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ファン・ビンビンの目の下のクマ  [映画ラ行]

『ロスト・イン・北京』

ロストイン北京.jpg

10月6日から11月16日まで、新宿のミニシアター「K'S CINEMA」にて開催されてる
「中国映画の全貌2012」。
その46本の中でも目玉のように扱われてるんで、見に行ったんだが、昨日ツタヤを覗いてたら、普通に旧作棚に並んでるじゃないか。
とっくにDVDになってたとは、全く気がつかなんだ。
でもスクリーンで見る機会があるんなら、それに越したことはない。

中国には二人のビンビンがいて、もう一人のリー・ビンビンは、『バイオハザード』の最新作に出てるが、「尖閣問題」に抗議して来日プロモーションを蹴ってる。
「まあ勝手にしろ」って所だが、こっちのファン・ビンビンの集客力は凄かったな。

開始20分前くらいに劇場に着くと、ロビーは人で溢れてる。
しかもほとんど「ご年配」だ。
彼女が激しい濡れ場を演じてるという情報が知れ渡ってるんだろう。

しかし今日び「女優が濡れ場を演じてる」なんて売り文句で、劇場に駆けつけるのは年配だけだろうな。若い人たちにはAVもあればエロ動画もある。
「間に合ってますから」という感じか。

実際、映画冒頭20分くらいの間に、中国映画にしてはかなり思い切ったセックス描写があり、ファン・ビンビンは透き通るような白い肌を晒している。

相手の男優も裸のケツを上下していて、昔ならそれだけでボカシが入れられる所だ。
描写は生々しいが、彼女は肝心な部分は見せてない。絶妙な寸止め感といえる。

だが前半を過ぎると、そういう場面は一切なくなる。
失望するかといえば、映画としてはそこからが面白くなってくるのだ。
物語の世知辛さには苦笑するほどで、それをリードしてくのは、ベテランのレオン・カーファイだ。


ファン・ビンビン演じるピングォは、北京市内のマッサージパーラーで働いてる。
亭主持ちは雇ってもらえないので内緒にしてるが、ピングォの夫アンクンは、ビルの窓拭き作業員をしてる。
同僚の女の子が、しつこい客に暴力を振るったと、オーナーのリン・ドンから解雇を言い渡される。

ピングォは彼女を慰めるため一緒に酒を呑み、したたか酔って、パーラーに舞い戻る。
そのままオーナーの部屋に入り、誰もいないと見ると、ベッドに倒れ込む。

部屋に戻ったリン・ドンは、従業員がベッドに寝てるのに仰天するが、太腿も露になった、そのあられもない姿に欲情し、覆いかぶさる。
酔っていて自分の亭主かと思い、名前を呼んでしまうが、リン・ドンと気づき、ピングォは激しく抵抗するが、それも虚しかった。
事が終わるとリン・ドンは
「今日のことはこれきりに」と金を掴ませようとするが、ピングォははねつける。

すると窓の外が騒がしい。なんとアンクンが、マッサージパーラーのビルの窓拭きに来てたのだ。
アンクンはオーナーの部屋に怒鳴り込んで来るが、すぐに警備員につまみ出される。
亭主持ちと知られたピングォは解雇を言い渡される。

持つ者と持たざる者、大都市・北京に生きる人々の明暗は残酷だ。
だが事はそれでは済まなかった。


しばらく経ってピングォの妊娠が発覚したのだ。
「人の女房を寝取って妊娠までさせた」
アンクンはそれをネタにオーナーのリン・ドンを強請ることにした。

だがアンクンからその話を告げられて、リン・ドンの反応は意外なものだった。
「本当に俺の子なのか?」
その言葉には、疑うというよりも、確認のニュアンスが強かった。

リン・ドンと妻のワン・メイの間には子供ができなかった。
二人はもう長くセックスレスだ。
リン・ドンは適当に外で遊び、妻のワン・メイは、鬱憤を散財で紛らわす毎日。
子供を諦めていたリン・ドンには、僥倖といえるアクシデントになったのだ。

もし自分の子供だと証明されれば、大金を出して、その子を買い取るという。
アンクンとの間で契約書まで交わしてしまった。

ピングォは釈然としないが、自分が過ちを犯してしまった引け目から、アンクンに強く出れない。
ピングォはマッサージパーラーのクビを免れ、リン・ドンは従業員たちの前でも、露骨に彼女の体を気遣った。

面白くないのはリン・ドンの妻のワン・メイだ。
夫が従業員の女を孕ませ、その子を引き取ると云う。
つまり子供ができないのは妻のせいだったということだ。
ワン・メイは店でピングォに足を揉ませて、ネチネチと皮肉を浴びせるしかなかった。


リン・ドンはピングォの膨らんだおなかに顔をつけ
「いま俺の声を聞いて、足で蹴ったぞ」
渋い顔で眺めてるアンクンにも同じことをさせ、蹴らないと云うと
「ちゃんと父親がわかってるのさ!」
リン・ドンは子供が生まれる前から、親バカ状態となってた。

無事出産が終わり、赤ん坊の血液検査が行われた。
リン・ドンの思いとは裏腹に、血液型からして、リン・ドンが父親である筈はない。
医者から検査結果を聞いたアンクンは、結果を改ざんしてくれと医者に頼み込む。
大金がフイになってしまうからだ。

そんな事はできないという医者に、指で金額を示した。医者は
「どうなっても知らんぞ」と言い、改ざんを了承した。


リン・ドンは知らせを聞いて、しばらくピングォを自宅に住まわせることにした。
アンクンが家に入ることも咎めなかった。
いびつな因縁に結ばれた4人の男女が、同じ屋根の下に集った。

夫を寝取られたワン・メイと、妻を寝取られたアンクンは、やり場のない憤懣を、お互いの体で紛らわすようになった。
だがそこに愛などはない。

ピングォも、腹を痛めて産んだ赤ん坊を、売り渡して金を得ようという夫の心根がわからない。
リン・ドンは自分の子にしか目はいかない。
4人の間のどこにも愛など見つからない。


リン・ドンは日が経つにつれ、自分の子を身篭ったピングォに気持ちが移っていく。
もう一度抱きたい。
シャワーを浴びるピングォを覗く様子を妻に見られ、そそくさと立ち去る。
シャワーから出てきたピングォは、いきなりワン・メイから平手打ちされる。

ピングォは自分たちの子供を偽って、他人に譲ることへの呵責から、疲弊していく。
そしてアンクンは、金のために割り切ってた筈が、不意にもたげてきた父親としての感情に、動揺し始めていた。


この「中国映画の全貌2012」の上映作品に入っていて、昨年の「三大映画祭週間」で既に見た
『我らが愛にゆれる時』のプロットと、似た部分が感じられる。

我らが愛にゆれる時.jpg

あの映画は、臓器移植しか助かる道はないという、難病の娘を持った母親が主人公。
彼女は再婚で、娘は前の夫との間の子だ。
今の夫は娘を我が子のように可愛がってくれてる。
臓器は血が繋がった者同士でないと上手くいかないと云われるが、彼女も前の夫も、検査の結果、適合しなかった。
そこで母親は前の夫との間で人工受精を試みる。

前の夫には若い後妻がいた。
中国の法律で、男は二人子供を作ると、もう作ることはできない。
なので人工受精で出産となれば、今の若い妻は子供を持てなくなるのだ。

彼女は抗議しに主人公の家を訪れるが、彼女は不在で、夫と病気の娘しかいなかった。
娘の姿を見て、若い後妻は何も言えず立ち去る。

主人公の今の夫は、彼女の判断に口を挟まなかった。
だが人工受精は失敗に終わり、残された手段は一つになった。
前の夫と直に行うことだ。前の夫はさすがに快諾はできない。

だが娘を助けたいという母親の思いは、もはや周りを見れるような状態ではない。
仮に出産できたとして、産まれてきた子は、臓器を摘出されるために育てられるのだ。

二組の夫婦が大きな運命のうねりに晒される、その内容が似通ってはいるが、『我らが愛にゆれる時』はひたすらにシリアスで、それこそ我が身に置き換えて、どんな判断が下せるか、見る者に突きつけてくる所があった。


この『ロスト・イン・北京』の場合は、子宝に恵まれたと舞い上がる、リン・ドンを演じたレオン・カーファイの滑稽さが加速してくんで、拝金主義の現代中国を浮き彫りにする、一種のブラックユーモア劇となってる。

展開はエグいんだが、演出のタッチは熱を抑えていて、ピアノの旋律の劇伴にもクドさがない。
このこじれた4人の関係が、意外な構図で収束してく終盤も見応えがある。


ファン・ビンビンは後半は憔悴してく表情に終始していて、目の下のクマが痛々しい。
この人は目の周りの印象とか、肌の白さとか、大塚寧々を思わせる。
大塚寧々も目の周りが妙にエロいんだが、下品な色気にはならない。
彼女は若い頃に、代表作と呼べる映画に出会えなかったのが勿体なかった。

ファン・ビンビンに限らず、アジアの映画を見ると、俳優の顔が大抵、日本の誰かに似てたりするんだが、例えばレオン・カーファイは、若い頃に比べて肥えてきており、小林旭みたいになってきた。

アンクンを演じるトン・ダーウェイは、意外とふてぶてしい役柄の印象もあり、目元が新井浩文を思わせる。ワン・メイを演じるエイレン・チンは奈美悦子だ。

2012年10月15日

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『ロック・オブ・エイジス』観るなら立川一択! [映画ラ行]

『ロック・オブ・エイジス』

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「トム・クルーズ映画」として売れるわけではないから、シネコンの「箱割り」も最初から消極的で、公開の週末でも大きなキャパを割り振ってる所がほとんどない。
しかし、お祭り騒ぎ的なロック・ミュージカルなんだから、ちんまりと眺めるんじゃ楽しくない。

そんなわけで、東京都市部とその近郊で、『ロック・オブ・エイジス』を見るとすれば、
「立川シネマシティ」の「シネマ・ツー」というシネコンが、望みうる最高の環境ということになる。

見てきた後だからそう断言できるので、実際このシネコンは初めて利用したのだ。
立川という立地が、ウチからだと、ちょっとした遠征モードの距離にあり、今まではこれといった割引制度もなかった。
そこに有料会員システム「シネマシティズン」がスタートし、これは年会費1000円で、
入場料がいつでも1300円になるというもの。

