タイムスリップして体験したい年代 [映画マ行]

『ミッドナイト・イン・パリ』

ミッドナイトインパリ.jpg

アカデミー賞の候補に挙がったりして、久々に前評判も高いウディ・アレンの新作だけど、だからといって、感動が押し寄せるみたいな作りではない。アレンの映画を見慣れてないと、物足りなさすら感じるかもしれない。
でもこれがいつものウディ・アレンのタッチなのであって、そのことにいささかのブレもないのが見てて嬉しい。

彼の映画は文章に例えると、小説というより、気の利いたコラムのような洒脱な語り口が身上だ。
この新作も「こんなことあったら楽しいよねえ」という、ソファにごろんと寝転がりながら、とりとめもなく夢想してみた、そんな気楽さを感じる大人の「ホラ話」に仕上がってる。
いや実際は、書斎で真剣な顔つきでストーリーを練ってたのかも知れないが、映画の感触はあくまで心地よく軽いのだ。

まず映画はアバンタイトルで、パリの街のさまざまな表情を映す。いつものアレンの映画のように、古いジャズの少しもの悲しい旋律をバックに、ナレーションも、テロップも入らず。

例えば『ベン・ハー』や『アラビアのロレンス』といった、昔のハリウッド大作の、オープニング前に、画面には英語で「序曲」と出て、数分間映画を彩る音楽が流れる前置きがあった。
「さあ、これから映画の世界に浸れるぞ」という、ワクワク感が高まる仕掛けとなってたが、この『ミッドナイト・イン・パリ』の冒頭数分間もそんな意味合いを感じた。
「さあ、これから素敵なパリの時間旅行が始まりますよ」という。


オーウェン・ウィルソン演じる主人公ギルは、ハリウッドではけっこう売れっ子の脚本家。だが娯楽映画の脚本には飽き飽きしていて、小説家への転身を試みたいと思ってた。
婚約者イネズの父親の出張旅行に便乗してやってきたパリの街に、興奮を隠せない。
ギルはパリで、その昔モンパルナスに集った芸術家たちのように暮らしたいと思ってたからだ。
だがイネズはマリブでのリッチな生活を思い描いていて、パリなどあり得ないという風情。
イネズの父親も、共和党支持者の自分に、正面から皮肉をぶつけてくる、娘の婚約相手が気にいらない。

ぎこちない空気が流れるギルとイネズと彼女の両親によるランチの席で、イネズのかつての男友達ポールが、偶然恋人を伴って挨拶にきた。イネズは女学生時代に、大学教授のポールのインテリぶりに憧れてたという。
ポールはパリの名所を案内しようと提案し、イネズはあっさり了承する。
ギルは渋々同行するが、行く先々で繰り出されるポールのウンチクに閉口する。イネズに
「あなたが書こうとしてる小説の内容をポールに聞いてもらいなさいよ」
などと余計なことを言われ、これも渋々話すことに。

昔懐かしい物や記憶を売るという「ノスタルジー・ショップ」を営む男を主人公にしてると。
するとポールは頼まれもしないのに、ギルの嗜好を勝手に分析。
「そういうのをゴールデン・エイジ・シンキングというんだ」
つまり何でも現在よりも過去が輝かしかったとする、一種の「懐古趣味」だと。
ギルはカチンときたが、うまいこと反論できない。


その晩もポールからダンスに誘われ、イネズは行くというので、ギルは彼女と別行動することに。
試飲会でワインを飲みすぎ、ホテルへの道に迷ったギルは、広場の階段に座り込む。
時刻は午前0時の鐘の音が聞こえる。

すると黄色いクラシックカーがギルの前で停まり、中から手招きしてる。誘われるままに車に乗り込み、着いた先は歴史を感じる社交クラブだった。
挨拶を交わしたカップルはスコット・フィッツジェラルドと、恋人のゼルダと名乗った。
ピアノを弾いてる男は、どう見てもギルが大好きなコール・ポーターだ。
さらにこのパーティの主催者はジャン・コクトーだという。
なんの仮装パーティなのかと、ギルは混乱するのみだ。

