多部未華子の顔のふしぎ [映画カ行]
『ゴーヤーちゃんぷるー』
おととい、ネットを眺めてたら、スズキの発売前のコンセプトカー「G70」の、フロントのフェイスが、多部未華子そっくりという記事があり、画像見たら、これは納得せざるを得んというものだった。
誤解のないよう断っとくが、俺は彼女の顔は大好きだ、前から。
あんないつまでも見飽きない顔した女優もいない。
多部未華子の顔の魅力というのは、これは「流動性」という事ではないだろうか?
鋳型にはめた「できあがった可愛さ」ではない。
例えば彼女の映画デビュー作『HINOKIO』のジュンという役は、男の子の格好をしてる、小学生の少女だった。
若い女優が男装をするというコンセプトは時々あるが、それはベースに女の子の可愛さを残してる、そこを狙いにしてるわけだが、『HINOKIO』の彼女の場合は、普通に男の子に見える。俺らの世代で例に出すと『ケーキ屋ケンちゃん』の宮脇康之みたいに見えた。
男の子みたいに見えるなんてのは、序の口であって、ドラマ『鹿男あをによし』では、玉木宏に
「魚みたいな顔してる」
ってセリフ言わせてて「ひでぇな」と思ったが、ついに生き物ですらない「車」に似てるとまで言われるという、メタモルフォーゼする顔を持った、唯一無二の女優なのだ。
そういう思いもよらないものにまで連想が広がるというのは、つまり、その可愛さが不安定に表出してくるということにある。
それは特に彼女の最初の頃の映画やドラマに顕著だ。
この『ゴーヤーちゃんぷるー』は2005年の主演映画で、この年はもう1本『ルート225』という多部史上の傑作がある「黄金の年」といえる。
彼女が演じる中学生のひろみは、学校でイジメにあっており、祖父母と暮らす自宅では、部屋に引きこもってる。
写真家の父親は海で死んだ。ひろみが唯一心を開けるのは、西表島のダイバーズショップで働いているという、メル友の「ケンムン」だけ。ひろみはメールを交すうち、衝動的に西表島に向かうため、家を飛び出した。
その西表島は、2才のひろみを残して家を出た母親の生まれ故郷でもあった。
ひろみが島で過ごして何日も経つのに、祖父母からなんの動きもないのは何故かという事に関しては、映画の終盤にセリフで語られてたが、中学生の少女が、思い立っていきなり東京から西表島まで行くという流れが唐突。飛行機に船賃と、結構かかるはずで、1カットでも、ひろみの預金通帳の残高を映すとか、堅実に貯金してたとかの描写を挟んどかないと。
それはともかく、島に着いたひろみはすぐに、島のおばさんから「あんた家出してきたね?」とか言われて、家に招かれ、
「好きなだけ居ていいさあ」
とすんなり島の生活に入ってしまう。
最初は頑なに心を閉ざして、表情を変えることもなかったひろみだが、島の人々との触れ合いの中で、気持ちに変化が起こってくる。
末期ガンの男性の最後の静かな日々を見守り、島のみんなで見送ってやる、そんな場に居合わせることで、生きていくことの意味の重さを、ひろみは感じとっていく。
下條アトム演じる末期ガン男性の臨終の場面など、努めて大げさな演出を避けて、静かにカメラを置いている。全体として、押し付けがましさがないのは良かった。
だがこういうコンセプトの映画というか、「南の島に行って癒される」という構図ね。
なんか都会に住んでる人間のガス抜きの場のように、描かれることが多いけど、南の島の人たちにも、それぞれ悩みだとか、鬱屈したものを抱えてたりとか、あるんじゃないの?そういう人たちはどこへ行ったら、ガス抜きができるんだろう?
でもって多部未華子だが、まだ自分がどう映るとか、そういうことに自覚的でない時期だね。
役柄上、ほとんど笑顔は見せないから、あの普通にしてても不機嫌そうに見える顔のパーツの配置が、さらに際立ってしまう。
はっとするくらい可愛く見える瞬間と、
「こんなおすもうさん、いるよね」
という顔に映る瞬間と、もうスレスレをいってる。
まさに「状態が安定してない」、だからこそスリリングで目が離せなくなるのだ。
ここ最近の彼女は、自分の顔の取り扱い方を心得てきた感じで、変顔とか盛んにやり出してるが、もうそうなるとスリリングではないんだよな。
しかしそれでも彼女の個性が強靭であることには違いはない。
願わくば「顔をいじったり」とか絶対にしないでほしい。
どっから見ても美人とか、可愛いとか、そういう女優やタレントはそこらにいるし、韓流の女優やタレントもしかりで、俺にはちっとも面白味もないし、惹かれるものもない。
「G70」が発売されることになったら、多部未華子にCMのオファーは行くんだろうか?
実現してほしい。というか車の名前も「タベチャン」でいいんじゃないか?
