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三大映画祭週間『ムースの隠遁』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『ムースの隠遁』

ムースの隠遁.jpg

映画自体は見てていつも面白いとは感じるものの、根本の部分で、自分の中に吸収できないでいる。
俺にとってそういう監督が二人いる。

ペドロ・アルモドヴァルと、この『ムースの隠遁』のフランソワ・オゾンだ。
彼らの作る映画には、ゲイとしての美意識とか、物事の捉え方とかいった視点があり、そこを踏まえずに、わかった振りはできないのだ。

アルモドヴァル監督でいえば、名作と名高い『オール・アバウト・マイ・マザー』にしても、『ボルベール 帰郷』にしても、いい映画であることはわかるんだが、芯から理解できたという感覚はなかった。女を描く視線が独特というか、鋭いのか、それは母性と言い換えが利くかもしれないが、男には本来描けないような領域にまで踏み込んで描ける、そういう能力があるのだろうと、漠然とながら感じている。

二人の監督とも、ゲイである自分の欲望や妄想を隠さないで映画に塗り込めるから、アルモドヴァルの新作『私の、生きる肌』も、「そうまでしちゃう?」と、ちょっと唖然とさせられたのは事実。
これに関してはどう書いていいやら、まとまらなかったんで、もう1度どこかで見る機会があったら、見に行こうとは思ってる。

『ムースの隠遁』は妊娠した女性が主役ということだったんで、見てみたが
「やっぱりそういう展開か」と。
俺はいろんなものを見尽くしてきてるから、別に男同士がディープキスしてようが、体をまさぐり合ってようが、見ていて嫌悪感を抱くなんてこともない。

というよりも見てて、気持ちも体もなんの反応も示さないので、逆に言うと、映画から弾かれてしまったように感じてしまうのだ。
だから今回も映画に描かれてることが、ストンと腑におちる感じではなかったが、部分部分の、登場人物の関わり方が面白かった。


ヒロインのムースは、パリの高級アパートに恋人のルイと一緒にいる。
そのアパートはルイの一家の持ち物で、母親が借り手を募ってる。
アパートのチャイムが鳴り、ルイの顔見知りの青年が、ヘロインを持ってやって来る。
ルイは金を渡して、ムースと早速あぶって注射する。
翌朝目を覚ましたルイは、まだ眠ってるムースを横目に、自ら頚動脈に注射する。

昼になり、母親が部屋を借りたいというカップルとともに、アパートにやって来る。
息子がここに居ることは知っている。
ルイとムースが眠る部屋を覗くと、ルイはうつぶせになり、口から泡を吹いて果てていた。
ムースはやっと目を覚ました。

ルイの葬儀に、ムースは後から参列した。家族とは距離を置き、黒い服も着ていない。
葬儀の後、ルイの弟ポールが声をかけた。
「母親が君に話があるといってる」

ルイの自宅は邸宅といってもいい建物だった。母親は
「息子が打ったヘロインにはバリウムが混ぜてあった」
という医者からの説明を、ムースに聞かせた。
「もうひとつ医者から言われたことがあるの」

ムースもルイと共に、あの日病院に搬送されてita.
その治療の過程で、彼女の妊娠が判明してたのだ。
「父親はルイなの?」
疑うような口調の母親。ムースは毅然と
「そうです」
母親はきっぱりと言った。
「私たちは出産を望みません」
「母親が麻薬中毒であれば、母体が胎児に与える影響も考慮すべき」と。
ムースは中絶しますとは言わなかった。

この母親とのやりとりの描写にまず興味をひかれる。
ムースはルイと麻薬をやっていて、ルイだけ死に至った。
だが彼女にはルイの母親に対して、負い目があるような態度は見せない。

詳しくは語られないが、ルイの家と同じように、ムースも裕福な家の娘らしい。
どこかに「私は金持ちの彼氏にぶら下がってるわけじゃない」
というプライドを滲ませてる。
だいたい葬式に豹柄のコートを着て現われてるんだから。


だがいろいろ鬱陶しくなったムースは、すっぱりとパリの生活に見切りをつけて、海沿いの小さな町に移り住む。ムース曰く「少女の頃、私を弄んでたじいさんの持ち物」
という別荘で、隠遁生活に入ったのだ。

