赤のひとつおぼえ [映画ハ行]

『ヘルタースケルター』

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これは絶対に、原作となった岡崎京子のコミック『ヘルタースケルター』を読んどいた方がいい。
俺は昔の一時期、岡崎京子とか高野文子とかのコミックにハマってた事があり、この原作も『リバース・エッジ』なんかとともに当時買って読んでた。
映画化のこともあり、最近部屋の中から探しだして読み返したが、沢尻エリカが、なぜりりこを演じたいと熱望してたのかがわかった。

沢尻エリカという女優は、まるでりりこの軌跡をなぞるように生きてきてる感じすらするもの。
これほど原作のヒロイン像と、それを演じる女優とがシンクロするのも滅多にない。


若い女の子たちのアイコンとなり、時代の寵児のような持て囃され方をするヒロインのりりこが、じつは全身整形を施して、その美しさを保ち続けようとする。
女性の「美」に対する脅迫観念が、りりこというキャラクターを通して「むきだし」に曝け出される。

そのテーマとともに、女優であれ、モデルであれ、歌手であれ、人から見つめられ、崇拝され、また値踏みされ、粗を探され、そういう「表現者」の立場にいる女性の内面描写に、共鳴する部分が大きいのかもしれない。

原作においても、りりこの周りの人間(特にマネージャーとその彼氏だが)に対する傍若無人な振る舞いよりも、周りにも自分に対しても毒を含んだ「独白」部分が鋭い。
メディアで取材を受けるたびに浴びせられる「どーでもいい」質問に、人が期待してるような言葉で応える。
美容整形クリニックの患者たちの死亡事件を追うなかで、りりこに興味を持ち始める検事の麻田が
「彼女の発言には核というものがない」と喝破してる。

メディアやそれを取り巻く世間を蔑んでいながら、「ちやほやされる私にはなにもない」と思ってる。
「歌もヘタだし、セリフも憶えられない」
元々いまとは似ても似つかぬ容姿で、コンプレックスの塊だったりりこは、その根っこを抱えたまま、スターに祭り上げられていくから、本当の自分との乖離に耐えられなくなってくる。

昔の自分そっくりな妹と久々に会う場面で、妹に
「美しくなるから、自信もつくんだよ」と言ってる。
それは一面真実ではあるだろうが、
「その美しさが保てなくなったら、自分には何も無くなる」
という恐怖に満たされることでもある。

自分にとって目障りな「美しさ」を持つ者には、凶暴なまでの敵意を示し、脅迫観念を振り払うためにクスリに溺れ、整形の後遺症は肌を腐食する。
りりこは「モンスター」のように描かれはするが、どこかに「哀れ」を滲ませる。
彼女は愚かというより不器用なのだと感じる。


実際の芸能界でも、セルフプロデュースが巧みで、息長く活動してる女性タレントはけっこういる。
沢尻エリカにも、同じような「不器用さ」を感じることがある。
彼女は「腹芸」というものができないのだろう。
女優にしろタレントにしろ、芸能界を泳いでいくには、ある種の「ふてぶてしさ」は必要だ。
清純派と思われれば、自分が清純でなくても、しれっとそのイメージを演じきる。
ブリッ子と呼ばれようが気にかけない。
だが「ふてぶてしさ」を表に出しては駄目なのだ。沢尻エリカはそれが顔に出てしまう。

例えば吉高由里子と比較するとわかり易い。
奇しくも吉高は『ヘルタースケルター』の監督、蜷川実花の父親、蜷川幸雄が、やはりエッジの利いた女性作家による原作小説を映画化した『蛇とピアス』で、大胆なヌードも辞さない演技を披露し、注目を集めてる。
それはまだ彼女のキャリアのごく初期のことで、だがその後は「裸を晒して勝負する」女優でいくこともなく、最新作の『僕達がいた』では、20代なかばで、セーラー服の純な女子高生をシレッと演じてる。でも別に「カマトト」と非難されることもない。

天然かどうかはわからないが、その屈託のなさはバラエティ番組でもウケてる。
吉高由里子の「ふてぶてしさ」は、だが決して表にはでないから、「愛されキャラ」にもなれるのだ。


沢尻エリカは『パッチギ!』で、芯は強いけど清純な女子高生を演じたのが鮮烈だっただけに、そのイメージに縛られることにもなった。

俺も『間宮兄弟』を見て、「こんな可愛いツタヤの店員がいたら、毎日借りに行くよ」
と思うくらい、レンタルビデオ店の制服とエプロンが似合うと思ったもの。

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でも彼女の中では、テレビドラマ『1リットルの涙』も含めて、同じような健気で、性格もいいヒロインをタイプキャストされることに、ストレスが溜まってたんじゃないか?

