「午後十時の映画祭」50本⑩作品コメ [「午後十時の映画祭」]

この映画が観たい「午後十時の映画祭」50本(70年代編)のタイトルリストに沿ってのコメントも今回がラスト。
五十音順で、今日は「マ」から「ワ」まで。



『マッドボンバー』(1973)アメリカ 
監督バート・I・ゴードン 主演チャック・コナーズ、ヴィンス・エドワーズ

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バート・I・ゴードンという人は、1950年代末あたりから、チープなSFホラーなんかを量産してきた、ロジャー・コーマンの商売仇のような存在なんだが、この映画は彼のフィルモグラフィにおいて、突然変異の如く誕生したカルト的傑作だ。

連続爆弾魔の犯行の唯一の目撃者が、連続強姦魔だという、その設定だけでも尋常じゃないが、そこにチャック・コナーズとネヴィル・ブランドという、怪優ふたりを配して、もう全編何しでかすかわからんという緊張感に貫かれてる。

この映画が見たいというのには複雑な事情がある。昔は夜9時台にテレビ放映されてたもんだったが、そのバージョンは、ラストでチャック・コナーズ演じる爆弾魔が、爆弾もろとも吹っ飛ぶ場面を、肉体が粉々になる部分はカットして放映してた。
その後、たしかテイチクからビデオが出たんだが、それはアメリカのケーブルテレビ用素材を使った物で、同じようにエグい場面は全カット。
俺は「意味ねええ!」と嘆いた。

そして紀伊國屋書店から満を持してDVDが発売され、今度はそのラストシーンも収録されてた。これでめでたしめでたしならいいんだが、今度は昔テレビで見たはずの場面が入ってない。
それはネヴィル・ブランド演じる強姦魔が、車の後部座席から、前の座席の女の子に襲いかかるという場面で、後ろの座席に引っ張りこまれる時に、スカートの中のパンツが見えてた。
それで記憶に残ってるんだが、その場面がない。

俺が他の映画と記憶がごっちゃになってるのか、定かではなく、それに白黒つける意味でも、この映画のオリジナルを確認してみたいのだ。



『Mr.ビリオン』(1977)アメリカ 
監督ジョナサン・カプラン 主演テレンス・ヒル、ヴァレリー・ペリン

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アダム・サンドラー主演の『Mr.ディーズ』は、『オペラハット』のリメイクだが、この映画もプロットは拝借して作られてる。
サンフランシスコにある大手金融会社の社長が死去。遺言により、その全財産は唯一の血縁関係にある甥に譲るとあった。甥はグイドと言い、イタリアに住んでいた。
相続する条件は、20日以内にシスコに来て、サインすること。社の重役は偽の契約書にサインさせようと、イタリアを訪れるが、天真爛漫な性格のグイドのペースに乗せられ、うまく事が運ばない。

一方グイドはアメリカ行きを決意するが、飛行機で行くのではなく、先祖が辿った通りに、船や列車を使って行くとこにする。重役はならば色仕掛けと、グラマーな探偵ロジーをグイドに接触させる。だが、グイドの噂を聞きつけ、誘拐して身代金を得ようとするギャングたちも、その道筋を追ってきた。

テレンス・ヒルのことは、1974年の『ミスター・ノーボディ』が1年遅れで日本公開され、初めて知った。
人を食ったようなキャラクターが新鮮だった。それ以前から『風来坊』シリーズなどで、バッド・スペンサーと組んで、コミカルな演技を披露してたことは、後になって知る。
殺伐としたマカロニ・ウエスタンの世界に「ギャグ」を持ち込んだという意味では、カンフー映画の世界にギャグを持ち込んだジャッキー・チェンのような存在かもしれない(ちがうかもしれない)。

『オペラハット』の主人公ゲイリー・クーパーが、底抜けの御人好しで、疑うことを知らない性格というのに倣って、この映画のテレンス・ヒルも、ひたすらに善人だ。それをコミカルに演じられるから嫌味がない。
探偵ロジーを演じるヴァレリー・ペリンもキュートだし、彼女自身も気立てのいいキャラの持ち主だったんで、このコンビが危機をくぐり抜けてく展開が楽しく見てられるのだ。
いろんな乗り物での見せ場を繋げつつ、当時話題を集めた小型ジェット機「サイテーション」まで繰り出し、ジョナサン・カプラン監督の演出ぶりも快調。