それに今回の『ロック・オブ・エイジス』は、「ミュージカル映画」6本を連続上映する
「極上音響上映」というプログラムに組み込まれており、平日だと会員は1000円で見れるのだ。
「シネマ・ツー」にある5つのスクリーンは、「studio」という呼称となっており、ここ独自の音響調整卓を駆使した、サウンドシステムが売りとなってる。
レコーディング・スタジオの音の再現を目指してるという。

この日は3番目のキャパの「studio C」での上映で、スクリーンはさほど大きくないが、音は抜群にいい。
やたらとデカい音で鳴らすわけではなく、細かいニュアンスの音までクリアに耳に届く。
低音はもっとシートにズンズンきてもいいなとは思ったが、F列のド真ん中に陣取って、堪能し尽した。
1000円だし、足代かけても、また見に行きたいくらいだ。
シネコン時代が到来して、映画館の音響は飛躍的によくなったとは思うが、それにしても「音楽もの」を、こんないい音で味わえるとは、なんといい時代になったものか。

言っとくが映画の中身は「ない!」
『バーレスク』やら『コヨーテ・アグリー』やら、あのあたりと寸分変わらない。


ヒロインのシェリーが、オクラホマの田舎から、夜行バスでハリウッドへと向う。
その車中でたそがれながら、ナイト・レンジャーの『シスター・クリスチャン』を彼女が口ずさむと、他の乗客や運転手が、先を唄い継いでく。

サビの部分は車内で大合唱。そう、ミュージカルだから、これでいいのだ。
この導入部でもうグッとこさせるものがある。

シェリーがバスで降り立った1987年のサンセット・ブルヴァード。
伝説のライヴハウス「バーボンルーム」の向かいで引ったくりに遭い、呆然とする彼女に、店の下働きをしながら、ロックスターを夢見る青年ドリューが声をかける。

「困ってるならウチの店で雇ってくれるかも」
夢を叶える者、破れる者、無数の若者たちを見てきた中年オーナーのデニスは、シェリーのやる気を見込んで、ウェイトレスとして雇う。


折からこの店も経営は苦しく、新市長夫人のパトリシアが先頭切って、青少年への害毒と、ロックやライヴハウスを駆逐する活動を激化させてる。
デニスの店を救う唯一の頼みの綱が、ロックのカリスマ、ステイシー・ジャックスのソロ・ライヴの開催だった。
人気も落ち目となってきたステイシーは、自らのバンド「アーセナル」を解散して、ソロで巻き返しを図ろうとしていた。


シェリーとドリューは、同じ環境で働くうちに、気持ちも近づいてくる。
ロスの夜景を一望できる「HOLLYWOOD」の大看板のある丘で、ドリューはシェリーに捧げる曲を弾き語り、二人は同じ夢に向う恋人同士となる。

ステイシーのソロ・ライヴを真近に控え、前座バンドが急に舞台に立てなくなり、デニスはドリューのバンドに白羽の矢を立てる。
シェリーからの強力なプッシュもあったのだ。

ドリューのリハを嬉しそうに眺めるシェリーに、同僚のウェイトレスは
「別れを言うなら今のうちよ」
「スポットライトを浴びると、男は変わってしまう」


ライヴ当日、「バーボンルーム」にやってきたステイシー・ジャックスはシラフではなかった。
というよりシラフでいる時間など無いに等しかった。
ロックへの情熱も失せ、人間不信とニヒリズムとアルコールの混沌の中に漂っていた。

ライヴ前に「ローリングストーン」誌の女性記者コンスタンスが、インタビューにやってきた。
ステイシーは一方的に4分間と指定し、いい加減な物言いでやり過ごす。
だがコンスタンスは別れ際に、ステイシーに今の凋落っぷりを、面と向って突きつける。
「イエスマン」と取り巻きの女以外、周りに誰もいなかったステイシーは、彼女の忌憚のない物言いにグッときた。

前座のステージを控えたドリューは、シェリーがステイシーの楽屋から出て来たことに衝撃を受けた。
シェリーはワインを頼まれて運んだだけだったが、彼女の後からステイシーが股間を押さえながら出てきたことで、ドリューはすっかり勘違いした。

ライヴでその鬱憤を激しいロックナンバーで叩きつけ、オーディエンスの喝采を浴びる。
ステイシーのマネージャー、ポールは、落ち目のカリスマに代わるスターの原石を見出した気分だった。
ステージを降りたドリューは、駆け寄ってきたシェリーに冷たく言い放つ。
「君がいなくても、女はいくらでもいる」
シェリーは、あの言葉通り、ドリューがスポットライトを浴びて変わってしまったのだと思った。


シェリーは店を辞めると告げ、失意の中で、ダンスクラブのママに拾われる。
そこは女たちが艶かしい衣装で、ポールダンスを踊る「ヴィーナス・クラブ」という大人の遊び場だった。
シンガーを目指していたはずのシェリーは、ポールダンスのステージに立つことに。
ポールとの契約にサインしたドリューだったが、レコード会社には、もうロックは売れないと言われ、ヒップホップを取り入れた「ボーイズ・グループ」に衣替えさせられる。

同じ夢を見てたはずのシェリーとドリューは、どちらからともなく、あのロスを見下ろせる丘に足を運んだ。ダンサーとポップアイドル。再開した二人に笑顔はなかった。


シェリーとドリューの恋の行方は?二人の夢は叶うのか?
ステイシーはもう一度ロックへの情熱を取り戻せるのか?
そして「バーボンルーム」の危機は回避できるのか?

まあミュージカルなんで、すべてハッピーエンドにまとまるわけだが、この際ストーリーはどうでもいいのだ。
だがどうでもいいと思って楽しめるのは、80年代の洋楽を浴びるように通ってきた世代だろう。
『ベストヒットUSA』を毎週見てたようなね。
『ダーク・シャドウ』が「70年代洋楽世代向けエクスプロイテーション」だとすれば、この映画は
「80年代洋楽世代向けエクスプロイテーション」以外のなにものでもない。


トム・クルーズは特別出演扱いみたいになってるが、意外に出番が多く、主演といっても差し支えない目立ちっぷりだ。ほとんど上半身裸だし。

デフ・レパードの『シュガー・オン・ミー』や、ボン・ジョヴィの『ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ』など、歌唱も含めてステージパフォーマンスは堂に入ってる。
ステイシーとコンスタンスが、ちょっとハレンチに絡む場面では、フォリナーの『アイ・ウォナ・ノウ』を唄い上げてる。

新市長夫人のパトリシアを演じてるのはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。パット・ベネターの
『ヒット・ミー・ウィズ・ユア・ベスト・ショット』を彼女が唄い踊る場面は楽しい。
『シカゴ』仕込みといおうか、ダンスさせると途端に精彩放つ感じで、パンチラのサービスまである。

パット・ベネターではもう1曲『シャドウズ・オブ・ザ・ナイト』も使われてた。
これは好きな曲なんで嬉しかったね。
シェリーが初めてポールダンスのショーを見る場面で、クォーターフラッシュの『ミスティー・ハート』とのマッシュアップ(2曲を紡ぐようにアレンジする)として唄われてた。

このマッシュアップという手法では、フォリナーの『ジュークボックス・ヒーロー』と、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『アイ・ラヴ・ロックン・ロール』とか、
スターシップの『シスコはロックシティ』とトウィステッド・シスターの『ウィア・ノット・ゴナ・テイク・イット』など、歌詞も場面に合っており、創意工夫のあとが偲ばれる。
大ラスのジャーニー『ドント・ストップ・ビリーヴィン』まで、80'Sに浸りっぱなしの2時間だ。


シェリーを演じるジュリアン・ハフは、ポールダンスではグラマラスな肢体も見せて、ヒロインを熱演してる。

だが面白いのはドリューを演じたディエゴ・ボネータの方で、ああいうカーリーヘアのロックシンガーが、80年代って感じが出てたし、途中で髪を切らされ、ボーイズ・グループを演らされるんだが、それがまたハマってる。
ニュー・エディションとかのパロディだろうが、キャップと、極彩色のジャンパーがすごい。
二人とも歌は普通に上手い。

アレック・ボールドウィンと、ラッセル・ブラントが、REOスピードワゴンの『涙のフィーリング』でカミングアウトする場面は「それ放りこまんでも」と思ったが。


70年代後半から80年代へ、すでにロックは、体制に対する反抗のシンボルとか、社会的なムーヴメントを牽引するものではなくなり、その概念も形骸化して、「産業ロック」と揶揄されるようになっていた。
『ロック・オブ・エイジス』はその時代の空気を「から騒ぎ」のように皮肉ってもいるんだが、映画のストーリーが陳腐であっても、その時代や音楽ビジネスが空虚なものだったとしても、ここに流れる楽曲はそれらを凌駕して、「やっぱりいい」とテンション上げてくれる。

俺はそこんとこに、消費されてるだけと思われてる、ポピュラー・ミュージックの凄みがあるんじゃないかと感じる。
つまり背景にある安っぽさとか、売れれば官軍みたいな姿勢とか、そんなことは耳馴染んだ曲の、着心地のよさの前では、些細なことでしかなくなるのだ。

だからこそ、この映画は「世代」を選ぶことにもなるだろう。

2012年9月25日

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俺の星座はフォードだ。シボレーでもいい。 [映画ラ行]

『ラスト・アメリカン・ヒーロー』

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ジェフ・ブリッジスはロスアンゼルス生まれではあるが、まだキャリアの浅い1970年代前半は「カントリー・ボーイ」のイメージが強い。
この1973年作では、アメリカ南部ノースカロライナ州のストックカー・レースに、彗星のごとく現れた、稀代の「飛ばし屋」ジュニア・ジャクソン(実際の名はジュニア・ジョンソン)の若き日を演じてる。

この主人公の生き方を象徴するような主題歌がオープニングを飾る。
ジム・クロウチが歌う『アイ・ガット・ア・ネーム』だ。

「俺にだって名前がある」
それは無名の若者が、レーサーとして世の中に名を知らしめようとする野心であり、歌詞のサビの部分は
「ハイウェイを飛ばすんだ、もっとスピードを上げよう」
「人生に追い越されないように」

という、自爆も怖れない「攻め」の走りで、しばしば他のレーサーとトラブルも起こしたとされる、ジュニアの内面を映し出している。

初めてストックカー・レースへの出場を認められたジュニアが、レーサーのグルーピーとして、レース場を回ってるマージと一夜をともにしたベッドで、
「あなた星座は?」
と訊かれて答えるのが、コメント題にしたセリフだ。


