バトルシップと基地のこと② [映画タ行]

『誰も知らない基地のこと』

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インタビューの中の言葉にあったが
「アメリカは世界中に自国の軍隊を派遣し、基地を作ってるが、アメリカ国内に他国の軍の基地などない」と。
アメリカ人に「なんでアメリカ国内には他国の軍隊の基地がないのか?」と訊ねれば、
たちどころに「そりゃ、必要ないからだろ」と答えるだろう。
ではそう答えた相手に
「ならば、自国で軍隊を持ってる国に、アメリカ軍がわざわざ行って、基地を作るのはどうしてだ?」
と訊いたら、どう答えるのだろう。
「そりゃ、必要だからだろ」
「なんのために必要なんだ?」
「その国だけでなく、周辺地域に睨みをきかすためだろ?」
「へんな気起して、紛争につながるのを抑えるためだ」
「アメリカは世界の警察だからな」
その言葉の裏には「自分の国を守りきれる軍隊など、アメリカ軍の他にはない」という認識があるはずだ。
基本的に、その国だけでは守れない所を、アメリカが手助けして守ってやると言ってるんだから、文句言われる筋合いはない、という考え方か。


アメリカ国内にはもちろん自国の軍隊の基地は数多くある。基地問題が国内的に全くないわけではないだろう。
基地の問題の一つが「騒音」だが、アメリカは国土が広いし、民家の密集するような場所の上空を、軍用機が離発着することはない。アメリカ人をツアーで沖縄の普天間基地に連れて行ったら、びっくりするんじゃないか?
あんな状態で軍用機に頭の上をブンブン飛ばれたら、即訴訟を起すだろうな。

俺も友達が座間に住んでたから、何度か遊びに行ったことがあるが、あの音は半端ないよな。
戦闘機や輸送機もだが、意外にきついのが軍用ヘリのホバリング音。高度が低いと、その重低音で家の壁からなにからビリビリ振動するからな。
アメリカ人に限らず、日本人も沖縄行ったら「美ら海水族館」ばかりじゃなく、普天間のホテルや民宿に泊まるツアーを企画してみればいい。
「騒音」という字で表現されてるが、「騒音」なんて生易しいもんじゃないよアレは。


もう一つ深刻なのは「人種偏見」だ。映画のパンフの中に、世界地図が書かれており、アメリカ軍がどの国に、どの位の規模で駐留してるか、わかり易く見れるようになってるが、駐留兵士の人数で上位5つの国が
「イラン」「アフガニスタン」「ドイツ」「日本」「韓国」だ。
つまりアメリカが戦争し、または戦争に介入して、勝利を収めた国が、その他の国の人数より一桁多くなっている。ちなみに敗戦を喫した「ベトナム」にはアメリカ軍の駐留基地はない。

その中でドイツは同じ「白人国家」だから、周辺住民への偏見もほとんどないだろうが、その他の国は「白人国家」ではない。
マイケル・ムーア監督の『華氏911』で、アメリカ軍が、プアホワイト層の高校生たちをリクルートに来る場面が撮影されてたが、普天間に展開する海兵隊は特に、士官以外の、一般兵力となる人材には、白人でも貧しい暮らしを送る若者や、黒人やヒスパニック系の若者が多い。
彼らは本国では差別や蔑視を受ける立場にいた者だ。
彼らは駐留先の国の人間は、自分たちよりさらに下の「階層」と見ている。
沖縄の基地だけでなく、韓国やイランなどでも、周辺住民に対する暴行や強姦事件は、無くなることがない。
それは他所の国の人間に敬意を払うという意識が、彼らの中にないからだ。

また軍隊という所は「上官」以外に敬意を払うような教育は施さない所だ。どんな相手にでも敬意を払っていては、人を殺す気構えなどできないだろう。
兵士は人を殺すために訓練を受けるのだから。


このドキュメンタリーとは別の、在日米軍基地に取材した番組で見たことがあるが、基地に配属された兵士たちは、ほとんど日常を基地の中で過ごすという。娯楽を含め、生活に必要なものはすべてひと揃えある、「ひとつの町」が出来てるからだと。
休日に飲んで騒ぎたい時に、周辺の町の歓楽街に繰り出す程度で、ほとんど地域住民との係わりも薄い。たまに軍主催で住民との交流イベントをやる程度という。
若い兵士たちは、長く駐留するわけではなく、基本的にその土地、その国への関心が生まれない。
日本語もほとんど覚えないという。
「敬意を持たない」ことと「関心を持たない」ことが、地域住民への振る舞いの源となってると思う。

この映画の中で「なぜアメリカは他国に基地を作り続けるのか?」という疑問に、
「それが利益を生むからだ」という答えを提示してる。
映画の原題は『スタンディング・アーミー』といい、意味は有事・平時に係わらず、常に駐留している軍隊のこと。
基地を作れば、兵器・兵員をはじめ、莫大なコストがかる。ということは兵器を製造する側に立てば、それだけ兵器が売れるわけだから、莫大な利益にもなる。

他国に基地を作るには理由がなければならない。だから戦争という「有事」が起こることは好都合だ。
基地の規模自体も拡大できる。しかしそういつも戦争が起きるわけじゃないし、あからさまに戦争の大儀をひねり出すのも限界がある。
なので「戦争が起こるかもしれない」という恐怖を植えつける。
「あの国が核ミサイルを打ちこんで来るかもしれない」
というような、根拠もない不安を煽って、駐留基地の重要性をアピールする。
「基地を残すことが戦争の究極の目的だ」とインタビューに答える学者もいる。


日本からアメリカ軍に出て行ってもらうことは可能だろうか?
仮にそれが実現できたとすれば、それは自衛隊が「国を守る軍隊」と位置づけが変えられる時だろう。
だがそれには国内より、周辺国がナーバスになることは目に見えてる。

日本は日本人が考える以上に、「無茶なことやりかねない国」と思われてるからだ。
この(たかだか)百年の間に、現在超大国といわれる「アメリカ」「ロシア」「中国」の3つの国と戦争した、世界で唯一の国なのだ。しかも比べようもない位の小さな国土にも係わらず。

公共マナーに関して、日本を訪れる外国人からも、日本人を受け入れる諸外国の人からも、日本人は最高にマナーがいいと思われてる。それは道徳的な面ではあるが、ひとつの通念が国民に行き届いてるということだ。
裏を返せば、あるきっかけで、国民がすべて同じ方向に突き進む危険性を孕んでると、捉えられてるという事でもある。
もちろん日本が起した戦争は、軍人の暴走を止められなかった所にはあるが、
「日本人はいざとなったら、とことん戦う民族だ」という恐れに似た感情は、日本を知る他国の人々の中に、消えずにあるだろう。

俺個人は「自衛隊は国を守る軍隊であるべき」という立場だ。それは先の大震災において示された、救助・復興を担う力を含む意味でだ。国が自国の軍隊を持つことは特異なことでも何でもない。
自衛隊は軍隊ではないという事になってるが、軍隊としての機能は持ってるじゃないか、そもそも。
俺は「自衛隊」というのはいい名前だと思うんだよ。
「自らの国を守る(ためだけに力を行使する)兵力」という意味だろう。それは他国を攻撃・侵略したり、他所の国の揉め事に介入しないという事だ。
アメリカがもし今後イランと一戦交えようなんて状態になっても、サポートは一切行わない。それは政治家がきっぱり告げればいい。
だが周辺国に、「日本の軍隊の残像」を払拭させることは、容易なことではなく、どういった努力が必要なのかは、これから先も、常に議論されなければならない。

いくぶんシリアスに考えてしまったんだが、このドキュメンタリーを見たからといって、『バトルシップ』の面白さにケチがつくということでもない。あれはあれだ。

しかしアメリカ人自身も、もうちょっと他国に自分たちの基地があって、いろんな問題が起きてることに、関心持ってくれよとは思う。またこの作品とは真逆の視点で「アメリカ軍の駐留基地の意義深さ」を語るようなドキュメンタリーも、もしあるなら見てみたい。

2012年4月28日

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初代レクター再び刑務所脱獄 [映画タ行]

『DATSUGOKU 脱獄』

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ツタヤの新作レンタルの棚はちょいちょいチェックしとかないと、こういうのを見逃してしまう恐れがある。
このローマ字題名で「ああ、またセガールね」とスルーしそうになったが、これはルパート・ワイアット監督が、『猿の惑星/創世記(ジェネシス)』に抜擢される決め手となった2008年作だった。
「脱獄」を描いてる映画だから、邦題は間違っちゃいないんだが。

「見たいなあ」と思ってたもんが、何気にレンタル店に並んでたりするから油断できないのだ。
この調子だと、『ドライヴ』のニコラス・ウィンディング・レフン監督が脚光浴びた2008年作『BRONSON』も、同じパターンあり得るな。

ところで今回はもう1枚『汚れなき情事』という未公開作を借りてきた。エヴァ・グリーンと『三銃士』最新版でお姫様を演じてたジュノー・テンプル共演の2009年作。
『DATSUGOKU 脱獄』が刑務所舞台の「男だらけの密室映画」とすれば、こちらは、島にある全寮制の女子高の女性教師と生徒たちを描く「女だらけの密室映画」だ。名画座にしたら「気の利いた2本立て」じゃないか。


『DATSUGOKU 脱獄』は、スコットランド出身のブライアン・コックスが製作・主演を兼ねて、アイルランドやイギリスの役者たちを揃えた、「渋い顔」を眺める映画でもある。

ブライアン・コックスの顔と名前を憶えたのは、マイケル・マン監督の1986年作『刑事グラハム/凍りついた欲望』で、「初代」のハンニバル・レクターを演じた時だ。
刑務所に入ってるのも、あの映画以来だろうか?