パリから新しい生活に移るくだりは、あっさりと省略されて、次の場面では、ルイの弟ポールが、スペインへ旅行する前の数日を利用して、ムースの家を訪れる。

兄のルイは死んでしまったが、ポールは恋人だったムースには恨めしい感情などはないようだ。
ムースも快く彼を迎え入れた。

ポールを泊めた晩に、ベッドに入ると、いきなりピアノの音が聞こえ、ムースは「こんな夜に!」とイラッとくるが、ポールのピアノが上手くて、つい聞き惚れてしまう。
ムースは妊娠8ヶ月目となり、おなかは、かなり膨らんできた。

地元の食料品店の青年セルジュが、配達に来て
「いまご主人に会いましたよ」と言う。
ポールが海岸に泳ぎに行く所だったのだ。
「ちがうわよ、彼は女には興味ないみたい」
ムースは応えた。
ぶっちゃけ、そのセルジュとポールがいつの間にか恋人同士になってるわけだが。


ムースは身篭ったからといって、母親らしい愛情が湧いてくるという実感はなく、妊娠期間特有の、不安定な感情にもさらされてる。
ポールに誘われて海岸へと出ていくんだが、そこで地元の女性に声をかけられる。

女性はムースを見て「妊娠中の女性が、水着を着て、膨らんだおなかを隠さずにいる」ことに勝手に感動を覚えたらしい。
「おなかの中の赤ちゃんに沢山声をかけてる?」
とか、おなかをさすりながら、母親となる心構えなんかを説いてくる。
ムースは「いい加減にしてよ!」とキレて立ち去る。

面白いね、こういう女同士のピリピリした感覚は、オゾン監督には初期の『海を見る』あたりから、すでにあった。『スイミング・プール』とかね。


ポールが町のクラブにセルジュと遊びに行くというと、ムースは「私も連れてって」と。
大きなおなかでダンスに興じてると、ポールとセルジュは店の暗がりで、熱いキスを交わしてた。

ムースはポールと一緒に過ごす内に、なんとなく「悪くないな」という感情を抱いてたんで、ポールが「男」になびいてしまったことが面白くない。


だったら自分もと、昼間に一人で町のカフェに行く。別のテーブルの中年男が声をかけてくる。
男はナンパしてるとあっさり認める。家から海が一望できるとも。
その言葉にムースは、男の車に乗り込んだ。
この映画で一番印象に残ったのは、この中年男とのくだりだ。

男の家に上がると、部屋から本当に海岸線が一望できる。
情事に及ぶつもりだったが、ムースは寸前で
「やっぱりできない」
そしてベッドに座り、男に
「私の背中から、おなかを揺すってくれる?」と注文。
中年男は言われるままに、背後に回り、ムースのおなかに手を回して、軽く揺する。

その時の男の表情がいいのだ。
「ああ、もうこれでセックスはできんなあ」という感じと、おなかに手を触れることで、生命の鼓動が伝わってるようで、なんともせつないような表情になってる。


ポールがセルジュと喧嘩別れしたと、酔いつぶれて家に戻った晩、二人は初めて、「立ち入った話」を交わした。
ポールは、ルイとは異母兄弟で、あの家には養子として迎え入れられたと。
ポールは身近にいるルイのことを愛していたようだ。
ムースとポール、ふたりの間は「ルイ」という共通の喪失感で、この時はじめて気持ちがつながった。

ポールがスペインへと旅立つ前の晩、ムースは彼と結ばれる。
ポールはゲイではなくバイだったんだな。


ムースはパリに戻り、病院で出産を終えていた。
スペインから戻ったポールが、病室を訪れた。
赤ちゃんの顔を覗き込む。ムースに「抱いてみて」と言われ、ポールはぎこちない手つきで赤ちゃんを抱く。
女の子で、名前は愛した人の名から「ルイーズ」とつけた。
ムースは赤ちゃんを抱くポールの表情を見つめてた。

「タバコ吸ってくるからちょっと見てて」
そう言うとムースはコートを羽織って、病室を出た。
職員たちの溜まり場で火を借りると、一服し終わって、病院の敷地から外に向かった。
そしてそのまま電車に乗った。


