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夏川結衣のドラマを見る [映画タ行]

『尋ね人』

夏川結衣4.jpg

WOWOWの無料放送でやってた。
主演が夏川結衣とあっては、まずは見なくてはならない。

監督は篠原哲雄。先月「TIFF」で見た日中合作の『スイートハート・チョコレート』はガッカリな出来だったので、どうかなとは思ったが。

これは今年出版された谷村志穂の小説をドラマ化したものだが、筋を追いながら、なんだか篠原哲雄監督が2000年に撮った『はつ恋』と、プロットが似てるなあと思った。


『尋ね人』で夏川結衣が演じるヒロイン李恵は、東京で服飾デザインの会社を経営してたが、仕事でも私生活でもパートナーだった男に裏切られ、地元の函館に戻ってくる。

病床に臥す母親を自宅で看病するためだったが、傷心を癒すためでもあった。
だが家に戻ると、母親から思いもかけない頼まれごとをされる。

母親の美月は、自身の余命が僅かであることを察していた。
命尽きる前にと、母親がどうしても確かめたかったこと、それは50年前の初恋の人の消息だった。


昭和27年、函館の児童施設で働いていた美月は、仙台の大学から函館を訪れた藤一郎と知り合う。
二人は親密になると共に、藤一郎は大学の休みを見つけては、青函連絡船に乗って、仙台からやってきた。
旅費もかなりかかるはずだが、藤一郎は仙台の土地持ちのせがれだったのだ。

親友によれば、それまでは女にも手が早い、遊び人だったが、美月と出会い、その純真さに打たれて、本気で彼女を愛するようになったと。

美月も藤一郎との将来を心に決めていた。
「次に会う時は、ご両親にも紹介してね」

藤一郎はその言葉に頷いたが、帰り際、市電乗り場で一緒に乗り込むはずが、二人はそこで別れ別れになってしまう。
藤一郎は不意に市電乗り場から立ち去り、それきり姿を消してしまったのだ。

以来手紙を出しても返事は来ず、心当りに連絡しても、誰ひとり藤一郎の居場所を知らない。

「私がなにか気に触ることでも言ってしまったのか?」
美月は思い悩む日々を送った。

そして傷心にけじめをつけるべく、2年後に、紹介を受けた見合い相手と結婚を決め、そして李恵が生まれたのだ。


「なんで50年も前の恋にこだわるの?」
「私やお父さんは、一体なんなの?」
李恵は母親の申し出をとても納得できはしなかった。

だが母親が藤一郎と交わした、100通にも及ぶ恋文を目のあたりにして、余命僅かな母親の真剣な心情に思い及ぶようになっていった。


地元のいきつけのバーで、そんな話を漏らした李恵に、そばに居た無精ひげの男が
「それは失踪ですよ」と口を挟んだ。
「自分から望んで失踪した場合、まず見つけだすのは不可能だ」
男のぶっきらぼうな口調にカチンとくる李恵。

だがその言葉が引っかかり、後日、男が営んでる「浮気調査」の事務所に顔を出す。
男は「失踪人の調査はしない」と断るが、李恵の率直な性格に惹かれるものがあり、手助けをするようになる。
恋文の文面から手がかりを探り、糸をたぐるように、藤一郎の足跡を見つけて行く。


藤一郎はあの後、仙台の実家にも戻らず、バーテンをして渡り歩いていた。
大阪のバーに当時の藤一郎を知る主人がいた。

藤一郎には実は親が決めた許婚がおり、美月との恋の狭間で、悩んでいたという。
美月からも将来を乞われ、許婚との式も迫り、その女たちの視線に耐えられなくなり、藤一郎は衝動的に姿を消したのだという。

だが2年が経ち、やはり美月への思いは断ちがたく、藤一郎は大阪から、再び函館へと向かった。

その時すでに美月は結婚し、児童施設も辞めていた。
藤一郎は後悔を胸に、昭和29年9月、嵐の近づく青函連絡船・洞爺丸の乗客となっていた。


夏川結衣は、母親の恋の消息を辿るなかで、自らの過去の恋との訣別をはかるヒロインの心の揺らぎを、丁寧に演じてた。
男を寝取った、自分の部下でもあった若い女から、男の部屋にあった私物を函館に送りつけられ、屈辱に涙する場面もいいが、その男が函館にやってきて、ホテルで復縁をちらつかせる態度に、きっぱり拒絶を示し、
「では、お元気で!」と立ち去る、
その切れ味に夏川結衣の本領が出てた。

無精ひげの男を演じてるのは安田顕。ファンからは「ヤスケン」と呼ばれてるんだね。
うらぶれた感じは、若い頃の山崎努を思わせるものがあり、舞台に立ってるからか、声がいい。

俺はこの人の芝居を初めて見るんだが、普段の芸風とはちがうようで、盟友の大泉洋が見たら
「おまえ、なにカッコつけちゃってるんだよ!」
とツッコミ入るところか。
大泉洋も『探偵はBARにいる』で十分カッコつけてたから、お相子だろうけど。

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さて前述した篠原哲雄監督の『はつ恋』だが、あの映画では田中麗奈演じる女子高生が、やはり母親の昔の初恋相手への想いを知り、その男性を探すという出だし。
母親が病に倒れ、余命いくばくもないというのも同じ。

初恋相手はわりとすぐに見つかるんだが、真田広之演じるその男は、初恋のイメージをブチ壊すような、うらぶれた風情の中年男で、女子高生は
「こんなじゃ母親に会わせらんない」と、男を改造するべく奮闘する。

男は結婚生活に破れ、その痛手を引きずってグズグズしてるという設定だが、
これも『尋ね人』の安田顕演じる無精ひげの男が、妻と離婚し、いまは幼い息子に会うことも適わず、失意の日々にあるというのと一緒だ。
真田広之演じる男の名が藤木真一路といい、藤一郎と似てなくもないし。

監督の篠原哲雄がこういう話が好きで、『尋ね人』の監督を引き受けたのか、原作の谷村志穂が、『はつ恋』のプロットからヒントを得て、小説を書き上げたのか、なんにせよ偶然すぎる一致に思える。

2012年11月9日

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パリの家政婦は見た [映画ヤ行]

『屋根裏部屋のマリアたち』

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この映画は昨年の「フランス映画祭」で上映されてたが、その時にはスルーし、「文化村ルシネマ」で一般公開された時にも見逃した。
ようやく横浜でつかまえて見た。

昨日コメント入れた『桃(タオ)さんのしあわせ』もルシネマで上映されていて、家政婦映画を同じ年に2本かけてたことになる。
どちらもいい映画だ。だがテイストは異なっている。

この『屋根裏部屋のマリアたち』は、60年代パリのアパルトマンを舞台にした、ブルジョワの雇い主と、屋根裏住まいのスペイン人メイドたちによる、一種のユートピア映画。

軽やかな人生賛歌の趣きがある。
こんないい気分に浸れる映画をスルーしてたとは、俺のバカ。


ジャン=ルイは、祖父の代からの証券会社を経営してる。
パリの古いアパルトマンには妻と二人暮らし。
息子二人は格式ある寄宿学校に入れている。

ジャン=ルイはブルジョワ層の身分だが、妻のシュザンヌは田舎育ちで、そのコンプレックスから、ブルジョワ的暮らしに強いこだわりを持ってる。
ジャン=ルイは淡々と仕事をこなし、生活に不満もないが、情熱も沸き起こらない。

彼の唯一のこだわりは、朝食に出されるゆで卵の、「3分半」というゆで時間のみだ。

先代から仕える年配のメイドは、家の中の一切を仕切ってたが、料理は下手で、卵のゆで時間が守れない。
だがそのメイドは、シュザンヌが亡き義母の部屋を改装するのに反発して、仕事を辞めてしまった。

奥様連中とのランチで、シュザンヌはその件をボヤくと、いまはスペイン人がメイドの主流だと教えられる。
1962年当時パリには、フランコ独裁政権下から、自由と仕事を求めて、多くのスペイン人が逃れてきていた。
アドバイスを受けて、パリにあるスペイン教会を訪れたシュザンヌは、叔母を頼ってパリに出てきたばかりの、若いマリアに声をかける。


メイドとしての適正をテストされる初日に、マリアはジャン=ルイの云う通りに、ゆで卵を3分半きっかりに出した。
夫婦が出かけた後は、同じアパルトマンの屋根裏部屋に暮らしている、叔母たち住人に声をかけて、膨大な家事を手分けしてもらい、無事に正式採用となった。

