『モールス』と『ぼくのエリ…』 [映画マ行]

『モールス』

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オリジナルのスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』を先に劇場で見ていたし、オリジナル版の方に思い入れも強い。
同じ順番で見てる人は大抵そうだろうと思う。

クロエ・グレース・モレッツは演技は巧いし、謎めいた美少女の雰囲気は出てるんだが、ルックスが柔らかすぎるね。だから吸血鬼の本性を現す場面では、特殊メイクで顔を変えざるを得ない。
オリジナル版の少女は、黒く長い巻き髪が、魔女のような不穏な空気を漂わせてた。
『白い家の少女』の頃のジョディ・フォスターが演じてたら?と妄想してみたりもする。

このハリウッド版リメイクは、概ねスウェーデン版を踏襲するストーリー展開となってる。
俺が物足りなさを感じるのは、音楽の弱さかな。

『ぼくのエリ…』で、少年がついにエリとともに、殺害の共犯となる場面。
全身を獲物の血で染めるエリを抱きとめる、心の高鳴りを表すかのような、美しくドラマティックなテーマ曲が鳴り響くこの場面は見てて鳥肌が立った。
昔の映画音楽、フランシス・レイやジョン・バリーが奏でそうな、一度聴いて耳に残るいい曲なんだ。
リメイク版でも同じ場面を再現してるが、そこに被さる音楽が弱い。鳥肌立たない。

様々な解釈の余地を残す、従来の「吸血鬼映画」の枠を超えた秀作だと思うのだが、俺はこの映画は
「暴力に堕ちてゆく者」を描いているのだと感じた。


いじめられっ子の少年は、その憎しみを、家の前の公園の木に、ナイフを突き立てることで発散させようとしている。
普段、同級生からいじめを受け、抵抗できずにいるが、少年の中にも、暴力への希求が潜んでいる。
吸血鬼の少女に
「やられたら、やり返さなきゃダメよ」
「私が助けてあげるから」
と言われ、その言葉に押されるように、いじめのリーダー格に、逆襲の一撃を加える。
暴力によって敵を制圧した瞬間だ。12才の少年の中でパチンと種が弾けたのだ。

その後、自分の背中を押してくれた少女が、人間ではなく異形の者だと知ることになるが、少女が
「入っていいよ」と招き入れてもらえないと、家に入ることができないと知った時、少年の表情にサディスティックな眼差しが揺らいでいる。
なにか得体の知れないモンスターであろうが、自分より弱い部分を持っている、その相手に対する傲慢な素振り。
吸血鬼の少女は確信しただろう。
この少年は、条件さえ整えば、暴力を行使することに躊躇しないだろうと。

この物語はオリジナルはスウェーデンのものだが、アメリカを舞台に置き換えられたことで、テーマが際立つことになったと思う。
「やられたら、やり返せ」
吸血鬼はアメリカの世論を巧みに誘導する政治家であり、政治家を動かすために都合のいい情報を吹き込む機関であり、争い事で利益を生むことで経済を上向かせる構造なのだ。

二人で旅立つ列車内の風景。映画としては余韻を残す、いいラストシーンではあるけど、あの後二人はどこかの町で降りるとして、その先どうしていくつもりか?
前任者は大人の男だったので、アビーと親子のように振る舞い、周囲に違和感を持たれることも無かったろう。住む場所を借りることもできる。
だが12才のオーウェンに住む場所を確保する術があるのか?
アビーは日の差す日中は外に居られない。

施設に身を寄せるとか、里子として見知らぬ誰かに養ってもらう、そして密かにアビーの寝床を確保する。
しかしオーウェンの親は生きてる訳だし、身元を調べられて、すぐ連絡されちゃうだろう。
それとオーウェンの子供の体力では、彼女のために獲物の血を採取するなんてことも困難。
アビーは夜、自分でそれをせざるを得ない。

映画のラスト近くで、いじめっ子たちの報復に合い、命の危険に晒された自分を、圧倒的な暴力の力によって救い出してくれた吸血鬼の少女。
この先、少女の下僕として生きることになろうが、この少女といることで、自分は無敵でいられる。
だがアビーにとって、12才の少年の存在価値とは何なのか?
そんなことを考えてると、余韻も冷え冷えしたものに変わっていくよねえ。

2011年9月30日

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