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夏川結衣のドラマを見る [映画タ行]

『尋ね人』

夏川結衣4.jpg

WOWOWの無料放送でやってた。
主演が夏川結衣とあっては、まずは見なくてはならない。

監督は篠原哲雄。先月「TIFF」で見た日中合作の『スイートハート・チョコレート』はガッカリな出来だったので、どうかなとは思ったが。

これは今年出版された谷村志穂の小説をドラマ化したものだが、筋を追いながら、なんだか篠原哲雄監督が2000年に撮った『はつ恋』と、プロットが似てるなあと思った。


『尋ね人』で夏川結衣が演じるヒロイン李恵は、東京で服飾デザインの会社を経営してたが、仕事でも私生活でもパートナーだった男に裏切られ、地元の函館に戻ってくる。

病床に臥す母親を自宅で看病するためだったが、傷心を癒すためでもあった。
だが家に戻ると、母親から思いもかけない頼まれごとをされる。

母親の美月は、自身の余命が僅かであることを察していた。
命尽きる前にと、母親がどうしても確かめたかったこと、それは50年前の初恋の人の消息だった。


昭和27年、函館の児童施設で働いていた美月は、仙台の大学から函館を訪れた藤一郎と知り合う。
二人は親密になると共に、藤一郎は大学の休みを見つけては、青函連絡船に乗って、仙台からやってきた。
旅費もかなりかかるはずだが、藤一郎は仙台の土地持ちのせがれだったのだ。

親友によれば、それまでは女にも手が早い、遊び人だったが、美月と出会い、その純真さに打たれて、本気で彼女を愛するようになったと。

美月も藤一郎との将来を心に決めていた。
「次に会う時は、ご両親にも紹介してね」

藤一郎はその言葉に頷いたが、帰り際、市電乗り場で一緒に乗り込むはずが、二人はそこで別れ別れになってしまう。
藤一郎は不意に市電乗り場から立ち去り、それきり姿を消してしまったのだ。

以来手紙を出しても返事は来ず、心当りに連絡しても、誰ひとり藤一郎の居場所を知らない。

「私がなにか気に触ることでも言ってしまったのか?」
美月は思い悩む日々を送った。

そして傷心にけじめをつけるべく、2年後に、紹介を受けた見合い相手と結婚を決め、そして李恵が生まれたのだ。


「なんで50年も前の恋にこだわるの?」
「私やお父さんは、一体なんなの?」
李恵は母親の申し出をとても納得できはしなかった。

だが母親が藤一郎と交わした、100通にも及ぶ恋文を目のあたりにして、余命僅かな母親の真剣な心情に思い及ぶようになっていった。


地元のいきつけのバーで、そんな話を漏らした李恵に、そばに居た無精ひげの男が
「それは失踪ですよ」と口を挟んだ。
「自分から望んで失踪した場合、まず見つけだすのは不可能だ」
男のぶっきらぼうな口調にカチンとくる李恵。

だがその言葉が引っかかり、後日、男が営んでる「浮気調査」の事務所に顔を出す。
男は「失踪人の調査はしない」と断るが、李恵の率直な性格に惹かれるものがあり、手助けをするようになる。
恋文の文面から手がかりを探り、糸をたぐるように、藤一郎の足跡を見つけて行く。


藤一郎はあの後、仙台の実家にも戻らず、バーテンをして渡り歩いていた。
大阪のバーに当時の藤一郎を知る主人がいた。

藤一郎には実は親が決めた許婚がおり、美月との恋の狭間で、悩んでいたという。
美月からも将来を乞われ、許婚との式も迫り、その女たちの視線に耐えられなくなり、藤一郎は衝動的に姿を消したのだという。

だが2年が経ち、やはり美月への思いは断ちがたく、藤一郎は大阪から、再び函館へと向かった。

その時すでに美月は結婚し、児童施設も辞めていた。
藤一郎は後悔を胸に、昭和29年9月、嵐の近づく青函連絡船・洞爺丸の乗客となっていた。


夏川結衣は、母親の恋の消息を辿るなかで、自らの過去の恋との訣別をはかるヒロインの心の揺らぎを、丁寧に演じてた。
男を寝取った、自分の部下でもあった若い女から、男の部屋にあった私物を函館に送りつけられ、屈辱に涙する場面もいいが、その男が函館にやってきて、ホテルで復縁をちらつかせる態度に、きっぱり拒絶を示し、
「では、お元気で!」と立ち去る、
その切れ味に夏川結衣の本領が出てた。

無精ひげの男を演じてるのは安田顕。ファンからは「ヤスケン」と呼ばれてるんだね。
うらぶれた感じは、若い頃の山崎努を思わせるものがあり、舞台に立ってるからか、声がいい。

俺はこの人の芝居を初めて見るんだが、普段の芸風とはちがうようで、盟友の大泉洋が見たら
「おまえ、なにカッコつけちゃってるんだよ!」
とツッコミ入るところか。
大泉洋も『探偵はBARにいる』で十分カッコつけてたから、お相子だろうけど。

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さて前述した篠原哲雄監督の『はつ恋』だが、あの映画では田中麗奈演じる女子高生が、やはり母親の昔の初恋相手への想いを知り、その男性を探すという出だし。
母親が病に倒れ、余命いくばくもないというのも同じ。

初恋相手はわりとすぐに見つかるんだが、真田広之演じるその男は、初恋のイメージをブチ壊すような、うらぶれた風情の中年男で、女子高生は
「こんなじゃ母親に会わせらんない」と、男を改造するべく奮闘する。

男は結婚生活に破れ、その痛手を引きずってグズグズしてるという設定だが、
これも『尋ね人』の安田顕演じる無精ひげの男が、妻と離婚し、いまは幼い息子に会うことも適わず、失意の日々にあるというのと一緒だ。
真田広之演じる男の名が藤木真一路といい、藤一郎と似てなくもないし。

監督の篠原哲雄がこういう話が好きで、『尋ね人』の監督を引き受けたのか、原作の谷村志穂が、『はつ恋』のプロットからヒントを得て、小説を書き上げたのか、なんにせよ偶然すぎる一致に思える。

2012年11月9日

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香港の家政婦は見た [映画タ行]

『桃(タオ)さんのしあわせ』

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父親の実家に昔、住み込みの家政婦さんがいた。
別に大層な家でもないのだが、俺の祖母というのが、料理や家事の一切をしないという人だったので、早くから雇い入れていたようだ。

ガキの頃、家族で帰省すると、決まって駅まで出迎えに来てくれた。
俺は「なあさん」と呼んでた。
語尾に「なあ」がつくんで、そう呼ぶようになったんだろう。

祖父が死に、祖母も入院するようになり、なあさんは暇をもらったようだ。
それはいつの頃だったか。
それどころか、俺はいまも「なあさん」の本名を知らないのだ。

彼女がどんな風に育ち、青春時代を送り、結婚した様子もなく、俺の父親の実家に住み込んで、長い時間を過ごしてきた、そのことをほとんど知らないままだ。

香港のベテラン女性監督アン・ホイによる、この『桃(タオ)さんのしあわせ』を見ながら、なあさんの顔を思い浮かべていた。


幼い頃に養子に出され、養父の死後には、梁家の家政婦となった桃さん。
その後彼女は4代に仕え、もう60年の月日が流れていた。
梁家は現在サンフランシスコに移住し、独身で映画プロデューサーのロジャーだけが香港のマンションに残っている。
桃さんはそのロジャーの身の回りの世話をしてるのだ。

夕飯の食材を探して市場に出向き、ロジャーのために手をかけた料理を出す。
ロジャーは旨いとも何とも云わず、当たり前のように黙々と食べると、中国に出張に出る。

桃さんとロジャーは母親と息子のような間柄となっており、息子は母親の作った料理を、褒めることもせず食べるだけという、この描写はチクリと心に刺さる。
息子であった者なら、思い当たるふしがあるからだ。

台詞で説明せず、テキパキと的確な画をつないで描いていく、ベテラン監督らしい進め方が気持ちいい。

ロジャーが出張から戻ると、桃さんは脳卒中で倒れていた。
退院はできたが、治療は継続し、完全な回復は望めないと知り、桃さんは、
「家政婦を辞めて、老人ホームに入る」とロジャーに告げる。
多少の貯えはあるから、費用も世話にならないと。


ロジャーは桃さんのために、顔見知りの役者バッタが経営する老人ホームを、格安で手配した。
個室と云われた部屋は、間仕切りで囲われただけで、ホームに入居する老人たちの風体や、味付けに気を配ってない食事など、桃さんには気が滅入ることばかり。

おまけに名前を「お手伝いさんみたい」と云われ、いよいよ腹も立つ。
だが桃さんは、ここで暮らしていくほかはなかった。

ロジャーは以前に心臓の病気で倒れたことがあり、その時に桃さんが献身的に看病してくれたことを感謝してる。
なのでホームにもよく顔を出し、今度は自分が世話する番と、桃さんの晩年に付き添う。
映画はその二人の関係を「心あたたまる物語」にしつらえてる訳ではない。


桃さんは60年に渡り、「いい家」に住み込みで働いてきたのだ。
その家の主人ではないが、生活をともにし、同じ窓の外の景色を眺めて生きてきた。
だから彼女の中では、生い立ちは貧しくとも、本来同じ「階級」ではない梁家の元に仕えることで、いつしか自分も庶民とは違う場所にいると、思いこんでたかも知れない。

老人ホームに入って、裕福とは云えない入居者たちと接することは、否応なく自分が本来いた場所を思い知らされる。

多少体の具合が悪くなっても、なんとかロジャーの下で暮らすことはできただろう。
「ホームに入る」と告げた時に、止めてくれるかもという思いもどこかにあっただろうか。
だが彼女にはプライドがあった。
使用人として、雇い主に迷惑はかけられないという。


