ラテンビート映画祭『ママと私のグローイング・プラン』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『ママと私のグローイング・プラン』

ママと私のグローイングプラン.jpg

他愛なく楽しめそうなものも見ようと、これを選んだが、ほんと他愛なかったわ。
ヒスパニック系の女優としては、近年のハリウッドで最も成功したといえるエヴァ・メンデスが、思春期の娘に手を焼く母親を演じてる。
メキシコ人女性監督パトリシア・リヘンがメガホンを握る。

舞台はカナダ、ヴァンクーヴァーの港に近い町だ。
このブログでもコメント入れたが、
カナダ映画『僕たちの、ムッシュ・ラザール』の小学校と同様に、この映画で13才の娘アンシエダッドが通うハイスクールも、いろんな人種の生徒がいる。
母親のバイト先のレストランの従業員もまたしかり。
カナダが移民を積極的に受け入れている国だとわかる。


エヴァ・メンデス演じるグレースは、17才で娘アンシエダッドを産んだ。
父親となる男の姿はなく、母娘はヴァンクーヴァーに越してきた。

アンシエダッドが授業中に、クラスメイトの前で暴露した所によると、母親グレースは何人もの男とつきあっては別れ、現在は地元の医師ハーフォードの自宅でハウスキーパーの職にあるが、その妻子あるハーフォードと不倫中だ。

グレースはその職のほかにも、港沿いの「カニを食わせる」シーフード・レストランで、ウェイトレスのバイトも掛け持ちしてる。
生活費のほかに、娘の授業料や家賃、ウェブ・デザイナーになるための、学校の学費など、とにかくお金がかかるのだ。

だが30の女ざかりを、働くだけに費やせない。
「母さんにだって恋する権利はあるでしょう?」
と言いたげだ。
母親の生臭い行いを見たくないと思うのは、思春期の娘なら当然だろう。
だがグレースはそのことに思い至ることがない。

なぜなら彼女も自分の母親からほとんど顧みられずに、思春期を送ってきたのだ。
その母親はグレースが子供を生み、慣れない子育てに苦しんだ時期にも、彼女を支えることもなかった。
グレースの「母親は母親、子供は子供」という、どこか割り切った考え方は、自らの体験に根ざしてもいるのだ。


母親が恋に奔放すぎて娘がストレス抱えるという設定は、『恋する人魚たち』のシェールとウィノナ・ライダーの母娘の関係を思わせる。

恋する人魚たち.jpg

あの映画では母親への反動からか、ウィノナ・ライダーはやたらと信心深い性格に描かれてたが、この映画で、シエラ・ラミレス演じるアンシエダッドは、勉強熱心なだけに、その探求心が
「大人になること」に向けられるのだ。


パトリシア・アークェット演じるアームストロング先生が、授業で「成長体験」とはなにか?という話をする。
それは子供が大人になる上で、乗り越えていくべきこと。
それは「通過儀礼」という呼ばれ方もすると。その言葉がアンシエダッドの心にヒットした。

母親グレースは、自分は妻子持ちの男と不倫して、夜遅く帰ってきたりするくせに、私には台所や掃除をしろと言う。
傷つきやすい思春期にあることに、なんの関心も示さない。
もうこんな家出てってやる。
でも子供のままじゃ出してはもらえない。
だから私は手っ取り早く大人になって、この町を出てくのだ。

アンシエダッドは図書室で文献をあさり、「通過儀礼」に欠かせない要素をクリアしてく事に決めた。


まず見た目が明らかに変わったと思わせること。
そのためにわざわざ、一番保守的っぽい「チェスクラブ」に入部して、地味な優等生っぷりをアピール。
その上で、校内でも一際目立つ、不良のゴス少女ヴァレリーとお近づきになる。
彼女の仲間に入り、不良たちの集まるパーティに参加して、プレイボーイのトレヴァーに処女を捧げるのだ。

「通過儀礼」の要素の一つに、以前からの友達を捨てるというのがある。
アンシエダッドは校内で唯一の友達で、同じヒスパニックのタヴィタを説得して、
「大人計画」の一翼を担ってもらうことに。

タヴィタはかなり「ふくよか」な女の子なんだが、とても性格が温和でいい子なのだ。
アンシエダッドが頭で考えた「通過儀礼」をこなす過程で、この親友タヴィタと決定的な溝を作ってしまうことになる。

ママと私のグローイングプラン2.jpg

一方そんな娘の奮闘をよそに、母親グレースはレストランの仕事に追われる。
チップもピンハネするようなケチなオーナーのエミールが、「カニ料理選手権」に出場するため、数日間店を留守にすることに。
グレースは張り切って、その間の店の仕切りをアピールするが、オーナーの留守中に事件が起こってしまう。


この映画の物足りない点の一つは、男がみんなパッとしないということだ。
グレースと不倫する医師ハーフォードを演じてるのはマシュー・モディーンだが、彼もつまらない役を演るようになったな。
若い頃ナイーブな個性で売った役者は、年重ねると厳しくなってくる。

妻とは別れると言いながら、なかなか別れないというお決まりの役どころだが、グレースがランチ時で、てんてこまいしてる店に電話かけてきて、「やりなおそう」などと言ってくるのも駄目だ。
店の外に車停めて、電話してる。
店が忙しいのがなおさらわかりそうなもんだろ。
グレースもその電話にまともに取り合ってる。
俺が経営者なら「私用の電話は休憩時間にしろ!」
とどやしつけてやる。

アメリカ映画はよくこういうパターンの描写があるよな。
「人生には仕事よりも愛が大切」
みたいな。仕事を舐めんな。

グレースのことを秘かに想ってる、レストランの下働きの男がいる。
メキシコ人で、なぜかミッション・インポッシブルという名で呼ばれてるんだが、グレースはこの男ともちょっといい雰囲気になったりする。

悪いヤツじゃないんだろうが、その長いボサボサ髪をなんとかしろ、そのモサモサの不精ヒゲもなんとかしろ、というむさ苦しさなのだ。
「ラテン系はあれがウケるのよ」と言われれば
「ああ、そうですか」としか返しようがないが。

アンシエダッドが処女を捧げようとするトレヴァーも、イケメンではあるが、それだけだ。
なにかこう「パリッ」とした男が一人くらい居てもいいだろ。


「成長したい」と思う娘と、娘の気持ちに気づいて、母親として「成長する」女性と、合わせ鏡のような関係を描いてるのはわかるが、タヴィタの扱いとか、とってつけ感があるし、エピソードが点在しすぎて、どれも余韻を残すに至らない。

むしろ描かれなかった、グレースと母親の関係をどこかで挟んであればね。

たとえばこんな描写を考えてみた。
長いこと音信も途絶えてた母親が病床に臥せっている。
グレースは娘を連れて見舞いに訪れるが、優しい言葉をかけることはできない。
アンシエダッドは一人で改めて「祖母」の病室を訪ねる。
そこで祖母から、娘に対しての悔恨の言葉を聞かされる。
アンシエダッドは、自分の母親も辛い思いをして育ってきたことに気づく。

いやベタとは思うよ、でもそんな場面があってもよかったんじゃないかと。
テンポよくストーリーを語ってはいるが、楽曲の使い方も含めて、凡庸な感じに留まったかな。

キャストではふくよかなタヴィタを演じたライニ・ロドリゲスがよかった。
表情に可愛げがある。
「シュレック」なんて呼ばれて可哀相だったよ。

2012年10月11日

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