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ジェーソン・ボーンの遺産は有効活用されたか? [映画ハ行]

『ボーン・レガシー』

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時系列としては「ボーン・シリーズ」3作目の『ボーン・アルティメイタム』の劇中で起こってた時期に発生してた、もう一つの重大な事案という描かれ方になってる。
これは「スピン・オフ」と呼ぶべきなのか「新生ボーン・シリーズ」と呼ぶべきなのか?

「ボーン・シリーズ」3作すべての脚本を担当してたトニー・ギルロイが、今回は監督も手がけ、印象としては「なんとか合わせてみました」って所じゃないのか。

マット・デイモンは出てこないが、「ボーン・シリーズ」でマットを追う側のCIA関係者は、ジュリア・スタイルズ以外は、同じ役者が再び出演してる。


暗殺者育成プログラムである「トレッドストーン計画」、その精度を高めた「ブラックブライアー計画」も、同じように語られてる。
さらに平行して極秘に進められてたという「アウトカム計画」の完成品といえる暗殺者アーロン・クロスが今回の主役であり、アーロンを抹殺するために放たれたのが、「ラークス計画」による最強の刺客であるという、もう「計画」しすぎだろ合衆国という状態に陥ってるのだ。

なので「ボーン・シリーズ」のアウトラインが、見る側の頭に入ってることが前提になってて、
「ああ、ここにつながるのか」という楽しさはたしかにある。
だがなにより、主役のキャラクターがはっきりと違うので、「ボーン・シリーズ」の本質には外れてるようにも感じる。


『ボーン・アイデンティティ』を嚆矢とした、スパイ映画の新しいフォーマットを打ち立てたシリーズは、肉体と知力を尽くした逃亡劇の面白さと、臨場感に溢れたアクション演出で語られることが多い。

だが肝となってるのは、記憶を失った青年が、自分が何者かを探るほどに、おぞましい行いに手を染めてたという事実に葛藤を深めていく、その痛切さにあったのだ。
「逃げながら、追い求める」という二律相反するボーンの行動は、きわめてスリリングでありながら、答えを知っても救済は得られないという、ホロ苦さを常にまとっていた。

俺は2作目の『ボーン・スプレマシー』が好きだが、それはかつて自分が命を奪ってしまったロシア人夫婦の、遺族の娘に真実を告げに訪れる、あのエピローグがあるからだ。

ボーンスプレマシーオクサナアキンシナ.jpg

ちなみに遺族の娘を演じてたのは『リリア 4-ever』のオクサナ・アキンシナだった。


今回、ジェレミー・レナーが演じるアーロン・クロスは、自分が何者であるかはわかってる。
映画冒頭での、アラスカ山中の単独サバイバル訓練の描写に見るように、まだ暗殺者として、実践の任務には就いてない。
これは映画としては上手い設定で、もしすでに暗殺行為を働いてた主人公だったら、記憶を無くしてるというわけでもないし、必死に逃げた所で、見る側の共感は得られないだろう。
なぜアーロン・クロスは逃げることになったのか?


『ボーン・アルティメイタム』で、CIAの極秘プログラムのネタを掴んだジャーナリストが暗殺される場面があった。
「暗殺者育成プログラム」の存在がマスコミに暴かれる危険性が高まり、全てを知ったジェーソン・ボーンや、CIA内部調査局のパメラ・ランディの告発もあり、事を重んじたNRAG(国家調査研究所)によって、進行中のすべての計画の証拠隠滅が図られることになったからだ。
世界各地に散らばる「暗殺者」たちの抹殺指令が下ったのだ。

暗殺者たちは、みな継続的な血液採集と、薬の服用が義務づけられてた。
「青」の錠剤は身体能力の維持、
「緑」の錠剤は精神や知力の向上に作用するとされていた。
NRAGは工作員を通じて、暗殺者たちに「黄色」の錠剤を服用させた。

一つの錠剤で今まで同様の効力があるとか説明されたのだろう。
黄色の錠剤を服用した者は、すべて謎の死を遂げた。


アラスカで訓練中のアーロンにも、現地の工作員から「黄色」の錠剤が手渡される手筈になってた。
だがアラスカの山小屋でアーロンを待ってた工作員「No3」は、思うところあってか、アーロンに錠剤を渡さない。一方のアーロンは訓練中に、青と緑の錠剤を誤って無くしてしまい、工作員に「予備をくれ」と言うが、貰えない。
この「No3」がどうも思わせぶりなキャラで、アーロンのことを疑ってるようでもあり、認めてるようでもあり。

そんな感じで山小屋の二人がまったりしてるんで、しびれを切らしたのか、NRAGは無人偵察機「プレデター」をアラスカへと向わせる。

もともとアーロンが義務づけられてる血液サンプルを乗せて、送ったその「プレデター」が、また戻ってくるような気配を、二人は怪訝に感じるわけだ。
アーロンの体内には、位置を把握できるカプセル式の発信機が埋め込まれており、「黄色」の錠剤を飲んで死んだ筈のアーロンが、まだ生きてると認識したNRAGが、もっと直裁的な抹殺を図ろうとしたわけだ。
それを寸前で回避したアーロンは、身の危険が迫ってると感じ、アラスカの地から逃亡を開始する。


だがアーロンにとって、逃げることよりも、もっと切迫してるのは、青と緑の錠剤を飲まないと、自分に異変が起こるのではないかという、パニックに近い不安なのだ。

俺はこのキャラクターが、ボーンと比べて弱いと思う。
本人は「クスリが切れるからクスリくれ!」
と必死になってるだけに見えてしまう。

ボーンが記憶をたぐるほどに、CIAの極秘計画の全貌が見えてくるという、「ボーン・シリーズ」にあった、ストーリーの有機的なつながり具合が感じられないのだ。
アーロンには自分がこの先命じられたであろう、手を汚すような仕事への葛藤は見られない。

とにかく目の前の「クスリ」問題を解決しなけりゃならないんで、その方面の人間に接触を図る。
それがアーロンの体調管理を行う製薬研究施設のマルタ博士だ。
研究施設内で、同僚の研究員が、突然銃を乱射し、施設の人間を次々と撃ち殺していて、マルタは数少ない生き残りの一人となっていた。

ショックで、森の中に佇む借家を引き払おうとした時、CIAを名乗る男女が訪問してくる。
目的はマルタの抹殺だった。
だが丁度彼女の居所を突き止めていたアーロンが、危機一髪、マルタを救い出す。


この場面でアーロンの暗殺者としての傑出した能力が、はじめて発揮されるんだが、この家の見た目が、『ボーン・アイデンティティ』のクライマックスの銃撃戦の舞台となった家とよく似てる。
回り階段の感じとか。

マルタを演じるのはレイチェル・ワイズ。なんか久しぶりに見たが、この映画では彼女がポイントゲッターと言ってもいい。
この場面から先は、アーロンとマルタ二人の逃亡劇となってく。
マルタな様々な危機的局面で、ただアーロンに守られるわけではない。
「私はただ研究をしてただけ」と及び腰だった彼女が、だんだん腹くくって逞しくなってく様子を、レイチェル・ワイズは情感こめて演じてる。
「逃げて!アーロン!」
と叫ぶ場面はよかった。声が凄かったね。

NRAGの統括責任者リックを演じるのはエドワード・ノートン。
指令室から一歩も出ることなく、アーロンたちを追いつめてく。
身体能力と、情報伝達能力との追いかけっこは、アメリカを出て、マニラへと及ぶ。

現地の刺客である「ラークス計画」の暗殺者を、ルイス・オザワ・チャンチェンが演じる。
『プレデターズ』で、日本刀で戦い挑んでた、松ちゃん似の、あの役者だ。
俺は彼の登場に、劇場のシートで前のめりになってしまった。
今回もほぼセリフはなく、その殺気のみで演じ切ってしまうのだから頼もしい。


このクライマックスのアクションが、マニラ舞台なんで、どことなく香港映画の無茶なアクション演出にカブる感じで、その感触が楽しかった。
ここでヒートアップさせて、辻褄あわせようみたいな意図を感じなくもないが。

そうなると、監督はトニー・ギルロイだが、功績はセカンドユニットであるアクション監督のダン・ブラッドリーにあるんじゃないか。

ちなみにダン・ブラッドリーはリメイク版『若き勇者たち』では初監督の大役を務めてる。
本国では12月公開だが、今回では侵略してくるのが、はっきり北朝鮮となってる。
アメリカ本土を侵略するような軍事力があるとも思えないが。

2012年9月30日

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『ハンガーゲーム』は併行世界のアメリカ [映画ハ行]

『ハンガーゲーム』

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ジェニファー・ローレンスが予め主役を演じることを当て込んでたわけではないだろう、にも関わらず、不思議なくらいに、『ウィンターズ・ボーン』とリンクするような内容だった。


『ハンガーゲーム』の舞台は、もとはアメリカであった全体主義国家パネム。
キャピトルという支配者層が暮らす都市があり、その都市の繁栄に寄与させるため、国土を12の地区に分け、住人たちは異なる産業に従事している。

74年前に、大規模な反乱戦争が起こり、12地区の住人が一斉に蜂起した。
だがキャピトルはそれを鎮圧し、再び全土を統治すると、国民に絶対的な服従を課すために、毎年恒例のイベントを催す。

12地区に住む、12才~18才までの男女それぞれ各1名づつが抽選で選ばれる。
これは「刈り入れの日」と呼ばれ、地区の住人はその抽選の場に集められる。

選ばれた24名はキャピトルに送られ、「競技場」の中で、生き残りを賭けて闘うことを強いられる。
広大な森林地帯で、僅かな武器を手に、飢えに晒される「ハンガーゲーム」。

勝者は他の23名との闘いに勝ち残った1名のみ。
その勝者と、勝者の出身地区は相応の富を手にできる。

そのゲームは12地区全土に生中継され、国民は見ることを義務づけられてる。
それは強大な国家の力を見せつけるためでもあり、反面、臨場感たっぷりの娯楽として提供することで、搾取され続ける国民の鬱憤に対する「ガス抜き」の作用として働いてもいた。
そういう世界観の設定になってる。


ジェニファー・ローレンス演じるカットニスは、抽選で選ばれた12才の妹に代わって、自分が「ハンガーゲーム」への参加を志願する。

カットニスは、石炭産業に従事させられてる「第12地区」の出身で、父親は炭鉱の事故で命を落とし、母親はそれ以来、生きる気力を失ってる。
妹の面倒はカットニスが見てきたのだ。


『ウィンターズ・ボーン』でジェニファー・ローレンスが演じるリーという少女は、ミズーリ州オザーク山地の村に住む、貧しい白人一家の長女だ。

父親は失踪していて、母親は同じように廃人同様となってる。
長女のリーが幼い弟と妹の面倒を見てる。
狩りの方法や、獲物の捌き方も教えてる。
カットニスも弓の名手で、狩りの技術に秀でてる所も似てる。

リーは、家を抵当に入れたまま失踪した、父親の行方を探るのだが、土地を支配する一族の掟の前に、自らの身も危険に晒すことになる。

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ミズーリ州のこのあたりには、かつては炭鉱もあり、石炭産業で栄えたことがあったようだが、
『ウィンターズ・ボーン』で描かれるこの土地には、さしたる産業もなく、住人たちの多くが、一族が仕切る麻薬の製造に関わってるという設定になってた。

『ハンガーゲーム』での、全体主義国家で、炭鉱労働に従事させられる、貧しい「第12地区」の描写と、自由主義国家アメリカの現在の、ミズーリ州の山村の生活が、さして変わらないように映るのが皮肉だ。


