片腕サーファー/魂のパドリング [映画サ行]

『ソウル・サーファー』

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ブログを続けてきて最近自分でも思うんだが「文章長いな」。
最初の頃に比べてどんどん長くなってる気がする。
なので「くどくど書くより見るがよろし」的な内容の映画を見当つけて見に行った。

これはいい映画だった。それこそ俺のブログタイトルの「敗北」などに、もっとも似つかわしくない、そういう生き方のヒロインが眩しすぎるほどだ。

サーフィン中に、サメに襲われ、片腕を失った少女のニュースは俺も憶えてる。
2003年10月31日、ハワイ・カウアイ島北海岸での事故だった。
その少女ベサニー・ハミルトンに取材した番組を、たしかCBSのニュースかなにかで見た。
奇跡的な回復を遂げ、事故から1ヶ月後には、またサーフィンを再開したという、当時まだ14才の誕生日前だった、この少女の不屈の闘志に「すごいな…」と感嘆した。

そのベサニーを撮影当時17才位だったであろう、アナソフィア・ロブが演じてる。彼女は小柄だし、アメリカの女優には珍しく、実年齢より幼く見える感じがあるので、13才の役柄に違和感がない。


ハミルトン一家はカウアイ島に生まれ育ち、家族全員がサーフィンに親しむ。特にベサニーは子供の頃からその才能を開花させ、母親からは「人魚」と呼ばれるほどだった。
いつも一緒に海に入った幼なじみで親友のアラナとともに、ベサニーは13才で、地元タートルベイのジュニア大会に出場。ライバルのハワイアン少女マリーナを振り切り優勝を果たす。
アラナとともに、スポンサーの目にとまり、ベサニーは夢だったプロサーファーへの最初のステップを踏んだかに見えた。

地元のクリスチャン団体のボランティア活動にも、積極的に参加してたベサニーだったが、サーフィンへの情熱から、その活動とも疎遠になっていく。
次の目標は地区大会だ。その先には全米学生チャンピオンシップという頂がそびえている。
だがハロウィンの朝、アラナと、彼女の父親と弟と連れ立って、練習に臨んだ北海岸で、ベサニーは悲劇に見舞われることになる。

この場面は怖い。ボードにうつ伏せになり、波を待ってた4人の中で、不意にベサニーが海中に引き込まれ、直後には周囲が赤く染まる。
アラナの父親は瞬時にベサニーをボードに戻し、懸命に岸へと漕ぎ戻る。
血の匂いで、さらに襲われる危険がある。アラナと弟に指示を出し、応急処置をとる。
弟はケータイで救急車を要請した。

ベサニーは泣き叫ぶこともしない。正気を保とうと必死なのか、一種のショック状態におかれて、痛みで叫ぶことも忘れてるのか。
ここから病院に搬送され、聞きつけた家族たちが駆けつけるまでのシークェンスは、役者たちの演技も真に迫っており、ほんとに涙出てきそうになるくらい怖いのだ。


それはサメに片腕を肩口から食いちぎられてしまうのが、まだ13才の少女だということの無残さに拠るところもある。
だがこれこそ不幸中の幸いだったのは、その現場に、アラナの父親という「大人の男」がいたことだ。
映画はここで一気にシリアスな空気に転じるんだが、そのまま重たい雰囲気を引きずりはしない。

彼女を治療した医師が、ベサニーの両親に「あの娘は奇跡だよ」と言うように、60%以上の血液を失いながら、感染症もなく、乗り越えたのだ。
そして病室では早くも「いつ海に戻れるかな?」などと話してる。
この身体だけでなく、精神の回復力がすごい。

退院後は早速ベサニーの片腕だけの生活が始まるわけだが、義手のメーカーから、本物の皮膚に近い質感の義手を提供されても、サーフィンで腕に力をかけられないとわかると、
「私には必要ない」

ベサニーは部屋の鏡で自分の半身を映して、さすがに落ち込むが、それはそうだろう。
アナソフィア・ロブは撮影時には、左腕の肩から下を、グリーンのビニール状の筒で覆っている。
「ブルーバック合成」で使う手法で、CGでその部分だけ消せるようにだ。

そうやって映画では完全に片腕が肩口からないように見える。片方の腕がないと、身体全体の見た目のバランスがどうしても崩れてしまう。顔が大きく見えてしまうのだ。
だけどベサニーはハワイに生きて、サーフィンをやってこうとしてるのだから、服で体を覆うわけにはいかない。
演じるアナソフィア自身も、出来上がった映像を見てショックを覚えたんではないか?
こんな風に映るのかと。

事故から3ヶ月後には早くも大会に復帰するが、片腕でのパドリングの困難さを克服できず、惨敗する。「片腕のサーファー」という好奇の目でメディアに晒され、一時はボードを手放すまでに。

ベサニーに父親は語りかける
「サメはお前を殺さなかった」

ハミルトン一家は敬虔というほどではないが、クリスチャンとしての自覚や精神に裏打ちされた生き方をしてるという風に描かれている。

父親の言葉が「お前はまだ生きてるじゃないか」ではなく
「サメはお前を殺さなかった」と言うところに、それが表れてる。
片腕は奪われたが、サメは命までは持っていかなかった。
そのことに何か意味が、あるいは何かの意志が働いてるんじゃないか?そう語りかけてるのだ。

ボランティア活動のリーダーのサラからも言葉をかけられている。
「試練の先には必ずなにかがあるのよ」と。
片腕を失って、サーファーとしては絶望的な状況で、そんな言葉が慰めになるのか?
だがベサニーはその言葉に耳を傾ける。
「苦しい時の神頼み」というのとはちがうのだ多分。


映画を見てて、信仰とはなにかと思うと、神様を信じるとか信じないとか、そういう事の前に(まあ信じる事が前提にはあるんだろうが)、人が自分にかけてくれる言葉に耳を傾ける、受け入れる下地があるかどうか、ということではないか。

苦しい時に、人の言葉が自分の助けになるということを信じる、人が自分を思ってくれているという、その気持ちを信じる。
そういう下地を、幼いときから培っていく、そういうことではないかと感じた。
ベサニーという少女は、その自分の魂の素直さに救われたと言えるのかも知れない。


サーフィンの場面のカメラの気持ちよさは、なるべく大きなスクリーンで見たいと思うもの。
ショーン・マクナマラという監督の映画は初めて見るが、演出自体は際立った所はあまりない。

サーフィンの場面に必ず音楽が被さるのも凡庸だと思う。
もう少し実際の波の音を聞かせれば、臨場感も増したのに。
ベサニーがチューブをくぐっていく場面は、悪くはないんだが、なんか目薬のCMみたいにも見えてしまうね。

映画のエンディングにベサニー・ハミルトン本人の映像が出てくるが、大きな波に乗った彼女の向こうに、虹がかかってるラストカットが美しい。できすぎな位に。

さて文章振り返ってみると、やっぱ長いな…

2012年6月12日

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