スピルバーグの馬への詫び状 [映画サ行]

『戦火の馬』

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メジャー中のメジャーであるスピルバーグ監督作なんで、あらすじをくどくど書く必要もないだろう。
イギリスの貧しい農家に引き取られた一頭のサラブレット。農耕馬ではなかったが、農家の息子アルバートは、その馬にジョーイと名づけ、弟のように可愛がった。農耕馬として立派に家族の力となるジョーイだったが、大雨により作物は全滅。父親は第一次大戦の開戦を知ると、軍馬としてジョーイを売り渡してしまう。

戦場に送られたジョーイは、イギリス陸軍で放火をくぐり、ドイツ軍に引き渡され、フランス人の娘と祖父のもとで、しばしの安息を得て、再びドイツ軍で砲台を引く。やがてアルバートも、年齢を重ね、イギリス陸軍の歩兵として戦場へと赴く。アルバートと愛馬ジョーイの再会は叶うのか?というストーリーだ。


1950年の西部劇に『ウィンチェスター銃’73』という作品がある。1丁のライフルが人から人の手に渡っていく中で、それを手にした人間の運命が描かれていくという物語だったが、この映画はそのライフルを馬に置き換えたような感じだね。

今回スピルバーグは「ディズニー」でこれを撮っている。家族そろって見ることができるように描いてるのだ。
なので戦争映画でも『プライベート・ライアン』のようなリアルすぎるような描写は避けてる。
登場人物も、戦争下でありながら「性善説」に基づいたような人たちばかりだ。
それは人間のドラマが主眼ではなく、これはあくまで「馬」に思いを馳せる映画だからだ。

俺は見てて思ったんだが、馬という生き物は
「なんで自分は馬に生まれてきたんだろう?」
と思うことはないのだろうか?
馬の一生というものは、生まれた瞬間から人間の手中にある。人間たちはこっちの了承も得ず、背中にまたがって当然のように思ってる。

産業革命前までは、馬は移動の手段に使われてきた。農家であれば、畑を耕す力に、狩猟民族の場合は、獲物を追いつめる力に。人間の賭け事の興奮のために、ひたすら速く走ることを強要され、サーカスでは曲芸を習わされ、だがそれならまだましな方だろう。

つらいのは戦場に駆り出される「軍馬」だ。大きな音や銃弾に驚かないよう訓練するというが、人間だって戦場にいるのは怖いんだから、馬だって怖いに決まってる。生来が臆病な動物なんだし。
弾丸が降り注ぐ中を、猛スピードで突っ込んで行かされる、重い砲台や、大量な物資を引かされて何十キロも歩かされる、人間に馬の限界が感じ取れることはないから、力尽きて足を折り、体を横たえた時は最期なのだ。
もう二度と立ち上がることはできない。
この映画では描かれないが、死んだ馬は食料にされてしまう。

人類が繁栄する過程で、馬の果たした役割は、どの動物よりも上だろう。だが人間はその恩を、馬に返してきただろうか?スピルバーグ自身、もう15年も馬を飼い続けてるという。
映画の中で、数奇な運命に翻弄される馬のジョーイを、死なせてはならない。

これは馬への一種の「詫び状」として綴られた一作と思う。


そうは言っても俺も映画の中で馬を見るのは好きで、疾走する馬の体のラインの美しさとか、ヒズメが土を噛む音とか、気持ちを高揚させるものがある。ギャンブルの才は全くないと思ってるんで、競馬に縁はないが、真近でターフを駆け抜ける様を見れば、きっと魅了されるだろうな。

人間が馬を戦地に連れていったのは、もちろん道具として役に立つという他に、駆け抜ける馬の雄姿が、人に高揚感を与えるからではないか?
馬の背に乗り、共に敵陣へ突っ込む時に、馬の存在が勇気となる。馬はそんな風に人間に思われてしまうことで、それが仇となってしまった、皮肉な生き物なのだと思う。


