キャストもつながってるのだ [映画ハ行]

『ヘルプ 心がつなぐストーリー』

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なんと言ってもまずシシリー・タイソンが出てるということ。
エマ・ストーン演じる主人公スキーターが育った家の「ヘルプ」であり、彼女の養母のような存在のコンスタンティンを演じてる。
映画の最初の方でスキーターが高校時代を回想する場面がある。
彼女は容姿にコンプレックスがあり、プロム(卒業パーティ)の夜も誘ってくれる男子もいない。
沈んだ様子を気遣うコンスタンティンに

「私、学校で男子からブサイクって言われる」
「そういう時は自分の心に唱えるの、いい?」
「私は信じるのか?今日もバカな奴らが、私に投げつける悪口を」
「私は信じるのか?」
そして「あなたは美しいし、大きなことを成す人になるわ」

俺はこの場面で涙が出てきた。結局それ以上に泣ける場面はなかったんだが。

シシリー・タイソンは、南部に生きる黒人女性の肖像を、映画やテレビドラマなどで、幾度となく体現してきた、伝説の黒人女優だ。
そして彼女を起点に、チェーンのようなキャスティングが施されてるのも心憎い。

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まずシシリー・タイソンが1972年のアカデミー主演女優賞候補になった『サウンダー』という映画がある。これは1930年代南部の黒人一家の苦難を描いたもので、監督はマーティン・リット。
この人はアメリカ南部を舞台にした物語を好んで描いていて、彼の1983年の監督作『クロス・クリーク』に主演してたのが、今回スキーターにアドバイスを送る、ニューヨークの出版社の女性編集者を演じてるメアリー・スティーンバージェン。
彼女自身が南部アーカンソーの出身で、人権問題にも積極的に取り組む女優でもある。

その彼女がナレーションを担当した1990年の映画『ロング・ウォーク・ホーム』は、この『ヘルプ』の時代より少し前の1955年の南部が舞台で、公民権運動に目覚めた黒人メイドと、その雇い主である白人主婦の友情が描かれていた。
黒人メイドにはウーピー・ゴールドバーグが扮し、白人主婦を演じてたのが、今回レイシストの娘に冷ややかな視線を送る母親を演じてるシシー・スペイセクなのだ。

描かれるテーマに相応しい配役がなされているわけだ。彼女たちは、映画の外輪を固めるようなポジションにあり、その内側のアンサンブル・キャストを見守るようでもある。


1960年代初頭の南部ジャクソンの町が舞台。中心となるのは5人の女性。
スキーターは大学卒業後、故郷ジャクソンで新聞社に採用され、家事のコラムを任される。
家事のノウハウを友人の家の黒人メイド、エイビリーンに訊ねる。彼女は養母として、白人の子供17人を今まで、育てあげてきた。だが自分の息子は事故で失い、人生の光を失ってる。

エイビリーンの唯一の心の支えが、同じ「ヘルプ」として白人に仕えるミニーだ。料理の腕はピカいちで、ユーモアがあり、4人の子供たちを養う逞しい母親だ。
ミニーが仕えるのは、認知症気味の母親を引き取ったヒリーという主婦。
ヒリーはあからさまなレイシストで、黒人メイドには家のトイレを使わせず、屋外に専用トイレを設置するよう、コミュニティに働きかけるような女だ。
ミニーは敢えてヒリーのトイレを使い、その場でクビにされる。

職を失ったミニーは夫から激しい暴力を受けるが、そんな彼女を雇ったのが、シーリアという白人女性だった。
彼女はヒリーの元カレと結婚したことで、ヒリーから敵意を持たれており、地域の白人主婦のグループからもハブられていた。シーリアは元々、貧しい白人たちの住む地区の出なので、黒人への差別意識もないのだ。


物語はスキーターが例の「黒人メイド専用トイレ」の話に違和感を覚え、それまで自分自身あまり関心を払わなかった、黒人メイド「ヘルプ」の女性たちの心情を取材しようと思い立つところからスタートする。

17人もの白人の子供を、実の母親に代わって育てたエイビリーンの心情を推し量ると胸が痛む。
彼女はまだ幼い白人の少女に、何度も語りかける
「私は可愛い」「私はかしこい」「私は大切」
それはエイビリーン自身の祈りでもある。
実の母親より、自分になついている白人の子供も、大人になると、母親と同じように自分を差別するようになってしまう。自分が育て上げた子供に、差別を受けるなんて、どれほど悲しいことだろうか。
エイビリーンはだから子供に自尊心を植えつけようとする。自尊心のある人間は、むやみに人を差別などしない筈だと信じてるのだ。

エイビリーンがスキーターの申し出に、重い口を開き始め、そのことを知ったミニーは、
「そんなことをしたら職を失うばかりか、命にかかわるかもしれないんだよ!」
と最初は猛反発するが、すぐに気が変わる。
ミニーには自分たちが情報源と特定されることのない、ある「保険」となるエピソードを握っていた。
それは諸悪の根源たるヒリーに関するものだった。


屈折を抱えた女性像を繊細に演じ、ここ一番で迫力も見せるエイビリーン役のヴィオラ・デイヴィスと、シリアスなテーマでありながら、軽快な語り口に寄与してるミニー役のオクタヴィア・スペンサー、二人の演技が見ものであることには違いないんだが、女性にして「ヒール」役を一身に背負った感ある、ヒリーを演じたブライス・ダラス・ハワードも大したもんだ。
『50/50』の時もそうだったが、彼女は美人なんだが、敢えて憎まれ役を選んでるような所が、根性すわってるなと思う。

ちょっとエロくて屈託のないシーリアを演じてるのが、今年もう3本目の日本公開作となるジェシカ・チャスティン。
ブライス・ダラス・ハワードと彼女は何かルックスが似てるんだよね。本人たちも意識してるんじゃないか?二人が劇中パーティで一触即発となる場面は、そんなこと考えながら見てるとスリリング。

男たちは出てはくるが、全く影が薄い。もう居ないに等しいくらいだ。
そこでハタと思ったんだが、過去のこういう黒人への人種差別を扱った映画というのは、男たちが主導的立場にあったものがほとんどだった。

ここで黒人メイドを差別するのは、白人の女たちだ。南部の保守的な家庭に育ち、その地で結婚し、外に出ることなく、その地で暮らし続ける。
自分が親から教えられたように、メイドたちには接し、なんの疑問も持たない。
ヒリーの言動は極端と思いつつも、地域の主婦のつきあいの中で孤立したくはない。彼女たちにしてみれば、なんでわざわざ波風を立てるような真似をするのかというところだろう。

こうした意識も時間も滞った田舎の白人(女性)社会のグロテスクな風景を、皮肉をこめて見つめてるのも、今までの同種の映画のアプローチと異なってる。

エマ・ストーンに関しては、パンフのインタビューの中で、共演したヴィオラ・デイヴィスが鋭い分析をしてる。
「自分の美しさや才能がもたらすパワーを、まるで自覚していないような不器用さも含めて、彼女はスキーター役にピッタリ」だと。

2012年4月7日

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