アコーデオンみたいな「バネ足」をつけて巨人に見せかけてる小人たちが楽しい。
小人たちの家には、女王が命じて村人から徴収した税金が袋ごとあった。
女王に届ける馬車を襲って巻き上げたのだ。それを聞いた白雪姫は
「お金は村人に返すのよ」と言い、小人たちの隙を見て、村へ返しに行った。
奪い返そうと村まで追っかけてきた小人たちは、白雪姫に村人たちの前で
「お金を取り返してくれたのは、小人のみなさんです!」
と紹介されてしまう。
これで盗みはできなくなったが、今まで偏見の目で見られてた村人たちから、英雄視されたことは満更でもなかった。
この白雪姫の機転を利かせた判断がすばらしいじゃないか。
この後、白雪姫は王国を女王から取り戻すため、小人たちから剣術を習ったりする。
『スノーホワイト』よりも、この映画の方が、7人の小人と白雪姫の結びつきが強く描かれてる。
アメリカ本国とは公開の順番が逆になり、日本では『スノーホワイト』が先行したわけだが、あちらがダーク・ファンタジーを志向してたのに対し、この『白雪姫と鏡の女王』ファンタジー・コメディとして、ファミリー向けに仕上げてある。
ターセム(以下略)監督はこれまで『ザ・セル』『落下の王国』『インモータルズ~神々の戦い~』ときて本作と、言ってみれば「血まみれ」「メルヘン」「血まみれ」「メルヘン」と交互に作ってるんで、次回作は血まみれを期待していいんだね?
つまり、常にどこかで「血」を欲してるような所がある人だから、ファンタジー・コメディをやろうとしてるんだけど、どこかそぐわない。
この映画もジュリア・ロバーツは、『スノーホワイト』のシャレが利かない、シャーリーズ・セロンの女王っぷりと比べて、ベテラン女優の余裕を見せる、コミカルな演技を披露してるんだが、ダイアログが今一なのか、監督の演出の呼吸が悪いのか、映画のノリ自体が、特に前半は空転気味なのだ。
白雪姫を演じるリリー・コリンズは、『ミッシングID』の時より、一段と眉毛が目立つんだが、石岡瑛子デザインのブルーのドレスに身を包んだ、そのルックスは、ディズニーの往年のアニメ版『白雪姫』を彷彿とさせる可愛らしさに溢れてる。
その彼女の個性も含めた上で、最初に書いたように、これはミュージカル仕立てになってた方が絶対楽しめたと思うのだ。
監督独特のヴィジュアル感覚と、これが惜しくも最後の仕事となった、石岡瑛子の艶やかカラフルな衣装が相まった、アーティスティックな映像世界は、ミュージカルの祝祭感にこそマッチすると思う。
ファンタジー・コメディとしては、弾け切らなかったのが残念だ。
2012年9月16日
物語が終わり「THE END」のあとに、白雪姫リリー・コリンズが歌い踊る、マサラチックなミュージカル・エンディングを見ながら、俺は思ったのだ。
「なんで最初からミュージカル仕立てにしなかったんだろう?」
リリー・コリンズは歌手のキャリアはないものの、父親フィル・コリンズの遺伝子を受け継いでるだけあり、歌声も堂に入ったものだったし、女王の家臣ブライトンを演じるネイサン・レインは、『プロデューサーズ』など、ミュージカル経験もある。
まあジュリア・ロバーツは歌えるって印象はないけど。
なにより音楽を担当してるのが、『美女と野獣』や『アラジン』など、ディズニーのミュージカル・アニメを手がけてきたアラン・メンケンなのだ。
わざわざ彼を起用してるのは、ミュージカル的な作りを当初は意図してたということじゃないのかな。
監督のターセム・シン・ダンドワール(この人、新作撮るごとに名前が長くなってる気が)にしても、映画撮る前はREMのプロモとか手がけてるし、音楽と合わせるセンスはあると思うが。
国王が不慮の死を遂げ、後妻となった継母である女王に、その雪のような肌を「ムカつく」と思われて、子供時代から18才に至るまで、断崖に立てられた塔に幽閉されてた白雪姫。
贅を尽くした城に住んで、浪費とアンチエイジングに余念のない女王は、大がかりな舞踏会を催す資金が足りないと、「鏡よ鏡」と、魔法の鏡を頼ろうとするが、日銀じゃないんで財産は増やせないと、すげなく断られ、貧しい暮らしを強いられる国民から、さらに税金を徴収するのだった。
この「魔法の鏡」の性格づけに新味がある。
この『白雪姫と鏡の女王』においては、鏡の中に現れるのは、もう一人の女王だ。
正確に言うなら、女王の潜在意識とでもいうのか。
ジュリア・ロバーツが二役を演じてるが、鏡の中の彼女は、蒼白く陰気な表情をしてる。
表向きは何もかも手にしてるように見える女王だが、浪費が祟り、貯えも底を尽きていて、美容に熱を入れるも、老いは確実にやってくる。鏡の中の自分は、
「そんなことわかりきってるでしょ」と冷めた視線を投げ返すのだ。
元々「白雪姫」の物語においても、魔法の鏡は、女王の不安の象徴として描かれているんだろうが、この映画では、はっきり本人自身を投影させてる。
18才の誕生日だというのに、女王に祝ってももらえない白雪姫は、隙を見て城を脱け出し、村人たちの生活を見に行く。
もはや父親である国王が生きてた頃の、活気に満ちた村ではなくなっていて、その貧しさを目のあたりにした白雪姫はショックを受ける。
一方、森で盗賊の小人たちに、身ぐるみ剥がされた隣国の王子は、その森でばったり白雪姫と出会う。
吊るされたロープを切ってくれた彼女が、王国の姫だとは知るべくもなく、二人の関係は意外な運命を辿っていく。
裕福だが、ガマガエルのような男爵から、求婚されてたが拒否ってた女王は、城を訪れた、がっつり年下の隣国の王子にロックオン。
王子と結婚すれば財政問題も解決すると、「惚れ薬」まで用意して、王子に色目を使う。
村から戻った白雪姫は、その実情を女王に告げるが、聞く耳もたれない。
王国を女王の手から取り戻さねばという一念で、
「法的には、王位継承者は私なんですけど」
と言い放ってしまい、継母をブチ切れさせてしまう。
家臣のブライトンは、白雪姫を森に連れて行って殺しなさいと命じられてたが、森に置き去りにしたまま去ってしまう。
森の魔物の気配に逃げようとした白雪姫は、頭をぶつけて昏倒し、気がつくと7人の小人たちに囲まれていた。
映画としては、この小人たちが出てきて、テンポがよくなってくる。
アコーデオンみたいな「バネ足」をつけて巨人に見せかけてる小人たちが楽しい。
小人たちの家には、女王が命じて村人から徴収した税金が袋ごとあった。
女王に届ける馬車を襲って巻き上げたのだ。それを聞いた白雪姫は
「お金は村人に返すのよ」と言い、小人たちの隙を見て、村へ返しに行った。
奪い返そうと村まで追っかけてきた小人たちは、白雪姫に村人たちの前で
「お金を取り返してくれたのは、小人のみなさんです!」
と紹介されてしまう。
これで盗みはできなくなったが、今まで偏見の目で見られてた村人たちから、英雄視されたことは満更でもなかった。
この白雪姫の機転を利かせた判断がすばらしいじゃないか。
この後、白雪姫は王国を女王から取り戻すため、小人たちから剣術を習ったりする。
『スノーホワイト』よりも、この映画の方が、7人の小人と白雪姫の結びつきが強く描かれてる。
アメリカ本国とは公開の順番が逆になり、日本では『スノーホワイト』が先行したわけだが、あちらがダーク・ファンタジーを志向してたのに対し、この『白雪姫と鏡の女王』ファンタジー・コメディとして、ファミリー向けに仕上げてある。
ターセム(以下略)監督はこれまで『ザ・セル』『落下の王国』『インモータルズ~神々の戦い~』ときて本作と、言ってみれば「血まみれ」「メルヘン」「血まみれ」「メルヘン」と交互に作ってるんで、次回作は血まみれを期待していいんだね?
つまり、常にどこかで「血」を欲してるような所がある人だから、ファンタジー・コメディをやろうとしてるんだけど、どこかそぐわない。
この映画もジュリア・ロバーツは、『スノーホワイト』のシャレが利かない、シャーリーズ・セロンの女王っぷりと比べて、ベテラン女優の余裕を見せる、コミカルな演技を披露してるんだが、ダイアログが今一なのか、監督の演出の呼吸が悪いのか、映画のノリ自体が、特に前半は空転気味なのだ。
白雪姫を演じるリリー・コリンズは、『ミッシングID』の時より、一段と眉毛が目立つんだが、石岡瑛子デザインのブルーのドレスに身を包んだ、そのルックスは、ディズニーの往年のアニメ版『白雪姫』を彷彿とさせる可愛らしさに溢れてる。
その彼女の個性も含めた上で、最初に書いたように、これはミュージカル仕立てになってた方が絶対楽しめたと思うのだ。
監督独特のヴィジュアル感覚と、これが惜しくも最後の仕事となった、石岡瑛子の艶やかカラフルな衣装が相まった、アーティスティックな映像世界は、ミュージカルの祝祭感にこそマッチすると思う。
ファンタジー・コメディとしては、弾け切らなかったのが残念だ。
2012年9月16日
ホームズはコカイン中毒だった? [映画サ行]
『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』
別にロバート・ダウニー・Jrのことを言ってるわけじゃなく、そういう設定で、コナン・ドイルの原作ではない、オリジナル脚本で書かれた「ホームズ」もの。
コナン・ドイルが『最後の事件』で描いた、ホームズとモリアーティ教授が、ライヘンバッハの滝つぼに落ちて行った、その結末から、3年後に執筆される『空家の事件』までの、その空白期間のホームズを描いてしまおうという趣向だ。
1976年のハーバート・ロス監督作で、長らくDVD化が待たれてたが、「スティングレイ」からリリースされた。映画検索サイト「オールシネマオンライン」のHPから通販で買える。
1891年10月、ワトソンの元に、ホームズから4ヶ月ぶりに音信がある。
ベイカー街のアパートの2階の部屋を訪れると、ホームズはなにかを非常に警戒してる。
ホームズが「犯罪界のナポレオン」と呼び、その犯罪を暴こうとしてる、モリアーティ教授が、刺客を差し向けてくる。ホームズはそんな風に思ってるようだ。
テーブルにはコカインを7%の溶液に薄める注射器が見える。
ワトソンは、ホームズがコカイン中毒に陥っているのを知っていた。
だがホームズがなぜコカインに手を出すようになったのかは、ワトソンにもわからなかった。
家に戻ったワトソンを、モリアーティ教授が待っていた。
悪の帝王などとはとても見えず、困り果てたという表情をしてる。
モリアーティ教授は、もう長くホームズからいわれのないプレッシャーを受け続けてると、泣きついてきたのだ。
ホームズは教授の後を尾け回し、「今度こそ息の根を止めてやる」といった脅迫文を寄こして来るという。自分は一介の数学教授にすぎないのに。
ワトソンは「面識もないあなたになぜ?」と訊くと
「私は昔、ホームズ兄弟の家庭教師だった」
と教授は言った。
ワトソンは「ホームズは自分のことを全く話さないので」
と言うと、なぜかモリアーティ教授は顔色を変え
「本人が話してないのなら、私が話すべきじゃない」
そう言ってそそくさと立ち去った。
ホームズとモリアーティ教授にはどんな因縁があるのか?
それがコカイン中毒と関わりがあることなのか?