この映画を銀座で見たんだが、土地柄ということもあるんだろうが、観客の年齢層がべらぼうに高かったぞ。
俺もいい歳だが、俺より下に見える人があんまり居なかった。最初は『一枚のハガキ』と間違えて入ったかと思ったほどだ。つまりそういう年齢層の人たちが見たいと思うような雰囲気の映画なのだ。
デヴィッド・リーンの『ライアンの娘』や、キューブリックの『突撃』を思わせる描写もあるし、撮影監督のヤヌス・カミンスキーが、いつもの色を抑えた感じではなく、昔の映画のテクニカラーを再現するような色調を狙って出している。スピルバーグも今年66才だし、「ブロックバスター映画の巨匠」のイメージから変容遂げつつあるのかもしれない。


今回も第一次世界大戦の時代という「過去」を舞台にしてるが、スピルバーグは劇場映画初監督作の『続・激突!カージャック』以降29本の監督作の内、現代劇と呼べるものは、デビュー作と『ターミナル』の2作しかない。
名匠と呼ばれる存在でこれは珍しい。
俺は次にいつ現代劇を手がけるのか、そんなとこに注目してる。

イギリスで書かれた原作の通りに、イギリスでロケーションして、イギリス人のキャストが揃う。
『ハリー・ポッター』シリーズは、イギリスの名のある役者たちがぞろぞろ出てくる「イギリスのオールスター映画」の趣だったが、この映画は、渋いけど映画ファンなら顔を知ってるという、イギリスの役者たちが出ていて、B-サイドの『ハリポタ』のようだ。

まずアルバートの両親だが、父親には昨年のTIFF出品作『ティラノサウルス』での演技も記憶に新しい、スコットランドの名優ピーター・ミュラン。この映画ではアゴひげをたくわえ、往年のジョン・フォードの映画に出てきそうな風貌になってた。
母親のエミリー・ワトソンは、『アンジェラの灰』やこの映画などで「イギリスのお母さん」のイメージが出来つつあるかな。
冷徹な地主を演じるデヴィッド・シューリスは、マイク・リー監督の『ネイキッド』で俺のヒーローとなった役者だが、『ハリポタ』にもレギュラーで出てるんだよね。
最近のイギリス映画で欠かせない顔になってるリーアム・カニンガムとエディ・マーサンが、終盤に軍医と軍曹として、一緒に出てくるのも嬉しい。

イギリス人ではないが、ジョーイと交流するフランス人の祖父を演じるのは、この1月に待望の公開となった傑作『預言者』で貫禄を示してたニエル・アルストリュプ。
同じく戦争下のドラマ『サラの鍵』でも似たような役回りを演じてた。
孫娘を演じてるのはエル・ファニングかと思ってたら、セリーヌ・バッケンズという、ベルギー人の女の子だった。
これが映画デビューで可愛い子だったね。


さてそんな中で、俺は『アメイジング・グレイス』以来注目してる、ベネディクト・カンバーバッチの登場場面を楽しみにしてたんだが、イギリス陸軍の騎兵隊を率いる大尉を演じてて、ジョーイのよきライバルとなる黒馬に騎乗していてカッコよかったね。
今回は口ひげを生やしてるんだが、遠めから見ても、顔が一際目立つ。
今回特に感じたのは、顔が馬に似てるってこと。
よく面長の顔の人を「馬面(うまづら)」と表現するが、カンバーバッチの場合は単に顔が長いだけじゃなく、顔そのものが馬に似てるのだ。だから映画の中では「馬が馬に乗ってる」みたいに見える。
背の高い草村に潜んだ騎兵隊が、馬を起こし敵陣に突撃をかける場面は、絵的にも美しいが、カンバーバッチの出番がそこで終わってしまうのが残念。
あの声のしゃべりをもう少し聞かせてほしかったんだが。

2012年3月16日

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