それに多分人前で愛嬌ふりまくことも苦手なんだろう。自分が目指すところと、求められてるイメージのズレに、彼女なりに苦しんだのではないか?ここ何年かの彼女の迷走ぶりは
「ああ、私はみんなから嫌われてしまった!」
という、取り返しのつかなさに絶望したことが原点にあるように思える。
20代の若い女性に、それはキツいだろう。

もはや演技するにしても「清純派」などはやれるはずもないし、支持もされない。
ならばと『ヘルタースケルター』のりりこを演じ切ってやろうと、自分にたいしての「荒療治」のように踏み切ったんだと思う。

裸も曝け出し、自分も曝け出し、これからは「ふてぶてしさ」を武器に、どんどん色んな役をものにしていけばいい。
「美しく可愛いヒール」だって、映画には絶対必要なのだ。
またそれを演じ切れる女優は、日本には少ない。


俺は自分の取るに足らない名誉のために一応書いとくが、決してそんな沢尻エリカのおっぱいが拝めるからと、映画にいそいそ足を運んだわけじゃない。
おっぱい自体はネットでもAVでも、巷に溢れてるといってもいいし、
「そんなAV女優のモノじゃなくて、沢尻エリカだから価値があるんだろ」
という意見には組しない。

映画スターのおっぱいが、AV女優のおっぱいより価値が上などという考え方は、階級差別に通じる。
おっぱいは等しく価値があるものだ。

だが原作にもある描写で、りりこが女性マネージャーの羽田に「舐めなさいよ」と言ってクンニさせるのを、映画でも再現してると聞いて、そこは重要とは思った。

寺島しのぶが、沢尻エリカの股間にちゃんと顔を埋めてるのか、どんな映画であれ「ビアン要素」があるとなれば「即確認」というのが、俺のグローバル・スタンダードなのだ。
結果としては大した事にはなってなかったが。
その後の、りりこの強烈なセリフも、ちゃんと沢尻エリカが口に出してたのはよかった。

沢尻エリカの演技自体は上手くはない、というより感情表現とか稚拙とすら言えるんだが、このとことん墜ちてく感じを、時に自虐的ともいえる場面を交えながら、演じてる、その形振りかまわない迫力は伝わってくる。


だが映画としては少々かったるい。
原作コミックを読めばわかるが、この映画は結末に至るまで、ほとんど忠実に筋を追っていて、むしろ映画だから表現できるというような、プラスアルファが見当たらない。
監督の蜷川実花は、この『ヘルタースケルター』の世界観の基調となる色を「赤」に設定して、赤を中心にした極彩色で画面を塗りつぶしてるが、岡崎京子の原作の筆致とは対照的だ。

岡崎京子の絵というのは、この感情を表すのに、この表情を表すのに、この荒廃を表すのに、
絶対必要という線のみで描かれている。余計な装飾はコマの中にはないのだ。
だからダイレクトにこっちに「くる」。

映画は色彩にはこと細かにこだわってるが、演出は平坦でテンポが生まれない。
映画の流れが滞るから「かったるく」感じてしまうのだ。

りりこの部屋を中心とした世界はデコラティブで、その反面、検事の麻田のいる世界には色がない。
それはコントラストをつける意味合いなんだろうが、麻田の仕事場のセットが安っぽすぎる。

麻田はこの映画で、りりこと、それをとりまく世界の歪みを解説するような役どころなんだが、演じる大森南朋のしたり顔の演技が、ほとんど『ハゲタカ』と一緒で、この人あんまり芝居の引き出し多くないなと感じる。『龍馬伝』の武市半平太なんかは良かったが。

率直にいえば、蜷川実花は美術監督に専念して、演出は人に任せた方がよかった。
岡崎京子の原作の、ページをめくるのも、もどかしく感じるくらいのスピード感が、映画では失われてしまってるのが一番痛い。

俳優陣では、寺島しのぶの「ドM」演技が見応えあった。
原作にもある、りりこに口に含んだ水を浴びせられる場面は、その一瞬前から目つぶってるのがバレてるけど、ビンタも本気で張られてるし、沢尻エリカとは別の意味で「女優魂」を感じたよ。

2012年7月18日

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