2012年2月9日
おととい、ネットを眺めてたら、スズキの発売前のコンセプトカー「G70」の、フロントのフェイスが、多部未華子そっくりという記事があり、画像見たら、これは納得せざるを得んというものだった。
誤解のないよう断っとくが、俺は彼女の顔は大好きだ、前から。
あんないつまでも見飽きない顔した女優もいない。
多部未華子の顔の魅力というのは、これは「流動性」という事ではないだろうか?
鋳型にはめた「できあがった可愛さ」ではない。
例えば彼女の映画デビュー作『HINOKIO』のジュンという役は、男の子の格好をしてる、小学生の少女だった。
若い女優が男装をするというコンセプトは時々あるが、それはベースに女の子の可愛さを残してる、そこを狙いにしてるわけだが、『HINOKIO』の彼女の場合は、普通に男の子に見える。俺らの世代で例に出すと『ケーキ屋ケンちゃん』の宮脇康之みたいに見えた。
男の子みたいに見えるなんてのは、序の口であって、ドラマ『鹿男あをによし』では、玉木宏に
「魚みたいな顔してる」
ってセリフ言わせてて「ひでぇな」と思ったが、ついに生き物ですらない「車」に似てるとまで言われるという、メタモルフォーゼする顔を持った、唯一無二の女優なのだ。
そういう思いもよらないものにまで連想が広がるというのは、つまり、その可愛さが不安定に表出してくるということにある。
それは特に彼女の最初の頃の映画やドラマに顕著だ。
この『ゴーヤーちゃんぷるー』は2005年の主演映画で、この年はもう1本『ルート225』という多部史上の傑作がある「黄金の年」といえる。
彼女が演じる中学生のひろみは、学校でイジメにあっており、祖父母と暮らす自宅では、部屋に引きこもってる。
写真家の父親は海で死んだ。ひろみが唯一心を開けるのは、西表島のダイバーズショップで働いているという、メル友の「ケンムン」だけ。ひろみはメールを交すうち、衝動的に西表島に向かうため、家を飛び出した。
その西表島は、2才のひろみを残して家を出た母親の生まれ故郷でもあった。
ひろみが島で過ごして何日も経つのに、祖父母からなんの動きもないのは何故かという事に関しては、映画の終盤にセリフで語られてたが、中学生の少女が、思い立っていきなり東京から西表島まで行くという流れが唐突。飛行機に船賃と、結構かかるはずで、1カットでも、ひろみの預金通帳の残高を映すとか、堅実に貯金してたとかの描写を挟んどかないと。
それはともかく、島に着いたひろみはすぐに、島のおばさんから「あんた家出してきたね?」とか言われて、家に招かれ、
「好きなだけ居ていいさあ」
とすんなり島の生活に入ってしまう。
最初は頑なに心を閉ざして、表情を変えることもなかったひろみだが、島の人々との触れ合いの中で、気持ちに変化が起こってくる。
末期ガンの男性の最後の静かな日々を見守り、島のみんなで見送ってやる、そんな場に居合わせることで、生きていくことの意味の重さを、ひろみは感じとっていく。
下條アトム演じる末期ガン男性の臨終の場面など、努めて大げさな演出を避けて、静かにカメラを置いている。全体として、押し付けがましさがないのは良かった。
だがこういうコンセプトの映画というか、「南の島に行って癒される」という構図ね。
なんか都会に住んでる人間のガス抜きの場のように、描かれることが多いけど、南の島の人たちにも、それぞれ悩みだとか、鬱屈したものを抱えてたりとか、あるんじゃないの?そういう人たちはどこへ行ったら、ガス抜きができるんだろう?
でもって多部未華子だが、まだ自分がどう映るとか、そういうことに自覚的でない時期だね。
役柄上、ほとんど笑顔は見せないから、あの普通にしてても不機嫌そうに見える顔のパーツの配置が、さらに際立ってしまう。
はっとするくらい可愛く見える瞬間と、
「こんなおすもうさん、いるよね」
という顔に映る瞬間と、もうスレスレをいってる。
まさに「状態が安定してない」、だからこそスリリングで目が離せなくなるのだ。
ここ最近の彼女は、自分の顔の取り扱い方を心得てきた感じで、変顔とか盛んにやり出してるが、もうそうなるとスリリングではないんだよな。
しかしそれでも彼女の個性が強靭であることには違いはない。
願わくば「顔をいじったり」とか絶対にしないでほしい。
どっから見ても美人とか、可愛いとか、そういう女優やタレントはそこらにいるし、韓流の女優やタレントもしかりで、俺にはちっとも面白味もないし、惹かれるものもない。
「G70」が発売されることになったら、多部未華子にCMのオファーは行くんだろうか?
実現してほしい。というか車の名前も「タベチャン」でいいんじゃないか?
2012年2月9日
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