ジュニア・ジャクソンの一家は、ウィスキーの密造を生業としてた。
父親のジャクソンは密造とはいえ、そのウィスキーの味には絶対の自信を持っており、地元では、密造を取り締まる側の役人たちも、その味を認めるほどだった。

ジュニアは森の中の醸造所から、出来上がった酒をボトルにつめて、夜間に車で運び出していた。
ジュニアの車は黒のフォード・マスタングで、パトカーを振り切るほどの猛スピードと、ハンドルさばきだった。
ジュニアのレーサーとしての資質は、こうして磨かれたものだった。

アメリカ南部には、密造酒作りという「伝統」が脈々と受け継がれてるようで、特に1970年代の映画では度々描かれてる。
この映画と同じく1973年作『白熱』では、バート・レイノルズが、
また1977年作『ランナウェイ』では、デヴィッド・キャラダインが、それぞれ密造酒作りに精を出してる。

1977年作『ブーツレガーツ』は同じく密造酒作りをテーマにしたサスペンス・アクションだったが、この映画は当時、年に一度開催されてた外配協による「秋の映画まつり」で上映されたのみで、一般公開には至らなかった、幻の作品だ。

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主演が『オメガマン』や『ロリ・マドンナ戦争』の脇役ポール・コスロというもの地味すぎた。
俺はその時の上映で見てるが、話の中身はほとんど憶えてないな。


話を戻すと、醸造所が摘発され、父親が1年の禁固刑に処せられる。
賄賂しだいで刑務所内の待遇もよくなると聞かされ、ジュニアはレースに出て賞金を稼ごうと思い立つ。
もともと車に詳しく、地元の修理工場にも出入りして、メカニックとしても腕の良かったジュニアは、自ら改造を施したポンコツのピックアップ・トラックで、「デモリション・ダービー」にエントリーする。


デモリション・ダービーとは、広場に数十台の車を集め、ひたすらぶつけ合って、最後まで動いてる車が優勝という、「車のバトルロワイヤル」のようなもの。

ジュニアは車に仕込んだ鉄骨を、フロントからスライドさせて、目の前の車の車体に突き刺すという荒業で、会場を大いに盛り上げるが、興行主は違反だと難癖をつけ、賞金からさっ引いた。
ジュニアは、こんなケチなレースはしてらんないと、ストックカー・レースへの出場を目指す。

中古のレースカーを3000ドルで譲り受けたジュニアは、自分でエンジンを組み立て、レース出場の条件を満たした。
ゴールを競うレースカーは、ほとんどがスポンサーのついたメーカー製の車体で、レーサーは雇われてハンドルを握ってた。ジュニアは
「そんな奴らはヒモみたいなもんだ」
と軽蔑を露にする。


ストックカー・レースのオフィスで、秘書として働くマージと、ジュニアは出会う。
エントリーを取り計らってくれたのだ。
田舎育ちの純朴なジュニアに、マージの色気は強力に作用した。

遠征先のホテルの部屋を格安に取ってくれたマージに、ジュニアはお礼の花束を贈り、ふたりは急速に親しくなった。
自分のやり方でレースを貫こうとするジュニアに、マージは
「野心を持つのはいいけど、のぼせると袋叩きにあうわよ」
とアドバイスする。

ジュニアはマージとは真剣な間柄だと思いこんでたが、彼女はジュニアとベッドを共にした後、ナンバー1レーサーのキングマンを部屋に呼び入れていた。
マージはレーサーのグルーピーのような存在だった。
彼女はいままで、ジュニアのような若者を何人も見てきたのだろう。


ジュニアは恋の挫折だけでなく、レースでも挫折を味わった。
恐れを知らぬ走りぶりは観客を熱狂させ、その名は少しづつ知られるようにはなったが、レースカーの維持や、エンジンの交換など、経費はかさむ一方だ。
レーサーとしての腕は確かだが、自前のマシンの性能には限界があった。

以前からジュニアの走りに目をつけて、声をかけてきたコルト自動車の社長のもとをジュニアは訪れた。それまでは、「いいなりのレーサーなどにはならない」と申し出を突っぱねていたのだ。

ジュニアはメーカー製のレースカーで、自分の腕前を証明したかった。
頭は下げたが、取り分などの条件では引かなかった。
「コンコード500マイルレース」の大舞台で、ジュニアはキングマンを倒すべく、アクセルを踏んだ。


ジェフ・ブリッジスはこの映画で、「俺の星座はフォードだ」というセリフを吐いてるが、1988年に主演した『タッカー』では、そのフォード社など、大手の自動車メーカーからの妨害にもめげず、自前で理想の車作りを追求した、自動車会社社長を演じることになる。

このブログでトニー・スコットの追悼として『デイズ・オブ・サンダー』を取り上げたんだが、あの映画のストックカー・レーサーのトム・クルーズは、ほとんど内面が描かれなかった。
トム・クルーズ自身が、役の内面を演じようとしない役者だからで、あの映画では単純にレースの迫力を堪能するのみだった。
ジェフ・ブリッジスは、若い時分から、役の内面を感じさせる微妙なニュアンスを表現できる人だった。なのでこの映画は、レース場面も見応えはあるが、やはり「レーサー」を描いたものになっている。

ドライバーとしてもメカニックとしても、絶対の自信を持ってる若者が、「実」を得るためには、自分のやり方を曲げなければならない。
その局面に立たされた苛立ちや、諦めの気分と、反骨心が、鍋の中でグラグラと煮立ってる。

『ふたりだけの微笑』にも出てきたが、メッセージをテープに吹き込める「電話ボックス」のようなスペースで、ジュニアが家族に向けて、思いを吐露する場面がある。
その時のジェフ・ブリッジスの表情がいいのだ。
しかも全部吹き込んで、持ち出したテープを結局ゴミ箱に捨ててしまう。
こういう演技ができるから、この映画は青春映画としても機能してるのだ。


この映画はトム・ウルフが「エスクワイア」誌に寄稿した、ジュニア・ジョンソンに関する記事を元に、伝記ではあるが、細部はフィクションの色づけがなされてる。
トム・ウルフはこの10年後に、『ライトスタッフ』の原作者として、脚光を浴びることになる。

監督のラモント・ジョンソンは、1974年のマーティン・シーン主演のTVムービー『兵士スロビクの銃殺』や、1977年の、ロビー・ベンソンが高校のバスケ選手を演じた『ワン・オン・ワン』など、青春映画に手腕を発揮する一方で、性的被害を扱った1976年の『リップスティック』のような問題作も手がけている。

この監督の映画で見たいものが1本あって、
1981年の日本未公開作『キャトル・アニーとリトル・ブリッチェス(原題)』という西部劇だ。

キャトルアニー&リトルブリッジェス.jpg

ミズーリやオクラホマを荒らし回った、実在の強盗団「ドーリン・ダルトン・ギャング」の一味に飛び込んできた、二人の少女の向こう見ずな青春を描いた内容ということ。

当時16才のダイアン・レインがリトル・ブリッチェスに、アマンダ・プラマーがキャトル・アニーを演じてて、ギャングのドーリンにはバート・ランカスター、ダルトンにはスコット・グレンという豪華キャストなのだ。ロッド・スタイガーやジョン・サヴェージも出てる。

アメリカ本国では公開当時、少女版『明日に向って撃て!』と呼ばれてたそうだが、日本公開は見合わされてしまった。西部劇が流行らないということだったんだろう。
テレビで放映されてるかも知れないが、俺は録画してない。

2012年9月18日

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『龍馬伝』とつながる『るろうに剣心』 [映画ラ行]

『るろうに剣心』

るろうに剣心.jpg

これも原作のマンガとかアニメはまったく見たことがなく、ふつうならスルーしてるとこなんだが、監督が大友啓史であるという点に惹かれて見に行くことにした。

大友啓史はNHKのドラマの「ルック」を変えた演出家で、この『るろうに剣心』は、『ハゲタカ』の劇場版に続く、映画第2作となる。NHKも辞めたそうだ。

彼の演出したNHKのドラマで、俺が最初に印象に残ってるのは、2000年に放映されたドラマ・ミニシリーズの『深く潜れ~八犬伝2001~』だった。

深く潜れ.jpg

軍艦島にロケをした、ちょっとスピリチュアルな要素のある、不思議なテイストのドラマで、主役のボーイッシュな鈴木亜美に、
「あなたと私はソウルメイトなのよ」
と一方的に近づいてくる小西真奈美との間柄に「ビアン」な空気を、俺のアンテナが察知。毎回見逃せなくなったのだ。

その翌年には朝の連ドラ『ちゅらさん』を演出してる。
これも国仲涼子のあまりの可愛さと、古アパートの舞台設定に、これは平成版『めぞん一刻』だなあと、勝手に思い込んでハマってた。

そして2007年のドラマ『ハゲタカ』となる。
映像からして従来のNHKドラマと違った。色も彩度も落とした画面に、敵意や猜疑心を剥き出しにした男たちの顔が、ずらりと居並ぶ。

このドラマを見て思い起こしたのは、マイケル・マン監督の1999年作
『インサイダー』だ。
あの映画で流れるリサ・ジェラルドによる、女性の独唱をフィーチャーしたメインテーマも、『ハゲタカ』で音楽を担当した佐藤直紀にヒントを与えたんではないか?
とにかく全体の印象が、『インサイダー』のタッチを踏襲してるように、俺には思えた。

その大友啓史が大河ドラマを手がけるというんで、『龍馬伝』には見る前から期待してたのだ。
『龍馬伝』は何部かに分かれた構成だったと思うが、俺は前半のエピソードが良かったと思う。
この『るろうに剣心』には、『龍馬伝』で重要な登場人物を演じた役者が、やはり大きな役で出てる。

岡田以蔵を演じた佐藤健、
その以蔵を拷問にかけた後藤象二郎を演じた青木崇高、
岩崎弥太郎を演じた香川照之。
この3人が『るろうに剣心』で演じた役には、それぞれ『龍馬伝』との繋がりを感じさせる部分がある。

この映画で佐藤健が演じる「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心は、「人斬り以蔵」と怖れられた岡田以蔵の、魂の変遷そのままのキャラ設定だ。