当時コカイン中毒に対する有効な治療法は、まだ確立されてなかった。
その治療を行える人間がウィーンにいるという。
ワトソンはモリアーティ教授に協力を仰ぎ、ロンドンからウィーンへ旅立ってもらった。
日頃から教授の行動をマークしていたホームズは、教授が家を留守にしたことに気づいた。
教授の家の玄関先にバニラエッセンスを撒いておいたホームズは、犬のトビーを連れてきた。
『四つの署名』で活躍したトビーだ。ワトソンも同行した。
トビーに匂いを辿らせて着いたのはビクトリア駅。
ウィーン行きの汽車に乗ったようだ。
ホームズたちは、すぐさま後を追った。
汽車に乗ると、ホームズはすぐに席を外した。
コカインを注射しに行ったのだと、ワトソンはわかっていた。
ウィーンに着くと、ホームズは迷わず馬車の乗り合い場に向かった。
馬車は目的地に着いたら、また駅に戻るはずだ。
犬のトビーが一台の馬車の匂いに反応し、ホームズは御者に金を渡して、前に乗せた客の目的地まで向わせた。
「19番地」の札がかかる建物に入って行くホームズとワトソン。
「追いつめたぞモリアーティ」と思いきや、部屋から出てきたのは全くの別人。
「髪まで染めてうまく変装したものだな」
まだ信じてないホームズに、男は自己紹介した。
「私はジグムンド・フロイト博士だ」
この映画のオリジナル脚本を書いたのはニコラス・メイヤー。
この前年の1975年のTVムービー『アメリカを震撼させた夜』の脚本を書いてる。
これは1938年10月に、まだ映画監督デビュー前のオーソン・ウェルズが仕掛けたラジオドラマの内幕を描いてる。H・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』を、さも本当に起こってるような効果音をつけ、迫真の口調で中継してるように演出して流した所、全米中で、真に受けた市民たちがパニックに陥ったという実話を元にしてる。
これをテレビで録画したビデオが押し入れにあったんだが、テープが切れてて、直さないと見れない状態だ。直したら「押し入れ」で紹介したい。
ニコラス・メイヤーは1979年には自らの脚本で監督デビューも飾っている。
『タイム・アフター・タイム』で、ここでも『タイムマシン』を書いたH・G・ウェルズが、実際にタイムマシンを発明してたという設定だった。
現代にタイムスリップした「切り裂きジャック」を追うという内容。
この『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』ではフロイト博士を登場させたり、実在の人物を虚構の中に絡めるというアイデア巧者なのだ。
さていきなりフロイト博士に自己紹介受けて面食らうものの、ホームズは、博士がユダヤ人で、学界でどういう立場にあり、家族構成はどうなのか?ということまで、たちどころに推理してみせた。
短い時間に部屋の隅々まで観察してたのだ。
フロイト博士はその洞察力に一目置いたが、すかさずホームズのコカイン中毒を指摘した。
ホームズは動揺し、同時に今回のウィーン行きは、ワトソンに仕組まれたことだと、親友を非難した。
ワトソンはなにも言わなかった。
ホームズはコカイン中毒から脱け出すことは困難だと言ったが、フロイト博士は時間をかければ治療は可能だという。
フロイト博士は、退屈しのぎにコカインに手を出した、というような理由ではないと考えていた。
なにか深いトラウマが関わってる。
それを解き明かすためにも、ホームズに催眠術をかけた。
ホームズは一時的に禁断症状も治まり、眠りについた。
フロイト博士とワトソンは、ホームズのカバンを調べ、二重底の底辺に、溶液の注射器がズラリと並べて隠してあることを発見する。
治療は容易ではなさそうだった。
数日間はホームズは激しい禁断症状に苦しんだ。
「ヘビだ!ヘビがいる!」とワトソンを呼ぶ。
ドレッサーの扉からオオカミが襲ってくる。
天井からゆっくりぶら下がってきたヘビは、やがてモリアーティ教授の顔になった。
フロイト博士の辛抱強い治療の甲斐もあり、ホームズの禁断症状は治まってきた。
ホームズはワトソンを呼んだ。
「僕は君になにかひどいことを言ったりしたかな?」
「なにも言っちゃいない」
「もし言ったとしても、それは本心なんかじゃない」
「君は僕の親友なんだから」
ワトソンはその言葉に小さく頷いた。
治療は進むものの、ホームズは食事に口をつけず、表情も冴えない。
フロイト博士は、患者の若い女性が、自殺未遂を起こしたと知らされ、その病院へホームズたちも連れて行った。
ホームズには「君のためにもなるだろう」と。
一命を取り留め、病室で眠ってたのは、メゾ・ソプラノの人気女性歌手ローラ・デヴローだった。
彼女の手足にはコカインの注射跡があった。
ローラは橋から身を投げたというが、ホームズは手足の縄の痕から、その前に監禁されてたと推理した。
「なぜ逃げ出せたのに、自殺を図る?」
「また禁断症状に苦しむと思い、絶望したんだよ」
ホームズは、ローラが自分と同じ苦しみにあるという共感を持った。
女性には冷淡な所のあるホームズとしては珍しい感情ではあった。
誰が彼女を監禁したのか?そしてコカイン漬けにしたのか?
ワトソンは、ホームズが探偵の本能を甦らせ、精彩が戻ってきてるのを目の当たりにした。
「君のためにもなるだろう」と言ったフロイト博士の言葉の意味がわかった。
ホームズはローラから、自分を拘束した男の特徴を聞きだした。
ホームズの中から、もはやモリアーティ教授の存在は消えていた。
3人が入ったレストランで、偶然にホームズは特徴と一致する男を見つけ出す。
だがホームズには禁断症状が現れつつあり、フロイト博士に催眠術をかけるようせっつく。
ホームズが眠りに落ちかけた時、男が店を出て行こうとしてた。
見失ってしまう。ホームズを起こすがなかなか目を覚まさない。
追跡も非常に面倒くさいことになってきた。
だが何とか男が薬局でコカインを調達し、誰かに渡そうとしてるのを捕まえた。
ホームズは男を締め上げ、黒幕はオーストリア人のラインスドルフ公爵と突き止める。
ラインスドルフ公爵は、フロイト博士とワトソンが、スポーツクラブに立ち寄った際、フロイト博士を侮辱して、テニス試合での決闘の末、打ち負かされていた。
「公爵がなんでローラを?」
だがその時、ローラは病院から連れ去られ、イスタンブール行きの国際列車に乗せられていた。
この一件にはトルコの王族が絡んでいる。ホームズは様々な断片から推理を組み立てた。
ラインスドルフ公爵はモンテカルロのカジノで大負けした。
借金をした相手のトルコの王族アミ・パシャは、歌手ローラに惚れこみ、我が物にしたいと考えていた。
ラインスドルフ公爵は借金のカタにローラを差し出すため、彼女をさらってコカイン漬けにしたのだ。
イスタンブール行きの汽車はすでに出た。
ホームズたちは駅に停車中のドレスデン行きの汽車をジャック。
猛スピードで後を追う。
ドナウ川を越えられたら手の打ちようがなかった。
俺はSLとか詳しくないけど、見る人が見れば、この古いSLが2台走る追跡場面はたまらない見所になるんじゃないか?
ドナウ川を併走する2本の線路が、次第に交わっていく、そのロケーションがいいんだよなあ。
後を追うホームズたちの汽車には石炭が無くなり、後ろの空の客車を斧でバンバン解体して、木材を薪がわりにしてくとか、ユーモラスな見せ場になってる。
ようやく背後に追いつくと、今度は前の汽車に乗り移ったホームズと、ラインスドルフ公爵が、客車の屋根に上って、剣で渡り合う。
落ち着いた推理調で進んでたドラマが、一転活劇になるのも楽しい。
ホームズたちの活躍で事件は無事解決。だが肝心のホームズの、コカイン中毒の原因が解明されてない。フロイト博士は最後に催眠術を施す。
少年時代のシャーロックが、2階の両親の寝室に向ってる。
扉から覗くと、母親がよその男とベッドにいる。
そこに父親が入ってくる。男は部屋を逃げ出す。
次の瞬間、父親は銃で母親を撃った。間近で血を浴びるシャーロック。
その時すれ違った男と目があった。家庭教師のモリアーティ教授だった。
ホームズがコカイン中毒となり、その妄想からモリアーティ教授を悪の帝王と思い込んでた、その真相が明らかにされたのだ。
トラウマを克服したホームズは、フロイト博士の元を去ることにした。
ワトソンは一緒にロンドンに帰るものと思ってたが、ホームズは
「船でブダペストに行く」と言い、ワトソンと別れた。
晴れ晴れとした気分のホームズと、同じ船にもう一人、女性が乗り合わせていた。
二人は旅を共にすることにした。
ロバート・ダウニー・Jrの映画版、ベネディクト・カンバーバッチのテレビ版、それぞれに新しいホームズ像を築いて評判を得た。
この映画のホームズは、話自体は奇想天外ながら、演じてるニコル・ウィリアムソンはいかにも英国紳士の風情で、原作のホームズ像を踏襲してる。
むしろワトソンを、ロバート・デュヴァルが演じてるのが意外なキャスティング。
普段は中西部訛りでしゃべってるような印象の彼が、英国訛りを披露してるのは「聞きもの」といえる。カツラはつけてます。
ホームズものでありながら、キャストのビリングで一番最初なのが、フロイト博士を演じるアラン・アーキンなのだ。たしかに当時でいえば、彼が一番名前が通ってただろう。
この人も変幻自在であって、1966年の『アメリカ上陸作戦』ではロシアの軍人を演じてた。
この映画ではフロイトということで、オーストリア訛りの英語を話してる。
ローラを演じてるのはヴァネッサ・レッドグレイブ。この映画の時には39才で、男優も女優も、若い役者が出てないというのも特徴だね。
ヴァネッサの役は出番も少ないし、歌手なのに唄う場面もないし、演技派の女優としては物足りない役だったろう。
翌年の『ジュリア』では、アカデミー助演女優賞を獲得してる。
そしてホームズに苛められるモリアーティ教授を演じるのがローレンス・オリヴィエというんだから、これは渋いなりに豪華キャストといえる。
2012年9月4日
別にロバート・ダウニー・Jrのことを言ってるわけじゃなく、そういう設定で、コナン・ドイルの原作ではない、オリジナル脚本で書かれた「ホームズ」もの。
コナン・ドイルが『最後の事件』で描いた、ホームズとモリアーティ教授が、ライヘンバッハの滝つぼに落ちて行った、その結末から、3年後に執筆される『空家の事件』までの、その空白期間のホームズを描いてしまおうという趣向だ。
1976年のハーバート・ロス監督作で、長らくDVD化が待たれてたが、「スティングレイ」からリリースされた。映画検索サイト「オールシネマオンライン」のHPから通販で買える。
1891年10月、ワトソンの元に、ホームズから4ヶ月ぶりに音信がある。
ベイカー街のアパートの2階の部屋を訪れると、ホームズはなにかを非常に警戒してる。
ホームズが「犯罪界のナポレオン」と呼び、その犯罪を暴こうとしてる、モリアーティ教授が、刺客を差し向けてくる。ホームズはそんな風に思ってるようだ。
テーブルにはコカインを7%の溶液に薄める注射器が見える。
ワトソンは、ホームズがコカイン中毒に陥っているのを知っていた。
だがホームズがなぜコカインに手を出すようになったのかは、ワトソンにもわからなかった。
家に戻ったワトソンを、モリアーティ教授が待っていた。
悪の帝王などとはとても見えず、困り果てたという表情をしてる。
モリアーティ教授は、もう長くホームズからいわれのないプレッシャーを受け続けてると、泣きついてきたのだ。
ホームズは教授の後を尾け回し、「今度こそ息の根を止めてやる」といった脅迫文を寄こして来るという。自分は一介の数学教授にすぎないのに。
ワトソンは「面識もないあなたになぜ?」と訊くと
「私は昔、ホームズ兄弟の家庭教師だった」
と教授は言った。
ワトソンは「ホームズは自分のことを全く話さないので」
と言うと、なぜかモリアーティ教授は顔色を変え
「本人が話してないのなら、私が話すべきじゃない」
そう言ってそそくさと立ち去った。
ホームズとモリアーティ教授にはどんな因縁があるのか?
それがコカイン中毒と関わりがあることなのか?