ロジャーも「ほんとにいい人」という描かれ方ではない。
あのホームを見れば、桃さんのためにもう少しいい環境をと思ってもいいはずだ。
仕事があるから、桃さんを家で看るのは不可能と最初から決めている。

彼がなぜ独身でいるのかはわからないが、桃さんが家から居なくなり、電気製品の使い方ひとつわからないことを痛感する描写がある。
すべてを桃さんに任せっきりにしてきた。

相手が母親なら、さすがにある程度年齢がいけば、依存することにも躊躇するだろうが、桃さんが家政婦だということで、その存在に甘えてきたのではないか。

ロジャーにとって、桃さんは都合のいい母親だったのだ。


桃さんにも、ロジャーにも、ちょっと辛辣な視線を向けることで、ベタついた感傷から逃れる映画となってる。
それでもロジャーが桃さんを外出に連れ出す、2つの場面はいい。

ロジャーはプロデュースした映画の完成披露試写会に、桃さんをエスコートする。
化粧にも気をかけなかった桃さんが、心浮き立たせながら鏡に向かい、とっておきのドレスに身を包んで、お出かけする。

会場でロジャーは桃さんを「僕の義母です」と紹介した。
桃さんの人生で一番華やいだ夜だったろう。


もうひとつの場面は、ホームに入ってから、脳梗塞の症状を繰り返した桃さんが、ロジャーに車椅子を押されて、公園に散歩に出る。

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同じ言葉を繰り返す桃さんに、もう以前の表情はない。
彼女に背を向けてゴミ箱に向かう時のロジャーが痛切だ。

人は家族であれ、友人であれ、恋人であれ、つながりのあった相手に
「もう少しなにかしてあげられたかもしれない」
と、後から思う。
そういう思いが積み重なることが、歳をとるということなのだ。
ロジャーはあの時、そんなことを思っていたのかも。

俺の父親にとっても「おふくろの味」とは、このロジャーのように、母親でなく家政婦「なあさん」の作った料理の味だったのか。

この映画を父親が見れば、なにかしら感じ入るものもあったかもしれない。
だが映画を勧めようにも、その術はもうない。

ロジャーを静かに演じるアンディ・ラウもいいし、プライドと淋しさの狭間で揺れる、桃さんを演じたデイニー・イップも見事。
女好きのホームの入居者、キンさんを演じるチョン・プイが最後に泣かせる。

2012年11月7日

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グイ・ルンメイの台湾美人姉妹カフェ [映画タ行]

『台北カフェ・ストーリー』

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「東京ごはん映画祭」なるものが開催されてることをご存知か?
といっても俺も3日前に存じ上げたばかりだが。

「食べ物」が印象に残る映画や、「食」にまつわるテーマを持った映画を集めて上映する企画で、
10月6日から10月20日まで、渋谷「シアターイメージフォーラム」で、10月20日と21日の2日間は、南青山の「スパイラルホール」で開催される。

初日に、この20日から公開される日本映画『ペンギン夫婦の作り方』がプレミア上映された他は、新作は並んでないが、俺はスクリーンで見逃した映画があったので、足を運んでみた。

チケットカウンターで当日券を買うと、布製の小さなエコバッグをくれた。
中には協賛してる食品メーカーの「レトルト玄米がゆ」と「フリーズドライのおこげと野菜スープ」に、クラフトの「パルメザンチーズ」のミニサイズが入ってて、得した気分になった。

「東京ごはん映画祭」は今年第3回だそうだが、来年も開催してください。


『台北カフェ・ストーリー』はなんといっても主演してる二人の女優が美しい。
貯蓄家で、会社を辞めて念願のカフェをオープンさせた姉ドゥアルと、いまいち気が合わないんだけど、母親から「人件費だってバカにならないんだから、身内でやりなさい」と押しつけられた妹チャンアル。

そのドゥアルを演じるのは、高校生の時に『藍色初恋』で主演デビューを飾り、麗しく成長したグイ・ルンメイ。
妹チャンアルを演じるのは、これが映画デビューというリン・チェンシー。

昨日の『ロスト・イン・北京』のコメントでも触れたけど、アジア映画の俳優は、日本の誰かに似てるのだ。
グイ・ルンメイは女子アナの西尾由佳理に、リン・チェンシーは、映画のSキャラな感じと、ボーイッシュなショートで、木下あゆ美を思わせる。
二人とも「きつね顔」だね。こういう顔が好きなので、こんな美人姉妹が切り盛りしてるカフェなら俺も足繁く通うだろう。

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ドゥアルは開店前日に、花屋の車と接触事故を起こす。
ドゥアルの車の壊れたバンパーの修理代の代わりにと、花屋の車の荷台の花をもらう。

辞めた会社の同僚たちなどに、オープン日に何か持ってきてくれたら、花をプレゼントするとメールしたら、同僚たちは、役に立ちそうもない置物なんかを持ち込んできた。
すっきりと洗練されたはずの店内は、いろんな貰い物で雑然となってしまう。

同僚たちもぱったり顔を見せなくなり、店は途端に暇になった。
「もうこれ捨てちゃおう」
となった時に、地元の自治会長が、カフェのオープンを聞きつけてやってきた。

なぜか誰かが、タイ料理のメニューブックを置いていったらしく、自治会長はそれに反応を示した。
タイ料理ができる訳ではないと聞かされた会長は、メニューブックがほしいという。

すると妹のチャンアルは、とっさに
「なにかと交換するならいいですよ」と言った。
「店の排水溝を掃除してくれませんか?」
自治会長は「よし、息子にやらせよう」と請負い、交換話は成立した。

「ここはカフェで、物々交換の場じゃないのよ」
と不機嫌なドゥアルに、妹は

「物々交換に来た人は、けっこう悩むわよ」
「人は悩んだ時どうすると思う?」
「コーヒーを飲むのよ」
凄い論理の展開だが、姉のドゥアルはなんとなく納得してしまったようだ。

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ドゥアルは手作りのケーキやエクレアに磨きをかけ、妹チャンアルは、「物々交換」の宣伝チラシを町に配布して回る。
物珍しさも手伝って、少しずつ店に人が入ってくるようになった。
自慢のカプチーノやケーキのオーダーが中々伸びないのに、ドゥアルは不満ではあるが、店は人で賑わってる方がやはりいい。


そんなある日、男性客が35個の石鹸を持って店に来た。
それは彼が世界中を旅して集めた物だという。
石鹸をただ交換しようというのではなく、彼は石鹸を手に入れた場所、それぞれにまつわるストーリーも語ってきかせると云う。

最初会社の同僚たちが持ちこんできた物は、どれもガラクタに見えたが、人にとってガラクタに見える物でも、その持ち主には、それにまつわる思い出が含まれてる。
物々交換の場は、次第に物だけではなく、その人のストーリーを交換しあう場にもなっていった。

ドゥアルは学生時代には勉強一本に取り組み、いい会社に入って、コツコツと貯金をして、カフェを開くにまで至った。
それはそれで目標を実現させた達成感は得られたが、自分には語るべきストーリーがあまりない。

いろんな場所に行って、いろんなものを見るという経験をしてないからだ。
ドゥアルの中で、人生の価値観が少し変化し始めていた。


映画の中ではたいした出来事が起こるわけではない。
「雰囲気映画」といってもいいのだが、その雰囲気を、細部まで気を行き届かせて作っているので好感がもてる。

全体的に柔らかい色彩の質感であったり、ジャズピアノ調の音楽であったり、台北の街路樹の緑であったり、ゆったりとした気分で見てられる。
自転車で町を巡るリン・チェンシーの表情がきれいだった。


たぶん荻上直子監督の一連の映画が好きな人は、これも気に入るだろう。
俺は『かもめ食堂』は見たが、ほかのは見てない。

いや小林聡美や、もたいまさこも悪くはないんだが、たまにはこの映画みたいな「眼福系」のキャストで臨んでもらえればね。

台湾ではスタバのようなフランチャイズのカフェよりも、いろんな個性を打ち出したカフェが軒を並べてるという。
NHK-BSの町歩き番組でも、台湾の地方都市でそんなカフェを訪れていた。

2012年10月17日

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猛毒将軍ニューヨークへ行く [映画タ行]

『ディクテーター 身元不明でニューヨーク?』

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サシャ・バロン・コーエンの『ボラット(以下略)』を見た時、故郷のカザフスタンを出る場面で、
『ジプシーのとき』の冒頭に流れる、ロマの民族音楽風のテーマ曲が流用されていて、さらにボラットが「アメリカで最高の女」と思ってる、パメラ・アンダーソンが出てくる場面では、やはり『ジプシーのとき』の感動を盛り上げる、スピリチュアルなコーラス曲が流用され、
「俺の大好きな曲をこんなものに使うな!」
と憤慨したが、その選曲センスはただもんじゃないな、とも思った。

その『ボラット』と次の『ブルーノ』は、サシャ・バロン・コーエン(以下SBCと略す)が扮する謎のキャラが、お笑いの舞台でいうと「客いじり」のように、一般人の前に現れ、傍若無人に振舞うという、ドッキリ的趣向がウケたコメディだった。

明らかに無礼なんだが、SBCは背丈もあるし、得体が知れないんで、殴りかかるのも躊躇される、そんな受け手のリアクションに笑いが押さえきれなかった。

今回の新作は「カザフスタン人」「クネクネのゲイ」に続いて、北アフリカ某国の独裁者というキャラ設定になってる。『ボラット』『ブルーノ』と違うのは、ドッキリ手法ではなく、かっちり劇映画の手法になってることだ。
SBCのキャリアとしては、主演第1作の『アリ・G』のアプローチに回帰したといえる。


