韓国テレビマン容赦ない謝らない [映画カ行]

『カエル少年失踪殺人事件』

カエル少年.jpg

数日前に「3月後半公開の期待作」の中でも少し触れたが、韓国には『殺人の追憶』で題材となった「連続強姦殺人事件」、ソル・ギョング主演『あいつの声』で題材となった「ソウルの9才児誘拐事件」と共に「三大未解決事件」の残り一つ「カエル少年事件」というのがあるという。

1991年3月、テグの小さな村の国民学校に通う、5人の小学生が忽然と姿を消した。少年の一人は母親に「カエルをとりに行く」と言い残していた。
地元警察は当初「5人も一度に居なくなるわけない」
と事件性を否定するが、数日経っても行方はわからず、警察や軍隊、計30万人を動員しての大規模な捜索が展開されたが、発見には至らなかった。

そして事件から11年経った、2002年9月、少年たちのものと見られる遺体と遺留品が、村からさほど距離のない、山麓の森の中で発見される。台風による豪雨で、周辺の土砂が流されたことで、遺体の一部が地面に出てきたのだ。
検視の結果、遭難などの事故死ではなく、何者かの手による他殺であるとされたが、犯人逮捕に至らず、2006年3月に時効が成立してる。

この映画は『殺人の追憶」のように、事件に係わった刑事の捜査ぶりを再現しながら、犯人像を推察していくという作りとはちょっと異なってる。
事件自体は実際に起きたことだが、映画の中心人物で、真相を探って行動していくテレビ局の番組プロデューサーも、自説を唱える心理学の教授も架空の人物なのだ。
なので展開はフィクションということになる。映画は実際の事件を題材にしながら「別のテーマ」を描こうとしてるのだ。そこをまず押さえとく必要がある。


カン・ジスンはソウルのテレビ局「MBS放送」で、教養・ドキュメンタリー系の番組を制作するプロデューサー。
「野生の鹿と人間のふれあい」を描いた番組で賞を受賞するが、後にそれが「ヤラセ」と発覚。
上層部から叱責を受け、テグ支局に左遷となる。

以前の先輩だった部長が取材に出てると聞かされ、現場を訪ねてみると、ポンプ車が何台も繰り出され、沼の水を吸い上げて、水底を捜索してる。
数年前にこの地で起きた、5人の少年の失踪事件で、遺体が沼に沈んでるとの通報を受けていた。
「もう誰も興味を失ったあの事件をまだ追ってるのか」
ジスンは支局での歓迎会の席で口走る。
「家族は今も情報提供のビラを抱えて方々回ってるんですよ」
そう話す新米の社員にジスンは
「あの事件にはなんの進展もないじゃないか。証拠も上がらない」
「製作者の立場から言えば、ドラマティックな要素もないし、番組にならないんだよ」
それを聞いた部長は掴みかかり
「今の言葉を家族の前で言ってみろ」

ジスンは大した仕事もない支局に燻ってられない。ソウルに戻るために大きなネタが欲しいと思った。
支局の資料室には「カエル少年事件」に関する大量の取材テープが保管されていた。ヒマに明かせてジスンはテープをチェックし始めた。
その中にオンエアされてない取材テープがあった。
ファン・ウヒョクという、大学で心理学を教える教授が、事件の真相に関して独自の推測を行っているものだった。
局はその内容の際どさにオンエアを控えたようだった。

早速ジスンは、教授を大学に訪ね、単刀直入に切り出した。
「犯人は身内の中にいると言いたいんですね?」
最初は慎重な態度だったウヒョク教授も、自説を語りたくてしょうがなかったらしく、説明に熱を帯びてきた。
その根拠はいくつかあった。


まず事件の起きた日は、統一選挙の日だった。田舎の村では1票が勝敗を左右する。
選挙に係わる人間につながりのある、当事者の家族の誰かが、子供の失踪事件をデッチ上げ、興味を選挙から逸らそうとした。だがその過程でなにか不都合が生じて、子供たちを生かしておけなくなった。

教授は鍵を握るのは、ジョンホという少年の親ではないか?と見ていた。
教授はジソンに録音テープを聞かせた。
それは母親がジョンホからと思われる電話に出た時のものだった。
「ママー!」
「ジョンホなの?」
「うん…」
「今どこにいるの?」
その後、電話は切れたわけではなく、17秒の無音の部分の後、受話器が置かれてる。

