選挙もエンタメとなるアメリカ [映画サ行]

『スーパー・チューズデー 正義を売った日』

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アメリカの選挙の仕組みというのは、日本人には非常に複雑に感じるんだが、この映画はその複雑さを解き明かすという意図で作られてるわけではない。
選挙の仕組みに明るくなくても物語自体は楽しめるように出来てる。
ジョージ・クルーニーは一作一作、監督として物語の進め方が明解になってきてる。


ライアン・ゴズリング演じる主人公スティーヴン・マイヤーズは、民主党予備選の有力候補である、ペンシルヴェニア州知事マイク・モリスの、若き広報官であり選挙参謀。ベテランの選挙キャンペーン責任者ポール・ザラからの信頼も厚い。モリス知事の政治主張にも、正面から意見することもある。

すべては予備選を勝ち抜くためであり、スティーヴン自身が、モリスのクリーンな人柄に、国を変えることができる存在と期待を寄せていた。対立候補のプルマン上院議員との差も付き始め、3月15日のオハイオ州の票を取れば、勝利は確実と思われた。

だがそのスティーヴンに、プルマン上院議員の選挙参謀であるトム・ダフィが接触を試みてきた。この時期に対立陣営の関係者と会うことはご法度だ。だがダフィは重要な情報を握ってるという。
ポールはオハイオの雌雄を決する鍵を握る、大物上院議員との面会で不在だった。
スティーヴンは禁を犯し、バーでダフィと会うと、その内容は、スティーヴンの引き抜きだった。
そしてこちらの陣営はすでに大物上院議員の支持を取り付けており、モリスに勝ち目はないという。

スティーヴンは誘いを拒否はしたが、動揺は隠せない。
その晩、選挙スタッフのインターンで、美しい大学生のモリーと、ホテルで関係を持ってしまう。

翌日、果たしてダフィの言葉通り、ポールから、面会には何の収穫も得られなかったと連絡が入る。
苛立つポールに、スティーヴンはダフィと会ったことを報告した。軽率な行いを謝罪するが、ポールはその日の内に報告もなく、なによりスティーヴンの忠誠心の欠如に失望の色を隠さない。

それはほどなく政治部の新聞記者の嗅ぎつける所となった。記事を書かれたらスキャンダルとなり、自分の選挙参謀の職を失う。だが誰がその情報をリークしたのか?
そのことをポールに話すと、耳を疑うような言葉が返ってきた。
「情報をリークしたのは俺だ」
この時期のスキャンダルは、候補者モリスに大きな不利となる。
スティーヴン一人を切れば、モリスに火の粉は及ばない。

非情な判断に屈したスティーヴンは、だが思わぬ切り札を握っていた。
モリーは妊娠してたのだ。その相手はモリス知事その人だった。

自分を誘ってきたダフィのもとに出向いたものの、すげなく追い返されたスティーヴンは、今や理想に燃える選挙参謀から、自らを追い落とした者たちに、その報酬を払わせようと牙を剥く、手負いの獣と化していた。


予備選における対立候補との、知力を尽くした駆け引きが描かれるかと思いきや、下半身問題に収束してしまう展開は、食い足りなさを残すのは確かだが、ライアン・ゴズリングの周囲に、フィリップ・シーモア・ホフマンやポール・ジアマッティという芸達者を配して、スリリングな会話劇としても成立してるんで見応えはある。

アメリカ映画には政治や選挙を扱って、面白く仕上がった映画が結構数あるが、翻って日本にはあまり見当たらない。特に選挙を描いたものが思い当たらない。
この映画もそうだが、選挙を扱った映画が面白いのは、アメリカ人が「選挙」自体を面白いと思ってるからじゃないか。
来るべき大統領選に備えて、民主党、共和党それぞれの党内で、ふさわしい大統領候補を選ぶのが「予備選」というものだ。
この過程は最終的に大統領が、共和党、民主党どちらから選ばれるのかという頂上決戦よりも、むしろ過酷な戦いとなるようだ。

この選挙の仕組みというのは、アメリカのメジャー・スポーツ(MLB、MBA、NFL)の戦いと同じ行程を辿るといっていい。アメリカ人の価値観の根底にあるのは「勝ち抜いて掴みとる」というものなのだろう。
1からスタートした候補者がいくつものハードルをクリアして、頂点を目指す。
支持者集会での決意表明演説から、対立候補とのディベート、対立候補に対してのネガティブ・キャンペーンと、その対応。それら一つ一つのステージがメディアに取り上げられる。


日本だと選挙というと、候補者が出揃い、投票日となり、その集計結果の当日しかテレビで中継されたりしない。有権者は、それぞれの候補者が、どういう風に戦ってきたのかという過程を知らないまま、人というより党で票を投じがちとなる。
基本、選挙というものに対して関心が薄いんだね。

アメリカのニュースなど見てると、予備選の盛り上がり方とか、日本では想像できない感覚がある。
候補者本人も「自分は長い戦いを勝ち抜いてきた」という自負があるだろう。

だからアメリカの政治家にしてみたら、日本のように国のトップの座を勝ち得たような人間が、簡単にその地位を降りてしまうなんていうのは、考えられないことだろう。
「必死で戦って勝ち得たものじゃないのか?」
「そんなにすぐ捨てられる程度のステイタスなのか?」と。
ここ10年くらいで、日本の政治家はアメリカから相当軽く見られるようになってしまったと思うぞ。
彼らは戦わない者には敬意を払わないからだ。

そして「戦って勝ち取る」ということが、スポーツと同義となるのは、選挙もまた「ゲーム」であるということだ。
ゲームであるからには戦略が立てられ、時には罠を仕掛けることも厭わない。足をすくわれた方が負けるのだ。


この映画のように、自らの下半身で窮地に陥る政治家は過去に何人もいる。
アメリカはキリスト教的倫理観が根強くある国だから、大統領候補者には「クリーン」であることが求められる。
だが反面、清廉潔白でホコリひとつ立たないような人物が、政治の舵取りを出来るとも思ってない所がある。
アメリカ人の「本音」と「建前」のせめぎ合いが、選挙というゲームの複雑な面白さの根底にあるように思う。
自らを徹底して演じられるという資質もまた、候補者には欠かせないのだろう。
そうして腹芸も鍛えられたアメリカの政治家に拮抗しうる日本の政治家はいるだろうか?

2012年4月6日

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