給与を示すジャン=ルイに、マリアは強気で交渉する。
スペイン女性はタフだった。
それでもジャン=ルイが彼女を雇い入れたのは、ゆで卵の件だけでなく、マリアが若くてきれいだったことも、もちろんあっただろう。


マリアはジャン=ルイ夫妻の部屋の裏手にある使用人階段を上って、屋根裏部屋の寝室をあてがわれた。
雇い主がその階段を上がることなどなかったし、屋根裏部屋の住人たちがどんな暮らしをしてるのか、知る由もなかった。

屋根裏の物置を覗きにいったジャン=ルイは、そこで初めてスペイン人のメイドたちと顔を合わせた。
彼女たちは気さくだったが、生活環境は苛酷だった。
狭い部屋には暖房もなく、お湯も使えず、共同トイレは詰まったまま。

そのトイレの惨状にショックを受けたジャン=ルイは、すぐに修理を呼んだ。
それがきっかけで、ジャン=ルイと階上の女たちは、少しずつ交流を深めていく。

6人のスペイン人はそれぞれに過去や悩み事を抱えており、ジャン=ルイは手の及ぶ範囲で、彼女たちの力になってやった。
気分が乗るとみなで唄いだすような、陽気な彼女たちといると、表情の乏しい生活を続けてきたジャン=ルイの気持ちも、不思議と浮き立つようだった。


ホームパーティで客を招いた際には、ウェイターがマリアに言い寄るのを見て、激しい嫉妬に駆られた。
そんな感情が自分の中に湧き上がるとは。
ついマリアに辛辣にあたり、しばらくは口もきいてもらえなくなる。

ジャン=ルイはそれでも、階上の彼女たちの助けにはなり、DV夫から逃れるメイドのために、新しい住み込みの職を世話してやる。
その入居祝いに招かれたジャン=ルイは、同じく駆けつけたマリアと和解することができた。


最近夫が妙に活き活きとしてると、怪訝に感じていた妻のシュザンヌは、夫の顧客で色気を振りまく未亡人との浮気を疑った

妻の勘違いを敢えて否定することもせず、家を追い出されたジャン=ルイは、なんと屋根裏部屋に移り住む。
もちろん妻はそれを知らない。
住人のスペイン女性たちは、呆れはしたが、まあ気の済むようにと眺めてる。

だがジャン=ルイとマリアの距離が近づいていることには危惧もしていた。
所詮は身分も背景もちがう者同士。どちらにとっても幸せな結果は得られるはずもない。

そしてジャン=ルイは知らなかった。
若いマリアは未婚の母で、息子は養子に出され、資産家の元に暮らしてることを。

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ジャン=ルイを演じるのは、エリック・ロメール作品の常連で、多彩な役柄をこなすベテランのファブリス・ルキーニ。
俺は出演作の中では『百貨店大百科』が印象に残ってるが、彼は喜怒哀楽がはっきり出ない顔をしてる。
昨年スピルバーグがフルCGで『タンタンの冒険』を作ったが、若い頃のファブリス・ルキーニなら、実写で主役にハマると思う位の「タンタン顔」だと思ってる。


その彼の最小限の表情で、心が動いていくさまが、見る者に伝わってくる、そこにこの映画の「描きすぎない」良さが表れてるのだ。
人情話として、もっと濃い味に仕上げることも可能だが、そこをいい塩梅に抑えている。

でもエピローグでは「そうだよね、そうあってほしいよね」と観客が思うであろう結末を用意してる。
ここですっかり気持ちよくなってしまうのだ。

こういう映画は作れそうで、なかなかこんな風には仕上げるのは難しいだろう。
フランス映画というと、個性的な映画監督がいて、「作家主義」的に語られることが多いが、映画をほどよく語る上手さも見逃せない美点だと思う。
今年前半に見た『ある秘密』にも通じてる。

この映画の細やかさは、妻のシュザンヌの存在を、マリアとジャン=ルイへの「アンチ」として描いてはいない所だ。
シュザンヌ自身は身につかないブルジョワの生活に、いまもストレスを抱えてる。

スペイン人のメイドたちが、ジャン=ルイと交流するように、彼女もブルジョワのジャン=ルイと、生活を共にすると決まった当初は、環境や身分の違いに身がこわばっただろう。
ジャン=ルイとの関係は、だからメイドたちと実はそう変わらないのではないか。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、芯の強さと可憐さが同居していて、これは惚れてまうだろという納得のキャスティングだ。

2012年11月8日

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香港の家政婦は見た [映画タ行]

『桃(タオ)さんのしあわせ』

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父親の実家に昔、住み込みの家政婦さんがいた。
別に大層な家でもないのだが、俺の祖母というのが、料理や家事の一切をしないという人だったので、早くから雇い入れていたようだ。

ガキの頃、家族で帰省すると、決まって駅まで出迎えに来てくれた。
俺は「なあさん」と呼んでた。
語尾に「なあ」がつくんで、そう呼ぶようになったんだろう。

祖父が死に、祖母も入院するようになり、なあさんは暇をもらったようだ。
それはいつの頃だったか。
それどころか、俺はいまも「なあさん」の本名を知らないのだ。

彼女がどんな風に育ち、青春時代を送り、結婚した様子もなく、俺の父親の実家に住み込んで、長い時間を過ごしてきた、そのことをほとんど知らないままだ。

香港のベテラン女性監督アン・ホイによる、この『桃(タオ)さんのしあわせ』を見ながら、なあさんの顔を思い浮かべていた。


幼い頃に養子に出され、養父の死後には、梁家の家政婦となった桃さん。
その後彼女は4代に仕え、もう60年の月日が流れていた。
梁家は現在サンフランシスコに移住し、独身で映画プロデューサーのロジャーだけが香港のマンションに残っている。
桃さんはそのロジャーの身の回りの世話をしてるのだ。

夕飯の食材を探して市場に出向き、ロジャーのために手をかけた料理を出す。
ロジャーは旨いとも何とも云わず、当たり前のように黙々と食べると、中国に出張に出る。

桃さんとロジャーは母親と息子のような間柄となっており、息子は母親の作った料理を、褒めることもせず食べるだけという、この描写はチクリと心に刺さる。
息子であった者なら、思い当たるふしがあるからだ。

台詞で説明せず、テキパキと的確な画をつないで描いていく、ベテラン監督らしい進め方が気持ちいい。

ロジャーが出張から戻ると、桃さんは脳卒中で倒れていた。
退院はできたが、治療は継続し、完全な回復は望めないと知り、桃さんは、
「家政婦を辞めて、老人ホームに入る」とロジャーに告げる。
多少の貯えはあるから、費用も世話にならないと。


ロジャーは桃さんのために、顔見知りの役者バッタが経営する老人ホームを、格安で手配した。
個室と云われた部屋は、間仕切りで囲われただけで、ホームに入居する老人たちの風体や、味付けに気を配ってない食事など、桃さんには気が滅入ることばかり。

おまけに名前を「お手伝いさんみたい」と云われ、いよいよ腹も立つ。
だが桃さんは、ここで暮らしていくほかはなかった。

ロジャーは以前に心臓の病気で倒れたことがあり、その時に桃さんが献身的に看病してくれたことを感謝してる。
なのでホームにもよく顔を出し、今度は自分が世話する番と、桃さんの晩年に付き添う。
映画はその二人の関係を「心あたたまる物語」にしつらえてる訳ではない。


桃さんは60年に渡り、「いい家」に住み込みで働いてきたのだ。
その家の主人ではないが、生活をともにし、同じ窓の外の景色を眺めて生きてきた。
だから彼女の中では、生い立ちは貧しくとも、本来同じ「階級」ではない梁家の元に仕えることで、いつしか自分も庶民とは違う場所にいると、思いこんでたかも知れない。

老人ホームに入って、裕福とは云えない入居者たちと接することは、否応なく自分が本来いた場所を思い知らされる。

多少体の具合が悪くなっても、なんとかロジャーの下で暮らすことはできただろう。
「ホームに入る」と告げた時に、止めてくれるかもという思いもどこかにあっただろうか。
だが彼女にはプライドがあった。
使用人として、雇い主に迷惑はかけられないという。


ロジャーも「ほんとにいい人」という描かれ方ではない。
あのホームを見れば、桃さんのためにもう少しいい環境をと思ってもいいはずだ。
仕事があるから、桃さんを家で看るのは不可能と最初から決めている。