ワディヤ共和国という架空の国名がつけられてるが、そこの独裁者アラジーン将軍がニューヨークへ行くというお話。
映画の最初に、同じ独裁者の「金正日を偲んで」と出るあたりから、もう飛ばしてる。

アラジーン将軍がなんでニューヨーク(以下NYと略)に行くことになったかというと、核ミサイル開発を疑われ、国連本部でのサミットで釈明しないと、空爆するぞと脅されたから。
実際思いっきり開発してるんだが、そのミサイルの大きさは将軍の背丈の半分くらいしかない。
しかもアラジーン将軍は
「ミサイルの先っぽは、とんがってなきゃ駄目だ」というのに、科学者は先の丸いのを作って、処刑を命ぜられたりしてるんで、なかなか飛ばすまで至らない。

今夜もハリウッドからミーガン・フォックス(本人)を、デリヘルよろしく大金で呼びつけ、ベッドで一物をトランスフォームさせた将軍だったが、
「そんなに言うなら行ってやる」とNYへ観光気分で乗り込んだ。

だが信頼を置いてた側近のタミールがあっさり背信。
出迎えたアメリカ人のクレイトンに拉致され、トレードマークのヒゲを剃られて、NYの街中に放り出されてしまった。

アラジーン将軍は暗殺の危険に備えるため、そっくりの影武者を同行してたのだが、側近のタミールは、その影武者を使って、将軍本人の代わりに、サミットで演説させようと企てていた。

ワディア共和国を、独裁国家から、民主主義国家へと生まれ代わらせる宣言をするためだった。
もちろんタミールの陰謀には超大国が糸を引いていた。


一転してパスポートもない、身元不明の難民と化してしまったアラジーン将軍。
ヒゲがないので、本人アピールもまったく通らない。

困り果てて、さまよい着いたのは、NYの一角にある「リトル・ワディア」という地区だった。
そこのバーに入ると、店にいる人間たちから異様な視線を浴びる。

バーの店主はアラジーンの顔をまじまじと眺め
「あんた名前は?」と執拗に訊いてくる。
店に貼られてる英語をチラ見しながら、テキトーな名前でかわそうとするが、
「おまえ将軍だな!」と囲まれて絶対絶命。そこに
「彼は俺の従兄だよ」
と助け船を出したのはナダルだった。

ナダルはミサイルの先っぽを丸くして、将軍に処刑を命ぜられてたはずだ。
ナダルはアラジーンに驚くべき真相を耳打ちした。

アラジーン将軍が国で処刑を命じた、数しれない人間たちは、実は一人も処刑されておらず、刑の執行官がアメリカへの亡命を取り計らっていたのだ。
そうしてNYに渡った人間たちが、この「リトル・ワディア」に暮らしてるのだと。
なんだいい話じゃないか。

ナダルは「ミサイル開発の仕事に復帰させてくれれば、将軍の復権に手を貸す」と言い、3日後に控えた国連サミットでの新憲法サインまで、タミール側の動きを探ることになった。


アラジーン将軍にはもう一つ幸運な出会いがあった。
彼を政治難民だと勘違いして、女性活動家のゾーイが助けてくれたのだ。

彼女は博愛主義者で、経営する自然食品スーパーには、あらゆる人種の店員が働いていた。
その彼女の店が、サミットの食事のケータリングを依頼されたのだ。
店員としてサミット会場に入ることができれば、タミールの陰謀を阻止できるかも。

アラジーン将軍は、アリソンと名を偽り、ゾーイの店で生まれてこのかた経験のない、店員として「労働」することになった。

ゾーイはアラジーン将軍にとっては、出会ったことのないタイプの女性だった。
彼女はフェミニズムを標榜していて、なんでもありのままに任せるべきと、腋毛も剃ってなかった。
将軍はその腋毛にそそられた。
ゾーイはアリソンことアラジーン将軍が、オ●ニーの仕方も知らないことに驚いた。
物心つく頃から女性にやってもらってたからだ。
「こんなモノ自分で触れるか!気持ち悪い」
と拒否してたが、ゾーイの言う通りに試してみると、そのあまりの快感に将軍の核ミサイルは暴発した。
「人情」という言葉も知らない独裁者が、博愛主義者の女性に恋をしてしまった。


はサミット会場に潜り込むことができた将軍が、ニセモノに代わって宣言の壇上に立つ場面でクライマックスを迎える。ここでの将軍のスピーチは、映画の題名からも察する通り、
チャップリンの『独裁者』の場面を模している。
アラジーン将軍のスピーチが奮ってる。
「アメリカも独裁国家になっちゃいなよ!」というもので
「独裁政治が行えれば、富を1%の人間が独占することができるし、
他の国を簡単に爆撃することもできるし」
と、今のアメリカそのままじゃないかという話をする。

皮肉が利いてるコメディじゃないのと、あらすじ読むだけならそう思うかも知れないが、SBC本領のド下品なギャグが、合間にバンバン挟まれてるのは相変わらずなのだ。

タミールたちが滞在するホテルに侵入するため、スパイ映画みたいに、隣の建物からワイヤー張って、宙刷りで渡ってく場面。
途中で止まってしまったため、体重を軽くしようと、アラジーンはポケットの中の色んな物を捨ててくんだが、まだ足りない。ナダルに
「腹の中のものも!」と言われ空中で脱糞。

とか、ゾーイの店で店番してたら、客の妊婦がいきなり産気づいてしまう。アラジーンは
「私は国で医者の心得がある」
と本当とも言えないことを言うと、妊婦の股間に手を突っ込む。
「その穴じゃない!」
と何度も言われる。
ゾーイは「私も手伝うわ!」と二人で手を入れる。
それを妊婦の体内から見たカメラで描写する。

女体の内側から外を見せるというカメラは、三池崇史監督の『極道戦国史・不動』で、女殺し屋が、股間から吹き矢飛ばして、標的を殺す場面以来かもな。
アラジーンはそうして取り上げた赤ちゃんが女の子とわかり「捨てよう」と言う。

こんなドイヒーなギャグが散りばめられてるんで、SBC映画のイチゲンさんは引くかもしれん。
だが全体の印象としては、独裁者をデフォルメさせて笑いを取る、シニカルなコメディの範疇に収まるもので、『ボラット』や『ブルーノ』に見られた、一触即発のハプニング性といった、型破りな面白さとは別のものになってる。

それと『ボラット』にしろ『ブルーノ』にしろ、SBCの扮装したキャラが目立ってはいるが、そういう明らかに異質の者の乱入によって、対象となるコミュニティや、組織や環境といったものが、逆にその特殊性を浮き彫りにさせられる、そこに批評性が感じられたりしたのだ。


それはSBCと組んで独特のコメディ世界を作り上げてる監督のラリー・チャールズに寄る所が大きい。
彼はSBCと組まずに単独で、新興宗教の教祖たちに突撃インタビューを試みた
『レリジョラス~世界宗教おちょくりツアー~』というドキュメンタリーを作ってる。

その環境にいる人間たちは、なんの不思議も感じずにいる、その価値観が外から見ると、どれだけ特殊に映るのか、そういう視点にこだわってる映画作家なのだ。

だが今回の『ディクテーター 身元不明でニューヨーク?』は、独裁者が他所の国に来て、その価値観を覆されるという話で、独裁者自身の戯画化に終わってしまってる。

まあ『ボラット』と同じアプローチで、アルカイダみたいな面相の男が、いろんな場所に乱入してったら、まかり間違えば射殺されたかも知れないしね。


ちなみに俺が一番笑ったのは、アラジーンとナダルが、タミールたちのホテルを空から偵察しようと、観光ツアーのヘリに乗り込む場面。

アメリカ人の熟年夫婦が同乗してるんだが、アラジーンとナダルはどう見てもアラブ人。
英語でひとしきりフレンドリーに話しかけるが、あとはアラブ言葉で二人は雑談してる。

だが合間合間に「フセイン」とか「ビン・ラディン」とか単語が耳に入り、熟年夫婦は気が気じゃなくなる。
ポルシェの話をしてるのに「911」と耳にして「ギャー!」と奥さんパニックに。

ゾーイを演じてるのがアンナ・ファリスとは、エンディングのクレジット見るまで気づかなかった。

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彼女は金髪のイメージだから、今回の髪をブルネットに染め、しかもショートに刈り込んでると、ちょっと別人の印象。アメリカのレズビアンの人にウケそうな感じ。
実際に腋毛も生やしたそうで、『カケラ』の満島ひかりと一緒だね。
腋毛フェチは必見と言っとく。

2012年9月13日

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ライアン・レイノルズのテンパり護送劇 [映画タ行]

『デンジャラス・ラン』

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デンゼル・ワシントンが演じるトビン・フロストは、CIAでも飛び抜けた技量を持ったエージェントだったが、10年前、突如CIAに背を向け、国家機密を売買する、最重要危険人物として、36ヵ国で指名手配を受けている。

南アフリカ、ケープタウンのとあるバーで、フロストは英国諜報部「MI-6」のウェイドから、極小さなアンプルに仕込まれた、マイクロチップを受け取った。
フロストは常に監視されてることを意識していた。
バーを出て、ウェイドと車を発進させた途端、助手席のウェイドが銃で撃ち抜かれた。
武装集団がさらに狙いをつけてくる。
フロストは車を降り、デモ隊に紛れて、追っ手を交わす。
追っ手がフロストの背中を捉えた時は、すでにアメリカ領事館に駆け込んだ直後だった。


「国家の敵」となった男が、自らアメリカ政府の施設に姿を現したことで、ラングレーのCIA本部は色めき立った。作戦本部副長官のハーランは、尋問を南アフリカのチームに任せた。

CIAの新米職員マット・ウェストンには突然の大仕事だった。
それまでこのケープタウンで、「セーフハウス(隠れ家)」と呼ばれるアパートの管理人に命ぜられていたが、それは彼が目指した諜報活動とは無縁の、退屈な日常業務だった。
その「セーフハウス」に、伝説の大物フロストが連行されて来るというのだ。

頭に布を被せられたフロストとともに、尋問のプロのキーファーが、部下とやってきた。
尋問用の部屋に、椅子に手足を括りつけられたフロスト。
キーファーは向かい合い、情報を聞き出そうとするが、すぐに無駄とわかると、拷問の用意に入る。

タオルに水を含ませてるのを見て、フロストは
「そのタオルじゃグラムが軽いぞ」
と指摘する。マジックミラー越しにその様子を見てるマットは聞かされていた。
フロストが人心を掌握する天才だと。
早くもそのスキルを披露してるのか?