当時コカイン中毒に対する有効な治療法は、まだ確立されてなかった。
その治療を行える人間がウィーンにいるという。
ワトソンはモリアーティ教授に協力を仰ぎ、ロンドンからウィーンへ旅立ってもらった。
日頃から教授の行動をマークしていたホームズは、教授が家を留守にしたことに気づいた。
教授の家の玄関先にバニラエッセンスを撒いておいたホームズは、犬のトビーを連れてきた。
『四つの署名』で活躍したトビーだ。ワトソンも同行した。
トビーに匂いを辿らせて着いたのはビクトリア駅。
ウィーン行きの汽車に乗ったようだ。
ホームズたちは、すぐさま後を追った。
汽車に乗ると、ホームズはすぐに席を外した。
コカインを注射しに行ったのだと、ワトソンはわかっていた。
ウィーンに着くと、ホームズは迷わず馬車の乗り合い場に向かった。
馬車は目的地に着いたら、また駅に戻るはずだ。
犬のトビーが一台の馬車の匂いに反応し、ホームズは御者に金を渡して、前に乗せた客の目的地まで向わせた。
「19番地」の札がかかる建物に入って行くホームズとワトソン。
「追いつめたぞモリアーティ」と思いきや、部屋から出てきたのは全くの別人。
「髪まで染めてうまく変装したものだな」
まだ信じてないホームズに、男は自己紹介した。
「私はジグムンド・フロイト博士だ」
この映画のオリジナル脚本を書いたのはニコラス・メイヤー。
この前年の1975年のTVムービー『アメリカを震撼させた夜』の脚本を書いてる。
これは1938年10月に、まだ映画監督デビュー前のオーソン・ウェルズが仕掛けたラジオドラマの内幕を描いてる。H・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』を、さも本当に起こってるような効果音をつけ、迫真の口調で中継してるように演出して流した所、全米中で、真に受けた市民たちがパニックに陥ったという実話を元にしてる。
これをテレビで録画したビデオが押し入れにあったんだが、テープが切れてて、直さないと見れない状態だ。直したら「押し入れ」で紹介したい。
ニコラス・メイヤーは1979年には自らの脚本で監督デビューも飾っている。
『タイム・アフター・タイム』で、ここでも『タイムマシン』を書いたH・G・ウェルズが、実際にタイムマシンを発明してたという設定だった。
現代にタイムスリップした「切り裂きジャック」を追うという内容。
この『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』ではフロイト博士を登場させたり、実在の人物を虚構の中に絡めるというアイデア巧者なのだ。
さていきなりフロイト博士に自己紹介受けて面食らうものの、ホームズは、博士がユダヤ人で、学界でどういう立場にあり、家族構成はどうなのか?ということまで、たちどころに推理してみせた。
短い時間に部屋の隅々まで観察してたのだ。
フロイト博士はその洞察力に一目置いたが、すかさずホームズのコカイン中毒を指摘した。
ホームズは動揺し、同時に今回のウィーン行きは、ワトソンに仕組まれたことだと、親友を非難した。
ワトソンはなにも言わなかった。
ホームズはコカイン中毒から脱け出すことは困難だと言ったが、フロイト博士は時間をかければ治療は可能だという。
フロイト博士は、退屈しのぎにコカインに手を出した、というような理由ではないと考えていた。
なにか深いトラウマが関わってる。
それを解き明かすためにも、ホームズに催眠術をかけた。
ホームズは一時的に禁断症状も治まり、眠りについた。
フロイト博士とワトソンは、ホームズのカバンを調べ、二重底の底辺に、溶液の注射器がズラリと並べて隠してあることを発見する。
治療は容易ではなさそうだった。
数日間はホームズは激しい禁断症状に苦しんだ。
「ヘビだ!ヘビがいる!」とワトソンを呼ぶ。
ドレッサーの扉からオオカミが襲ってくる。
天井からゆっくりぶら下がってきたヘビは、やがてモリアーティ教授の顔になった。
フロイト博士の辛抱強い治療の甲斐もあり、ホームズの禁断症状は治まってきた。
ホームズはワトソンを呼んだ。
「僕は君になにかひどいことを言ったりしたかな?」
「なにも言っちゃいない」
「もし言ったとしても、それは本心なんかじゃない」
「君は僕の親友なんだから」
ワトソンはその言葉に小さく頷いた。
治療は進むものの、ホームズは食事に口をつけず、表情も冴えない。
フロイト博士は、患者の若い女性が、自殺未遂を起こしたと知らされ、その病院へホームズたちも連れて行った。
ホームズには「君のためにもなるだろう」と。
一命を取り留め、病室で眠ってたのは、メゾ・ソプラノの人気女性歌手ローラ・デヴローだった。
彼女の手足にはコカインの注射跡があった。
ローラは橋から身を投げたというが、ホームズは手足の縄の痕から、その前に監禁されてたと推理した。
「なぜ逃げ出せたのに、自殺を図る?」
「また禁断症状に苦しむと思い、絶望したんだよ」
ホームズは、ローラが自分と同じ苦しみにあるという共感を持った。
女性には冷淡な所のあるホームズとしては珍しい感情ではあった。
誰が彼女を監禁したのか?そしてコカイン漬けにしたのか?
ワトソンは、ホームズが探偵の本能を甦らせ、精彩が戻ってきてるのを目の当たりにした。
「君のためにもなるだろう」と言ったフロイト博士の言葉の意味がわかった。
ホームズはローラから、自分を拘束した男の特徴を聞きだした。
ホームズの中から、もはやモリアーティ教授の存在は消えていた。
3人が入ったレストランで、偶然にホームズは特徴と一致する男を見つけ出す。
だがホームズには禁断症状が現れつつあり、フロイト博士に催眠術をかけるようせっつく。
ホームズが眠りに落ちかけた時、男が店を出て行こうとしてた。
見失ってしまう。ホームズを起こすがなかなか目を覚まさない。
追跡も非常に面倒くさいことになってきた。
だが何とか男が薬局でコカインを調達し、誰かに渡そうとしてるのを捕まえた。
ホームズは男を締め上げ、黒幕はオーストリア人のラインスドルフ公爵と突き止める。
ラインスドルフ公爵は、フロイト博士とワトソンが、スポーツクラブに立ち寄った際、フロイト博士を侮辱して、テニス試合での決闘の末、打ち負かされていた。
「公爵がなんでローラを?」
だがその時、ローラは病院から連れ去られ、イスタンブール行きの国際列車に乗せられていた。
この一件にはトルコの王族が絡んでいる。ホームズは様々な断片から推理を組み立てた。
ラインスドルフ公爵はモンテカルロのカジノで大負けした。
借金をした相手のトルコの王族アミ・パシャは、歌手ローラに惚れこみ、我が物にしたいと考えていた。
ラインスドルフ公爵は借金のカタにローラを差し出すため、彼女をさらってコカイン漬けにしたのだ。
イスタンブール行きの汽車はすでに出た。
ホームズたちは駅に停車中のドレスデン行きの汽車をジャック。
猛スピードで後を追う。
ドナウ川を越えられたら手の打ちようがなかった。
俺はSLとか詳しくないけど、見る人が見れば、この古いSLが2台走る追跡場面はたまらない見所になるんじゃないか?
ドナウ川を併走する2本の線路が、次第に交わっていく、そのロケーションがいいんだよなあ。
後を追うホームズたちの汽車には石炭が無くなり、後ろの空の客車を斧でバンバン解体して、木材を薪がわりにしてくとか、ユーモラスな見せ場になってる。
ようやく背後に追いつくと、今度は前の汽車に乗り移ったホームズと、ラインスドルフ公爵が、客車の屋根に上って、剣で渡り合う。
落ち着いた推理調で進んでたドラマが、一転活劇になるのも楽しい。
ホームズたちの活躍で事件は無事解決。だが肝心のホームズの、コカイン中毒の原因が解明されてない。フロイト博士は最後に催眠術を施す。
少年時代のシャーロックが、2階の両親の寝室に向ってる。
扉から覗くと、母親がよその男とベッドにいる。
そこに父親が入ってくる。男は部屋を逃げ出す。
次の瞬間、父親は銃で母親を撃った。間近で血を浴びるシャーロック。
その時すれ違った男と目があった。家庭教師のモリアーティ教授だった。
ホームズがコカイン中毒となり、その妄想からモリアーティ教授を悪の帝王と思い込んでた、その真相が明らかにされたのだ。
トラウマを克服したホームズは、フロイト博士の元を去ることにした。
ワトソンは一緒にロンドンに帰るものと思ってたが、ホームズは
「船でブダペストに行く」と言い、ワトソンと別れた。
晴れ晴れとした気分のホームズと、同じ船にもう一人、女性が乗り合わせていた。
二人は旅を共にすることにした。
ロバート・ダウニー・Jrの映画版、ベネディクト・カンバーバッチのテレビ版、それぞれに新しいホームズ像を築いて評判を得た。
この映画のホームズは、話自体は奇想天外ながら、演じてるニコル・ウィリアムソンはいかにも英国紳士の風情で、原作のホームズ像を踏襲してる。
むしろワトソンを、ロバート・デュヴァルが演じてるのが意外なキャスティング。
普段は中西部訛りでしゃべってるような印象の彼が、英国訛りを披露してるのは「聞きもの」といえる。カツラはつけてます。
ホームズものでありながら、キャストのビリングで一番最初なのが、フロイト博士を演じるアラン・アーキンなのだ。たしかに当時でいえば、彼が一番名前が通ってただろう。
この人も変幻自在であって、1966年の『アメリカ上陸作戦』ではロシアの軍人を演じてた。
この映画ではフロイトということで、オーストリア訛りの英語を話してる。
ローラを演じてるのはヴァネッサ・レッドグレイブ。この映画の時には39才で、男優も女優も、若い役者が出てないというのも特徴だね。
ヴァネッサの役は出番も少ないし、歌手なのに唄う場面もないし、演技派の女優としては物足りない役だったろう。
翌年の『ジュリア』では、アカデミー助演女優賞を獲得してる。
そしてホームズに苛められるモリアーティ教授を演じるのがローレンス・オリヴィエというんだから、これは渋いなりに豪華キャストといえる。
2012年9月4日
このリーアム・ニーソンに頼ってはいけない [映画サ行]
『THE GREY 凍える太陽』
数日前に、アラスカで新しい人生を切り開こうとするヒロインを描いた『ウェンディ&ルーシー』にコメント入れたが、この映画で描かれるアラスカは絶望の地だ。
リーダーシップを執る人間の判断が正しいとは限らない、ということを描いてる点でいえば、同じサバイバル・パニックものの範疇にある『パーフェクト・ストーム』を連想させる。
あの映画も漁船の船長だったジョージ・クルーニーに「その判断でよかったの?」と思える部分が目立った。最期も救われないし。
この映画の場合、リーダー格となるのがリーアム・ニーソンだから、そりゃ「Aチーム」も率いてきたし、『96時間』でも霊長類最強みたいな親父ぶりを示してたから、この男についてきゃ大丈夫だろうと思うのが人情だ。
だが幕開けで、リーアム演じる主人公オットウェイのモノローグを聞いてると、どうも様子がちがう。
アラスカの石油採掘現場で、野生動物の襲撃から作業員を守る、ハンターの仕事に就いてるオットウェイは、バーで酒を煽った後に、外に出て、手にしたライフルを自分の口に入れるような真似をしてる。
オットウェイは手紙をしたためる。届く宛てのない手紙だ。
それは亡き妻への手紙。妻は病死した。
もうあの満たされた穏やかな時間は戻ってこない。
この石油採掘現場は、過酷な場所で働くしかない男たちの巣窟だ。
オットウェイにとって、人生は意味などないに等しかった。
休暇で家族のもとに帰る作業員たちと、飛行機に乗り込んだ。
機体はしばしば揺れた。嵐に遭遇してたのだ。
妻とベッドで過ごす夢を見てたオットウェイは、激しい衝撃に飛び起きた。
機体は急降下してる。
オットウェイは冷静に、一番効果的なシートベルトの締め方で体を固定し、酸素マスクを装着した。
体は逆さになり、機体の天井は吹き飛び、目の上に森林が見える。
そこで意識は途切れ、気がつくと氷原の只中に放り出されていた。
少し歩くと、バラバラになった飛行機の残骸が目に入った。
助けを呼ぶ声がする。
自分以外にも生存者がいたのだ。男ばかり全部で8人。
墜落場面の描写も恐ろしいが、墜落地点に吹雪が吹きすさんでるのも凄まじい。
生き残ってホッとしてというような風情ではないのだ。
8人のうち、ルウェンデンという男は、墜落の衝撃で腹部を損傷し、
「こんなに血って出るもんなのか?」と自らうろたえるほどの重傷だ。
血を止める術はない。
オットウェイはパニックを起こすルウェンデンの目を見て言う
「いいか、お前はもう死ぬ」
「愛する者はいるか?」
6才の娘がいると言う。
「娘と過ごしていると思うんだ」
「死ぬ時は暖かくなる」
ルウェンデンの気は静まり、やがて最後の息を吐いた。
この場面はさすがリーアム・ニーソンという、語りかけと表情で、見る者の胸を締め付ける。
こういう役者が主役を張ってることで、同じストーリーを描いても、厚みが変わってくるものだ。
仲間のひとりを穏やかに旅立たせたオットウェイを、6人の男たちは囲んでいた。
「まず焚き火を炊くこと、食料を探すこと」
オットウェイの指示で、6人の男たちは動き始めた。
死体が散乱してたが、手をつける余裕もない。
夜になると、酷寒と飢えの問題よりも、深刻な事態が眼前に迫りつつあることを、男たちは痛感した。
闇夜に無数の目が光ってる。その墜落地点は、オオカミの縄張りの中だったのだ。
オットウェイはオオカミの習性を熟知していた。
縄張りに入った者には攻撃をしかけてくる。
夜は2時間おきに見張りを立てることにした。
だが見張りに立ったヘルナンデスは、小便の最中にオオカミ数頭に襲われて、最初の犠牲者となった。
翌朝オットウェイが死体を発見するまで、誰も気がつかなかった。
男たちの間に激しい動揺が走る。オットウェイは決断を下す。
「この縄張りの中にいては、この先も執拗に攻撃を受ける」
氷原の向こうにかすかに見える森を目指して移動すると言う。
だがディアスは異を唱える。
「ここに留まれば救助が来るはずだ」
ディアスは、そもそもリーダー風を吹かすオットウェイが気に食わない。
だが他の5人はオットウェイの判断に従うかまえだ。ディアスも追従するしかなかった。
氷原は激しい風が行く手をはばみ、深い雪にも足を取られる。
足に怪我を負っていた最年少のフラナリーが、最後尾であっという間に、オオカミたちの餌食となった。残るは5人。
一刻も早くこの氷原を抜けて森へ逃げ込まねばならない。
しかし素人の俺でも、なんで墜落地点に留まるより、森の中に逃げ込んだ方が安全と思うのか、よくわからない。そもそもオオカミは森にいるんじゃないのか?