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映画は冒頭からレナード・コーエンの『パルチザン』が流れて、気分を盛り上げる。この映画の「テーマ」にもつながる曲だからだ。ただタイトル文字の出し方とかが安いTV映画風なんで、ちょっと不安にもなる。


ブライアン・コックス演じる初老の囚人フランクは、無期懲役刑で、もう長く収監されてる。刑務所内はリッツァという囚人が仕切っており、フランクは他人の揉め事に首を突っ込むこともなく、目立たぬように過ごしていた。
もう何十通も家族に手紙を出してたが、返事が来ることはなかった。

だがそのフランクに一通の手紙が届いた。まだ少女の頃以来会ってない一人娘が、麻薬中毒で生命も危ういとの、妻からの手紙だった。フランクは脱獄を決意した。

もう長いつきあいになるアイルランド人の囚人ブロディに話を持ちかける。ブロディは刑務所に入る前はロンドンの地下鉄工事に長く従事してた。下水道などの構造にも明るかった。
フランクの覚悟が本物だと分かり、鍵開けのスペシャリストに声をかける。

その男レニーは、自分をチクッて先に釈放された仕事仲間に恨みを抱いて、ひたすらサンドバッグを叩いていた。
レニーは話に乗り、刑務所内で行われる「ストリート・ファイト」の挑戦者に志願した。
無敵を誇る筋骨隆々の相手は、前歯にダイヤを仕込んでいた。レニーの狙いはそのダイヤだった。
パイプを利用した手製のハンマーの先に着け、硬い壁を削るのに不可欠だったのだ。

こうしてフランク、ブロディ、レニーの3人は、休憩時間にドミノをする振りをして、脱獄計画を詰めていった。
だがリッツァの弟トニーが、その不自然さに気づいた。
トニーは凶暴で蛇のような狡猾さを持っていた。しかもフランクの同部屋となった新米の若い囚人レイシーを、シャワー室に追いつめ犯してもいた。
フランクはその事実にも無関心を装ってたが、レイシーが手首を切ろうとするのを見て、さすがに止めに入った。

トニーは今や目の上のタンコブとなっていた。
兄貴のリッツァに脱獄をチクられたくなきゃ、麻薬を500gも都合しろと言う。
フランクたちは、所内で自家製の麻薬を精製してる、ジャマイカ人のバティスタを計画に引き込むことにした。

トニーは麻薬を受け取りにフランクの房に来た。背を向けてフランクと話すトニーに、レイシーがパイプ椅子を振るった。フランクが止めようとしたが遅かった。
トニーは血まみれのまま、房の外に出て、階段から転落して死んだ。

たちどころに騒ぎとなり、レイシーは独房へ。だが看守たちはリッツァからすぐに独房から出すように言われてるだろう。果たして、フランクに対し、レイシーが房に戻ったら、リッツァの元に連れて来るよう伝令がきた。

フランクは迷った。もう脱獄の決行は近い。レイシーの身を案じてる余裕はない。
だがフランクは、娘と同い年くらいの若者に、情が移ってもいたのだ。
そして決行も間近の午後、フランクは面会室に呼ばれた。窓ガラスの向こうには、一度も顔を見せたことがなかった妻がいた。その表情を見て、フランクはすべてを察した。


映画は脱獄を計画するフランクたちの動きと、脱獄を決行した後の、必死の逃避行を交互に描く。
タイトルの出し方とか、最初は軽いのかと思って見てたが、進むに連れ、迫力のある描写が積み重ねられていき、否応なく引き込まれてく感じがある。

ブロディを演じるのはリーアム・カニンガム、レニーにはジョセフ・ファインズ、若いレイシーにはドミニク・クーパーと、顔触れがいい。
『ドリーム・キャッチャー』で乗っ取られる赤毛のジョンジーを演じてたダミアン・ルイスが、囚人のボス格リッツァとは、貫禄ついたもんだ。


刑務所映画といえば『ショーシャンクの空に』のドンデン返しが有名だが、この映画も別の意味で驚きが待ってる。ふつうだったら「なんだよ、そのオチか」と言いたい所だが、映画の「テーマ」自体はちゃんと描かれてるので、拍子抜け感はない。

それは終盤に、フランクが若いレイシーの代わりに、リッツァと対面する場面で語られてるのだ。
レナード・コーエンの歌が効いてくる。

2012年4月17日

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ゴズリングからデニーロへの橋渡し [映画タ行]

『ドライヴ』

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犯罪現場からの逃走を請け負うドライバーが、電話で依頼主にルールを説明している。簡潔で有無を言わさぬものだ。夜のロスアンゼルス、倉庫に押し入った二人組を車で待つ。ハンドルに腕時計を括り付け、ストップウォッチ機能にして「5分」を計る。

仕事を終えた二人組がギリギリで乗り込む。すでに警察に通報は行ってる。静かに車を動かす。分刻みでパトカーが増えてくる。
ドライバーはすべての道を把握してるかのように、表情ひとつ変えずにいくつもの角を曲がる。
ある交差点に差し掛かった時、向かいから一台のパトカーが。傍受する警察無線では、逃走車を発見したと言ってる。アイドリングから一気にアクセルを吹かす。

上空には警察ヘリのローター音とサーチライトが。ドライバーは猛スピードで、それらをかわし、観戦帰りの人々で賑わうスタジアムの駐車場に車を入れ、依頼主を降ろす。


冒頭ルールを説明して以降は、この逃走場面が終わるまで、ライアン・ゴズリングはひと言もしゃべらない。
主人公がしゃべらないということは、あれこれセリフで説明する映画じゃないということだ。
見ていればいい、あとはこっちで察すればいい。


ドライバーは、足の悪い初老の男シャノンが経営する、修理工場で働いてる。
運転の腕を買われて、映画の撮影現場にスタント・ドライバーとして呼ばれることもある。だがシャノンは逃走請負という「夜の仕事」もマネージメントしていた。
シャノンはレースで優勝し、この工場の名を売ろうと思っていた。ドライバーはいる。あとはレーシングカーだ。

元映画プロデューサーで、今は地元のマフィアの幹部となってる古い知り合いのバーニーに話しをもちかけ、サーキット場でドライバーの走りを見てもらう。バーニーは気に入り、同業のニーノも噛ませ、出資に応じる。

ドライバーはこの町に来て、まださほど経ってない。アパートのエレベーターで乗り合わせた隣人のアイリーンとも初対面だった。金髪のショートで小柄な彼女に微かに心が動いた。

次に見かけたスーパーで、彼女は男の子を連れていた。駐車場でエンジンから煙を出すアイリーンの車を見て、助け舟を出し、ドライバーはアイリーンと言葉を交わすようになる。
彼女の夫は服役中だ。小さな息子のベニシオは、父親のいない寂しさを紛らわすように、ドライバーになついた。
アイリーンとベニシオの部屋に普通に行き来する日々が続いた。
だがアイリーンの夫スタンダードが服役を終えた。
アイリーンもドライバーも、互いに心を残してたが、元の生活に戻るほかなかった。

スタンダードは問題を抱えていた。服役中に、身を守ってもらうための用心棒代が、膨れ上がっていたのだ。
息子ベニシオが見てる前で暴行を受け、質屋強盗を強要される。断れば家族も殺すと。
血まみれでうずくまるスタンダードを、偶然通りかかったドライバーが発見する。
事情を聞かされたドライバーは、アイリーンとベニシオを守らねばならないと思い、その計画の逃走請負を決意する。


人と深く係わらずに生きてきたような男が、人妻とその息子のために、危険を承知で身を投じていく。
そういうストイックなカッコよさで貫かれた映画だと、ここまでは思うのだ。

だがその強盗計画が仕組まれた罠であり、スタンダードが現場で射殺され、アイリーンとベニシオにも危険が迫ってると悟ってから、ライアン・ゴズリング演じるドライバーは豹変するのだ。
口数が少ないのは相変わらずだが、アパートに送りこまれたマフィアの刺客を、アイリーンも乗るエレベーターの中で惨殺する。その凶暴さに、アイリーンもドン引きだ。


冒頭で描かれるドライバーのルールは、例えば『トランスポーター』でジェイソン・ステーサムの「運び屋」も同じような事を言ってた。たしかウォルター・ヒル監督の『ザ・ドライバー』でも、主人公の逃走請負ドライバーのルールに言及してたと思う。それらの映画では、「ルール」というのは、その男の「流儀」として表現されてた。
この映画において、主人公のドライバーの「ルール」とはどんな意味を持つのか?