青木崇高演じる相楽左之助は、最初は剣心に挑みかかるが、ほどなくその剣の腕と人間性に惚れ込み、剣心のよき「同士」となる。
これは土佐の侍で龍馬を目の敵にしてた後藤象二郎が、のちに身分へのこだわりを捨て、龍馬と共闘するに至る流れを、思い起こさせる。

香川照之演じるのは、アヘン密売で莫大な富を得て、それを元手に西洋の銃火器を買い集め、倒幕後の混沌とした日本を支配しようと目論む実業家・武田観柳。
『龍馬伝』の岩崎弥太郎が「悪」のフォースに堕ちたような人物像だ。

武井咲が演じるのは、剣心と偶然出会うことになる、剣法道場の師範代・神谷薫。
亡き父の「神谷活心流」を受け継いで、道場を守っている。

この神谷薫のキャラ設定と、剣心との関わりというのは、『龍馬伝』で貫地谷しほりが演じた、千葉佐那を連想させる。
佐那は「北辰一刀流」道場師範の千葉定吉の娘で、江戸に出た龍馬が、道場に通い出会った。
剣の腕も上がり、その人望も見込まれ、師範は娘の婿にとの気持ちもあった。
だが日本を変えるとの大志のため、龍馬は道場を去ることに。

佐那は娘ながら剣一筋に育てられ、龍馬への想いも口には出せない。
龍馬が旅立つ日に、佐那と最後に竹刀を交わす場面は、『龍馬伝』前半でも特に胸に迫る名場面となってた。

そんな具合で、『るろうに剣心』自体への基礎知識はないものの、『龍馬伝』からトレースされたような要素が多分に含まれてるので、あの大河ドラマを見てた人なら、楽しみを見出せるだろう。


『るろうに剣心』は、坂本龍馬が京都の近江屋で、新撰組の刺客に暗殺された、1867年(慶応3年)11月15日から3ヶ月後の時代設定で幕を開ける。

新政府軍が倒幕を成し得た日、京都鳥羽伏見の山中で、新撰組と刃を交えていた、倒幕側最強の刺客
「人斬り抜刀斎」は、その報を耳にして、自らの剣を大地に突き刺して、姿を消した。
抜刀斎を追い続けていた新撰組の斉藤一は、刃を交える機会を失った。

それから10年。人斬り抜刀斎は緋村剣心と名を変えて、日本各地を流浪していた。
倒幕派のリーダーから「新しい時代のため」と人斬りを命ぜられるまま、多くの人を殺めてきた。
もう人は斬らない。
「不殺(ころさず)の誓い」を自らに立てた剣心は、刀をさしてはいたが、その刃は峰と逆についた
「逆刃刀(さかばっとう)」と呼ばれるものだった。


東京に出てきた剣心は、人相書きに昔の自分の名「人斬り抜刀斎」と記されているのを見て驚く。
容疑をかけられることなどしていない。

ニセの抜刀斎を名乗り、辻斬りを繰り返し、都を震え上がらせていたのは、鵜堂刃衛という剣の使い手で、実業家・武田観柳の護衛の一人だった。
観柳は、桁違いの常習性を伴う黒いアヘンの塊を製造させ、市民たちの間に蔓延させ、支配しようと企てていた。

そのアヘンを製造した高荷惠は、薬剤師の父から薬の調合の知識を受け継ぎ、武田観柳は美貌の惠を、その知識とともに、手元に置こうとしていた。
だが罪悪感に駆られた惠は、観柳のもとを逃げ出し、警察署へ。

その居所を察知した鵜堂刃衛が、警察署に乱入し、居並ぶ警官たちを一人残らず斬り殺していく。
惠はその修羅場に紛れて逃げおおせた。

血に飢えた刃衛は、外に逃げた警官も追って斬り捨てる。
その場を目撃したのが神谷薫だった。
人相書きの抜刀斎は、彼女が師範代を務める「神谷活心流」を語って、人を斬り殺していた。
刃衛を抜刀斎と思い込んだ薫は、竹刀で行く手を塞ぐ。
だがとても歯の立つような相手じゃない。

刃衛に留めを刺されようとする、その時、剣心が割って入った。
警官たちの声に、刃衛はその場を立ち去った。


頬に十字の傷を持つ若者は「ただの流浪人でござるよ」と言い、
薫はお礼にと、剣心を自らの道場に招いた。

だがそこには先客があった。刃衛の追跡を逃れてきた高荷惠だった。
高荷惠を演じるのは、蒼井優。きつね顔のメイクが施されていて、最初は彼女とわからない。
椎名林檎みたいに見える。
惠は意外と小悪魔系で、薫がそれとなく剣心を意識してるのを見抜いて、わざと剣心の気を引こうとしたりする。
妙な三角関係の空気が漂う。


武田観柳はアヘンを、日本のみならず、海外にも船でばら撒こうという野望のもと、海に近い一帯の家屋を軒並み買収して、巨大な港を作ろうとする。

薫は師範代として、「神谷活心流」道場の立ち退きには応じず、観柳は荒くれ者たちに道場を破壊させようとした。薫は竹刀で抵抗するが多勢に無勢。
その時立ち寄った剣心は、瞬く間に男たちを倒してしまった。
もちろん刀は使わず、竹刀や格闘術で。
薫はそのあまりの強さに、彼が抜刀斎なのでは?と思い始めていた。


ここから、物語は剣心が、武田観柳とその一味との戦いを余儀なくされるという展開になっていく。
アクション監督・谷垣健治による、スピーディな殺陣の迫力は、日本映画としては特筆すべきもので、今までこのレベルを目指して達成できた映画はない。

時代劇伝統のチャンバラではない、剣によるアクションを標榜した映画は過去にある。
『ジパング』や『五条霊戦記』や『あずみ』など。だがやはり殺陣そのものが「遅い」のだ。
香港の武侠映画に見劣りしてしまう。

この映画の佐藤健や、鵜堂刃衛を圧倒的な不気味さで演じ切った吉川晃司の殺陣は、日本刀の本来の斬り合いではない。
だが「型」を超えた刀の振い合いの迫力に満ちている。

観柳の邸内を縦横に使っての、剣心と、綾野剛演じる刺客・外印の斬り合いも、よくこの速さで動けてるなと、二人の役者の身体能力に感嘆する。
併行して描かれるのが、剣心を助太刀した相楽左之助が、須藤元気と肉弾戦に及ぶ場面。
プロの格闘家とタイマンを張る青木崇高も活きがいい。
観柳がガドリング銃を撃ちまくる場面に至るまで、手を変え品を変えのアクション場面が、贅沢に盛り込まれてる印象だ。

佐藤健は殺陣をはじめ、とにかくこのキャラを成立させるために健闘してると思う。
シリーズ化されるのだろうから、さらに役を着こなせていくだろう。


この映画は登場人物が多い分、エピソードの一つ一つが深みに欠ける。
剣心がどういう葛藤を経て、「不殺(ころさず)の誓い」を立てるに至ったか、回想場面で描写されるが、あの程度では弱い。
斬るべき相手にも家族がいるということを、死体にすがる恋人の姿を見て気づくというのはね。

そんなことは踏まえた上で、大儀のために殺しを行ってたんじゃないのか?
でなければ、剣心という人間には想像力が欠けてるということになる。

そのあたりの内面が漠然としていて、佐藤健はもの静かな若者を表現するに留まってる。
これは演出の「言葉足らず」ということでもあるんだろうが。

もう少しセリフというか、声に引き付ける力がほしい。
武井咲もああいう声だし、中心の二人の声が、周りの役者の声の強さに気押されてる感じがあった。

「人斬りが斬らずして、どうやって人を守れる?」
という、斉藤一のセリフも、江口洋介の声が強いので、剣心のキャラが相対的に弱くなる。
まあこういう部分は場数の差だから、若い役者には酷だとは思うが。

演技陣の中で、俺としては唯一「これはどうかな?」と思ったのが香川照之だ。
武田観柳という悪玉のキャラ作りが「やりすぎ」てる。
一筋縄でいかない冷酷さを滲ませようとしてるんだろうが、芝居がかったセリフ回しが、逆に小物感を漂わせてしまってる。
吉川晃司や須藤元気を手下にできてるのが不思議に思うほどだ。

たぶん俺だけじゃなく、この映画を見た人は、香川照之の出てる場面は、あまり面白くないと感じてるんじゃないか?演技の計算ミスだと思うよ。

2012年9月11日

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リーガル・サスペンス久々の快作 [映画ラ行]

『リンカーン弁護士』

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これは面白かった。年に3本か4本でも、こういう大人のための娯楽映画が入ってくると嬉しい。
『サハラ 死の砂漠を脱出せよ』では、チャラいダーク・ピットを演じてしまい、原作者クライヴ・カスラーから顰蹙を買ったマシュー・マコノヒーが、今回はマイクル・コナリーの全米ベストセラー小説の主人公に挑戦。
旧式のリンカーン・コンチネンタルの後部座席を事務所代わりにする、清濁併せ持つ辣腕弁護士ミック・ハラーを演じてる。

全編出ずっぱりといってよく、「俺はこの役をモノにする」という気合が漲ってるのがいい。


明らかに「クロ」という依頼人たちの弁護を進んで引き受け、罪を認めさせた上で、司法取引に持ち込み、刑期を軽くするというのが、ミックの常套だった。
そのため、法曹界や警察からは、悪党を野放しにしてると反感を持たれてもいる。

ミックは馴染みの保釈金立替業者ヴァルから、儲けになりそうな訴訟の件を耳打ちされる。
年収60万ドルの資産家で、31才の独身男ルイスが、拘留されてるという。容疑はバーで知り合った26才の女性レジーナの顔面を激しく殴打したもの。
逮捕歴はないので、保釈手続きをし、ルイス側から、この裁判の弁護を正式に依頼される。

原告のレジーナは、自分が金持ちということを知った上で、罠にはめ、賠償金をせしめようとしてると、ルイスは言った。
ルイス側は、ミックが提示した高額な弁護報酬も、二つ返事で受け入れた。

ミックは原告の言い分を切り崩す証拠集めに取り掛かるが、親友で私立探偵のフランクが、独自のルートで入手した警察の捜査資料では、レジーナがルイスにいきなり暴力を振るわれたとする、生々しい証言が記載されていた。

