レイフ・ファインズの罵倒セリフを存分に [映画ア行]

『英雄の証明』

英雄の証明.jpg

シェイクスピアの古典を現代に移し変えた、政治と軍事の闘争劇として、まず連想するのは、1995年にイアン・マッケランが脚本・主演した『リチャード三世』だ。
あの映画は舞台を1930年代イギリスに設定し、ファシズムとともに英国王室を内乱に導く主人公リチャードを、マッケランが軍服からクラシカルなスーツ姿まで、七変化で熱演してた。
今回、主演にして映画初監督に挑んだレイフ・ファインズは、『リチャード三世』のアプローチを念頭に置いてたことが窺える。

舞台は現代の架空の国「ローマ」。隣国のヴォルサイとは幾度となく武力衝突を繰り返してる。旧ユーゴの内戦を思わせるような舞台設定で、実際セルビアの首都ベオグラードを中心にロケーションが行われている。
そのローマで、敵軍ヴォルサイの脅威から、軍神のごとき活躍で国の防衛線に立つのが、ケイアス・マーシアスだ。その働きぶりは万人が認める所だったが、国民に対して見下したような態度を取る、その傲慢さでも知られていた。


食料難から民衆の怒りが高まっている、そんな不穏な空気の中、ヴォルサイ軍が国境付近に進軍。
マーシアスはただちに最前線に向かい、熾烈な戦闘を経て、ヴォルサイの都市コリオライを制圧した。
その武勲により、将軍から「コリオレイナス」の称号を受け、軍事と政治の最高権力者である「執政官」に推挙される。16才の時から息子を戦場に出してきた母親ヴォルムニアにとって、それは宿願ともいえる地位だった。
だが、民衆だけでなく、政治屋にも侮蔑の視線を送る、この傲慢な男が執政官の地位につけば、自分たちの立場も危うい。そう警戒した政治家ブルータスは、護民官と謀り、コリオレイナスの追い落としに動く。

執政官になるには、市民から賛成の票を得なければならない。プライドの高いコリオレイナスが、市民に頭を下げて、票をもらうことなど、できるはずがない。あの激しい気性を刺激するような、挑発的な発言をぶつけて、市民の前で本音を引き出してしまえばいい。
コリオレイナスは、彼の精神的な後ろ盾でもあるメニーニアスや、母親から、努めて平静を装うようにと言われてたが、まんまとブルータスたちの思惑にはまり、市民たちを冒涜するようなセリフを吐いてしまったため、「ローマ追放」の憂き目に遭う。

あてどもなく放浪を続け、軍神の猛々しさがすっかり影を潜めた、別人のような風貌となったコリオレイナスが、最後に足を向けたのは、宿敵オーフィディアスの暮らすヴォルサイだった。
自分を裏切ったローマに復讐を果たすため、お前の部下として戦闘に加わると宣言すると、オーフィディアスは、長年の敵を快く迎え入れた。

ただちにヴォルサイ軍はローマへ向けて進軍を開始。LIVEで中継されるテレビのニュースで、ヴォルサイ軍にコリオレイナスが加わってることを知ったローマ政府はパニックに陥る。オーフィディアスとコリオレイナスに組まれたら、まず勝ち目はない。

ローマ側は将軍に続きメニーニアスを、交渉に立てるが、コリオレイナスは和平を拒否しにべもない。
コリオレイナスはすでにヴォルサイの兵士たちからも尊敬を受けており、オーフィディアスは、側近からこのままでは立場が危うくなると進言されていた。
そんな折、母親ヴォルムニアが、コリオレイナスの妻と子を伴い、慈悲を示すようにと、説得に現れた。


シェイクスピアが「コリオレイナス」を書いたのが1607年、つまり17世紀初頭だ。しかしその中に描かれていることは、ほとんど四世紀を経た現在にアダプトしても違和感がないというのが凄い。
民衆心理の不安定さ、世論を誘導する政治家の手口、敵味方など当事者の立ち位置によって、いかようにも変容してしまうこと。
レイフ・ファインズが、これを現代を舞台に置き換えられると考えたのは、ごく自然なことだったかも知れない。

コリオレイナスが英雄から、その地位を追われ、国家への復讐者として凱旋する、そのプロセスは一種の風刺劇ととれば、すんなり見れるが、現代と合致させるには、細部の描き込みが物足りない。

まずインターネットの存在が全く出てこない。
これは架空の国家が舞台だから、パラレルな現代と捉えればいいという見方があるかもしれないが、それだったら、別に現代に舞台を持ってくることはない。
映画の中で、コリオレイナスは、一部の政治家と、一部の市民たちによって、その地位を追われることになるが、現実的に考えれば、彼のような傲慢な態度が見られる「タカ派」の実力者が、そう簡単に足をすくわれる事はない。必ず根強い支持者というものがいるからだ。