彼がなぜ独身でいるのかはわからないが、桃さんが家から居なくなり、電気製品の使い方ひとつわからないことを痛感する描写がある。
すべてを桃さんに任せっきりにしてきた。

相手が母親なら、さすがにある程度年齢がいけば、依存することにも躊躇するだろうが、桃さんが家政婦だということで、その存在に甘えてきたのではないか。

ロジャーにとって、桃さんは都合のいい母親だったのだ。


桃さんにも、ロジャーにも、ちょっと辛辣な視線を向けることで、ベタついた感傷から逃れる映画となってる。
それでもロジャーが桃さんを外出に連れ出す、2つの場面はいい。

ロジャーはプロデュースした映画の完成披露試写会に、桃さんをエスコートする。
化粧にも気をかけなかった桃さんが、心浮き立たせながら鏡に向かい、とっておきのドレスに身を包んで、お出かけする。

会場でロジャーは桃さんを「僕の義母です」と紹介した。
桃さんの人生で一番華やいだ夜だったろう。


もうひとつの場面は、ホームに入ってから、脳梗塞の症状を繰り返した桃さんが、ロジャーに車椅子を押されて、公園に散歩に出る。

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同じ言葉を繰り返す桃さんに、もう以前の表情はない。
彼女に背を向けてゴミ箱に向かう時のロジャーが痛切だ。

人は家族であれ、友人であれ、恋人であれ、つながりのあった相手に
「もう少しなにかしてあげられたかもしれない」
と、後から思う。
そういう思いが積み重なることが、歳をとるということなのだ。
ロジャーはあの時、そんなことを思っていたのかも。

俺の父親にとっても「おふくろの味」とは、このロジャーのように、母親でなく家政婦「なあさん」の作った料理の味だったのか。

この映画を父親が見れば、なにかしら感じ入るものもあったかもしれない。
だが映画を勧めようにも、その術はもうない。

ロジャーを静かに演じるアンディ・ラウもいいし、プライドと淋しさの狭間で揺れる、桃さんを演じたデイニー・イップも見事。
女好きのホームの入居者、キンさんを演じるチョン・プイが最後に泣かせる。

2012年11月7日

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昔『ヨーロッパの夜』というモンド映画があったが [映画ナ行]

『眠れぬ夜の仕事図鑑』

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ガキの頃から夜型だった。10才の時に「手作りラジオ」のキットというものを買ってもらい、夜中にたまたまスイッチを入れたら、ラジオ番組をやってる。
夜中にやってるなんて知らなかったので、イヤホンつけて聴いてるうちに、それが日課になってしまった。
学校では眠くてしょーがない。

若い頃には夜勤の仕事も何年かやった。夜勤明けに映画を見に行く。
平日の初回なんてガラガラだし、今のように指定席ではなかったから、好きな席に座って、退屈ならそのまま寝ればいい位の心持ちで見てたが、意外と眠らずに見てしまえる。

夜中に仕事して稼いで、平日の昼間に映画を見る。
若い頃はそれが効率的と思えてたが、あの時期の暮らし方で、心臓の寿命を縮めてたんではないか?と振り返って思う。
明らかに体に負荷はかかってるのだ。

映画を見終わって、まだ陽の高い屋外に出て、これから寝に帰ろうという時には、目の周りがズーンと重くなり、後頭部もボウッとした感覚になってる。
でもその感覚を「充実した時間を過ごした証」と解釈してたのだ。


このドキュメンタリーは、ヨーロッパ10カ国をロケして回り、「夜寝ない人々」の光景を観察する。
そのテーマに関心を惹かれて見に行った。

俺が映画を見始める以前、1960年代には『ヨーロッパの夜』をはじめとする「夜」シリーズという、ドキュメンタリーが日本に入ってきてた。
当時の性風俗が捉えられていて、「夜のいかがわしさ」が扇情的に宣伝されてたようだ。

ヨーロッパの夜.jpg

夜というのは、普通の生活者は寝てる時間であって、その時間にごそごそ動き回ってる人々は、なにか疚しさと隠微さがまとわりついてる。

夜は24時間のうちの「下半身」だったのだ。
だが今の都市生活において、夜は「昼間の延長」でしかなくなった。

昼間と同じように夜も、その時間を経済活動に使えばいい。
人間はそうして夜の時間を、当たり前のように侵食してきたのだ。
だが1日の24時間というのは、「人間が何もしない」時間も含めて設定されてるものなのだ本来。

俺が心臓の寿命を縮めたと感じた、あの時期のように、夜まで食い尽くして繁栄しようという人類は、きっとそのぶん寿命を縮めてるんだろう。

クリント・イーストウッドが最近の週刊誌の記事の中で、「とにかくよく寝る」と語ってる。
1日に9時間は寝るそうだ。
「もう老い先短いから」などと焦るような素振りなど微塵もない。
たっぷりと寝て、あれだけ画面に力の漲った映画を撮り続けてる。


この『眠れぬ夜の仕事図鑑』では20の異なる場所の光景が映されてる。

世界の都市で一番監視カメラの数が多いと言われている、ロンドンの監視モニター室。
警備員が何十台とあるモニターの画面を眺めている。
路上では麻薬の取引も頻繁に行われてる。
街頭の灯りの光量で十分に目視できる。
もちろんズームも自在にコントロールできて、公園のベンチにいる男の顔がはっきり判別できる。
監視カメラの精度が高い。

これでは町に出てる限りにおいては、丸裸にされてるようなもんだ。
こういう仕事を黙々とこなしている監視員というのは、どんなことを考えてるんだろうか。

ただ監視を行うというのは単調だろうし、眠気も誘うだろう。
誰か特定の人間に的を絞って観察することはないのか?

例えば自分が気に入った女性だとか。
彼女がもし毎日同じ場所に現れれば、そこらじゅうにある監視カメラを駆使して、その行動パターンや、どのくらいの収入の仕事に就いてるかとか、いろんな個人情報を手にできるだろう。

監視員にとって、ストーキングの誘惑というものはないのか。

このロンドンの監視員と比べて、冒頭に出てくる、スロバキアの国境警備のモニターは地味の一言。
だだっ広い草地にカメラが設置され、フェンスの前をたまに横切るのは動物だけ。


そんな無人の光景と真逆なのが、ミュンヘンで開かれる「オクトーバーフェスト」の人の山。
いわゆるビール祭りなんだが、広大な空間を擁する会場が人で埋め尽くされてる。

真ん中あたりにステージがあり、
バンドが「ビール!ビール!ビール持ってこい!」みたいな歌を演奏してて、客も大合唱となってる。
東京中のビアガーデンが1箇所に集まったみたいな。

ウェイトレスがチキンを乗せた皿の山を運んでくが、人波をかき分け、よく落とさないもんだ。

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その会場でピーター・シリングの『メイジャー・トム』という曲が流れてた。
これはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』へのアンサーソングとして、80年代にビルボードのヒットチャートにもランクインしたポップソングだ。
ピーター・シリングはドイツ出身のミュージシャンなので、母国ではかなり有名な曲なのだろう。

ほかは医療現場、24時間のニュースチャンネルや、空港、不法移民たちの強制移住手続きなど、淡々と行われる夜間の仕事がほとんど。


『ヨーロッパの夜』的なネタとしては、プラハの売春宿があった。
ここでは客が行為を撮影され、有料ネット会員に向けて配信されるということを了承すれば、格安料金で利用できるという。
裸でまぐわってる男女にも、その後素っ裸でシャワー浴びて出てくる様子にも、ちっともエロさを感じない。
もう『ヨーロッパの夜』のようなエキゾチズムは、この星の夜からは失われてしまった。

2012年11月6日

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インドネシア容赦ない『ザ・レイド』 [映画サ行]

『ザ・レイド』

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ブルース・リーが十数分だけ出てる「主演作」の『死亡遊戯』を、封切りの時に、日比谷映画で見た。

黄色に黒のラインが入ったトラックスーツを着た、ブルース・リーによる格闘場面が十数分撮られたまま、彼の死で未完となった「幻の映画」を、代役を使って完成させたものだ。

短編を長編映画に作り直すということは、よくあることだが、断片的なフッテージから、1本の長編映画をこしらえるというのは稀だろう。

その無理矢理感は公開前の段階からプンプン臭ってはいたが、映画オープニングの、ジョン・バリーのテーマ曲のカッコよさに
「ああ、これはちゃんとした映画になってるはず」
と、つかの間胸を撫で下ろした。