『ハンガーゲーム』では意図的に、国民たちの着る服などが、古い時代のものになってる。
『怒りの葡萄』とか、あの大恐慌時代の頃の雰囲気だ。
女性の簡素なドレスとか、若い男の髪の撫でつけ方とか。
『ハンガーゲーム』はSFではあるから、遠い未来の話とも思えるし、だが時代設定がされてないので、「併行世界」という設定と捉えることもできる。

第2次大戦で、アメリカもまた核の惨禍を浴び、国土が焼き尽くされ、その後に全体主義国家として統治されるという。

この映画は2012年に製作されてるが、そこから映画の「74年前の反乱戦争」に沿って年表を遡れば、
1938年という「第2次世界大戦」前夜に合致する。
国民の服装を鑑みても、「あり得たかも知れないアメリカの現在」という解釈も可能だろう。


深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』との類似も指摘されてるが、あの映画は、いきなり中学の教師に「今日はみなさんに殺し合いをしてもらいます」
と宣言された生徒たちが、否応なく生き残りをかけたサバイバルの場に放り込まれてた。

この『ハンガーゲーム』の場合は、少年少女たちにとって、極端化された「通過儀礼」のように見えたりもする。
カットニスという一人の少女に焦点を合わせることで、彼女の心の葛藤を捉えていくのだ。
カットニスはもちろんゲームの残酷さをわかってるし、参加だってしたくはない。
だがやる以外に選択肢はない。

キャピトルに送られる過程で、今までの貧困生活では経験したことのない世界を垣間見ることになる。
「戦士」としてキャピトルの観衆の声援を浴びる。
煌びやかなドレスに化粧を施され、少女はその興奮に揺れる。
誰からも顧みられることもなかった自分が、注目を浴びる存在になってるのだ。

印象的な場面がある。カットニスが、審査員の期待値を得点に換算するための、デモンストレーションに臨む。
カットニスは得意の弓を的に放つが、審査員たちは飲食にかまけて、まるで見ていない。
そこでカットニスは、審査員席に弓を向け、料理を射抜いて、ド肝を抜かせる。
無関心に対する怒りの一矢だった。


「通過儀礼」と書いたのは、よく昔「驚異の世界」とかいうドキュメンタリー番組が放映されてて、未開の部族たちの村の慣習で、成人の儀式なんかを紹介してた。
バンジージャンプの元祖みたいなことをさせられたりね。
その意味するところは、
「この試練を乗り越えることができれば、お前を一人前の大人として認めてやる」
という、大人社会からのお墨付きのようなものだ。

だがそれが成立するためには、若者にとっての「大人社会」が畏れを抱く、絶対的な価値観として存在してなければならない。

目上の者から生きる知恵を授かり、社会の規範を叩き込まれる。
今でもそういう「小さな村社会」の集合体として、生活を営んでる人たちは、この地球上に存在してるだろう。
だが先進国といわれる国にそれはない。
ないというより、なし崩し的に、そういった慣習が消え去ったということだ。

規範意識の希薄な大人たちが形作った社会で、少年少女たちは、なんのハードルも課されることなく、20才になれば「はい成人おめでとう」と言われる。
「これからは酒もタバコもOKです」
って、そんなもん中学の頃からやってるよ、たいがい。
20才というのは、19才の翌年にはなるものという意味合いしか持たない。

よく成人式で騒ぎ起こしてるのが、ニュースで流れてて「バカだなあ」とは思うが、一方で形骸化した
「成人の儀式」に、苛立ちを感じてる部分があるかもなとも思う。
市長が出てきて訓示垂れたって、「だからなんだよ」という気分だろう。

「これを乗り越えたから大人と認める」というハードルがない。
逆にいえば「お前は20才かも知れんが、大人とは認められない」
と言われることがあってもいいんじゃないか?

もちろんそんな事を言った所で、具体的な「通過儀礼」なんて、成立しようもない。
「徴兵制度」がその役を成してはいないことは、お隣の国を見ればわかることだし。

アメリカの十代の観客の大きな支持を受けて、この『ハンガーゲーム』が大ヒットしたという背景には、もちろん原作小説の内容の奇抜さとか、あるだろうが、主人公のカットニスが、過酷な試練に晒される、その過程を我が身に置き換えて、感情移入できるからではないか。


それは「通過儀礼」というものに対する、ある種の憧れだ。
カットニスが審査員の無関心に、怒りの矢を放った場面には、自分が成人しようがしまいが、大人は関心を持ってくれない、という事への、少年少女たちの苛立ちが込められてるように映った。

この映画が『バトル・ロワイヤル』のような、殺伐とした子供たちの殺し合いを、正面きって描かずに、カットニスの行動と心の動きにフォーカスしてるのは、そういう理由によるものだろう。

殺しあう描写はあるが、残酷さは抑えられてる。
なのでセンセーショナルな内容を期待すると肩すかし食らう。

キャストに関しては、とにかくジェニファー・ローレンスで支えられてる映画だ。
最初からシリーズ化が決まってたようだが、もし彼女が降板するなんてことになったら、相当しょぼくなってしまうだろう。
監督のゲイリー・ロスは、この1作目を大成功に導いたにも関わらず、続編の監督を辞退してる。

2012年9月29日

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『エイリアン』からこんな小難しいことに [映画ハ行]

『プロメテウス』

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「人類の起源の謎に迫る」という触れ込みで客を呼ぼうということなんだが。
「人間はどこから来て、どこへ行くのか?」
というのは人類最大の命題でもあり、たびたび映画のテーマに掲げられてきてる。

俺としては『トータル・リコール』の時に、「本当の自分とかどーでもいい」と書いたのと同様に、
「人類がどっから来たか?」なんてことも、どーでもいい。
享楽主義者だから、今日に満足できてればそれでいい。
どーでもいいんだけど、SFは好きだし、リドリー・スコットの映画も、何を見せてくれるかという期待があるから、見に行くわけだ。

そして冒頭で、山海塾系の人が、黒酢みたいなもの飲んで、体がバラバラになって滝つぼから落ちて、DNAが千切れるみたいな描写を見るにつけ、
「これはそう大それたことを描いたもんではないな」と気分も軽くなる。


映画はその後、2089年の時代設定で、スコットランドのスカイ島の洞窟で、女性考古学者エリザベスが、3万5千年前の洞窟壁画を発見する場面を描く。
星を表したような球体がいくつか描かれ、それを指し示す者の姿も描かれている。

『エイリアン』にも出てきた企業「ウェイランド」社は、未知の惑星を探査する「プロメテウス」号の乗組員を招集していた。探査の意図を説明するためだ。
エリザベスは恋人でもあるホロウェイ博士とともに、画像の解説をした。

スカイ島の壁画と同じ球体を描いた壁画が、メソポタミアほか、世界各地の古代遺跡からすでに見つかっている。
これは「サイン」であり、人類の創造主から送られた「招待状」ではないか。
エリザベスは創造主のことを「エンジニア」と呼んだ。
壁画に描かれた球体の配列から、該当しそうな惑星をはじき出していた。


『エイリアン』でも、貨物船ノストロモ号が、ある惑星からの信号を、「救難信号」と思い、その惑星に向かったことで災難に合うのだが、今回も似たようなとっかかりだ。

「好奇心が猫を殺す」ではないが、人間の好奇心や探究心というものが、自ら厄災を招くというのは、SFの分野ではよく見られる。
1995年の『スピーシーズ 種の起源』でも、20年前に宇宙に向けて発信した人類からのメッセージに、反応が返ってくる。
それはDNAの配列のようであり、そのDNAと人間のDNAを結合させる実験の末、生まれた子供が、人類侵略の先鋒となる内容だった。
そういえば『エイリアン』の船には猫も乗ってたな。


プロメテウス号は「LV223」と名づけられた惑星に接近する。
2年以上の眠りから覚めた17人のクルーは、土星のような輪のある、その惑星の、灰色で荒涼とした大地に降り立った。
滑走路のような直線がひかれた、その先には巨大なドーム状の遺跡が見える。
惑星の大地は宇宙服に身を包んでなければ、呼吸もできない環境だったが、遺跡の中は酸素が作られており、ヘルメットを脱いでも問題ないことがわかる。

探査隊の中に、ウェイランド総帥自らが「生みの親」である、人間型アンドロイド、デヴィッドがおり、遺跡の壁にあるスイッチに手を触れると、探査隊のメンバーたちの前に、ホログラムの映像が現れる。
この遺跡の住人たちが必死で逃げてる映像だ。その先を追うと、ミイラ化した遺体に遭遇した。
死後2000年ほど経ってると測定された。

デヴィッドがミイラが倒れてる扉を開けようとしてる。エリザベスの制止も遅く、なんで開け方がわかるのか知らないが、とにかくデヴィッドは扉を開けてしまう。
その空間には人間の顔そっくりな巨大な彫像があり、地面には無数の壺状の物体が並んでる。
扉で切断された遺体の頭部をエリザベスは持ち帰ることにする。
そしてデヴィッドは秘かに、その壺をバッグに忍ばせた。

猛烈な砂嵐の発生を警告され、探査隊はプロメテウス号に帰還。
だが生命体のミイラを見て、その先の探査は御免だと別れたはずの生物学者と地質学者のコンビは、まだ船に戻ってなかった。遺跡の中で迷子になってしまったのだ。


ここから先はほぼ『エイリアン』のような展開だった。
わからないのは、マイケル・ファスヴェンダー演じるアンドロイド、デヴィッドの行動だ。
初めて訪れる惑星の遺跡の、からくりめいた部分に対する知識がすでにあるような描かれ方だ。

デヴィッドは持ち帰った壺から採取した液体の一滴を指に採る。
「小さな事が大事に至る」
と呟いて、その一滴をホロウェイ博士の酒の中に落とす。その時に
「創造主を見つける旅の結果に待ち受ける答えを、受け止める覚悟はあるか?」
というような問いを投げかけてる。

ホロウェイはすぐに体に異変を感じる。
鏡で顔を凝視すると、眼球から尻尾が一瞬見える。


エリザベスはミイラの頭部を解剖していた。硬い表面はヘルメット状のもので、デヴィッドがそれを外すと、生命体は人間のような顔をしていた。
電気ショックを与えると頭部は爆発し、そのDNAを検査すると、驚くべき事実が判明した。
人間のDNAの型と完全に一致したのだ。

部屋を訪れたホロウェイに、エリザベスはその事実を告げる。
その生命体は人間のルーツなのか?
ではなぜそれが滅んでしまったのか?
謎に一歩踏み込んだ興奮が二人を包んでいた。二人はそのまま抱き合った。


明らかに何かに寄生されたホロウェイと、肉体的に結合したエリザベスの身に、何が起こるかは誰でも判る。このプロメテウス号には、「人工手術マシーン」というものが搭載されてる。
エリザベスは惑星に降りる前に、女性監督官ヴィッカーズに部屋に呼ばれ、その時に初めて目にしてるのだ。
カプセルに横たわると、あとは患者の指示に応じて、ロボットアームなどが、自在にオペしてくれる優れものだ。


ホロウェイの抱き合った、その10時間後に、早くも腹部に猛烈な違和感を感じたエリザベスは、
「人工手術マシーン」を必死に稼動させ、オペを要請する。
「帝王切開して!」
「手術は男性専用です」
「は?」みたいな。
「もう帝王切開じゃなくていいから、お腹痛いの何とかして!」
と半ギレ状態でカプセルに入って、腹部切開の指示を出す。
すでに腹が波打ってる。
局部麻酔で、真横にメスを入れ、丸い塊を取り出す。塊が弾けてイカみたいなものが暴れてる。
いまにもアームから外れそうだ。
エリザベス必死で縫合を指示。バチンバチンとホチキスみたいに止めてく。
「もうそれでいい!」って感じでカプセルを脱け出し、ヨロヨロと船内へ。誰か助けてやれよ。
腹かっさばいた直後にあれだけ動けるとか、もう根性でしかないな。