ルイスは「やってもいない罪を認めるなどあり得ない」と司法取引を拒否。
だがミックには、ルイスの話は鵜呑みにはできないとの、なにか信用の置けない感触があった。
そして担当検事ミントンも、ルイスの容疑を裏付ける重要な証拠を握ってるらしかった。

形勢が不利に傾く中、ミックは被害者レジーナの、暴行直後の顔写真を眺め直して気づいた。
顔の右半分が集中して殴打されている。
4年前に自分が容疑者の弁護を引き受けたケースと酷似してた。
その容疑者は一貫して無罪を主張してたが、状況証拠から有罪は免れないとして、司法取引を呑ませ、終身刑で服役中だった。
同一犯とすれば当然4年前の依頼人は「シロ」だ。自分は無実の人間を服役させたことになる。

さらに、そのことは恐ろしい事実をミックに予感させた。
弁護士は依頼人の不利となるような証言も証拠も提出できない。
「秘匿特権」に触れるからだ。勿論警察に突き出すこともできない。
ミックは周到に仕組まれた筋書きに、まんまと乗せられたことを悟った。


弁護士と依頼人が対立構造となる展開は、過去にもない訳ではない。
1989年の『クリミナル・ロウ』では、自信家の若い弁護士をゲイリー・オールドマンが演じていた。

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彼は「クロ」である暴行殺人犯で、良家の子息でもあるケヴィン・ベーコンの無罪を勝ち取るが、被告が釈放されると、再び同じ手口の殺人が起こる。
ケヴィン・ベーコンは、自分が犯人であることを仄めかした上で、再逮捕に備えて、またゲイリーに弁護を依頼してくるというものだった。
『リンカーン弁護士』に比べると、法廷サスペンスの要素より、サイコスリラーの色合いが強かった。


この『リンカーン弁護士』は、これ見よがしなアクション場面とか、目を引くための暴力描写とか、そういったものは一切ない。
監督は「元のホンが面白いんだから、余計なことはせず、分かり易く筋を追ってけばいい」という姿勢で臨んでるようだ。

ルイスを演じるライアン・フィリップ、離婚したものの、良好な関係は保っている元妻で検察官マギーを演じるマリサ・トメイ、そして珍しくロン毛で登場する、私立探偵いフランク演じるウィリアム・H・メイシーなど、キャストも充実してる。

それにつけても、とにかくマシュー・マコノヒーが、久々に真価を発揮してると思える快演で、全米興行は大成功とはいかなかったようだが、一応続編の話も出てるらしいし、これは俺としてもシリーズ化してもらいたいと思う。
ウチの最寄のシネコンでも、客の入りはよかったよ。

2012年7月17日

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爆音で見た『ラスト・ワルツ』と『未知との遭遇』 [映画ラ行]

『ラスト・ワルツ』

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ライヴ用の音響システム組んで映画を見ようという企画「爆音映画祭2012」を開催してる、「吉祥寺バウスシアター」に、雨のそぼ降る中、足を向けた。
『ラスト・ワルツ』はほぼキャパの220席が埋まってたんじゃないか?

『ラスト・ワルツ』は過去に何度かスクリーンで見てはいる。
日本公開時の1978年には、俺は試写会で見て、それまでザ・バンドを聴いたことがなかったんで、「こんなカッコいいバンドがいたのか!」と、LP買い漁った。

公開初日の「みゆき座」に、ロビー・ロバートソンが舞台挨拶に現れ、ギターで1曲披露したと知り、
「駆けつけときゃよかった」と後悔したよ。
その後もスクリーンでかかる機会があると見に行った。

ハイライトは2002年の「東京国際映画祭」での特別上映だろう。
「シアターコクーン」の壇上にロビー・ロバートソンが登場した時はテンション上がったなあ。
5.1chデジタルリマスター版のDVD発売に合わせた上映だったと記憶してるが、音響もかなり鳴らしてくれてて最高だった。
そうかあれからもう10年経っちゃったか。

今回上映に使ったフィルムは、初公開時の物か、リバイバル時に焼いた物か、わからないけど、音の「抜け」や輪郭のクリアさでは、「シアターコクーン」上映時の方が良かった。

今回の音は「アナログ」でガンガン鳴らしてる感じだった。学生時代に「フィルム・コンサート」ってのが、時々催されてて、見に行ってたんだが、その時のデカい音の印象に近い。
音楽が終わると耳が「シーン」って鳴ってるあの感じだ。


今年レヴォン・ヘルムが逝ってしまったことで、この映画に映される5人のバンドメンバーで、あと二人しか残ってない。
ゲストで出てくるアーティストを見ても、このコンサートの数年後に世を去ったポール・バターフィールドと、すでに高齢だったマディ・ウォーターズを除いて、すべてがまだ存命してることを考えると、ザ・バンドから3人もが「欠けて」しまってるのは只事ではない。

見るたんびに追悼の気分が高まってしまうのはやり切れない。

『シェイプ・アイム・イン』を唄い出す前の、リチャード・マニュエルの瞳がとても奇麗で悲しくなるし、『同じことさ』のリック・ダンコの熱唱には胸が熱くなる。

それに今だからというわけじゃなく、俺が昔から『ラスト・ワルツ』のベストショットだと思ってるのは、『オフィーリア』を唄うレヴォン・ヘルムを、ドラムの背中越しから捉えてるとこ。
そのままアルバムのジャケに使えそうなほど絵になる。

もちろんジョニ・ミッチェルのカッコよさや、ヴァン・モリソンの短足地面蹴りは、何度見ても色褪せないね。



『未知との遭遇』(特別編)

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スクリーンで見るのが随分と久しぶりだったんで、楽しみにしてた。

だがチケット窓口で「フィルムの状態がよくないですが、よろしいですか?」
と言われ、支配人からも、上映前に「初公開時のプリントを使用してるんで、退色やコマ飛びなど状態はよくないのでご了承を」
と、かなり念入りに予防線張ってこられたんで、覚悟して見ることに。

それにしても状態の悪いフィルムだったね。
退色が進んで赤茶けた画面になってる。終盤はフィルム傷バリバリに出てるし、こんだけ事前に謝るんなら、料金割引にでもすればいいんだよ。
「シアターN渋谷」で新藤兼人監督の『鉄輪』を見て以来の退色フィルムだった。

音もデジタルリマスターとかではなく、とにかく昔のフィルムのサウンドトラック部分をそのままボリューム上げてるだけだから、中盤あたりのジョン・ウィリアムスのスリリングな劇伴も、音がベタッとつぶれてしまってる。
音量自体も「爆音」って感じでもない。デジタルIMAXの方がよっぽどデカいよ音は。


スピルバーグ作品の中において、『未知との遭遇』は地味な扱いになってる。
公開当時は、同年の『スター・ウォーズ』と張り合う話題作だったし、実際大ヒットした。
なぜ地味になったのかというと、スクリーンでかからなくなったからだ。

この映画をテレビ画面でちんまりと見ても、その醍醐味は味わえるはずもない。
ビデオ時代となって、初めて見たという世代にはインパクト薄いだろう。
テレビで見るようには作られてないのだ。

UFOに初めて遭遇する夜の場面の、ドキドキする感覚。
それは画面の大部分に夜の空間が広がっていて、まばゆい光を放って飛ぶUFOの航跡が、画面の奥の方にまで視認できる、そういう絵作りをしてるからで、その闇に包まれてる感覚が、テレビでは生まれ得ない。
スピルバーグは明かりを落とした映画館の館内自体を、「夜の空間」に見立てて演出してるのだ。

それをまた味わいたくて、今回の上映に駆けつけたんだが、フィルムが退色してて、夜の闇までが赤茶けてしまってるんで、まったく気分が出ない。

『未知との遭遇』に関しては「爆音」上映する意味がなかったと思うよ。

2012年7月2日

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悪ロボットはパンチパーマ [映画ラ行]

『ロボット 完全版』

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まず映画の冒頭に、題名よりなにより先に「主演スーパースター、ラジニカーント」!とドドーンと出る。内容がどうとか関係ない。ジャンルは「ラジニ映画」なのだ。
これは最もブイブイ言わしてた時のアル・パチーノの状態と同じだ。
『クルージング』とか『スカーフェイス』とか、あのあたりの本国版のポスターは、タイトルより「PACINO」の文字がデカく表示されてたのだ。
一瞬「パチーノ」って題名の映画かと思ったよ。
今日びその位のスターはインド映画にしかいないのかも。

そして画面に登場するラジニカーント61才、もう思いっきり「ヅラ」である。
だがニコラス・ケイジのようにつけるにも、多少控えめな分量にするなんてことはない。
こんもりとボリュームたっぷりの「ヅラ」である。
きっとそんなことを気にするインド人もいないのだろう。
ラジニカーントは「ヅラ」も含めてのスーパースターなのだ。

昨年の東京国際映画祭ではチケットがとれず、一般公開となった際には、139分の「短縮版」になってた。
本来177分あるから、40分近く切られたわけだ。俺はなんかモタモタしてたら、そのうち177分の「完全版」もやりますという事になって、まあ「果報は寝て待て」というか「残りものには福がある」というか、ようやく見に行ってきたのだ。
わざわざ尺を縮めたのは、この映画をシネコンでも上映するために、妥協を図ったということもあるだろう。
シネコン側が、日に何度もかけられない上映時間に難色を示したと考えられる。


俺は「短縮版」を見てないからどこを切られたのかと、ネットで調べてみると、けっこうメインのミュージカル・シーンが2つ含まれてる。
いやたしかに映画のストーリーの流れには何も関係ないとはいえ、これ切っちゃうか。
配給会社もどこかに自責の念があると見えて、パンフにはその「未公開ミュージカルシーン」を見開きカラーで載せてるよ。

映画の最初の方に出てくるラジニカーントと、アイシュワリヤーが砂漠をバックに唄い踊るのは、ブラジルの「レンソイス・マラニャンセス国立公園」でのロケという。
砂漠と緑の湖の織り成すコントラストが美しい場所だが、なんだろうな「ジュワイヨクチュール・マキ」的なセンスで撮られてるというのか、なつかしのMTVを見てる感じ。

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そして後半の見せ場のひとつでもあるのが、「なぜそこにいる?」という、世界遺産「マチュピチュ」遺跡での、アルパカをバックに従えた大群舞のミュージカルシーン。
ここは民族衣装を大胆にアレンジした、アイシュワリヤーのダンスに目を奪われること必至。