だが本編に入り、リーとおぼしき主人公は現れてからは、もういけない。
黒いグラサンで目は覆っているが、本人ではないことは一目瞭然だった。

一応代役の人たちも、それなりカンフーを習得してるから、動きは悪くない。
遠目でアクションを見てる分にはいいが、寄るともろバレで、場面によっては、ブルース・リーの顔をはめこんだりしてる。

本来なら「ふざけんな!」ってとこなんだろうが、俺を含めて、映画を見てた客たちは、
「なんであれ努力してることは認める」
というスタンスだったと思う。そして代役であれ、
「あれはブルース・リーなのだ」
と、自分の中で脳内変換させて見てたのだ。

こんなに観客に気を遣わせる映画もない。

そこにはもちろん商売っ気があったにせよ、ブルース・リーの雄姿を、いま一度スクリーンに甦らせようとした、作り手の執念と、そのことを踏まえて気を遣いながら見る観客の、そんな不思議な連帯感があの映画を形作ってたんだと思う。

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その観客の気遣いが終盤の「レッドペッパー・タワー」(唐辛子塔ってどうよ?)での本人登場で報われる。
と同時に代役たちに「今までご苦労さん」と言う気持ちにもなった。

階を上がるごとに刺客が現れ、本物のブルース・リーが打ち倒していく。
ヌンチャクの戦いも見れる。

ただ最上階のラスボスの、カリーム・アブドゥル・ジャバーがな。
俺はその時は胸に閉まっといたが、あれはどう見ても「ただのノッポ」だ。

バスケ選手としてはスターでも、リーのもとでジークンドーを習ってたとは云っても、あんな蹴りでブルース・リーの相手は務まらない。
チャック・ノリスに見劣りしすぎる。
そのラスボスの残念感だけは拭えなかった。


でようやく、この『ザ・レイド』に話がつながる。
日本に入ってくること自体が珍しいインドネシア映画だが、『死亡遊戯』の「レッドペッパー・タワー」でのシークェンスだけを抽出したような、全編が殺し合いという凄まじさなのだ。

ジャカルタにある、麻薬王が君臨する、スラムのような30階建ての高層アパートに、20人のSWATチームが突入する。
プロットはそれだけだ。
スピルバーグの『激突!』なみにシンプル。


SWATチームは完全武装して乗り込んでるが、見張りの一人に逃げられ、麻薬王リヤディは、突入の事実を知る。
アパートの各階に設置されたカメラによって、SWATチームの位置が把握され、リヤディはモニタールームから、全館に通知する。

「当ビルに害虫が侵入した。駆除に協力してくれた者には、アパートの永住権を与えよう」

それを聞いて、ドアというドアから、住人たちがワサワサと襲い掛かってきた。
襲撃に備えて、向かいのビルに配置してた麻薬王のスナイパーたちの銃撃も受け、20人いたSWAT隊員は、瞬く間に半数以下となる。

SWATのチームリーダーのジャカは、奇襲作戦を計画したワヒュ警部補に、本部に応援を要請してほしいと告げる。
だがこの作戦は警部補が独断で決めたもので、応援は来ないことが判明。
退路も断たれたSWATチームは、一転窮地に陥る。

屈強なジャカは徹底抗戦を覚悟するが、自分のチームの中に、救世主となる男がいることに気づいてなかった。


SWATに配属されたばかりの新人警官ラマは、インドネシア発祥の格闘術「プンチャック・シラット」の使い手だった。

リーダーのジャカと別行動となったラマは、なみいる敵を次々に打ち倒していった。
凄まじい速さの拳と蹴り。
ナイフや棒も自在に操り、容赦なく留めを刺してく。
6階からリヤディのいる15階まで、ラマは徐々に歩を進めつつあった。

階が上がるごとに、銃撃戦から肉弾戦へと様相は変わっていった。
そしてリヤディの側近「マッドドッグ」が動いた。

ジャカが銃を突きつけられると、マッドドッグは、銃など必要ないというジェスチャーで、ジャカを呼び寄せる。
素手でカタをつける気だ。

ジャカも腕に覚えはあるが、マッドドッグの強靭さは想像を超えていた。
拳も蹴りもまるでダメージを与えられない。
ジャカの表情に絶望の色が滲んでくる。

二人の戦いを知る由もないラマは、後から後から湧いてくる敵に、満身創痍となりながらも、前進を続けていた。
もはやラマが15階に辿り着いた時、マッドドッグと相まみえることは、避けようがなかった。

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主役ラマを演じるイコ・ウワイスはマスクもいいし、格闘のスキルも半端ないので、これはトニー・ジャー以来のスターになりそう。
この映画が前述した『死亡遊戯』より優れてるのは、なんといってもラスボスがガチに強いという所だ。

マッドドッグを演じるヤヤン・ルヒアンは1968年生まれというから、映画の撮影時には43才になってるが、29才のイコ・ウワイスに全く遜色ない、動きの速さと技の切れを見せる。

この人はプンチャック・シラットの他、さまざまなマーシャルアーツを習得してるだけでなく、
「インナーブリージング」という、衝撃に耐えられる体を作るテクニックも持っているという。

「拳も蹴りもまるでダメージを与えられない」という設定は絵空事ではないのだ。


こういうマーシャルアーツ系の映画は、とにかく肉弾戦を「ひえええ」とか「うはあああ」とか感嘆を漏らしながら、画面に釘付けになるというのが楽しいのであって、その意味ではアドレナリン出まくりで、見終わってグッタリするほどだ。

インドネシアおそるべし。

ジャカを演じたジョー・タスリムという役者は、口ひげのはやし方とか、全体の印象が、フィリピンの歴代最強ボクサー、マニー・パッキャオそっくりで、これは本人が意識してやってるんだろう。

監督がイギリス人のギャレス・エヴァンズという人で、演出スタイルに垢抜けた感覚がある。
アジアの監督だともう少しドロ臭くなるところだろう。

2012年11月5日

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ダイ・ハードなアイリッシュギャング [映画カ行]

『キル・ザ・ギャング』

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副題に「36回の爆破でも死ななかった男」とついてるが、これは事実誤認を誘発する。
「36回」というのは、1976年夏に、オハイオ州クリーブランドで起きた、ギャング間の抗争事件における、爆破件数を示したもの。

その抗争の主役となるのが、地元で生まれ育ったアイルランド系のギャング、ダニー・グリーンだ。
実在のギャングの生涯をタイトに描いて、「東映実録路線」のようなテイストの2011年作で日本未公開。
DVDリリースを待ちかねてた。
まずキャスティングが小躍りしたくなるほど渋いので列記しとく。

ダニー・グリーン(主人公のアイリッシュギャング)=レイ・スティーヴンソン 
ジョー・マンディツキ(幼なじみでクリーブランド市警刑事)=ヴァル・キルマー 
ジョン・ナルディ(地元ギャングでダニーと意気投合)=ヴィンセント・ドノフリオ 
キース・リットソン(ゴミ回収業を通じてダニーの仲間に)=ヴィニー・ジョーンズ 
ションドー・バーンズ(ダニーの腕を買う高利貸し)=クリストファー・ウォーケン 
ジェリー・ミーク(港湾局の組合長)=ボブ・ガントン 
リカヴォリ(地元のイタリアン・マフィア)=トニー・ロー・ビアンコ 
“ファット・トニー”サレルノ(ガンビーノ・ファミリー直系のNYのマフィア)=
ポール・ソルヴィーノ 
レイ・フェリーノ(サレルノが仕事を依頼するロスの殺し屋)=ロバート・ダヴィ

これだけ揃えても、喜ぶのは映画好きだけなのだろう、劇場公開に至らなかったのが残念だ。

クリーブランドといえば、MLBのインディアンズの本拠地というイメージくらいで、こんなギャングの抗争に揺れてた時代があったとは、初めて知った。
クリーブランド東部の下町コリンウッド周辺が舞台となってる。


ここで生まれ育ったダニーは、2m近い巨躯で、腕っぷしも強いが、人望もあった。
1960年代に地元の港湾労働者として働いてたが、労働条件は劣悪で、仲間からは、港湾局の組合長に立候補してくれと頼まれてた。
冷酷な組合長ジェリー・ミークは「余計なことは考えるな」とダニーを牽制した。

幼なじみにバクチで借金を作ったと泣きつかれたダニーは、地元のマフィアの元に話をつけに行く。
そこでジョン・ナルディと顔見知りとなり、借金をチャラにする条件として、港の倉庫から物品を強奪する仕事を請け負う。