『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でリスベットを猛演したノオミ・ラパスを起用した意味がわかった。この場面がインパクトありすぎて、あとの場面が印象薄れてしまってる。


一応、創造主に関する見解めいたものは提示されてるが、「この世界を誰がどう作ったか?」というようなことは、ハリウッド映画においては、「キリスト教」的宗教観であり世界観がベースになっている。この映画の中でも、キーワードになるような聖書からの引用とか、そういう仄めかしがこめられてるのだろう。
そのキーワードを探り当てながら、映画のテーマを解釈するというのは、ミステリーの謎解きの、知的興奮があることはわかる。

この映画に限らず、ハリウッド映画にはしばしば聖書からの引用や、ギリシャ神話からのモチーフや、信仰をベースとした原罪を背景に持つ物語が作られる。
アメリカ映画を理解するには、聖書に関する知識は必須という意見もある。
たしかに聖書に書かれた記述を知っていれば、「ああなるほど」というSFやミステリーはあるだろう。

でもな、日本人にしてみたら、それを知った所で
「で、どうだというのだ?」という気分は否めない。

天地創造にしても、神の存在にしても、宇宙の創造主に関しても、キリスト教を信じる人たちがこしらえた話だろう。


ハリウッド映画でそういうことを描かれると、その捉え方こそがグローバル・スタンダードみたいになってるが、それはあんたたちが勝手に思ってることでしょ、と俺などは白けた気分になる。
そういうハリウッド映画に込められた暗喩であるとか、引用であるとか、それを解きほぐすことが、キリスト教に対する理解を深めることにつながる側面がある。

いや自分以外の背景を持つ人々に対して、理解を深めることは悪いことではない。
だけど相対的に、キリスト教への理解ばかりが深まるように仕向けられちゃってはないかな?
同じようにイスラム教への理解だって深まっていいはずだし、そもそも日本人にとっては一番身近といえる仏教の知識すら、実は満足に持ち合わせてないよね自分たち。

だから俺はこの映画が描く宗教的な背景などは放っぽっといて、勝手に解釈することにした。
映画自体がいろいろ謎を残しすぎてるというのか、どうにでも解釈してくれという風にも見えたんで。


俺は、この映画は「人類の起源」でも「エイリアンの起源」でもなく、あれは「核物質」のメタファーだと思った。「核」のメタファーなど、ありふれた解釈にすぎると普通なら自分でも思う。
だがこと、この『プロメテウス』の母体となる『エイリアン』というSFシリーズを顧みると、そう考えたくなってしまうのだ。

いま公開中の『ダークナイト・ライジング』にしても『アベンジャーズ』にしても、問題解決の手段に核物質(核兵器)が出てきてしまう。
『アルマゲドン』にしても『インディペンデンス・デイ』でもそうだった。

対して『エイリアン』シリーズでは核兵器の描写や言及がない。
つまり安易に使用すべきものではないという、SFクリエーターとしての「慎み」を感じるのだ。

アメリカ人は他所の国に核爆弾を投下しておきながら、そのおぞましい破壊力に関して、あまりにも想像力が欠けている。
『ダークナイト・ライジング』で、バットマンが核兵器をゴッサムシティ沖の海に投下して、事なきを得るような結末をつけてるが、事なきを得るはずないだろ。
町一つ滅ぼすような破壊力のある核兵器を海中で爆発させれば、海洋生物はほぼ死滅する。
ゴッサム市民は未来永劫、海産物は食えないぞ。

『プロメテウス』は一貫して灰色のトーンの映像で仕上げられてる。
惑星の不毛な大地も、その空も灰色だ。
核戦争後の死の灰に覆われたような世界だ。

惑星にある巨大なドーム状遺跡は、核施設にも見える。
あの無数に並べられた壺は、プルトニウムの燃料棒に見えるし、あの遺跡の中だけ酸素があり、天井から水が滴っている、その水は、燃料棒の冷却水に例えてみる。

エリザベスたち人間があの場所に足を踏み入れたことで、厄災がもたらされる。
触れてはならない「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。
あのエイリアンの原型となるヌルヌル生命体は「放射能」ということだ。
夥しい量の放射能を浴びた人間が体に異変をきたす。

シャーリーズ・セロン演じる女性監督官ヴィッカーズが、生命体に寄生され変貌を遂げつつあるホロウェイを、船に乗せようとせず、火炎放射器を浴びせる場面は、放射能汚染された人間を見殺しにする「体制側」の姿勢を象徴してる。

エリザベスたちが、洞窟壁画から「メッセージ」を受け取って、惑星の遺跡に辿り着く過程は、人類が核エネルギーを発見する過程となる。

人間には好奇心や探究心というものが備わっており、最初に火を発見して、それを使いこなせるようになった人間が、核エネルギーを発見するのは必然だったのだ。

だが最初に発見した「火」の力に、依然として頼らなければ、文明を維持できないという人間が、「火力」に代わる革新的なエネルギーを発見し得てない人間が、「核」を扱う資格はまだないのだ。
使用済み核燃料の最終処分をどうするのか?
その問題も、例えばフィンランドでは10万年後まで見据えて、どう処分すべきかの議論がなされている。ゴミすらそれほど厄介なのだ。

あまりに安易に「核」を解決手段に使おうとする従来のハリウッド映画に対する、『プロメテウス』は一つの見識を示そうとしてる。
「核」はまだ人類が扱えるシロモノじゃないのだという。
日本人の俺はそんな風に解釈した。

2012年9月1日

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ジェシカ・チャスティンの足技 [映画ハ行]

『ペイド・バック』

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ナチスの残党狩りというテーマは、過去何度か映画に取り上げられている。
本数もかなりあるとは思うが、まず終戦間もない1946年に、早くもオーソン・ウェルズが監督し、自らアメリカの田舎町に潜伏するナチス残党を演じた『ストレンジャー』が作られてる。
あとは俺的にリアルタイムということで思いつくんだが、1970年代の映画が目立つ。

1974年の『オデッサ・ファイル』はフレデリック・フォーサイス原作の映画化。
1963年ケネディ暗殺の報が流れる西ドイツ、ハンブルグのルポライターが、偶然から元ナチSS隊員が結束する組織「オデッサ」の存在を知り、追求していく。

1976年の『マラソン・マン』は、メンゲレ博士がモデルと思われる、ユダヤ人強制収容所で「白い天使」と呼ばれ、恐れられたナチス残党の老人が、ニューヨークに現れる。
その白い天使を演じるオリヴィエが、ダスティン・ホフマンの歯を痛めつける拷問シーンは、二度と見たくない怖さ。

1978年には、そのローレンス・オリヴィエが、今度はナチスハンターを演じた
『ブラジルから来た少年』

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ヒトラーのクローン少年を生み出し、第三帝国の再興を目論むメンゲレ博士を、グレゴリー・ペックが演じる意外性が話題になった。
この映画はキャストや物語のスケールにも関わらず、日本では劇場未公開に終わり、後にビデオ・LD・DVDとあらゆるパッケージ・メディアでリリースされた。
たしかテレビの「ゴールデン洋画劇場」で放映されたバージョンは、幻のラストシーンが加えられてた記憶がある。

ヨーゼフ・メンゲレはナチス残党の中でも大物中の大物と目され、モサドはじめ、ユダヤ人組織が血眼で追いかけた。南米に逃れてたと言われるメンゲレと、父親がナチスの非道な大物と知り、苦悩する息子の関わりを描いたのが、2003年の『マイ・ファーザー』だ。
メンゲレを演じたチャールトン・ヘストンの、最後の日本公開作となった。

この『ペイド・バック』で、モサドの3人が身柄を拘束する、ドイツの産婦人科医ディーター・フォーゲルは、「収容所の外科医」と呼ばれていたという設定から、ヨーゼフ・メンゲレをモデルにしてるのだろう。

イスラエル諜報機関「モサド」によるナチス残党狩りを描いたものには
1979年の日本未公開作『ナチ・ハンター/アイヒマンを追え』がある。

ナチハンターアイヒマンを追え.jpg

ここではメンゲレに匹敵する大物で、強制収容所でのユダヤ人絶滅計画の指揮を執った、ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンを、1960年に潜伏先のアルゼンチンで、モサドが拘束する経緯が描かれた。アイヒマンは1962年5月に、イスラエルで絞首刑に処せられてる。
追跡するモサドのリーダーを演じてたのは、イスラエルの名優トポルだった。



『ペイド・バック』は、イスラエル映画のハリウッド版リメイクとなる2011年作。

映画は1997年のテルアビブに始まる。レイチェル・シンガーは元モサドの諜報員で、ある任務に成功したことで、イスラエル国内では、賞賛の対象となってた。
作家である娘サラが、母親の回顧録を執筆し、その出版記念パーティが華々しく執り行われていた。

ナチス残党の大物を東ドイツで拘束し、イスラエルに連行する任務だったが、途中で逃亡を図られたため、レイチェルが射殺した、その経緯が詳細に綴られていた。
だがレイチェルの顔色は冴えない。

その席にモサド長官のステファン・ゴールドが車椅子で現れる。
以前テロの標的となり、車を爆破されたのだ。
サラはステファンとレイチェルの間の一人娘だった。二人はすでに離婚していた。
ステファンがこの場に現れたのは、サラの本に書かれた、ナチスの大物を拘束した作戦に、レイチェルの上司として参加してたからだ。

作戦にはもう一人参加していた。デヴィッド・ペレツは二人と長く音信を絶っていた。
ステファンはデヴィッドを探し出し、パーティに呼ぶために車を向けた。
だがデヴィッドは車に乗り込む寸前に、急に身を翻し、車道に出てトラックに轢かれ即死した。
ステファンの見てる前で。


1965年、東ベルリン。若きモサドの諜報員レイチェル、ステファン、デヴィッドの3人は、ユダヤ人強制収容所で、残忍な生体実験を繰り返し「収容所の外科医」と呼ばれた、ナチス残党の大物ディーター・フォーゲルが、産婦人科医に身分を偽り、市内で開業してるという情報を掴んだ。

近づけるのはレイチェルしかいない。彼女は妊娠の検査を装って、フォーゲルの診断を受ける。
それは任務とはいえ、激しい葛藤を伴うものだった。

レイチェルは両親を戦争で失っている。彼女はユダヤ人だ。その死に関わりが深いであろうナチスの戦犯を前に、下着もつけず足を開かなければならないのだ。

フォーゲルは特に不審がる様子もない。
触診の最中の何気ない質問に、レイチェルは淀みなく応える。
拘束作戦決行の日が下されるまで、レイチェルは患者を装い、フォーゲルの元に通う。

だがその緊張と、屈辱感を誰かに包み込んでもらいたい。
レイチェルは作戦の隊長であるステファンよりも、いつも通院に付き添う、寡黙なデヴィッドに惹かれていた。デヴィッドもレイチェルを好きになってたが、彼女が部屋でキスを求めてきた時、応じることができなかった。
任務の遂行が優先だと、気持ちを振り払ったのだ。

レイチェルは傷ついた。
ひとりで部屋にあったピアノを弾いてるとステファンが現れ、隣に座って鍵盤に触れた。
別の部屋にいたデヴィッドは、鍵盤のキーが変わったのを耳にして、その意味を悟った。
作戦決行は明日と決まった。