ビデオもDVDも出てないが、この楽天的なアドベンチャーをまた見てみたい。

なお、テレンス・ヒルはこの映画をハリウッド進出の足がかりにするつもりでいたが、これも、その後に出たディック・リチャーズ監督の大作『外人部隊 フォスター少佐の栄光』も興行的に失敗し、イタリア映画界に戻ってしまった。



『ヤコペッティの大残酷』(1975)イタリア 
監督グァルティエロ・ヤコペッティ 主演クリストファー・ブラウン

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これはもう権利関係がわけわからん状態になってると長年言われてきたが、最近になって、PAL版のDVDが発売されたようだ。日本版をどこか出せるようになるんだろうか。
こんなことなら公開時に見とけばよかったが、当時はテレビで「ヤコペッティ」ものを放映してたんだよ。「海亀かわいそうだよねえ」とか家族で話しながら見てたりした。
なのでこの映画もおんなじモンド系ドキュメンタリーだと思い、スルーしてしまったのだ。
オッパイ見せながら機関銃持ってる、あのポスターに素直に反応して映画館に入っときゃよかった。

ボルテールの古典『カンディード』を映画化した、つまりはフィクションだったんだね。
愛した女をどこまでも追い続けて、時空まで超える旅をする青年が、行く先々で残酷な光景を目の当たりにするという物語は、なにやら楳図かずおの『イアラ』を連想させもするけど、花畑の中で、イスラエルの女兵士とアラブ人の兵士が銃撃戦を展開する場面は、昔テレビで見たことある。

スローモーションの画面に、リズ・オルトラーニ得意の甘美な旋律が被さってた。
なんかこの人の映画音楽を聴くと、デパートのお好み食堂をイメージしてしまう。
モリコーネよりもイージーリスニング感が強いんだね。

フェリーニとかパゾリーニとか、一緒くたになった感じの映画と何かに書かれてたんで、やっぱり面白そうだよね。



『夕陽の群盗』(1972)アメリカ 
監督ロバート・ベントン 主演ジェフ・ブリッジス

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1970年代の「フォトジェニック」なウエスタンの代表格といえる一作。
1865年、南北戦争は長期化し、北軍は若者を手当たり次第に徴兵していた。オハイオ州の良家の長男ドリューは、両親の手引きでミズーリへと逃れるが、途中で同じような年かさの若い強盗ジェイクに金を巻き上げられる。
その後、牧師の家で鉢合わせた二人は格闘となり、お坊ちゃんにしては根性あると、ジェイクはドリューを強盗団に引き入れ、西部へと向かう。

だが威勢はよくても、所詮少年たちばかりの強盗団に、西部の土地は甘くなかった。
強盗とはいえ、少年たちが射殺されたり、殺されて木に吊るされてたり、容赦ない描写が連続する。

いわゆる「オールド・ウエスタン」ではない、明らかにアメリカン・ニューシネマを経由してきた、と見る者に知らしめるようなタッチだ。
良家の出で、銃など触ったこともなかったドリューが、バンダナで顔を覆い、この映画の原題である
『BAD COMPANY』(悪の仲間)になってく過程を、シビアに見つめている。

その少年たちの残酷な旅と反比例するような、『ゴッド・ファーザー』の名撮影監督ゴードン・ウィリスによる、ウィスキー色の荒野の美しさ!
1978年の現代ウエスタンと呼ぶべき『カムズ・ア・ホースマン』でも、そのカメラが映画のグレードを上げていて、ビデオスルーだったのが勿体なさすぎ。

『ラスト・ショー』で一躍脚光浴びた直後のジェフ・ブリッジス、これが映画初出演のジョン・サヴェージと、みんな若いね。
監督ロバート・ベントンはこれがデビュー作。40才と遅咲きだが、それだけにクォリティは高い。

ビデオ・DVD化されてないが、アメリカでは随分前からDVDになってる。



『ロリ・マドンナ戦争』(1973)アメリカ 
監督リチャード・C・サラフィアン 主演ジェフ・ブリッジス、シーズン・ヒューブリー

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これは映画評論家・町山智浩著「トラウマ映画館」でも取り上げられてるんで、名前を聞いた人もけっこういると思うが、リチャード・C・サラフィアンという監督は、1960年代末からの5年間位に傑作を連打したのだが、『バニシング・ポイント』以外はビデオにもDVDにもなってないという、不遇すぎる扱いだ。
1971年の『荒野に生きる』を選んでもよかったが、テレビで録画したのがあるんで、こっちにした。
昔、名画座で見たきりだ。