キーファーは言葉を無視して、椅子を仰向けの体勢にさせる。
フロストの顔をタオルで覆い、その上から水をかけ続ける。
「イスラムのテロリストは20秒持たなかったぞ」
一旦終わらせると、フロストは荒く息をしながら
「何秒だった?」
その尋問のやり方を、マットは「合法なのか?」と呟いた。
フロストは全くこたえる様子もない。

「次はナイフだ」キーファーがそう言った瞬間、部屋の灯りが消えた。
すぐに非常回路が作動し、玄関を映すモニターには、武装した集団が。
「襲撃だ!」
キーファーたちは応戦するため、マシンガンや銃を構える。

大物が来たと思ったら、武装集団の襲撃。マットはパニックに陥った。
椅子に座ったフロストは表情ひとつ変えない。
マットは「そいつを見張れ!」と尋問部屋に、フロストと二人残される。


部屋の外では激しい銃撃の音がする。
キーファーたちが防げなければ、奥まったこの部屋もすぐに発見されてしまう。
動揺するマットに、フロストは言う

「あいつらが俺を捕まえた時は、お前は死んでる」
「俺を守り切ることが、お前の助かる唯一の道だぞ」
相手の行動を支配してしまう、トーク術が炸裂してる。

マットはフロストに手錠をかけ、裏口から外へと連れ出す。
道路で無理矢理、人の車を奪うと、フロストをトランクに押し込みアクセルを踏んだ。


ここからは厄介な相手を連行して、追っ手から逃げ続ける新米の奮闘が描かれてく。
デンゼルと若い白人男の関係性で手繰れば、デンゼルがアカデミー主演男優賞に輝いた
『トレーニング・デイ』のプロットと同じとわかる。

あの映画ではイーサン・ホーク演じる、実地1日目の新米刑事が、デンゼル演じるベテラン刑事の、悪徳とも思える捜査ぶりに、次第に違和感を拭え難くなる。
なにしろ1日目だから、デンゼルの言うことは、有無を言わさぬ迫力で、新米刑事を萎縮させる。
だがそれはタフな現場を生き抜くための「金言」にも聞こえ、新米には冷静にその善悪を判断しきれない。

この『デンジャラス・ラン』においても、デンゼル演じるフロストは、逃亡の最中にも、言葉で揺さぶりをかけてくる。

「なんで俺がセーフハウスに連行されたことが、すぐに察知されてるんだ?」
それはCIA内部から情報が漏れてることを示している。
フロストはこうも言う
「もしお前の上司がこう言ったら気をつけろ」
「君はよくやった。あとは我々に任せろ」
「それはお前が捨てられたということだ」


『トレーニング・デイ』のイーサン・ホークと同様に、この映画でマットを演じるライアン・レイノルズも、説教に丸めこまれそうな頼りなさを漂わせてる。

本人には悪い言い方だが、彼はバート・レイノルズという大スターの息子として、なに不自由ない子供時代を送ったんじゃないか?
今年36になるが、どこか「ぼくちゃん」な面影を残す。
サンドラ・ブロックと共演して大ヒット飛ばした『あなたは私の婿になる』のようなラブコメの方が、本来の個性には合ってるんだろう。

だがこの映画の場合は、要領の得ない新米が、それでも職務を諦めずに闘い続ける、その終始テンパった感じが、説得力持って伝わってくる。

主役はデンゼルだが、デンゼル自身の役柄としては『トレーニング・デイ』を踏襲する部分もあり、いつもの「安心して見られる」演技という域は超えてない。
ライアン・レイノルズの、満身創痍の表情演技が、物語に惹きつける力を滲ませてると思う。


スウェーデン出身で、これがハリウッド監督デビューという、35才のダニエル・スピノーサの演出は、『ボーン』シリーズ以降のフォーマットにのっとった、とにかくアクションつるべ打ちになっており、カースタントもかなりアグレッシブだし、格闘場面にも迫力がある。

フロストとマットの人物像をごく短時間で描き分け、幾重にも危機的状況に見舞われる前半部分は特に快調だ。だがマイクロチップの中身といい、CIA内部の裏切り者の正体といい、ネタが割れてく後半は、ありきたり感は拭えない。
エンディングなんか『ゴースト・プロトコル』のまんまだったよ。


ケープタウンが舞台となる映画で、「逃走・謀略」ネタというと2本思い浮かぶ。

1968年の『謀略都市』は、ケープタウンでスリを生業にする男が、若い女性の財布を盗むが、その中にはスパイの機密フィルムが入っていたため、諜報機関から追われるハメになるという内容。
『デンジャラス・ラン』の「機密データ」とつながる部分がある。

ビセット謀略都市.jpg

ジャクリーン・ビセットが財布の持ち主を演じていて、彼女の美貌を堪能したい所だが、DVDにはなってないんだよな。ちなみに彼女の後ろにいるのは、クリスチャン・ベールみたいな顔してるけど、若き日のジェームズ・ブローリンだ。


もう1本は1975年の題名もズバリ『ケープタウン』
黒人政治犯と、彼の弁護を引き受けた女性弁護士、そのボーイフレンドの3人が、検問を振り切り、ケープタウンから、ボツワナ国境まで、1500キロの逃亡を企てる。
その逃亡には75万ポンドの価値があるダイヤが絡んでいたというもの。

ケープタウン.jpg

政治犯を演じるのが、デンゼル・ワシントンなど黒人俳優の先達でもある名優シドニー・ポワチエ。
一緒に逃亡するのがマイケル・ケインというのが、今回の映画の黒人と白人のコンビと同じだ。
まだ無名時代のルトガー・ハウアーがわりと重要な役で出てたりする。

この『ケープタウン』もビデオ・DVD化はされてない。

2012年9月7日

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ストックカーレース映画の最高峰 [映画タ行]

『デイズ・オブ・サンダー』

デイズ・オブ・サンダー.jpg

「トニー・スコット監督自殺」の報にはさすがに目を疑った。
遺書があったということは、衝動的ではなかったということだ。理由はなんなのだ?
クリエイターとしての行き詰まりということでもないだろう。

昨年は『アンストッパブル』で、「相変わらずお盛んだなあ」と、その衰えない演出パワーに乗せられて、俺はシネコンに2度見に行ったくらいだったのに。
68才か、リドリーもショックだろうねえ。

『トップガン2』を準備してたというが、俺はこの監督のものでは『トップガン』より
『デイズ・オブ・サンダー』の方が好きなのだ。
いや他にも面白い映画を何本も撮ってる人だけど、一番回数多く見てるのがこれなんだな。

1990年の、たしか7月の暑い最中に封切りを見に行った。もうヒネリもなんにもない、レース一直線って映画で、夏の暑さも忘れさせる爽快な気分で映画館を出たのを憶えてる。

その当時は、日本もバブル真っ只中で調子こいてたんで、ソニーに続いて、松下もハリウッドで映画会社を買収、ジャパンマネーがふんだんに流れこんでたわけだ。
この映画のプロデューサー、ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーのコンビも、いいようにジャパンマネーを使いまくったなんて言われてた。

だが興収としては『トップガン』の足元にも及ばず、「失敗作」の烙印を押された。
だがあのバブルの資金力がなければ、これだけのスケールでは撮れてないだろう。

NASCARのストックカー・レースを描いた映画としてのみならず、臨場感からいったらカーレース映画でも群を抜いてると思う。
60年代の『グラン・プリ』や、ポール・ニューマンの『レーサー』、マックィーンの『栄光のル・マン』以降、カーレースの映画自体がほとんど作られなくなった。
あるにはあるが、製作規模の小さなものばかり。
なのでオーバルコースを、猛烈にチューンナップさせたレースカーが爆走するド迫力にはしびれた。


トニー・スコットらしく、車のフロントの車載カメラや、地面すれすれのローアングルなど、カメラを置ける位置には全部置けみたいな、至れり尽くせりの映像で、レースのスピードを体感させてくれる。

トム・クルーズ演じる主人公コール・トリクルが、レース中に、前方を行く数台がクラッシュし、炎上する、その黒煙の中に突っ込んでいく場面のおっかなさ。映画館で身がすくんだよ。

ストックカーの獰猛なエンジン音もテンションを上げてくれる。
DVDになってからも、時折取り出しては、サラウンド・ヘッドフォン装着、ほぼフルボリュームで浸ってるのだが、この映画デジタル・リマスターを施して、今のシネコンでかけてほしいなあ。
デジタルIMAXとかで見れたら最高なんだが。


ストーリーはまったくもって単純。

サーキットにふらりと現れた名もない若者コールが、いきなりチームのトップレーサーの車に乗り込んで、凄いラップを叩き出す。
当然車を使われたローディは面白くないが、ベテランのカー・ビルダー、ハリーは、無名の若者の荒削りな走りに、天分を見出し、チームに迎え入れる。