レイチェルはその日、診察台に上がり、フォーゲルから
「昨日、性交をしましたね?」と訊かれる。頷くと
「タイミングがよかった」
「子宝に恵まれるようにと、すべての患者さんに言ってます」
「収容所でも?」
レイチェルはそう言った瞬間、足をフォーゲルの首に絡め、締め付けると、用意してた麻酔液を、その首に射ち込んだ。

ペイドバック.jpg

フォーゲルが倒れたと、妻の看護婦を呼んで、救急車を手配させる。
その通話を探知してたステファンとデヴィッドは、用意しておいた救急車に白衣で乗り込み、本物より先に病院に到着し、フォーゲルの拉致に成功する。

そこまでは良かったが、東側が監視する、鉄道の駅のフェンスを破り、列車が通過する時間内に、西側にフォーゲルを運び出すという作戦は、僅かなほころびから、監視兵との銃撃戦となり、3人はフォーゲルを東ベルリンのアジトに拘束したまま、待機を余儀なくされる。


後ろ手に縛り、口はテープで塞ぐが、食事は与えなければならない。ステファンは二人に
「フォーゲルと口を聞くな」
と釘を刺すが、フォーゲルはその狡猾さで、揺さぶりをかけてくる。
拘束している相手に、次第に主導権を握られ、3人の間にも苛立ちの色が濃い。

頼りにしたアメリカは、この件から手を引くと通告。
ステファンは打つ手がないなら、殺してしまおうと、フォーゲルに銃を向ける。
それを止めたのはデヴィッドだった。

食事を与えるデヴィッドに、フォーゲルは礼を言う。
だがその目は、冷酷になり切れない、ユダヤ人の若者の弱点を見据えていた。
フォーゲルは「なぜナチスはあれほど多くのユダヤ人を、殺し続けることができたのか?」
と、滔々と自説を述べ始めた。
デヴィッドはついに激昂し、フォーゲルを殴りつけた。
二人が止めに入った、そのどさくさに、フォーゲルは割れた食器の破片を手で隠した。

見張りはレイチェルに交代した。大晦日の花火が窓から見える。
レイチェルが部屋に目を戻すと、縛りつけてたフォーゲルの姿がない。
その瞬間、物陰からガラス片で頬を深く切りつけられ、殴り倒されたレイチェルは昏倒した。


射殺したという回顧録の内容は嘘で、真相は、フォーゲルにアジトから逃げられてしまったのだった。
3人はその事態に呆然となるが、ステファンは解決策を告げた。

それはフォーゲルを射殺したと報告するというものだった。
このことを知るのは我々3人だけだ。
フォーゲルは身分を明かすことはできないから、この件を公にするはずはない。


3人は「嘘」を抱えたまま、イスラエルに英雄として帰国した。
ステファンは割り切っていたが、レイチェルとデヴィッドは、自らに課した心の
「負債」に葛藤し続けた。
ステファンはモサドで昇格し、レイチェルと結婚、娘のサラが生まれた。

心が晴れないままのレイチェルの元を訪れたデヴィッドは
「モサドを辞める」と言った。
「僕と一緒に来てほしい」
でもあなたはあのキスを拒んだ。
「もういまさら遅いのよ」
そしてそれ以来、デヴィッドはレイチェルの前から姿を消した。


それから25年が経っていた。ある講演会の会場にデヴィッドの姿があった。
講演を終えたレイチェルは、デヴィッドがあの後、一人でフォーゲルを追って、世界中を巡ってたことを知った。
「見つけてどうするの?」
「マスコミに告げるんだ。この男がフォーゲルだとね」
「それで我々も苦しみから解放される」
だがレイチェルは、回顧録を出版した娘も巻き込む決断など、選択できるわけはなかった。
「昔には戻れないわ」
二人はこれが最後となった。

回顧録の出版パーティで、レイチェルは、元夫のステファンから思いもよらぬ話を聞かされる。
フォーゲルは生きている。ウクライナはキエフの病院に、名を偽って入院中だという。

その事実を地元のジャーナリストが嗅ぎつけ、本人に真偽を確かめるため、接触しようとしてる。
表沙汰になる前に手を打たなければならない。
車椅子のステファンは言う。
「レイチェル、君しかいないんだよ」


『THE DEBT(負債)』という原題が、『ペイド・バック』という邦題となり、DVDスルーで世に出たわけだが、この邦題も掴みどころがないね。
はっきりと内容がわかるような『ナチスハンター/モサド偽りの真実』
みたいな邦題でいいんじゃないか?
この題材に興味を示すのは、年齢も高めのユーザーだと思うしね。

全米では興行チャートのトップ10にも入ってたし、派手な見せ場はないが、予算をかけてかっちり作りこまれてる。
1960年代の東ベルリンの渋い色彩設計がいいし、テルアビブにウクライナと、ロケーションにもスケールが感じられる。
監督は『恋におちたシェイクスピア』のジョン・マッデン。
2008年の『キルショット』に続いて、日本ではDVDスルーとなってしまったが、俺としては今回のが、この監督の中では一番楽しめた。

役者も揃ってる。主役の3人の現在と、若い時代をそれぞれ別の役者が演じてる。
レイチェルの現在をヘレン・ミレン、若い時代をジェシカ・チャスティン。
ステファンの現在をトム・ウィルキンソン、若い時代をマートン・ソーカス。
そしてデヴィッドの現在をキアラン・ハインズ、若い時代をサム・ワーシントン。

東ベルリンでのミッションを描く部分が中心なので、若い時代を演じる役者にフォーカスが当たる。

特にレイチェルを演じるジェシカ・チャスティン。この映画のキャストでいうとサム・ワーシントンと並んで、昨年から売れまくってる新進スターだが、彼女がやはり見応えがある。

フォーゲルを足で締める場面が特に。俺も同じ目に遭ってもいい。

若い彼らの「負債」を振り払うことになるのが、年取ってからのレイチェル自身で、そこはヘレン・ミレンが貫禄を見せる。
なので、これは女優の映画であり、男たちはいささか影が薄い。
むしろ拘束されるナチス戦犯フォーゲルを演じる、イェスパー・クリステンセンが、その底知れない表情の妙味で場面をさらう。
ダニエル・クレイグ版「007」で、ミスター・ホワイトを演じてるデンマーク人俳優だが、マッツ・ミケルセンといい、最近は「北ヨーロッパ」の役者が注目だな。

日本版DVDで見れたからまあいいんだけど、この映画は撮影もいいし、この内容ならスクリーンで見たかったとは思うね。

2012年8月11日

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アルジェリアから来た代理教師 [映画ハ行]

『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

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モントリオールの小学校。その朝、牛乳当番として、ほかの生徒より早く校内に入ったシモンは、牛乳カゴを持ち、教室のドアに手をかけるが、なぜか鍵がかけられてる。
中を覗きこんだシモンは後ずさりして、牛乳カゴを落としてしまう。

教室の中では、担任の女性教師マルティーヌが首を吊っていた。
シモンは職員室に駆け込む。その間に生徒たちが校内に入ってくる。
教師たちは必死に生徒たちを外へと促す。
シモンの同級生のアリスは、廊下に牛乳が散乱してるのを怪訝に思い、教室に近づいて、何気なく中を覗いてしまう。

マルティーヌ先生の死から1週間。生徒たちへのカウンセリングなど、対応に追われる校長以下、教師たち。自殺した教師の代理を引き受ける人間が見つからない。

そんな中、新聞で事件のことを知り、子供たちの力になりたいという、アルジェリア人の男が校長の元を訪れる。19年間、母国で教師を勤めてたという。
ラザールという、その中年男の物腰や口調に、誠実さを感じとった校長は、新しい担任として迎え入れることを決めた。


昨年日本で公開された『灼熱の魂』は、中東からカナダへ移住してきた家族を巡る物語だったが、この映画の主人公ラザールの母国アルジェリアからは、過去にフランス領であったこともあり、カナダの特にフランス語圏であるケベック州に、移民として大勢がやってくるという。

カナダの教員採用の条件についての知識がないんだが、この映画を見てると、外国人であっても、小学校の担任になることに問題はないようだ。
日本では英語を教えるために、外国人が英語教師として赴任するということはあるだろうが、小学校の担任を外国人に任せるというのは認められてないんじゃないか?

カナダは歴史的に、移民を積極的に受け入れてきた国で、この映画の教室の生徒たちも、白人がほとんどではあるが、東洋人や、イヌイットの血が入ってるような子や、アフリカ系の子もいる。

鷹揚な気風の国民性を感じるところではあるが、いざラザールが教壇に立ってみると、カナダの学校教育の現場の、センシティブな部分が浮き彫りとなってくる。

ラザールを演じるのはアルジェリア人俳優のフェラグ。本名を縮めて、苗字だけを芸名にしてる所と、温和で人好きのする表情を持ってる所から、イスラエル出身の名優トポルを思わせる。
主演俳優の、人間味を感じさせる演技が、この映画の大きな推進力となってる。

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フェラグ演じる教師ラザールは、さっそく自分」のやり方で授業を進めるが、生徒たちは前任のマルティーヌ先生との、教え方の違いに戸惑い、なかには反発する生徒も出てくる。

やんちゃな所のあるシモンは、授業中に同級生をからかって、ラザールに頭をはたかれる。
ラザールとしては「こら、なにやってんだ」程度のもんだっただろう。
シモンに「謝りなさい」と言うと、
他の生徒から「先生がシモンに謝って」という声が。

カナダの学校ではどんな理由であれ体罰は禁じられてた。体罰はおろか、教師が生徒の体に触れることすら控えるように言われてるのだ。
体育教師は「体に触れないと教えようがないことだってある」とボヤく。

マルティーヌ先生が自殺した経緯にも、「生徒の体に触れる行為」があったと、思われてるフシがあった。シモンはその当事者と見られてもいたのだ。
複雑な家庭環境にあるシモンのことを慮って、マルティーヌ先生は補習授業の最中に、ついシモンを抱き寄せた。
だがシモンはそのハグを拒否し、そのことを「先生にキスされた」と周りに吹聴したため、学校内で問題となってしまった。

シモンは悪びれもせず振舞っているようだが、マルティーヌ先生の死は深い爪痕を心に残しているようだった。
「先生はあの日僕が最初に教室に来ることを知ってたんだ」

アリスはマルティーヌ先生が死を選んだのはシモンのせいだと、面と向かって責めた。
だが感受性の強い彼女は、同時に教え子たちにショックを与えるような、マルティーヌ先生の行為にも強い違和感を感じていた。
「死んだ人は、残された人に対して何の罪もないの?」

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ラザールは、生徒の中でアルジェリアに関心を示して、思慮深くもあるアリスと打ち解けるようになる。
だがアルジェリアのことを聞かせてほしいとせがまれても、ラザールは応えることはなかった。

彼はカナダの市民権は得ておらず、難民申請中の身だったのだ。
教師をしていたというのも嘘で、アルジェリアではレストランを経営してた。
教師をしてたのは妻の方で、その妻は著書で政治的発言をしたために、テロリストの標的となり、自宅は放火された。
妻と子を失い、ラザールはひとりカナダへと逃げてきたのだ。

ラザールの人となりに惹かれた女性教師のクレールとデートもするが、やはり恋をするという境遇にはないという気持ちが、ラザールを押し留めてしまう。

教育の場で味わう様々な制約や、割り切れなさ、身分を偽り感情を偽り、やり過ごしていかなければならない、鬱屈に耐える日々が続く。


校長から「波風は立てないで」と言われていたが、ラザールは授業中に
「マルティーヌ先生の死について、話したい人はいるかい?」
と生徒たちに尋ねる。

このことに向き合わなければ、生徒たちの心も晴れることがないだろうと、ラザールは感じていた。
アリスはシモンを名指しする。
アリスはシモンのことを嫌いではないのだが、彼女自身にも胸のつかえが取れないままなのだ。

