アンディ・ラウのせいで少林寺大災難 [映画サ行]

『新少林寺 SHAOLIN』

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これはアンディ・ラウが悪い。俺の中のジャンル分けで「お前が疫病神」の映画に入る。このジャンルはけっこう数があるはずなんだが、歳のせいですぐに浮かんでこない。
例えば1994年の『リトル・オデッサ』がある。殺し屋となったティム・ロスが、標的の宝石商を追って、生まれ育ったNYのロシア移民の町「リトル・オデッサ」に戻ってきたことで、弟や以前の恋人に不幸が降りかかる。
「お前さえ戻らなければ」という展開の、救いなきドラマで、俺はこれが大好きなんだが、DVD出ないな。いやハナからブルーレイは期待してないからさ。


辛亥革命の翌年、国内の政治は混乱し、列強と手を組む軍人たちによる抗争で、兵士や巻き添えを食う民衆たちの夥しい血が流されていた。少林寺の僧たちは、折り重なる死体を前に手を合わせるしかなく、死体は荼毘に付した。暴虐を逃れて難民となった人々は、少林寺の門前に逃げ込んだ。武術の修行を積んだ僧たちによって守られた少林寺は「非戦」の場となっていたのだ。

そこに首を狙われた将軍が逃げ込んできた。それを追って軍人たちがなだれ込んでくる。少林寺の官長・方丈は、「ここは戦いの場ではない」と将軍を置いて立ち去るよう諭すが、軍を率いる候杰(こう・けつ)は聞く耳を持たず、将軍を撃ち殺し、少林寺の教えに泥を塗るような態度を見せ、去って行く。

候杰には彼以上に冷酷さを持つ腹心の曹蛮(そう・ばん)がいた。曹蛮はイギリスの軍隊が持ち込んできたガドリング銃の破壊力に夢中になっていた。イギリス側は鉄道を引かせてもらうということを条件に銃を献上するという。だが候杰は、それを許せば列強が中国を支配する足がかりになると、申し出を蹴る。不満を口にする曹蛮を激しく諌めた。

候杰には義兄弟の契りを交わした宋虎(そう・こ)将軍が疎ましい存在となってた。自分は戦いに出ずに、戦利品の分け前は要求するような男だった。候杰には美しい妻の顔夕(がんせき)と、目の中に入れても痛くない一人娘の勝男(しょうだん)がいたが、宋虎将軍は、互いにまだ幼い勝男と自分の息子を将来の夫婦にすると決め、早々と祝賀の儀を設けることに。候杰はその席で宋虎を暗殺すべく、腹心の曹蛮に手配させる。だが権力への強い野心を持った曹蛮は、その席で候杰を、将軍暗殺の逆賊に仕立て上げるつもりだった。

候杰が異変に気づいた時はすでに遅く、裏切りを知って襲いかかってきた将軍を、とっさに銃で撃ち殺してしまう。曹蛮の思惑通り、罠にかかった候杰は、妻子と散り散りとなってしまう。
妻の顔夕も曹蛮の差し向けた刺客に襲われるが、時を同じくして、難民たちの米を得るために、官長に無断で、町に米を盗みにやってきてた、少林寺の若い僧たちが、顔夕を救い出す。
刺客に追われる候杰は、行く手に馬車にはねられた娘を目撃。まだ息はあった。刺客の馬車の一台を奪取して、娘を抱えたまま、手綱を握る。馬車で追われ続け、ついには険しい崖から娘を抱いたまま、転落してしまう。

傷だらけの候杰が瀕死の娘を抱えて立っていたのは、あの少林寺の門前だった。出てきた僧たちは、候杰を見るなり険しい表情になったが、怪我を負う子供をとにかく介抱しようと、中に入れた。候杰の後を追うように、妻も若い僧たちに伴われてやってきた。我が子の姿に取り乱す。
だが二人の必死の願いも虚しく娘は息を引き取った。それまで夫に慎ましく付き従ってた妻の顔夕は、
「あなたのせいで娘はこうなった!」
と責め、その頬を打った。
候杰は自分たちを迎え入れてくれた恩も忘れ、少林寺の僧たちをののしりながら、駆け出して行った。