人気俳優のメルヴィル・プポーがルイを演じていて、物語早々に退場する。
弟のポールを演じるルイ=ロナン・ショワジーもかなりなイケメンで、これはオゾンの好みなんだろう。目の下のあたりがベニチオ・デル・トロを彷彿とさせて、色気がある。
彼は本職はミュージシャンだそうで、劇中にピアノ伴奏で歌うのは、彼の自作曲だ。

映画のエンディングでは、ムースを演じるイザベル・カレとのデュエット・バージョンが流れる。
なんか日本で昔作られてた「歌謡映画」みたいな感じもあるな。

そのムースのヒロイン像は、あまり共感持たれないかもしれないが、そういう女性をしれっと描いてしまえる所が、オゾン監督たる所以かもな。

2012年8月27日

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三大映画祭週間『時の重なる女』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『時の重なる女』

時の重なる女2.jpg

この映画は「イタリア映画祭2010」で既に上映されてる。俺はイタリア映画祭に今年初めて通ったので、今回の上映の機会はありがたかった。

見たいと思ったのは、フィリッポ・ティーミが出てるからだ。
彼はマルコ・ベロッキオ監督の『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』で、ムッソリーニと、彼の隠し子の二役を演じてた。
その他にも、今年の「イタリア映画祭2012」で上映された『錆び』でも、子供たちの敵を演じてて、そのテンション高い役作りは、俺をして「イタリアのマイケル・シャノン」と勝手に言わしめてる。

この映画はミステリーで、それも現実と妄想が混在し、しかも主人公の設定にひとヒネリ利かせてあるという、リンチやブニュエルを彷彿とさせる魅力を感じた。
ハリウッドが手を伸ばしそうな脚本なのだ。


トリノのホテルで、客室清掃係として働くソーニャ。
彼女はスロベニアからイタリアに移民してきた。
とりあえずの会話はできるが、自宅ではイタリア語講座のテープを毎日聞いている。
同じ清掃係のイタリア人マルゲリータとも仲良くなった。

その日も客室をノックして入ると、若い女性がベッドでテレビを見ていた。
改めようとすると「かまわないわ」と言われたので、浴室から行うことに。
洗面所で髪を束ねてると、その様子を見てた客室の女性から
「下ろしてる方が似合うわよ」

女性は部屋に消え、掃除を始めようとした時、ガシャンという物音がした。
部屋を覗くと女性の姿はない。ハイヒールは床にある。
ソーニャは開いている窓に近づき、下を見下ろすと、客室の若い女性が飛び降り自殺して果てていた。
あおむけの死体の目が、ソーニャを見つめていた。


ショックで仕事が手につかないソーニャは、ミスをして副支配人に責められる。
気分も変えたくて、ソーニャは「スピードデート」に参加した。

合コンのようなもので、大勢の男と女が、テーブルにつき、一対一で話をする。
制限時間は数分しかなく、ブザーが鳴ると、次の相手が席に着く。
そうして何人もと話しをする中で、気に入った相手をチェックし、後で連絡先を交換するのだ。

ソーニャの席にも、何人もの男が入れ替わり立ち替わりやってくるが、これという相手がいない。
そんな中グイドに出会った。やたらと質問攻めしてこない彼の寡黙さが気に入ったのだ。


二人は連絡先を交換し、デートを重ねた。
デートの最中に偶然会った刑事との会話から、グイドが元警察官だということがわかった。
今は郊外にある富豪の別荘の警備を任されてる。
二人は体の関係も交わし、何度目かのデートで、グイドはソーニャを、その別荘に連れて行った。
グイドの車のラジオから、イギリスのポップソングが流れてる。

持ち主の富豪は年に数回しか訪れないという。グイドはこの町の喧騒から遠く離れた環境で、野鳥の鳴き声を録音して楽しんでいた。高性能の集音マイクも備えてあった。
グイドは広大な敷地内をソーニャと散歩するため、いつもはかけてあるセキュリティを解除した。
だが誰もいないはずの敷地内の森で、ふたりは突然マスクを被った男に銃で脅された。

