ホセ・ルイス・ゲリン『ベルタのモチーフ』 [映画ハ行]

『ベルタのモチーフ』

渋谷の「イメージフォーラム」で開催中の「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」にて。
1983年の長編監督第1作のモノクロ映画。

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2007年作の『シルビアのいる街で』が翌年の「東京国際映画祭」で上映されたことで、一躍その名が日本でも知られることとなったので、まだ若い監督かと思ってたが、1960年生まれというから、俺と歳が近い。この『ベルタのモチーフ』は23才で撮っている。

エリック・ロメールの『海辺のポーリーヌ』とかに出てた、ゴージャスな美女アリエル・ドンバールの名前があるから、彼女が主演かと思ってたが、ちがった。


スペイン、セゴビアの辺鄙な農村に暮らす、思春期の少女ベルタが主人公。
ベルタには父親がいない。肖像写真が置かれており、父の死が読み取れる。

家にはけっこう歳のいった母親がいて、二人で暮らしてる。兄のホアンは兵役に出ている。
彼女の家の面倒を見ている隣人のイズマエルと、その息子でベルタより年下のルイジト、彼女が会話を交わすのは、その3人しかいない。
イズマエルと息子ルイジトの会話から、ベルタが学校に登校してないことがわかる。
「ホアンが戻れば、学校に行くようになるだろう」

ベルタはイズマエルが搾った牛の乳を、自転車で近所の家に配達する役を担ってる。
近所といっても、見渡す限り、麦畑と荒涼とした丘が続くような土地だ。
ベルタの住まいはその中にポツンと立ってる。

ベルタは「蛇の縁石」と村の人間が呼ぶ家に牛乳を運ぶが、中から人のうめき声のようなものが聞こえる。ちょっと気味が悪い。
イズマエルの話によると、その家に越してきたのは、デメトリオという名の男で、頭がおかしいのだと言う。

次に配達に行った時、ベルタはデメトリオとハチ合わせた。中世のボヘミアンのような格好をして、不思議な三角帽を被っていた。
彼は物静かで「頭がおかしい」ようには、ベルタには見えなかった。

ベルタが野草摘みに森に入った時も、デメトリオは大きな木に腰掛けて、本を読んでいた。
デメトリオは野草の知識もあり、摘むのを手伝ってくれた。
麦畑の中のくぼみに、燃え尽きた乗用車が打ち捨てられている。
デメトリオは、自分の妻はこの車の中で死んだ、だがまた戻ってくるんだと言った。
妻は異国の人で、金髪で美しく、白いドレスを着てるとも。
ベルタはその言葉を信じた。

だがほどなくして、デメトリオはその車のそばで、古い拳銃を自分のこめかみにあて、命を絶った。
ベルタは少し離れた場所からそれを見ていた。
横たわる死体を覗くと、その場を駆け去った。


デメトリオの死は村に伝わり、未亡人が「蛇の縁石」を封印しに訪れた。
ベルタはその様子を眺めて
「あの女は妻じゃない」と感じていた。
妻は白いドレスを着てるとデメトリオが言ってたからだ。
未亡人は黒の喪服姿だった。

未亡人は三角帽を探している様子だったが、見当たらなかった。
その三角帽はベルタが「形見」として持ち去っていて、彼女はそれを草原に穴を掘り、布に包んで埋めておいたのだ。


丁度その頃、中世のコスチューム劇の撮影に、フランスのロケ隊がこの土地を訪れていた。
主演女優のメイベルは、白いドレスに身を包んでいた。
メイベルは撮影の空き時間に、馬に乗ってこの何もない土地を散策した。草原の只中で馬を下り、休んでると、馬が地面を掘り返してる。
メイベルはそこに三角帽が埋められているのを発見した。撮影に使えそうではあったが、きっと誰かが目的を持って埋めたのだろうと思い、そのままにして立ち去った。

ベルタは未亡人の乗る車に、あぜ道で遭遇する。
「奥さんの偽者」と思うベルタは、なにか追われるような気がして、必死で自転車のペダルを漕いで逃げ去ろうとした。
ロケ隊が撮影に来てることなど知らないベルタは、見慣れない車が何台も連なるのを、訝しげに見つめていた。
三角帽を埋めた穴は掘り起こされている。

ベルタは三角帽を取り出して、自転車を走らせた。ロケも終わり立ち去る車とあぜ道で会う。
黒い車から降りてきたのは、白いドレスを着た金髪の美しい人だった。

メイベルは少女が三角帽を手に抱えてるのを見て、近づいていった。
ベルタは無言でメイベルに三角帽を差し出した。
メイベルは少女の髪を優しく撫でて、二人は別れた。

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題名の『ベルタのモチーフ』となるものとは何だろう?

