違和感あるラブコメ②『ユー・ガット・メール』 [映画ヤ行]

違和感あるラブコメ

『ユー・ガット・メール』

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『めぐり逢えたら』への違和感を前に書いたが、あの映画と同じノーラ・エフロン監督、メグ・ライアン&トム・ハンクスが5年後に再び結集した1998年作。
前作は『めぐり逢い』のプロットを現代に置き換えたものだが、この映画も1940年のエルンスト・ルビッチ監督作
『桃色(ピンク)の店』の現代版アレンジになってる。

ルビッチ版の文通相手というのがメール相手に。ルビッチ版の原題
「THE SHOP AROUND THE CORNER」
がメグ・ライアンの経営する児童書店の店名になってる。
古き良き時代のハリウッド映画からネタを探してきたり、映画の中の会話でも、男は全員『特攻大作戦』が好きだとか、今回の『ユー・ガット・メール』では、男はみんな『ゴッドファーザー』の名セリフを知ってるとか、ノーラ・エフロンの映画知識の深さがわかる。

この映画は顔ぶれが同じことから『めぐり逢えたら』の姉妹編のように位置づけられてるが、ストーリーとしては繋がりはない。だがこの映画を見るんなら、その前に『めぐり逢えたら』を絶対見とくべきだ。
音楽の世界に「アンサーソング」というのがある。既成の楽曲の歌詞に対して、返答するような歌詞をつけた歌のことだ。
洋楽で有名なのはニール・ヤングの『サザン・マン』という曲を聴いて「南部人をバカにしてる」と感じたレナード・スキナードが『スイート・ホーム・アラバマ』の歌詞の中で、そのことに言及してること。この曲はサザン・ロックを代表するナンバーとして残ってる。

この『ユー・ガット・メール』は『めぐり逢えたら』への「アンサー映画」と見ることができるのだ。

『めぐり逢えたら』でシアトルに住むトム・ハンクスと、ニューヨークに住むメグ・ライアンは映画のラストまでは、一度も顔を合わせない。ラジオでトムの話しを聴いたメグと、メグがトムに宛てた手紙とで、見知らぬ相手への想いを募らせる恋愛の形だったが、この『ユー・ガット・メール』では、心を通じ合える「メル友」同士が、それと知らず本屋の経営者という商売仇として、最悪の出会い方をする所から始まってく恋愛となってる。
前作のように「運命の人」なんかとは程遠い関係だ。その一方でメル友としては「理想の相手」とお互いを思い描いてる、その部分は前作の恋愛の形を継承してたりする。


メグ・ライアン扮するキャスリーンは、ニューヨークで母親から受け継いだ小さな児童書の専門店を経営してる。
彼女にはコラムニストのフランクという恋人がいるが、今は恋人よりチャットにハマってる。
「NY152」というハンドルネームのメル友との気兼ねないやりとりが楽しみなのだ。

彼女の店の向かいに大型書店が出店してきた。その経営者ジョーは独身で、ビジネス第一という人生。
父親の後妻の子供を連れて、キャスリーンの店に入る。ふたりは言葉を交わすが、ジョーは身分を明かさず、後日パーティで偶然同席し、正体が知れる。
「最初に店に来た時、何で名乗らないの?」
とキャスリーンが口火をきったことから、憎まれ口の叩き合いに。

ジョーはその時の自分の傲慢さを、メル友「ショップガール」に吐露してる。彼女には自分の職業を明かしてはいない。だがジョーは気遣いを感じる返答をもらう内、不意にこの「ショップガール」に会いたくなってしまい、つい「今度会わないか?」と送ってしまう。

しばらく待つと、会うことを了承する返答が。花を一輪、本に挟むのを目印に、カフェ・ラロで待ち合わせすることに。だがいざその段になって、思い描いてた相手と違いすぎてたらなどと、急に尻込みしたジョーは、仕事仲間のケビンに偵察を頼む。ケビンはそれとおぼしき女性を見て驚く。ジョーに
「あの女性だとしたら、それはキャスリーンだ」
と伝える。メル友がこともあろうに、店を潰すかもしれない相手のキャスリーンだとは。
いったんはカフェから立ち去るジョーだったが、思い返して、キャスリーンのテーブルの前に立つのだった。

