ヒル、マン、フリン、男の活劇作家の共通項 [映画雑感]

今日はまず新年早々もたらされた吉報から。
前にこのブログで、公開される見込みのなさを残念がったジャック・オーディアールの傑作
『預言者』の急遽公開が決まったのだ。
今月21日から、ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
まだ年も始まったばかりだが、今年の年末のベストテンには、必ず顔を出すであろう映画なので、その臨場感をスクリーンで。


昨日『摩天楼ブルース』を取り上げて、ジョン・フリン監督の活劇の特徴を述べようとして終わった。

組織.jpg

ジョン・フリン監督が初めて手がけた活劇が1973年の『組織』、その2年後にウォルター・ヒル監督がブロンソンを主役に『ストリート・ファイター』でデビュー。彼らからしばらく置いて1981年に『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』で名を知らしめたのがマイケル・マン。この3人に共通するのが、『摩天楼ブルース』の中でちょっと触れたが、主人公に近い女性に危害が及ぶような描写が、ほとんどないことだ。
「フェミニストだから」とかそういう意味じゃない。

だが例えば初期のウォルター・ヒルが、そのスローを駆使したアクション演出で引き合いに出された先達のサム・ペキンパーや、活劇俳優から活劇監督へ転身遂げたイーストウッドの監督作とでは、やはり明らかな違いを見てとれる。

ストリートファイター.jpg

ペキンパーの『わらの犬』『ガルシアの首』『戦争のはらわた』にはヒロインや、主人公に近い女性がレイプされる場面がある。
イーストウッドの監督作でも、『アウトロー』や『ガントレット』でソンドラ・ロックが、『タイトロープ』ではイーストウッドの実の娘が、『許されざる者』では暴行され、ナイフで顔を切り裂かれた娼婦が、そして『グラン・トリノ』では隣家のアジア人の長女が、危害を加えられてる。
そのことが主人公の怒りの導線に火をつけるような、映画を動かすモチベーションの機能に使われてたりする。

だがこの3人の監督の映画ではそうならない。
それは彼らの活劇の本質が「ごっこ」の延長線上にあるからだ。
ガキの頃に「戦争ごっこ」とか「チャンバラごっこ」とか「ギャングと警察ごっこ」とか、やったと思うけど、その時の動機づけに「じゃあ、まずお前の妹が襲われて…」なんて設定にするわけない。
「ごっこ」とはいかにそれらしく演じられるか、演出できるかってことであって、その人物造形や、小道具なんかのディテールにこだわることこそ本筋なのだ。
だからマイケル・マン監督などは「音効の銃声音が物足りない」と言って実弾使ったりしてるのだ。

ザ・クラッカーブルーレイ.jpg

そんな3人の監督の映画だから、必然的に「女」の存在は薄くなりがちだ。物語に絡みはするけど、見せ場となれば「お呼びじゃないよ」状態となってしまう。
女優も印象に残らない。ウォルター・ヒルの場合は『ストリート・オブ・ファイアー』でスターのダイアン・レインを起用してたが、あれは例外みたいなもんで、マイケル・マンの映画でも『ヒート』のアシュレイ・ジャッド位しか、パッと思い浮かばない。
それを映画を見る楽しみの部分で物足りないと思う人もいるだろう。
だけど、女性の登場人物が、主人公の行動のモチベーションのために、危害加えられるために出てくる、そんな役割を担ってるように見えてしまう映画も如何なもんか、と思うんだが。

別にペキンパーやイーストウッドが、そういう考えで女性を描いてると言いたいわけじゃない。彼らの場合は、活劇よりも「暴力」の本質を描こうという視点があるのかもしれない。
暴力は男にも女にも、降りかかるものだからだ。
ここに挙げた監督たちの映画は「アクション映画」とひと括りにされてるが、同じジャンルの映画でも作り手の立脚点が違うものがある、ということなのだ。

「ごっこ」を、俺は貶めるような意味で使ってるわけじゃない。むしろ映画が「ごっこ」に徹してるからこそ、こっちもカラッと痛快に楽しめるんだと思う。そこに女性が暴行されたりという場面が入ると、どうしても陰惨な感じを引きずってしまうのだ。
映画会社としては、そういう場面に男の観客が興奮するということもあるだろうと、描写を歓迎するだろうし、実際1970年代までのアクション映画には、よく見られるものだった。
「お色気とドンパチ」というセットメニューみたいなもんだ。
だがそれをよしとしないで活劇を作り続けた監督たちの映画が、「男のアクション」映画好きに今も支持されてる。

だがどうも彼ら3人の後を継ぐような監督がここんとこ見当たらない。監督よりもアクションスターに、その思想が引き継がれてるように思う。

昨年見たドウェイン・ジョンソン主演の『ファースター 怒りの銃弾』にこんな場面があった。
ドウェインが仇として追ってる悪党一味の中に、異常性格の男がいる。老人に変装して、善意の若い娘に荷物を自分の部屋まで運んでもらい、お礼にとジュースを振舞う。薬が入れてあり、朦朧とする娘を暴行して、その様子を写真に撮るつもりだ。だが手を出す間もなくドウェインが部屋に踏み込んで、その娘は危機を脱する。

ファースター 怒りの銃弾.jpg

ここは映画によっては、娘が暴行を受ける様子を何カットか入れそうな所だが、それはドウェインが避けたのだろう。彼の主演のアクションを見ても、女性が危害を加えられるような描写は見ない。
ジェイソン・ステイサムの映画にも当てはまる。『アドレナリン』シリーズのエイミー・スマートの場合は…あれは本人も同意の上だよね。

と、ここまで論を進めてきて何だが、ことジョン・フリン監督に関しては、映画第1作の『軍曹』というのが、軍隊内の同性愛を扱ってるのが理由でもないんだが、本人はゲイだったんじゃないかと言われてる。
『ローリング・サンダー』での、ウィリアム・ディヴェインに呼ばれて、敵のアジトに殴りこむトミー・リー・ジョーンズの嬉しそうな顔とかね、『摩天楼ブルース』でも、テレーザ・サルダナよりジャン=マイケル・ヴィンセントの裸の上半身にカメラが行ってたし。
そういう人なら、女が服を引き裂かれたりなんて場面も関心湧かないかもな。

2012年1月8日

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