たしかに氷原の真っ只中では、逃げ隠れもできないとはいうが、残骸ではあっても、機体という鉄製の人口物が残ってるんだから、シェルターに組み上げるような形で、オオカミの攻撃を防ぐ手立てはできたのではと思ってしまう。
だが長期戦になれば、燃やす物も無くなるし、食料の確保という問題もあるな。
『アンデスの聖餐』みたいなことはしたくないだろうし。
この後、森に逃げ込んだものの、事態は一向に好転しないという、アメリカ映画には珍しい位に、絶望的なサバイバルが描かれていく。
カタルシスを与えてくれるようなことはない。
ほとんどまともな武器もないから、オオカミに立ち向かう術がないのだ。
脅威なのはオオカミだけではない。5人のうち黒人のバークは、墜落時の低酸素症で、次第に衰弱していく。高所恐怖症のタルゲットは、断崖絶壁から対岸へのアプローチに足がひるむ。
生存者のうち、常に冷静に行動してきたヘンリックは、オットウェイの判断と行動に微かな疑念を抱いていた。
彼はバーから外に出て行ったオットウェイを、たまたま目で追っていたのだ。
リーアム・ニーソンの他に顔を知られた役者が出てない。
なので誰が犠牲になるかという、映画好きにとっての見当つけもできない。
高所恐怖症のタルゲットを演じてるのはダーモット・マローニーなんだが、俺はラストにキャストの名前が出た時にも、彼がどの役だったのかわからなかった。
ダーモット・マローニーは『ベストフレンズ・ウェディング』など90年代にはイケメンとして売ってたが、2002年の『アバウト・シュミット』で全く面影もない位に印象を変えた役を怪演してて、俺はその時に「この役者はけっこう曲者なんだな」と認識した。
しかし今回の役もメガネをかけてたとはいえ、全然わからなかったのだから、大したもんだ。
5人の男たちが森の中で、焚き火を囲んで、互いに大切な人間のことを話す場面がある。
タルゲットは小さな娘がいて、娘の髪は父親の自分が切ることになってると話す。
娘の髪が頬を撫でてこそばゆい。
その感触こそがタルゲットが、生き延びて帰らねばならない、幸福の源となってる。
この場面でオットウェイは口を閉ざしていた自分のことを語り出す。
父親に愛情を注いでもらえなかったこと。
「父親は酒呑みで、典型的なくそったれのアイリッシュだ」
だが父親は詩を好んで書いたという。
その詩の一節がオットウェイにとって、呪文のように心に刻まれてる。
「もう一度闘って、最強の敵を倒せたら」
「その日に死んで悔いはない」
「その日に死んで悔いはない」
オットウェイは生き延びるつもりなのか?死に場所を求めてるのか?
リーダーシップを執る人間が、まさに「グレイ」な存在なのであって、しかしだからといって、この男を無視して、自分だけでサバイバルできる胆力があるだろうか?
極限状態に陥った時、人間は強い意志を持った者に自らの運命を託そうとしてしまうのではないか?
この映画はラストに至っては、ブラックユーモアの気配すら漂わせているんだが、生存者の男たちに、やはり選択肢は他にはなかったんだろうなと、その不条理にも納得せざるを得ない。
そのくらいアラスカという地の、容赦ない厳しさかげんが描かれてたということだ。
監督のジョー・カーナハンは『スモーキン・エース』『特攻野郎Aチーム』と、漫画チックなアクションが続いたが、今回はジョークは一切抜きという、『NARC』で見せた、ゴリゴリとした男たちのドラマに回帰してる。
この映画は兄のリドリーと共に、トニー・スコットがプロデューサーとして名を連ねている。映画は全米では興収第1位を獲得してる。これが彼の最後の仕事になったのだろうか…
2012年8月21日
数日前に、アラスカで新しい人生を切り開こうとするヒロインを描いた『ウェンディ&ルーシー』にコメント入れたが、この映画で描かれるアラスカは絶望の地だ。
リーダーシップを執る人間の判断が正しいとは限らない、ということを描いてる点でいえば、同じサバイバル・パニックものの範疇にある『パーフェクト・ストーム』を連想させる。
あの映画も漁船の船長だったジョージ・クルーニーに「その判断でよかったの?」と思える部分が目立った。最期も救われないし。
この映画の場合、リーダー格となるのがリーアム・ニーソンだから、そりゃ「Aチーム」も率いてきたし、『96時間』でも霊長類最強みたいな親父ぶりを示してたから、この男についてきゃ大丈夫だろうと思うのが人情だ。
だが幕開けで、リーアム演じる主人公オットウェイのモノローグを聞いてると、どうも様子がちがう。
アラスカの石油採掘現場で、野生動物の襲撃から作業員を守る、ハンターの仕事に就いてるオットウェイは、バーで酒を煽った後に、外に出て、手にしたライフルを自分の口に入れるような真似をしてる。
オットウェイは手紙をしたためる。届く宛てのない手紙だ。
それは亡き妻への手紙。妻は病死した。
もうあの満たされた穏やかな時間は戻ってこない。
この石油採掘現場は、過酷な場所で働くしかない男たちの巣窟だ。
オットウェイにとって、人生は意味などないに等しかった。
休暇で家族のもとに帰る作業員たちと、飛行機に乗り込んだ。
機体はしばしば揺れた。嵐に遭遇してたのだ。
妻とベッドで過ごす夢を見てたオットウェイは、激しい衝撃に飛び起きた。
機体は急降下してる。
オットウェイは冷静に、一番効果的なシートベルトの締め方で体を固定し、酸素マスクを装着した。
体は逆さになり、機体の天井は吹き飛び、目の上に森林が見える。
そこで意識は途切れ、気がつくと氷原の只中に放り出されていた。
少し歩くと、バラバラになった飛行機の残骸が目に入った。
助けを呼ぶ声がする。
自分以外にも生存者がいたのだ。男ばかり全部で8人。
墜落場面の描写も恐ろしいが、墜落地点に吹雪が吹きすさんでるのも凄まじい。
生き残ってホッとしてというような風情ではないのだ。
8人のうち、ルウェンデンという男は、墜落の衝撃で腹部を損傷し、
「こんなに血って出るもんなのか?」と自らうろたえるほどの重傷だ。
血を止める術はない。
オットウェイはパニックを起こすルウェンデンの目を見て言う
「いいか、お前はもう死ぬ」
「愛する者はいるか?」
6才の娘がいると言う。
「娘と過ごしていると思うんだ」
「死ぬ時は暖かくなる」
ルウェンデンの気は静まり、やがて最後の息を吐いた。
この場面はさすがリーアム・ニーソンという、語りかけと表情で、見る者の胸を締め付ける。
こういう役者が主役を張ってることで、同じストーリーを描いても、厚みが変わってくるものだ。
仲間のひとりを穏やかに旅立たせたオットウェイを、6人の男たちは囲んでいた。
「まず焚き火を炊くこと、食料を探すこと」
オットウェイの指示で、6人の男たちは動き始めた。
死体が散乱してたが、手をつける余裕もない。
夜になると、酷寒と飢えの問題よりも、深刻な事態が眼前に迫りつつあることを、男たちは痛感した。
闇夜に無数の目が光ってる。その墜落地点は、オオカミの縄張りの中だったのだ。
オットウェイはオオカミの習性を熟知していた。
縄張りに入った者には攻撃をしかけてくる。
夜は2時間おきに見張りを立てることにした。
だが見張りに立ったヘルナンデスは、小便の最中にオオカミ数頭に襲われて、最初の犠牲者となった。
翌朝オットウェイが死体を発見するまで、誰も気がつかなかった。
男たちの間に激しい動揺が走る。オットウェイは決断を下す。
「この縄張りの中にいては、この先も執拗に攻撃を受ける」
氷原の向こうにかすかに見える森を目指して移動すると言う。
だがディアスは異を唱える。
「ここに留まれば救助が来るはずだ」
ディアスは、そもそもリーダー風を吹かすオットウェイが気に食わない。
だが他の5人はオットウェイの判断に従うかまえだ。ディアスも追従するしかなかった。
氷原は激しい風が行く手をはばみ、深い雪にも足を取られる。
足に怪我を負っていた最年少のフラナリーが、最後尾であっという間に、オオカミたちの餌食となった。残るは5人。
一刻も早くこの氷原を抜けて森へ逃げ込まねばならない。
しかし素人の俺でも、なんで墜落地点に留まるより、森の中に逃げ込んだ方が安全と思うのか、よくわからない。そもそもオオカミは森にいるんじゃないのか?
たしかに氷原の真っ只中では、逃げ隠れもできないとはいうが、残骸ではあっても、機体という鉄製の人口物が残ってるんだから、シェルターに組み上げるような形で、オオカミの攻撃を防ぐ手立てはできたのではと思ってしまう。
だが長期戦になれば、燃やす物も無くなるし、食料の確保という問題もあるな。
『アンデスの聖餐』みたいなことはしたくないだろうし。
この後、森に逃げ込んだものの、事態は一向に好転しないという、アメリカ映画には珍しい位に、絶望的なサバイバルが描かれていく。
カタルシスを与えてくれるようなことはない。
ほとんどまともな武器もないから、オオカミに立ち向かう術がないのだ。
脅威なのはオオカミだけではない。5人のうち黒人のバークは、墜落時の低酸素症で、次第に衰弱していく。高所恐怖症のタルゲットは、断崖絶壁から対岸へのアプローチに足がひるむ。
生存者のうち、常に冷静に行動してきたヘンリックは、オットウェイの判断と行動に微かな疑念を抱いていた。
彼はバーから外に出て行ったオットウェイを、たまたま目で追っていたのだ。
リーアム・ニーソンの他に顔を知られた役者が出てない。
なので誰が犠牲になるかという、映画好きにとっての見当つけもできない。
高所恐怖症のタルゲットを演じてるのはダーモット・マローニーなんだが、俺はラストにキャストの名前が出た時にも、彼がどの役だったのかわからなかった。
ダーモット・マローニーは『ベストフレンズ・ウェディング』など90年代にはイケメンとして売ってたが、2002年の『アバウト・シュミット』で全く面影もない位に印象を変えた役を怪演してて、俺はその時に「この役者はけっこう曲者なんだな」と認識した。
しかし今回の役もメガネをかけてたとはいえ、全然わからなかったのだから、大したもんだ。
5人の男たちが森の中で、焚き火を囲んで、互いに大切な人間のことを話す場面がある。
タルゲットは小さな娘がいて、娘の髪は父親の自分が切ることになってると話す。
娘の髪が頬を撫でてこそばゆい。
その感触こそがタルゲットが、生き延びて帰らねばならない、幸福の源となってる。
この場面でオットウェイは口を閉ざしていた自分のことを語り出す。
父親に愛情を注いでもらえなかったこと。
「父親は酒呑みで、典型的なくそったれのアイリッシュだ」
だが父親は詩を好んで書いたという。
その詩の一節がオットウェイにとって、呪文のように心に刻まれてる。
「もう一度闘って、最強の敵を倒せたら」
「その日に死んで悔いはない」
「その日に死んで悔いはない」
オットウェイは生き延びるつもりなのか?死に場所を求めてるのか?
リーダーシップを執る人間が、まさに「グレイ」な存在なのであって、しかしだからといって、この男を無視して、自分だけでサバイバルできる胆力があるだろうか?
極限状態に陥った時、人間は強い意志を持った者に自らの運命を託そうとしてしまうのではないか?
