『ジェーン・エア』のワシコウスカの眉間のシワ [映画サ行]

『ジェーン・エア』

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ミア・ワシコウスカとマイケル・ファスベンダーの競演てrことで、まずは万難を排して、駆けつけたわけですよ。俺にしてみたら、いま望み得る最高の顔合わせなもので。
でもなければ積極的には見ようと思わないジャンルのものだ。

原作はシャーロット・ブロンテ?『嵐が丘』のエミリーの姉?そうですか。
この物語も全然知らなかった。古典を読んでないという、基礎教養に欠ける俺なのだが、逆にこういう映画を見る時に「サラ」の状態で楽しめるということはある。

『ジェーン・エア』は過去に何度も映画化されていて、俺の好きなスザンナ・ヨークがヒロインを演じた1970年版は、見ようにも見る機会がないのだ。

でもって今回の監督は、2009年の『闇の列車、光の旅』で鮮烈な長編デビューを果たした、日系のキャリー・ジョージ・フクナガ。前作と同様に、ここでもカメラが美しい。
美しいといっても、英国のコスチューム物に見られる、絵のような美しい風景の切り取り方とはちがう。草木や土肌や、光の捉え方が、もっと皮膚感覚に近いような印象を受ける。

原作は文庫本で「上下」に分かれて出てる位に長いもので、それを2時間にまとめてるから、一見の俺には、話の流れが唐突に感じられる部分があり、描き足りてないんじゃないか?ということは感じた。


映画はジェーンが、北イングランドの荒涼とした大地をさまよい、無人の野に一軒佇む、牧師の家に辿り着く場面から始まる。
ジェーンはどこから来て、なぜさまよっていたのか。
介抱受けた牧師とその二人の姉妹に語ることはない。
ジェーンは回想する。少女時代の自分。
両親を亡くして、彼女を引き取った叔父も亡くなり、叔母とその息子からは手ひどく扱われた。

この映画の序盤に思わず息を呑むような描写がある。
ジェーンが図鑑を読んでると「それは俺の本だ」と叔母の息子が取り上げる。息子が手にした本を振り上げ、ジェーンは思わず両手でガードする。
息子が「冗談だよ」と言うような顔をするんで、ジェーンは両手を下ろすと、息子は本で顔面をバンと振りぬく。
衝撃で脇にあった引き戸の取っ手に、ジェーンはこめかみのあたりを強打し、血が流れる。

この場面はどんな風に撮ったのか?本当に顔面に当たってるように見える。
衝撃を食らって耳が「キーン」となる、その音響効果もつけるという細かさだ。
女性の観客はショックを受けてたようだ。
だがジェーンはすぐさま反撃に出て、息子に飛びかかり、馬乗りになって殴りつける。
ジェーンという少女の気性がわかる。

結局ジェーンは、叔母から厄介払いのように、寄宿学校に入れられ、そこでも校長から、四面楚歌の扱いを受ける。ただひとりジェーンを気遣ってくれたヘレンも、病で逝ってしまった。
それでもジェーンは気持ちを折らずに、学業に専念し、卒業後は寄宿学校の教師となった。
そこで一旦回想が終わる。


ジェーンを助けた牧師セント・ジョンから、村に女子校を作るので、教師になってほしいと言われ快諾する。
その後また回想になるんだが、教師を辞め、由緒あるソーンフィールド館の家庭教師に決まったジェーンが、学校を去る場面。ここがちょっと見てて混乱する。

その生徒との別れの場面が、寄宿学校の、つまり回想場面のものなのか、牧師に依頼された村の女子校でのものなのか、場面が短いので、すぐには判断できないのだ。勘のいい人ならすぐわかるんだろうが。
時制をいじった構成になってるのが、こういう部分でわかりにくさを生んでしまってる。

実際は寄宿学校を去って、ソーンフィールド館へ向かうという流れになってる。
その屋敷の主であるロチェスターとの出会いと別れの経緯は、すべて回想という形式の中で描かれることになる。
母を亡くして、ロチェスターが後見人となってる、フランス人少女アデールの家庭教師として雇われるわけだが、主のロチェスターは3ヶ月も不在で、ジェーンはただこの広大な屋敷の敷地内で過ごすしかない。
家政婦頭のフェアファックス夫人に
「ここから見える地平線が、女性の限界だなんて思いたくない」とこぼす。

ジェーンは「気晴らしに」と、町に郵便を出しに行く使いを頼まれるが、その途上に森の中で、馬に乗ったロチェスターと鉢合わせとなる。気難しそうな男だった。館で正式に挨拶を交わす。
「家庭教師になる女には、たいがい悲話があるもんだ。聞かせてくれ」
と慇懃な口調で訊かれ
「ここより立派な屋敷で育ちました。悲話などありません」と言い返す。


