『ミッション:8ミニッツ』から連想するSF短編 [映画マ行]

『ミッション:8ミニッツ』

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チネチッタ川崎に見に行ったんだが、映画が始まるまでの時間、場内にブライアン・イーノの曲を流し続けてた。
映画のサントラというわけじゃない。
監督がデヴィッド・ボウイの息子のダンカン・ジョーンズなんで、あからさまに父親の曲を流すんじゃなく、ボウイと繋がりの深いブライアン・イーノにしたんだろう。センスいいぞここ。

そのダンカン・ジョーンズの前作であり監督デビュー作『月に囚われた男』を見たのもここだった。
映画が始まってすぐの場面で、この映画が前作のテーマと関連してるんだということを匂わす楽屋オチが出てくる。
シカゴ行きの通勤電車内で、主人公ジェイク・ギレンホールの向かいの席に座るミッシェル・モナハンの携帯の着メロだ。
これが『ワン・アンド・オンリー』というポップソングのサビの部分で、『月に囚われた男』で主人公サム・ロックウェルの目覚まし時計の、ウェイクアップコールと同じ曲なのだ。

これは単なるお遊びじゃなく、『月に囚われた男』の主人公が一人で赴任してるはずの月面基地内で、自分のクローンを発見することから、
「どっちが本当の自分なのか?」と疑い始める話なのと、『ミッション:8ミニッツ』のパラレルワールドを往き来させられる主人公とが、似た状況下に置かれてることを示している。
『ワン・アンド・オンリー』という曲名に皮肉がこもる。


コルター・スティーブンス大尉が目を覚ましたのは、シカゴ行きの通勤電車の中だった。
向かいの席では若い美女が
「あなたの言う通りだわ、ショーン」
と話しかける。彼女に見憶えはない。気分が悪くなりトイレに駆け込む。
鏡に映る顔は自分じゃない!

ポケットの財布を開くと、身分証明書には「ショーン・フェントレス教員」とある。これは夢なのか?
さっきの彼女が心配してトイレの前にいる。
状況を説明しようとした時、電車内で爆発が起き、すべてが炎に包まれ、次に気がつくと、鉄製のポッドのような物体の中にいた。

モニターから女性が「爆弾を仕掛けた犯人はわかった?」と問う。
彼女は誰だ?記憶を復元すると言われ、文章を読み上げられる内、彼女の名前がグッドウィンだと思い出す。
自分は任務を遂行中らしい。だが自分コルターは、アフガンで軍のヘリを操縦してたはずだ。
これは何かの仮想訓練なのか?

「もう一度、電車に戻って。今度もリミットは8分よ」
再び車内で目覚めたコルターは、同じ状況の中で学習し、爆弾のありかまでは特定するが、時間切れで爆発。再びポッドに戻っていた。
モニターの向こうにいる責任者のような男が説明する。
これは「並行世界」に意識を飛ばすとこができるマシンだと。

テロリストは通勤電車を爆破した後、シカゴの街を狙い、さらに大規模な爆破テロを企ててる。
通勤電車の爆破を阻止しないと、シカゴ市民が大惨事に見舞われる。
なぜ8分間しか時間がないのか?責任者は言う。
「電気を消した後の残光が見えるだろう」
「人間の脳も、死亡が確認された後、8分間は神経回路が生きてる」
「そして死の8分前の記憶を残してある」と。

ポッドの中にいるコルターと、通勤電車爆破の犠牲者となった教員ショーンとの適合性が高かった。
ということは、コルター・スティーブンス大尉である自分も死んでいるということなのか?

だが爆破が起きるたび、何度もリセットして「並行世界」に飛ばされてる。
コルターは通勤電車内に戻される内、犯人に近づくとともに、何度も運命を共にする、向かいの座席のクリスティーナを助けたいと思うように。
そして人生最後の8分間を悔いなく終わりたいと願うようになる。
そしてモニターのグッドウィンに、この任務が終わったら、生命維持装置を切ってほしいと告げる。


同じ状況が繰り返される中で、主人公がよりよい行動を学習してく展開は、ビル・マーレイの
『恋はデジャ・ヴ』や、もうちょっとSF寄りでレアなところでは、ヘレン・スレイターが出てた
『タイム・アクセル12:01』なんかを思い出させる。
でも着想の根底にあるのは、60年代に作られた2本のカルト短編なんじゃないかな。

1本はテリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』の元ネタとして有名な、
1962年の短編『ラ・ジュテ』

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人類滅亡の原因を探るため、未来からタイムスリップした男が最後に見る風景が切なかった。
知り合う女性がポイントなのも似てる。

もう1本はその1年前に作られた『ふくろうの河』

ふくろうの河.jpg

後に『冒険者たち』で人気を博するロベール・アンリコ監督による短編。
縛り首の刑で、橋げたから吊るされる男。ロープが切れ、河に落ちた男は、そのまま逃走して、妻の待つ農場を目指す。だがそれは吊るされた男が最後に見た幻影だったという話。
8分間というミッションの意味に重なる所がある。
2本の短編ともフランス映画だ。

この映画で、コルターの意識は別人の教員ショーンの肉体に宿るわけだが、本当の自分ではない別人であっても、人生をよりよいものにしたい、笑顔で過ごせるようにしたいと、意識が変わっていくのが面白い。
これは前作『月に囚われた男』の中で、自分と自分のクローンが対面していく内に、本物である自分へのこだわりが、やがてクローンとの共闘へと意識が変化してくのと似てる。

クローン技術が進むほどに、本物の自分が脅かされる「アイデンティティ・クライシス」の問題が身近なものとなってくる。
「人を、その人本人たらしめるものとは何か?」
それは哲学の領域のような気もするが、「本物の自分」に固持するほどに、人生に真摯に向き合ってるものだろうか?
怠惰に日々をやり過ごす、それでも生きてられるんだからいいや、と考えたりしたことないか。
「俺の人生をクローンに乗っ取られるなんて御免だ」
といえるほど、その人生に価値を見出して生きてるか?

でなけりゃクローンがよりよい人生を切り開いてくれるんなら、それでもいいんじゃないか?

と、これは強烈なニヒリズムにも繋がる話だが、映画自体は若い監督ならではの、明るい展望を指し示すラストで飾りたいという、その位の意味合いだと思う。
ショーンという教員と、クリスティーナとは、そもそも毎日の通勤電車の中で言葉を交わすようになった間柄で、クリスティーナは「コーヒーを一緒に」と誘われるのを待ってたのだから。

2011年11月13日

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