コールとローディは常に角突き合わすライバルとなるが、二人の切磋琢磨でチームは得点を上げていく。だがあるレースでコールとローディがクラッシュし、ローディは再起不能の怪我を負う。

天性の走り屋だったコールの中に、走ることへの恐怖が芽生える。
チームオーナーはコールに見切りをつけ、新進レーサーのラスをチームの柱にする。

コールは苦渋を味わうが、レースへの闘志は完全には失ってなかった。
コールはハリーや女医のクレアの支えもあり、恐怖を克服するため、最大の舞台
「デイトナ500」に挑む。
とこんな感じだ。


『俺たちに明日はない』や『チャイナタウン』など名作を書いた脚本家ロバート・タウンにしたら、もう書き飛ばしたような内容なんだが、そこが逆に面倒くさくなくていいのだ。
トム・クルーズも「走りバカ一代」という感じで、清々しいほど内面になにもない。

ニコール・キッドマンはカーリーヘア時代の最後の頃で、まだ野暮ったさが抜けてない。
ギャラのほとんどはトムに行ってるんだろうが、脇を固めてるメンツが渋くていい。

カー・ビルダーのハリーには、こういう役はお手のもののロバート・デュヴァル。
チーム内のライバル、ローディを演じるのは、マイケル・ルーカー。
敵役を演じることが多い役者だが、この映画ではユーモラスな面も見せてる。
チームオーナーにはランディ・クエイド。
ロバート・タウンが脚本書いた1973年の『さらば冬のかもめ』が彼の出世作だった。

それからまだキャリア駆け出しの時期のジョン・C・ライリーが、コールの才能を認めるピットクルーの役で出てる。
その後2006年に、この『デイズ・オブ・サンダー』のまんまパロディといえるようなレース映画
『タラデガ・ナイト オーバルの狼』では準主役で出てる。

この映画は全米で1億ドルを超えるヒットを記録しながら、日本では劇場未公開に終わった。
理由は主演がウィル・フェレルで、売りようがないということだったんだろう。
レースシーンはけっこう迫力もあったのにねえ。

ジョン・C・ライリーは怪我で出れなくなったトップレーサー、ウィル・フェレルを蹴落として、チームのトップの座はおろか、ウィルの女房まで寝取ってしまうという美味しい役だった。


『デイズ・オブ・サンダー』の音楽は、ほぼハードロックの楽曲が並ぶベタなもので、それはそれでいいのだ。
しかしこの映画でもスペンサー・デイビス・グループの『ギミ・サム・ラヴィン』が使われてる。
俺思うけど、アメリカ映画で多分一番使われてるロックナンバーだと思うんだよな。

「こっからテンション上げましょーっ!」みたいな場面に必ずかかるもの。
アメリカ人どんだけ好きなんだよこの曲ってね。

そんなわけで今夜はこの映画をまた引っ張り出して、監督を偲ぼう。

2012年8月20日

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地球串刺しエレベーターふつうに乗ってるが [映画タ行]

『トータル・リコール』

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しかし多いなここんとこ。「俺は俺なのか?ほんとの俺は誰なんだあ!」的テーマのアメリカ映画が。
「ボーン」シリーズ以降顕著というか、
『アイランド』『月に囚われた男』『ミッション8:ミニッツ』『ミッシングID』。
それ以前にも『マトリックス』シリーズ、エイドリアン・ブロディの『ジャケット』、そんな中で、「実はエージェントだった」という今回の映画に一番近そうなのは、ジーナ・デイビスの
『ロング・キス・グッドナイト』かも知れんが。

なんでこういうテーマの映画が好んで作られるのかわからないが、不安定な社会情勢で、自分の仕事とか身分とかが、足元から崩れ去る不安を反映してるのか。
逆に一向に良くならない暮らし向きに、こんな人生は間違ってるという思いが、別の人生を希求する心情へとつながってるのか。

何れにせよ、俺としてはもういいんじゃないか?このネタはという思いだ。
今ある自分が本当の自分じゃなくても、記憶が埋め込まれたものであっても、クローン人間であったとしても、別にいいじゃないか、生活に支障がないんなら。

そんなわけで、このリメイク版『トータル・リコール』の、主題をすっ飛ばしてくような、
「とにかく逃げろ!」アクションに徹した作りは、それはそれで楽しめた。


21世紀末に起きた戦争によって、化学兵器が使われ、地球上の大部分は居住不可能な土地になる。
いま人類が住めるのは島国イギリスとオーストラリアだけという設定だ。

イギリスは富裕層のみが暮らすことを許される「ブリテン連合(UFB)」と呼ばれ、オーストラリアは、その富裕層の豊かな生活を支えるための労働力となる、ブルーカラーたちが貧しい生活を営む「コロニー」と呼ばれてる。

シュワちゃんのオリジナル版では、地球と火星を行き来することになってたが、この映画でコリン・ファレルが演じる主人公ダグは、毎日旧オーストラリアから、旧イギリスまで「通勤」させられる。

地球を縦に貫く「フォール」という、大陸間エレベーターというもんが開発されてるのだ。
地球の中心をダンゴの串刺しみたいに貫いてるわけだ。
『ザ・コア』のデルロイ・リンドに作らせたんだろうか?

中心部分を越えると、重力の逆転が起こるという描写があるが、その前に「圧」の問題はどう解決してるのかね?


ダグは毎日工場でロボット警官「シンセティック」の組み立て作業にあたってる。
そのロボットはやがてダグたち人間に代わる労働力に転用される。
連日UFBではテロが起きており、UFB代表のコーヘイゲンは、治安を強固にするという名目で、コロニーの生活改善に充てる予算を、シンセティック増産に回すと宣言。

その先にはUFBの人口増加に伴う土地不足を解消するため、コロニーの土地を武力で奪い取るという青写真が描かれていた。
だがそのためには、「レジスタンス」と呼ばれる、コロニーの反体制勢力を率いるマサイアスの暗殺は不可欠だった。


コロニーでローリーという美しい妻と、豊かではないが幸せな暮らしを営んでるはずのダグだが、毎晩同じ夢にうなされて目が覚める。

病院にいる自分を助け出しにきた美女と、銃を手に何者かに追われてる。
ダグはいつも最後にその美女を逃がして、自分は捕まってしまうのだ。
妻のローリーは「自分のせい?」と尋ねる。
今の生活への不満が潜在意識の中にあり、夢に出てきてる。ローリーはそんな風に感じてるようだ。

コロニーの猥雑な街中で、いつもダグの目を引くのは、「リコール社」の電光板だ。
実体験の代わりに、脳に架空の記憶を書き込める娯楽を提供してる。

同僚のハリーは「ヤバいから止めとけ」と言うが、毎日同じことを繰り返す今の生活に疑問を強くしたダグは、ひとり「リコール社」の扉を叩いた。


自分の好きな職業を体験できると訊き、その中で「スパイ」という言葉にダグは反応した。
「UFBに潜入する二重スパイってのはどうです?」
アジア系のオペレーターからそう説明されたダグは、マシーンに座り、セッティングを待つ。

だが記憶を注入され始めた時、オペレーターは急に動揺を示し、中止を指示する。
「あんたは一体誰だ?騙そうとしたな!」
ダグは何を言われてるのか見当つかない。
次の瞬間、警官隊が突入してきて、ダグ以外は撃ち殺される。

ダグは両手を掲げろと言われるが、反射的に、10人はいた警官たちを、その銃を奪って撃ち殺してしまった。ダグ本人もわけがわからない。


必死で逃げ切って自宅へ帰ると、もうニュースになってる。
UFBの保安業務に就いてる妻のローリーは、警官を倒したのは自分だとダグから聞かされる。
そんなダグをローリーは抱擁し、その腕に力を込める。

愛する妻と突然格闘することになり、ダグはますます混乱する。
ダグは自らの身体能力にも驚いてたが、妻のローリーが半端なく強いのにも面食らう。
「私はコーヘイゲンから監視役を頼まれたのよ」
妻などではないと言う。さらにダグが覚えてる「記憶」は埋め込まれたものだと。
「じゃあ、俺は誰なんだ?」

ローリーもそれは知らず、重要人物なのだろうとしか認識してなかった。
だが警官たちを殺すような危険人物とわかれば、ただでは済まさない。
なおも襲いかかってくる妻を振り切り、ダグはコロニーの町中へと逃亡を開始した。


UFBの都市内に整備された、リニアシステムのハイウェイで展開されるカーチェイスのスピード感は爽快だ。ほぼCGなんだろうが、こういう使い方なら歓迎だよ。
ダグはここで夢の中に出てくる美女メリーナと出会う。彼女は「レジスタンス」の一員だった。

ダグは逃亡中に手に入れた様々なヒントから、一軒の高級アパートに辿り着く。
ピアノの前に座ると、弾けるはずもないベートーヴェンの、ピアノソナタ『テンペスト』の一節を難なく弾きこなしてしまう。
さらに指を動かすと、鍵盤が暗号となっており、自分そっくりの男がホログラムで現れる。

ダグの正体はコーヘイゲンから送りこまれたカール・ハウザーという名のスパイで、活動中にUFBの陰謀を知り、「レジスタンス」側に寝返ったことを知らされる。
「リコール社」に行くまでもなく、自分はスパイだったのだ。


脚本にカート・ウィマーが絡んでるから、支配者と被支配者に分かれる未来の警察国家とか、支配者側にいた主人公が意趣返しする展開とか、『リベリオン』の世界観を連想させる。