ライアン・ゴズリングは映画の中で「ドライバー」としか呼ばれないんだが、その背景も描かれない。
ただ後半になるに及んで、彼のルールとは、彼自身への「足枷(あしかせ)」のような役割を担ってるのかも知れないと思い至る。
修理工場で働く、映画のスタントマンとして働く、犯罪の逃走ドライバーとして働く、
ある法則性のもとで、「働いて」日々をやり過ごしていければ、問題は起きない。問題とは彼の内面的な問題だ。

主人公は自分の内面に、一度解き放つと、ハンドルの制御が利かなくなるような暴力性が眠っていることを自覚してるのだ。感情を沸き立たせることさえなければ、それを眠らせておける。
ところがアイリーンと出会ったことで、「人を愛する」という感情が発露してしまう。
「愛」は最も激しい感情の一つだから、その激しさとともに、もう一つのドス黒い感情も目覚めさせてしまった。


この映画を見てて不意に思い出したのは『タクシー・ドライバー』のトラヴィスだ。
なぜそういう連想になったかというと、後半でドライバーの敵となるマフィアのバーニーを演じてるのがアルバート・ブルックスなのだ。この人は昔は俺も「アメリカの愛川欽也」などと呼んでたんだが、気のいい男の役ばかり演ってきた彼が、残忍な性格を覗かせるマフィアを演じて驚いた。
その彼が若い頃に『タクシー・ドライバー』に出てたんだが、その役が大統領選の党選挙事務所の一員。
実は『ドライヴ』を見た同じ日に、『スーパー・チューズデー 正義を売った日』を見たんだが、そこでも主演を張ってたライアン・ゴズリングの「職業」と一緒だったのだ。
こんな風に偶然に役柄から映画がつながることがあるもんだ。

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『タクシー・ドライバー』のトラヴィスは、はなから誇大妄想の気があって、
「この腐り切ったNYを俺が掃除しなくては」
と呟きながらハンドルを握ってるんだが、偶然知り合ったまだ少女の娼婦を、親の元に返さなくてはと責務に目覚め、売春組織との壮絶な撃ち合いになだれこむ。
前半は普通にタクシーで流してるが、後半にはモヒカンになったり、狂気が顕在化してくあたりも、この『ドライヴ』の流れと似てる。

『ドライヴ』の前半はロスの夜景の俯瞰が何度か挟まれ、ドライバーが車を流してる場面に、『ヒート』のエンディングのようなシンセの曲が被さったり、マイケル・マンの映画の雰囲気も感じるんだが、血なまぐさい場面だらけの後半は賛否が分かれるだろう。
俺も「この殺しは無駄」と思えたのはあった。
カーチェイスの場面は思いのほか少ないが、追ってくる車がクラッシュするのを、リアウィンドー越しに見せる演出とか、なかなかやるね。

アイリーンを演じるキャリー・マリガンは、この殺伐とした世界に咲く一輪の花の儚さがいい。
ライアン・ゴズリングは完璧。
もう1回見に行こうと思ってる。

2012年4月3日

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ノルウェーに伝説の妖精がいた! [映画タ行]

『トロール・ハンター』

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ノルウェーを中心に北欧諸国に伝承される妖精トロールとの遭遇を、POVカメラの「フェイク・ドキュメンタリー」の手法で描いてる。
日本人にしてみたら、「川口探検隊」で馴染んでる作りなので、これという驚きがあるわけではないが、細かい部分の作りこみができてて、最後まで楽しめる。

まずこれがノルウェーの映画だというのが効いてる。その国の人には悪いが、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェーという「北欧五ヵ国」の中で一番地味かもしれない。
「アイスランドよりもかい!」とノルウェー人は怒るかもしれんが、アイスランドよりも地味だ。
あの国にはスターでいえばビョークがいるし、シガー・ロスもいるし、フリドリック・トール・フリドリクソンという有名な映画監督もいる。
「ウチの国にはa-haがいるぞ!」と言う声もあるだろう。たしかにノルウェーが生んだ最大のポップ・スターではある。
だが映画監督となると、『ジャンクメール』のポール・シュレットアウネくらいしか浮かばない。
誰か日本でも知られる顔の役者がいるかというと、いない。
日本人には「ああ、バイキングの国ね」というイメージだろう。
つまり見るもの、聞くもの馴染みのない国が舞台になってることが、フェイク・ドキュメンタリーの「もっともらしいリアルさ」につながってるのだ。


ノルウェーのある映像製作会社に1本のテープが、匿名で届けられるという冒頭は、この手の映画の常套だ。
大学生トマス、ヨハンナ、カッレ3人が撮影した283分の映像を見てもらおうというわけだ。
彼らは学校の課題として、地元で問題となってる、クマの密猟の実態を追っていた。その過程でハンターたちから、ある男の存在を告げられる。
ハンスという名の男は、ランドクルーザーにキャンピングカーをつないで、キャンプ地を転々としてる。大学生たちは、ハンスの車を特定し、取材を申し入れるが拒否される。

夜になり、ハンスはランドクルーザーでどこかへ出かけてく。その間にキャンピングカーを探ってみようとするが、鼻をつく異臭が漂っていた。ハンスの行動を追跡することにした3人は、フェリーを乗り継ぎ、いくつもの峰を越え、進んでいくハンスの車の後に尾いた。
夜になり、ハンスは車を降りて、何やら装備を身につけて、森へ入って行く。3人も後を追った。

しばらく暗い森を進むと、森の向こう側から、稲妻のような閃光が木々を照らし、直後にハンスが
「トロオオオオオル!!」
という絶叫とともに駆け下りてきた。
3人にすぐに逃げろと言う。パニックの中で、カメラを持ったカッレは、赤外線モードに変える。
緑に照らされた画面の中に、咆哮とともに巨大な二足歩行のモンスターが木々をなぎ倒しながら迫ってくる。
木と同じ背丈で、全身が毛に覆われ、頭部とおぼしきものが3つ生えている。トマスは逃げる途中で肩を噛まれたらしい。
ようやく森を抜け、ハンスの車まで辿り着いた。
3人は何が起きてるのかまだ把握できてなかったが、ハンスは車の屋根に備えつけられてる物を森に向けた。木々の間から姿を現したモンスターを目がけ、ハンスがスイッチを押す。
巨大なフラッシュのような閃光が焚かれ、モンスターは一瞬にして石化した。
トマスたち3人は呆然と見つめた。


石化したモンスターはハンマーの一振りで粉々になり、ハンスは3人に事情を説明しはじめた。
伝説の妖精トロールは実際に棲息してたのだ。

ハンスはTST(トロール保安機構)という国の機関から要請を受け、トロールの駆除を行ってる。
通称「山トロール」「森トロール」に分かれ、数種類が機関の監視のもと、棲息地に暮らしてたが、最近になり、数頭が棲息地を出て、人間を襲う事件が連続してる。
政府はそれをクマの仕業にサボタージュしてるのだと。
ハンスは3人にこれを世間に公表してほしいと言った。彼は長年ハンターとしての仕事をしてきたが、トロールの子供まで殺してきたことに罪悪感と、政府への疑念もあり、心境が変わったという。

ハンスはさらに何頭かのトロールを駆除せねばならず、取材するなら同行させてやると言った。
3人は覚悟を決めたが、閉口したのは、
「トロールに気づかれないためだ」
と、強烈なトロール臭を、体に塗らなくてはならないこと。
女性のハンナは抵抗したが、命には代えられないと従った。
ハンスと行動を共にすることとなった3人は、さらに驚愕の事態に遭遇してくのであった。


「トロール・ハンター」のハンスがいいキャラで、ハイテクなんだかローテクなんだか、微妙かつ独創的な装備でトロール狩りを行う。
ネッド・ケリー(オーストラリアで最も有名な無法者)みたいな、鉄板で作った鎧を身につけてトロールに挑むとことか、カッコいいぞ。
ハンスを演じるオットー・イェスペルセンという人は、ノルウェー人なら誰もが知ってるコメディアンなんだそう。多分普段はバカ言って笑わせてる人間が、真面目くさってトロールの生態なんかを語ってるのが、本国の人たちにはたまらなく可笑しいんだろうが、日本人としちゃあ、単に無愛想なヒゲおやじにしか見えないが。ジェフリー・ラッシュに似てるかな。

そのハンスによると、トロールは妖精ではなく、哺乳類で二足歩行。
寿命は1000年から1500年。妊娠期間は10年から15年。
知能は低く、肉食で家畜や人間も区別なく食べる。なぜかコンクリと木炭も好物。
ハンスが過去に見たもので最大60メートルの体長を持つものもいるが、なぜか衛星写真には映らないという「ステルス特性」を有していて、今まで発見されずにいるのだろう。