シモンは今まで閉まっていた思いのたけをぶつけるように話しだした。
「僕のせいで先生は死んだの?」
ラザールはシモンの背中に触れた。
「マルティーヌ先生は病気だったんだよ。なぜ死を選んだのか誰にもわからない」
「だが教室というのは、成長する場であり、勉強する場であり、人を思い遣る場なんだ」
「教室は絶望をぶつけ合う場ではない」

その日、子供たちの心は少しだけ救われたのだ。

ラザールは裁判所での審査の結果、難民申請を認められることとなった。
だが皮肉にもそのことが校長の知る所となった。
カナダの市民権も、教員資格も持ってないという事実も。


この映画はアメリカ映画のような、教師と生徒のつながりを謳い上げるような、感動のフィナーレが用意されているわけでもないし、逆に最近の日本映画に見られる、殺伐とした教師と生徒たちとの関係を描くわけでもない。
演出には抑制が利いていて、エンディングなどは素っ気ないほどだ。

だがそのエンディングがじんわりと後で染みてくる。
素っ気ないけどじんわりくるという感じは、フランス映画の『コーラス』を思わせるね。

生徒役ではシモンを演じたエミリアン・ネロンという少年の演技が見事だった。
難しい演技を要求される役だからね。

アリスを演じたソフィー・ネリッセという少女は、子役時代のドリュー・バリモアのような印象で、
ラザール先生は「アリスは僕のお気に入りの生徒なんだよ」なんて発言してるけど、これもロリコンと誤解されかねないので、慎重な対応が求められる部分だろう。

しかし教師にとって「お気に入り」の生徒というのはいるものだ。
大人と子供であっても、「人間の相性」がある。教師に好かれる生徒と、そうでない生徒っていうのはいるもんだ。問題児だから嫌われるということでもない。

それが悪いかどうかってのは微妙な問題で、教師としては、話しをしやすい生徒がいると、その生徒を通して、クラスが見通せるということもあるし、単純に「ひいき」として糾弾されるべきものでもないと思う。

まあこの映画で描かれる学校の現状を見ると、そんな生徒を、腫れ物にでも触るように扱わなければならない教師たちも、ストレス溜まるだろうなあとは思うよ。
多分日本の教育現場もそんなに違わないんだろう。

映画の中で子供たちの悩みと向き合おうとするラザールに、通ってきている心理カウンセラーは
「それは我々の仕事だ」と釘を刺す。
両親との面談では、生徒の受け答えを指摘すると、親からは
「しつけのことはいいから、勉強を教えてくれ」と返される。
ただ勉強を教えるためだけに、生徒と接するのであれば、それは学習塾の先生でいいんではないか?


俺は小学校というのは非常に重要な場だと思う。この映画の教育現場の考え方でいくと、しつけは各家庭において、きちんと成されてることが前提になる。でもそんなことあり得ないんだよ。
クラスメイトを見てりゃ、子供だってわかる。
「していいことと悪いこと」
「社会で生きていくための最低限のルールを知ること」
「他人と係わっていくために身につけておくべきこと」
それを教えるのが「担任の先生」の仕事なはずだ。

子供はまだ半分は「動物」なのだ。
子供は日々の生活の中から「人間らしさとは何か」を少しづつ学んでいく。
それは本人だけで自然に学べるというものではないだろう。

親の役割は一番大きいことはたしかだが、この時期、子供は親と過ごすよりも、他人と共有する時間の方が長くなってる。
悪い行いをした時に誰にもきつく叱られることがないとすれば、子供はその行為をさほど「悪い」とも感じなくなるだろう。

もちろん俺の世代の時から、もう学校教育の歪みめいたものはあった。ひとクラスに40名以上の生徒がいて、それをひとりの担任が抱えるのは、どう考えても行き届かない部分が出る。
それでも教師は怖い存在であり、頭をはたかれることも珍しくなかったが、それで反省することは多かった。
手足を自ら縛ってるような教師と相対すれば、子供だって舐めてかかるようになる。

この映画は主人公を一方の方向に駆り立てるような描き方はしてない。模索する様子を見つめてるからこそ、見る側にも、映画の外側に関心を持たせるきっかけが作られてるのだと思った。

2012年8月4日

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ホセ・ルイス・ゲリン『ベルタのモチーフ』 [映画ハ行]

『ベルタのモチーフ』

渋谷の「イメージフォーラム」で開催中の「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」にて。
1983年の長編監督第1作のモノクロ映画。

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2007年作の『シルビアのいる街で』が翌年の「東京国際映画祭」で上映されたことで、一躍その名が日本でも知られることとなったので、まだ若い監督かと思ってたが、1960年生まれというから、俺と歳が近い。この『ベルタのモチーフ』は23才で撮っている。

エリック・ロメールの『海辺のポーリーヌ』とかに出てた、ゴージャスな美女アリエル・ドンバールの名前があるから、彼女が主演かと思ってたが、ちがった。


スペイン、セゴビアの辺鄙な農村に暮らす、思春期の少女ベルタが主人公。
ベルタには父親がいない。肖像写真が置かれており、父の死が読み取れる。

家にはけっこう歳のいった母親がいて、二人で暮らしてる。兄のホアンは兵役に出ている。
彼女の家の面倒を見ている隣人のイズマエルと、その息子でベルタより年下のルイジト、彼女が会話を交わすのは、その3人しかいない。
イズマエルと息子ルイジトの会話から、ベルタが学校に登校してないことがわかる。
「ホアンが戻れば、学校に行くようになるだろう」

ベルタはイズマエルが搾った牛の乳を、自転車で近所の家に配達する役を担ってる。
近所といっても、見渡す限り、麦畑と荒涼とした丘が続くような土地だ。
ベルタの住まいはその中にポツンと立ってる。

ベルタは「蛇の縁石」と村の人間が呼ぶ家に牛乳を運ぶが、中から人のうめき声のようなものが聞こえる。ちょっと気味が悪い。
イズマエルの話によると、その家に越してきたのは、デメトリオという名の男で、頭がおかしいのだと言う。

次に配達に行った時、ベルタはデメトリオとハチ合わせた。中世のボヘミアンのような格好をして、不思議な三角帽を被っていた。
彼は物静かで「頭がおかしい」ようには、ベルタには見えなかった。

ベルタが野草摘みに森に入った時も、デメトリオは大きな木に腰掛けて、本を読んでいた。
デメトリオは野草の知識もあり、摘むのを手伝ってくれた。
麦畑の中のくぼみに、燃え尽きた乗用車が打ち捨てられている。
デメトリオは、自分の妻はこの車の中で死んだ、だがまた戻ってくるんだと言った。
妻は異国の人で、金髪で美しく、白いドレスを着てるとも。
ベルタはその言葉を信じた。

だがほどなくして、デメトリオはその車のそばで、古い拳銃を自分のこめかみにあて、命を絶った。
ベルタは少し離れた場所からそれを見ていた。
横たわる死体を覗くと、その場を駆け去った。


デメトリオの死は村に伝わり、未亡人が「蛇の縁石」を封印しに訪れた。
ベルタはその様子を眺めて
「あの女は妻じゃない」と感じていた。
妻は白いドレスを着てるとデメトリオが言ってたからだ。
未亡人は黒の喪服姿だった。

未亡人は三角帽を探している様子だったが、見当たらなかった。
その三角帽はベルタが「形見」として持ち去っていて、彼女はそれを草原に穴を掘り、布に包んで埋めておいたのだ。


丁度その頃、中世のコスチューム劇の撮影に、フランスのロケ隊がこの土地を訪れていた。
主演女優のメイベルは、白いドレスに身を包んでいた。
メイベルは撮影の空き時間に、馬に乗ってこの何もない土地を散策した。草原の只中で馬を下り、休んでると、馬が地面を掘り返してる。
メイベルはそこに三角帽が埋められているのを発見した。撮影に使えそうではあったが、きっと誰かが目的を持って埋めたのだろうと思い、そのままにして立ち去った。

ベルタは未亡人の乗る車に、あぜ道で遭遇する。
「奥さんの偽者」と思うベルタは、なにか追われるような気がして、必死で自転車のペダルを漕いで逃げ去ろうとした。
ロケ隊が撮影に来てることなど知らないベルタは、見慣れない車が何台も連なるのを、訝しげに見つめていた。
三角帽を埋めた穴は掘り起こされている。

ベルタは三角帽を取り出して、自転車を走らせた。ロケも終わり立ち去る車とあぜ道で会う。
黒い車から降りてきたのは、白いドレスを着た金髪の美しい人だった。

メイベルは少女が三角帽を手に抱えてるのを見て、近づいていった。
ベルタは無言でメイベルに三角帽を差し出した。
メイベルは少女の髪を優しく撫でて、二人は別れた。

ベルタのモチーフ.jpg

題名の『ベルタのモチーフ』となるものとは何だろう?

当初の題名は『思春期の夢想』だったというが、ベルタは自分のいる世界を、
「死者と生者の中間」のような場所と見立ててたような所がある。

ベルタは年下の少年ルイジトと、秘密のアジトを作ったりして遊ぶほかは、独りで草原に立って、なにかの音に耳を澄ましてたりする。


彼女のそういう行為には、父親の死が関わっているのだろう。単に風の音を聞くというのではなく、なにか死者の声が聞こえないか、耳をそばだてているように見える。

ベルタは家にいる時は納屋で過ごすことが多く、古いテープレコーダーを肌身離さず抱えてる。同じ歌が流れてくるんだが、すっかりテープが伸びてしまっていて、
「ワオオオーン、ワオオオーン」としか聞こえない。それでもベルタは飽かずに流し続けてる。
この音も歌というより、死者からの声のようだ。

ベルタに係わるモノは「まともに動かなかったり」する。
彼女の自転車もチェーンが切れたり、母親が取り寄せた扇風機も、コードを差し込んだ途端に、狂ったような動き方をして、母親をうろたえさせる。
燃え尽き朽ち果てた車に乗り込んだベルタは、そこが居心地のいい場所というようにまどろんでいる。
すべてが「半分死んでる」ような世界だ。

その一方で、ベルタは昆虫を手に乗せて、愛おし気に眺めていたり、亀の尻尾を紐で結わえて、ビールの蓋をつなげて、ハネムーンの車のように見立てて遊んでる。

自分だけが知る秘密の湧き水をすすり、納屋でワラの感触に包まれ、ルイジトをからかって、泥の上で取っ組み合いをしたり。「生の手ごたえ」を彼女なりに感じとってるように見える。
「半分は生きてる」世界だ。


そんなベルタには、中世の出で立ちで現れたデメトリオは、
「死者の国の住人」だったのかも知れない。
だからデメトリオの「死んだ妻が戻ってくる」という言葉にも違和感持つこともなかったのだろう。

デメトリオの形見となった三角帽を、白いドレスの妻に手渡すこと。
「死者との約束」を果たした時に、ベルタの孤独な世界にも出口が見つかった。


この映画で象徴的に画面に出てくるのが、あぜ道を二分する「Y字路」だ。
画家の横尾忠則が、ここ何年にも渡って描き続けてる、いわゆる「横尾忠則のモチーフ」ともいえるのが、この「Y字路」の風景だ。
「Y字路」で二分された道は一体どこにつながっているのか?
その絵を見る者も不安とともに、得もいえない恍惚感を覚えるのだ。

