「午後十時の映画祭」50本②作品コメ [「午後十時の映画祭」]

「午後十時の映画祭」

昨日このブログにアップした、この映画が観たい「午後十時の映画祭」50本(70年代編)のタイトルリストに沿って、上からコメント入れていこうと思う。
五十音順に並んでいるので、まずは「ア」から「ウ」まで。



『愛とさすらいの青春/ジョー・ヒル』(1971)スウェーデン・アメリカ 
監督ボー・ヴィーデルヴェリ 主演トミー・ベルグレン

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このブログで前に『みじかくも美しく燃え』の所でちょっと触れたが、あの映画の監督・主演コンビがその後に、アメリカにロケして作った、フォトジェニックな青春映画。

ジョー・ヒルはフォークシンガーの始祖と言われる人物で、20世紀初頭に、スウェーデンからアメリカに移民してきた。東海岸から西を目指し、汽車の屋根などに乗って移動する「ホーボー」と呼ばれる労働者たちと行動を共にする内、その厳しい現実から労働運動に加わり、救世軍の歌を「替え歌」にした労働歌で、民衆たちの支持を集めていった。だが銃撃事件の容疑者にされ、無実の罪で33才という若さで処刑されている。

ジョーン・バエズの主題歌『ジョー・ヒル』も有名だが、劇中に歌われる「替え歌」の数々が聴きものとなってる。
トミー・ベルグレンという役者の特徴的な優しい眼差しが、新天地アメリカの現実に心を痛めるジョー・ヒルのナイーヴな人物像に合ってて、彼の代表作といえるだろう。

俺は昔一度だけ名画座で見たきりだが、『みじかくも美しく燃え』と同様に、美しいカメラがアメリカの大地の風景を切り取ってるんで、是非スクリーンで再会したいもんだ。



『赤ちゃんよ永遠に』(1972)イギリス・アメリカ 
監督マイケル・キャンパス 主演オリヴァー・リード

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原題は『Z.P.G.』という。「ZERO POPULATION GROWTH」(人口増加数ゼロ)という、近未来の政府のスローガンだ。
子供が生まれなくなった未来世界というと、2006年の『トゥモロー・ワールド』を連想する。
あちらは謎の疫病によって妊娠できなくなるという設定だったが、この映画は人口増加を抑えるために、政府が妊娠を禁ずるという設定。夫婦には「赤ちゃんロボット」が支給されてる。

物語を転がすために、当然禁を破る夫婦が現れる訳だが、その夫婦をオリヴァー・リードとジェラルディン・チャップリンが演じてる。
妊娠をごまかすために色々細工したり、赤ちゃんの存在に気づいた別の夫婦に、口外しない代わりに、自分たちにも育てさせてほしいと言われ、一緒に育てる内に、互いの夫婦のエゴがぶつかってく様子など、描写は細かい。
禁を破った者は公開処刑に処せられるんだが、ドームの中で、時間をかけて酸素を減らしてくという、これもヤな死に方だな。
夫婦が都市からの脱出を試みる終盤の展開とか、『トゥモロー・ワールド』はこの映画をかなりヒントにして作られてるなと思う。

この当時は『最後の脱出』『オメガマン』『ソイレント・グリーン』など、未来へのペシミスティックな展望を背景に持った、「デストピアSF」が目立った。
それはSF映画の主流にもなってたが、それらを楽天的に吹っ飛ばしてしまったのが『スター・ウォーズ』だ。ルーカスは自分だって『THX-1138』なんていう、思いっきりデストピアなSFでデビューしときながらね。
俺はこの当時の辛気臭いSFが、それはそれで好きだったんで、ルーカスへの感情は複雑なもんがある。
この映画は一度どっかのメーカーからビデオが出てたが、それきりだ。



『雨のロスアンゼルス』(1975)アメリカ 
監督フロイド・マトラックス 主演ポール・ル・マット

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「ルーカスへの感情は複雑」と書いたが、俺は1970年代で1本挙げろと言われたら『アメリカン・グラフィティ』と即答できるのだ。もう何度見たかわからないし、本家の「午前十時の映画祭」でもめでたく選ばれてる。
なので俺にとっては、ルーカスは『スター・ウォーズ』の人ではなく『アメグラ』の人なのだ。

