TIFF2012・5日目『パーフェクト・ゲーム』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『5月の後』
『インポッシブル』
『パーフェクト・ゲーム』



『5月の後』(ワールドシネマ)

5月の後.jpg
『カルロス』の5時間完全版が公開実現に至った、オリヴィエ・アサイヤス監督の最新作。
アサイヤス監督は俺より年上だが、1960年代後半の「学生運動の季節」には、間に合わなかった世代にあたる。
フランスにおいて、学生運動の高まりがピークに達した1968年の「5月革命」から遅れること3年の、1971年に、政治活動に傾倒した高校生たちの日々と、その後の人生を描いている。

最初は主人公たちがキャンパスで私服でいるし、演じてる役者たちが十代に見えないこともあり、政治活動をしてるのが高校生だという設定に面食らった。

妙な言い方だが「さすがフランス」というのか。
日本では学生運動は、大学生が主導するものという概念があり、理屈で育つフランス人は、十代半ばでも社会意識が芽生えるもんなのかと。

アサイヤス監督は「乗り遅れてしまった世代」の、ある種の引け目めいた心情を、率直に映画に焼き付けようとする。
映画の中で、警備員に大怪我を負わせて、イタリアに逃げていた高校生のジルが、戻ってきたパリで、仲間のひとりから
「お前はしょせん傍観者だ」
と云われる場面がある。

この映画を見ていて連想するのは、山下敦弘監督の『マイ・バック・ページ』だ。
あの映画も1971年に、革命家を標榜する青年が起こした事件と、その青年と関わった同年代の週刊誌記者の苦渋を描いていた。

原作者の映画評論家でもある川本三郎が、自身を投影した週刊誌記者像というのは、当時学生運動とは距離を置き、当事者として立てないコンプレックスから、パラノイアでしかなかった革命青年に思い入れてしまっ悔恨が核となってた。
彼の中にも「傍観者」のそしりを免れないという気持ちが常にあったのでは?

当事者よりずっと下の世代である山下敦弘監督が、イデオロギーから離れた視線で、あの時代の青春を追体験するように描いた『マイ・バック・ページ』と、この『5月の後』の、熱い季節の残り香をかぐような青春映画としてのテイストに、同じような屈折を感じもした。

これは70年代世代の特有な心情ではないかと思う。
自分の兄貴たちが過ごした激動の季節が過ぎ去り、社会意識に目覚めるような頃には、もう何もなかったような「白々とした」空気が漂ってたのだ、あの頃は。


この『5月の後』は、高校生のジルが、反体制色の強い新聞を作り、デモに参加して警官隊に追われ、深夜の校舎に忍び込んで、壁一面にメーセッジをスプレーしたりという、その行動をきびきびと、躍動感が溢れるカメラで切り取っていく。

ジルがガールフレンドとつかの間、気を休める森の瑞々しい緑の描写など、映画を鼓動させるアサイヤス監督の演出が素晴らしい。

高校を出た後に、仲間たちは別々の道筋を辿る。
社会的メッセージを掲げたドキュメンタリーを製作し、自らの信条にブレを見せない同級生のクリスティーヌに対し、ジルは少しずつズレていく。
リエイターを志す仲間たちの中で、ジルも映画製作の道に入るが、その現場は、ナチと怪獣が出てくるSF映画だった。
ジルの過去を振り払えないようなグズグズ感は、俺はわかる。

高校生のジルとガールフレンドが、映画館に行く場面で上映されてるのは、
このブログの「午後十時の映画祭」70年代編で選んだ
『愛とさすらいの青春 ジョー・ヒル』だった。
労働者たちに団結を促す歌を唄ってる場面だ。



『インポッシブル』(ワールドシネマ)

インポッシブル.jpg

昨年3月11日の「東日本大震災」の直後、公開中だったイーストウッド監督の『ヒアアフター』が、急遽公開取り止めとなった。
冒頭の津波の場面があまりに生々しいという理由からだ。

1年が経ったが、今年の「TIFF」で上映された、この『インポッシブル』の津波の場面は、さらに凄まじい。

2004年の12月26日に、インドネシア、スマトラ島沖で発生した巨大地震による、大津波に呑まれた、島のリゾート客のある一家を描いた、実話の映画化だ。
モデルとなったスペイン人一家を白人に置き換え、ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツが夫婦を演じてる。