だがフィッツジェラルドから別のバーに誘われ、そこでアーネスト・ヘミングウェイを紹介されるに至り、自分がいま居るのは、1920年代のパリなのだと思うほかなかった。
情熱と死について熱く語るヘミングウェイに、ギルは圧倒されるのみだった。

明日の晩の再会を約束してバーを出たギル。
だが待ち合わせの場所をヘミングウェイに聞き忘れたと、バーに戻ろうとしたが、そこは閉店後のコインランドリーだ。バーなどどこにも見当たらない。
キツネにつままれたような気分で、だが明らかに高揚してたギルはホテルに戻ると、イネズに
「明日いっしょに来てほしい場所がある」と言った。


前の晩と同じ広場に、イネズを伴ってやってきたギル。まだ午前0時にはだいぶ間があった。
ここにいればあのクラシックカーが迎えにくるはずと待つギル。
だが一向に何も起こらず、イネズはしびれを切らして「先に帰る」とタクシーを拾ってしまう。

ひとり残されたギルに、午前0時の鐘の音が聞こえた。あのクラシックカーがやってきた。
中にはヘミングウェイが乗っており、ガードルード・スタイン女史のサロンへ向かった。
昨晩約束してたのだ。
ヘミングウェイに文章指導したことでも知られる、伝説の女性作家に、ギルの書きかけの小説を読んでもらうというのだ。

スタイン女史は率直な物言いだが、誠意を持って応対してくれた。そのサロンにはパブロ・ピカソがおり、愛人アドリアナをモデルに抽象画を描き上げたところだった。
ギルはアドリアナの美しさに心を奪われてしまう。

ギルはそれから毎晩のように、小説の構想を練る散歩と称して、ホテルを出て行った。
娘のイネズから話を聞いた父親は、フィアンセをほったらかして夜遊びに出るギルを不審に思い、探偵を雇って、後を尾けさせた。


さまざまな分野の芸術家が出てくるが、サルバドール・ダリが酒を呑むテーブルに、ルイス・ブニュエルとマン・レイが同席する場面が、映画ファンとしては楽しい。
この二人を登場させたことに、映画監督ウディ・アレンの思いを感じる所がある。

ルイス・ブニュエルとダリが組んで、悪夢的な実験映画『アンダルシアの犬』を作ったのが1928年のこと。
映画はこの時期、「音」のついた「トーキー映画」の登場により、新たな進歩を遂げるんだが、サイレントの時代から、映像表現においては、革新が進められてきた。
実験映画の分野でもマン・レイをはじめ、フェルナン・レジェの『バレエ・メカニック』など、芸術史に残る作品が生み出されている。

ウディ・アレンは映画作家として、この時代に生きてたら?と思うことがあったかもしれない。
アレンに限らず、そういう思いを持つ映画監督は結構いるのではないか?

映画という表現の分野はこの時期、まだまだ黎明期にあって、いろんなアイデアがまだ手付かずの状態にある。いま現在、映画はすでに語り尽くされてしまったような所がある。その話法は随分昔に確立されていて、いまも変わることがない。先駆者となる余地が見当たらなくなってるのだ。

あの時代に『アンダルシアの犬』のような強烈なビジュアル表現を試みた映画が撮られたことへの驚きと、ある種の嫉妬を、映画作家なら抱くのではないか。

ギルがブニュエルと別れ際に、「今度こういうストーリーの映画を撮ってみたら?」と、後にブニュエルが撮ることになる『皆殺しの天使』の設定を語ってきかせる場面が可笑しい。
ブニュエルが「しかし何でそのパーティ客たちは外に出ようとしないんだ?」と執拗に尋ね返してる。