そしてこれもなぜかキリスト教徒の臭いを敏感に嗅ぎつけ襲う習性もある。
弱点は吸血鬼と同じく太陽光、つまり紫外線だ。
トロールは太陽光を浴びると生まれるビタミンDをカルシウムに変えられないため、内臓が膨らみ、ガスが体内に溜まり、体が爆発してしまう。老トロールは血管のかわりに骨が爆発を起こして、石化するのだと。

なので服を着たり、人間の言葉を話すなどというのは、妖精伝説という名の作り話ということだ。
1000年以上も生きるからなのか、トロールはみんなじじむさい顔をしてる。映画の中で「子供トロール」が出てこなかったのは残念だ。子供の頃は子供らしい顔をしてるのか見てみたかったが。


POVカメラという体の演出だと、見る人によってはカメラ酔いするという難点があるが、この映画はなるべくカメラを揺らさないように演出されてる。だがそれでもPOVというのは、一本調子になりやすく、長時間になるとダレてくるね。
この映画も104分あるが、後半は画面に飽きてくる感じもあった。
90分以内ならなお良かったと思うが。

ノルウェーという国は国土にほとんど平地がないといわれるが、モヤがかかるような山々をいくつも越えてく映像を見てると、トロールみたいなもんがいても不思議じゃないなと思うよ。

ただ棲息地が把握できてるんであれば、もっと厳重に人間との境を設ければいいことだし、わざわざ殺しに行くのもなあ。映画の中ではトロールによって人間が凄惨な目にあうような描写がないんで、なんか可哀相になってしまうのだ。

2012年4月2日

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大災害は必ず来る!という叫び [映画タ行]

『テイク・シェルター』

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カーティスはある日を境に、就寝中の悪夢に悩まされるようになった。おそろしくリアルな悪夢だ。
竜巻の被害も珍しくない中西部の一軒家に暮らしてるが、夢に出てくる竜巻は規模が桁違いだった。
オイルのような黄色い雨が降りかかる。
次の晩の悪夢には、その雨に打たれた飼い犬が、突然カーティスの腕に噛み付いてきた。夢の中の出来事なのに、腕の痛みが一日引かなかった。
その次の晩には、雨に打たれた人間たちが、カーティスの運転する車を襲い、助手席の娘ハンナをさらっていった。あまりの恐ろしさに、目覚めると失禁していた。

カーティスは自らの変調を「もしや」という思いで、長年施設に暮らす母親を訪ねる。
カーティスの母親は、まだ10才だった彼を、スーパーの駐車場の車に置き去りにして、行方をくらました。しばらくして、近くの町でゴミを漁ってる所を保護された。
妄想型統合失調症と診断され、それ以来施設での人生を送ってきたのだ。
「母親と同じ病気を発症したのか?」

カーティスはかかり付けの医者から、精神科のカウンセラーを紹介してもらい、薬を処方される。
その晩は熟睡できたが、今度は工事現場で働く昼間に、幻聴が起こる。
晴天なのに雷鳴が何度も聴こえるのだ。
妻のサマンサは夫が無口になり、表情も優れないことを心配していた。
娘のハンナは耳が不自由だったが、人口内耳手術を受けられる決定がなされ、夫への杞憂はかき消された。
だがカーティスの悪夢はリアルさを増し、明らかにカタストロフが訪れるという確信が生まれていた。


この辺りの家には「竜巻用」のシェルターがどの家にもある。だがその程度のものでは持ちこたえられない。
カーティスは町で見かけた中古のコンテナを購入することにした。
サマンサには相談もせず、家を担保にローンを組み、大規模なシェルター作りに動き出した。
休日に会社の重機を無断で持ち出し、同僚で親友のデュワードの手を借りて、庭を掘り起こす。
サマンサはひと言の相談もないことに怒りを露にする。
だがカーティスはシェルター作りに邁進するのみだ。

その間も悪夢は続き、デュワードに襲われる夢を見る。今やこれは予知夢だと思い込むカーティスは、親友を自分の現場から外すよう、社長に願い入れる。デュワードはその行いの真意がわからず、社長に重機の件を報告したことから、カーティスの奇異な行動が発覚。社長からクビを言い渡される。

サマンサは愕然とした。娘の手術は6週間後に決まっていた。
だが解雇された夫の保険は2週間の有効期限しかない。それは手術を諦めるということなのだ。
サマンサは夫の頬を打った。
「出て行くのか?」
だがサマンサは返事をしなかった。


エンディングの情景を含めて様々な解釈ができそうな映画だ。
映画の最初の方で、カーティスが親友のデュワードを車で送ってやる場面がある。
デュワードは「今度、女房と3Pやるんだ。太った女と知り合ってな」などとバカ言ってる。
「おまえんとこの夫婦はまともだもんな」
と言われて苦笑いを返すカーティス。

建設現場で真面目に働き、優しい妻と、耳は不自由だが可愛い娘との生活。
幼い頃、母親に置き去りにされて、父親の手で育てられたカーティスは、つつましくも、家庭を築き、平穏に暮らす夢を実現させたのだ。

だが妻のサマンサは娘とのコミニュケーションに不可欠な手話を身につけようとしてるが、カーティスはあまり積極的にはならない。カーティスは家族への関心が薄れつつあるのか。

だがもし大きな災害が起きるようなことがあれば、自分は身を挺してでも、妻と娘を守ってみせる。
カーティスはそんな風に考えてたんじゃないか?
家族への関心が薄れることへの不安は、自分が母親と同じ病気を発症し、家族を置き去りにしてしまうかもしれないという恐怖に根ざしてる。

だが実際に都合よく大災害など起こる気配もない。そういうカーティスの潜在意識が、あの悪夢のビジョンとなってるんじゃないか?
家族への愛を証明するためには、ちょっとやそっとの災害では駄目なのだ。
世界が滅びてしまうかもしれない、そんなクラスの災害が襲った時に、俺の作るシェルターが妻と娘を守るのだ。
そう思い込むうちに、悪夢は実際に起こるものとして、カーティスの脳内に定着する。

悪夢が進み、シェルター作りに邁進するほどに、カーティスは家族への思いを深めていってる。今までは関心のなかった手話も覚えるようになり、娘の相手をする時間も増えた。
だが会社をクビになったことで、娘の手術は困難な状況になる。
カーティスのすることは家族のためなのに、その実際の行為は家族にとって迷惑な状況を生んでしまってる。
サマンサが制御もきかない状態で、ひた走る夫を見捨てなかったのは、その芯の部分に
「家族を愛してるから」という夫の切実さを、どこかに嗅ぎ取ってたからだろう。

カーティスの中では、あの悪夢は、来たるべく恐ろしい光景ではなく、実は願望の産物なのだ。
そんな風に解釈してみた。


マイケル・シャノンは舞台となる場所が似てることもあるんだが、『サイン』の時のホアキン・フェニックスと印象がカブって見えた。
努めて静かに演じてるが、悪夢から覚める場面のリアクションなんかは、さすが「受信しました」系の筆頭に挙げられる役者ではある。

2007年のウィリアム・フリードキン監督作『BUG/バグ』は、俺はアシュレイ・ジャッド目当てで見に行ったんだが、「なにこいつスゲーな!」と、マイケル・シャノンの電波芸に目を奪われた。
翌年の『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』では、夫婦ゲンカしまくってるレオとケイト・ウィンスレットを、霞ませるようなワンポイント・リリーフぶりだった。

今回は静かに演じてた彼がついにブチ切れる、教会が主催する食事会の場面がド迫力なんだが

「大災害は必ず来る!なのになんで備えをしようとしない!」

というカーティスのセリフは、今の日本人には他人事でなく響く。

サマンサを演じるジェシカ・チャスティンは『ツリー・オブ・ライフ』以降、新作目白押しの女優だが、妄執に落ちていく夫と懸命に向き合おうとする妻を演じて、とてもいい。

娘の手術の決定が下り、それを伝えた係りの女性に
「ハグしていい?」
「そんなことしなくていいのよ」
というやりとりや、カーティスが家を担保にローンを組む場面でも、
「これから景気は悪くなるかもしれない。私はこのローンは勧めたくはないんだがね」
と銀行の担当者が言ってたり、細かい描写にも気が行き届いてると思った。

2012年4月1日

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女子にすすめたい「走れメロス」的史劇 [映画タ行]

『第九軍団のワシ』

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昨年の9月にこのブログでコメントした、マイケル・ファスヴェンダー主演のアクション史劇『センチュリオン』は、西暦120年にイギリス北部に駐留した、ローマ軍最強の「第九軍団」約5000名の兵士が、北方への進軍の過程で、忽然と姿を消したという、歴史的事実を元にして生み出されたフィクションだった。
敵の手に落ちたとおぼしき軍団の指揮官と、その象徴である「黄金のワシ」の像を、クィンタス・ディアス率いる「百人隊」が奪還に向かうんだが、失敗に終わり、地獄の敗走を余儀なくされることとなり、結局「黄金のワシ」の像は、敵の手に奪われたままとなってた。
この映画はそれから20年後に設定されてる。