男はグイドを警備室に案内させ、すべてのセキュリティをオフにし、別荘のゲートを開けるよう命じた。

モニターの一つには、外で頭に銃を突きつけられてるソーニャが。
男は何人もの仲間を引き連れていた。

「引越しサービス」と書かれたトラックが2台、ゲートから入ってくる。
男たちはグイドとソーニャを柱に縛りつけ、手馴れた様子で、邸宅内の調度品から絵画から、おおよそ値打ちのありそうな物は根こそぎ運び出した。

最後にリーダー格の男が残り、グイドの目の前で、ソーニャの体に触ろうとしてる。
隙を見て縄を解いたグイドは、マスクの男に飛び掛った。揉み合いとなり銃声が響いた。


ソーニャは今日もホテルに出て働いてる。
洗面所の鏡を見ると、額に痣のようなものがある。
あの日別荘でグイドが死んだことは、グイドの元同僚だったリッカルド刑事から聞いた。

リッカルド刑事は、グイドの死に不審な点があると感じていた。
なぜ賊が入りこむその日に限って、セキュリティが切られていたのか?
刑事は、ソーニャがなにか知ってるのではないかと疑っている素振りだった。

リッカルド刑事は別れ際に、ソーニャに写真を手渡した。グイドが持ってたものだと。
グイドとソーニャが仲陸まじく写ってる。場所に見覚えがない。

そして次第にソーニャの周りにも異変が起こってくる。ホテルの警備室のモニターを何気なく眺めていると、階段に死んだはずのグイドが映っている。
ソーニャは血相変えて、その場所に向かうが、誰の姿もない。

自宅に戻って、風呂に浸かってると、どこからともなくメロディが聞こえてくる。
隣の部屋だろうかと、壁に耳をつけるが聞こえない。

ソーニャは湯船に耳まで浸してみる。
すると、あの日グイドの車で流れてたポップソングが聞こえた。
水から顔を上げると聞こえなくなる。また耳を浸すと聞こえる。これはなんなのだ?

突然ケータイが鳴る。
「ソーニャ」
明らかにグイドの声だ!グイドは生きてるの?
でもグイドの葬儀にも立ち会ったのだ。
なぜか神父は私を睨みつけるように見ていたが。


自宅で洗濯物を干していたソーニャは、またあのポップソングのメロディを耳にした。
窓から外の通りを見下ろすと、そのメロディは、「引越しサービス」のトラックから聞こえた。

ソーニャは部屋を飛び出し、自分の車でそのトラックの後を追った。
パーキングに停まったトラックに後ろから忍び寄る。
ソーニャは助手席のドアを勢いよく開けて、乗り込んだ。

そして運転席の男に平手打ちした。
「私まで死ぬとこよ!」
運転席の男は、あの強盗団のリーダーだったのだ。
二人はイタリアからの高飛びを企てていた。行く先はブエノスアイレス。
新聞の死亡欄から同じ年かさの女性を探し出し、偽造旅券を作る手筈だった。


ソーニャは清掃係の同僚マルゲリータに、刑事から手渡された写真を見せた。
「後ろの橋にブエノスアイレスって書いてあるでしょ?」
「でもそんな所、行ったことないのよ」
「合成したんじゃないの?」マルゲリータは言った。

そのマルゲリータが急に仕事先に来なくなった。
副支配人は従業員を集めて言った。
「マルゲリータが自殺した」
ソーニャは尋ねた。
「自殺ってどんな?」
「飛び降りだそうだ」

ソーニャは葬儀に参列した。だが神父は墓の前でマルゲリータではなく、ソーニャの名を口にした。
「なぜ私の名を?」
動揺するソーニャをその場から連れ出したのは、ホテルの常連客の男だった。
マルゲリータから「女性従業員にやたら声をかける」と言われてた男だ。

ソーニャは男の車に乗るよう促される。男は運転しながら、ソーニャに
「コーヒーだよ、ブランデー入りの」と容器を渡す。
それを飲んだソーニャは意識を失くす。

男は車を雑木林に乗り入れ、ソーニャをビニールシートにくるんで、掘ってあった穴に引き下ろした。
意識は戻ったが、体が動かず、声も出せない。
男は上から土を被せていく。真っ暗で呼吸の音しか聞こえない。


