なぜゴッサムを守るのか? [映画タ行]

『ダーク・ナイト ライジング』

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クリストファー・ノーラン監督は「007」映画のファンを公言してる。
この3部作の1作目『バットマン ビギンズ』において、バットマンは他のアメコミ・ヒーローと違い、超人ではないと規定した。
人間の身体能力を飛躍的にアップさせるガジェットや、武器を身につけることにより、超人的な活躍が担保されるというものだ。

モーガン・フリーマン演じるフォックスは、「007」映画における「Q」の存在であり、
大富豪ブルース・ウェインは「任務ではなく自分で勝手にミッションをこなすジェームズ・ボンド」という風に見える。


今回の「ライジング」において、ノーラン監督は明確に「007」的活劇を志向してる。
アバンタイトルに描かれる、あの飛行機2機を使った、ベインの空中脱走劇は、「007」映画の導入部そのままに、スリリングな見せ場になってる。

前作『ダーク・ナイト』はヒース・レジャーによるジョーカーの禍々しさが映画を塗りこめていたため、アクションシーンがあったはずなのに、ほとんど印象に残ってなかった。

「すべての人間は悪に堕ちる素地を備えている」と煽動していくジョーカーから、目を離せなかったことは事実だが、映画のテーマを登場人物に語らせすぎるという「講釈テイスト」がちょっと腹にもたれる感じもあった。
押井守監督の『機動警察パトレイバー2』を見た時の印象に近かった。

ノーラン監督は、今回の完結篇で、悪役も含めて、映画全体をフィジカルな方向に軌道修正しようと試みたのだろう。
証券マンを人質にとり、バイクに後ろ向きに括りつけて逃走するベインの一味を、バットポッドで追う、中盤のチェイスシーンも見事だった。
ラストの趣向は『ブラック・サンデー』入ってて、新味はなかったが。


ただどうもすっきりしないのが、バットマン(ブルース・ウェイン)は、なぜゴッサム・シティを守りきろうと命を張るのかということ。

2作目までの設定なら、ゴッサム・シティというのが、架空の町である前に、物語の中ではシンボルであるということはわかってた。ゴッサム・シティという「宇宙」の中で描かれる物語が、現代の社会であり、世界の縮図であること。

ゴッサム・シティを守るという行為自体が、映画用語でいうところの「マクガフィン」であり、バットマンが治安を守るという展開の中で、
「バットマンの自警団的正義は認められるのか?」
「悪を制する者も悪と捉えられる皮肉」
「純粋な悪を目の前に、抗う手立てはあるのか?」
など、現代社会に通低する問題提起こそが、映画が描くことの本質であったこと。

だが今回、ベインの大規模テロによって、ニューヨークそのものに見えるゴッサム・シティが内戦状態となるに及び、合衆国大統領が映画に登場し、声明を読み上げる。
その前のスタジアムでのアメフトの試合前に、少年が「アメリカ国歌」を独唱もしてる。

つまりゴッサム・シティは、ロスアンゼルスやアトランタといった都市と同様に、アメリカの一都市と明確に描かれたのだ。
ゴッサム・シティはもう「比喩」ではなくなる。
となるとバットマンは、アメリカの一都市を限定的に自警する「ローカルヒーロー」と見えなくもない。
ゴッサム・シティが具体的な都市であるということになると、このシリーズには決定的に、その都市と都市に暮らす住民たちの描写が欠けている。

バットマンの周りには、執事のアルフレッドはじめ、ウェイン産業の関係者と、ゴードン市警本部長はじめ、警察及び司法の人間、ウェインの女性関係、それに悪玉と、それしか出てこない印象なのだ。
ブルース・ウェインが命がけで守ろうとするゴッサム・シティとはどんな場所なのか?
その顔が見えない。


今回の敵ベインは、まずバットマンより、フィジカルが圧倒的に強いという特徴を備えて登場したが、インパクトにおいてはジョーカーの後塵を拝する。
あれだけのテロを起こしておいて、ゴッサムの住民に「町を民衆の手に取り戻すのだ!」などとアジ演説かましてるが、そんな危ない奴についてかないだろ、ふつう。
そのあと、金持ちの家に暴徒が押しかけるって場面があるが、この辺も記号的な描写で面白くない。

ベインに簡単になびいてしまう位に人心が荒廃してるというのなら、前もってそこを描いといてくれよ。というより、3部作の内の1作だけでも『シチズン・オブ・ゴッサム』として、ゴッサムの住人を主人公に、バットマンとの係わりを描いてほしかった。


ブルース・ウェインは自分の過去の境遇もあり、ゴッサム・シティの孤児院の運営を、ウェイン産業として援助し続けてきてるが、今回出てきた孤児院の少年も、存在をフォーカスされるにまで至らない。
例えば孤児院を出た少年たちが、ゴッサムに蔓延する悪に染まり、町の存亡を脅かすような一大勢力になる。彼らはベインに共鳴して、町の破壊へと突き進むが、満身創痍のバットマンと対峙することにより、自らの中の「バットマン」に目覚めていく。

それが今回の映画で、バットマンが若い警官ジョン・ブレイクに告げる
「誰もがバットマンになれる」
というセリフに、より意味を持たせることになるんじゃないか?

ベインに煽動された囚人たちや市民が、警官隊と衝突する、市街での大乱闘場面があるが、あそこは明らかに警官隊に思い入れた演出となってる。

ノーラン監督という人は元来、警察官に悪印象を持ってないようで、しかし警察というのは国家権力の側にある組織なのだから、市民と衝突する場面で、警官をヒロイックに描くという事には、違和感がある。市民の側はただの暴徒にしか見えず、そうなるとこんな町や住民たちを、ブルース・ウェインはなんで守ろうと思うのか?そこらあたりの説得力が感じられないのだ。


こんな屁理屈こねててもしょーがないかも知れないが、映画自体が理屈っぽいんだから、こっちも細かいことが気になってくる。

一度はベインに破れ、ブルース・ウェインが絶望監獄のような場所に幽閉されるシークェンスがある。
巨大な井戸の底にあり、その壁面を登って脱出できたのは、過去に子供が一人だけという場所だ。
ブルースは何度か挑戦するが登り切ることができない。

瀕死で監獄に連れてこられたブルースを介抱し、その面倒を見た同房の老囚人のアドバイスで、ブルースは壁面をクリアできるんだが、それもいわゆる「フォースとともにあれ」みたいな、ヨーダの精神論から進んでないもので、その「根性でクリア」ってのもどうかと。

「007」風で行こうとしてるんだから、あっさりフォックスが助け船出したってよかったと思うが。

しかしブルースを介抱する囚人を演じてるのがトム・コンティとは。
『戦場のメリー・クリスマス』でも監獄にいたけど、こういうちょっとした役を名優に演らせてるのは贅沢。

贅沢といえば、テレビ画面越しだったが、声明を読み上げる合衆国大統領を、ウィリアム・ディヴェインが演じてた。そう『ローリング・サンダー』のアニキだ。
彼が大統領を演じたのは、1974年のテレビムービー『十月のミサイル』でJFKを演じて以来のことだろう。

主要なキャストでは、ジョン・ブレイクを演じるジョセフ・ゴードン=レヴィットが抜群によかった。
『ダーク・ナイト ライジング』とは、ジョン・ブレイクのことでもあったんだな。

2012年8月5日

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