当初の題名は『思春期の夢想』だったというが、ベルタは自分のいる世界を、
「死者と生者の中間」のような場所と見立ててたような所がある。

ベルタは年下の少年ルイジトと、秘密のアジトを作ったりして遊ぶほかは、独りで草原に立って、なにかの音に耳を澄ましてたりする。


彼女のそういう行為には、父親の死が関わっているのだろう。単に風の音を聞くというのではなく、なにか死者の声が聞こえないか、耳をそばだてているように見える。

ベルタは家にいる時は納屋で過ごすことが多く、古いテープレコーダーを肌身離さず抱えてる。同じ歌が流れてくるんだが、すっかりテープが伸びてしまっていて、
「ワオオオーン、ワオオオーン」としか聞こえない。それでもベルタは飽かずに流し続けてる。
この音も歌というより、死者からの声のようだ。

ベルタに係わるモノは「まともに動かなかったり」する。
彼女の自転車もチェーンが切れたり、母親が取り寄せた扇風機も、コードを差し込んだ途端に、狂ったような動き方をして、母親をうろたえさせる。
燃え尽き朽ち果てた車に乗り込んだベルタは、そこが居心地のいい場所というようにまどろんでいる。
すべてが「半分死んでる」ような世界だ。

その一方で、ベルタは昆虫を手に乗せて、愛おし気に眺めていたり、亀の尻尾を紐で結わえて、ビールの蓋をつなげて、ハネムーンの車のように見立てて遊んでる。

自分だけが知る秘密の湧き水をすすり、納屋でワラの感触に包まれ、ルイジトをからかって、泥の上で取っ組み合いをしたり。「生の手ごたえ」を彼女なりに感じとってるように見える。
「半分は生きてる」世界だ。


そんなベルタには、中世の出で立ちで現れたデメトリオは、
「死者の国の住人」だったのかも知れない。
だからデメトリオの「死んだ妻が戻ってくる」という言葉にも違和感持つこともなかったのだろう。

デメトリオの形見となった三角帽を、白いドレスの妻に手渡すこと。
「死者との約束」を果たした時に、ベルタの孤独な世界にも出口が見つかった。


この映画で象徴的に画面に出てくるのが、あぜ道を二分する「Y字路」だ。
画家の横尾忠則が、ここ何年にも渡って描き続けてる、いわゆる「横尾忠則のモチーフ」ともいえるのが、この「Y字路」の風景だ。
「Y字路」で二分された道は一体どこにつながっているのか?
その絵を見る者も不安とともに、得もいえない恍惚感を覚えるのだ。

ベルタの周囲の風景はどこまで行っても麦畑と草原と丘が連なるばかりで、涯が見えない。
足が地についてないような、浮遊感が彼女の中に常にあったのではないか?
「Y字路」の左への道は、ベルタのいる「死者と生者の半々の世界」で、右への道は、彼女が踏み出すべき外界への道だ。

メイベルに三角帽を託した後、ベルタは家のキッチンにある鏡に自分を映し、大人のような仕草で髪を整えて、初めて晴れやかな微笑みを浮かべる。
そして自転車で「Y字路」を右へと駆けていくのだ。

ベルタがデメトリオの死を目撃する場面で、彼女はセーターの襟首を持ち上げて口元を隠す。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』のレオのように。
大人が判らない、理解し得ない世界に、少女が佇んでいたことの証のように俺には見えた。

23才のデビュー作でこれだけ確信に満ちた映画を撮っていたとは。
五感の鋭さが半端ない人なんだろうな。

2012年7月25日

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