ベルタの周囲の風景はどこまで行っても麦畑と草原と丘が連なるばかりで、涯が見えない。
足が地についてないような、浮遊感が彼女の中に常にあったのではないか?
「Y字路」の左への道は、ベルタのいる「死者と生者の半々の世界」で、右への道は、彼女が踏み出すべき外界への道だ。

メイベルに三角帽を託した後、ベルタは家のキッチンにある鏡に自分を映し、大人のような仕草で髪を整えて、初めて晴れやかな微笑みを浮かべる。
そして自転車で「Y字路」を右へと駆けていくのだ。

ベルタがデメトリオの死を目撃する場面で、彼女はセーターの襟首を持ち上げて口元を隠す。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』のレオのように。
大人が判らない、理解し得ない世界に、少女が佇んでいたことの証のように俺には見えた。

23才のデビュー作でこれだけ確信に満ちた映画を撮っていたとは。
五感の鋭さが半端ない人なんだろうな。

2012年7月25日

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ピエール瀧のうさん臭い沖縄言葉 [映画ハ行]

『ぱいかじ南海作戦』

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原作は椎名誠。一時期この人の「探検エッセイ」をけっこう読んでた。
その中のどれかだったか、たしかこんなことが書かれてた。

いつものように探検メンバーで集まって、どこかでキャンプしようという話になった。
すると当日メンバーの一人が自分の彼女を連れて来た。
椎名誠はそれが許せず、そのメンバーを「除名」したというような内容だった。

探検メンバーは男だけで構成されてるのだ。それは女性差別とかそういうことではなくて、いろんな見知らぬ土地へ行く、そこでテント張って過ごしてみる、そういう行為が、ガキの頃俺もやってたが、近くの空き地や雑木林に入りこんで、いろんな物を積み重ねて「秘密基地」にして遊ぶ、その延長線上にあるのだろう。
そこはガキとはいえ、男だけの隠れ場所なのだ。
だがその時間は永遠ではない。夕飯時になれば、母親に叱られるから家に帰らなければならない。

椎名誠がそういう探検に女性を加えないというのは、男だけでなんの気兼ねもしなくていい、その伸びやかさが奪われるということと同時に、探検メンバーの間に色恋沙汰が起こると、もう楽しくなくなってしまうからでもあるのだろう。

それは「やっぱり探検は男のロマンだよなあ」と、男ならではの結びつきの強固さを誇ってるように見えながら、けっこうモロいものだと認識してるからではないか?

この映画で途中から、島の海岸での共同生活に加わる、2人の女の子たちと色恋沙汰に発展してかないのは、映画としては物足りないのかも知れないが、椎名誠の原作であるならば、それは発展してはならないのだ。


映画は、阿部サダヲ演じるカメラマン佐々木が、仕事先のリストラと離婚を一度に味わい、衝動的に南の島に逃れるようにやってくる所から始まる。

沖縄から更に南にある小さな島。レンタカーを借りて島を巡ると、道はやがて行き止まりに。
その先に何があるのだろうと、更に分け入ってくと、目の前に開けたのは美しい海岸。
人目もないし、ここは素っ裸で海へと、パンツを降ろした瞬間、隣に安全帽を被った浅黒い中年男が立っていた。そして藪の中から同じようなホームレス風の男たちがゾロゾロと。
総勢4人に囲まれた佐々木。

だが数分後には、佐々木と4人の男たちは、砂浜でなごんで語り合ってた。
4人の男たちは、この砂浜の周辺で、気ままなサバイバル生活をエンジョイしてるようだった。
佐々木はレンタカーで島に唯一ある商店まで往復し、ビールを買い込んで、男たちに振舞う。
男たちは魚の捕り方を熟知しており、佐々木は生まれて初めて、大きな葉っぱに食べ物を乗せて食べるということに感動する。そして恐る恐る男たちに尋ねる。

「あのお、僕もここでキャンプさせてもらっていいですか?」
男たちは「なんくるないさあ」な感じで受け入れてくれた。

安全帽を被った通称「マンボさん」は、夕方に海を吹き渡る「ぱいかじ」という南風のことを教えてくれた。
「その風にあたれば、なーんにも悩みはなくなって、ぼおーっと気持ちよくなるさあ」
佐々木はここは楽園だと確信した。
こんないい人たちに出会えるなんて、やっぱり人生思いきってみるもんだな。
酒を飲み、男たちが持ち寄ったいろんな食材をつつきながら、砂浜の宴は夜中まで続いた。


佐々木が目覚めると、4人の姿はなかった。藪や鍾乳洞にあったそれぞれの「住まい」も跡形もない。
最悪なのは佐々木の持ち物の一切合切もなくなってた。
財布やカード、ケータイや衣類に至るまで。
島にも駐在さんはいるんだろうが、なぜか被害を届け出る気にならない。
4人の男たちとの時間があまりにも楽しかったからだ。

途方に暮れるまま、砂浜で投網を体に巻いて眠りこけた佐々木を、若者が踏んづけた。
都会から1週間の休暇で来たという若者のことを、佐々木は「オッコチくん」と呼ぶことにし、二人はすぐに打ち解けた。
オッコチくんは佐々木をサバイバルの達人だと、勝手に思いこんでた。
今時の若者には珍しい位に、人を疑うことを知らない。

オッコチくんはカップ麺とか、ティーバックのお茶とか、いろんなものを気前よく奢ってもくれる。
なんとかここに引きとめようと、佐々木は4人の男たちから教わったサバイバル術の受け売りで、オッコチくんの尊敬を得つつ、よからぬ事を画策していた。
自分も4人と同じことをしようと考えたのだ。

だがそれにしてはオッコチくんはいい奴で、海岸での共同生活で友情も芽生えてきた。
佐々木は不安に教われた。オッコチくんは1週間経ったら帰ってしまうんだよな?
考えてみれば一緒に過ごす相手がいるからいいが、もし独りだったら、1日なにをして過ごせばいいんだ?きっと間が持たないぞ。オッコチくんは今や無くてはならない存在だ。


そんな二人の砂浜に、女の子が二人やってきた。テントを張る手つきも慣れてる。
オッコチくんが声をかけに行ったが、いまいち連れない反応だった。
彼女たちはカレーを作って食べ、その匂いは佐々木とオッコチくんのキャンプまで漂ってきた。
もう何日も同じようなものしか食べてない男ふたりに、アパとキミという女の子たちは、カレーを振舞ってくれた。
互いにすぐに打ち解けて、この南の島の生活も、次第に賑やかになってきた。

ある日、買出しに出かけた先で、佐々木は4人組の男の噂を耳にする。リベンジするしかない。
佐々木はオッコチくんとアパとキミに事情を話した。
「ぱいかじ南海作戦」決行である。


「ビールをいかに旨そうに飲むか」というのが、演技プランの筆頭に掲げられてたかのように、とにかくみんな旨そうに飲む。
ビールを売店で売ってるようなシネコンなら、買ってから見るといい。
俺は酒飲めないんで、別にビール飲みたいとは思わなかったが、喉は渇いてくるね。

ほぼ阿部サダヲの個人芸に頼ってる部分はあるんだが、それにしても笑わせ続けてくれる。
爆笑というより、見てる方も「南国」モードになるというのか、すっかりくつろいでしまうんで、エヘラエヘラと笑い続けてるという感じなのだ。

オッコチくんの天然ぶりに佐々木がツッコむというパターンだが、オッコチくんを演じる永山絢斗の演技にイヤミがないので、楽しく見てられるのだ。

あとからやってくるアパとキミには貫地谷しほりと佐々木希。
「きれいどころも必要でしょう」という所だろうが、ロケ地の西表島の空気にあたって、二人ともホンワリとした感じになってた。


インパクトあるのは4人の「ホームレス風」だろう。特にマンボさんを演じるピエール瀧の、うさん臭い「沖縄言葉」は絶妙なものがある。
この人はふだんからキャラ立ちしてるから、意外と映画には使いにくいタイプだと思うのだ。
だがこのマンボさんは、「うわ、いそう」という有無を言わさない生々しさがあった。

食べられる葉っぱにやたら詳しいという「ギタさん」を演じる斉木しげるは、これもいつものうさんくさい芸風のままで、この人ならでは。

この4人の中年男は、自由気ままに、サバイバル生活をエンジョイしてるかのように見えるが、その実、佐々木の持ち物盗んで逃げたり、見てくれもホームレスっぽかったりで、4人を見てて「羨ましい」とは感じさせないのだ。

「南の島に楽園があって、南の島にいけば人生も変わる」
などという幻想に冷や水浴びせる、そんな批評性も感じられる。

監督の細川徹は、舞台の演出をやってた人で、これが長編劇映画は初演出。
思えばこの設定は舞台劇でもできそうだな。

2012年7月24日

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サメVSピラニア 人食い対決 [映画ハ行]

『ピラニア リターンズ』

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先週末の同日公開となった「どうぶつパニック」、その出来具合の軍配やいかに?というところなんだが、結果からいうと『ピラニア リターンズ』の勝ち。でも「圧勝」とまではいかない。

どちらも3D仕様で製作されたものの、『シャーク・ナイト』は日本ではなぜか2D版のみでの公開というハンデを負った。だが3Dで見れていれば結果は変わったかといえば、そんなこともないんだな。

『ピラニア リターンズ』が前作に続いて「R18+」というレイティングに指定されてるのに対し、『シャーク・ナイト』は「PG12」というレイティング。
なんだ子供も、親付き添いなら見れるじゃん、というこれはハナから描写のエグさに差がついてしまうのも致し方ないのだ。


『ピラニア リターンズ』は、監督は前作のアレクサンドル・アジャから、『The FEAST/ザ・フィースト』シリーズのジョン・ギャラガーにバトンタッチされたが、物語上のつながりはある。

前作でアバンタイトル部分の主演を張ったのは、『ジョーズ』に敬意を表してという意味合いかリチャード・ドレイファスだったが、今回はゲイリー・ビジーと、監督の父親で俳優のクルー・ギャラガーがアバンタイトルを飾ってる。
ゲイリー・ビジーはこの手の「どうぶつパニック」には出てないんだがな。
あえて言えば『プレデター2』リスペクトかな?
ただピラニアに食われるだけではないという所が、ゲイリーの芸風に合ってて最高だった。


ヴィクトリア湖の湖面を赤く染めた前作の惨劇から1年。
異変はヴィクトリア湖から遠く離れたアリゾナ州のクロス湖で起きた。行方不明の牛の死体が湖面に浮かび、確認に近づいた農夫たちが、牛の体を食い破って飛び出してきたピラニアの群れに襲われた。
前作で生き残ったピラニアたちは、地下水脈を辿って、別の湖へと移動してきたのだ。

折りしもクロス湖畔には、「ビッグ・ウェット」という名のウォーターパークが、開園を2日後に控えていた。
ここは子供連れだけではなく、大人の男女にも楽しめる趣向が凝らされた、ヒロインの大学院生マディには悪いが、とても「いい線いってる」水のアミューズメントだと俺は思った。

なにしろ施設内には「アダルトプール」なるものが併設され、コンドームの自販機も備えてある。
プールの監視員はなぜかストリッパーなのだ。
おっぱい丸出しでウォータースライダーで滑り下りてくる金髪のお姉さん方。これは流行るだろ。
これを考えたマディの義理の父親チェットは、まあ悲惨な末路を迎えはするが、経営者としちゃ、いい腕してる。

チェットが開園の日に、特別にプール監視員として招いたのはデヴィッド・ハッセルホフだ。
日本じゃ『ナイトライダー』の主役で有名だが、アメリカではむしろその後の『ベイウォッチ』の沿岸レスキューが当たり役とされてるようだ。
しかしハッセルホフはゲストとして来てるつもりなんで、プールでピラニア大襲来が起こっても、我関せずなのだった。