その『アメグラ』で白シャツにリーゼントでキメてたポール・ル・マットが、車好きのキャラをそのままに、自動車整備工を演じてるのがこの映画。
修理を頼みに来た人妻に惚れてしまうことから、悲劇へとひた走る。
ドラッグカーレースの場面も結構あったように記憶してるが。
ストーリーは何てことないもので、一番の特徴は、エルトン・ジョンの楽曲を全編に使ってること。
エンディングを飾る『ベニー・アンド・ジェッツ』はじめ『ユア・ソング』『ホンキー・キャット』や、『あの頃ペニー・レインで』で印象的に使われた『タイニー・ダンサー』も、この映画が先に使ってた。

「60年代はビートルズ、80年代はマイケル・ジャクソン」と象徴される中で、70年代はエルトン・ジョンの時代だった。その大スターの楽曲をこれだけ使ってるんだから、相当な使用料となってるはずで、映画のストーリーには金もかけられんだろう。

全体にモヤがかかるような柔らかい色調はウィリアム・A・フレイカーによるもの。ヴィルモス・ジグモンドとともに、70年代アメリカ映画の特徴的な「ルック」を作った撮影監督だ。

この映画は封切りの時に見てるが、名画座でかかって以降はほとんど見られる機会がない。
ビデオ・DVD化もされてないのは、エルトン・ジョンの楽曲使用に関する版権がネックになってると思われる。
フロイド・マトラックス監督は、この映画に出演してたティム・マッキンタイアを主役に起用した1978年の『アメリカン・ホット・ワックス アラン・フリード物語』で評判をとった。
ロックンロールの生みの親とされる、50年代の伝説のラジオDJアラン・フリードの伝記で、WOWOWで放映されてるが、俺は録り逃した。



『暗殺のオペラ』(1971)イタリア 
監督ベルナルト・ベルトルッチ 主演アリダ・ヴァリ

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先日『灼熱の魂』のコメントの中で、親の過去を子供が辿る映画を何本か挙げてみたが、この映画もそうだった。
ムッソリーニ政権下で、ファシズムと戦い命を落としたとされる父親の故郷の、北イタリアの小さな町の駅に、息子が降り立つ所から映画が始まる。町では英雄として銅像まで立てられてる父親の、死の真相を辿る息子は、そこで思いがけない事実に突き当たるという筋立て。

その息子が父親に瓜二つと、町の住民から言われ、町を去ろうと駅に行くと、線路は無くなっていたという、不条理テイストは、ボルヘスの原作ならでは。

これという激しい見せ場があるわけじゃない、静かな演出ぶりだが、なんといってもヴィットリオ・ストラーロの撮影が美しい。三谷幸喜監督が、自作の題名にもした「マジック・アワー」というもの。
夕暮れの十数分だけに見られる空の色を指す言葉だが、大抵引き合いに出されるのがテレンス・マリック監督の『天国の日々』のカメラだ。
だがストラーロはそれより前に、この映画でマジック・アワーを捉えている。

あとは食べ物を映したカメラ!スイカがでてくるんだが、その赤い果肉のみずみずしさ。主人公が訪れるハム職人の家に吊るされた、熟成を待つ豚肉は、香りまで漂ってきそうだった。

ベルトルッチにしては性的な描写は見あたらないが、主人公の出会う少年が、帽子を取ると長い髪の少女だったという場面がある。テーブルに腰かけた少女から、白い足が伸びていて、この監督の足フェチの片鱗は垣間見えたりした。
このストラーロのカメラはスクリーンで体感しないと駄目なのだ。



『ウィークエンド・ラブ』(1973)イギリス 
監督メルヴィン・フランク 主演ジョージ・シーガル、グレンダ・ジャクソン

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グレンダ・ジャクソンはこの大人のラブコメで、その年のアカデミー主演女優賞をゲットしてるのだ。
にも関わらず、この映画は今までビデオ・DVD化が一度もされてない。
理由はよくわからない。そんなに有名な楽曲とか使ってた憶えもないんだが。

『フォロー・ミー』と同じ時期で、舞台も同じロンドン。あちらは恋愛劇というより、心ときめく大人の散歩劇という、可愛らしさが作品の魅力となっていて、本家『午前十時』で何十年かぶりのスクリーン上映がなされた。
この映画もそれに倣って何とかならんかね。

こっちは妻子持ちのジョージ・シーガルと、バツイチのグレンダ・ジャクソンが、雨の日にタクシーに相乗りになって、知り合う不倫ドラマ。このきっかけの設定は後に、ジョージ・クルーニーとミシェル・ファイファーの『素晴らしき日』で流用されてた。
その妻子持ちとバツイチの二人が、週末だけ、アヴァンチュールを重ねようと取り決めをするんだが、男と女の関係はルール通りにはいかないのが常。
「ベッドに入るまで」ではなく「ベッドに入ってから」を描くというのが、大人のラブコメたる所以。