日本人はともかく、インド人がこういうミュージカルシーンをカットされてると聞いたら激怒するだろうな。よく西葛西あたりで暴動が起きなかったなと思うよ。
インド映画といったら、一も二もなく、まずは「ミュージカルシーン」なのであって、それをカットして上映するってことは、例えばドニー・イェンの映画から、ドニーの格闘シーンをカットするようなもんだろ。


「完全版」という呼称は、もともと製作者側が短い尺で公開してたものを、後になって監督なのど意向を汲み、全長版として改めて世に出す時に使われるものだ。
今回の「完全版」上映は、何か有難い措置みたいに表現されてるが、これはそもそも「通常版」だろ?
最初の一般公開の139分版を、むしろ『ロボット 欠損版』と銘打つべきものだったと思うぞ。
逆に「何で残したのか?」と思うような場面もある。

ラジニカーント演じるバシー博士によって作りあげられた、二足歩行ロボット「チッティ」が、アイシュワリヤーが演じる、バジー博士の婚約相手サナから、頬っぺたにキスを受け、人間の感情が芽生えてしまうというストーリーだが、チッティはもう一度キスしてもらいたくて、夜中に彼女の寝室へ忍び込むが、彼女の頬っぺたで血を吸う蚊を発見。
目を覚ましたサナに、その蚊を捕らえてくれたら、もう一度キスしてもいいと言われ、追っかけてく。
ものすごく視力がいいんで、蚊を外まで追いかけて、ドブの蚊だまりまでやってくる。
すると唐突に蚊と何か言い合いとなってる。
「彼女の血を吸った蚊を差し出せ!」
「なんだこいつ、全員で襲いかかってやるか?」
だがロボットが只者じゃないと蚊も思ったのか
「今日のところは一旦引き上げよう」と。

いやこのほとんど本筋に関係ない、CGの蚊を見せたかっただけの場面も、後の伏線になってるのかと思いきや、その後、蚊出てこないよ!じゃ要らないじゃんかという話だ。

しかし見ていて、ペース配分というのか、インド映画は長尺が当たり前なんで、その振り分け方を心得てる感じはした。
始まって20分くらいは、ロボット製作に関わる小芝居が続いて、大した見せ場があるわけじゃない。
その内、ミュージカルシーンがポロポロ入りだし、映画そのものの馬力も上がってくような作りだ。

これは俺の勝手な想像なんだが、インドって暑いでしょ?
だから映画館に来た観客は、入ってしばらくは、涼を取るというのか、冷房きいた映画館で、気持ちをゆったりさせる、メンタル的にはそういう方向にシフトしてると思うんだよね。
のっけからド派手な見せ場や、ミュージカルシーンを持ってこられても、まだ体が慣れてないよということじゃないかな。
だから映画もローで発進して、少しづつギアを上げてく。
最初の本格的なミュージカルシーンはそのきっかけになるんだろう。
見せ場の演出とともに、ストーリー自体もどんどん展開が早くなってくる。


この映画でいうと、バジー博士がチッティにいろいろ学習させるのがスタート。
バジー博士はこのチッティを、「ロボット兵士」に使ってもらおうと考えてる。
「戦争になっても味方の兵士を死なせずにすみます」
相手はパキスタンなんだろうな。

だが立ちはだかるのが、ロボット工学では恩師となるボラ教授。自分も作ってるんだが、うまく動かずに、弟子だったバジー博士に嫉妬を燃やしてる。そのボラ教授は、AIRD(人工知能開発局)で、ロボットに量産化の認可を与えるか否かの立場にあり、チッティの欠陥を指摘する。
「学習能力は高くても、善悪の判断が出来てない」と。
このボラ教授は、俺には伊集院静にしか見えないんで、心の中では「伊集院教授」と呼んで見てた。

バジー博士は欠点を克服すべく、チッティに人間の複雑な感情を学習させ、神経回路を改良する。
上に書いたサナにキスされて、チッティがときめいてしまうのは、そういう前提があるから。
でもって人間的な感情が芽生えたチッティは、バジー博士による軍事用のデモンストレーションの場で、勝手に平和を語り出してしまい、軍との契約はご破算に。


がっくりきた帰り道で、大規模なアパート火災に遭遇。
チッティは全身磁石モードにし、アパート高層階の鉄製の手すりに照準合わせ、ジャンプする。
手すりから手すりに飛び移り、何人もの逃げ遅れた住人を救い出す。
その様子が丁度取材に来てたカメラに映される。バジー博士は、チッティが人の役に立つと証明されたので、AIRDも量産を認めざるをえないだろうと、ほくそえんだ。

だがチッティが最後に風呂場から助け出した少女は、裸のままカメラに囲まれ、恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出すと、通りに出たところでトラックにはねられて即死。
その一部始終もテレビで中継され、チッティの命運は尽きた。

この場面はチッティに抱えられて救出された少女の体にモザイクが入ってた。
裸には見えるがボディスーツは着用してるだろう。にしてもインド映画でモザイクは初めて見たよ。

おまけに自我が芽生えたことで、バジー博士を恋敵と見なし、命令にも背くようになる。
バジー博士は激怒し、チッティの四肢を斧で叩き落し、産廃として埋め立て地へ送る。
そのことを知ったボラ教授は、埋め立て地でチッティを回収。組み立て直し、その胸部に、戦闘用プログラムのチップを埋め込んだ。
かくして「悪(ワル)チッティ」が誕生し、バジー博士とサナの前に立ちはだかるのだった。


このワルチッティになると人相が変わり、蝶野のようにも見えるし、ジョン・ベルーシのようにも見える。頭がパンチパーマになってるんで、インドでもパンチはその筋の方を連想されるのか?
しかしパンチパーマのインド人てあんま見たことないけどな。

それと元々肌は浅黒いんだが、それが一段と濃くなってる。ワルチッティが唄い踊るミュージカルシーンは、ダンスもヒップホップ系だ。
どうもインド人の共通認識としては、黒人ラッパー=悪い人てことらしい。

ワルチッティになってから、映画としては俄然スケールがデカくなってくんだが、クライマックスあたりの見せ場は、俺には所詮は「CGで遊んでるんでしょ」という感じで、騒ぎたてるようなもんでもないと思う。
三池監督の『ヤッターマン』なんかのCGの使い方と似た感じ。

61才のラジニカーントは一応バジー博士とチッティの二役ってことになってるが、ロボットの時にはデカいグラサンつけてるし、CG絡みのスタントシーンが多いし、正直中身がラジニカーントでなくてもいけちゃう感じだけどな。

2012年6月19日

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カウリスマキのとことんイイ話 [映画ラ行]

『ル・アーヴルの靴みがき』

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カウリスマキ監督の映画はすべて見てるわけではない。
近作の『街のあかり』も『過去のない男』も見逃したままだ。
スクリーンで見る機会を逃がすと、DVDとかで見とこうという気持ちにならないタイプの映画なのだ、彼の映画は。やっぱり見るからにはスクリーンで見たい。

それと完全に自分のタッチが固まってる監督だから、
「俺は今回見逃しちゃったが、いつもと変わらずにやってくれてるのだろう」と、
「便りがないのは元気な証拠」みたいな親気分に落ち着いてしまう所もある。

だがこの『ル・アーヴルの靴みがき』を見て、画作りとか、役者の演技とかは、いつものカウリスマキと思うものの、ストーリーが随分とポジティヴになってたのは、ちょっと驚いた。
フィンランドを出て、フランスの港町で撮影されてるという、環境が変わったこともあるのか。

なにより以前のカウリスマキの映画は、主人公や、主人公の夫婦なり、カップルなりにフォーカスしていて、彼らの人生の浮き沈みを見つめてたのだが、今回の主人公は赤の他人のために、なにかしようと動き出すのだ。


港町ル・アーブルを地図で見てみると、パリからセーヌ河を下って海に至るその出口にあたる。
主人公の、見た目60は過ぎてるマルセルは、若い頃は芸術家を気取って、パリで自由気ままに暮らしてたが、今はイギリス海峡を望む港町ル・アーブルで、しがない靴みがきの身だ。

今日び革靴を履く人間も少なく、高級靴店の店先で客を待つと、店主から「このテロリスト!」などと、訳のわからない暴言を吐かれ、追い払われる。
これで生計立てられるのかと思うが、マルセルには「弟子」もいるのだ。ベトナム人の若者で、8年かけて身分証を手に入れた。だがそれは中国人のもので、だから彼はチャンと名乗ってる。

靴みがきの仕事は夜の方が実入りがいいので、それまでは地元のカフェでやり過ごす。女主人のクレールをはじめ、客はみな顔なじみだ。
甲斐性があるとはいえないマルセルだが、口数は少ないが情の深い妻のアルレッティが、愛犬のライカとともに、帰りを待ってる。ふたりには子供はいなかった。
晴れがましいことなど何も起きないが、それなりに幸せを感じて生活してたマルセルだが、妻のアルレッティが、腹痛を訴え、入院してしまう。

アルレッティは医者から「治る見込みのないガン」と宣告される。
医者は家族に伝える義務があると言ったが、アルレッティは、夫には辛すぎると、医者に懇願する。
本当のことは言わないでと。


港が騒がしくなってた。アフリカからの不法移民が隠れたコンテナが陸揚げされたのだ。コンテナはイギリスの港に着くはずだったが、手違いが生じたようだ。
コンテナを開けた時、少年がひとり逃げ出した。
警官が銃を構えて追おうとするが、モネ警視は「子供だぞ」と制止した。

マルセルはサンドウィッチを買って、港の埠頭で食べようと、ふと海面に目を落とすと、黒人の少年が水に浸かって潜んでいた。フランス語が話せた。
「ロンドンはどこ?」
「海の向こうだよ」
「腹へってるか?」
少年が頷くと、マルセルはサンドウィッチを階段に置いて立ち去った。

仕事を終えて妻のいない家に戻ると、愛犬のライカが吠えてる。様子を見にいくと、庭先の物置の中に、あの少年が潜んでるではないか。
マルセルはとりあえず、この少年を匿うことにした。
少年はイドリッサという名で、ロンドンにいる母親のもとに行くつもりだった。イドリッサはあの日、コンテナで祖父と離れ離れになった。