この映画はラストに至っては、ブラックユーモアの気配すら漂わせているんだが、生存者の男たちに、やはり選択肢は他にはなかったんだろうなと、その不条理にも納得せざるを得ない。
そのくらいアラスカという地の、容赦ない厳しさかげんが描かれてたということだ。
監督のジョー・カーナハンは『スモーキン・エース』『特攻野郎Aチーム』と、漫画チックなアクションが続いたが、今回はジョークは一切抜きという、『NARC』で見せた、ゴリゴリとした男たちのドラマに回帰してる。
この映画は兄のリドリーと共に、トニー・スコットがプロデューサーとして名を連ねている。映画は全米では興収第1位を獲得してる。これが彼の最後の仕事になったのだろうか…
2012年8月21日
ジョディ・フォスターが監督作にこめるもの [映画サ行]
『それでも、愛してる』
ジョディ・フォスターが監督し、メル・ギブソンが主演するこの映画は、その顔合わせゆえに、いろんな含みを感じさせる内容となっており、いろんな要素を取り込もうとする結果、収斂しきれなかった、そんな風にも思える。
妙な味わいの映画なのだ。なのでいろんな解釈の余地もある。
メル・ギブソンが演じるウォルターは、父親が一代で築いたおもちゃ会社を、ほぼ自動的に継いだような二代目CEO。ジョディ・フォスター演じる、エンジニアの仕事も今も続ける妻メレディスとは、結婚20年目。
高校生の長男ポーターと、まだ小さな次男ヘンリーと、一家4人、プール付きの一戸建てで、何不自由ない暮らしを送ってた。
自分が突然「ウツ」の症状に見舞われるまでは。
出社もせず、家で寝てばかり。長男のポーターは、自分も父親のようになってしまうのかという不安もあり、ウォルターを毛嫌いするように。
様々な治療も効果がなく、妻のメレディスも途方に暮れる。
ウォルターは酒を大量に買い込み、家を出ることにした。
車のトランクを空けるため、荷物を外に放っぽり出すと、腕にはめて遊ぶビーバーのぬいぐるみが目に入った。なぜかそれだけは持って出た。
モーテルの一室で酒を煽りながら、テレビを見てる。坊さんが弟子に説教してる場面だ。
これはテレビドラマ『燃えよ!カンフー』だな。俺も昔夢中になって見てた。
その説教に感心してるウォルター。
監督のジョディ・フォスターは、子役時代にこのドラマにゲスト出演してた。
左手にビーバーをはめたまま、ウォルターは浴室で首を吊ろうとするも失敗。
ベランダに出て飛び降りようとした時、突然ビーバーが呼びかけた。
「お前の人生を俺が救ってやる」
しゃべってるのはウォルター自身だが、ウォルターはビーバーに話しかけられてると思ってる。
だがウォルターはその腹話術状態でいると、「ウツ」から脱し、心が軽くなったと感じた。
妻のメレディスは自宅に戻ったウォルターからカードを手渡される。
「会話は左腕の人形を介して行うこと」
とまどう妻と、人形に喜ぶヘンリー。
だが長男ポーターは、なにも解決したとは思えず、ますます父親に反発していく。
ウォルターはビーバーを左手にはめたまま会社に復帰。
従業員は面食らうが、なにか人が違ったように職務にまい進する姿に、社内の雰囲気も活気を帯びる。
ウォルターは新商品「ビーバーの木工セット」を発案。クリスマスの子供向けおもちゃとして大ヒットし、テレビ出演もしたウォルターは一躍時の人となる。
人形のおかげで「ウツ」から立ち直った。
ウォルターの姿はテレビを通して、多くの人々に希望を与えたのだ。
しばらくベッドを共にしてなかったメレディスとも、久々に愛しあった。
だがメレディスは、行為の最中もビーバーを外すことがないウォルターに、さすがに閉口した。
結婚20周年をふたりで祝おうと、高級レストランでディナーを予約。
メレディスは今夜だけはビーバーを外してと懇願し、ウォルターも従うが、その様子は急変する。
思い出の写真を見せられた途端、ウォルターは呼吸できなくなり、すぐにビーバーを腕にはめる。
ビーバーは「こいつがこうなったのは過去のせいだ!」と言い放つ。
それ以来ウォルターの症状は悪化の一途を辿った。ビーバーは
「お前の妻は愛してるフリをしてるだけだ。息子もお前を嫌ってる」
「そんな奴らとは離れるべきだ」
とテレビ出演の最中に発言。ウォルターの印象は急落し、木工セットも全く売れなくなった。
内なる声だったはずのビーバーは、もはやウォルターの左手に居座り、ウォルター自身を支配し始めていた。家族との絆を断ち切らないでいるためには、断ち切るべきはビーバーしかない。
ウォルターは決断し、行動に移した。
ウォルターのエピソードと併行して、アントン・イェルチン演じる長男ポーターのエピソードが描かれていく。ポーターは自分が父親のようになるのを怖れ、父親との共通のクセなどを書き出しては、それを正そうとしてる。
そのポーターには特技がある。
さも本人が書いたように見せかけて、同級生のレポートの代筆ができるのだ。
つまりその人間の性格や物の考え方を捉えることができる、鋭い観察力を持ってる。
だがその能力こそが、父親ウォルターが、ビーバーのぬいぐるみを自分の別人格として、立ち上がらせるに至る、いわば「解離性人格障害」と同義のもののように映る。
ポーターは自分自身に向き合うことへの怖れから、「自分はこの家の子供ではない」と思い込みたくて、他人に「成りすます」ような文章が書けるようになった。
だから父親の変化を見て、ポーターの苛立ちは募っていく。
ポーターは、ジェニファー・ローレンス演じるチアリーダーのノラから、卒業スピーチの代筆を頼まれる。
ノラに秘かに惹かれていたポーターは、彼女の気持ちをつかむスピーチ文をと張り切るあまり、踏み込んではならない部分にまで立ち入ってしまう。
ドラッグ中毒で死んだ、ノラの兄のことに触れてしまったのだ。
ノラの怒りにポーターは動揺する。その人間を理解したと思い込んでるだけで、それが傲慢さと紙一重であることにポーターは気づかなかった。
この場面は、ウォルターとメレディスの結婚記念ディナーの場面にシンクロする。
妻のメレディスは夫の「ウツ」を理解したつもりで、過去を思い出させるような写真を持ち出し、ウォルターをパニックに陥らせる。
監督ジョディ・フォスターがこの映画で語りたいのは、「ウツ」に関することよりも、人は他人のことを簡単に理解はできない、ということではないか?
ジョディ・フォスターの初監督作『リトルマン・テイト』は、天才少年と、彼の母親が、周囲の無理解や偏見に苦しめられるという内容だった。
ジョディ自身、天才子役と謳われ、だが演技だけでなく、明晰であった彼女は、女優の仕事を中断して、名門イェール大学に進学してる。
彼女自身の中に、明晰さを欠く者への苛立ちがあるように思う。
それはメディアであったり、映画業界であったり。
勝手に「君のためにやった」と、レーガン大統領を狙撃に及んだジョン・ヒンクリーであったり。
ジョディ・フォスターという一個人の本質を理解されないことへの、諦念めいたものが、彼女の監督作の底流にある気がする。
ポーターのエピソードは「ウツ」とは関連性がないので、映画の視点がばらけてくる印象が否めない。
終盤ウォルターは、左腕のビーバーに自分が乗っ取られそうになるに及び、ビーバーを「殺す」しかないと思うわけだが、ここに至って、息子のポーターとノラの、チクチクするような青春エピソードがかき消される事態が起こる。
もはやホラーな展開で、1978年作で、アンソニー・ホプキンスが、腹話術の人形と一心同体のようになる『マジック』とか、1999年作で、自堕落な生活を送る若者の右腕が、本人の知らぬ間に殺人を犯してたという『アイドル・ハンズ』なんかを思い起こさせる。
しかしそこまでやってしまう主人公をメル・ギブソンに演じさせてるのが、妙に納得なキャスティングではある。
メル・ギブソンといえば「とりつかれる」役柄で売ってきたような所があるからだ。
例えば『リーサル・ウェポン』は妻を事故で失い、自殺することに「とりつかれて」無謀な捜査にまい進する刑事。この世のすべての出来事は仕組まれたものだという思いに「とりつかれてる」男を演じた『陰謀のセオリー』。
ある日突然、女の本音が聞こえるようになってしまった、そんな能力に「とりつかれた」エグゼクティブを演じた『ハート・オブ・ウーマン』。
ミステリー・サークルの出現に、神の啓示かと「とりつかれた」ら、宇宙人がやってきてしまい困惑する農夫を演じた『サイン』とか。
この映画でも徐々にビーバーに主導権を握られてくあたりの、腹話術的演技のニュアンスの変化を上手く表現してる。
俺は「ウツ」になったことがないし、専門的な知識もないんだが、この映画のような「ウツ」へのアプローチというのは、実際に有効なんだろうか?
今の自分と違う別人格を作って「ウツ」から脱するというのは、結局「解離性人格障害」を発症するってことにはならないのか?
毒をもって毒を制すではなく、病をもって病を制すみたいに見えるんだが。
この映画のラストも決して楽観的なものではないしね。
2012年8月17日
ジョディ・フォスターが監督し、メル・ギブソンが主演するこの映画は、その顔合わせゆえに、いろんな含みを感じさせる内容となっており、いろんな要素を取り込もうとする結果、収斂しきれなかった、そんな風にも思える。
妙な味わいの映画なのだ。なのでいろんな解釈の余地もある。
メル・ギブソンが演じるウォルターは、父親が一代で築いたおもちゃ会社を、ほぼ自動的に継いだような二代目CEO。ジョディ・フォスター演じる、エンジニアの仕事も今も続ける妻メレディスとは、結婚20年目。
高校生の長男ポーターと、まだ小さな次男ヘンリーと、一家4人、プール付きの一戸建てで、何不自由ない暮らしを送ってた。
自分が突然「ウツ」の症状に見舞われるまでは。
出社もせず、家で寝てばかり。長男のポーターは、自分も父親のようになってしまうのかという不安もあり、ウォルターを毛嫌いするように。
様々な治療も効果がなく、妻のメレディスも途方に暮れる。
ウォルターは酒を大量に買い込み、家を出ることにした。
車のトランクを空けるため、荷物を外に放っぽり出すと、腕にはめて遊ぶビーバーのぬいぐるみが目に入った。なぜかそれだけは持って出た。
モーテルの一室で酒を煽りながら、テレビを見てる。坊さんが弟子に説教してる場面だ。
これはテレビドラマ『燃えよ!カンフー』だな。俺も昔夢中になって見てた。
その説教に感心してるウォルター。
監督のジョディ・フォスターは、子役時代にこのドラマにゲスト出演してた。
左手にビーバーをはめたまま、ウォルターは浴室で首を吊ろうとするも失敗。
ベランダに出て飛び降りようとした時、突然ビーバーが呼びかけた。
「お前の人生を俺が救ってやる」
しゃべってるのはウォルター自身だが、ウォルターはビーバーに話しかけられてると思ってる。
だがウォルターはその腹話術状態でいると、「ウツ」から脱し、心が軽くなったと感じた。
妻のメレディスは自宅に戻ったウォルターからカードを手渡される。
「会話は左腕の人形を介して行うこと」
とまどう妻と、人形に喜ぶヘンリー。
だが長男ポーターは、なにも解決したとは思えず、ますます父親に反発していく。
ウォルターはビーバーを左手にはめたまま会社に復帰。
従業員は面食らうが、なにか人が違ったように職務にまい進する姿に、社内の雰囲気も活気を帯びる。
ウォルターは新商品「ビーバーの木工セット」を発案。クリスマスの子供向けおもちゃとして大ヒットし、テレビ出演もしたウォルターは一躍時の人となる。
人形のおかげで「ウツ」から立ち直った。
ウォルターの姿はテレビを通して、多くの人々に希望を与えたのだ。
しばらくベッドを共にしてなかったメレディスとも、久々に愛しあった。
だがメレディスは、行為の最中もビーバーを外すことがないウォルターに、さすがに閉口した。
結婚20周年をふたりで祝おうと、高級レストランでディナーを予約。
メレディスは今夜だけはビーバーを外してと懇願し、ウォルターも従うが、その様子は急変する。
思い出の写真を見せられた途端、ウォルターは呼吸できなくなり、すぐにビーバーを腕にはめる。
ビーバーは「こいつがこうなったのは過去のせいだ!」と言い放つ。
それ以来ウォルターの症状は悪化の一途を辿った。ビーバーは
「お前の妻は愛してるフリをしてるだけだ。息子もお前を嫌ってる」
「そんな奴らとは離れるべきだ」
とテレビ出演の最中に発言。ウォルターの印象は急落し、木工セットも全く売れなくなった。
内なる声だったはずのビーバーは、もはやウォルターの左手に居座り、ウォルター自身を支配し始めていた。家族との絆を断ち切らないでいるためには、断ち切るべきはビーバーしかない。
ウォルターは決断し、行動に移した。
ウォルターのエピソードと併行して、アントン・イェルチン演じる長男ポーターのエピソードが描かれていく。ポーターは自分が父親のようになるのを怖れ、父親との共通のクセなどを書き出しては、それを正そうとしてる。
そのポーターには特技がある。
さも本人が書いたように見せかけて、同級生のレポートの代筆ができるのだ。
つまりその人間の性格や物の考え方を捉えることができる、鋭い観察力を持ってる。
だがその能力こそが、父親ウォルターが、ビーバーのぬいぐるみを自分の別人格として、立ち上がらせるに至る、いわば「解離性人格障害」と同義のもののように映る。
ポーターは自分自身に向き合うことへの怖れから、「自分はこの家の子供ではない」と思い込みたくて、他人に「成りすます」ような文章が書けるようになった。
だから父親の変化を見て、ポーターの苛立ちは募っていく。
ポーターは、ジェニファー・ローレンス演じるチアリーダーのノラから、卒業スピーチの代筆を頼まれる。
ノラに秘かに惹かれていたポーターは、彼女の気持ちをつかむスピーチ文をと張り切るあまり、踏み込んではならない部分にまで立ち入ってしまう。
ドラッグ中毒で死んだ、ノラの兄のことに触れてしまったのだ。
ノラの怒りにポーターは動揺する。その人間を理解したと思い込んでるだけで、それが傲慢さと紙一重であることにポーターは気づかなかった。
この場面は、ウォルターとメレディスの結婚記念ディナーの場面にシンクロする。
妻のメレディスは夫の「ウツ」を理解したつもりで、過去を思い出させるような写真を持ち出し、ウォルターをパニックに陥らせる。
監督ジョディ・フォスターがこの映画で語りたいのは、「ウツ」に関することよりも、人は他人のことを簡単に理解はできない、ということではないか?
