でもお前も傭兵じゃんというケン・ローチ監督作 [映画ラ行]

『ルート・アイリッシュ』

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イラク戦争に傭兵を派遣する、民間の軍事会社の存在は、2009年作『消されたヘッドライン』の中で、事件の背景として取り上げられていた。このケン・ローチの新作は、「企業から雇われて」イラクに派遣された、コントラクターと呼ばれる、民間兵の実態に取材して描かれた物語。
短期間に高額な報酬が支払われるというんで、イギリス人も多く雇われてたようだ。
国の軍隊に帰属してないので、「軍規」に従うこともない。アメリカがイラク議会に対し強引に押し込んだ「指令第17号」というものがあり、コントラクターのイラクでの行動は一切裁かれず、罪に問われることもなかった。

任務の多くは要人警護だったが、イラク民間人への非道な行いも多発してたという。武装した人間が規律もない中でうろうろしてるんだから、現地の住民はたまったものではないだろう。


物語の主人公ファーガスは、兄弟同然に育ったフランキーを、「金になる仕事がある」と民間兵の仕事に誘い、ともにイラクへと派遣される。一足先にファーガスはイギリスへと戻るが、後に残ったフランキーから、携帯の留守電に何度も切迫したメッセージが吹き込まれ、その直後に彼の死が告げられる。
フランキーが死んだとされるのは、イラクでも最も危険とされる「ルート・アイリッシュ」と呼ばれる道路だった。
バグダッド空港から、米軍が管轄する「グリーン・ゾーン」という非戦区域を結ぶ12キロの区間で、テロの標的となることがしばしばだった。

葬式にはファーガスやフランキーを派遣した民間軍事会社の重役も、調査の名目で訪れていた。
重役の「彼は悪い時に、悪い場所にいたとしか言いようがない」との言葉に、ファーガスは激しく反発し、自らフランキーの死の真相を明かすために行動を開始した。

その過程でフランキーの携帯に残された画像と、アラビア文字のメッセージ、さらには文字の翻訳を頼んだイラク人歌手から見せられたパソコンの動画によって、フランキーが、イラクの民間人を射殺する事件に巻き込まれ、行動を共にしていた民間兵が死の真相に係わってるとの疑いを濃くする。


映画は「ルート・アイリッシュ」で起きた事件としながらも、ファーガスが現場に行くことはない。
ファーガスは帰国後に警察沙汰になる騒ぎを起こしており、パスポートを取り上げられてるという設定なのだ。
イギリス国内で事件の真相を突き止めようとする展開はそのまま、戦地へ傭兵を送って、自らはなんら手を汚さずに、戦地での不法行為にも我関せずな態度を取る、民間軍事会社のあくどさを浮き彫りにしてはいる。

だが今回の主人公ファーガスは、自らも傭兵であり、鍵を握る民間兵が、証拠隠滅を図って、イラク人歌手に暴行を加えたりするにつけ、ただちに反撃に出て、その民間兵を拷問にかけたりする。
さらには黒幕に対しても報復を準備する。

「社会の弱者」を主人公に据えてきたケン・ローチ監督にしては、この主人公は「弱者」には見えず、映画もある種の「ベンジェンス物」に感じられるのだ。
娯楽映画としての「ベンジェンス物」なら、それなりに胸のすく結末になるんだろうが、ケン・ローチの映画だから、そうはならない。それだけにどっちつかずな印象が拭えない。


ケン・ローチ監督の映画は全部ではないが、けっこう見てきてはいる。
一番好きなのは『ケス』だ。
その後も一貫して、労働者階級や社会的弱者を主人公に描き続けてきてる監督だが、俺個人としては、カンヌ・パルムドールの『麦の穂を揺らす風』に至るまで、いい映画であることに異論はないが、主人公に芯から共感できたと思えるような映画はない。
それは多分ケン・ローチ監督が「立派な人」だからだろう。常に弱者の側に立とうという信念の人。

だけど何と言うか、視線は寄り添ってはいるんだろうが、
「いやあ、俺もこの人みたいなとこあるからねえ」という感じは受けないんだよな。
「自分はこうではないが、こういう生き方をせざるを得ない人もいる」という視線というのか。
その「芯の強い立派な」感じが、俺の性根とそぐわないんだろう、多分。

今回の主人公の場合は、従来の「弱者」とはちょっと違ってたが、
「でもお前も傭兵じゃん」という、その行動にやはり共感できるものはなく、義憤が空回りしてやしないか?と感じたのだ。


エンディングのテロップが流れ始めた途端に、ザザッと席を立つ人が続出するのを眺めながら考えた。

ミニシアター・ブームが起きた1980年代半ば以降、それこそ色んな国の、いろんな個性を持った映画や、映画監督たちが紹介されてきた。ハリウッド映画の予定調和的な展開に反した、救いのない結末をつける映画も見られるようになった。
ミヒャエル・ハネケやラース・フォン・トリアーなど、意図してバッド・エンディングに持ってく作家が、脚光を浴びるようになり、映画批評の場でも、後味の悪い映画の方が高く評価されがちとなる。
「ハッピーエンドなどない現実を映している」とか
「人間の悪意の本質をつかんで、戦慄させられる」とか。

その批評を受けて「これが映画だ」というような宣伝文句が躍り、見る側に「傑作」を期待させる。
たしかにいい映画もたくさんあるし、俺もバッド・エンディング自体が嫌いではないが、そういう映画を好むのは、俺を含めて映画ばかり見てる人間に多いよな。
昔から映画を見てれば、アメリカ映画に代表される「予定調和」の世界を浴びるほど経験してるから、そこを覆してくる映画は新鮮に見えてしまう。「甘くないのが本物の映画だ」と。

だけどな、ふつうの人たちは映画ばかり見てはいないんだよ。シネコンが日本全国に普及した今でも、日本人の平均をとったら「年2本」も見てないんじゃないか?
そういう極たまに映画を見に行くという人が、宣伝文句につられて、救いのないエンディングを迎える映画を見てしまったら、嫌気も差すだろう。

映画を作る側は、自分の思い通りの物が仕上がったと、すっきりしてるかもしれないが、例えばカップルで映画を見に来れば、その後に食事にだって行くだろうし、つまりは映画を見ることだけで、日常が完結するわけじゃない。映画見終わって、互いに口数も少なくなり、食事も気まずくなる。
そんな思いをしたら、次回からは警戒するよな。

「ミニシアター」衰退に関しては、俺もこのブログを始めた頃に触れたが、「イチゲンの客」が「ミニシアターでかかる映画はデートにはリスキー」と思うようになる、心理的要因も無視できないのではないかと。
それは若いカップルに限ったことではなく、たまには映画でも見ようという年輩の夫婦とか、親子で見に来た観客とかもね。
いくら救いのない結末だからこそ傑作と言われても、見終わって足が重くなるような映画を、ふつうに生活してる人はそう好んで見ることはしないだろう。


当たり前だが、ハッピーエンドにすればいいというものじゃない。だが、どんなに題材がヘビーなもので、シビアに描かざるを得ないものでも、ひとかけらの光を示す、あるいは探し出す試みを、物語の語り手はしてもいいんではないかと思う。
バッド・エンディングにすることは、製作会社の了承さえ得られれば、それほど難易度の高いことじゃないだろう、作劇的には。なのでそういう映画がことさら高い評価を得られるようなことに関しては、俺自身は鼻白らむところがある。

「そんな放っぽらかしたような結末なら、俺でもつけられる」ってね。

2012年4月21日

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