次の瞬間、視界が開け、目の前にグイドがいた。そこは病室だった。
グイドは生きていたのだ。
というより、あの事件のあとのことは、夢の中のできごとだったのだ。
グイドとマスクの男が揉み合いになった時、男が撃った銃弾が、グイドの胴体を貫通して、ソーニャの頭部に当たったのだ。だが奇跡的に致命傷には至らなかった。

グイドが献身的に看病してくれたこともあり、ソーニャは退院できることになった。
グイドには実は妻がいたが、心の中では、ソーニャと新しい人生を歩んでいこうと決めていた。

だがソーニャが夢で見たと思われていたことは、すべてが夢というわけではなかった。
ソーニャはある日時を正確に覚えていたのだ。


細かい伏線が生かされていて、終盤にはグイドの持ってた集音マイクまでが、鍵を握るアイテムとなってる。2回見るともっと気がつく場面があると思う。

ソーニャを演じてるクセニア・ラパポルトは、ロシア出身の女優。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『題名のない子守唄』で、謎めいたメイドを演じてた女優といえば、思い出す人もいるだろう。
今回ももしアメリカ映画だったらミア・ファローが得意としそうな、エキセントリックな役柄を、絶妙に演じて目が離せない。

フィリッポ・ティーミはグイドを演じてるんだが、こちらはいつものエキセントリックな演技を封印して、その静けさをまとった人物像の表現がまたいいのだ。

夢の中で、いきなり大きな音でソーニャが衝撃を受ける場面がある。
これはこけおどしのショック演出というのではなく、よくうつらうつらしてる時に、なにか物音がすると、普通より倍化して聞こえて、驚いて飛び起きるなんてことあるよね。それを表現してるんだな。

その音も伏線となってるのが、後の描写でわかる。
なかなか芸の細かいミステリーなのだ。

2012年8月24日

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三大映画祭週間『フィッシュ・タンク』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『フィッシュ・タンク』

フィッシュタンク3.jpg

「俺はいま最高の映画を見てる」っていうものすごい高揚感に、久々に包まれた。
この映画祭1発目に見た『俺の笛を聞け』もよかったんだが、こっちはもう惚れてしまったという位にいい。

2009年のイギリス映画で、すでにシネフィル・イマジカで『フィッシュタンク~ミア、15歳の物語』として放映もされてるんで、今更という人もいるだろうが、俺イマジカ契約してないし、大体なんでこんな傑作を日本の配給会社は放っぽらかしにしてるんだ?

これが長編2作目のアンドレア・アーノルドという女性監督、もう天才だよ。
シネスコでもビスタでもなく、スタンダードで撮られてるのにまず驚く。


イギリスはエセックス州の、集合住宅が立ち並ぶ、殺伐とした風景の中に、15才のミアは暮らしてる。シングルマザーのジョアンヌは、ほぼ育児放棄で、遊び仲間をアパートに呼んではパーティ。
ミアと5才くらい歳が離れてそうな妹タイラーは、ミアより口が悪い。
家族の基本姿勢は喧嘩腰だ。

ミアは女友達と仲たがいしたらしい。その子がいけ好かない女子グループに入ってダンスしてるのを、冷ややかに眺めてる。
「文句あんの?」と睨んできたグループのリーダー格に、ミアはいきなり「パッチギ」かまして去ってく。
学校も追い出されたミアを、母親は家から出して、特別学校に放り込もうと考えてる。
ミアは別の棟の空き部屋に入りこむと、なにもない床の上でステップを踏む。
ミアはストリートダンスだけには情熱を注げるのだ。

アパートの通りをはさんだ向かいの空き地には、バラックが建ち、ミアより年上に見える少年たちが住み着いてる。そこに鎖でつながれた白い馬がいる。
ミアは忍び込んで、鎖を切ってやろうとするが、少年たちに見つかって追い立てられる。
なんにも変わらない、クソ面白くもない日常に、小さな変化が起きた。