ジョディ・フォスターの初監督作『リトルマン・テイト』は、天才少年と、彼の母親が、周囲の無理解や偏見に苦しめられるという内容だった。
ジョディ自身、天才子役と謳われ、だが演技だけでなく、明晰であった彼女は、女優の仕事を中断して、名門イェール大学に進学してる。
彼女自身の中に、明晰さを欠く者への苛立ちがあるように思う。
それはメディアであったり、映画業界であったり。
勝手に「君のためにやった」と、レーガン大統領を狙撃に及んだジョン・ヒンクリーであったり。
ジョディ・フォスターという一個人の本質を理解されないことへの、諦念めいたものが、彼女の監督作の底流にある気がする。
ポーターのエピソードは「ウツ」とは関連性がないので、映画の視点がばらけてくる印象が否めない。
終盤ウォルターは、左腕のビーバーに自分が乗っ取られそうになるに及び、ビーバーを「殺す」しかないと思うわけだが、ここに至って、息子のポーターとノラの、チクチクするような青春エピソードがかき消される事態が起こる。
もはやホラーな展開で、1978年作で、アンソニー・ホプキンスが、腹話術の人形と一心同体のようになる『マジック』とか、1999年作で、自堕落な生活を送る若者の右腕が、本人の知らぬ間に殺人を犯してたという『アイドル・ハンズ』なんかを思い起こさせる。
しかしそこまでやってしまう主人公をメル・ギブソンに演じさせてるのが、妙に納得なキャスティングではある。
メル・ギブソンといえば「とりつかれる」役柄で売ってきたような所があるからだ。
例えば『リーサル・ウェポン』は妻を事故で失い、自殺することに「とりつかれて」無謀な捜査にまい進する刑事。この世のすべての出来事は仕組まれたものだという思いに「とりつかれてる」男を演じた『陰謀のセオリー』。
ある日突然、女の本音が聞こえるようになってしまった、そんな能力に「とりつかれた」エグゼクティブを演じた『ハート・オブ・ウーマン』。
ミステリー・サークルの出現に、神の啓示かと「とりつかれた」ら、宇宙人がやってきてしまい困惑する農夫を演じた『サイン』とか。
この映画でも徐々にビーバーに主導権を握られてくあたりの、腹話術的演技のニュアンスの変化を上手く表現してる。
俺は「ウツ」になったことがないし、専門的な知識もないんだが、この映画のような「ウツ」へのアプローチというのは、実際に有効なんだろうか?
今の自分と違う別人格を作って「ウツ」から脱するというのは、結局「解離性人格障害」を発症するってことにはならないのか?
毒をもって毒を制すではなく、病をもって病を制すみたいに見えるんだが。
この映画のラストも決して楽観的なものではないしね。
2012年8月17日
フィルムセンターで『ジェラシー』 [映画サ行]
『ジェラシー』
先月29日まで、京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。
楽しかった「フィルセン」通いもこの映画が最後になった。
1979年のニコラス・ローグ監督作。
日本では1981年に新宿歌舞伎町のミニシアター「シネマスクエアとうきゅう」のコケラ落としとして公開され、俺もその時に見て以来のスクリーン鑑賞となった。
この当時ニコラス・ローグというと、ミック・ジャガーを起用した1970年の初監督作『パフォーマンス』は未公開のまま、ワーナーからビデオで先に出て、劇場上映されたのは、1998年のことだったし、1971年の『美しき冒険旅行』もごく地味な初公開時以来、ほとんど名画座にかからないという「幻の作品」扱いとなってた。
その後2004になって、『WALKABOUT』という原題のまま、リバイバル公開が実現してる。
代表作と名高い1973年の『赤い影』も未公開のまま、ようやく1983年にミニシアターで初公開された。
なので監督作としては1976年にデヴィッド・ボウイを起用した『地球に落ちて来た男』以外は見ることが困難な、日本においては不遇の映画作家だったといえる。
今そのフィルモグラフィを振り返っても、『ジェラシー』に至るその70年代の監督作が傑出してるのだ。
監督デビュー作の『パフォーマンス』は別として、ニコラス・ローグの映画には通低するモチーフがある。それは登場人物たちが、「場違いな場所にいる」という、所在なさ、居心地の悪さを抱いてるという点だ。
『美しき冒険旅行』ではそれがオーストラリアの「アウトバック(砂漠地帯)」に取り残された幼い姉弟であり、『赤い影』では溺死した娘の霊に呼び寄せられるように、水の都ヴェニスをさまよう考古学者であり、『地球に落ちて来た男』では、自分の住む星と図らずも風景の似た、アメリカ中西部に墜落してきた異星人だった。
この『ジェラシー』で出会う男と女も、アメリカ人だが、出会った場所は異郷の地ウィーンだ。
アート・ガーファンクル演じるアレックスは、ウィーンの大学で教鞭をとる精神分析学の教授。
テレサ・ラッセル演じるミレーナは、オーストリアと国境を接するチェコに、初老の夫を持つ身だ。
映画はミレーナが睡眠薬で自殺を図り、そのことをアレックスに電話で告げる場面から始まる。
ふたりの間に何があったのか?
監督ニコラス・ローグは記憶をシャッフルするように、時制を入れかえながら、物語を進めていく。
アレックスはミレーナの部屋に行き、昏睡するミレーナを発見して救急車を呼ぶ。
ミレーナは手術台に乗せられ、救命措置がとられるが、呼吸も危うくなり、気管切開が行われる。
この場面は、喉から赤黒い血が溢れ出す生々しさで、目を背ける人もいただろう。
ハーヴェイ・カイテル演じる、地元ウィーン警察のネチュシル警部が、アレックスを事情聴取に呼んだ。アレックスはごく淡々とミレーナからの電話から、発見・通報に至るいきさつを話すが、ネチュシル警部はなぜか、アレックスに疑いの目を向けるような執拗さで、質問を投げかけてくる。
アレックスとミレーナはパーティで出会った。先に誘う素振りを見せたのはミレーナだった。肉感的なボディを強調するようなドレスで、通路の壁に足を立てて、アレックスを通せんぼした。
アレックスは余裕の素振りで、彼女の足をくぐり抜けて立ち去るが、二人はたびたびデートするようになっていく。
奔放なミレーナの色香にアレックスの方がのめり込んでいった。アレックスは彼女との結婚を望んだが、ミレーナの反応は鈍く、遊び友達の男の影もちらついて、アレックスを苛立たせる。
ウィーンのアメリカ情報部で、時折仕事を頼まれてたアレックスは、偶然一組の夫婦のファイルを見て愕然とする。
ミレーナはステファンというチェコ人と結婚してたのだ。
アレックスはチェコ大使館に赴き、チェコでの離婚手続きについて質問した。
嫉妬心は抑えが利かなくなってたのだ。チェコの担当者は、
「誰が離婚するのか?」と尋ね、アレックスが「友人が」と答えると、
「ではそれはあなたの関知する問題ではない」とピシャリと言い渡される。
すでにミレーナはステファンとは別居状態にあったのだが、アレックスが正式に離婚を求めても、頷くことがない。
ミレーナはなぜアレックスが自分のことを手に入れたがるのか、その気持ちがわからない。
「僕のものになってほしい」
「私は誰のものにもならないわ。あなたは欲が深いのよ。なんでも持ってて、なんでも知ってる。」
「私は私のものなんか欲しくない、もちろんあなたのものもね」
「野心なんてないし、芸術家でも哲学者でも革命家でもないの」
「私の好きな時に好きなようにしてたいだけ。私はこのままの私でいたいのよ!」
セックスには没頭できても、互いの愛する気持ちは噛み合わない。愛し方が噛み合わないのだ。
アレックスは彼女を自分だけの物にしたいと嫉妬を募らせ、ミレーナはその束縛に憔悴していく。
ネチュシル警部は、その噛み合うことのない愛の果てに、アレックスがどんな行為に及んだのか、実は把握していた。救命措置を受けるミレーナの体にその痕跡が残されてたからだ。
ネチュシル警部は、そのことをアレックス本人から「告白」させようとしてたのだ。
映画の中では登場人物たちが絶えず煙草を吸っている。アレックスもミレーナも、ネチュシル警部も。
この煙草は一服つけてリラックスしてる、そういう様子を映してるわけじゃない。
みな苛立ちを紛らわすかのように、煙草に火を点けてるのだ。
そして煙草に火を点けるためのライターを、アレックスは別のことに使う。その場面に見る、精神分析学の教授というインテリで、静かな物腰の紳士に見えるアレックスの、冷血で唾棄すべき素顔。
アレックスは部屋で昏倒するミレーナを発見すると、ベッドに仰向けに横たえる。
ランジェリーをまとうだけのミレーナ、その反応を確かめるために、アレックスはライターで彼女の足裏をあぶるのだ。
しかしこの場面はどうやって撮ったのか?足は作りものには思えず、しかしライターの火は皮膚に触れている。
なにか熱さを感じないジェル状のものを塗ってたのかな。
それはともかく、ライターの火を女の体に当てることに躊躇もないという、それだけでも最低だが、さらにアレックスは下着をナイフで切り裂くと、昏睡状態のミレーナを暴行するのだ。
「君を取り戻せるならなんでもする」
まったく言葉の意味を取り違えてるな。
それから月日が経ち、ニューヨークのアストリア・ホテルの玄関前。
タクシーに乗り込もうとしたアレックスは、赤いドレスの女とすれ違う。髪はショートになってるが間違いはない。
「ミレーナ!」
振り向いた女の喉元には、手術の傷跡が残る。
ミレーナは無言で、傷跡を誇示するようにアレックスに見せると、背中を向けた。
昏睡状態の女性を暴行するという場面は、アルモドヴァル監督の『トーク・トゥ・ハー』にもあった。
病院の介護士の男が、昏睡を続ける若い女性を暴行し、彼女に妊娠の兆候が現れ、騒ぎになるという展開だったが、
「あれもひとつの愛の表現かもしれない」などという感想が述べられたりしてた。
「んなわけねえだろ!」と俺はツッこんだが。
それはともかく、この映画、原題は『BAD TIMING』という。
ウィーンという異国の場所で、亭主持ちの女と出会ってしまったのも、タイミングが悪かったし、
男と女が互いを求め合う、そのタイミングも
「いまここでそれを言う?」みたいなことは頻繁に起こるし、
すれちがう心を表すには打ってつけの題名だろうが、アレックスの視点に立てば『ジェラシー』という邦題もそのものスバリで納得できる。
ニコラス・ローグは撮影監督だった時代から、例えば『華やかな情事 』のジュリー・クリスティの部屋に「赤」を大胆に配していて、その後も『赤い影』の、赤いレインコートの少女の亡霊だとか、この映画でもテレサ・ラッセルが身につける、ドレスや手袋など、やはり「赤」が散りばめられている。
手術シーンの血の色もしかり。
色彩へのこだわりがダリオ・アルジェントと共通するものを感じるのだ。
テレサ・ラッセルのむっちりとした肢体が、とにかく画面を圧していて、ファム・ファタールとして文句のつけようもないエロ美しさだ。
ネチュシル警部を演じるハーヴェイ・カイテルの、インテリの皮を剥いでやろうという、サディスティックな風貌も素晴らしい。髪も長く色気も漂っていて、場面をさらう。
撮影監督あがりの人なので、とにかくカメラの位置が的確なのだ。
この映画では登場人物の切り返しのショットが多いが、目線がきちんと合っている。
当たり前のようだが、その当たり前が出来てない映画も多いのだ。
クリムトやエゴン・シーレの絵の意味するところとか、多分いろんな暗喩も込められてるんだろうが、そのへんは俺の教養不足だ。
トム。ウェイツや、キース・ジャレットや、ビリー・ホリディと、挿入される音楽も渋いけど、ザ・フーの「フー・アー・ユー」はテーマからするとベタすぎないか?