チャニング・テイタム演じるマーカス・アクイラは、「第九軍団」を率いていた父親の失踪の謎と、「黄金のワシ」の行方を探すため、辺境の地にある砦に、百人隊の隊長として赴任する。当初は父親の汚名とともに皮肉な目で見られるが、優れた統率力で、砦を奇襲してきた敵の先住民を打ち負かし、古参兵たちの信頼を得る。
だが武勲を立てた戦闘で足を負傷し、名誉除隊を言い渡され、父親の汚名を晴らす機会を奪われ、生きる意味を失う。

マーカスは療養先の叔父に誘われ、剣闘試合を見に行く。見世物としての無意味な殺し合いに、醒めた視線を送るマーカスだったが、一人の奴隷に目を釘付けにされる。

巨体の剣闘士を前に、剣を捨て一歩も動かない小柄な奴隷の青年。見世物にされるつもりはないと、その目は語っていた。剣闘士に殴りつけられ、血だらけになっても、表情は変わらない。
観客は「殺せ!」と指を立て、叫びだす。
マーカスは不意に立ち上がり「殺すな!」と声を上げた。
その迫力に観客の中からも同調する声が上がり、奴隷の青年は命拾いする。
叔父はその奴隷を買い取り、マーカスの世話係りにした。

青年の名はエスカといい、マーカスたちローマ人とは敵となるブリトン人だった。ローマ軍に村を襲われ、死を悟った父親は、母親が敵の手に落ちる前に、自らの手で殺した。少年だったエスカは奴隷として、過酷な日々を送ってきたのだ。
だからローマ人は憎むべき敵だが、命を救ってくれたマーカスには、忠誠を誓うと言った。
空虚な日々を送るマーカスには、年も近いエスカは、身分の違いはともかく、気を紛らわすことができる存在となっていた。

叔父の元を訪れたローマの役人の口から、ブリテン島の北の果てにある神殿に「黄金のワシ」が祭られてるという噂を耳にしたマーカスは、役人に掛け合い、自分が単独で探しに出ると志願する。
ブリテン島北方にはローマ軍が築いた「ハドリアヌスの長城」という、長大な石の壁があり、その先は文明果つる地で、ローマ人が生きて戻れる筈がないと、役人は言うが、マーカスの決意は固かった。
叔父はガイド役にエスカを伴うよう告げる。
エスカは土地勘とともに、先住民族の言葉も分かるからだ。
こうしてマーカスとエスカ、敵同士の背景を持つ若者ふたりは、荒涼として、厳しい地形が延々と続くカレドニア高地へと分け入って行く。


この物語の肝は、ローマ人であるマーカスが、敵の先住民の土地へ、先住民の奴隷の青年エスカとともに入って行くことによって、土地のアドバンテージが、そのまま二人の立場に影響を与えていく事になる所だ。
マーカスは言葉が分からない。エスカが聞き込みをするが、その相手と何を話してるのか、エスカが答えを濁せば疑いも生まれる。

エスカは自分に忠誠を誓うとは言った。あの剣闘場で見せた気高い精神も知ってる。だがローマ軍には憎しみを抱いてるし、その象徴たる「黄金のワシ」を、本気で探す気になるだろうか?
聞き込みを続けても、神殿は見当たらず、マーカスの疑心暗鬼は高まっていく。


エスカを演じるのは『リトル・ダンサー』で、14才にして一躍脚光浴びたジェイミー・ベル。あの映画から10年経った2010年作のこの映画でも、少年の面影をどこかに残している。
主役を演じることは少ないが、『ディファイアンス』でのダニエル・クレイグの弟の役など、葛藤を抱えたキャラクターを演じて精彩を放つ。

「黄金のワシ」を手中に収めてるらしい、先住民の種族「アザラシ族」のテリトリーに入った二人が、戦士たちに囲まれ、エスカは受け入れられるが、マーカスはその場で殺されそうになる。エスカは
「こいつは俺の奴隷だ!」
と嘘を言い、窮地を逃れる。だが「アザラシ族」の村ではマーカスを奴隷のままにしとかなければならない。
エスカの真意が掴みきれないマーカスは、裏切ったと思い込むように。

この辺りの「どっちなんだ?エスカ」という雰囲気をジェイミー・ベルは、絶妙に表現してるのだ。
主演はチャニング・テイタムだが、映画後半、そのエスカが葛藤の狭間で、友としてのマーカスのために体を張ろうとする、その姿の方が強い印象を残すようになるのは、ジェイミー・ベルの演技力に負う所が大きい。

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終盤は「走れ!メロス」のようでもあり、実は男臭い史劇と見えながら、女子が見て萌える要素が強いんではないかと思うのだ。

「もとは僕たち敵同士」
「だけど君は命の恩人」
「忠誠を誓うと言っておいて、俺を奴隷にさせるのか」
「黄金のワシなんか僕にはどうでもいいもの」
「なのになぜ彼のために僕は走るのか?」

旅の過程において、危険を共にくぐりぬけ、友情のような絆が芽生え始めてるマーカスとエスカだから、この立場の逆転シチュエーションが両者にもたらす葛藤が効いてくる。
ローズマリ・サトクリフの原作小説が、世界中で長く読み継がれているのもわかる。


「黄金のワシ」へと辿り着く前に、マーカスはもう一つの宿願につながる存在に出会う。消えた「第九軍団」の生き残りの兵士だ。グアーンと名乗るその男は、今は先住民と家庭を持ち、静かに暮らしているという。
マーカスの父親の最期は見てないと。マーカスは戦いの場を逃れた臆病者とグアーンを責めるが、
「あんたはあの戦場の光景を知らないからだ」
ゲリラ戦に遭い、ついには多勢に囲まれた「第九軍団」の兵士たちの末路は悲惨だったという。

グアーンを演じてるのがマーク・ストロングだとは、エンドクレジットで初めて知った。彼は敵役中心にとにかく最近売れてるが、出てくる度に、少しづつ印象がちがうという芸の細かさを持ってる。
そのグアーンのセリフで
「ローマ人たちは、こんな辺境の地まで侵略しに来て、何を得るつもりなんだ?」
というのがあったが、たしかにそうだよな。
もう当時のローマ帝国というのは「征服するは我にあり」状態だったのだろう。
凶暴で野蛮そうに描かれるアザラシ族や、先住民たちだが、彼らはそこに住んでるだけで「侵略者」ではない。
野蛮さとは何かということも考えさせられたりするね。

もう一人驚いたのが、アザラシ族の凶暴な王子シールを演じるタハール・ラヒムだ。
全身を灰色に塗ってるし、頭はモヒカンなんで、誰が演じてても気がつかないとは思うが、1月に公開された『預言者』で無名ながら鮮烈な主演デビューを果たした彼が、もう完全に役者の風格を見せてて、立派な敵役となってた。


映画冒頭は砦を巡る戦闘シーンの迫力で見せ、中盤はマーカスとエスカの心理の綾が織り成す旅で綴り、終盤は「アザラシ族」の村からの逃亡劇でハラハラさせる。
『センチュリオン』のニール・マーシャルと同じく、この映画の監督ケヴィン・マクドナルドも、土地勘では負けないスコットランド出身だ。
映画後半のハイランド地方のロケーションも見ものの一つで、『127時間』などダニー・ボイル作品を手掛ける撮影監督アンソニー・ドッド・マントルのカメラが美しい。

チャニング・テイタムって、なんか顔のパーツが真ん中に寄り過ぎてて、今まではピンと来るような役者じゃなかったんだが、この役は首の太さが、ローマ軍の甲冑を着けても様になるし、ブレない性格の主人公を体現してて、なかなか良かった。

作家映画中心のユーロスペースにそぐわない上映作に思えたが、シネコン並みに音響を鳴らしてくれてた。あそこは床がコンクリではないんで、逆に重低音が足元にビリビリくるんで楽しい。
観客は見事なくらいにお年を召した層だった。多分ユーロスペースとか来るの初めてなんじゃないか?
場所すぐにわかっただろうか。

2012年3月30日

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ニーナ・ドブレフは可愛いが [映画タ行]

『タンネンベルク1939 独ソ侵略戦争』

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DVDスルーの戦争ドラマ。この手のものはほとんどパッケージの絵柄は、本編には出て来ない。邦題も「戦争アクション」を想起させるが、戦車も装甲車も戦闘機も出て来ない。まあそれはビデオ屋に並ぶ商品のセオリーだから気にもならない。
だがパッケ裏の表記に、イスラエル・フランス・ベルギー・スペイン合作と記されてるが、1コも合ってないぞ。
これは2007年製作のカナダ映画だ。カナダのプロダクションが、オンタリオ周辺でロケして、カナダ人俳優を中心にキャスティングしたものだ。舞台に設定してる、ポーランドからロシアに至る道筋も、カナダの森林地帯でロケしてる。
こういう事は海外の映画データベースにあたれば、すぐに分かるのだから、DVDのメーカーも、おざなりな仕事をしちゃいけない。