朝キッチンで湯を沸かそうとするミアの前に、男が上半身裸で入ってきた。
「母さんの友達だよ」別に悪びれる様子もない。
テレビを眺めながら体を揺らしてたのを見られた。
「ダンス上手いな」
男はミアが紅茶を入れようとしてたのを知ると、3つカップを並べ、冷蔵庫からミルクを出して、ミルクティを手際よく作ると、カップを一つ置いて
「じゃあまた」と上の部屋に消えた。
母親が夜のうちに連れ込んだ男だ。
だが不思議とミアは不愉快にはならなかった。


展開としては、よくある話なのだ。だが特に前半の場面がことごとく鮮やかに切り取られてる。

母親のはっきりセフレでもあるコナーという男をマイケル・ファスヴェンダーが演じてる。
昨年来ずっと顔を見てるんじゃないかと思うくらい、売れまくってるが、この3年前に出た映画は、もし最近ファンになったという女性なら、絶対見とくべきだ。
「誘惑者」として完璧なカッコよさを見せてる。

「ヒューマントラストシネマ渋谷」にて、24日までの会期中に、あと6回上映があるからね。
見に行くつもりがあれば、ここから先は読まない方がいい。

フィッシュタンクマイケル.jpg

ミアがコナーに惹かれたのは、まず言葉遣いが汚くないのと、物腰の柔らかさだ。
ミアの周りにはいないのだ。
年上の男ということと、父親のいないミアには、父親のように構ってくれる相手にも見えただろう。
妹はすぐに懐いてるし。

コナーがミアたち家族をドライブに連れてくシークェンスは、まるごとカメラが素晴らしい。
コナーは郊外に車を走らせ、車中でミアに
「いい音楽を聴かせてやる」
と、ボビー・ウーマックのカバーによる『夢のカリフォルニア』をかける。
ヒップホップしか聴かないミアには耳に新鮮だった。
妹は車窓から飛行船を追いかけてる。普段はぎすぎすしっ放しの母娘3人がおだやかだ。

川辺に誘ったコナーは、川に入り、魚を手掴みして見せる。
ミアもおそるおそる水に入る。多分生まれてこのかた川遊びすらしたことがないのだろう。
大きな魚を母娘は気持ち悪がる。
水底で足を切って血を流すミアに、コナーは応急処置を施して、背中をかがめる。
「乗れ」おんぶされたミアはコナーの肩に頬をつける。

駐車場にスタンドがあり、母親のジョアンヌはビールと酒の追加を買いに行く。
コナーとミアはその間、ふたりでおどけるようにダンスする。

だが母親が戻ってきて、ミアはいきなり不機嫌になる。
こういう女の子の心理状態の揺れ具合を絶妙に捉えてる。
駐車のライン上に立って、前のめりにコナーに悪態をつく。
母親というより「女」が割ってきたという不快さなのだろう。

『フィッシュ・タンク』という題名は意味深だ。
水槽の中から出られない魚のように、鬱屈する少女の心情を表してもいるし、母親と娘というより、女3人で、狭いアパートに暮らしてるという、
「女の生臭さ」にイラついてると捉えることもできる。
魚とは女の臭いのことだ。

ジョアンヌは娘たちの前で母親であろうとするより、女であることになんの引け目も感じてない。
ミアは深夜に母親の部屋から聞こえる喘ぎ声に、ドアの隙間から覗くと、コナーとセックスの真っ最中だ。
ドライブの車中でもこんな会話が。

「生まれ変われるならどんな動物がいい?」
とコナーが尋ねると、
妹のタイラーは「サル!」と言い、ミアは「白い虎」と答える。
母親が「虎なんかより、あたしは犬がいいよ」
するとすかさず妹が
「今だってメス犬じゃん!」
口が悪い上に核心を突いてくる、この妹恐るべし。

川辺のドライブはおだやかな光景だったが、映画ではもう一度、川辺の風景を映す場面がある。
だがそれは対照的に、心を冷やすような、おそろしい光景となってる。


ミアはある晩、酒に酔ったコナーと一線を越え、コナーは、この家族と関わりを絶つ。
コナーの財布の中身を盗み見てたミアは、彼の住む町を知っていた。
コナーは母親とふたり暮らしだと言ってた。

家はミアたちの住む集合住宅の一帯などと違い、閑静な住宅街にあった。
コナーはミアの突然の訪問に動揺し、車で駅まで連れて行き、電車賃を渡して
「明日話そう」と言って車から降ろした。