2012年8月1日
先月29日まで、京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。
楽しかった「フィルセン」通いもこの映画が最後になった。
1979年のニコラス・ローグ監督作。
日本では1981年に新宿歌舞伎町のミニシアター「シネマスクエアとうきゅう」のコケラ落としとして公開され、俺もその時に見て以来のスクリーン鑑賞となった。
この当時ニコラス・ローグというと、ミック・ジャガーを起用した1970年の初監督作『パフォーマンス』は未公開のまま、ワーナーからビデオで先に出て、劇場上映されたのは、1998年のことだったし、1971年の『美しき冒険旅行』もごく地味な初公開時以来、ほとんど名画座にかからないという「幻の作品」扱いとなってた。
その後2004になって、『WALKABOUT』という原題のまま、リバイバル公開が実現してる。
代表作と名高い1973年の『赤い影』も未公開のまま、ようやく1983年にミニシアターで初公開された。
なので監督作としては1976年にデヴィッド・ボウイを起用した『地球に落ちて来た男』以外は見ることが困難な、日本においては不遇の映画作家だったといえる。
今そのフィルモグラフィを振り返っても、『ジェラシー』に至るその70年代の監督作が傑出してるのだ。
監督デビュー作の『パフォーマンス』は別として、ニコラス・ローグの映画には通低するモチーフがある。それは登場人物たちが、「場違いな場所にいる」という、所在なさ、居心地の悪さを抱いてるという点だ。
『美しき冒険旅行』ではそれがオーストラリアの「アウトバック(砂漠地帯)」に取り残された幼い姉弟であり、『赤い影』では溺死した娘の霊に呼び寄せられるように、水の都ヴェニスをさまよう考古学者であり、『地球に落ちて来た男』では、自分の住む星と図らずも風景の似た、アメリカ中西部に墜落してきた異星人だった。
この『ジェラシー』で出会う男と女も、アメリカ人だが、出会った場所は異郷の地ウィーンだ。
アート・ガーファンクル演じるアレックスは、ウィーンの大学で教鞭をとる精神分析学の教授。
テレサ・ラッセル演じるミレーナは、オーストリアと国境を接するチェコに、初老の夫を持つ身だ。
映画はミレーナが睡眠薬で自殺を図り、そのことをアレックスに電話で告げる場面から始まる。
ふたりの間に何があったのか?
監督ニコラス・ローグは記憶をシャッフルするように、時制を入れかえながら、物語を進めていく。
アレックスはミレーナの部屋に行き、昏睡するミレーナを発見して救急車を呼ぶ。
ミレーナは手術台に乗せられ、救命措置がとられるが、呼吸も危うくなり、気管切開が行われる。
この場面は、喉から赤黒い血が溢れ出す生々しさで、目を背ける人もいただろう。
ハーヴェイ・カイテル演じる、地元ウィーン警察のネチュシル警部が、アレックスを事情聴取に呼んだ。アレックスはごく淡々とミレーナからの電話から、発見・通報に至るいきさつを話すが、ネチュシル警部はなぜか、アレックスに疑いの目を向けるような執拗さで、質問を投げかけてくる。
アレックスとミレーナはパーティで出会った。先に誘う素振りを見せたのはミレーナだった。肉感的なボディを強調するようなドレスで、通路の壁に足を立てて、アレックスを通せんぼした。
アレックスは余裕の素振りで、彼女の足をくぐり抜けて立ち去るが、二人はたびたびデートするようになっていく。
奔放なミレーナの色香にアレックスの方がのめり込んでいった。アレックスは彼女との結婚を望んだが、ミレーナの反応は鈍く、遊び友達の男の影もちらついて、アレックスを苛立たせる。
ウィーンのアメリカ情報部で、時折仕事を頼まれてたアレックスは、偶然一組の夫婦のファイルを見て愕然とする。
ミレーナはステファンというチェコ人と結婚してたのだ。
アレックスはチェコ大使館に赴き、チェコでの離婚手続きについて質問した。
嫉妬心は抑えが利かなくなってたのだ。チェコの担当者は、
「誰が離婚するのか?」と尋ね、アレックスが「友人が」と答えると、
「ではそれはあなたの関知する問題ではない」とピシャリと言い渡される。
すでにミレーナはステファンとは別居状態にあったのだが、アレックスが正式に離婚を求めても、頷くことがない。
ミレーナはなぜアレックスが自分のことを手に入れたがるのか、その気持ちがわからない。
「僕のものになってほしい」
「私は誰のものにもならないわ。あなたは欲が深いのよ。なんでも持ってて、なんでも知ってる。」
「私は私のものなんか欲しくない、もちろんあなたのものもね」
「野心なんてないし、芸術家でも哲学者でも革命家でもないの」
「私の好きな時に好きなようにしてたいだけ。私はこのままの私でいたいのよ!」
セックスには没頭できても、互いの愛する気持ちは噛み合わない。愛し方が噛み合わないのだ。
アレックスは彼女を自分だけの物にしたいと嫉妬を募らせ、ミレーナはその束縛に憔悴していく。
ネチュシル警部は、その噛み合うことのない愛の果てに、アレックスがどんな行為に及んだのか、実は把握していた。救命措置を受けるミレーナの体にその痕跡が残されてたからだ。
ネチュシル警部は、そのことをアレックス本人から「告白」させようとしてたのだ。
映画の中では登場人物たちが絶えず煙草を吸っている。アレックスもミレーナも、ネチュシル警部も。
この煙草は一服つけてリラックスしてる、そういう様子を映してるわけじゃない。
みな苛立ちを紛らわすかのように、煙草に火を点けてるのだ。
そして煙草に火を点けるためのライターを、アレックスは別のことに使う。その場面に見る、精神分析学の教授というインテリで、静かな物腰の紳士に見えるアレックスの、冷血で唾棄すべき素顔。
アレックスは部屋で昏倒するミレーナを発見すると、ベッドに仰向けに横たえる。
ランジェリーをまとうだけのミレーナ、その反応を確かめるために、アレックスはライターで彼女の足裏をあぶるのだ。
しかしこの場面はどうやって撮ったのか?足は作りものには思えず、しかしライターの火は皮膚に触れている。
なにか熱さを感じないジェル状のものを塗ってたのかな。
それはともかく、ライターの火を女の体に当てることに躊躇もないという、それだけでも最低だが、さらにアレックスは下着をナイフで切り裂くと、昏睡状態のミレーナを暴行するのだ。
「君を取り戻せるならなんでもする」
まったく言葉の意味を取り違えてるな。
それから月日が経ち、ニューヨークのアストリア・ホテルの玄関前。
タクシーに乗り込もうとしたアレックスは、赤いドレスの女とすれ違う。髪はショートになってるが間違いはない。
「ミレーナ!」
振り向いた女の喉元には、手術の傷跡が残る。
ミレーナは無言で、傷跡を誇示するようにアレックスに見せると、背中を向けた。
昏睡状態の女性を暴行するという場面は、アルモドヴァル監督の『トーク・トゥ・ハー』にもあった。
病院の介護士の男が、昏睡を続ける若い女性を暴行し、彼女に妊娠の兆候が現れ、騒ぎになるという展開だったが、
「あれもひとつの愛の表現かもしれない」などという感想が述べられたりしてた。
「んなわけねえだろ!」と俺はツッこんだが。
それはともかく、この映画、原題は『BAD TIMING』という。
ウィーンという異国の場所で、亭主持ちの女と出会ってしまったのも、タイミングが悪かったし、
男と女が互いを求め合う、そのタイミングも
「いまここでそれを言う?」みたいなことは頻繁に起こるし、
すれちがう心を表すには打ってつけの題名だろうが、アレックスの視点に立てば『ジェラシー』という邦題もそのものスバリで納得できる。
ニコラス・ローグは撮影監督だった時代から、例えば『華やかな情事 』のジュリー・クリスティの部屋に「赤」を大胆に配していて、その後も『赤い影』の、赤いレインコートの少女の亡霊だとか、この映画でもテレサ・ラッセルが身につける、ドレスや手袋など、やはり「赤」が散りばめられている。
手術シーンの血の色もしかり。
色彩へのこだわりがダリオ・アルジェントと共通するものを感じるのだ。
テレサ・ラッセルのむっちりとした肢体が、とにかく画面を圧していて、ファム・ファタールとして文句のつけようもないエロ美しさだ。
ネチュシル警部を演じるハーヴェイ・カイテルの、インテリの皮を剥いでやろうという、サディスティックな風貌も素晴らしい。髪も長く色気も漂っていて、場面をさらう。
撮影監督あがりの人なので、とにかくカメラの位置が的確なのだ。
この映画では登場人物の切り返しのショットが多いが、目線がきちんと合っている。
当たり前のようだが、その当たり前が出来てない映画も多いのだ。
クリムトやエゴン・シーレの絵の意味するところとか、多分いろんな暗喩も込められてるんだろうが、そのへんは俺の教養不足だ。
トム。ウェイツや、キース・ジャレットや、ビリー・ホリディと、挿入される音楽も渋いけど、ザ・フーの「フー・アー・ユー」はテーマからするとベタすぎないか?
2012年8月1日
フィルムセンターで『サスペリアPART2』 [映画サ行]
『サスペリアPART2』
この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」にラインナップされた1本。
選んだ人が意図したのかどうか、このダリオ・アルジェント監督作と、同じくラインナップに入ってるニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』には共通して、「赤」へのオブセッションが感じられる。
2本ともミステリーの装いで、見る者を迷路に誘い込むような手口で作られてる所も似てる。
1978年日本公開のダリオ・アルジェント監督作。スクリーンで見るのは、その公開時以来だが、30年以上優に経っていても、やっぱり面白いんだよなあ。
唯我独尊というのか、時代による風化を凌駕する、この頃のアルジェント作品の強固な美意識に貫かれてる。
ミステリーとしては、『四匹の蝿』なんかにも言えるんだが、「なぜそこからそうつながる?」という、どんなに察しのいい人でも察しきれない謎解きが待っていて、途方に暮れたりするのだが、そんなことはおかまいなしに、痛覚直撃の惨殺シーンが挟まれているんで、しまいには筋はどーでもよくなる。
女性霊能力者が、講演中に霊の存在を感じとり、この会場に殺人犯がいて、新たな殺人を犯そうとしてる、と取り乱し、会場を騒然とさせる。
憔悴してアパートに戻った霊能力者は、突然何者かに襲われ、惨殺される。
悲鳴を聞いて部屋に駆けつけた、アパートの住人の音楽家マークは、茶色のコートを着た男の背中を目撃した。
講演会場に殺人犯が居て、それを指摘されたんで霊能力者を殺したというのはいいが、事件の真相が明かされると、そもそもなんでその犯人が、女性霊能力者の講演会場にいる必要があったのか、さっぱりわからん。
デヴィッド・ヘミングス演じるマークが、探偵さながらに事件の真相に迫っていくが、それは20年以上前に、小さな息子の目の前で、自分の夫を殺した女が、夫の死体を屋敷の壁の中に埋め、その殺人の発覚を恐れて、危険そうな人間を殺して回ってたというわけ。
しかし警察はまだ動いてる気配もないし、過去の殺人を隠蔽するため、新たに殺人を積み重ねてるんだから、勇み足もいい所なのだ。
そして殺された2人に関しては、マークのいわば「探偵ごっこ」に付き合わされた末に、惨たらしく殺されてるんで、実はマークこそ疫病神だったといえる。
マークは事件を嗅ぎ回る過程で、子供の「わらべ歌」を耳にし、「お前を殺す」という声を聞いた。
その「わらべ歌」を聴いてもらおうと訪れるのが、心理学者ジョルダーニのもとだ。
そして「わらべ歌」の謎を解く鍵が、「近代の幽霊と暗黒伝説」という本にあるとわかる。
その作者である女性作家のもとを訪ねるが、すでに女性は惨殺済みだった。
女性は自宅で襲われ、バスタブに熱湯を注がれ、その中に顔を押し付けられた。
浴槽に転がされた時はもう虫の息となってた。
犯人が立ち去った後、顔面がジェリー状になった女性は、最後の力を振り絞って、バスルームの鏡に指で「ダイイング・メッセージ」を書き遺す。
その現場を訪れたマークはそれに気づかなかったが、死体が収容された後に現場を訪れたジョルダーニは、死体の位置を示すチョークの痕を見て閃いた。
そしてバスルームを蒸気で満たし、鏡に文字が浮かび上がった!
…なんて書いてあるのかわからない…
そのジョルダーニが自宅に戻り、物思いに耽っていると、居間になにかがやって来る。
ドアの向こうから真っ直ぐに、ジョルダーニの前まで、一体の操り人形が笑いながらスルスルと!