知り合いのカップルが謎の失踪を遂げ、怪訝に思ったマディと女友達のシェルビーは、湖の桟橋で、トビウオのように襲い掛かってくる大型のピラニアから、間一髪逃げ延びる。

マディは昨年のピラニアだと確信し、ヴィクトリア湖のほとりに住む熱帯魚店のグッドマンを訪ねた。
前作にも出てた“ドク”ことクリストファー・ロイドだ。
グッドマンは、このピラニアが鉄板も突き破るようなパワーを持ち、プールのような施設はおろか、下水管をつたって、民家にまで浸入するかもしれないと警告を発する。

一方、マディとともにピラニアに襲われたシェルビーは、その際、一匹のピラニアに体内への侵入を許してしまったようで、急に気分悪くなって道端でもどしたりした。
3Dで飛び散るのがゲロという悪趣味ぶり。

シェルビーは彼氏に介抱されてベッドで寝てたが、体の異変に切迫感を強め、急いで処女を捨てとこうと、彼氏を強引にベッドに誘う。
彼氏が体の上でグラインド始めると、シェルビーの腹部からなにかが動き出す。
彼女の叫び声をエクスタシーと勘違いする彼氏のチ●コに、ピラニアが噛み付いてた!
んなバカなという一席である。

マディが自宅の風呂場でバスタブにつかってウトウトしてると、蛇口からピラニアが、という場面は、足を開いた間からのカメラなど、まんま『エルム街の悪夢』になってて、しかも夢オチという。

「下水管をつたって、民家にまで」と期待させたわりには、そこまで惨劇の場を広げられなかったのは、予算の制約もあるんだろう。
結局ウォーターパークが血に染まるだけなんで、前作ほどのスケール感はない。

子供にまで容赦なくゴア描写が降り注いではいるが、演出の畳み掛け方においては、前作のアレクサンドル・アジャには劣るね。グロ描写が散発的な印象なのだ。
3Dなんでピラニアはこれ見によがしに飛び出してくるが、女の子たちがおっぱい見せてるわりには、飛び出し効果が薄く、期待に添えてるとは言い難い。

エンド・クレジットに、アウトテイクやらNGテイクやらハッセルホフのPVまがいの映像やらが、けっこう長く使われてる。ハッセルホフをリスペクトしすぎじゃないんかな?



『シャーク・ナイト』

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この映画にに期待したのは、なんと言っても『スネーク・フライト』で、「ヘビヘビ大パニック」をエロとギャグを交えて爽快なまでに描き切ったデヴィッド・R・エリス監督だけに、サメでもやってくれるだろうと思ったからだ。

アバンタイトルは『ジョーズ』の趣向そのまんまだが、大学生たちが週末のバカンスに訪れる、ルイジアナの湿地帯にある湖のロケーションが美しい。モーターボートで突き進んでく様子を映す上空からのカメラに、自然の雄大さが伝わってくる。
彼らは女子大生ベスの、クロスビー湖畔にある別荘で楽しく過ごそうという計画だった。
だが黒人学生のマリクが、ウェイクボードの最中に、サメに片腕を食いちぎられ、バカンスは暗転する。

クロスビー湖は塩水湖という設定なんだが、にしてもなぜサメが?
ケータイの電波も届かない場所なんで、とにかくマリクを町の病院へ連れてこうと、ベスたちはボートを出すが、そのボートはサメの体当たりを食って、マリクの彼女がその衝撃で湖面へ落ちる。
たちまちサメの餌食となり、操縦の利かなくなったボートは桟橋にぶつかり大破。

だがまだ小屋には水上バイクがあった。筋肉ナルシストのブレイクはここで男気を発揮して、マリクをくくりつけ、水上バイクを飛ばすが、たちまち巨大なアオザメがジャンプ一閃、ブレイクをひと呑みした。マリクは水中に没した。7人いた学生は、4人になった。


窮地に陥った彼らの元に、地元のデニスとレッドが船で現れた。デニスは顔に深い傷跡があり、ベスとは因縁のある間柄だった。
デニスとレッドは学生たちに手を貸す素振りを見せたが、それは恐ろしい罠だった。

なぜ塩水湖に何種類ものサメがいるのか?それはデニスたちが養殖してたからだ。
彼らはサメの生態を知り尽くし、獰猛なサメだけを育てていた。
そしてドキュメンタリー『皇帝ペンギン』で使われてたという小型カメラをサメの体に仕込んであった。デニスたちはバカンスなどでやってきた人間たちを、サメに襲わせ、その映像を商売に利用してたのだ。


というようなことになっていて、「どうぶつパニック」というより、どうぶつを使った拷問マニアによる、サイコホラー的な色合いの方が強くなってるので、見てる側の楽しみ方の心構えにブレが生じてしまうのだ。
だって凶暴なサメより、人間の方がおぞましいって展開だからね。

肝心のサメの襲撃描写も、PG12指定なんでグロさが半端。襲われたら後は水が真っ赤になるというだけで、肢体が食いちぎられる生々しい描写がないのは、「サメもの」としては画竜点睛を欠く。

アオザメがジャンプで「パクリ」とやるのも、レニー・ハーリンが『ディープ・ブルー』でやってるし。ちなみにその時餌食になったのは、『スネーク・フライト』に主演してたサミュエル・L・ジャクソンだった。


「なんで3D版で上映しないんだ?」と不満を呈したが、実際見てみると大体「この場面だな」というのはわかる。その「飛び出しポイント」もあんまり大したことなさそうで、たしかにこれなら3Dの必然性もそう高くはないなと感じた。

グロ描写などは不満の残るところだが、大学生たちが窮地に立たされてく流れとか、登場人物の性格づけとか、サスペンスを高めるためのスキルに関しては『ピラニア リターンズ』の監督よりも、こちらのエリス監督に一日の長がある。


『シャーク・ナイト』にしても『ピラニア リターンズ』にしても若い役者たちが主人公を演じてるが、こういう映画に出てくる若い役者って、ほとんど顔を憶えるようなことがないんだよね。

この手の映画は、青春を謳歌するような(特に性的に)若いヤツらが血祭りに上げられるというのがパターンで、あまり感情移入もしないで楽しめるってことなんだろう。
一度、とても善良な家族がサメやらなんやらに襲われ、子供までもが食われて、見てるこっちまで惨さに号泣してしまうような、どシリアスなどうぶつパニックも見てみたい。

2012年7月19日

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赤のひとつおぼえ [映画ハ行]

『ヘルタースケルター』

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これは絶対に、原作となった岡崎京子のコミック『ヘルタースケルター』を読んどいた方がいい。
俺は昔の一時期、岡崎京子とか高野文子とかのコミックにハマってた事があり、この原作も『リバース・エッジ』なんかとともに当時買って読んでた。
映画化のこともあり、最近部屋の中から探しだして読み返したが、沢尻エリカが、なぜりりこを演じたいと熱望してたのかがわかった。

沢尻エリカという女優は、まるでりりこの軌跡をなぞるように生きてきてる感じすらするもの。
これほど原作のヒロイン像と、それを演じる女優とがシンクロするのも滅多にない。


若い女の子たちのアイコンとなり、時代の寵児のような持て囃され方をするヒロインのりりこが、じつは全身整形を施して、その美しさを保ち続けようとする。
女性の「美」に対する脅迫観念が、りりこというキャラクターを通して「むきだし」に曝け出される。

そのテーマとともに、女優であれ、モデルであれ、歌手であれ、人から見つめられ、崇拝され、また値踏みされ、粗を探され、そういう「表現者」の立場にいる女性の内面描写に、共鳴する部分が大きいのかもしれない。

原作においても、りりこの周りの人間(特にマネージャーとその彼氏だが)に対する傍若無人な振る舞いよりも、周りにも自分に対しても毒を含んだ「独白」部分が鋭い。
メディアで取材を受けるたびに浴びせられる「どーでもいい」質問に、人が期待してるような言葉で応える。
美容整形クリニックの患者たちの死亡事件を追うなかで、りりこに興味を持ち始める検事の麻田が
「彼女の発言には核というものがない」と喝破してる。

メディアやそれを取り巻く世間を蔑んでいながら、「ちやほやされる私にはなにもない」と思ってる。
「歌もヘタだし、セリフも憶えられない」
元々いまとは似ても似つかぬ容姿で、コンプレックスの塊だったりりこは、その根っこを抱えたまま、スターに祭り上げられていくから、本当の自分との乖離に耐えられなくなってくる。

昔の自分そっくりな妹と久々に会う場面で、妹に
「美しくなるから、自信もつくんだよ」と言ってる。
それは一面真実ではあるだろうが、
「その美しさが保てなくなったら、自分には何も無くなる」
という恐怖に満たされることでもある。

自分にとって目障りな「美しさ」を持つ者には、凶暴なまでの敵意を示し、脅迫観念を振り払うためにクスリに溺れ、整形の後遺症は肌を腐食する。
りりこは「モンスター」のように描かれはするが、どこかに「哀れ」を滲ませる。
彼女は愚かというより不器用なのだと感じる。


実際の芸能界でも、セルフプロデュースが巧みで、息長く活動してる女性タレントはけっこういる。
沢尻エリカにも、同じような「不器用さ」を感じることがある。
彼女は「腹芸」というものができないのだろう。
女優にしろタレントにしろ、芸能界を泳いでいくには、ある種の「ふてぶてしさ」は必要だ。
清純派と思われれば、自分が清純でなくても、しれっとそのイメージを演じきる。
ブリッ子と呼ばれようが気にかけない。
だが「ふてぶてしさ」を表に出しては駄目なのだ。沢尻エリカはそれが顔に出てしまう。

例えば吉高由里子と比較するとわかり易い。
奇しくも吉高は『ヘルタースケルター』の監督、蜷川実花の父親、蜷川幸雄が、やはりエッジの利いた女性作家による原作小説を映画化した『蛇とピアス』で、大胆なヌードも辞さない演技を披露し、注目を集めてる。
それはまだ彼女のキャリアのごく初期のことで、だがその後は「裸を晒して勝負する」女優でいくこともなく、最新作の『僕達がいた』では、20代なかばで、セーラー服の純な女子高生をシレッと演じてる。でも別に「カマトト」と非難されることもない。

天然かどうかはわからないが、その屈託のなさはバラエティ番組でもウケてる。
吉高由里子の「ふてぶてしさ」は、だが決して表にはでないから、「愛されキャラ」にもなれるのだ。


沢尻エリカは『パッチギ!』で、芯は強いけど清純な女子高生を演じたのが鮮烈だっただけに、そのイメージに縛られることにもなった。

俺も『間宮兄弟』を見て、「こんな可愛いツタヤの店員がいたら、毎日借りに行くよ」
と思うくらい、レンタルビデオ店の制服とエプロンが似合うと思ったもの。

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でも彼女の中では、テレビドラマ『1リットルの涙』も含めて、同じような健気で、性格もいいヒロインをタイプキャストされることに、ストレスが溜まってたんじゃないか?