マルセルは祖父が送られた難民キャンプを訪ねることにした。自分でもなんでこの少年の助けになろうとしてるのか、だがしなくてはいられなかったのだ。
いつもツケで甘えている、近所のパン屋の女主人イヴェットに事の次第を話すと、彼女は快くイドリッサを預かってくれた。
バスに長い時間揺られて難民キャンプを訪れ、イドリッサの祖父と面会したマルセルは、孫をロンドンの母親のもとに届けると約束を交わす。

そうは言っても、船の密航費は3000ユーロもかかると知る。
弟子のチャンは貯金があるから使えと言ってくれた。結婚資金だという。相手はまだいないのだが。

マルセルが不法移民の少年を匿ってることは、すでにカフェや、近所の住人を知る所となってたが、みんなマルセルの行為に協力した。
だがただ一人それを快く思ってない住人がいて、その通報を得て、モネ警視がマルセルの周辺を嗅ぎ回り始めた。
住民たちのカンパを集めても、とうてい密航費には足りない。マルセルは一計を案じた。
マルセルが少年のために奔走してる頃、妻のアルレッティの容態は日に日に悪くなっていた。

ルアーブルの靴磨き.jpg

この映画とほぼ同じストーリー設定だったのが、一昨年の末に日本で公開されたフランス映画
『君を想って海をゆく』だ。
この映画の舞台ル・アーブルより北に向かい、ベルギーとの国境に近いカレーという港町が舞台となってた。
ドーバー海峡沿いにあり、ここから泳いでイギリスへと渡ろうとしたクルド難民の少年と、彼を手助けすることになる、地元の市民プールのコーチの関わりを描いていた。
このクルド人少年は、ロンドンに移住した恋人に会おうという一心だったのだ。
ストーリー設定は似てるが、内容はフランスの移民政策の現状を反映した、シビアなものだった。
結末もほろ苦い。


対してこのカウリスマキの新作は、「おとぎ話」かと思えるほどの、ポジティヴさと、人の善意をてらいなく描いている。
以前のカウリスマキなら、いい話にするにしても、正面きってやるのは照れくさいという風情があった。
それは世の中浮かれた人間が多いけど、運に見放されたり、事故に見舞われたり、しんどい思いを抱えて生きてる人達もいるんだよという視線でもあった。

だが今、ヨーロッパを見回しても、いや世界を見回しても、浮かれてるどころか、みんなうな垂れてる顔ばかりになってしまった。
カウリスマキは、もう照れてる場合じゃないなと感じたんだろうか。
「こうあってほしい」ということを、正面きって映画で語るのだ、そんな意思表示に思えた。
見終わって「ああ、よかったなあ」と素直に言える。

役者はみんないいけど、妻のアルレッティを演じるカティ・オウティネン。
1986年の『パラダイスの夕暮れ』以来、カウリスマキ映画のヒロインであり続けてるけど、彼女もこの映画の時には50才だ。正直50にしては老けてるなと感じるんだが、逆に『マッチ工場の少女』の時は「少女」と言うものの、すでに彼女は29才だったのだ。実年齢がわからない感じがあるね。
その彼女だが、相変わらず無表情だけど、なんか見てると胸に込み上げてくるものがある。
なんでかな。

少年イドリッサが、マルセルの代わりに病室に妻への届け物を持ってく場面がある。
そこでふたりは初めて顔を会わすのだ。
「あなたは誰?」
「友達です」
「マルセルといつから?」
「2週間前から」
そのやりとりの後に握手をする。いい場面だったなあ。

マルセルの弟子のベトナム人を演じてる役者もよかった。ベトナム人だけど、カウリスマキ映画の住人のように、淋しげ気な目をしてた。

映画の終盤にコンサートの場面が出てくるんだが、ル・アーブル在住で、「伝説」のロックンローラー、リトル・ボブという人。カウリスマキが大ファンらしく、俺は初めて知ったが、ブライアン・セッツァーと雰囲気が似てるかな。

カウリスマキの映画では、乗り物も魅力的に撮られていることが多く、『浮き雲』の市電だったか、あれも色かたちといい美しかったが、この映画でもル・アーブルの街中を走る乗り合いバスがいいんだよなあ。
フロント部分のジュラルミンの板とかたまらない。あんないかしたデザインのバスが走ってるのかフランスは。

そうそう、この映画のパンフだが、少年イドリッサの着てるセーターの柄を模した表紙になっていて、中のカラーの場面スチルも美しく、素敵な仕上がりになってる。

2012年6月4日

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でもお前も傭兵じゃんというケン・ローチ監督作 [映画ラ行]

『ルート・アイリッシュ』

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イラク戦争に傭兵を派遣する、民間の軍事会社の存在は、2009年作『消されたヘッドライン』の中で、事件の背景として取り上げられていた。このケン・ローチの新作は、「企業から雇われて」イラクに派遣された、コントラクターと呼ばれる、民間兵の実態に取材して描かれた物語。
短期間に高額な報酬が支払われるというんで、イギリス人も多く雇われてたようだ。
国の軍隊に帰属してないので、「軍規」に従うこともない。アメリカがイラク議会に対し強引に押し込んだ「指令第17号」というものがあり、コントラクターのイラクでの行動は一切裁かれず、罪に問われることもなかった。

任務の多くは要人警護だったが、イラク民間人への非道な行いも多発してたという。武装した人間が規律もない中でうろうろしてるんだから、現地の住民はたまったものではないだろう。


物語の主人公ファーガスは、兄弟同然に育ったフランキーを、「金になる仕事がある」と民間兵の仕事に誘い、ともにイラクへと派遣される。一足先にファーガスはイギリスへと戻るが、後に残ったフランキーから、携帯の留守電に何度も切迫したメッセージが吹き込まれ、その直後に彼の死が告げられる。
フランキーが死んだとされるのは、イラクでも最も危険とされる「ルート・アイリッシュ」と呼ばれる道路だった。
バグダッド空港から、米軍が管轄する「グリーン・ゾーン」という非戦区域を結ぶ12キロの区間で、テロの標的となることがしばしばだった。

葬式にはファーガスやフランキーを派遣した民間軍事会社の重役も、調査の名目で訪れていた。
重役の「彼は悪い時に、悪い場所にいたとしか言いようがない」との言葉に、ファーガスは激しく反発し、自らフランキーの死の真相を明かすために行動を開始した。

その過程でフランキーの携帯に残された画像と、アラビア文字のメッセージ、さらには文字の翻訳を頼んだイラク人歌手から見せられたパソコンの動画によって、フランキーが、イラクの民間人を射殺する事件に巻き込まれ、行動を共にしていた民間兵が死の真相に係わってるとの疑いを濃くする。


映画は「ルート・アイリッシュ」で起きた事件としながらも、ファーガスが現場に行くことはない。
ファーガスは帰国後に警察沙汰になる騒ぎを起こしており、パスポートを取り上げられてるという設定なのだ。
イギリス国内で事件の真相を突き止めようとする展開はそのまま、戦地へ傭兵を送って、自らはなんら手を汚さずに、戦地での不法行為にも我関せずな態度を取る、民間軍事会社のあくどさを浮き彫りにしてはいる。

だが今回の主人公ファーガスは、自らも傭兵であり、鍵を握る民間兵が、証拠隠滅を図って、イラク人歌手に暴行を加えたりするにつけ、ただちに反撃に出て、その民間兵を拷問にかけたりする。
さらには黒幕に対しても報復を準備する。

「社会の弱者」を主人公に据えてきたケン・ローチ監督にしては、この主人公は「弱者」には見えず、映画もある種の「ベンジェンス物」に感じられるのだ。
娯楽映画としての「ベンジェンス物」なら、それなりに胸のすく結末になるんだろうが、ケン・ローチの映画だから、そうはならない。それだけにどっちつかずな印象が拭えない。


ケン・ローチ監督の映画は全部ではないが、けっこう見てきてはいる。
一番好きなのは『ケス』だ。
その後も一貫して、労働者階級や社会的弱者を主人公に描き続けてきてる監督だが、俺個人としては、カンヌ・パルムドールの『麦の穂を揺らす風』に至るまで、いい映画であることに異論はないが、主人公に芯から共感できたと思えるような映画はない。
それは多分ケン・ローチ監督が「立派な人」だからだろう。常に弱者の側に立とうという信念の人。

だけど何と言うか、視線は寄り添ってはいるんだろうが、
「いやあ、俺もこの人みたいなとこあるからねえ」という感じは受けないんだよな。
「自分はこうではないが、こういう生き方をせざるを得ない人もいる」という視線というのか。
その「芯の強い立派な」感じが、俺の性根とそぐわないんだろう、多分。

今回の主人公の場合は、従来の「弱者」とはちょっと違ってたが、
「でもお前も傭兵じゃん」という、その行動にやはり共感できるものはなく、義憤が空回りしてやしないか?と感じたのだ。


エンディングのテロップが流れ始めた途端に、ザザッと席を立つ人が続出するのを眺めながら考えた。

ミニシアター・ブームが起きた1980年代半ば以降、それこそ色んな国の、いろんな個性を持った映画や、映画監督たちが紹介されてきた。ハリウッド映画の予定調和的な展開に反した、救いのない結末をつける映画も見られるようになった。
ミヒャエル・ハネケやラース・フォン・トリアーなど、意図してバッド・エンディングに持ってく作家が、脚光を浴びるようになり、映画批評の場でも、後味の悪い映画の方が高く評価されがちとなる。
「ハッピーエンドなどない現実を映している」とか
「人間の悪意の本質をつかんで、戦慄させられる」とか。

その批評を受けて「これが映画だ」というような宣伝文句が躍り、見る側に「傑作」を期待させる。
たしかにいい映画もたくさんあるし、俺もバッド・エンディング自体が嫌いではないが、そういう映画を好むのは、俺を含めて映画ばかり見てる人間に多いよな。
昔から映画を見てれば、アメリカ映画に代表される「予定調和」の世界を浴びるほど経験してるから、そこを覆してくる映画は新鮮に見えてしまう。「甘くないのが本物の映画だ」と。

だけどな、ふつうの人たちは映画ばかり見てはいないんだよ。シネコンが日本全国に普及した今でも、日本人の平均をとったら「年2本」も見てないんじゃないか?
そういう極たまに映画を見に行くという人が、宣伝文句につられて、救いのないエンディングを迎える映画を見てしまったら、嫌気も差すだろう。