男の子3兄弟を連れて、ホテルのプールで遊ぶ、その最中に前ぶれもなく、海岸を津波が襲い、あっという間に家族は散り散りになる。

この冒頭数分後の津波の描写は、1年経ってはいても、やはり一般公開するのは躊躇するだろう。
この場面だけで、セットも含めて1年をかけたという製作陣の言葉が誇張には思えない。

どうやってあの濁流のスケールを再現したのか?
数年前に韓国映画が、CGを多用して描いた『TSUNAMI』というパニック映画が公開されたが、あんなものじゃない。


濁流の中で、ナオミ・ワッツ演じる母親マリアと、10才くらいの長男ルーカスが、互いの姿を目撃する。
カメラは二人のほぼ顔の高さに合わされ、見る者も濁流に流されてる感覚に陥る。
息が苦しくなるほどだ。
濁流が押し流すのは、もちろん波だけではない。
その地上にあったあらゆるものが、猛烈な勢いでなぎ倒され、流されてる。
それが容赦なく二人の体を直撃する。

ようやく同じ倒木に掴まり、無事を喜びあった母と息子だが、母親マリアの負った傷が、あまりに無残なことに、ルーカスは絶句する。
全身に傷を負ってるから、マリアは気づかないのだが、その後ろ足のふくらはぎの部分が、皮膚が肉ごと大きく剥がれて、ぶら下がってる。
生死を分かつサバイバルは、ここから始まったのだ。

小さな子供の叫び声に、マリアは助けに向おうとする。
ルーカスは「今そんなことはできない」と。
だが母親は頑として聞かない。
ルーカスたちに救い出されたのは、幼い男の子だった。
3人は大きな木の上に身を寄せ、男の子は疲弊するマリアの髪を撫でる。

もうこの場面あたりから、ユアン・マクレガー演じる父親ヘンリーが、離ればなれになった家族たちを探す過程にいたるまで、胸に迫るような描写の連続だ。

ナオミ・ワッツは最初だけ、いつものブロンドの美しい表情で出てくるが、あとは満身創痍のメイクと、死が迫る表情に終始する。
ナオミ・ワッツはこの役に体を張れる女優だと知った上でのキャスティングだったのだろう。

物語の中心は、その母親を支え続ける長男ルーカスにあって、演じるトム・ホランドという少年が素晴らしい。

前半の妥協のない描写が圧倒的なだけに、後半の「どれだけの幸運が積み重なったのか」と思えるような展開は、足早に事実が指し示す結果に突き進んだ印象を与える。

もちろん諦めることをしなかった、この家族の信念が生んだものではあるんだろうが、大多数の被害者は、愛する者を失ったまま、成す術もないのだ。
その残酷が、家族の幸運にかき消され兼ねない、そんな複雑な感情も去来する。


「3・11」が起きるまでは、それこそ70年代のパニック映画ブームに端を発し、日本人は客船が転覆したり、ロスが大地震に見舞われたり、超高層ビルが猛火に包まれたり、そういう光景にスリルや感動を求めて見てきたのだ。

「エメリッヒ映画」も、底が浅いとは云われながらも、なにかその破壊のカタストロフに魅入られる、そんな思いで映画館に詰め掛けた。

いま同じようにパニック映画を楽しむ心情にはならないだろう。
だがこの『インポッシブル』は、ジャンルでいえば「パニック映画」であり、災害に晒された人間たちの闘いを描いたドラマだ。

そしてセットの手のかけ方や、妥協のないサバイバル演出、役者の演技力に至るまで、このジャンルで最高の水準にあると思う。

以前であれば「泣けるパニック映画」の決定版として、堂々と宣伝を打っていただろう。
この映画の公開に踏み切れるかは、何とも云えないところだ。配給先も決まってないようだし。

キャストにはハリウッドスターを配してるが、製作クルーはスペイン人たちで占められてる。
自国の家族たちの実話だからだ。
監督のJ・A・バヨナは『永遠の子供たち』に続く2作目だが、その演出力には感服するしかない。