ギルとアドリアナの異時間ロマンスとも言うべき展開になっていくが、その中でギルは自分の思いに踏ん切りをつける決断をすることになる。
タイムスリップ物とはいえ、ウディ・アレンの映画だから、シャマラン的な驚愕の結末なんてものは待っていない。
ラストもサラッとしたもんだ。大人の映画だからね。


俺が少し前に「洋画離れが進んでいるという」とタイトルつけたコメントの中で、最近のハリウッドの映画作家たちに見られる「懐古趣味」に言及したんだが、この映画のギルという主人公の人物設定には、ウディ・アレンによる、そんな風潮への冷やかしの気分が入ってるのかもと思った。

だが元々、古いものへの愛着を表明してきたのは当のアレン本人だろう。
自分の監督作の音楽は決まって古いジャズが使われるし、ラジオの時代へのノスタルジーを塗りこめた映画や、ドイツ表現主義の手法で描かれた映画、サイレント映画のスターに恋する主婦のファンタジーなど、アレンの映画には「古きよき」時代のアイテムが溢れている。

ところでこの映画、オーウェン・ウィルソンが演じる主人公の脚本家というのは、例によってウディ・アレン自身を投影してるキャラとなってるが、2002年の監督・主演作『さよなら、さよならハリウッド』と繋がってるように思えるのが面白い。
あの映画では落ち目の上に、新作の撮影前に心因性の失明に見舞われた映画監督をアレンが演じていた。なんとか失明をごまかしながら撮影を続けるというドタバタが描かれてたが、結局完成した映画は興行も大失敗。
ところがフランスでは絶賛されたんで、「フランス大好き!」と最後はパリに移住するというオチがついてた。
まあつまり『ミッドナイト・イン・パリ』はその後日談と見ることもできるわけだ。


この映画を見ながら、自分ならどの時代がいいかなあと考えたりもしたんだが、俺は常々あと7,8年早く生まれたかったなと思うのだ。
そうすれば1967~68年という、映画もロックもドラスティックなまでに変化を遂げる、その時代の空気を、一番好奇心旺盛な10代後半で体感できたのに。
その時代、俺は生まれてはいたが、まだホンのガキだったんで、なにも触れないまま70年代を迎えてしまった。上に兄弟でもいれば、間接的に享受もできただろうが、長男だしな。

1968年といえば、映画では『俺たちに明日はない』と『卒業』が公開され、アメリカン・ニュー・シネマのブームの先鞭をつけた。
その同じ年に『2001年宇宙の旅』も公開されてるのだ。これの初公開の「テアトル東京」に駆けつけたかった。
『猿の惑星』の驚愕のラストもリアルタイムで体験できたわけだ。

ロックでいえば、1967~68年に、ドアーズ、CCR、デヴィッド・ボウイ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、T-REX、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、イエス、トラフィック、クリーム、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ザ・バンド、バッファロー・スプリングフィールドほか、あまたのビッグネームがこの時期デビューしてるのだ。

リンダロンシュタット.jpg

中でも俺的に最重要なのは、リンダ・ロンシュタットが、ストーン・ポニーズのヴォーカルとして、音楽活動を開始してる時期ということ。
彼女はその後ソロとなり、1974年の『悪いあなた』の大ヒットで一躍スターとなるが、俺はその前の1971~72年くらいの時期の、彼女のステージを直に見てみたかった。

後のイーグルスの面々をバックに、裸足でステージに立ってた頃のリンダを。


今でもリアルタイムで見たり聴いたりしてた1970年代以降の映画や音楽に、一番思い入れはあるが、その前の時代にも好きな映画や音楽は沢山ある。
だけどリアルタイムで体験してないという「引け目」がどっかにあるんだね。「好き」ということを全面的に表明しずらいというのか。

ちなみに俺が自分の金で初めて「外タレ」のコンサートを見たのはスージー・クアトロだった。
1975年か76年だったと思う。

2012年6月15日

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