だがそれをダニーの仕業と見抜いた組合長ミークは、自分が警察に通報すれば、今後一生組合長になどなれないぞと脅す。
そして奪った物品の利益を半分寄こせと。

ミークのボディガードが金を受け取りに来るが、ダニーは銃を向ける相手に、
「そんな物しまって、俺と踊らないか?」
と挑発する。
踊るとは、素手で殴りあうという意味だった。
挑発にのったボディガードは、ダニーの拳によって床に沈む。


翌朝、組合長の椅子に座るダニーに驚き、ボディガードを呼ぶが、誰も来ない。
ミークは、ここを立ち去れという意味で
「3秒やる」と云うと、
ダニーは「なんのために?」と応え、ミークを何度も平手打ちして、事務所から追い出してしまう。

腕づくで港湾局の組合長の座に就いたダニー。
だが、ダニーの羽振りのいい生活から、汚職の匂いを嗅ぎつけた、幼なじみで今は市警察の刑事であるジョー・マンディツキによって、ダニーは逮捕され監獄へ。


出所したのは1971年だった。金もなくなり、妻のジョアンと幼い娘たちを連れ、町でも治安の悪そうな地区に一軒家を借りた。

近所にはバイクの騒音を轟かせる暴走族がたむろしてたが、ダニーは臆せず乗り込んでいき、リーダーを引っ張り出すと、またもや
「俺と踊らないか?」
その場で返り血を浴びる位にブチのめして、追い払ってしまう。

ジョン・ナルディの口ききで、ダニーはレストラン経営者のションドー・バーンズに挨拶に出向いた。
ションドーはカジノも経営しており、バクチの負けを取り立てるため、高利貸しも同時に営んでいた。

ダニーの体格と腕っぷしを見込んだションドーは、借金の取立てを任せた。
ダニーは有無を言わさずに取り立てて回り、ションドーの信頼を得る。

キルザギャング3.jpg

その報酬だけでは十分でないと感じていたダニーは、隣人のフラートが自前のトラックで行ってる、ゴミ回収業に目をつける。
ビジネスを仕切ってるのは地元のイタリアン・マフィア、リカヴォリだった。

ゴミ回収業の男たちは気が荒く、人の云うことを聞かない。
リカヴォリは男たちを組合に加入させることができれば、ダニーにゴミ回収ビジネスに噛ませてやると条件を出す。
男たちを組合員にできれば、組合費として売上げをピンハネできるからだ。


ダニーは回収業者でも猛者と呼ばれるキース・リットソンを抱き込み、これも半ば強引な手法で、男たちを組合に加入させていく。
だが隣人のフラートは頑として拒んだ。

一人でも加入しない者がいると、みんな右へ倣えとなる。
ダニーはリカヴォリから、隣人を始末しろと命じられる。

その話を聞き及んだフラートは、先にダニーに銃を向けてきた。
撃ち合いとなり、フラートは死んだ。
妻のジョアンは、常に不穏な空気に包まれてるダニーとの生活に耐えられなくなり、子供を連れて出ていった。


4年後の1975年、ダニーはそろそろ堅気の仕事がしたいと思い、ションドーに
「ダブリン風のパブを出したい」
と持ちかける。ションドーは
「成功者は自分の金は出さないもんだ」
と云い、ニューヨークのガンビーノ・ファミリーに融資を掛け合う。

だがファミリーから金を受け取った、ションドーの使いが、その7万ドルを着服。
麻薬売買の現場を警官に押さえられたことで、金も押収されてしまう。

金の返済を巡って、ダニーはションドーと揉める。
ションドーは目をかけてきたダニーの態度に怒り、その首に2万5千ドルもの賞金をかけた。

車に爆弾を仕掛けられたが、間一髪で難を逃れたダニーは、すぐさま報復。
ションドーを同じように車で爆死させてしまう。

ダニーをこのまま野放しにはできない。リカヴォリは手下を動かし、ダニーの自宅に爆弾を投げ込む。
ダニーはつきあってたエリーの身を庇い、全壊した家屋の下敷きとなったが、ここでも奇跡的に生き伸びた。

ダニーは仲間と結束し、地元のイタリアン・マフィアとの全面戦争に突入した。
ひと夏に36回の爆破事件が起きたが、ダニーはまだ生きていた。


いくら殺そうとしても、平然と生き続ける「ダイハード」なアイルランド野郎に、リカヴォリはついに手打ちを提案。

だがその席でダニーは
「俺は骨までしゃぶられてきたんだ」
「もう言いなりにはならない」
と、好きに振舞うと言い放った。

もはや自分の手に余ると感じたリカヴォリは、ブルックリンに拠点を置く、上層部のマフィア、“ファット・トニー”サレルノに始末を依頼する。

サレルノは、ロスに使いを寄こし、殺し屋のレイ・フェリーノに仕事を託した。
そのサレルノの元を、なんとダニーが挨拶に訪れた。
その申し出は意外なものだった。


ダニー・グリーンというギャングの人物像が、ちょっと掴みどころがない感じで、そこに面白みがある。
普段は本を読むのが好きな「静かなる男」という印象なんだが、いざとなると腕に任せて決着を図る。
小細工はないのだ。

長いものに巻かれるのを好しとしないため、常に軋轢を生むし、トラブルを屁とも思ってない。
野心はあるんだろうが、具体的にどこまで上ろうとか、そういうギラギラ感はない。

クスリはおろか、酒も呑まないから、私生活も乱れた風にはならない。
アイリッシュとしての誇りは高かったようだ。


演じるレイ・スティーヴンソンは、『パニッシャー ウォーゾーン』で主役を張ったものの、その後は地味に糊口をしのいでる感じだったが、この映画はキャリアの代表作になりそうな快演ぶりだ。

特に口ひげをたくわえてからが、いかにも70年代のタフガイの風情が出て、過去の出演作では感じさせなかった色気も漂わせている。

『マイティ・ソー』の時も、一際デカさが目立ってたが、今回も何が驚きって、『スナッチ』とかどの映画に出てても、一番デカいなと感じてたヴィニー・ジョーンズが、レイ・スティーヴンソンと並ぶと小柄に見えるという!

キルザギャング2.jpg

男の映画だから女優は飾り程度になってしまうが、エリーを演じるローラ・ラムジーは可愛い。
いきなりオッパイ丸出しでダニーを誘う場面は、思わぬサービスカットになってる。

監督は『パニッシャー』シリーズの、レイ・スティーヴンソンではなく、トム・ジェーンが主役を演じた1作目の方を撮ったジョナサン・ヘンズリー。
俺は『パニッシャー』はけっこう好き。

この映画70年代のロックがかなり流れてるんだが、相当に渋い選曲と思われ、1曲も知らなかった。
こんなのは珍しい。サントラがあれば買って聴いてみたい。

「野太く生きて、パッと散った」男の話だ。
ギャングの実録はだから面白いのだ。

2012年11月4日

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映画は人を騙し、人を救う [映画ア行]

『アルゴ』

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1979年、イランの前国王パーレビが、癌の治療のため、アメリカに入国。
イランの過激派は、恐怖政治の中で私服を肥やしたパーレビを、自国で裁きにかけるため、身柄の引渡しを要求。
時のカーター政権はこれを拒否したため、過激派に煽動された民衆たちによる大規模なデモが起こる。

デモの大群は、在イラン米国大使館を取り囲み、最悪の事態を予感した大使館員たちは、書類のすべてを焼却、あるいはシュレッダーにかけた。

怒りに駆られた民衆たちは、大使館の塀を乗り越え、敷地内になだれ込む。
52人の大使館員が拘束された。
だが混乱に乗じて、6人が大使館を脱出し、カナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

アメリカ人を匿ったことがイラン側に察知されれば、自分と妻の身も危ない。
だがカナダ大使は、アメリカ大使館員6人を、客人として滞在させることにした。

カナダ大使から連絡を受けた米国防省は、CIAに応援を要請。
人質奪還のプロ、トニー・メンデスの手腕に委ねた。


すでに、どうやって6人をイランから脱出させるかの案は上がっていた。
2つの案はトニーによって即座に否定される。

車を使うと検問にかかるので、自転車でトルコ国境を越える案。
これは国境まで600キロもあるので非現実的。
外国人教師を装うという案も、すでに反西欧に傾いていた当時のイラン国内には、英語教師などはいなくなってると、トニーは指摘。