だがミアは電車には乗らず、コナーの家にとって帰した。
外出してるようで、ミアは開いてる窓を見つけ、家の中に侵入した。
ミアの住まいとは似ても似つかない、きれいに片付いた室内。
小さめの部屋に、コナーが、ダンスのオーディション用に撮影しろと、貸してくれたビデオカメラが置かれてた。

何気なくスイッチを入れる。女の子と母親が映ってる。それを撮影してるのはコナーだ。
妻子持ちだったのだ。
部屋を見まわしてその時気づいた。子供服や家族の写真。
ミアはその部屋に放尿した。

車の音が聞こえる。裏口から逃げ出して、遠目に様子を覗う。家族で買い物に出てたようだ。
小さな娘がキックボードで、ミアの前を通り過ぎる。
放尿くらいじゃ済まされないと、ミアはその娘を目で追った。


「それはやっちゃいかんだろう」という所までいっちゃうので、さすがにこの15才に共感は難しいだろう。しかし「あの場面」は、あの見たままに撮影されたんだろうか?
一歩間違えばという危険さだと思うが。
映画としては強烈なインパクトを残すことは確かだが、俺はやり過ぎに感じた。
あの後のつなげ方も上手いんだけどね。


なんにしても、ミアを演じるケイティ・ジャーヴィスに目を奪われることには違いない。
駅でスカウトされたというんだが、とても女優経験がないとは思えない、堂々たる居ずまいなのだ。

ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』
ロシアの若い女優オクサナ・アキンシナが鮮烈だった『リリア4-ever』
レア・セドゥーの『美しい棘』
ジェニファー・ローレンスの『ウィンターズ・ボーン』
あるいは、エミリー・ブラントが、主人公の少女にとっての「誘惑者」となる
『マイ・サマー・オブ・ラブ』など、
「クソみたいな世界」に対峙する少女を描いた映画の系譜がある。

この『フィッシュ・タンク』もそれらに加わる新たな一作だと思うが、ケイティ・ジャーヴィスのストリートダンスが見栄えもよくて、映画にも弾みをつけてるんで、活きのよさでは抜きん出てるね。

ミアが逃がそうとした白い馬を巡って、ビリーという少年と出会うエピソードもいい。
その馬は年老いていて、ビリーが面倒見てたが、病気になり撃ち殺したと言われ、ミアは映画の中で初めて泣く。

「もう16才だった。寿命なんだよ」
その言葉は15才の少女の心をヒリヒリと灼いただろう。
ここにいたら、自分だって16才が寿命かもしれないと。

ケイティ・ジャーヴィスはこれだけ忘れ難いヒロインを体現したのに、その後女優のキャリアを積んでる様子がない。

2012年8月8日

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三大映画祭週間①『俺の笛を聞け』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

三大映画祭週間2012(5回券).jpg

『俺の笛を聞け』

昨年「ヒューマントラストシネマ渋谷」にて開催された好企画が、めでたく今年も同じ場所にて開催。
昨年はこのブログで『唇を閉ざせ』『ハッピー・ゴー・ラッキー』『キナタイ マニラ・アンダーグラウンド』の3作品のコメントを入れた。
今年は8月24日(金)まで、8作品が上映されてる。


この『俺の笛を聞け』は2010年のベルリン映画祭において「銀熊賞(審査員グランプリ)」と「アルフレッド・バウアー賞」の2冠に輝いてる、ルーマニア映画だ。

俺の笛を聞け.jpg

18才のシルヴィウは、少年院の出所を16日後に控えていた。トラブルも起こさず、院長からも模範生と目されていた。
定期的に面会に来てた、歳のはなれた弟が、今回はやけに間を縮めて会いに来た。
弟は「かあさんが戻ってきた」と言う。
そんなはずないとシルヴィウは言った。
母親は昔、男を作ってシルヴィウを置き去りにしたのだ。
父親は体を壊し、入院生活を送ってる。シルヴィウは弟の面倒を見て暮らしてきた。
弟はなおも「母さんは僕をイタリアに連れて行くって」