それに多分人前で愛嬌ふりまくことも苦手なんだろう。自分が目指すところと、求められてるイメージのズレに、彼女なりに苦しんだのではないか?ここ何年かの彼女の迷走ぶりは
「ああ、私はみんなから嫌われてしまった!」
という、取り返しのつかなさに絶望したことが原点にあるように思える。
20代の若い女性に、それはキツいだろう。

もはや演技するにしても「清純派」などはやれるはずもないし、支持もされない。
ならばと『ヘルタースケルター』のりりこを演じ切ってやろうと、自分にたいしての「荒療治」のように踏み切ったんだと思う。

裸も曝け出し、自分も曝け出し、これからは「ふてぶてしさ」を武器に、どんどん色んな役をものにしていけばいい。
「美しく可愛いヒール」だって、映画には絶対必要なのだ。
またそれを演じ切れる女優は、日本には少ない。


俺は自分の取るに足らない名誉のために一応書いとくが、決してそんな沢尻エリカのおっぱいが拝めるからと、映画にいそいそ足を運んだわけじゃない。
おっぱい自体はネットでもAVでも、巷に溢れてるといってもいいし、
「そんなAV女優のモノじゃなくて、沢尻エリカだから価値があるんだろ」
という意見には組しない。

映画スターのおっぱいが、AV女優のおっぱいより価値が上などという考え方は、階級差別に通じる。
おっぱいは等しく価値があるものだ。

だが原作にもある描写で、りりこが女性マネージャーの羽田に「舐めなさいよ」と言ってクンニさせるのを、映画でも再現してると聞いて、そこは重要とは思った。

寺島しのぶが、沢尻エリカの股間にちゃんと顔を埋めてるのか、どんな映画であれ「ビアン要素」があるとなれば「即確認」というのが、俺のグローバル・スタンダードなのだ。
結果としては大した事にはなってなかったが。
その後の、りりこの強烈なセリフも、ちゃんと沢尻エリカが口に出してたのはよかった。

沢尻エリカの演技自体は上手くはない、というより感情表現とか稚拙とすら言えるんだが、このとことん墜ちてく感じを、時に自虐的ともいえる場面を交えながら、演じてる、その形振りかまわない迫力は伝わってくる。


だが映画としては少々かったるい。
原作コミックを読めばわかるが、この映画は結末に至るまで、ほとんど忠実に筋を追っていて、むしろ映画だから表現できるというような、プラスアルファが見当たらない。
監督の蜷川実花は、この『ヘルタースケルター』の世界観の基調となる色を「赤」に設定して、赤を中心にした極彩色で画面を塗りつぶしてるが、岡崎京子の原作の筆致とは対照的だ。

岡崎京子の絵というのは、この感情を表すのに、この表情を表すのに、この荒廃を表すのに、
絶対必要という線のみで描かれている。余計な装飾はコマの中にはないのだ。
だからダイレクトにこっちに「くる」。

映画は色彩にはこと細かにこだわってるが、演出は平坦でテンポが生まれない。
映画の流れが滞るから「かったるく」感じてしまうのだ。

りりこの部屋を中心とした世界はデコラティブで、その反面、検事の麻田のいる世界には色がない。
それはコントラストをつける意味合いなんだろうが、麻田の仕事場のセットが安っぽすぎる。

麻田はこの映画で、りりこと、それをとりまく世界の歪みを解説するような役どころなんだが、演じる大森南朋のしたり顔の演技が、ほとんど『ハゲタカ』と一緒で、この人あんまり芝居の引き出し多くないなと感じる。『龍馬伝』の武市半平太なんかは良かったが。

率直にいえば、蜷川実花は美術監督に専念して、演出は人に任せた方がよかった。
岡崎京子の原作の、ページをめくるのも、もどかしく感じるくらいのスピード感が、映画では失われてしまってるのが一番痛い。

俳優陣では、寺島しのぶの「ドM」演技が見応えあった。
原作にもある、りりこに口に含んだ水を浴びせられる場面は、その一瞬前から目つぶってるのがバレてるけど、ビンタも本気で張られてるし、沢尻エリカとは別の意味で「女優魂」を感じたよ。

2012年7月18日

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いや2回は死んでるだろ不死身の逃走犯 [映画ハ行]

『プレイ 獲物』

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先の「フランス映画祭」で上映された『スリープレス・ナイト』もそうだが、とにかくテンションの高い演出を、ノンストップで保ち続けるという、新時代のフレンチ・アクションが隆盛となり始めてる。

『すべて彼女のために』『この愛のために撃て』と、この『プレイ 獲物』など、それらに共通するのが、それまで日本では馴染みのなかった役者たちが主演してる点だ。
それほど若くはない、イケメンでもない男たちが、「大切なもの」を守るために、なりふり構わず突っ走る。そこに親近感も覚えるし、またフランス映画界の意外な層の厚さも思い知るのだ。

この映画の主役を演じるアルベール・デュポンテルも、日本で知られてはいないが、俺はたまたま彼の主演作を以前、劇場で見ていた。非常に濃い顔をしてるんで目に焼きついてた。

2003年の『ブルー・レクイエム』がそれで、2年後に、今はない渋谷マークシティの裏にあったミニシアターで封切られてた。
現金輸送車を襲う武装グループの襲撃場面に巻き込まれ、幼い息子の命を失った男が、復讐を誓う。
男は武装グループがまた襲撃を行うと予想し、自ら警備会社に入り、接触の時を待つというドラマで、男の執念が命知らずな行動へとエスカレートしてく様が、キリキリと締め付けるような緊迫感の中に描かれていた。

この『プレイ 獲物』でも、アルベール・デュポンテル演じる囚人は、愛する妻と、幼い娘に危険が迫ってることを知り、大胆な手段で脱獄を試みる。


銀行強盗犯として服役中のフランクは、刑務所の中で気を抜くことができない。
逮捕前にフランクは奪った大金を「ある場所」に隠しており、元の仲間たちは、看守を買収して、フランクにえげつない脅しを始終かけてくる。
唯一気を休めることができるのは、愛する妻アンナが面会に来てくれる時間だけだ。

同室のモレルはおとなしい男で、未成年への性的暴行の罪で服役してたが、本人は冤罪を主張してた。
だが刑務所内ではモレルは小児性愛者と目され、囚人たちからも侮蔑されていた。

ある晩、ロシア人の囚人たちが、フランクの房に入ってきた。自動ロックは買収された看守によって解除されたのだ。「お前は出てろ」と言われ、フランクは廊下に出される。
ロシア人たちは、モレルを獲物とするつもりだった。
しばらく悲鳴を聞いていたフランクは、思わず止めに入り、房内で乱闘となる。

騒ぎを起こしたことで、フランクの刑期は半年延長されてしまう。
面会に来たアンナは、もう生活費が厳しくなってると言い
「あのお金の隠し場所を教えて」とせがむ。
フランクは妻にさえ教えてなかったのだ。だがその妻の言葉にも、フランクは頷かなかった。

刑務所での演奏の慰問の時間に、フランクは突然後ろの席から羽交い絞めにされ、ケータイの画面を見せられる。妻と5才の娘アメリが外を歩いてる写真だった。
耳の穴にはアイスピックを突きつけられ「金のありかを言え」と。
フランクは偽の在り処を教え、なんとかその場を切り抜けるが、耳からは出血し、平衡感覚を一時的に失ったフランクはその場で意識を失う。

意識が戻ったのは4日後。刑務所の病室のベッドの傍らには、なぜか同室のモレルがいた。
「相手が証言を翻して、無実が認められた。もう釈放になるんだ」と言う。
フランクを襲った囚人たちは1週間独房に入れられてると言う。
出てきたら嘘がバレる。妻と娘の身が危ない。
「僕でよければ力になるよ」
と言うモレルに、フランクは妻への伝言を託した。
「身を隠す場所を探せ」
「父さんを頼れ」という伝言だった。

それはモレルに妻子の居所を教えるということだった。
看守まで買収されてるこの刑務所で、信用するに足りるのはモレル以外思いあたらなかった。


その日以降、妻子の安否を気にかけながら、残りの刑期を全うしようとするフランクに、見知らぬ男が面会にやってきた。憲兵隊に所属するマニュエルという男だった。

釈放されたモレルについて、知ってることを訊きたいと言う。
「冤罪で釈放されたんだろ?」
だがマニュエルは、少女連続殺害事件の容疑者として、モレルを探っていた。
逮捕時の尋問の受け答えや表情から、「こいつだ」と直感してたのだ。
だがモレルは狡猾で、役所勤めも真面目にこなし、妻もいる。
決定的な証拠がつかめないでいると言う。
「一番信用してはならない人間を信用してしまったのか?」

フランクの不安は事実となり、刑務所内から自宅に電話しても繋がらない。
5才の娘アメリは失語症で声を上げられないのだ。

そして追い討ちのように、独房から出てきた元の仲間たちに、作業時間終わりに囲まれてしまう。
看守はひとりニヤニヤと笑うばかりだ。すぐさま3対1の乱闘が始まった。
だがフランクは男たちの予想を上回るタフさで向かってきた。死闘の末、3人を倒したフランクは看守に近づいた。

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ここで図らずも脱獄を決行するんだが、いわば「レクター方式」というヤツで、これは『羊たちの沈黙』を見てれば察しはつくだろう。

この後は撮影当時46才の中年アルベール・デュポンテルが、逃げて逃げて逃げまくる。
と同時に妻子の行方の鍵を握ってるモレルの居場所を見つけ出さなければならない。
フランクが大金の隠し場所を訪れ、そこで見る衝撃の光景。

モレルの足跡を辿ると、そこには失踪した少女の死体が。フランクはそのことには気づかずに、自分の痕跡を現場に残してしまうことで、警察からは脱獄犯としてだけでなく、連続少女殺人犯という、モレルの罪も被る状況に追いやられる。

だが一度はフランクを追い詰めながら、取り逃がした敏腕の女刑事クレールは、
「ああまで必死に逃げるのには、なにか訳があるはず」と思い始める。


赤毛の少女に異常な執着を抱くモレルの、残忍な行いは被害者の写真や遺体などで描写されるが、モレルには妻のクリスティーヌがいて、実は彼女が夫の異常な欲望の手助けをしてるのだ。

彼女自身には異常性はないのだが、たぶん夫の愛を繋ぎとめるため、あるいは夫の行為を正当化する、洗脳めいた言いくるめられ方をされてるんだろう。
獲物を見つけると、まずクリスティーヌに声をかけさせて、警戒感を抱かせないようにしてるのだ。

16才の赤毛の少女が毒牙にかけられる場面があるが、それまで写真や遺体で、モレルの異常性は表現されてたんだから、どうやって網をかけるのかという実践ぶりを見せるにしても、あの末路の描き方は嫌な気分にさせる。

この映画の本筋は、フランクがいかに「逃げながら取り戻す」かということなんで、あの赤毛の少女のことが頭に残ってしまい、アクションとしての痛快さに水を差す。


『スリープレス・ナイト』の監督も、近年の韓国映画からの影響を述べてたが、この映画も例えば
『チェイサー』の、生き延びたと思えた女性が、思わぬ場所で犯人と鉢合わせし、殺されるという
「そこまでせんでも」的な描写に倣ってるようで、そこは真似しないでもいいんだよと言いたくなってしまう。

フランクの逃げっぷりは手に汗握るという表現そのままで、走る列車の屋根に飛び移るというスタントは、今までにもよく見かけたが、この映画はその後まで描いてる。
フランクはズボンのベルトを外して、列車の屋根の柵に括りつけ、それを命綱に客車の窓まで降りて行き、唖然とする乗客の前で窓を割り、窓の脇にある「非常停止レバー」を引いて、列車を止め、地面に飛び降り、逃げ去ってく。この一連の動作が理詰めに考えられていて感心したよ。

アクション演出自体はいいんだが、音楽がうるさ過ぎるね。ここぞという時にだけ鳴らせばいいんだよ。この辺はハリウッド製の悪しき真似だろう。

フランクが逃げる間にどんどん不死身になってくのはちょっと笑えるし。
少なくとも2回は死んでると思うんだがな。
アメリを演じる女の子はまあ、お人形さんのようだったね。

2012年7月11日

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