「では代案はあるのか?」
との問いには、その場では答えられなかった。

だが自宅に戻り、幼い息子に電話しながら、テレビで放映されてる『最後の猿の惑星』を眺めてたトニーは、ある突拍子もないアイデアが閃いた。


1977年『スター・ウォーズ』の空前の大ヒットにより、SF映画ブームが到来していた。
カナダ大使私邸に滞在する6人の、アメリカ人大使館員を、カナダの映画クルーに装わせる。

荒涼とした砂漠の惑星のロケーションに、エジプトやイランなど、中東諸国が適してるとして、撮影に訪れたことにする。
トニー自身が映画の資料を持って、イランの役人にロケの許可を得る。
そしてカナダ大使私邸で、6人と合流し、一緒に空港へ向かい、出国審査をクリアして、民間機で脱出するという筋書きだった。

だが過激派は大使館内のシュレッダーから、裁断された紙の断片を回収。
子供たちを動員させ、なんとジグソーパズルよろしく、断片をつなぎ合わせる作業をさせていた。

その紙の中には、6人の大使館員たちのプロフィールも含まれ、顔写真が照合されれば、人質の中に6人がいないことがバレてしまう。

入国時に書かされる証明書も、控えは空港職員のもとにある。
出国時にトニーと、6人の入国日が違うことを指摘されたら?
薄氷の上を渡るような作戦は、決行の時を真近に迎えていた。


前作の『ザ・タウン』と同様に、監督・主演を兼ねたベン・アフレックだが、前作がアクション描写を強調した作りになってたのに対し、この『アルゴ』は、じっくりと腰を据えて、物語の展開をコントロールしていこうという姿勢だ。

前半に動きのある場面なんかを入れて、メリハリを効かそうとか、そういう色気を出すことがない。

これは事実自体が十分面白いのだから、それをなるべく明解に、駆け足にならずに観客に提示する。
ベン・アフレックの「功をあせらない」演出ぶりで、事件の背景や、登場人物の関わり合いが把握しやすい。
それでも前半は単調に感じる人もいるだろう。
だが映画好きなら、前半から身を乗り出して見てしまうようなネタが蒔かれてるのだ。


『アルゴ』とは、映画会社のボツ脚本の山に埋もれていた、SF映画の題名による。
『スター・ウォーズ』に便乗して、ロジャー・コーマンが手掛けた『スペース・レイダース』とか『宇宙の7人』とか、そんなパチモン感が漂う。
トニーはまずこのSF映画を製作するという、既成事実つくりから行う。

「敵を欺くにはまず味方から」ということで、特殊メイクマンと、映画プロデューサーに声をかけ、
「架空の映画話をデッチ上げる」と。

ストーリーボードを描かせ、エキストラ役者を集めて、コスチュームを着せ、製作発表の席で、台本を読み合わせさせる。
ポスターの図柄が、製作発表の記事とともに、映画業界誌「バラエティ」に載る。

「バラエティ」誌は、世界どの国の映画人でもその名を知ってる業界誌であり、この雑誌に載ったということが、アリバイ作りの成立を意味してるのだ。

バラエティ誌.jpg

実際の映画業界でも、製作発表をして、イメージポスターも作って、だけどその後に話がポシャることはザラにある。
企画をブチ上げて資金を募って、そのまま雲隠れする、自称プロデューサーなんて輩も珍しくない。

映画というのは、そういった「いかがわしさ」の中で日々生み出されているものなのだ。


製作発表の内容通りに、映画が完成したとして、それが巧妙な宣伝によって、映画館にかかったとして、その「クソみたいな」出来栄えに、それこそブログやツイッターなんかで
「金返せ!時間返せ!」の合唱が沸き起こったとしても。

もしそうなったとしても、その観客の内の誰かが、監督やプロデューサーのもとに押しかけて
「つまらないもの見せやがって!」
と刃物振りかざすようなことにはならない。

映画というのは不思議なもので、どんなにつまらない映画でも、殺意を抱かせるまでには至らず、観客は
「そのつまらなさも一つの存在価値」などと、生暖かい目で見てくれたりする。

面白いと思って「騙された」としても、観客は刃物までは手にしないが、この
『アルゴ』の場合は、「騙された」と気づいたら、銃を向けてくるであろう人間たちが相手なのだ。

ハシにも棒にもかからない脚本を拾いあげて、チープなSF映画をデッチ上げて、だがその映画こそが、6人の人命を救う「切り札」になるという痛快さ。


映画の終盤は、一気呵成に見せてく演出で、もちろん脱出のスリルは十分に味わえるが、俺はこの映画の主眼は、やはり「映画を語る映画」という部分にあると思う。

映画を作るという行為は、いわば「上手に嘘をつく」ことだ。
観客も嘘を承知で楽しむ術を心得てる。
作り手と観客の間には、暗黙の了解があるわけだ。

だが『アルゴ』の嘘は「命がけ」でつかなければならない嘘だ。
その作戦自体が、「バクチ」といわれる映画製作そのものを表してる。

だから自分たちも、映画に騙されたと思って、いちいち目くじら立ててちゃいけないのだ。
そんな映画が人を救うことだってあるのだから。
70年代のワーナー映画のロゴから始まるところも憎い。

2012年11月3日

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吹替版で見よう「消耗品軍団」 [映画ア行]

『エクスペンダブルズ2』

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シルベスター・スタローン(バーニー・ロス)=ささきいさお
ジェイソン・ステイサム(リー・クリスマス)=山路和弘
ドルフ・ラングレン(ガンナー・ヤンセン)=大塚明夫
ジェット・リー(イン・ヤン)=池田秀一
チャック・ノリス(ブッカー)=堀勝之祐
ジャン=クロード・ヴァン・ダム(ヴィラン)=山寺宏一
ブルース・ウィリス(チャーチ)=綿引勝彦
アーノルド・シュワルツェネッガー(トレンチ)=玄田哲章

どうよ、この吹替版の声優のメンツ。これでこそ「吹替版」を名乗る資格があるってもんだ。
普通ならもちろん洋画は字幕版で見るんだが、これは別だ。
本編に負けず劣らず、こんな声の顔ぶれが一堂に揃うなんてことは滅多にないのだ。

都内近郊いろいろネットで調べてみて、吹替版が大きなスクリーンでかかってる所ということで、今まで足を運んだことなかった「109シネマズ木場」を選んだ。
しかし俺の見た回は、他に男性客ひとりだけ。なんだこの「選択に負けた」感は。

吹替自体は文句なしに素晴らしかった。
CMでブルース・ウィリスと「共演」してる綿引勝彦が、
「ちゃんと覚えとくんだ、ブルゥース!」って云うのかなと期待しちゃったよ。

パンフは800円と高めだが、ささきいさお、玄田哲章、綿引勝彦による対談も載ってるし、内容盛りだくさんで、値段に見合ってる。


基本1作目とやってることは変わんない。
スタローンは今回監督はサイモン・ウェストに任せて、自分は演技に徹してるが、それとて、スタローンの演出とどこが違うとか差も感じないし。

冒頭でネパールの武装反乱軍に拉致された、中国の富豪を救い出すというミッションに臨む「消耗品軍団」。
最初っから殺しまくりだ。
徹底的に殺して破壊し尽くして、ミッションを終えて国へ帰ると、新入りの凄腕スナイパー、ビリーが仕事の血生臭さに耐えられないと、バーニーに訴える。

バーニーは「俺もお前くらいの頃、同じように悩んだもんだ」
と云い、その胸の痛み、わかるぞみたいな熱い眼差しを注ぐ。

俺はスタローン好きだし、映画もほとんど見てるけど、彼の悪い癖は、こういうウェットな訴えかけをしてくる所だ。
あれだけ他所の国の人間を虫けらみたいに殺しまくっといて、
「でも俺たちも家に帰れば、一人の人間なんだよなあ」みたいなアピールはいらんわ。
殺しが仕事なら、殺しに徹してくれ。

まあしかしウェットなのはそこまでで、後はひたすら撃ちまくり殺しまくりしか描かれないので、安心して見てられたが。

今回はジェット・リーが冒頭のミッションで、ちょっと暴れてみせただけで、映画から退場してしまうのはがっかりだが、前回仇役っぽい位置づけだったドルフ・ラングレンが、なんとコメディリリーフを任されてる。
これが悪くないのだ。スタローンはこういう人の使い方が上手い。