テネシー州ノックスビルにロケしてるとデータにあるが、アパラチア山脈の麓あたりの田舎が舞台だ。
土地を巡って争う2軒の家がある。家長は片やロッド・スタイガー、片やロバート・ライアンという、いずれ劣らぬ頑固者のベテラン役者なんで、収拾もつかんだろう。
両家の子供たちは土地なんてどーでもいいと思ってるんだが、父親には逆らえない。

ロバート・ライアンから、相手の家に奪われた豚を取り返して来いと言われた長男は一計を案じ、「ロリ・マドンナ」という名の架空の結婚相手から、自分に充てた手紙を、ロッド・スタイガーの家の郵便受けに入れる。
「バス停まで迎えに来て」と書いて。
奴の息子たちが、嫌がらせのために花嫁を拉致しに行くと読んだ。
留守になった間に豚を取り返せばいい。

長男の思惑通り、隣の家の息子たちは、バスの着く時間を見計らって出て行った。
だがバス停には本当に降り立ったばかりの若い女がいた。男たちは
「お前、ロリ・マドンナだよな?」
と有無を言わさず家に連れ帰った。
つまり縁もゆかりもない、ふたつの家の争いに、通りすがりの娘が巻き込まれるという、はた迷惑この上ない話なのだ。
その後はどんどん話がこじれてきて、「トラウマ映画館」で言うところの、激安ヒルビリーたちの殺し合いへと発展してくのだ。

巻き込まれる娘を演じるシーズン・ヒューブリーは、『勝手にしやがれ』のジーン・セヴァーグ以来のベリー・ショートの美貌が衝撃的で、掃き溜めに鶴もいいとこだ。
彼女はモデル出身で、日本の化粧品のCMにも出てたことがある。
ジェフ・ブリッジスは、彼女を拉致してきた家の末っ子かなにかで、彼女を見張ってるうちに、お互い惚れ合っていくという役。この二人がまあ「さわやか」担当で、あとの男たちは殺伐としてる。
70年代の映画でよく見かけた脇役たちが顔を揃えていて、しかも激安な人間を演じてるんで、誰に視点が定まってるのか判然としない所はある。

まったく余談だが、この映画の題名が気に入ったのか、1985年に『V・マドンナ大戦争』という邦画が作られてる。

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俺も性懲りもなく見に行ってるんだが、内容は『七人の侍』と『マッド・マックス』と『エクスターミネーター』がごっちゃになったようなイメージの学園アクションで、『みゆき』でヒロイン演じてた宇沙見ゆかりが、敵の女番長となぜかブチューとキスしてる場面だけ憶えてる。

そっちもDVDになってないが、なってなくてもいい。



『別れのこだま』(1975)アメリカ 
監督ドン・テイラー 主演ジョディ・フォスター、リチャード・ハリス

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ジョディ・フォスターが13才で主演した家族ドラマ。心臓疾患の難病で長くは生きられないと悟っている少女ディアドルを、彼女らしく情緒に訴えるような演技はせず、理性を持って演じてる。
父親が劇作家という設定なんで、いくぶんセリフも文学的なひねりが加えられてたり、薄幸の少女の泣ける話を期待すると、ちょっとテイストはちがう。

1976年に日本公開されてるが、同じ年に『タクシー・ドライバー』『白い家の少女』『ダウンタウン物語』が封切られており、どれも「ふつう」の役ではないんで、一番実年齢のジョディに合った役ではある。しかし少女スターとしては凄い売れ方だったんだな。

感受性の強いディアドルは、父親と母親の間がギクシャクしてるのは、自分の病気のせいだと苦しむ。そのことに気づいた父親は、娘の限られた日々を、自分たちのわだかまりは捨てて、精一杯寄り添って過ごしていこうと決意する。
これは娘を想う父親の物語でもあり、父親を演じるリチャード・ハリスが、製作総指揮に名を連ねてることからも、こういう役をやりたかったんだろう。

エンディングには自作の歌まで流れるのだ。
「ディアドーール♪」って唄い上げちゃってるのが、こそばゆい感じもあるんだが、リチャード・ハリスは歌手としても実績がある人だ。

1968年に『マッカーサー・パーク』という7分強のドラマティックなバラードで、全米チャート2位を記録するヒットを飛ばしてる。
この曲を10年後にドナ・サマーがディスコアレンジして、今度は全米チャート1位になってる。
なんで今までビデオにもDVDにもならないのか、わからないが、リチャード・ハリスの歌がネックになってるなら、それカットしてもいいから。

これは公開時に見た人少ないと思うし、あんまり名画座にもかかってない。
俺ももう一度スクリーンで見てみたい。

2012年1月4日

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