コロニーのアジア的猥雑さの風景は『ブレードランナー』だし、
車線を垂直に変更するハイウェイは、同じくディック原作を映画化した『マイノリティ・リポート』だし、ロボットのデザインは『アイ、ロボット』を思わせるしで、
全編「パッチワーク」的に、いろんな所から拝借した要素で出来上がってる。
でもいいんだよ、息もつかせず、多彩なアクション場面が繰り出されていくからね。

俺としてはコスプレ超人が暴れるものより、こういう生身の人間が主人公のSFの方が好きなのだ。
オリジナル版はシュワルツェネッガーだから、いざとなりゃ強いのはわかってるが、今度のはコリン・ファレルだからね。
戦うより、コマネズミみたいに逃げまくるのが、巻き込まれ型のストーリーに合ってる。


フィリップ・K・ディック原作の映画化作では、さまざまなガジェットも目を楽しませる。
警官隊が突入前に、内部の様子を覗うための「アイボール」という銃弾。
壁に着弾させると、その球体から無数のボールが四方に飛び散る。
これがすべて超小型カメラとなっており、部屋の内部をあらゆる角度から見ることができるのだ。

電気のムチ状の捕獲ネットは『マイノリティ・リポート』に出てきた嘔吐棒に匹敵する警官のツール。
ダグが知らぬ間に手の平に埋め込まれてたケータイも面白い。
平らな基盤状のもので、その手の平を、ガラス面につけると、通話相手の画像が映し出される。


アクションで特徴的なのは、コロニーでの逃亡でも、ハイウェイでパトカーを振り切る手段でも、UFBビル内の縦横に移動するエレベーターでも、そしてクライマックスの「フォール」においても、
主人公が「落下」してくのだ。
落下するというのは、夢に出てくるモチーフであり、ダグの冒険自体が夢なのだと解釈もできる。

現実にはローリーは美しい嫁ではあるんだが、もの凄い束縛心が強くて、なにかというと浮気を疑ってダグを責め苛む。
そのストレスが、こんな夢となって具現化してるんじゃないか?
とにかくどこまでも追っかけてくる妻ローリーが鬼嫁すぎる。

ローリーを演じるケイト・ベッキンセールは、格闘場面でも体の切れがいいし、悪役に徹した演技も堂に入ってるし、もう売りだした当初のお姫様役なんか、二度とやらんだろうなと感慨に耽ってしまう。

メリーナを演じるジェシカ・ビールも、むくつけき男たちに混じってアクションをこなしてきた実績があるし、この女優ふたりによるキャットファイトは見応えある。

せっかくビル・ナイが出てるのに、出番が少ないのは、ファンの俺には物足りなかった。

2012年8月15日

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韓国の法廷劇2作①『トガニ 幼き瞳の告発』 [映画タ行]

『トガニ 幼き瞳の告発』

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現在、都内では韓国映画の法廷劇が2本公開されている。
1本は『哀しき獣』のハ・ジョンウが弁護士を演じる『依頼人』で、これは純然たるリーガル・サスペンスだ。
もう1本の、この『トガニ 幼き瞳の告発』は、後半は法廷場面がメインとなってはいるが、副題にあるように「告発劇」と呼ぶ方が似つかわしい。


恩師からの紹介で、霧深い地方の町の聴覚障害児たちの集う、全寮制の学校「慈愛学園」の美術教師として赴任してきたイノ。画家としては食えず、妻に先立たれて、幼い娘を抱える身。
母親に娘ソリの面倒を任せて、ソウルからやってきたのだ。
町で車をぶつけられるが、相手は地元の人権センターの女性幹事でユジンといった。
彼女はお詫びにと、イノを「慈愛学園」まで送り、弁償の件で何かあればと、名刺を置いていく。

イノは早速校長に迎えられた。校長室は天井がスモークガラスのようになってる。
行政室長を紹介されたイノは面食らった。校長と瓜二つの男が立っていたからだ。
校長と行政室長は双子だった。
だが朗らかに振舞う校長と比べ、行政室長はニコリともしない。
校長室から出ると、行政室長は廊下でなぜか手の平を掲げて見せた。
イノは意味がわからず、ハイタッチして応じると
「ふざけてるのか?」と睨む。「察しの悪い奴だな」

それは賄賂の金額を示していた。ただで職が得られるとでも思ってたのか?
行政室長は世間知らずとでもいうように一瞥した。
そんな金は手元になかったが、母親が工面してくれた。

教室で生徒たちと顔を合わせるが、子供たちの表情は一様に暗い。
イノはひとり遅くまで残った夜に、トイレから悲鳴のような声を耳にする。
だがトイレの戸を開けようとすると、警備員に止められた。
「ここの子は退屈すると奇声を上げたりする」
そして学校内の異常な状況は、次々とイノの面前に明らかになっていく。


職員室では男性教師のパクが、ミンスという男子生徒を袋叩きにしてる。
他の教師たちは止めようともしない。
イノが声をかけると
「寮を黙って脱け出した罰だ」と言う。

知的傷害のある女子生徒ユリは、イノの手を引いて、廊下から階段の下のドアを指差す。
そこはクリーニング室だった。イノが中に入ると、洗濯機の前に女性の背中が見える。
さらに近づくと、その女性は、女子生徒のヨンドゥの顔を、回る洗濯槽の中に押し込んでた。

体罰を加えてたのは寮長のジャエだった。
体罰の度を超してると非難しても、「しつけだ」と開き直る。
新米の教師がという寮長の態度に
「僕の知り合いには弁護士もいる。それ以上やるなら黙ってないぞ!」
イノはさすがに激昂した。

ヨンドゥを入院させたイノは、あの名刺のことを思い出した。
人権センターのユジンに電話で、「慈愛学園」において生徒たちへの虐待が日常化してると告げた。


ユジンはイノから教えられた病院へ向かい、病室のヨンドゥと筆談を交わした。
ユジンは電話でイノを近くの食堂に呼び出した。
ユジンが切り出した話は、イノの耳を疑うような内容だった。
ユジンは筆談したメモをイノに見せた。
それはヨンドゥやユリ、そして男子生徒までもが、校長やパク教師から、恒常的に性的虐待を受けている、というものだった。

ユジンは早速この事実を地元の教育庁に通報するが、
「学校の就業時間外に行われた事案に関しては管轄外」
と木で鼻を括ったような対応をされる。
区役所に行ってくれと。ユジンは
「区役所に行ったら教育庁に行けと言われたのよ!」

それならばと警察を訪れるが、担当の刑事も腰を上げる素振りはない。
その刑事は「慈愛学園」の校長室に頻繁に出入りしてた。
校長は地元で教会を建てたり、表向きは名士で通ってる。
その実、警察や役所までまで買収して、悪事を隠蔽していたのだ。


ユジンは体罰どころか、子供たちが性的虐待を受けてると知り、怒りに煮えたぎった。
イノもそれは同じだったが、彼の場合は「慈愛学園」の当事者であり、へたに行動を起こせば、教師の職を失う。
幼いソリを路頭に迷わすことになるのが恐ろしかった。

ユジンは人権センターを通じ、地元テレビ局に連絡した。
マスコミを使って、許されざる行為を告発するのだ。

生徒たちはカメラの前に立つことを了承してくれた。
手話と身振りで、自分が校長たちに何をされたのか、ヨンドゥやミンスは、涙を溜めながら、
その屈辱を語った。
そのテレビ番組は大きな反響を呼び、警察も動かざるを得なくなった。
校長たちは逮捕され、司法の場で裁かれることになった。

だがこの告発にイノが関与してることは、当然「慈愛学園」側の知るところとなり、
イノは即刻解雇される。
ユジンは「関わったことを後悔してる?」とイノの瞳を覗う。
「君は気楽でいいよな」
イノはユジンが人権センターで、少ない報酬で働き、家では内職をして補ってることなど知る由もなかった。


この後、事件は法廷の場でその全容を暴かれていくのだが、被告の学園側は、さまざまに策を弄して罪を逃れようとしてくる。

校長たちは予め、虐待する生徒に目星をつけていた。孤児であったり、親が知的障害を負っていたり。
そういう生徒を選ぶことで、もし事が表沙汰になりそうな時には、示談で収めてしまえると踏んでたのだ。

イノがあの夜、校内のトイレで聞いた悲鳴は、校長に襲われるユリのものだった。
イノは、あの時自分が踏み込んでいれば、と悔恨に顔が歪んだ。

そして校長室の天井にも秘密があった。あのスモークガラスの奥にはビデオカメラが仕掛けてあり、校長がヨンドゥを机の上でレイプする様子を撮影してたのだ。
撮影されたディスクを見つけ出したイノとユジンは、これが決定的な証拠になると、検事に預けた。

だが裁判の判決は愕然となるものだった。


この映画は日本では「R-18」指定となってる。たしかに未成年に対する性的虐待の場面は、少女の裸などは勿論見せないが、かなり生々しく描写されてはいる。
トイレに逃げ込んだユリが、顔を上げると、隣の仕切りの上から校長がニヤついて見てる場面など、女性の観客は、根源的な嫌悪感に身震いするんじゃないか?