『パーフェクト・ゲーム』(アジアの風・中東パノラマ)

パーフェクトゲーム2.jpg

韓国の「野球映画」だ。これを見ようと思ったのは、韓国映画がスポーツものを、どのくらいの見応えを持って描けるのか、ということに関心があったからだ。

というのも、翻って日本映画というのは、とにかくスポーツを描くのが下手だからだ。
いわゆる個人種目的なものはまだしも、球技がほんとに駄目。

野球映画でも『タッチ』とか『ルーキーズ』とか、とにかく試合場面が盛り上がらない。
それは見せ場の前にさんざ「ため」を作ってしまうからだ。
競技としての流れが寸断されてしまい、作り手が大仰に盛り上げようとすればするほど醒めてくる。
結果ユーモアも足りなくなる。

スポーツ映画に欠かせないのは、アメリカ映画を見ればわかるが、迫力ある試合場面に、スッと笑いを放りこむ、そのバランス感覚なのだ。
それがスポーツの持つ、開放感につながっている。

韓国映画の持ち味を見てくると、スポーツものに向いてるんではないかなと、以前から思っていた。
試合場面はとにかくテンション上げて、臨場感で押し切ろうとするだろうし、ドロ臭いギャグも構わず放りこんできそうだし。
この映画はまさにそんな予想通りの仕上がりになってた。


ソン・ドンヨル(宣胴烈)という投手のことは俺も憶えてる。
ドラゴンズファンではないから、思い入れがあるわけじゃないが、90年代にドラゴンズのストッパーとして、その存在を示してた。球が速かったな。

そのソン・ドンヨルが日本に来る前、韓国プロ野球リーグで、ヘテ・タイガースのエースとして、右腕を唸らしていた時代の実話を描いている。

韓国では1982年にプロ野球リーグが設立され、彼はその萌芽期を飾るスターであり、エース投手だった。
その彼の先輩格でライバルと云われたのが、ロッテ・ジャイアンツの絶対的エース、チェ・ドンウォン(崔東原)だ。
両エースの投げ合いは、その登板試合が決まると、号外が出されるほどのイベントだったようだ。


二人は3度投げ合っていて、1勝1敗で臨んだ、1987年5月16日の、延長15回を二人で投げ抜いた死闘が、この映画のメインとなってる。
もちろん二人が主役だが、それぞれに因縁深いチームメイトにフォーカスを当ててるのが、いいアクセントになってる。

チェ・ドンウォンと、かつては同じ恩師のもとで、高校野球に励んでいた4番で一塁手のキムは、エースのプライドからチームの選手を見下すような態度をとるチェ・ドンウォンと、なにかにつけ衝突するようになる。

その反目から和解にいたるドラマもいいのだが、もう一方、ヘテ・タイガースで、ソン・ドンヨルの同僚でありながら、ブルペンキャッチャーの身に甘んじ、一度も1軍での試合出場がないという、パク・マンスのエピソードが泣かせる。
ソン・ドンヨルは彼のキャッチングの安定感を認めてはいた。

そのパクが、5月16日の試合で、総力戦となり、9回にはすべての代打を使い果たした監督から、グラウンドに出ろと言い渡される。

パーフェクトゲーム.jpg

9回2死、1点差で負けている、絶体絶命の状況で、アナウンサーも出て来た代打の選手を知らない。
だがパクはその打席で、相手のエース、チェ・ドンウォンから、起死回生の同点ホームランを打ち込む。

パク・マンスを演じたのは、今年見た『ミッドナイトFM』で、大ファンの女性DJを助けようとしてるのに、ストーカー扱いされる中年男を演じて、強い印象を残したマ・ドンソクだ。
この映画で出てきた時、ひと目でわかった。
このパク・マンスの見せ場が、俺としては胸熱最高地点だった。

チーム同士の選手や、ファン同士の衝突っぷりが、ベタなユーモアで描かれていて、だがそういうのが必要なのだ、このジャンルには。

終盤は韓国映画特有の、「盛って盛って」な描写がたたみ掛けられるんで、若干胸焼けは起こすが、まあそれも味のうちだし。

2012年10月24日

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