はくじんのけんか [映画ア行]

『おとなのけんか』

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「子供のけんかに親が出る」とはよく言われるが、このケースは親が出て当然だろう。加害者の少年は木の枝で、被害者の少年の顔をはたき、歯を2本折り、口まわりを腫れ上がらせる怪我を負わせてる。
映画は加害者の両親アランとナンシーが、被害者の両親マイケルとペネロペの自宅に謝罪に訪れてる場面から始まる。和解の手続きのための供述書をペネロペが作成してるが、「木の枝で武装した…」という表現を、アランが「大げさだ」と言い、訂正させる。

ニューヨーク、ブルックリンのアパートに住むマイケルとペネロペ夫婦。夫のマイケルは金物商を営み、ペネロペは主婦だが、ダルフール紛争の本を執筆するなど、リベラリストとして活動をしてる。
一方のアランは弁護士で、係争中の裁判のことでケータイが手放せず、妻のナンシーは投資ブローカーとして、互いに忙しい身だ。アランは子供のケンカのことなど早いとこ終わらせて、仕事に戻りたい。
ケンカの当人たちを交えての次の話し合いの日程を決めて、そそくさと玄関を出ようとするが、ペネロペの
「お宅のお子さんは本当に謝罪する気はあるかしら?」
との、余計なひと言が、際限のない「大人のケンカ」への呼び水となる。


これは元は舞台劇だというが、余計なひと言がなければ、物語が進まないから、劇としては「余計」ではなく「必然」のひと言だろう。
こっからは俺の推測というか妄想だが、劇を離れて考えてみても、この二組の夫婦は、何もこじれることのないまま、あそこで話しが終わるとは思ってなかったんじゃないか?

同じ白人で、見たところ身なりも大体自分たちと大差ない。そこである種の前提というか、安心感のようなものが生まれてると思うのだ。
例えばこれが息子のケンカの相手が黒人だったら?ヒスパニック系だったら?アジア人だったらどうだろうか。
互いに顔を合わせた時に、相当に探り合いのような間合いが生まれると思う。
相手が違う人種だった場合、売り言葉に買い言葉でエスカレートしてしまったら、何をしてくるかわからないだろう。刃物や銃を持ってたら?そうでなくても、掴みかかってくるかもしれない。剣呑な空気になった時の行動が見当つかない訳だ。
だがこの場合、相手も同じ白人だ。話しがこじれることになっても、流血沙汰にはならないだろう、と思うのではないか?

もちろん最初から話しをこじらせようとは、お互いに思ってはいなかっただろう。
だが今度は逆に同じ白人がゆえに、互いを値踏みするという心理が働く。アメリカのそれもニューヨークのような大都会で暮らしてる白人は、自分たちより優れた人種がいるとは思ってないだろう。
となるとあとは、白人の中でどちらがより優れてるのかという問題になる。
そこで尺度となるのが「職種」だ。
ここに集った4人が、それぞれの職業について、訊ね合っている。

金物商のマイケルが、ケータイで話してばかりいるアランの会話を聞いて
「製薬会社なんて、汚い商売だな」
と、アランの弁護対象に毒づいたことから、アランは慇懃な口調で、金物商を揶揄してくる。挑発にはのるまいと、マイケルは努めて冷静に受け答えてる。
アランはさらにペネロペのリベラル活動にも皮肉を浴びせる。ペネロペは冷静さを欠いた反応を見せる。
やがてそれは加害者と被害者の夫婦間ではなく、それぞれの夫婦の間での諍いへと風向きを変える。
ペネロペは「平凡な人生が一番と決め込んでる」と、金物商の夫を侮蔑する。

ナンシーは当初は静観の構えだった。彼女は投資ブローカーという、高給取りでもあり、職種でいえば余裕かませる立場だ。だがナンシーは仕事にかまけて、子育ての時間が十分に取れてないとの負い目がある。
加害者の少年への教育に話しが及び、ついにナンシーも平静を失う。
妻の場合、それが子供を持っている場合には、「職種」より「母親」としての立場が一番センシティブな要素となる。子供のことを言われたら、母親としては引き下がれないのだ。


この段階で4人は「夫婦対夫婦」ではなく、この4人の中での優劣を競い始めてる。
子供のケンカの加害者側で、本来低い目線に立ってるはずの夫婦が、弁護士と投資ブローカーという、経済的には被害者側の夫婦より上にいるという、そこが、互いに素直にはなれない核心となってるんじゃないか?

やがて諍いのあったマイケルとアランの「夫同士」は、マイケルが
「酒でも飲まなきゃやってられん」
と出してきた、年代物のスコッチによって、なんとなく休戦となる。
「おい、このスコッチ旨いじゃないか!」
「だろ?」
みたいな感じで。男親というのはそういうものだろう。
元々子供が原因の諍いで、正直それほどのことと思ってないのだ。

まあとにかく各自が言い合うだけ言い合って、さんざ泣いて泣きつかれた赤ん坊が眠るように、最後はくたびれ果ててしまうんだが、ここまで言い合っても、怪我させあう所までは行かなかった。
それに誰もが自分の鼻っ柱を、それぞれ異なった手続きではあったが、へし折られた事で、「職種」だとか、相手より優位に立つ気持ちの虚しさも味わった。

だからひょっとすると、この先この夫婦同士が、意外とつきあいを続けるようになるかもしれない。当事者の子供同士が仲直りしてしまえば、親同士がいがみ合ってるのも滑稽だと思うだろう。
それも白人同士だから可能なことなんだと。


芸達者な4人が揃ってるが、ケイト・ウィンスレットが「汚れ役」というのか、一番「おいしい」役回りだったね。
会話の応酬という劇において、口から言葉以外のモノを吐き出すとは、さすがに予想外だった。
さらに争いをぶつ切りにする大技を再度繰り出してくるし。

なによりも、アランとナンシー夫婦がすんなりアパートを後にすることができないのは、これがロマン・ポランスキーの監督作だからだけど。
ポランスキーの映画はいつも「ここから抜け出せない」というのがテーマになってるからね。
79分という上映時間もいっさいの無駄がなく素晴らしい。

2012年3月17日

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