タルコフスキーを久々にスクリーンで [映画カ行]

『鏡』

img360.jpg

渋谷の「ユーロスペース」で、「タルコフスキー 生誕80周年映画祭」を開催していて、この監督の中で一番好きな『鏡』をもう一度スクリーンで見たいと思い、行ってきた。
『鏡』は1975年作で、日本では1980年に「岩波ホール」で初公開となってる。俺もその時に見たのが最初だ。

今回の上映素材は作品によってデジタルリマスターと、そうでないのとがあり、この『鏡』はデジタルリマスター版でないのが残念だった。
昔、岩波で見た時に、とにかく映像の質感がすばらしく、目の覚めるような、というより目に染みるようなロシアの森や草原の色に見入ってしまった。
出だしのショットから心をつかまれる。


映画の語り手である監督自身の、母親マリアが、庭の柵木に腰掛けて、煙草をくゆらしながら、目の前に広がる草原と森を眺めてる。
それを背中側から撮ってるんだが、マリアが腰掛けてる柵木のしなり具合が絶妙で、額縁に入れれば、そのまま絵画になる感じだ。

語り手が子供時代に育った家は、鬱蒼とした木立の中にあり、まわりに人家もない。
道を訊きに男がやってきて、マリアにちょっかいを出す素振りを見せ、一緒に柵木に座ると、柵木が折れて、二人は転倒する。
男は笑って、草原の中へと立ち去ると、周囲からザァーっと草を撫でるように風が吹き渡る。

最初に見た時にもこの風にやられたのだ。
あれは巨大なファンかなにかを使って吹かせたのか?
それとも偶然にあのタイミングで、風が一陣吹き渡ったのか?
まるで生き物にように草木が、大きく呼吸し、波打ってるように見える。

その木立の中の家の敷地内にあった、干草を積む小屋が火事で全焼する場面も、深い緑の中に燃えさかるオレンジが、艶かしいほどに美しく見える。

タルコフスキーの『鏡』は全編このような映像が、心象風景のように脈略なく映し出される。
語り手は幼い頃を過ごした祖父の家を夢に見、母親マリアを、妻ナタリアの表情の中に見出し、妻や息子とうまく心を通わすことができない苦悩を滲ませる。


幼い日に、たらいで髪を洗う母親を見つめるイメージは、どことなく恐れを含んでいる。
たらいの水はオイルのようにぬめり、母親の顔は長い髪で覆われてる。
髪を前にたらしたまま、ゆっくりと上体を起こしていく母親マリア。
髪をかきあげると、光線の具合もあって、母親の顔に幾重もの影が差している。

この場面を改めて見て「これは貞子だな」と思った。
井戸の底から濡れた髪のまま這い出てくる貞子そのものだ。
中田秀夫監督は、『鏡』からイメージを移植したのかも。

子供の頃、母親と一緒に風呂に入ると、髪を洗う母親の、黒く長い髪に顔が隠れて怖かった憶えがある。『鏡』のこの場面は美しいモノクロで描かれてはいるが、言い知れぬ戦慄も同時に抱かせる。


タルコフスキーというと、とことんシリアスな印象があるが、この映画では妙なユーモアを感じる場面もある。
母親マリアの回想場面で、マリアはスターリン政権下の印刷所で、校正係をしている。
ある時、急に自分が校正し終わった原稿に、誤植があったかもと思いこみ、印刷所に駆け込んでくる。
その時代、特にスターリンに関する誤植は大ごとになりかねなかった。
同僚のエリザヴェータを伴って、輪転機へと走る。もうすでに印刷は始まってしまってたが、原稿をチェックし直しても、誤植はなかった。

ほっと胸を撫で下ろし、同僚と煙草をつけてると、エリザヴェータがやおらマリアを非難し始める。
「あんたはなんでも自分勝手にすすめる。結婚生活でも、そんなわがままを通すから、夫が逃げ出してしまったのよ」と。
親友と思ってたエリザヴェータから、そんなことを言われ、マリアは憤ってシャワー室に駆けて行き、ドアの鍵をかける。後を追ってきたエリザヴェータは
「どうしたって言うのよ、怒ったの?」
ってそりゃ怒るだろう。どうしたの?もないもんだ、変な女と見てて思った。
ユーモアというより、リアクションの理不尽さに笑ってしまう感じだ。


少年時代の語り手が、軍事教練を受ける場面。
一緒に教練を受けてるアサーフィエフという少年が可笑しい。
教官の「回れ右!」の号令に一回転する。みんなに背中を向けてる。

教官が「回れ右だぞ、命令がわからんか!」
「回れというから回りました。ロシア語で回るとは、360度回転することだと思います」
「屁理屈言うな、回れ右!」
アサーフィエフはまたしても一回転して、みなに背を向ける。
「親を呼ぶぞ!」
「誰の親ですか?」
「お前の親に決まっとる!」
だがアサーフィエフの親はレニングラード攻防戦で死んでるのだ。

漫才みたいなやりとりの後、アサーフィエフは別の組が教練を受ける射的場に向かって、手榴弾を転がす。教官はそれを見て、とっさに手榴弾の上に身をかがめて「伏せろ!」と叫ぶ。
だがなにも起こらない。アサーフィエフは「模擬弾です」と言う。

違いを見分けられなかった教官は、「歴戦の勇士が、情けない…」と肩を落とす。
この終始無表情の少年アサーフィエフが、いい味だしてる。


今回見直して面白かった場面は、語り手の自宅の空き部屋の場面。
息子のイグナートが廊下で祖母が来るのを待ってる。
すると誰も居ないはずの空き部屋のテーブルの前に、緑色の服を着た女性が座ってる。
促されて部屋に入るイグナート。
廊下にあるノートを取ってきてと言われ、さらにその中に書かれてる文章を読むように言われる。
緑色の服の女性は紅茶を飲んで、聞いている。

玄関のチャイムがなり、イグナートが開けると、祖母が立ってたが、祖母はイグナートだとわからずに
「部屋を間違えたわ」と立ち去る。
ドアを閉めて部屋に戻ると、緑色の服の女性の姿はない。
テーブルの上に残されたカップの痕の蒸気が、スウッと薄れてゆく。
女性がゴーストであったかのように。

こうだという説明はどの場面にもない。
浮かんでは消えていく、人生のイメージの断片のようだ。

深い森と、したたる水のイメージは、ラース・フォン・トリアー監督が『アンチクライスト』のラストで「この映画をタルコフスキーに捧げる」と献辞を出してるが、あんな映画でオマージュ捧げられても、タルコフスキーも天国で苦笑するしかないだろう。

2012年8月16日

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。