自分たちを捨てて出て行って、今頃急に戻ってきて、弟を連れて行くなど許せない。
「俺が戻るまで絶対家に居ろよ」と弟に釘を刺した。

だが母親は1週間後にはイタリアに発つと言う。出所してからでは間に合わない。
模範生として、目立たず淡々と更正の日々をやり過ごしてきたシルヴィウの心に、時ならぬ波風が立ち始めた。

ルーマニアの少年院の殺風景な日常がつぶさに描き出される。
刑務所ほどガチガチに規則は厳しくなさそうだが、入所する少年たちの間には、隠然とした力関係が働いているようだ。
食事の間は流行歌らしき音楽がデカい音で鳴らされてるのは可笑しかった。
フォークはテーブルに置いたままにせず、食堂を出る際に、係官にわかるように容器に投げ入れている。
シルヴィウは少年の一人に、携帯電話を貸してほしいと掛け合う。そ
ういう物を調達できる係りがいるんだね。
シルヴィウは弟に電話をかけ、一緒に居る母親を電話口に出させた。
少年院に面会に来るように告げた。


出所が真近になると、出所後をサポートするソーシャルワーカーとの面談が行われる。
最初に作文を書かされ、それを元に後日面談となるのだ。

シルヴィウは作文を書くため、談話室に呼ばれ、ソーシャルワーカーのアナと顔を合わせる。
唇の形がかわいいとシルヴィウは思った。
彼女に私的な質問を投げかけるが、アナはとまどい
「仕事で来てるから答えられないわ」と言った。
この環境で女性と話をする機会などほとんどない。そ
れに威圧的な人間ばかりの中で、アナはそんな態度をとらない。
シルヴィウは彼女のことが気に入った。

だがそんな朗らかな気分もすぐに霧散した。母親が弟を連れて面会に来たのだ。
母親は「やっと会えた」というような素振りで、優しい言葉をシルヴィウにかけるが、イタリアの話になると、両者の雲行きは途端に怪しくなった。

シルヴィウは今までの母親の無責任な行いを激しくなじる。
母親は「売春婦」呼ばわりまでした自分の息子を頬を何度も張った。
だがシルヴィウの怒りはいよいよ収まりがつかない。
係官が割って入り、面会は修羅場となった。


このままでは弟はイタリアに連れ去られる。出所を控えたシルヴィウは、母親がイタリアへ発つという日に、特別に外出許可を貰いたいと、院長に懇願するが、叶うはずもなかった。
シルヴィウがたびたび院長に会ってることは、入所する少年たちにも気に障った。

「あいつは何かチクってるんじゃないか?」
出所の近いシルヴィウは挑発を受ける。何度も頬を張られ、唾まで吐かれる。
だが殴りかかれば、入所期間は延長されてしまう。
「お前は出所するまで、俺の奴隷となれ」
少年たちを牛耳るリーダー格に言い放たれる。
18才の少年の葛藤は、もう自らの手に余る大きさにまで膨らみつつあった。

ソーシャルワーカーとの面談の日、アナは再びやってきた。
シルヴィウは静かに腰かけていたが、思いつめたような表情で彼女を見つめた。


ロベール・ブレッソンの映画のように、音楽をつけず、主人公の少年の行動をカメラで追い続ける、
余計な装飾を取り払ったような演出だが、この面談の場面から急展開が起こる。
止むにやまれぬ思いと、結果がわかってても、もうそれしかないという、破れかぶれな気分と。
そこまで丹念に積み重ねられた描写があるから、ここはエモーショナルな迫力がじかに伝わってくるようだ。

それまでのもの静かな少年の面影はもはやない。だが心根の優しさは垣間見えたりもする。
映画の結末近くは、つかの間の穏やかな気分に包まれる、いい場面が用意されてる。


ルーマニアはチャウシェスク独裁の時代の負の遺産として、子供世代の貧困が深刻だと聞く。
この映画はその殺伐とした背景を感じさせながらも、現実を突きつけて気を滅入らせるような、社会派を気取った描き方はしてない。

少年たちの心に寄り添う、彼らの苦しい境遇に顧みる。
そういうことを大人たちが切実に感じなければ、この国に未来はない。
そんな怒りに似た祈りは込められてると思った。

2012年8月6日

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