ジョルダーニは恐怖で思わず人形を叩き壊す。
顔が割れて半分になっても、ケタケタ笑ってる。
次の瞬間ジョルダーニは後ろから頭をつかまれ、何度もテーブルの角に口を打ちつけられ、歯が砕ける。
そして刃物で止めを刺された。
ふたりともマークに係わってなければこんな目には遭ってない。
そのマークは「近代の幽霊と暗黒伝説」の本に紹介されてた、曰くつきの幽霊屋敷をようやく探し当てた。廃墟となったその屋敷の壁が不自然に塗られてる箇所を発見する。
その表面を剥がしていくと、中から子供が描いたと思われる絵が出てくる。
誰かがナイフで刺されて血まみれになってる絵だ。
マークは事件に興味を持って近づいてきた女性新聞記者のジャンナに充て、その屋敷に行くとメモを残し、夜中に廃墟となったその屋敷に忍び込み、今度は壁の向こう側に空間があることを突き止める。
壁を叩き壊すと、中には部屋があり、ミイラ化した死体が椅子に座っていた。
だがその直後にマークも何者かに襲われた。
意識が戻ると目の前にはジャンナがいた。心配で駆けつけてきたのだ。
二人はその屋敷の壁に描かれた絵とそっくりの絵が、レオナルド・ダ・ヴィンチ小学校の図書館に残されていることを知る。
その図書館で同じ絵を発見した時、またしてもあの「わらべ歌」が聞こえ、ジャンナは暗がりで何者かにナイフで刺される。だが一命は取り留めた。
なぜマークとジャンナは殺されず、心理学者と幽霊本の作者と、霊能力者は惨殺されたのか?
ああ、灯台もと暗し。犯人はマークの友人の音楽家カルロの母親だったのだ。
マークは女性霊能力者殺人の謎を追ってると、カルロに告げた時に
「あまり深入りしない方がいい」と言われてた。
マークとジャンナを襲ったのはカルロで、他の3人を殺したのは母親だったのだ。
図書館の絵がカルロによって描かれたものとわかり、マークはカルロを追求。
だがカルロは動揺してその場を逃げ去ろうとし、清掃車の後部に足を挟まれて、そのまま引き摺られていく。叫びを上げても運転手は気づかない。
やがてカーブで縁石に頭を打ちつけられ、意識を失いかけてる所に、対向車がカルロの頭部を潰して走り去った。
カルロが犯人ではないとすると?マークはカルロの母親の住むアパートを訪ねた。
その廊下には、なにやら不気味な幽霊画のような絵が何枚もかかっている。
マークは何か思い出した。
あの霊能力者が殺された現場に駆けつけた時に、これと同じ絵がかかってた気がしたのだ。
いやあれは絵ではなく鏡だったのでは?
そしてその鏡に映ってた顔こそ、不気味な幽霊画と思い込んでたが、カルロの母親の顔だったのだ!
それに気づいた時、案の定マークは、カルロの母親に刃物で襲われた。
カルロの母親は勢い余って、エレベーターの鉄柵に、首にかけたネックレスを引っ掛けてしまう。
それを見たマークは即座にエレベーターのボタンを押す。
エレベーターシャフトが降りて行き、ネックレスは絶叫とともに母親の首を切断した。
まあこれでほぼゴアシーンの解説は済んだな。
ゴブリンのプログレ・サウンドが鳴りまくるのも気持ちいいね。
アルジェントの音楽のつけ方は独特で、普通は殺害場面など、その最中に鳴らすもんだが、この映画ではその場面の直前に「さあ、行きますよ!」って感じで盛り上がるのだ。
そして音楽が止んで静かになると「ドン」とショックシーンが挟まれる。
登場人物がなにか重要なことに気がついて「そうだったのかあ!」っていう場面でも音楽が高鳴ります。その見え見えの感じが楽しいのだ。
あのトラウマ人形だが、今回改めて見ると、歩いてるというより、やっぱり上から紐で釣られてる感があったね。足がヒョコヒョコ浮いてたから。そこは愛嬌感じたよ。
あの幽霊屋敷もよくこんな建物見つけてくるなと思うくらい雰囲気出まくり。こういう建物がそこらに残ってるというのが、ヨーロッパの強みだろう。
ダリオ・アルジェントの映画を見てて思うのは、ひと気のない広場とか、登場人物以外の画面に映ってる人間たちが、ほとんど点景にしか見えない所。
なにか自分の見る、夢の中の風景に近い感覚を覚えるのだ。
『GANTZ』の中で主人公たちが、自分たちの住む町そのままの異空間で敵と戦う場面があるが、あの「無人感」に近い。
自分の日常と繋がってるようで、繋がってない、地に足がついてない、心細くなるような感覚。
アルジェントの映画に惹かれるのは、ただのジャーロ的な露悪趣味に終わらない、独特の感覚を味あわせてくれるからなのだ。
2012年7月31日
この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」にラインナップされた1本。
選んだ人が意図したのかどうか、このダリオ・アルジェント監督作と、同じくラインナップに入ってるニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』には共通して、「赤」へのオブセッションが感じられる。
2本ともミステリーの装いで、見る者を迷路に誘い込むような手口で作られてる所も似てる。
1978年日本公開のダリオ・アルジェント監督作。スクリーンで見るのは、その公開時以来だが、30年以上優に経っていても、やっぱり面白いんだよなあ。
唯我独尊というのか、時代による風化を凌駕する、この頃のアルジェント作品の強固な美意識に貫かれてる。
ミステリーとしては、『四匹の蝿』なんかにも言えるんだが、「なぜそこからそうつながる?」という、どんなに察しのいい人でも察しきれない謎解きが待っていて、途方に暮れたりするのだが、そんなことはおかまいなしに、痛覚直撃の惨殺シーンが挟まれているんで、しまいには筋はどーでもよくなる。
女性霊能力者が、講演中に霊の存在を感じとり、この会場に殺人犯がいて、新たな殺人を犯そうとしてる、と取り乱し、会場を騒然とさせる。
憔悴してアパートに戻った霊能力者は、突然何者かに襲われ、惨殺される。
悲鳴を聞いて部屋に駆けつけた、アパートの住人の音楽家マークは、茶色のコートを着た男の背中を目撃した。
講演会場に殺人犯が居て、それを指摘されたんで霊能力者を殺したというのはいいが、事件の真相が明かされると、そもそもなんでその犯人が、女性霊能力者の講演会場にいる必要があったのか、さっぱりわからん。
デヴィッド・ヘミングス演じるマークが、探偵さながらに事件の真相に迫っていくが、それは20年以上前に、小さな息子の目の前で、自分の夫を殺した女が、夫の死体を屋敷の壁の中に埋め、その殺人の発覚を恐れて、危険そうな人間を殺して回ってたというわけ。
しかし警察はまだ動いてる気配もないし、過去の殺人を隠蔽するため、新たに殺人を積み重ねてるんだから、勇み足もいい所なのだ。
そして殺された2人に関しては、マークのいわば「探偵ごっこ」に付き合わされた末に、惨たらしく殺されてるんで、実はマークこそ疫病神だったといえる。
マークは事件を嗅ぎ回る過程で、子供の「わらべ歌」を耳にし、「お前を殺す」という声を聞いた。
その「わらべ歌」を聴いてもらおうと訪れるのが、心理学者ジョルダーニのもとだ。
そして「わらべ歌」の謎を解く鍵が、「近代の幽霊と暗黒伝説」という本にあるとわかる。
その作者である女性作家のもとを訪ねるが、すでに女性は惨殺済みだった。
女性は自宅で襲われ、バスタブに熱湯を注がれ、その中に顔を押し付けられた。
浴槽に転がされた時はもう虫の息となってた。
犯人が立ち去った後、顔面がジェリー状になった女性は、最後の力を振り絞って、バスルームの鏡に指で「ダイイング・メッセージ」を書き遺す。
その現場を訪れたマークはそれに気づかなかったが、死体が収容された後に現場を訪れたジョルダーニは、死体の位置を示すチョークの痕を見て閃いた。
そしてバスルームを蒸気で満たし、鏡に文字が浮かび上がった!
…なんて書いてあるのかわからない…
そのジョルダーニが自宅に戻り、物思いに耽っていると、居間になにかがやって来る。
ドアの向こうから真っ直ぐに、ジョルダーニの前まで、一体の操り人形が笑いながらスルスルと!
ジョルダーニは恐怖で思わず人形を叩き壊す。
顔が割れて半分になっても、ケタケタ笑ってる。
次の瞬間ジョルダーニは後ろから頭をつかまれ、何度もテーブルの角に口を打ちつけられ、歯が砕ける。
そして刃物で止めを刺された。
ふたりともマークに係わってなければこんな目には遭ってない。
そのマークは「近代の幽霊と暗黒伝説」の本に紹介されてた、曰くつきの幽霊屋敷をようやく探し当てた。廃墟となったその屋敷の壁が不自然に塗られてる箇所を発見する。
その表面を剥がしていくと、中から子供が描いたと思われる絵が出てくる。
誰かがナイフで刺されて血まみれになってる絵だ。
マークは事件に興味を持って近づいてきた女性新聞記者のジャンナに充て、その屋敷に行くとメモを残し、夜中に廃墟となったその屋敷に忍び込み、今度は壁の向こう側に空間があることを突き止める。
壁を叩き壊すと、中には部屋があり、ミイラ化した死体が椅子に座っていた。
だがその直後にマークも何者かに襲われた。
意識が戻ると目の前にはジャンナがいた。心配で駆けつけてきたのだ。
二人はその屋敷の壁に描かれた絵とそっくりの絵が、レオナルド・ダ・ヴィンチ小学校の図書館に残されていることを知る。
その図書館で同じ絵を発見した時、またしてもあの「わらべ歌」が聞こえ、ジャンナは暗がりで何者かにナイフで刺される。だが一命は取り留めた。
なぜマークとジャンナは殺されず、心理学者と幽霊本の作者と、霊能力者は惨殺されたのか?
ああ、灯台もと暗し。犯人はマークの友人の音楽家カルロの母親だったのだ。
マークは女性霊能力者殺人の謎を追ってると、カルロに告げた時に
「あまり深入りしない方がいい」と言われてた。
マークとジャンナを襲ったのはカルロで、他の3人を殺したのは母親だったのだ。
図書館の絵がカルロによって描かれたものとわかり、マークはカルロを追求。
だがカルロは動揺してその場を逃げ去ろうとし、清掃車の後部に足を挟まれて、そのまま引き摺られていく。叫びを上げても運転手は気づかない。
やがてカーブで縁石に頭を打ちつけられ、意識を失いかけてる所に、対向車がカルロの頭部を潰して走り去った。
カルロが犯人ではないとすると?マークはカルロの母親の住むアパートを訪ねた。
その廊下には、なにやら不気味な幽霊画のような絵が何枚もかかっている。
マークは何か思い出した。
あの霊能力者が殺された現場に駆けつけた時に、これと同じ絵がかかってた気がしたのだ。
いやあれは絵ではなく鏡だったのでは?
そしてその鏡に映ってた顔こそ、不気味な幽霊画と思い込んでたが、カルロの母親の顔だったのだ!
それに気づいた時、案の定マークは、カルロの母親に刃物で襲われた。
カルロの母親は勢い余って、エレベーターの鉄柵に、首にかけたネックレスを引っ掛けてしまう。
それを見たマークは即座にエレベーターのボタンを押す。
エレベーターシャフトが降りて行き、ネックレスは絶叫とともに母親の首を切断した。
まあこれでほぼゴアシーンの解説は済んだな。
ゴブリンのプログレ・サウンドが鳴りまくるのも気持ちいいね。
アルジェントの音楽のつけ方は独特で、普通は殺害場面など、その最中に鳴らすもんだが、この映画ではその場面の直前に「さあ、行きますよ!」って感じで盛り上がるのだ。
そして音楽が止んで静かになると「ドン」とショックシーンが挟まれる。
登場人物がなにか重要なことに気がついて「そうだったのかあ!」っていう場面でも音楽が高鳴ります。その見え見えの感じが楽しいのだ。
あのトラウマ人形だが、今回改めて見ると、歩いてるというより、やっぱり上から紐で釣られてる感があったね。足がヒョコヒョコ浮いてたから。そこは愛嬌感じたよ。
あの幽霊屋敷もよくこんな建物見つけてくるなと思うくらい雰囲気出まくり。こういう建物がそこらに残ってるというのが、ヨーロッパの強みだろう。
ダリオ・アルジェントの映画を見てて思うのは、ひと気のない広場とか、登場人物以外の画面に映ってる人間たちが、ほとんど点景にしか見えない所。
なにか自分の見る、夢の中の風景に近い感覚を覚えるのだ。
『GANTZ』の中で主人公たちが、自分たちの住む町そのままの異空間で敵と戦う場面があるが、あの「無人感」に近い。
自分の日常と繋がってるようで、繋がってない、地に足がついてない、心細くなるような感覚。
アルジェントの映画に惹かれるのは、ただのジャーロ的な露悪趣味に終わらない、独特の感覚を味あわせてくれるからなのだ。
2012年7月31日