だって、テレンス・マリックだもの [映画タ行]

『ツリー・オブ・ライフ』

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なんか実写版ヤマトなみに叩かれまくってるよね、この映画。
「わけわからん」「長すぎ!」「感動の家族ドラマと思ったのに」「宗教PRか!」
「ブラピがカッコよくない」「時間返せ!」と散々だね。

いろいろお怒りはあろうが、「時間返せ!」ってのはね。じゃあ、その時間が返ってきたら、なんか有意義にお使いになるのか?自分の時間がそれほど貴重なものと認識してる人がどのくらいいるのかね。
そもそも「時は金なり」という人生を送ってる人は、映画なんか見てる暇ないよ。
それはともかく、酷評に関しては一言だけ返しておきたい。

「だって、テレンス・マリックだもの」(みつを)。

この監督は、こういう映画をずっと撮ってきた人なの。
少年時代のジャックの家の周辺の風景なんか、監督デビュー作『地獄の逃避行』の冒頭で、マーティン・シーンがシシー・スペイセクをナンパする場面の風景とそっくりで、俺なんかそれだけで感無量だよ。

「ふつうの観客がそんなこと知らねえよ!」
と言われるだろうね。そりゃそうかもしらんけどさ。映画監督ってのは、一人につき生涯一本ってわけではない。
当たり前だけど。
つまり監督によって、同じテーマにこだわって作り続ける人や、人生観、色彩の好み、それぞれ違う。
だからこの監督の映画を見続けてきた人間にとっては、
『ツリー・オブ・ライフ』はまぎれもなくテレンス・マリック・ワールドなんだよ。

「だからそんな監督知らないって」ってことでしょ。
でも知らないんなら知っておいたっていいんじゃないの?
この監督の映画はすべてDVDで見られるんだし。
映画は点で捉えるんじゃなくて、線で捉えないとわからないということがある。

「宣伝に騙された」という声も多いね。あの
「父さん、あの頃の僕はあなたが嫌いだった…」
ってコピーは、
「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね?」(人間の証明)
のパクリっぽいけど、内容には即してるよね。
たしかに感動の家族ドラマを見にきたのに『コヤニスカッティ』やってた、って感じの導入部には面食らうかもな。
配給会社は映画の冒頭に
「家族のドラマは30分後から始まります」とテロップ入れてもよかったとは思うけど。


聖書の引用なんかあって、難解と捉えられてるけど、描かれてることは割とシンプルじゃないの。
主人公ジャックの少年時代の様々な記憶が断片的に出てくるけど、例えば、クラスで気になった女の子とたまたま帰り道が一緒で、その娘の少し後ろから歩いてるシーン。
ふつうの映画のエピソードであれば、ジャックが声をかけて、それがきっかけで、その娘の仲良くなるという展開だけど、そうしないよね。
それはそうならなかったからでしょう。
実際俺も小学生の時、似たような経験があって、同じ道を帰ることにドキドキしたことはあるけど、声はかけられなかった。

その他にもジャックが夕暮れ時に近所の夫婦喧嘩を、通りから嫌そうに眺めるとことか、弟たちとの草むら遊び、庭で洗濯物を干す母さんの姿。
ひとつの場面をエピソードにつなげるんではなく、断片の一つ一つが、人間の生きた記憶なんだという視点を感じる。

高圧的な父親への反発が、やがて「死んでほしい」という殺意にまで高まり、そう念じたことで、神様は父親でなく、自分の弟の命を奪っていかれた。
成人してからのジャックはその思いに苛まれ続けてるんだよね。
少年時代の記憶は甘美であったはずなのに、いつからかそれが苦渋に満ちたものになってしまった。
そういう感覚に共鳴する人も少なくないと思うんだが。


ただこの映画は「こういう風に見てください」という描き方はされてない。
だから「説明不足」と感じる向きもあるだろう。
丁度同じ時期に同じような題名の『ライフ』という生物ドキュメンタリーやってるね。
俳優親子が動物たちの生態はもとより、この場面からはこんなメッセージを読み取ってください的な、
「そこまで語るか」なナレーションで埋めつくされてる。
言われなくても見てりゃわかるんだけどね。

テレビのドキュメンタリーなんかでもそう。
みるからに悲しみにくれてる人を映しながら
「深い悲しみにくれたのでした」って見りゃわかるよね!
他にもプロ野球のテレビ解説も
「さあ監督が猛然と抗議に飛び出しました!」ってその通りに見えるよ!

駅のホームのアナウンス、電車の車内アナウンス、カーナビの音声ガイドに至るまで、日本は「説明過剰社会」と化してる。もう本人が想像して自分で判断下す余地もないくらいに。
こういう状態に慣れてしまうと、この映画のように説明をしないものは「不完全」に感じてしまうんじゃないか?
別にその人なりの解釈があっていいんだから、歯で噛み砕いて、咀嚼してみたっていいのに、と思うよ。

今回の反応を見てると、今後テレンス・マリックの映画は二度と見ないなんて人も増えそうだけど、それでもいい。
彼の映画が好きな人間は好きでい続けるし、新作を心待ちにするし、監督本人も涼しい顔で、新作に取り掛かってるだろう。

ただ俺自身、不満がないわけじゃない。クラシックの使い方。
今回スメタナの画面への合せ方とか、ちょっと凡庸な気がした。
『地獄の逃避行』では1973年の時点でエリック・サティを使うような先見性があった。
もっともルイ・マルがそれより前に『鬼火』で使ってるけど、アメリカ映画の監督としてはという意味で。

それと『シン・レッド・ライン』以降は名のあるハリウッド・スターたちを起用するようになってるけど、初期の2作ではマーティン・シーン、シシー・スペイセク、リチャード・ギア、サム・シェパードといった、まだ知名度低い若手を起用して、のちのブレイクのきっかけを作ってた。
だから俳優に関しては初期の起用法に戻ってもいいんじゃないか。
なまじスターを使うから、観客に勘違いされるって面もある。

テレンス・マリックの映画は主役はスターではなく、映像にあるんだから。

2011年9月16日

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