すべてを失い呆然と野を彷徨う内、イノシシ用の落とし穴に嵌まる候杰。それを助け上げたのは、少林寺の厨房係の悟道(ごどう)だった。悟道は武術の修行などはしてなかったが、外の世界には臆病で、この少林寺から出たことがなかった。
行き場のない候杰は、しばらくは悟道の小屋に身を寄せ、厨房係の補佐をしながら、少林寺と、その周りに暮らす難民たちの世界に馴染んでいく。
そして自ら髪を剃り落とし、再び少林寺の門前に膝をついた。
僧たちは受け入れようとはしなかったが、官長は
「どんな人間であれ、御仏の教えを請う者を拒んではならない」
と候杰の入門を許した。

過去の罪を贖い、生まれ変わろうと黙々と修行にはげむ候杰に、僧たちの見る目も変わってきつつあった。だが候杰がまだ生きていて、少林寺の僧になったと聞きつけた曹蛮は、大軍を差し向けようとしていた。


これはつまりアンディ・ラウ演じる候杰が、土足で踏みにじったような少林寺の慈悲にすがり、すがっておいて娘の命を助けてもらえなかったと、また「お前ら皆殺しにしてやる!」とか言って出てって、だけど行く所がないからと、少林寺にまたすがり、僧になったことが曹蛮に知れるいきさつも、候杰が元の部下にばったり会ってしまったりことだという、少林寺にとってはいい迷惑だよ。
僧になるのはまあいいとして、自分がここに留まることで寺に迷惑かかると思ったら、出ていかなきゃいかんだろ。僧たちと「ともに戦おう」とか盛り上がってるけどさ。

僧たちもね、普段は官長の教えが絶対という暮らしをしてるから、「こうしなさい」と言われることに慣れてるというのか、候杰は僧としちゃ新米だけど、元々は軍を率いる将校だからね。
候杰がちょっとリーダーシップ取ると、「うん、そうだね」って感じで従ってるし。
結局どさくさに紛れてイギリス軍が大砲ブッ放してきて、寺もエラいことになるわけですよ。


それにしてもアンディ・ラウね。俺と歳かわんないんだけど、何だろう全然老けないね、この人。それこそ『いますぐ抱きしめたい』あたりの頃から印象変わらない気がする。時任三郎なみに変わらない。
悟道を演じるジャッキー・チェンは7才上だけど、ジャッキーは年相応の顔に変わってきてるもんね。今回は「厨房じこみ」カンフーを見せて楽しませてくれてる。アンディとジャッキーが同じ画面に収まってるのを見ると、場数を踏んできたスターの風格が漂っていいもんだね。


「少林寺」ものというには少林寺拳法での格闘シーンは少な目。アンディ・ラウと曹蛮を演じるニコラス・ツェーの格闘は、剣を使ったり、純粋なカンフーの戦いではない。コリー・ユェンのコレオグラフィで見せる感じ。
“仏の掌(てのひら)”の演出は出来すぎに見られるかもしれないが、俺はアリと思った。
『死にゆく者への祈り』のラストで、ミッキー・ロークが教会の天井から吊るされた十字架のキリスト像に、すがりながら落下してく、あの場面を思い出してた。

少林寺の僧のリーダー格を演じたウー・ジンが渋くてよかったが、格闘場面となれば、ともに「使い手」のシー・イェンレンと、最強の刺客を演じるション・シンシンの戦いが、その壮絶な決着ぶりを含めベストかな。
面白いことにシー・イェンレンは、そのとんがった頭の形が『少林寺三十六房』のリュー・チャーフィを思わせ、ション・シンシンは、ジェット・リーとトランペッターの近藤等則をミックスしたような顔立ちで、なんだか、旧少林寺スターの代理戦争みたいに見えた。

馬にはねられた上に、崖から転げ落ちという、悲惨すぎる目にあう候杰の娘を演じたのは、日中のハーフで嶋田瑠那という子。香港映画は女子供にも容赦ないのが伝統だからね。ここで鍛えられれば、どこ行ってもやってけるよ。
「少林寺」映画のファンには楽しさも不満も半々といった感じかも知れないが、とにかく出し惜しみがないからね。
アクションにしろ、少林寺のセットにしろ、全力で作ってる感がすがすがしい。
最初に書いたが「お前が疫病神」映画は俺の好きなジャンルなのだ。

2011年12月19日

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