「なぜ自分の子と分かってながら、あれこれ話しかけようとしないのか?」
それにジョンホの母親は、その当日の午前中には、ジョンホを探すような行動を起こしてる。子供なら夕方まで外で遊んでても、親は別に気にとめない筈だ。
子供が見当たらないというアピールが早過ぎると。
ジソンには教授の推測が理論立てて聞こえた。
「教授の自説の通りなら、事件の様相が一変して、大変なスキャンダルとなる。数字も取れるぞ!」

ジソンは教授とともに、ジョンホの両親の家を訪れた。父親は朴訥そうな人柄だが、母親は台所仕事をして、背を向けたままだ。祖母が不意に奥から現れ、夫婦に向かって指を2本立て、それを刃物で切るような仕草をする。口はきけないようだ。
教授はちらと覗いた物置の床のコンクリが真新しいことに気づいた。
帰り際に外にあるトイレを借りようと教授が向かうと、父親はなにか慌てるような素振りも見せた。
証拠はない。だが明らかにあの夫婦の家には何かある。

二人は地元の警察を訪ね、「今さら身内を犯人と疑えというのか?」と言う刑事を説き伏せ、ついにジョンホの両親の家に、大掛かりな家宅捜索が入ることになった。
新展開を聞きつけたMBS以外のテレビ局もこぞって取材に駆けつけていた。
だが何も発見されなかった。


主人公となるカン・ジスンの人物像が、まあとにかく「イケ好かない」のだ。映画に登場する場面からすでに世の中を舐めてる感じが漂ってる。1991年3月の少年失踪事件を、大々的に取材する局のスタジオに居て、事件を茶化すような物言いをしてる。
賞を取った番組のヤラセを追求されても、
「じゃあ、私以上に教養番組で数字を取れる人間がいますか?」
と悪びれたところもない。

単に自説を唱えていただけの教授を焚きつけて、被害者両親の家宅捜索にまで持っていくが、その場の仕切りは教授に負わせている。
何も出ずに、村の人間たちの怒号を浴びながら、警察に庇われ車で逃げ去る教授を、ジスンは群集に紛れて眺めてる。
責任の矢面に立たされるのは教授で、自分はこの失態の張本人にも係わらず、テグ支局から本社に呼び戻されてるのだ。クビじゃないのかよ!

犯人扱いされたジョンホの父親は、そのことよりも
「誰ひとりとして、息子が生きているって思ってない」
と悔し涙を流す。演じてるのはソン・ジルという人だが、いい役者だな。

ここまでが映画の前半で、後半は少年たちの遺体が発見された2002年に話が移る。
ジスンは心理学教授の「自説」に乗っかって失態をやらかしたわけだが、まだ局にいた。
そして今度は検視官による、遺体の骨の「科学的」な検分によるヒントを元に、再び犯人像に迫ろうとするという展開。


カン・ジスンを演じるパク・ヨンウという役者も俺は初めて顔を認識した。前半の時代は額を隠すような髪型で、どことなく劇団ひとりを思わすんだが、後半再びテグを訪れた時には、髪はぴったり七三に分けており、多少薄くなってる。今度は若い頃の矢追純一みたいだ。つまり経年化がくっきりと表情に出てる。
他の登場人物も後半の時代に再び出てくるんだが、それほどの変化を感じない。この人は役作りが相当巧みなんだろう。
例えで出した名前の方々には悪いが、顔と一緒に「うさん臭い」感じも似てるのよ。

このジスンの人物像が象徴するように、ここに描かれるのは、メディアのいい加減さと、不祥事を起こしたとしても、うやむやに終わらすような無責任な体質で、これは韓国も日本も変わらないことだ。
何か事件が起こると、メディアは「専門家」と称する人間たちにコメントを求める。
そのほとんどは推測にすぎない。だが推測であっても、一度口から語られた言葉は、思わぬ波紋を広げることがある。それで被害を被る人間が出ても、誰も責任を取らない。

メディアが謝罪しないというのは、この映画のジスンが、一切謝罪する場面が訪れないことに表れてる。ジスンがいつ謝罪の言葉を述べるのか、それが見所になってると言ってもいい程だ。

家宅捜索で何も出ず、職も家庭も失い、それでも「自説」をまげようとしないウヒョク教授には空寒くなってくるが、演じてるのはリュ・スンリョン。この人は見たことあるんだよな。
下條アトムに似てるなあと何かの映画で思ったのだ。

そんなことなので、事件の実録ものとしてではなく、「メディアのモラル」に焦点を当てたドラマと見るべき。
似たような内容で日本映画に『破線のマリス』があるが、あれよりは数段出来はいい。
共感を得られない人物を主役に置いて物語を進めるという姿勢には、描こうというテーマに対し、腹が据わってるなと感じるのだ。

2012年3月28日

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