60年代後半から70年代終わりまで、主演作が引きも切らなかったジョージ・シーガル。
初めて見る人には「なんでこんな普通のオヤジが」と思うだろうが、そこに味があったのだ。
この人は銃で解決というマッチョなキャラでもないし、物事に動じない渋い男をキメるわけでもない。それどころか、いつもアタフタしてる感じだ。
しかしその軽妙さが、なかなか他の役者には出せない所。
しかも今のベン・スティラーとかのコメディ役者と違うのは、ギャグとしてキャラを作るわけじゃないとこ。だから観客は地続きで共感を覚えることができるのだ。
この映画は彼の「アタフタ芸」が最も炸裂してて、ヤバいくらい笑える。そして最後はしんみりさせる。名人芸だね。



『失われた地平線』(1972)イギリス 
監督チャールズ・ジャロット 主演ピーター・フィンチ、オリヴィア・ハッセー

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映画自体が「失われた」状態になってるのだ。1937年のフランク・キャプラ監督作『失はれた地平線』と同じ原作による二度目の映画化で、今回はミュージカル仕立て。パナビジョン70ミリで撮影されており、テアトル東京のシネラマ画面にて公開されてる。

当時見てる人は結構多いと思うんだが、これもビデオ・DVD化はなし。
音楽著作権がらみなんだが、この映画の場合はさらに込み入ってて、作曲のバート・バカラックと、作詞のハル・デヴィッドが、楽曲を巡って裁判沙汰になってるのだ。

映画自体もミュージカルなのに、歌える役者を起用してないなど、興行も失敗に終ったことも、封印につながる要因となってるのか。だがバカラックの楽曲のファンも多いはずだし、70ミリで撮られた大作なんだから、もう一度スクリーンでかかってほしいもんだ。

東南アジア某国のクーデターから脱出するため、イギリス人など5人を乗せた飛行機が、ヒマラヤに不時着。毛皮で身を包んだ一隊を率いる僧侶に導かれ、トンネルを抜けると別世界のような、草花が咲き乱れ、暖かな日差し降り注ぐ村に出た。そこは「シャングリ・ラ」と呼ばれる理想郷だった。

この設定はブータン王国をモデルにしてたかも知れないね。
オリヴィア・ハッセーは当時の人気女優だったし、何か1本と思いこれを選んだ。



『うず潮』(1975)フランス 
監督ジャン・ポール・ラプノー 主演カトリーヌ・ドヌーヴ、イヴ・モンタン

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ドヌーヴといえばクール・ビューティの象徴であり、あまり表情も崩さないという印象が、それまでの俺にはあって、どっちかといえば苦手な女優だったんだが、この映画の、それほど化粧っ気もない、じゃじゃ馬っぷりは新鮮で、はじめて好感が持てた映画だった。

いわゆる「孤島もの」というジャンルがあるが、この映画も、世界一の香水職人でありながら、ビジネスに嫌気が差して、孤島を借りて気ままな自給自足生活を送るイヴ・モンタンのもとに、結婚を直前にして、相手の金持ちオヤジから逃げてきたドヌーヴが転がりこんでくるという話。
ドヌーヴと日焼けほど縁遠いものはないと思ってたが、モンタンには鬱陶しがられながらも、野菜作ったり、島の生活に馴染んでいく彼女の活き活きした表情が素敵だ。

モンタンも、アメリカの役者でいえば、先のジョージ・シーガルに通じる「大人の男の持ち味」で勝負できる人。
この二人は意外にもこの映画が初共演だったが、いがみ合ったりする場面も息も合ってて、とにかく見てて楽しかったという印象がある。
孤島を囲む海の景観とか、カメラも綺麗だし、リゾート気分にも浸れる映画。
ラストがまたいいんだよね。
この映画はドヌーヴ作品のDVD-BOXに収められてるんで、見れないわけじゃないんだが、気分的にスクリーンが合ってると思うので。

2011年12月27日

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コメント 2

ヒロシ

1972年「失われた地平線」のレーザーディスク持ってますよ。10年くらい前にアメリカで購入しました。
by ヒロシ (2012-10-11 13:33) 

jovan兄

ヒロシさま。

コメントありがとうございます。
それはすごいですね。超貴重ではないですか。
LDプレーヤーはまだ駆動してますか?
ウチのはとっくにおしゃかになりました。
by jovan兄 (2012-10-11 23:58) 

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