原題はシンプルに『詩』という。
3人の主要な登場人物がいて、そのひとりが、ドイツ国防軍の少将を父に持つ、オスカー中尉だ。彼はポーランド山岳部を中心に、レジスタンスの動きを探る諜報任務に就いてるが、父親が語る、侵略戦争の大儀には納得してなかった。オスカーは自作の詩を詠む、文学青年で、戦争の場に似つかわしくない事は、母親も承知していた。

オスカーは吹雪の夜、偵察中に雪の中に倒れる若い女を発見し、任務に使っている小屋に運び入れ、介抱する。彼女は美しい顔をしていたが、ペンダントを開けると、ダビデの星が掘られていた。
二人は体を重ね、その後でお互いを名乗った。彼女はレイチェルという名で、ユダヤ人のラビの娘だった。彼女はオスカーがドイツの軍人であることに動揺した。

そんな時、オスカーの仲間が小屋に戻ってきた。彼らはレイチェルがユダヤ人とわかると、自分たちにも抱かせろと言う。オスカーは咄嗟に
「その女は父親の使用人だ」
と嘘をつき、彼女を外に逃がす。
レイチェルは村へと急いだが、すでに村はドイツ軍の砲火に覆われていた。
村にはレイチェルの許婚のベルナルドがいた。彼は善人だが、レイチェルは愛を感じてはなかった。
二人はすぐにドイツ兵に囲まれるが、そこにオスカーが馬を飛ばして割って入った。
「この二人は協力者だ」
兵士たちを立ち去らせ、オスカーは二人に金を持たせ、ロシアを目指して逃げろと言う。
オスカーはベルナルドのことを聞いてはいたが、ベルナルドはなぜドイツの将校が情けをかけるのか、その時は分からなかった。オスカーはレイチェルに
「何がなんでも生き延びるんだ」
と言って、二人を逃がす。

どの位の日数が経ったのか、森の中を逃げ延びるうち、ベルナルドはなぜあのドイツ将校が、自分たちを逃がしたのか知ることになる。
レイチェルが妊娠したのだ。自分とはまだ関係を持ってない。
「彼が父親なのか?」
レイチェルは頷いた。ベルナルドは激しいショックに身を裂かれる思いだったが、彼女は産みたいという。
「僕がその子の父親になろう」
レイチェルはベルナルドに抱きついて泣いた。


ロシアとの国境付近で、ユダヤ人を匿ってる村があると知り、二人はそこへ向かう。ベルナルドは、ラビに合い、結婚を認めてもらうため、複雑な事情を隠さず話した。ラビはその心情を理解して、二人を夫婦と認めた。
だがその村もほどなくドイツ軍に襲われ、二人は再び森の中へ隠れる。
「子供を抱えて森では暮らせないわ」
レイチェルは産気づき、森のテントの中で出産する。
赤ん坊を取り上げた産婆から、ロシア領内のドイツ軍野営地で仕事があるかもと言われる。ドイツはその頃、ソ連との不可侵条約を破棄して、進攻する準備を進めていた。

野営地でベルナルドは雑用係に、そしてレイチェルは美貌と得意の歌声を生かして、兵士向けのショウのスターになっていた。ショウが退けると、士官のベッドの相手もする。生きるために形振りは構ってられなかった。


実はここからの展開が、もっと盛り上がりそうなお膳立てをしてるのに、自ら鞘を収めちゃってる所があって物足りんのだ。

レイチェルが唄うショウを、オスカーの父親のコーニッグ少将が見に来るんだが、彼女を気に入って、部屋に連れ込むのだ。客席で自己紹介されて、オスカーの父親とわかってるから、レイチェルも困るわけだよ。だけど
「あなたの息子の赤ん坊がいます」
とも言えないし。いよいよベッドにという段で、父親が酒に酔ったかで、そのまま寝てしまう。
もう少しでインディとインディパパみたいな、『最後の聖戦』パターンの親子ドンブリ完成したのに。

じゃあそのパターンを回避して、どう話を転がすのか見てたら、ベルナルドがドイツの若い兵士と、雑用係の部屋でチェスをしてる。ゆりかごには赤ん坊が。
中年のドイツ兵に「便所を掃除しろ」と言われ出て行く。赤ん坊の泣き声が煩わしく、中年のドイツ兵はつい首を揺すりすぎて、殺してしまう。

同じ頃、今度はオスカーが野営地のショウでレイチェルと再開してた。
ベルナルドと結婚したと告げられたが、
「僕のことをまだ愛してるなら、子供を連れて一緒に逃げよう」
と言う。オスカーは母親から、彼女とともにカナダに移住できるよう、手引きしてもらってたのだ。
レイチェルは頷き、ベルナルドに別れを告げるため、少し待ってほしいと立ち去った。

便所掃除から戻ったベルナルドは、赤ん坊に気づいた。
「俺じゃない」
若いドイツ兵と揉み合いとなり、直後に入ってきたレイチェルが、ドイツ兵を刺し殺してしまう。
二人は野営地を逃れる。オスカーは様子を見に行き、自分の子供が死んでいることに気づく。

俺の予想では、オスカーはあの時点で、赤ん坊を誰が殺したのかは知らないわけだし、レイチェルたちが、自分を裏切って、子供に手をかけて逃げたと思っても不思議じゃないんで、戦うことを嫌ってたオスカーが、憎しみを抱いて二人を追うという展開になるかなと思ってたのだ。
実際、オスカーは父親に自ら、ロシアゲリラ掃討の任務にあたりたいと、願い出てる。
だが終盤に3人が同じ場に居合わせる場面では、別の結末が用意されてた。
なんだろうな、きれいに終わらせすぎだろ。ベルナルドが本当に善人すぎて気の毒だ。


ニーナ・ドブレフ演じるレイチェルは、可愛い顔してるんだけど、意外と尻が軽い。だがそのわりにはベルナルドとは寝てあげないんだろ?結局オスカーになびくしな。
まあこれは勝手な男目線の見方で、
「男が戦争なんてくだらないこと始めるから、女が苦労するんでしょ!」
と言われれば、男に返す言葉はないね。

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ニーナ・ドブレフは初めて見たけど、レイチェル・リー・クックとか、アリッサ・ミラノとか、そんな感じの日本人ウケしそうなルックスだね。彼女はブルガリアのソフィア生まれで、家族とともにカナダに渡って、女優として活動始めた23才。

コーニッグ少将を演じるのは、カナダの個性派キム・コーツ。一度見たら忘れられない面相で、俺的に印象が強いのは、『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』で、ラスボス風にドヤ顔で出てきた途端に、ケビン・コスナーに撃ち殺されてた役。
その少将の妻をダリル・ハンナが演じてるんだが、彼女のドイツ訛り英語の発音がわざとらし過ぎる。
キム・コーツも、オスカー役のジョナサン・スカーフも普通のアクセントで喋ってるのに、演技プランが統一されてない。
2004年から「多発性骨髄腫」で闘病を続けてたロイ・シャイダーが、レイチェルたちの結婚を認めるラビの役で、数場面出ている。翌年2008年に世を去っている。

2012年3月6日

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25才は命の曲がり角 [映画タ行]

『TIME/タイム』

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人間の成長は25才でストップする。すべての人間の左腕には「ボディ・クロック」が刻まれていて、25才になった瞬間に、余命時間のカウントダウンが始まる。
余命を延ばすには通貨によって「時間」を買わなければならない。持つ者、持たざる者は生活区域が隔てられており、持たざる者たちの住む「スラム・ゾーン」での余命は平均23時間、持つ者の住む「富裕ゾーン」での余命はほぼエンドレス。まずはそういう設定があるわけだ。


ジャスティン・ティンバーレイク演じる「スラム・ゾーン」の住人ウィルは、ある夜酒場で、終わりなき人生に絶望し「富裕ゾーン」を抜け出してきたという男から、この世界のからくりを聞かされる。
そして116年という膨大な「ライフタイム」を譲り受ける。互いの左腕を接触させれば、時間のやりとりができるのだ。
その男は翌朝、橋から身を投げて果てた。
だがせっかく時間を譲り受けたのに、同じ頃、母親は通貨での更新が出来ずに、ウィルと待ち合わせる直前に命を落とす。
怒りと疑問がウィルを突き動かし、この世界のシステムを解明するために、「富裕ゾーン」への侵入を試みる。
時間を譲り受けた男に成りすまして。