パク教師は男子生徒のミンスと、その弟にも手を出していた。弟が風呂場で裸の背中を撫で回されてる場面は、日本に限らず、どこの国でも描写としてアウトだろう。
そこまで踏み込むのはさすが韓国映画とは思うが。

「R-18」指定の根拠はそういう描写によるものだろうが、これは被害者が未成年であり、彼らがどれだけ熾烈な思いをさせられたのかということは、同じ未成年の日本人に知らしめていいはずだ。
聴覚障害という、ハンデを負った子供たちへの虐待という題材にも配慮してるのかもしれないが、そこにも違和感はある。


これは韓国の聴覚障害児童の学校で、実際に起きた事件を元にした映画だが、日本でも同様の事件は起きている。だがそれを題材にした映画やドラマは作られない。

日本ではハンデを負った人間を題材にすると、大抵見る者に感動を与えるような、前向きな登場人物や、ストーリーに限定されて、ネガティブな要素は取り上げられない。
腫れ物にでも触るようなスタンスなのだ。

なので重度の知的障害を負ったヒロインが、男にレイプされてしまうという、驚愕の展開で始まる『オアシス』のような映画は、まず作られることもないだろう。
韓国映画は「タブー視することがむしろ不自然」という、そこに明らかなスタンスの違いがある。

この『トガニ 幼き瞳の告発』は、被害者を演じる少年少女たちの演技が真に迫っており、見る者に相当なインパクトを与えてはいるだろう。
映画自体の評価も高まるところだろうが、冷静に捉えてみれば、衝撃的なのは、この映画の元になった事件であって、映画が作り出しているものではない。

原作は事件のルポルタージュという形ではなく、事件を元にした小説という形で世に出されている。
映画の中でパク教師から虐待を受けてたミンスが、ある行動に出る場面があるが、その結末も、映画パンフに掲載されてる事件の記録の中には出てこない。
つまりフィクションが付け足されているわけだ。

韓国映画らしいというか、描写は非常に扇情的であり、被告たちの悪辣ぶりを、これでもかと描き出そうとしてる。温和な表情の裏に卑劣な素顔を潜ませる校長をはじめ、みんないかにも「ワル」という表情を作ってる。

中でも女性寮長のジャエの人相が強烈。パンフには演じた女優の名前がないので、わからないのだが、女性でこんな悪相も珍しいなと、むしろこの女優のことが気になってしまったぞ。
もちろん校長やパク教師が鬼畜なんだが、ほかの見て見ぬふりの教師たちはどうなんだ。
映画では全く空気扱いで、そういう人間たちの、罪とか葛藤とかが抜けてるのも物足りない。


コン・ユが演じるイノは、義憤と保身の間を揺れ動く、その強くなり切れない人物像が、リアルである反面、映画の観客としては「ピリっとしてくれよ」と無責任に思ってしまったりもするので、人権センターのユジンの存在は、映画を進める起爆剤として、上手く配置されてたと思う。

ユジンを演じるチョン・ユミは、日本でいうと深津絵里のようなタイプか。
可愛いけど「女」を押し出してこない。
少女の頑なさを持ち続けたまま大人になったような印象だ。
子供たちの災厄を我がことのように受け止めて、怒りをぶつける、そういう人物像にあっている。

2012年8月9日

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なぜゴッサムを守るのか? [映画タ行]

『ダーク・ナイト ライジング』

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クリストファー・ノーラン監督は「007」映画のファンを公言してる。
この3部作の1作目『バットマン ビギンズ』において、バットマンは他のアメコミ・ヒーローと違い、超人ではないと規定した。
人間の身体能力を飛躍的にアップさせるガジェットや、武器を身につけることにより、超人的な活躍が担保されるというものだ。

モーガン・フリーマン演じるフォックスは、「007」映画における「Q」の存在であり、
大富豪ブルース・ウェインは「任務ではなく自分で勝手にミッションをこなすジェームズ・ボンド」という風に見える。


今回の「ライジング」において、ノーラン監督は明確に「007」的活劇を志向してる。
アバンタイトルに描かれる、あの飛行機2機を使った、ベインの空中脱走劇は、「007」映画の導入部そのままに、スリリングな見せ場になってる。

前作『ダーク・ナイト』はヒース・レジャーによるジョーカーの禍々しさが映画を塗りこめていたため、アクションシーンがあったはずなのに、ほとんど印象に残ってなかった。

「すべての人間は悪に堕ちる素地を備えている」と煽動していくジョーカーから、目を離せなかったことは事実だが、映画のテーマを登場人物に語らせすぎるという「講釈テイスト」がちょっと腹にもたれる感じもあった。
押井守監督の『機動警察パトレイバー2』を見た時の印象に近かった。

ノーラン監督は、今回の完結篇で、悪役も含めて、映画全体をフィジカルな方向に軌道修正しようと試みたのだろう。
証券マンを人質にとり、バイクに後ろ向きに括りつけて逃走するベインの一味を、バットポッドで追う、中盤のチェイスシーンも見事だった。
ラストの趣向は『ブラック・サンデー』入ってて、新味はなかったが。


ただどうもすっきりしないのが、バットマン(ブルース・ウェイン)は、なぜゴッサム・シティを守りきろうと命を張るのかということ。

2作目までの設定なら、ゴッサム・シティというのが、架空の町である前に、物語の中ではシンボルであるということはわかってた。ゴッサム・シティという「宇宙」の中で描かれる物語が、現代の社会であり、世界の縮図であること。

ゴッサム・シティを守るという行為自体が、映画用語でいうところの「マクガフィン」であり、バットマンが治安を守るという展開の中で、
「バットマンの自警団的正義は認められるのか?」
「悪を制する者も悪と捉えられる皮肉」
「純粋な悪を目の前に、抗う手立てはあるのか?」
など、現代社会に通低する問題提起こそが、映画が描くことの本質であったこと。

だが今回、ベインの大規模テロによって、ニューヨークそのものに見えるゴッサム・シティが内戦状態となるに及び、合衆国大統領が映画に登場し、声明を読み上げる。
その前のスタジアムでのアメフトの試合前に、少年が「アメリカ国歌」を独唱もしてる。

つまりゴッサム・シティは、ロスアンゼルスやアトランタといった都市と同様に、アメリカの一都市と明確に描かれたのだ。
ゴッサム・シティはもう「比喩」ではなくなる。
となるとバットマンは、アメリカの一都市を限定的に自警する「ローカルヒーロー」と見えなくもない。
ゴッサム・シティが具体的な都市であるということになると、このシリーズには決定的に、その都市と都市に暮らす住民たちの描写が欠けている。

バットマンの周りには、執事のアルフレッドはじめ、ウェイン産業の関係者と、ゴードン市警本部長はじめ、警察及び司法の人間、ウェインの女性関係、それに悪玉と、それしか出てこない印象なのだ。
ブルース・ウェインが命がけで守ろうとするゴッサム・シティとはどんな場所なのか?
その顔が見えない。


今回の敵ベインは、まずバットマンより、フィジカルが圧倒的に強いという特徴を備えて登場したが、インパクトにおいてはジョーカーの後塵を拝する。
あれだけのテロを起こしておいて、ゴッサムの住民に「町を民衆の手に取り戻すのだ!」などとアジ演説かましてるが、そんな危ない奴についてかないだろ、ふつう。
そのあと、金持ちの家に暴徒が押しかけるって場面があるが、この辺も記号的な描写で面白くない。

ベインに簡単になびいてしまう位に人心が荒廃してるというのなら、前もってそこを描いといてくれよ。というより、3部作の内の1作だけでも『シチズン・オブ・ゴッサム』として、ゴッサムの住人を主人公に、バットマンとの係わりを描いてほしかった。


ブルース・ウェインは自分の過去の境遇もあり、ゴッサム・シティの孤児院の運営を、ウェイン産業として援助し続けてきてるが、今回出てきた孤児院の少年も、存在をフォーカスされるにまで至らない。
例えば孤児院を出た少年たちが、ゴッサムに蔓延する悪に染まり、町の存亡を脅かすような一大勢力になる。彼らはベインに共鳴して、町の破壊へと突き進むが、満身創痍のバットマンと対峙することにより、自らの中の「バットマン」に目覚めていく。

それが今回の映画で、バットマンが若い警官ジョン・ブレイクに告げる
「誰もがバットマンになれる」
というセリフに、より意味を持たせることになるんじゃないか?

ベインに煽動された囚人たちや市民が、警官隊と衝突する、市街での大乱闘場面があるが、あそこは明らかに警官隊に思い入れた演出となってる。

ノーラン監督という人は元来、警察官に悪印象を持ってないようで、しかし警察というのは国家権力の側にある組織なのだから、市民と衝突する場面で、警官をヒロイックに描くという事には、違和感がある。市民の側はただの暴徒にしか見えず、そうなるとこんな町や住民たちを、ブルース・ウェインはなんで守ろうと思うのか?そこらあたりの説得力が感じられないのだ。


こんな屁理屈こねててもしょーがないかも知れないが、映画自体が理屈っぽいんだから、こっちも細かいことが気になってくる。

一度はベインに破れ、ブルース・ウェインが絶望監獄のような場所に幽閉されるシークェンスがある。
巨大な井戸の底にあり、その壁面を登って脱出できたのは、過去に子供が一人だけという場所だ。
ブルースは何度か挑戦するが登り切ることができない。

瀕死で監獄に連れてこられたブルースを介抱し、その面倒を見た同房の老囚人のアドバイスで、ブルースは壁面をクリアできるんだが、それもいわゆる「フォースとともにあれ」みたいな、ヨーダの精神論から進んでないもので、その「根性でクリア」ってのもどうかと。

「007」風で行こうとしてるんだから、あっさりフォックスが助け船出したってよかったと思うが。

しかしブルースを介抱する囚人を演じてるのがトム・コンティとは。
『戦場のメリー・クリスマス』でも監獄にいたけど、こういうちょっとした役を名優に演らせてるのは贅沢。

贅沢といえば、テレビ画面越しだったが、声明を読み上げる合衆国大統領を、ウィリアム・ディヴェインが演じてた。そう『ローリング・サンダー』のアニキだ。
彼が大統領を演じたのは、1974年のテレビムービー『十月のミサイル』でJFKを演じて以来のことだろう。

