フレデリック・ワイズマンのすべて④ [フレデリック・ワイズマン]

フレデリック・ワイズマンのすべて

『ストア』1983年作。

テキサス州ダラスにあるデパート「ニーマン=マーカス」本店。日本で言えば三越のような老舗の、クリスマス商戦の時期にカメラが入る。ここを訪れるのはほぼ富裕層と見えて、4万ドルもする黒豹のコートを店員が勧めたりしてる。
常連客が多そうなのは、客と店員との打ち解けた会話の様子で知れる。
ドレスを試着してる若い女性に、店員が遠慮なく意見を述べてる。
「まあよくお似合いですわ」などとお愛想は言わない。だから逆に信用もされるんだろう。
一方で「あなたは特別なお客さまなんだから、特別なものを」
という殺し文句も。
「今のもう一度言って」とせがまれてる。
それにしてもドレスの柄がな。80年代だからと言うに収まらない、なんだろうな、アメリカ人のファッションの好みはよくわからん。

売り場のセールス・マネージャー・クラスを集めたミーティングで上司は
「デパートの目的とはなにか?」
「売ることだ」と話す。
「それは病院が病気を治療するのと同じ」
「医者が患者と世間話ばかりしてたら、病院の役割は果たせない」
「デパートも待ち合わせの場所とか、店員の世間話の場所ではない」
「デパートは物を売る機関であり、我々はそのことにのみ、すべての努力を傾けるべきだ」と。

ある会議ではマネージャーたち一人一人に、自分が持ってる上得意の客3名に電話して、来店を促すセールスを行うよう指令が出される。マネージャーの下で働く各売り場の店員たちにも、同じように動くようにと。
多額の金をおとす客がこのデパートの命脈なのだ。
ここには潔いくらいに、金のない人間には用がないという哲学が貫かれてる。
金のない人はウォルマートに行ってろということだ。

富裕層にいかに付加価値をつけて来店してもらうか。ある上司はデパートの上得意客と偶然同席した時、奥さんがコートを隠すようにしてたと話す。その黒豹のコートは、別のデパートで買ったものだったのだ。
常連客も他の店で買い物をするということを、肝に銘じておこうということだ。

売り場の管理職募集にやってきた黒人の若い女性が、担当者の面接を受けている。小売店で働いた実績や、人と接する仕事が好きであることなど語り、質問の最後に、自分から話したいことがあればと促され、彼女がいかにニーマン=マーカスの経営理念に共感し、創業者に尊敬の念を抱いてきたこと、自分こそこの仕事に打ってつけの人材であることを、淀みない口調でアピールした。
ワイズマン監督の他の作品でも、流暢な話しぶりが印象に残る人物が多く見られた。アメリカという国は自分の主張や、「自分」という人間を明解な言葉で表現できないと、先が開けてこない社会なのだ。
自分をアピールする人を「図々しい」などとは感じない。むしろ黙々と行動して「見てる人は見てる」などという考え方は、他力本願と捉えられてしまうのだ。
そのために高校によっては「ディベート」という、議論のスキルを実践で高めるような授業が行われる。こういうことは政治や経済の場で、特に「交渉力」という差に現れてくると思う。

例えば先日の大阪市長選で橋下知事が圧勝したが、これには彼のもと弁護士という、「説得」することに長けた、その職歴が強みになってる。彼の考え方や、物事の進め方に危うさを感じなくもないが、それを止めようと思ったら、彼と同等の「会話力」を持った人物が出てこないと駄目だろう。
日本の政治家にはそのスキルを持った人物に乏しい。だが「口下手」な政治家などあり得ないのだ。国際交渉の場でそれは致命的な結果を引き起こす懸念がある。日本も学校教育の中に「議論」する力を養うカリキュラムを組み込んだ方がいいと思うぞ。


話がずれたが、デパート内の取材を終えて、最後は経営者一族のスタンリー・マーカスを讃える集いの様子を映す。ホテルの半端じゃない広さの宴会場に、地元の名士らしき人々がリムジンで次々到着する。
壇上の背面には星型のトレードマーク、これは一族の紋なのか、あしらわれていて、ちょっと見は社会主義国の政治大会みたい。
アメリカの富は1%の人間が握ってると、つい最近大規模なデモが全米各地で起こったりしてたが、まさにその1%の人間のために奉仕する商売の世界を、象徴するようなパーティの光景だった。



『ボクシング・ジム』2010年作。

テキサス州オースティンにある、元プロボクサー、リチャード・ロードが開いたボクシング・ジムの光景。
2010年に発表されてるが、撮影は2007年の春。ジムに通う人々の会話で、4月に起きたヴァージニア工科大学での銃乱射事件で、親族の女子学生が撃たれたことや、5月に行われる「世紀のタイトルマッチ」と呼ばれたオスカー・デラホーヤ対フロイド・メイウェザーの試合のことなどが出てくる。

入門者のひとりが
「どこにあるのか最初はわからなかった」という位、地味な佇まいのジムで、「丹下ジム」とまでは言わないが、いい感じの庶民臭さが漂ってる。
フレデリック・ワイズマン監督は東京映画祭の『クレイジーホース』上映時のQ&Aで、ダンスを被写体にすることが多いと語り、ボクシングも一種のダンスと思ってると述べていた。
この映画には心地よいテンポがあって、それはジムで絶えず聞こえるトレーニングの音によるものだ。
「ドドン、ドドン、ドドン、ドドン」というリズム感。
ボクシングには一定の規則的な動きというのがある。リング内でスパーリングする者、トレーナーのミットにコンビネーションを入れる者、サンドバックを叩く者、パンチングボールを弾く者、腹筋を鍛える者、各々が別々にトレーニングしていながら、その動きやその音が「調和した一つの世界」を完成させている。

青タンを作って入門しにきた19才の学生を
「復讐するためじゃなきゃいい」
と受け入れる。基本どんな人間でも月に50ドル支払えば、いつトレーニングに来てもいいようだ。
人種もさまざまだし、弁護士や医者、赤ちゃんを連れた若いママや、軍の訓練兵もいる。もちろんプロを目指すボクサーもいれば、引退が目の前にあるプロボクサーもいる。

トレーニングの合間に交わされる会話を映画は拾っていくが、ワイズマン監督の手法の特徴として、カメラ側が直接インタビューするという場面が少ない。大抵はその場で交わされる会話にカメラを向けている。なので構えた感じにならず、素の言葉が拾えるんだろう。
トレーニング中の一人が言う
「考えてみりゃ不思議なことだけど、ボクシングは人を殴るスキルを習うってことだよな。でもここの人たちは本当にいい人たちばかりなんだよ」

トレーニング中の真剣さと、合間の打ち解けた会話の様子に、このジムの家族的なまとまりを感じたりもする。
特にスパーリングやミット打ちでは女性の真剣さが印象に残る。また強い重そうなパンチを打ちこんでる。
しずちゃんがロンドン五輪を目指してるそうだが、アメリカはかなり層が厚そうだぞ。

ワイズマン監督のさまざまな作品を見てきた中で、この『ボクシング・ジム』は、アメリカの一断面を批評的に眺めるんではなく、ここに人種も生活環境も様々な人々が集っているという、その光景だけを見せている。
そこには「アメリカ人を一つにするものは、スポーツなのだ」という思いを感じる。
「それは戦争だろう」とシニカルに答える意見もあるかもしれないが、やはりスポーツの持つ意味が、この日本とは違うんじゃないか。
劇映画を見てもいつもそのことに思い及ぶ。

2011年11月28日

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