星新一や筒井康隆のショートSFにありそうな設定だけど、そのディテールがザルなんだね。
「スラム・ゾーン」の人間に対して物価は日々上がっていき、何か買うにもすべて自分の左腕から「時間」を支払わなくてはならない。物価が上がるから、それに追いつくためには睡眠を削ってでも労働しなければならない。
道端にはこと切れた人間の死体が転がってる。
不思議なのは、なんで暴動のひとつも起きないのかってことだ。
「スラム・ゾーン」の人間たちの人生には、頑張って生きていくべき希望など何一つないのだ。どうせ25才で死ぬんなら、アナーキーになってもおかしくないだろ。

「富裕ゾーン」には「時間監視局員」というのがいる。世界の全ての人間の「ライフタイム」を厳しく監視してるということだが、大して人数いないんだよ局員。
局内には巨大なボードがあって、統括してる設定だろうが、映画の中で、局員のレオンが、ウィルを執拗に追いまわすことになるが、一人の叛乱者に、こんなに手間かかってちゃ、一斉に叛乱が起きた時どうすんだよ。
つまり一斉に蜂起すれば何とかなるような世界なんだよな。

ウィルは「富裕ゾーン」に侵入するが、その素性はレオンが嗅ぎ付けてた。ウィルは住人が遊び呆けてるカジノで出会った、大富豪の娘シルビアを人質にとって逃亡する。
ウィルは大富豪に娘の身代金を要求するが、大富豪は支払わない。
そりゃそうだろう。「富裕ゾーン」の人間たちは通貨で、いくらでも「ライフタイム」を延ばせるのだ。つまり「死」への畏れはない。自分が死なないとわかってたら、子孫を残す必要もないよな。
シルビアもセックスしたらできちゃった程度の存在だろう。

ディテールが詰められてないから、ふたりの逃亡劇も差し迫った感じにならない。アクション自体も目を見張るような描写もないしね。
監督は『ガタカ』の静謐なSF美がよかったアンドリュー・ニコルだが、随分と展開も描写も大雑把にはなってしまってる。
それでもこの映画が無視できないと思うのは、その身も蓋もなさだ。

これはSFではなく「今ってこういうことだろ」って映画なのだ。

「スラム・ゾーン」と「富裕ゾーン」は、現実の持つ者持たざる者の格差社会のデフォルメではあるが、映画の中では対立の構図になってない。
時間監視局員が追ってはくるが、「富裕ゾーン」の住人たちは、基本無関心だ。
「富裕ゾーン」の人間たちは、ほぼ不老不死を手に入れたようなもので、そうなると何か建設的なことをしようとか、そんな意欲もなくなる。危険を冒さず、遊んでればいいだけだ。
映画の中で、ウィルに時間を譲った男は
「肉体は長く生きることができても、精神が持たなくなる」
と言ってる。
「富裕ゾーン」の感情の失われたような世界は、医療によって、寿命を延ばされてるだけの老人たちを見るようでもある。


俺は最近父親のことで病院を訪れることも多いんだが、よくメディアに取り上げられるようになった「胃ろう」というものがある。自力で食べることができなくなった患者に、胃に直接穴を開け、チューブを通して栄養を入れるというやり方だ。
これは「延命治療」のひとつとして使われるものでもあるんだが、栄養は直に取れてるから、生命は維持できる。
だが意識が混濁してしまってたり、病状が回復の見込みが低い高齢者にとっては、そうやって「生かされ続ける」ことが、本人にも家族にも幸せなことなんだろうか?という疑問がある。

この映画の「富裕ゾーン」とは、「胃ろう」で生き永らえさせられてる老人が見た「妄想」の世界なんじゃないか?

つまり働けてる間は、暮らし向きも良くなる希望も薄いなかで、馬車馬のように働き続けるしかなく、今度は動けなくなると、延命優先の医療によって、死をいつまでも先延ばしにされる。
だからこの映画の「スラム・ゾーン」も「富裕ゾーン」も現実の反映なのだ。

この世界観は1970年代に作られた2本のSFとリンクするところがある。

『2300年未来への旅』では、大気汚染から唯一シールドされた「ドーム都市」に暮らす人間の寿命が30才に定められていた。世代交代が早いために、歴史の伝承も行われず、外の世界の様子も知れないのだ。だが実際には、緑に覆われた大地に、90才まで生きてる老人がいることがわかるという物語。

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或いは『未来惑星ザルドス』は、同じく2300年に近い未来、「ボルテックス」と呼ばれる理想郷に、不老不死で暮らす人間たちと、その外の世界で、獣のような生活を営む人間たちを描いていた。
その「ボルテックス」の中でも、不老不死に耐えられない人間は、痴呆状態となり「恍惚人間」と呼ばれて生き続けてたり、思想犯には「加齢」という罰が与えられたりしてた。

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1970年代のデストピアSFにおいては、「このままじゃ、こういう未来になっちまうよ」という、あくまで未来への懐疑的な展望がテーマとなってたが、この『TIME タイム』で描かれる世界はSFのものじゃないんだね。

CGで未来世界を作り出したりなんてことをせず、何となく未来っぽく見える建物をロケに使い、レオンたち時間監視局員が乗るのが、70年型のダッジ・チャレンジャーだったり、あとは「スラム・ゾーン」はLAのそれっぽい地区で撮影してる。
70年代アメリカ映画でよくロケに出てきた、LAの「水のない」川の橋でも撮影してる。

1970年代のSFのデストピアな世界観を今作ったら、SFの話じゃなくなっちゃったよということだね。
突っ込み所満載ながら「そんなことは承知の上」とシレっと作ってる感じがするね。

2012年3月2日

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カン違いが加速するホラーコメディ [映画タ行]

『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』

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昨年「三大映画祭週間」という好企画に何回か足を運んだ、ヒューマントラストシネマ渋谷で、今年の前半6ヶ月をかけて継続上映されてるのが「未体験ゾーンの映画たち2012」という特集企画。

昨年の企画上映では、映画祭で受賞していながら、日本に入ってこない「芸術的価値」のある映画がラインナップされてたが、今回の17本は、いわば昔の「東京ファンタ」で上映されてたような、娯楽性重視、ビデオスルー確定な未公開作品を集めてる。といっても厳密にはオランダ映画の『LOFT』はすでにミニシアターで公開されてるし、『ある娼館の記憶』は昨年の東京国際映画祭で上映済みだが。

ラインナップを眺めてみても、シドニー・ルメット監督の未公開の2006年作から、あのウーヴェ・ボル監督作まであって「玉石混合」であることは窺い知れる。
既に4本上映されてるが、俺が最初に見たのが、この『タッカーとデイル…』で、これがいきなりの「あたり」だった。

ゾンビの定石をひねってネタにしつつ、それだけには終わらない、冴えない日常を送る男たちの、意地と友情のドラマが熱かった『ショーン・オブ・ザ・デッド』と同じように、この映画も『13日の金曜日』や『クライモリ』『キャビン・フィーバー』などの森林スラッシャー映画をパロディにしつつ、ちゃんと男の自己改革と友情のドラマになってる。
『最終絶叫計画』のような一発ギャグをつなげたコメディとは一線画する出来栄えなのだ。


このブログでも度々出てくるんだが、『ウィンターズ・ボーン』とか『ロリ・マドンナ戦争』とか『歌追い人』で描かれた一帯の森林地帯が、この映画でも舞台となる。「ヒルビリー」とか「マウンテン・ピープル」などと呼ばれて、偏見を持たれてる住人たちの生活する土地だ。

その偏見を持たれてる土地に、定石通りにキャンプにやってくるのは、都会の大学生たち。自分たちの車を追い抜いてくトラックから、こっちを睨んでる男ふたり。
ホラー映画でよく見るようなヤツらだ。
だがそのタッカーとデイルはいたって普通の山の住人だ。
昔からの親友同士の二人は、彼女はいないものの、トイレ修理の仕事を真面目に続け、ようやく森の中に格安の別荘を手に入れることができた。
今日はその別荘を初めて見に行く日で、タッカーは釣りを楽しみにしてた。

途中、森の入り口の食料品店で、二人はあの大学生たちをまた見かける。デイルは
「都会の女の子はやっぱりキレイだよね」
「デイル、お前行って声かけて来いよ」
「俺なんかすぐに逃げられちまうよ」
「お前は自分に自信がなさすぎるんだよ。思ってるほどブサイクでもないぞ。
笑顔を作って挨拶してこい」
デイルは言われるままに、思いっきり作り笑いを浮かべ、なぜか手に大きな鎌を持ってたので、声かけた途端に逃げられてしまう。
一方、大学生たちには
「あれは絶対殺人鬼だ」
と思いこまれてしまうのだった。

そんな風に思われてるとは露知らず、タッカーとデイルは森の中の湖のほとりに佇む別荘に着いた。
それはどう見ても廃屋にしか見えないが、レザーフェイスの部屋みたいな異様な内部の装飾物も、二人にはおしゃれに見えて、すっかり気に入ってしまう。
実はその物件が格安だったのは、ボロいという以外にも理由があった。
そこでは昔、やはりキャンプに来てた家族たちが、殺人鬼によって惨殺されてたのだ。