ちなみにドルフの役名のガンナー・ヤンセンというのは、同じ北欧出身で、『悪魔のいけにえ』でレザーフェイスを演じた、ガーナー・ハンセンをもじってると俺は踏んでる。

前作ではオファーを蹴ったヴァン・ダムが、今回満を持して悪役として登場。
役名がヴィラン(悪党)ってそのままじゃないか。
サングラスかけて凄みを感じさせるが、最後の見せ場でそのサングラスを外すと、なんか目が変になってる。
スタローンも同じなんだが、アクション映画に出続けた頃に、筋肉増強剤をかなり服用してたんだろう。
その副作用めいたものが、顔の妙なゆがみに現れてる気がする。

スタローン対ヴァン・ダムの「ゆがみ顔対決」も見ものだが、格闘の切れのよさでは、ジェイソン・ステイサムと、敵の腹心スコット・アドキンスのマーシャルアーツ対決の方が見応えはある。

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だが俺にとっては、この映画はチャック・ノリスに尽きる。
もうここからはチャック・ノリスの事しか書かないが、実は途中まで彼は出てこない。
俺も見ながら「あと誰か出てくるはずだよなあ」
などとボンヤリ考えてたら、敵に囲まれた「消耗品軍団」のピンチを一人で解決した男が現れた。
なぜか『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲に乗って、歩いてくるのがチャック・ノリスだ。

俺はこの場面で、二人しかいない劇場内で、ケラケラ笑い出してしまった。
別にギャグの場面でもないし、俺は「こういうのわかってるんだぜ」というような、笑いのアピールをするのは好かない。
時々映画見てるといるんだよ、そういう手合いが。
笑おうと思って笑ったんじゃなく、自然に笑いが止まらなくなってしまったのだ。
スタローンが「ブルース・リーと拳を交えた男」に、最大の敬意を払ってることに嬉しくなったのかも。

チャック・ノリス演じるブッカーは、傭兵の業界では「ローンウルフ(一匹狼)」と呼ばれてるのだ。
ローンウルフという呼称と、マカロニウェスタンの音楽となれば、これは
1983年のチャック・ノリス主演作『テキサスSWAT』へのオマージュだとわかる。

原題は『ローンウルフ・マッコード』といい、現代版マカロニウェスタンを目指したような作りの活劇で、フランチェスコ・デマージによる音楽は、モロにマカロニテイストでカッコよかった。

あの映画の仇役はデヴィッド・キャラダインだった。
テレビドラマ『燃えよ!カンフー』で一躍名を上げたキャラダインと、ブルース・リーとの対決で名を上げたノリスが、最後に野っぱらで、カンフーで雌雄を決する様は、
『ドラゴンへの道』の記憶を喚起させたもんだ。

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俺は自分の人生の持ち時間を、人に比べてチャック・ノリスの映画に結構費やしてきてる方だ。
1977年の『暗黒殺人指令』から、1993年のTVムービー『テキサス・レンジャー』あたりまで、ほとんど見てきてる。
キャリアとしての最盛期は、この『テキサスSWAT』から、『地獄のヒーロー』『野獣捜査線』『デルタフォース』『地獄のコマンド』の5連発だろう。

『地獄のコマンド』なんて、原題は「合衆国侵略」と大きく出てるわりには、フロリダの先っぽの方で小競り合いしてるレベルの話だったが、キャノン・プロ製作だから、見せ場もエグくて楽しめた。

なによりこの時期の「チャック・ノリス映画」はテーマ曲がみんないいのだ。
『野獣捜査線』はラロ・シフリン風にクールだし、アラン・シルベストリによる『デルタフォース』のテーマは、一時期「プロ野球ニュース」の試合ダイジェストで必ず流れてた。

『エクスペンダブルズ2』のチャック・ノリス参上で、こんなにテンション上がるのは、彼の映画に付き合ってきた者だけに表れる症状なのだ。

2012年11月2日
  
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「東京国際映画祭」をみなとみらいで [東京国際映画祭2012]

「東京国際映画祭2012」総評的なこと

今年の東京国際映画祭は、関連上映を含めると、期間内の9日間で33本を見た。
昨年は「コンペ」作品をそこそこ見たが、今年は4本だけ。

もともとコンペに興味が薄く、こんなこと云っちゃなんだが、「サクラグランプリ」に輝いたからといって、過去の例だと、大して作品の箔づけにはなってない。

コンペで上映される映画は、この機会を逃すと、公開もされずもう出会えなくなく、そういう確率は高いのだが、出会えないままでもいいと思う映画も、この世にはたくさんある。
「貴重な機会と思って見たけど、自分には合わなかった」
そういう経験をもう随分と長く、映画祭では味わってきてるからだ。

俺がコンペ作品にあまり熱が入らないのは、はじめの頃の印象が芳しくなかったというのが大きい。
俺は1985年の第1回から参戦してるが、当時のコンペの上映作はとにかく「地味」。

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1991年の「第4回」までは隔年開催だったから、作品選定の余裕もあったと思うんだが、なぜこうも地味なのかと。
それは開催されてしばらくは、コンペの作品選定を行ってた人の嗜好に拠っていた。

映画評論家の草壁久四郎は、すでに世界の映画祭で審査員を務める経歴を持ち、特に欧米以外の国の映画に造詣があった。
それで作品選定の責任者として白羽の矢が立ったのだろう。
だが選ぶテイストが「エキプ・ド・シネマ」的というのか、見て楽しめるものより、テーマ性とか民族色とか、そういう要素が色濃い映画に傾いているんで、
「まあ描きたいことはわかるけどさ」と、なにか論文発表におつきあいしてる気分になってくる。

ふつう映画を見てれば笑ったりとか、感情の起伏が誘発されるもんだが、当時はコンペ作品を3本もハシゴしたら、自分自身も表情を失ってしまったんじゃないか?と思うくらいにテンションがダダ下がりになった。
「映画祭」という祭りのはずなのに。


そんな気分を払拭してくれたのが、1985年から同時開催されてた
「東京国際ファンタスティック映画祭」(通称・東京ファンタ)だった。

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こちらはホラー・SF作品中心に「娯楽なくしてなんの映画か」という上映作が並び、祭り気分を盛り上げる。
なので俺は東急文化村より、その「対岸」に位置してた渋谷パンテオンに入り浸ることが多かった。


ゼロ年代に入って、2回ほどは仕事の関係で東京を離れてたため、参戦してない年があるが、最初の10年よりは、ここ10年の方が、コンペ作品のテイストにも幅が出てきて、面白い作品に出会える確率は高まったとは感じてる。

それでも、すでに世界の映画祭で、評価済みの未公開新作を集めた「WORLD CINEMA」部門の方に食指が動いてしまうのは、「TIFF」のコンペに、有力なワールドプレミア作が揃えられないという課題が、27年経った今も解消されてないからだ。


それから「WORLD CINEMA」部門が出来て、「賞獲り映画」が並ぶという、映画祭ならではの華やかさが加味されたことで、そろそろ「特別招待作品」部門は縮小されていいんじゃないか?

一般公開がまだ先になるという映画を上映するのならともかく、物によっては映画祭の翌週には公開という映画を、わざわざかける必要あるのか?
それに「特別に招待する」ほどのもんでもないようなレベルの映画も混じってるし。

どういうパワーバランスのもとで決められてるのか知らんが、国際映画祭のオープニングが
『シルク・ドゥ・ソレイユ3D』とか、ないわ。

俺自身としては、「特別招待作品」では、ミニシアターでの一般公開が決まってるような映画を、選んで見ることにしてる。
シネコンの大きな画面と音響で堪能できる唯一の機会になるし、ミニシアターは場所によって上映環境がピンキリだからだ。


それから「日本映画・ある視点」もボリュームとして淋しい気がする。
俺はこのブログで前に、映画館の料金に関して書いた中で、インディーズの日本映画の上映環境に触れたが、「TIFF」は10月開催なので、その年に劇場公開された日本映画から、注目すべき作品を集めて再上映するという試みがあってもいいと思う。

いま、夥しい数の日本映画が劇場公開されてるが、その存在も知られてないという作品もかなりな数に上るだろう。


2004年以降は「TOHOシネマズ六本木ヒルズ」がメイン会場になっていて、プレス会場だとか、上映施設以外の周辺の環境整備も整ってるだろうから、しばらくはここで開催するんだろうが、通ってる側からすれば、ちょっと飽きたよ。
六本木という町自体がそれほど魅力的でもないし、映画と映画の間に、時間を潰せるような場所に乏しい。