全体的にストーリーの流れに、描き足りなさを感じる一方、会話の場面が見応えある。
ジェーンとロチェスターの、互いに牽制し合いながらも、相手に興味を惹かれていく、その会話と、表情の揺れ動きをじっくり凝視するカメラがいい。

前に「東京国際映画祭」の『アルバート・ノッブス』にコメント入れた時に、ミア・ワシコウスカの「しかめっ面」が魅力と書いたんだが、それがふんだんに見られるんで、思わず「監督わかってるなあ」と褒めたくなった。
『アルバート・ノッブス』の後に『永遠の僕たち』も見てるんだが、その時のベリー・ショートのミアは、それは綺麗ではあったが、表情の作り出す魅力を捉えきれてなかった。
やっぱりガス・ヴァン・サント監督は女に興味ないんだなあと感じたよ。

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この『ジェーン・エア』では、ミアはロチェスターの言葉に食ってかかるような反応をする時に、あのしかめっ面になってて、眉間を眺めては「いいシワ出てるなあ」と、そのキュートさに見入ってしまうのだ。
ミア・シワコウスカと改名してほしい位だ。
だけど若い頃からあんまり眉間にシワ寄せてると、肌に刻まれて、歳を重ねてから「険のある顔」になってしまう恐れもあるので、ほどほどにしといた方がいいとも思う。

ロチェスターと会話の応酬となる、居間の暖炉の火に照らし出されるミアの表情が美しい。
彼女が緊張で唾を呑みこむ、その首の筋肉の動きまでが、くっきりと映し出されて、もうとにかくこの映画は、ミア・ワシコウスカを眺めてればいいのである。

ロチェスターを演じるマイケル・ファスベンダーは、原作では結構ゴツい男らしく、そういう感じを出そうとする役作りだが、ちょっと柄に合ってない気がするね。


この館には、夜中に物音やうめき声がきこえて、幽霊ではないかとジェーンは怯えるんだが、実はジェーンに求婚したロチェスターが、気の触れてしまった妻を、隠し部屋に幽閉していると知ることになる。
そこに至る経緯はセリフで説明されるが、ロチェスターの苦悩する内面も描写が足りないので、どうも捉えどころがないのだ。ファスベンダーも演じてて苦労したんじゃないだろうか?
俺はこの顔合わせだったら、上映時間3時間位あっても全然構わなかったんで、もっと細かい描きこみを見たかったね。


妻がいることを知り、すがりつくロチェスターを振り払うように屋敷を去ったジェーンが、辿り着いたのが牧師セント・ジョンの家だった。ここで回想から「今」の場面に戻る。

一軒家を借り、村の女子校で教えるジェーンの元に、セント・ジョンが知らせを持ってくる。ジェーンの叔父が、彼女に2万ポンドもの遺産を残してたという。
セント・ジョンは、ジェーンがもう立ち去るものと思ってたが、彼女は牧師と姉妹4人で分けようという。
さらに「私を妹として家族に迎えてほしい」と。
ここのくだりも原作を知らないと、唐突感はある。
ジェーンの言葉通り、家族に囲まれる温もりを求めてのものだとも、だがその後の場面で別の真意があったのかとも取れる。

セント・ジョンはインドへ布教の旅に出ると言い、ジェーンを伴いたいと。
「妻として付いてきてほしい」
だがジェーンは、ロチェスターのことが心から離れない。
「私はあなたを兄としては見れるけど、夫としては見れない」
そしてセント・ジョンが責めると、どこからともなく「ジェーン」と呼ぶ声が。

「私を呼んでるの?これは空耳?どこ?どこなの?」
「お、おい、話はまだ終わってないんだけど…」
みたいな感じで、声のする方にフラフラと行ってしまうジェーン。

悪いけどここはコメディっぽいぞ。都合の悪い時は空耳が聞こえるフリして、その場を去ってく、女の上級テクかよと思う。


ジェーン・エアの人物像に共感できるかどうかは、見る人によるだろうが、俺なんかは、せっかく遺産が入ったんだし、自分の世界が広がるチャンスが目の前にあるわけだろ。
ロチェスターかセント・ジョンかという、狭い選択肢で考えることもなかろうと思ったよ。外の世界に出れば、男は沢山いるんだから。ロチェスターから
「君は好奇心に満ちた小鳥だ」
「鳥かごを開ければ、飛び立っていくだろう」
と喝破されてたが、彼女の性分を考えれば、違う世界を求めて旅立つような生き方が、似つかわしかったんでは?

2012年6月14日

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