それにネットでその人物像がポピュラリティを得ることも十分に考えられる。ネット上で市民を動かす「扇動者」と、コリオレイナスの係わり合いといったものが描かれていれば、今日的な視点をより意識できるような内容にできたのではと思う。

レイフ・ファインズ演じるコリオレイナスは、その口から出る言葉のほとんどが、相手を罵倒するような内容なんだが、カッとなったら自らの抑えがきかない性分なんで、演技のテンションも高くなる。
俳優が自ら監督も兼ねると、自分ばかり目立って撮りそうに思えるが、逆にそうならないように気を遣ってるのではないか?そのために、共演者たちにも、目立つような演技の見せ場を作ろうとする。
つまり自分のテンションとバランスが取れるように配慮するのだ。
その結果、全体の演技の質が均一化されてしまうというのか、ちょっと見ててもたれてくる感じがある。ほとんどの人間が吼えてる印象がある。

母親役のヴァネッサ・レッドグレイヴは、ベテランらしい貫禄の演技だとは思うが、彼女はもともとあの面相が迫力あるんで、その上にセリフを畳み掛けてこられると、「塗りたくり過ぎ」な感じになる。
母親が息子コリオレイナスに、ローマへの慈悲を乞う重要な場面も、膝をついたり、起き上がったり、セリフもくどく感じられてしまう。これは俺だけの印象論にすぎないが。

登場人物がみな肩をいからせてセリフを言う中で、穏健派メニーニアスを演じるブライアン・コックスは静かな演技に徹していて、ホッと息を抜ける。

レイフ・ファインズ自身にしてからが、元々無慈悲に吐き捨てるようなセリフが似合う役者ではあるんだが、それは吼えかかるようにではなく、無表情に静かに繰り出されるのがよかったのだ。それに声を張ってない時の、淀みなく流れるようなエロキューションこそが、魅力であり持ち味ではないか。ケビン・スペイシーのように。

この映画の中で、宿敵オーフィディアス率いるヴォルサイ軍の側についたコリオレイナスが、ほどなくヴォルサイの兵士たちの人心を掌握して、みなコリオレイナスに倣ってスキンヘッズになるんだが、なんか「ネオナチ」の集団のようでもあり、「ナチ」といえばレイフ当たり役のアーモン・ゲートを即座に連想させ
「きたよ、きましたよ!」とワクワクさせもするんだが。


なのでこの映画の中で、レイフ・ファインズの持ち味に適った芝居は、実は登場場面にある。
市民を煽動して穀物倉庫になだれ込んできたリーダーのカシアスに対して、警備にあたっていたマーシアス(後のコリオレイナス)が顔を近づけて威嚇する。

「何が欲しい?野良犬ども。戦争も平和もいやなんだろう?戦争だと震え上がり、平和だとのさばり返る」
「貴様らはライオンであるべき時にウサギになっちまう。まったくアテにならん」
「貴様らは1分ごとに気が変わる。いま憎んでた者を立派だと持ち上げ、英雄にまつり上げた者をこきおろす。どういうことだ?」
「穀物が十分にあるはずだと?貴族たちが憐れみの情を捨て、この剣を振るうことを許されれば、こんな奴隷どもなど何千人いようが滅多斬りにして、投げ槍の届く限り、高々と死人の山を築いてやる」
そして「とっとと帰れ、屑ども!」と一蹴。

流れるような罵倒の言葉に惚れ惚れしたよ。


ヴォルサイ軍との戦闘の際にも、一時は単独で敵軍と渡り合ったマーシアスが、死んだと諦めていた友軍の前に血まみれで現れ、なおも戦闘を続けるよう鼓舞する場面。疲れ果てた兵士たちに

「自分について来るか?」
と尋ね、兵士たちは一呼吸置いてから手を上げる。
「お前たちの熱意が上辺だけでないなら、お前たち一人一人がヴォルサイ人四人に匹敵する。
一人一人がオーフィディアス相手に互角に戦える」
「だが選べる人数には限りがある。後の者はいずれ別の戦いで力を示してくれ」
「さあ、進軍だ。俺を剣にして戦え!」
この辺のセリフは熱くていいねえ。

だがローマへの復讐に燃え、自ら宿敵の懐に飛び込んだコリオレイナスを、
「俺の心臓は、新婚の妻が初めて我が家に足を踏み入れるのを見た時よりも、有頂天になって踊っている」と、オーフィディアスがガシッと抱擁する辺りのセリフは、俺にはちょっと熱すぎる。
言ってる方もよく照れませんなと思うが。

オーフィディアスを演じるジェラルド・バトラーは、前半は主人公の宿敵として見せ場もあるが、後半に行くに従い、影が薄くなってくる。
だがこれはシェイクスピアの原作自体がそうなってるのだ。

2012年3月14日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。