もし映画の会話に出てくる「メールボックスみたいな顔」のぶちゃいくな相手だったら、会わないですっぽかすという考えもあって、ケビンに偵察頼んだりしてる訳で、この場面ひとつ取っても、女性からすれば「ヤな感じ」なんじゃないか?
この後もメル友がキャスリーンだと知りながら、ジョーはばっくれ続けてる。
それはメールを通して彼女のことが好きになりかけてるからなんだが、実際はキャスリーンの店は、ジョーの大型店の開店後、売り上げが落ち、ついには店を諦めることになる。

市場経済の世界に暮らしてるんだから、勝ち負けがあるのは当り前だし、キャスリーンの児童書への造詣を見込んだジョーの恋人(らしき)出版社の編集者が、彼女に仕事を頼もうとしてるとか、キャスリーンの店の従業員を、児童書コーナーの売り場つくりに雇うとか、ジョーの側でもフォローがあったりはする。
だがそのことと、自分はメールの相手のことを知ってるのに、自分の事は明かさないままで、つきあいを進めてるジョーはいかがなものか。

風邪ひいて寝てると聞いて見舞いにきたりするジョーに対して、憎き商売仇だけど、そんなに悪い人じゃなさそうと、キャスリーンも感じ始めてる。
長く付き合ってきたコラムニストのフランクとも別れ、街中で度々顔を合わせるジョーと話しをするうち、心も打ち解けてくるように。だがジョーは自分が「NY152」とは告げられないでいる。

そしてラストだよ。カフェ・ラロでは「NY152」としてはすっぽかしたことになっていて、会いに行けなかったことを謝罪し、もう一度会おうとメールする。
キャスリーンは「NY152」というメル友から「改めて会いたい」とメールをもらい、この後公園で待ち合わせしてるとジョーに話す。ジョーはそんなキャスリーンに
「商売仇としてじゃなく出会ってれば、僕たちはうまくいってたかな」
と告白めいた気持ちを伝えている。
キャスリーンも否定はしなかった。

公園で「NY152」を待つキャスリーンの前に、犬を連れて現れたのはジョーだった。
キャスリーンは涙目で
「あなたでよかった」
と言って、ふたりは抱擁…。

「よかったのか?」

人の本屋の鼻先にデカい本屋をオープンさせ、最初は身分を明かさずに接近し、メル友がキャスリーンだと先に知った後も、それを明かさず、メールを通して彼女の心を察しつつ、顔を合わせてもそしらぬ素振り。そんな男に「メル友なら何でそう言わないのよ!」
と顔面にパンチの一つも浴びせずに、腕の中に身を託せるもんなのか?

その不誠実さは一旦置いておこう。
映画では、メールの文面に本当の人柄が表れてるというような描写がなされてるが、メールの相手のよき理解者のように装って、実際に会いにいった少女が、性的被害に遭うというケースが、アメリカでは相当問題になってた時期もあったよな。
ジョーは別に変質者ではないが、メールを人と人との本心をつなぐツールのように扱うのもどうかとは思うな。

ただ俺はこの映画自体は、かなり難易度の高いことに挑んでると認めてる。
ラブコメの恋愛が成就する相手として、商売第一主義みたいな経営者で、自分の正体だけ知られてない状態でメル友を続けるような人物像を、それでもいかに女性の反感を買わずに描けるか。そういう役はトム・ハンクスしかこなせないという確信が、監督にはあったんだろう。

なのでこの映画はメグ・ライアンではなく、トム・ハンクスが出てることで成立してるんだと思う。
それに会話の面白さや、子供や犬の使い方、街の撮影の雰囲気つくりなど、ノーラ・エフロンの映画は、観客を引き込むのがとにかく上手い。
上手いからこそ「いや、ちょっと待て」と、我に返るようなストーリーの引っかかりが気になるのだ。

2011年12月4日

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