主要なキャストでは、ジョン・ブレイクを演じるジョセフ・ゴードン=レヴィットが抜群によかった。
『ダーク・ナイト ライジング』とは、ジョン・ブレイクのことでもあったんだな。

2012年8月5日

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70年代洋楽好き落涙のヴァンパイア映画 [映画タ行]

『ダーク・シャドウ』

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バーナバスが呪いをかけられ、ヴァンパイアとなってしまうアバンタイトルが開けて、18世紀半ばの世界から、1972年の世界へ。コリンズ家へと向かう新米家庭教師ヴィクトリアを乗せた列車を俯瞰するカメラとともに流れてくるのは、ムーディ・ブルースの『サテンの夜』!
このタイトルバックでもうヤラれた。
これは俺が勝手に呼んでる所の、最近ちらほら目立つ
「70年代洋楽ファン向けエクスプロイテーション映画」の1本と確信したよ。

ティム・バートン監督作における、ジョニー・デップの「白塗りシリーズ」もこれが5作目になるが、俺は「チャリチョコ」も「スウィーニー」も「アリス」も劇場で見なかった。
ちょっと飽きてたんだね、ティム・バートンの映画自体にも。
でもこの新作は予告編を初めて見た時から、猛烈に期待が高まってたのだ。
「ヴァンパイア映画にバリー・ホワイトがかかるのか?」
予告編も70年代洋楽で埋めつくされていて、俺はまさにティム・バートンに搾取(エクスプロイテーション)されるつもりで初日を待ったのだ。

『サテンの夜』の音がまたべらぼうに良かったな。
そして期待にたがわず、ガンガン流れるね。

カーティス・メイフィールド『スーパーフライ』
ドノヴァン『魔女の季節』
カーペンターズ『トップ・オブ・ザ・ワールド』
エルトン・ジョン『クロコダイル・ロック』
ブラック・サバス『パラノイド』
トーケンズ『ライオンは寝ている』
ヴァンパイアと魔女の猛烈ラブシーンにはバリー・ホワイト『マイ・エヴリシング』
T-REX『ゲット・イット・オン』
アリス・クーパーがゲストで出てきて歌う
『ノー・モア・ミスター・ナイスガイ』と『ドワイト・フライのバラード』
そしてエンディングには『ゴー・オール・ザ・ウェイ』
なぜかこの曲だけはラズベリーズのオリジナル版ではなく、ザ・キラーズのカヴァーが使われてた。
ザ・キラーズは80年代テイストを音にまぶした俺も好きなバンドではあるが、同じ曲のカヴァーなら、スザンナ・ホフスとマシュー・スウィートが演ってたバージョンを使ってほしかったな。

そうマニアックでもない選曲になってて、魔女のアンジェリークが、自分が牛耳る港町を赤いスポーツカーで「巡回」する場面には、なぜかパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』が流れてた。

マニアックな部分でいえば、ジョニー・デップのファンのブログとかでは、この映画に彼が自作の『ザ・ジョーカー』という曲を提供してるらしいと、盛り上がってるようだが、あれは彼の自作曲ではない。
映画の中で、クロエ・グレース・モレッツに、バーナバスが「ロックも知らないとかダサい」みたいなこと言われ、
「現代の音楽のことか?なかなかいいのもあると知ってるぞ」
と、ある歌詞を諳んじる場面がある。
「俺はジョーカー」
「俺はスモーカー」
「俺は深夜のヤク中」
「誰も傷つけたいと思っちゃいない」
諳んじた後で「シェイクスピアより出来がいい」などと言ってるが、これは1974年の1月に全米ナンバー1を記録した、スティーヴ・ミラー・バンドの『ザ・ジョーカー』のサビの一節だ。
多分サントラにはその場面のジョニー・デップの鼻歌が入ってるんじゃないか?

映画全体のムードは『スリーピー・ホロウ』に通じるゴシック世界なので、70年代洋楽に関心もなければ、そもそも知らないという世代には、単なるミスマッチに思えてしまうかもな。


ジョニー・デップ演じるバーナバス・コリンズは、18世紀にヨーロッパからメイン州に移り住み、港町に水産工場を興して、町を繁栄させ、「コリンズタウン」という町名に冠されるほどの名家の御曹司だった。
だが「家族こそ財産」という親の教えも聞き流し、恋人がいながらメイドに手を出してしまう。
そのメイドのアンジェリークは実は魔女で、バーナバスに本気になってしまうが、彼の愛を得られないとわかり、嫉妬から呪いをかける。
バーナバスの恋人ジョゼットは、夢遊病者のように、崖にさまよい出て、身を投げて果てる。
バーナバスが魔女の呪いに気づいた時はすでに遅く、ヴァンパイアにされた彼は、棺桶に閉じ込められ、そのまま地中に埋められてしまう。
アンジェリークは愛を永遠に忘れ去るため、そしてバーナバスには永遠に死ねずに苦しみを与えるために。

それから200年後、工事現場の地中から棺桶が掘り出される。作業員たちは棺桶から飛び出したバーナバスに、瞬く間に襲われ、血を吸われて殺害される。
「すまないが長く閉じ込められて喉が渇いてたのだ」
自分が生まれ育った邸宅に戻ったバーナバスは、使用人のウィリーを即座に操り、下僕としてしまう。
なんだか寂れた邸宅の様子に、ウィリーから今が1972年だと訊き、バーナバスはショックを受ける。

だが住人がいるのもおかまいなしに家に入る。身なりは整ってるが、顔が真っ白なヘンなのが来たと、この家の住人たちは訝る。
バーナバスは、自分こそこのコリンズ家の当主なのだと自己紹介するが、娘たちからは「頭イカれてる」としか思われない。
この家には現在当主であるエリザベスと、その娘でサイケにはまってる15才のキャロリン、エリザベスの弟ロジャー、その息子のデヴィッドがいた。デヴィッドの母親は海で死に、その霊が見えるという息子をケアするために、精神科医のジュリアも住み込んでた。

そして、直前に家庭教師として雇われたヴィクトリアと顔を合わせたバーナバスは、激しく動揺した。
彼女は死んだ恋人ジョゼットに生き写しだったからだ。


詐欺師と疑うエリザベスを納得させるため、バーナバスは様々な仕掛けが施されたこの邸宅の秘密を、次々に開陳していく。
今の住人たちが知らなかった「隠し部屋」には、目を奪うような財宝が並べられていた。
エリザベスは納得するしかなかったが、バーナバスが普通の人間ではないことも嗅ぎつけた。
「吸血鬼ではあるが、家族を襲うことはない」
と言うバーナバスに、
「このことは私たちだけの秘密に」とエリザベスは釘を刺した。

バーナバスは一族で囲む夕食の席で、コリンズ家が事業に失敗し、すっかり没落してることを知る。
「私が戻ったからには、コリンズ家を復興させようぞ」
「それは無理よ。この港町はいまやブシャールという女実業家に牛耳られてるんだから」
バーナバスは知ることになる。その女実業家こそ、何世代にも渡って、少しづつ外見を変えながら、この地で生き続ける魔女のアンジェリークであることを。
そしてアンジェリークもまた、バーナバスが「掘り返された」ことを知り、忘れ去ってた恋の炎が再燃するのだった。


この映画の元となる、同名の60年代のテレビシリーズは、アメリカ人にはポピュラーというが、日本では放映されてないから、設定の細かい面白さを見出すような見方はできない。
ホラー風味のソープオペラ(昼メロ)だったようで、その感触はこの映画でも踏襲してるのだろう。
俺はもっと18世紀の人間と、1972年というカルチャー・ギャップを見せてくれるもんだと思ってたんで、意外とその要素が薄かったのは残念。

バーナバスは、永遠に死ぬことができない苦しみを、魔女アンジェリークから与えられたが、そのアンジェリークに
「お前自身にかけられた呪いというのは、愛するという意味を永遠に知らないということだ」
と言い放つ。
そう、これはヴァンパイアと魔女の愛憎劇であり、映像的な派手さも抑え目になってる。

ジョニー・デップはこういうフォーマルで、慇懃な口調で話させると上手い。童顔だが声が渋いので役に合う。
だがこの映画で一番目を惹くのは魔女アンジェリークを演じるエヴァ・グリーンだ。
尖ったシルエットも見事だし、嫉妬に狂う女の怖さと、恋に身を焦がす可愛さを混在させていて、演技に迫力があるのだ。

ダークシャドウエヴァ.jpg

1978年の『イーストウィックの魔女たち』ですでに魔女を演じてるミシェル・ファイファーが、同じ画面に収まってるのもいいね。

ヴィクトリアとジョゼットの二役を演じたベラ・ヒースコートは、『TIME/タイム』に出てたというが印象になかった。
今回は結構な大役で、ズーイー・デシャネルを思わせる「ビー玉」みたいな青い瞳が惹きつけるね。
クロエ・グレース・モレッツは捨て台詞が楽しい。『ヒューゴ…』よりこういう役の方が合ってるんじゃないか。

あとジャッキー・アール・ヘイリーが、最後まで下僕の卑小さを貫く演技を見せるのも良い。この人どことなくダニエル・デイ=ルイスに似てるんだけどね。
『がんばれ!ベアーズ』で熱くなった世代としちゃ、頑張ってくれてるだけで嬉しい。
吸血鬼ということで、ちゃんとクリストファー・リーに登場願ってるのも、ティム・バートンならではの趣向。

細かい所では、アンジェリークの邸宅にかかる肖像画で、彼女の変化の様子がわかる描写があるんだが、新しい方の肖像画が、タマラ・ド・レンピッカに描かせたようなタッチになってるのがウケた。

2012年5月21日

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