そこでなんだが、一度会場を横浜の「みなとみらい地区」に移してみちゃどうかな。
横浜開催だと「TIFF」じゃなく「YIFF」になるけど。

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あそこには「パシフィコ横浜」という、首都圏最大級のコンベンションセンターがある。
大ホールは5000人のキャパがあるし、施設内には会議スペースもあるし、事務局やプレス関係の場所も確保できるだろう。
周辺にホテルもあるから、来日ゲストの宿泊に使える。

「パシフィコ横浜」から10分圏内に、「ブルク13」と「109シネマズMM横浜」の二つのシネコンがある。
丁度三角形に結べるような位置関係だ。

「みなとみらい地区」を巡回するバス路線というのがある。
映画祭の期間中は、「ブルク13」と「109シネマズMM横浜」を結ぶ無料シャトルバスを運行するなどして、2つのシネコンで作品を上映できれば、今以上の規模の本数や、上映回数が実現できると思う。

もちろんアクセス的には六本木より足がかかる。
だけど海を臨めるロケーションというのは売りになるはず。

俺の勝手な印象なんだが、外国の人って日本人より、海を眺めるの好きだよね。
ここ数年淋しくなる一方の、映画祭の来日ゲストだけど、会場が海に面してると知ったら、
「じゃあ行こうかな」と思うような人も出てくるんじゃないか?
同じく外国の人が好きな「観覧車」もあるしね。

六本木は開放感がないんだよ。
映画漬けになった、その合間を潮風にあたってリフレッシュしたいと思うでしょ?

「TIFF」は過去に一度だけ、1994年の第7回のみ、京都に場所を移して開催したことがある。
俺もさすがに京都までは行けなかったが。

海を臨めるという点では「お台場」という選択肢もあるが、あそこはシネコンが「シネマメディアージュ」しかないし、豊洲の「ユナイテッドシネマズ」までは離れてる。
ということで、「みなとみらい開催」を推してみる。

2012年11月1日

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TIFF2012・最終日『怪奇ヘビ男』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『怪奇ヘビ男』(アジアの風・中東パノラマ)

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カンボジア映画というもの自体、目にすることがなかったので、この機会にと見たわけだが、闇鍋的な面白さがつまった映画で、一応ホラー・ファンタジーなんだが、それにしても上映時間164分だからね。
何でも揃ってる田舎の雑貨屋みたいだった。
ツッコミ所ありすぎで、みんな笑って見てたが、作った監督たちが見舞われた災厄は、とても笑いごとではない。


『怪奇ヘビ男』はテイ・リム・クゥン監督が1970年に作った映画だが、映画に理解を示していたシハヌーク殿下が、政権を追われ、1975年には、ポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」(カンボジア共産党)による、革命という名の大量殺戮が行われ、それはおよそ4年もの間、カンボジア全土に吹荒れた。
当時の知識層に属する人々は、根こそぎ粛清され、カンボジア映画のフィルムも多くが焼却されてしまう。

現存するフィルムは30本ほどと見られており、テイ・リム・クゥン監督は、命からがら、自作のフィルムとともに、粛清を逃れたという。
その後長い間、自らのフィルムの存在を明かさずにきた。

当時カンボジアで何が起きてたのかは、1984年の映画『キリング・フィールド』に描かれている。
この上映の前に舞台挨拶に娘とともに登壇した、すでに高齢のテイ・リム・クゥン監督が、

「こうして国際映画祭の場で上映されることで、世界の映画史の中に、
カンボジア映画が確かに存在したことの証になる」
と語って、その胸中を察すると胸が痛む思いがした。

この『怪奇ヘビ男』のような、極彩色の娯楽パラダイスみたいな映画が作られてた国を、地獄のような光景が覆い尽くすことになるなんて、当時の国民には想像もつかなかっただろう。

そんな思いに耽りつつも、映画が始まると、ポル・ポトの禍々しい記憶など払拭してしまう、能天気パワーが画面から放出されるのだ。


貧しい村に暮らすセテイは、働きもせず、酒かっくらって、機嫌が悪くなると暴力を振るう、ド最低な亭主に縛られている。
美人のセテイを、亭主は外に出さず、一日中、家の仕事でコキ使われ、一人娘を構う気力もない。

ある日、娘と森にタケノコを採りに行ったセテイは、掘ってる最中に鍬の先端の刃を、穴の中に落としてしまう。
するとその穴の中から巨大な蛇が姿を現した。
「ケンコン蛇」という大蛇で、ふつうに男の声でしゃべれるのだ。

セテイは「鍬の刃を返してください」と懇願する。
「返してもらえないと亭主に殴られます」
ケンコン蛇は「私の嫁になると約束すれば、刃を返そう」

ここでセテイが悩むのがすごい。どんだけ亭主が恐ろしいんだよ。
そしてなんと蛇の嫁になることを了承!

亭主が家を留守にするのを見計らい、娘が蛇の穴へ呼びに行く。
ケンコン蛇は夜這いの如く、セテイのもとに忍びこみ、体を絡みつかせる。

女と蛇がまぐわう描写はさすがにないが、その後のナレーションで、セテイは、雑な亭主のセックスよりも、ケンコン蛇のヌラヌラとうごめく体つかいに、すっかりメロメロになってしまったそうな。

だがその夜這いに亭主が気づいた。
妊娠したセテイの相手が蛇だと知り、亭主はケンコン蛇をおびき寄せて殺した。

そしてその肉をスープにして、無理矢理セテイに食わせた。
いよいよセテイの腹が膨らんだ時、亭主はその腹を裂くと、中から無数の蛇の子供が溢れ出て来た。

ここまでで、全体の3分の1くらいだが、すでにお腹一杯なエグさである。
セテイの亭主がクソすぎる上に、別になんの罰も受けないで、その話は終わる。


ソリーヤーという、裕福な家の娘が出てくる。
彼女の父親は性格の悪い後妻を貰い、ソリーヤーはその継母から家を追い出されてしまう。
ソリーヤーはある日、水遊びをしていて、溺れそうになり、青年に救われる。
その青年こそ、セテイの腹から生まれ、ただ一匹だけ生き残った蛇が、人間の姿で成長した「ヘビ男」だった。
顔は森進一に似てる。

二人の道ならぬ恋は、歌謡映画のように、互いに唄いながら、育まれていくが、ここに怪しい魔女が登場する。
ソリーヤーの継母の息がかかってるんだが、その魔女は、青年が「ヘビ男」ではないかと感づいてる。

そして青年の「命玉」ともいえる、赤い宝石の指輪を盗む。
その指輪の力を悪用され、青年は蛇の姿を晒し、さらに最後は石となってしまう。


して唐突に8年後となる。
ソリーヤーは「ヘビ男」との間に子供をもうけており、その小さな一人娘と、なぜか洞窟の中で暮らしてる。
ソリーヤーはあの後、指輪を取り返そうとして、魔女から逆に呪いをかけられ、すっかり獣のように変わり果ててしまったのだ。

ソリーヤーを演じた女優は、ちょっと若尾文子に似た美人なのだが、この変貌してからの表情は怖い。
完全に正気を逸してるのだ。

そしてさらに凄いことになってるのが、小さな一人娘だ。

なんとメデューサみたいに髪の毛が蛇!
レプリカを頭に乗っけてるんだが、何匹か本物の蛇が頭でのたくってる。
それを踏まえた上で、娘役の少女が演技をしてる。

蛇が頭に乗ってるんだよ。それだけでほぼ世界中の少女はNG出すだろ。
だがこのカンボジア少女は、そんなこと忘れてるかのような熱演を見せる。

少女はセキセイインコのヒナが巣から落ちて、動物に襲われそうな所を助けてやる。
蛇だから小鳥は好物なはずだが、心が優しいのだ。
セキセイインコの親はいたく感謝し、少女に魔女から指輪を取り戻す方法を、しゃべりまくって教えてくれる。
とにかくカンボジアでは、動物はしゃべって当然ということらしい。

魔女を洞窟におびき寄せる少女!
檻の中で狂ったままの母親!
状況を逐一報告してくれるインコ!
ズルズルと近づいてくる魔女!
キリキリと弓を引く少女!
とここまで盛り上げといて、魔女が仕留められるカットはなしという、
「このいけず!」な演出。

映画館の座席から思わずズリ落ちそうになったよ。

とにかく164分かけて、最後はヘビ乗っけた少女と、セキセイインコが持ってくという。
継母がどうなったのかとか、全然憶えてない。

このアシッド感はぜひとも一般公開されて、多くの人に体験してもらえるといいのに。
テイ・リム・クゥン監督、翌年に続編も作ってるそうで、フィルムがあるんなら見たいよなあ。

2012年10月31日

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