映画を作る側は、自分の思い通りの物が仕上がったと、すっきりしてるかもしれないが、例えばカップルで映画を見に来れば、その後に食事にだって行くだろうし、つまりは映画を見ることだけで、日常が完結するわけじゃない。映画見終わって、互いに口数も少なくなり、食事も気まずくなる。
そんな思いをしたら、次回からは警戒するよな。

「ミニシアター」衰退に関しては、俺もこのブログを始めた頃に触れたが、「イチゲンの客」が「ミニシアターでかかる映画はデートにはリスキー」と思うようになる、心理的要因も無視できないのではないかと。
それは若いカップルに限ったことではなく、たまには映画でも見ようという年輩の夫婦とか、親子で見に来た観客とかもね。
いくら救いのない結末だからこそ傑作と言われても、見終わって足が重くなるような映画を、ふつうに生活してる人はそう好んで見ることはしないだろう。


当たり前だが、ハッピーエンドにすればいいというものじゃない。だが、どんなに題材がヘビーなもので、シビアに描かざるを得ないものでも、ひとかけらの光を示す、あるいは探し出す試みを、物語の語り手はしてもいいんではないかと思う。
バッド・エンディングにすることは、製作会社の了承さえ得られれば、それほど難易度の高いことじゃないだろう、作劇的には。なのでそういう映画がことさら高い評価を得られるようなことに関しては、俺自身は鼻白らむところがある。

「そんな放っぽらかしたような結末なら、俺でもつけられる」ってね。

2012年4月21日

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ジョナサン・デミは新作撮らないのか? [映画ラ行]

『レイチェルの結婚』

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おととい『メランコリア』をくさして書いたのは、惑星衝突とは別に、披露宴を台無しにする花嫁というプロットが、二番煎じに思えて白けたからだ。
何の二番煎じかというと、この『レイチェルの結婚』のだ。これは2008年のジョナサン・デミ監督作だが、類似点が散見する。

アン・ハサウェイ演じるヒロインのキムは、姉のレイチェルの結婚式に参加するため、麻薬中毒者の更正施設から一時的に退院して、コネティカットの自宅に向かう。父親が車で施設に迎えに来てるんだが、自宅への車中も、家族の問題児に対して、父親が距離を測ろうとしてる様子が伺える。
自宅に着いたキムはドレスを選ぶ姉と、その親友のエマと顔を合わせる。姉と再会のハグはするが、彼女たちの間に、微妙な緊張も漂ってる。

キムは更正施設からのいいつけで、毎日地元で尿検査をして、麻薬中毒者たちが互いに苦悩を語り合って、更正の道を歩む「12 STEPS」という集まりに通わなければならない。
父親に車を貸してと頼むが「運転だけは遠慮してくれ」と言われ、自転車でかなりな距離を行くことに。
集まりに遅れて参加したキムの隣にはジャージを羽織ったキーランという男が、麻薬に溺れてた頃の虚しさを語っていた。
自宅に戻ったキムは花婿で黒人のシドニーを紹介される。その付添人として顔を見せたのは、あのキーランだった。キムは偶然を面白がり、キーランを屋根裏部屋に誘ってセックス。
「付添人同士がヤルのが流行るわよ」
と言うキムに、キーランは
「花嫁の付添人はエマだと聞いてるが」と。

キムは姉のレイチェルに気色ばんで問い質した。
「だってあなたは来れるかどうかわからなかったもの」
結局レイチェルはエマに謝って、キムを付添人にするが、エマは当然面白くない。
早くも不穏な空気が充満してきた。

両家の身内と親しい友人だけを集めたリハーサル・ディナーは、音楽業界で働く新郎の人脈によって、音楽が溢れる楽しいものだったが、祝いのスピーチのマイクを渡されたキムは、緊張からか、自分が麻薬中毒者の施設に入ってることや、家族にとって厄介者であることなど、場にそぐわない話を繰り出し、場を真っ白な空気に変える。
ディナーが終わり、家族だけのリビングで、レイチェルがキムのスピーチに怒りをぶつけたことから、この家族の抱える感情の軋みが露になる。


家族にはキムの下に、歳のはなれた弟イーサンがいた。
キムが16才の時、母親から留守中の弟の面倒を任された。その時もクスリでラリっていたキムは、チャイルドシートに弟を乗せ、車を運転中にハンドルを誤り、橋から転落。イーサンは死亡した。

父親と母親は離婚し、母親は今夜のディナーには顔を出したが、この家には寄り付かなくなっていた。
父親はキムの心の傷を慮るあまり、キムのことばかり気にかけ、姉のレイチェルは疎外感を募らせて暮らしてきた。キムはそんな父親の干渉を疎ましく感じてたし、レイチェルはキムに対し
「中毒から回復できないなら、死ねばいいと思った」とまで言った。
「運転だけは遠慮してくれ」と父親が言ったのはそんな訳があったのだ。
互いの腹の中にあったことを吐き出して、その場は落ち着いたが、翌日さらに状況は悪化した。

姉妹で町の美容室に髪を整えに行くと、店内で若い男がキムに話しかけてきた。以前「12 STEPS」でキムの告白を聞いて、勇気をもらえたという。キムはその時、少女時代に姉と自分が叔父から性的虐待を受けてたという話をしていた。
キムと若い男の会話を聞いていたレイチェルは激怒して店を出た。そんな事実などないのだ。
更正するなどと言って、家族をダシにして平気で嘘をついてるなんて!
キムは自宅には戻れないと思い、母親の家を訪ねる。だがそこでもイーサンの話になってしまう。
「なんで私なんかにイーサンの面倒を頼んだのよ!」
「あなたが、イーサンの前でだけは穏やかにいられたからよ」
そのうち母親も感情が昂ぶり
「なんであの子を死なせたの!」
と母娘で殴り合いの喧嘩となる。
母親の車を奪って走り始めたキムだが、ほどなく藪に突っ込んでしまう。

翌朝、顔を腫らし、憔悴したキムを、レイチェルは黙って迎えた。
妹を風呂に入れ、体を洗ってやってると、肩のタトゥーが目に入った。
服を着てる時はわからなかったが、そのタトゥーには「イーサン」と彫られていた。


『メランコリア』では花嫁キルステン・ダンストの不安定な精神状態が、披露宴にカタストロフをもたらすんだが、この映画では花嫁の妹が、披露宴を脅かす存在になってる。
姉妹の間に葛藤があるのも同じだ。
『メランコリア』の中で、姉のシャルロットが妹に
「時々あなたのことがたまらなく憎らしくなる」と言ってる。
姉が妹を風呂に入れてやろうとする場面もある。
キムがいきなりキーランと屋根裏部屋でヤル場面の唐突さも、キルステンが若い招待客の男と青姦する場面につながる。
そしてどちらの映画も母親がエキセントリックな人物に描かれている。

だが『メランコリア』の場合は、この映画のような背景がまるで描かれないので、キルステンの不安定さが、惑星接近によるものなのか、マリッジブルーなのか、はたまた母親との関係性の中で育まれた性格的なものなのか、よくわからんままだ。


この『レイチェルの結婚』は、ジョナサン・デミ監督の演出スタイルが、終始手持ちカメラでの撮影や、即興のような場面もあるし、極力人工的な照明をたかないで撮ってる感じは、ラース・フォン・トリアー監督はじめデンマークの監督たちの間で提唱された「ドグマ95」の演出法に則ってるようでもある。回想シーンとかもなかったしな。
なのでトリアー監督が、この映画を見て気に入ることは十分考えられる。

で、そのジョナサン・デミ監督がもし「ドグマ95」の演出を意識していたとすれば、多分ドグマ第1作の1998年作でトマス・ヴィンターベア監督の『セレブレーション』を見てたんではないか?

セレブレーション.jpg

『セレブレーション』はデンマークの鉄鋼王と呼ばれる人物の還暦を祝うパーティで、一同に会した一族の口から次々に家族の恥部が明かされていくという話。
なので『メランコリア』は『レイチェルの結婚』を元にして、『レイチェルの結婚』は『セレブレーション』を元にしてると推測してみる。


ジョナサン・デミはシネフィルとしても年季の入った人で、2002年の、パリを舞台に撮った『シャレード』のリメイク版などは、微笑ましい位に、ヌーヴェルヴァーグへの憧れが塗りこめられていた。

さらに遡って1979年の日本未公開作『LAST ENBRACE』は、もう全編ヒッチコックからの引用かというマニアックなスリラーだった。主演はロイ・シャイダーだが、日本ではビデオにもDVDにもなってない。

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1990年『羊たちの沈黙』が大成功収めたことで、大きな予算の映画を撮るようになったジョナサン・デミ監督だが、実は80年代末までのキャリアの方に、個性的な作品が並んでるのだ。

元々はロジャー・コーマン門下生で、低予算アクションでキャリアをスタートさせてるが、1977年に『アメグラ』のポール・ルマットとキャンディ・クラークのコンビを起用した
『HANDLE WITH CARE』で、演出を評価される。

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これは小さな町の市民無線を通じて描いた人間ドラマで、脚本をトム・クルーズの名作『卒業白書』を撮ったポール・ブリックマンが書いてる。日本未公開で、全く見る手立てもない。

監督としての評価を決定的にしたのは1980年の『メルビンとハワード』だ。
これも日本未公開だがWOWOWで過去に放映されてる。
アリゾナに住むごく平凡な牛乳配達人メルビンが、砂漠で倒れてた晩年のハワード・ヒューズをそれと知らず助ける。その出来事も忘れかけてた時、いきなり一通の通知とともに、メルビンが大富豪ヒューズの遺産相続人の一人に選ばれたと知る。その遺言状の真偽を巡って裁判が開かれるという、実話に基づいた物語。
『HANDLE WITH CARE』に続いてポール・ルマットが起用され、気のいいメルビンを好演してた。
この映画はNY批評家協会の監督賞をはじめ、アカデミー賞でも脚本賞と、メリー・スティーンバーゲンが助演女優賞を得るなど、数々の賞に輝いてる。

『レイチェルの結婚』は、監督キャリアの初期の時代に撮ってたこうした人間ドラマに立ち返ったような所があるのが、俺としては嬉しかった。
だがこれを撮ってからもう4年目になるが、海外の映画データベースで調べてみても、劇映画を撮るような予定が入ってないね。ジョナサン・デミという人は、ミュージックビデオやドキュメンタリーなど、いろんな分野を手がけてきてるから、また気が向いたらということなのかも知れない。

2012年3月21日

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