俺流解釈版『ハンナ』 [映画ハ行]

『ハンナ』

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この映画「脚本が粗すぎ!」ってのが大方の評価になってるね。
俺は見終わって思ったんだけど、これは思春期を迎えた少女の妄想劇なんじゃないかと。
主人公ハンナの妄想ではなく、ハンナ自身が妄想の産物ってこと。


冒頭、雪の中の、閉ざされた山小屋での父親とハンナの生活。これは幼い娘と父親の間の「蜜月」の時期を表してる。
「大きくなったらパパのお嫁さんになるぅ!」
「おお、そうかそうか」
っていう、あのやりとりの感じね。
でも思春期を迎えると、愛情も叱責も含めた親の支配が息苦しくなってくる。

よく夢判断で、何かに追いかけられる夢は、日常生活でのストレスや脱却を願う気持ちの反映とされてるけど、この映画のハンナも終始追いかけられる立場にいる。
父親がハンナの目の前に置いたボックスのスイッチ。あれは「缶蹴り」の缶だね。
スイッチを押したってことは、缶を蹴った、すなわち、逃げないと鬼が追いかけてくるわけだ。
鬼のケイト・ブランシェットは母親のメタファー。支配の象徴だね。

ブランシェットはCIAってことになってるけど、ハンナを捕まえる意図が不明確。
父親エリック・バナにしても、なんでわざわざハンナの存在を知らせる必要があるのか?
このあたりは、つまり子供の妄想の限界なんだよ。

CIAがなんとなく悪企みしてそうな人たちって認識はあるんだけど、組織の指揮系統とか、背景になにがあるのかとか、そこまでは想像が及ばないんだね。悪人は単純に悪を成す存在。
ハンナを一晩泊めてやるモロッコの宿の主人とか、一緒に乗せて旅をするキャンピングカーの一家とか、ハンナに手を差しのべる振りして、居場所を組織に教えるなんてことはしないのも、善人はあくまでいい人なのだ。
人間の二面性にまで思い及ぶことはない。

終わりの方でベルリンで再会を果たした父親から、出生の秘密を聞かされ、ショックを受けるシーンがあるけど、「父親は赤の他人だった」というのは
「もう他人であってほしい!」という、真逆の願望を表してる。

あんなに懐いてた娘が思春期になると、いきなり父親を避けるようになるよね。
一時的に男という生き物の拒否反応を示すんだけど、一番身近な男は兄弟か父親。
父親が脱ぎ捨てた靴下を目にするのも嫌という
「パパのお嫁さんになるぅ」
は一体どこいったんだってことだよねえ。

その後のシーンでケイト・ブランシェットと対峙した父親エリック・バナが
「なんで今頃になって?」という問いに
「子供は成長するんだよ」と答える。
これも思春期の少女の
「あたしは成長してるのよ!」という心の叫びなんじゃないか。

つまりこの映画は、思春期の子供が妄想しそうなことを、大人が理屈で補正してくんじゃなく、なるべく忠実に描いてみたという、結構野心的とも思える作りではないかというのが、まあぶっちゃけ思いっきり好意的に解釈した俺の見解。
あとこの監督は何気に足フェチ。足フェチに悪い人間はいない。

2011年9月14日

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