そしてその事件を知る者が、大学生たちの中にいた。グループのリーダー格のようなチャドは、昔この地で惨殺された家族たちの唯一、生き残った子供だった。
チャドは両親を殺した殺人鬼がまだこの森に住んでいたなら、必ず復讐してやろうと燃えていた。
キレた時のクリスチャン・ベイルみたいなこの大学生は、タッカーとデイルなんかより、よっぽど危なそうなのだ。

キャンプの夜、大学生たちは湖で泳ぎ始め、タッカーとデイルは手漕ぎボートで釣りに出た。
チャドから言い寄られてウザいと思ったアリソンは、みんなと離れて泳ごうと思い、ボートの男たちと目が合って驚き、岩から滑り落ちて湖の中へ。
上がってこないのでデイルが飛び込んで彼女を引き上げる。
その様子を大学生たちが遠目に発見。
「アリソンが殺人鬼にさらわれたぞ!」とパニック。


翌朝、頭を打ったアリソンは包帯がまかれたまま、見知らぬ家のベッドで目覚める。
そこに朝食を持ったデブでヒゲもじゃで、オーバーオールを着た、殺人鬼らしき男が!
さすがに彼女が「近寄らないで!」と言うと、デイルはメニューが気に入らなかったと思い、別の物を作って持ってくる。見たところ、どうも悪い人間じゃなさそう。
社会心理学を学んでるアリソンは、先入観を払ってデイルを眺めてみる。
事情を聞いて納得した彼女は、すぐにデイルと打ち解けるように。

頭を打ってるし、しばらく動かない方がいいと言われ、デイルとボードゲームに興じるアリソン。
タッカーは窓の外から見ながら「二人で楽しくやってるな」と文句を言いつつも、デイルが女の子と普通にしゃべれてるのにホッとする。
自分はトイレを作る材木でも切り出すかと、チェーンソーを振るう。
だがその様子を大学生たちが、身を潜めて見つめてた。

ジャンケンで負けた者が家の様子を見に行くことに。
だがその時、タッカーのチェーンソーが木の中に作られた蜂の巣を直撃。
蜂の大群に襲われたタッカーが、チェーンソー振り回したまま、叫びながら走りだしてきた!

タッカーとデイル.jpg

もう何のパロディかわかるよね。
このあとも材木を粉砕する「ウッドチッパー」が出てくるんだが、それもネタになってる。
『ファーゴ』見た人なら使い方わかるだろうけど。
タッカーもデイルも何も手を下さないのに、カン違いした大学生たちが、足滑らしたり、よそ見したり、拳銃の銃口を自分に向けたりして、次々死んでく。

タッカーとデイルは恐ろしい結論に達する。
「あいつら集団自殺しに来てるんだ!」


正直、この中盤のスプラッター全開の爆笑場面が素晴らしすぎるんで、後半にそれに匹敵する見せ場が作れてないのが残念だ。
お人好しで、自分の意見を抑えて、いつもタッカーに従ってるようなデイルの人物描写がいい。
デイルにもっと自分に自信を持てと、奮い立たせるようなセリフを吐くタッカーの熱い友情にもグッとくる。

アリソンを演じるカトリーナ・ボウデンは典型的なアメリカン・ガールだが、可愛くてなごむ。
スラッシャー・ホラーとかそんなに見てなくても十分楽しめる快作だよこれ。

2012年2月21日

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リスベットやっぱりか [映画タ行]

『ドラゴン・タトゥーの女』

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トレント・レズナーとカレン・Oによるユニットの『移民の歌』のカヴァーは、この映画の予告編だけのものかと思ってたが、もろタイトルバックに使ってた。ダニエル・クレイグが出てるからということでもないんだが、なんか007のオープニングを連想しちゃうね。
スウェーデン版の『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』は導入部は静かな滑り出しだったんで、「こっちはハリウッド映画だよ」という意思表示のようだった。

スウェーデン版『ミレニアム』3部作は一昨年、日本で公開されてて、俺もシネマライズで3本とも見てる。その後DVDにもなってるから、見てる人も多いだろう。
スウェーデン版を見てなくて、このハリウッド版を見る人はどのくらいの割合でいるのか、まあそれはわからないが、逆に『ミレニアム』を見ていて、尚かつ、このハリウッド版を見ようという人の動機に上げられるのは何か?
ミステリーだから、当然結末がわかって見るわけで、謎解きの面白さを抜きにしてでも、というと、やはり監督がデヴィッド・フィンチャーだからという点じゃないか。
普通の娯楽映画の担い手がハリウッド版を手掛けるというのとは、期待値が違う。
その焦点となるのが、『ミレニアム』が創造した、リスベットという強烈な個性のヒロインを、どう監督なりの解釈で作り上げるのかという所にある。

結論としては、過去の『ニキータ』や『ぼくのエリ 200歳の少女』のハリウッド版と同様、ヒロインがソフィスティケイトされてしまった印象だ。
『ミレニアム』のリスベットを演じたノオミ・ラパスが全身から発散させてた、敵愾心や、怒りを核に持つ禍々しいまでの外観など、「このヒロインにちょっとでも好感持てるんだろうか?」と見始めてしばらくは不安を抱かせるほどの役作りに比べると、今回のルーニ・マーラは、突拍子もない格好してるけど、それも愛嬌みたいに映りかねない、「乙女」が入っちゃってるかな。
『ミレニアム』を見てなければ、あの後見人との「犯したら、犯し返す、それも倍返し」な一連のシークェンスは、結構インパクト受けるんだろうが。

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リスベットは凄絶な生い立ちゆえに、人と親和性を築けない。だがコンピューターを操る能力と、映像記憶力が卓越しており、そのことが、ジャーナリストのミカエルと出会いに繋がってく。
ニュースに顔をさらしていたミカエルに、興味本位でハッキングかけてたリスベットが、スウェーデンの財閥一族の長からミカエルが依頼された調査の内容に興味を持ち、メールを送ったことから二人が出会うのが『ミレニアム』の流れ。
「一族の令嬢が、一族の誰かに殺された」という事件の真相に、近親間の性的な虐待があるのではないか?
それがリスベットの過去、その彼女の怒りの源泉にリンクすることで、その事件の調査を手伝う動機づけになる。

だが当初ミカエルと共に聞き込みなどを行うのが居心地悪い。リスベットは人とまともに会話することも、行動することも初めてだったからだ。そのストレスのかかり具合を『ミレニアム』は見つめる描写があった。
そんな過程で、ミカエルが
「君の映像を記憶する力は凄いな」
と何の気なしに漏らした言葉。
リスベットは人から褒められた事など初めてで、動揺して部屋を飛び出してく。
実はこの時、リスベットとミカエルの心が繋がったのだ。この『ミレニアム』でも一際印象的なくだり、それに相当する場面が、今回のハリウッド版には見当たらないのが残念だ。


リスベットというヒロインが、ミカエルとの出会いを通して、自分の過去を払拭するまでは至らないまでも、初めて信頼できる人間のそばにいることで、鎧を着けて周りを威嚇してきた、その内面に温もりを得られるまでの、その身体のきしむような変化こそが『ミレニアム』が描き出したものだった。

デヴィッド・フィンチャーのリスベットには、その葛藤が見られない。
「令嬢殺人事件」の調査は、はなからミカエルと別行動で行われ、わりとあっさりとセックスに及んじゃうし、ミカエルに対しては「信頼」というより「愛して」しまってる。
財閥一族の件が落着した後の彼女の行動は、ミカエルのために行う「無償の行為」で、それは今まで人のために何か成すことなどなかったヒロインの、内面の変化を表してはいる。
あのいかにもハリウッド映画的な、切ない幕切れも悪くはないんだが。

フィンチャー監督は3部作の製作の可能性を否定はしてない。
『ミレニアム』のシリーズ3部作は、1作目の濃密さに比べて、2作目、3作目が演出が平坦で、いかにもあらすじをなぞった感じだったので、できればフィンチャー監督に続投して、ハリウッド版も3部作にしてほしい。
アクション的な要素は2作目の方がストーリーに多く含まれているし、金のかけがいもあると思う。

リスベット役のルーニ・マーラはヌードも辞さない熱演ではあったが、アカデミー賞候補とは持ち上げすぎ。もし彼女が続投となれば、戦うヒロインというより、ミカエルへの報われぬ愛を抱くヒロインという性格づけが濃くなりそう。

ダニエル・クレイグは非常によかった。北欧の白と灰色に相性がいいし、表情に知性と荒みが同居していて、見る者を落ちつかせない感じが、こういうミステリーの運び手にぴったりだ。
クレイグに見応えが出てしまってる分、ルーニ・マーラが割りを食ったともいえる。
眼鏡をスッとかけ直す仕草とか、何気ないけどカッコいいね。
捕まって拷問受けるのは『カジノ・ロワイヤル』以来だが、今度のも真に迫ってる。顔にビニール被せられて息できない感じとか、見てる方が息苦しくなる。「拷問映えする」役者だね。

2012年2月12日

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