イタリア映画祭2012『天空のからだ』 [イタリア映画祭2012]

『天空のからだ』

今年初めて通うことになるこの映画祭。もう12回目になるそうだ。過去の公式カタログも売られていて、それと共に、今まで映画祭で上映された作品のDVDも販売されていた。
俺はついこの間コメント入れたが、DVDレンタルで見た『輝ける青春』が素晴らしかったんで、ネットで探したんだが、どのサイトでも取り扱ってない。メーカーで製造終了となってるらしい。それがこの会場では売られてたんで、その場で購入。初日から幸先いいぞ。

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1本目となるこの『天空のからだ』の舞台は、南イタリアのレッジョ・カラビリアという町。
主人公は13才の少女マルタ。彼女は母親と姉とともに、10年暮らしたスイスから、この母親の故郷に戻ってきた。多分母親が離婚したんだろう。寒々とした灰色の風景が広がる町。
そこはカソリックの信仰が色濃い土地で、学校の授業も、キリスト教の教義を学ぶことばかりだ。

教会の宣教助手でもある、独身の女性教師サンタは、授業をクイズ形式にしたり、神を称える詞をポップソング風にして生徒たちに歌わせたり、飽きさせない努力は払ってるが、シャレの通じない頑迷さは、マルタを閉口させる。信仰を押し付けるような校風になじめず、友達もできない。

夜勤のために眠らなければならない母親に、つい甘えたくなる。
だが姉には「母親を疲れさせるな」と怒鳴られる。姉はなにかにつけマルタにきつくあたる。
まだ胸も膨らんでないのに、自分のブラを勝手に使うなと。姉も父親と別れ、環境が変えられてしまった苛立ちを、ぶつける先がなく、マルタに向かってしまうのだろう。

マルタは部屋を出て、屋上でひとりで過ごす。先に海を臨む町が一望できるが、いつ眺めていても目に入るのが、学校にも通わず、何かを拾い集めてる少年たちだ。マルタはしばしその姿を追って過ごす。

マリオ神父が、マルタたち家族の住まいを世話してくれたようで、月の家賃を徴収に訪れる。マリオ神父はそこで、近々選挙があり、特定の候補者に票を投じてほしいと、マルタの母親に話す。マリオ神父がアパート各階を回り、投票を呼びかける様子を、階段の上からマルタは見ている。

マリオ神父はこの地を離れ、いわゆる宗教の世界でいう「出世」を目指していた。神父が去るかもしれないことを嗅ぎつけた、宣教助手のサンタにはショックだ。彼女は神父のことが、神父としてではなく、好きなようだった。


教会での授業の時に、マルタは倉庫で何匹もの子猫を見つける。まだ目も開いてない。それはすぐに教師のサンタに見つかり、用務員の男がビニールに入れて、バイクで運び去る。
マルタは学校を抜け出して、走って後を追う。用務員の男は用水路の橋の上で、一度ビニールを地面に叩きつけた後、それを投げ捨てた。
マルタは用水路に下りていくが、道路の下の暗いトンネルで、誰かに声をかけられ、怖くなって立ち去った。

とぼとぼと道端を歩く姿を、車からマリオ神父が見かける。マルタを車に乗せ、授業をサボったことを叱責するが「丁度いいから手伝ってもらおう」と、車を山の方角へと走らせる。
町ではマルタたちが受ける「堅信式」が近づいていた。最近教会への、住民の集まりが芳しくないと感じていたマリオ神父は、キリストの磔の像を掲げれば、信者がより多く教会に通うだろうと、自分の故郷の教会にその像を取りに行くところだった。故郷の村はすでに廃村となってるらしい。

途中で昼飯に立ち寄った食堂で、マルタは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の意味を神父に尋ねた。マルタにはその暗号のような言葉の響きが気に入ってたようだ。だが神父は答えなかった。

マルタは急にお腹の下あたりに違和感を覚え、トイレに駆け込んだ。食堂の女性店員はそれを察して、
「初めてなのね?怖いかもしれないけど、素敵なことなのよ」
とドアの向こうから話しかけ、「これを使いなさい」とマルタに手渡す。
マルタはどう使えばいいのか、手にしてしばらく眺めていた。


神父とマルタの車は、険しい山道を登って行く。山に張り付くように民家が立ち並ぶ村に人影はない。
寂れた教会に入り、マリオ神父が磔の像を持ち去ろうとすると、男が掴みかかった。髪も伸び、ヒゲも手入れしてないような、その男の襟元には白いカラーが見えた。
男はマリオ神父に「お前だったか」と呟いた。

マリオ神父が場を離れた間、マルタは男から「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、神への怒りの言葉なのだと教えられる。イエスの「神よ、私を見捨てるのですか?」と問いかけた、その言葉が、マルタの心にはストンと落ちたような気がした。

磔の像を車の屋根に括り、高い海岸線を走ってる時、マルタは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の言葉の意味をマリオ神父に問いかける。その言葉に我を忘れたのか、一瞬ハンドルを切りそこね、車が横揺れした拍子に、磔の像は屋根からはずれ、はるか下の海に落ちた。


マルタを演じるのはイーレ・ヴィアネッロという少女。この映画で監督に見出されたようだ。いかにも可愛いという子ではない。だが「世界のすべてに違和感があってムカつく」という、この年頃の女の子が持つ、不安定さを体現してる。ごく薄い皮膜で覆われてるような心を扱いかねてる感じ。

その姿は、それゆえに美しく輝いている。
『ユリイカ』から『害虫』あたりの宮崎あおいがまとってた空気と同じものだ。


マルタが堅信式をやはり抜け出して、「友達の姉さんから借りた物だから、絶対に汚さないでよね!」と姉から借りた堅信式用の白いドレスを着たまま、あの子猫たちが捨てられた用水路を再び訪れる。
道路の下の暗いトンネル。マルタは水の中に入っていく。両手を広げながら。
膝までつかり、腰までつかり、水かさは胸の近くまで来てる。
マルタは教会などではなく、自分自身でもう一度「洗礼」を行ったのだろう。

用水路を抜けると海岸に出た。いつも物を拾い集めてた少年たちは、海岸に家を建ててたのだ。
マルタは声をかけられ、振り向くと少年がトカゲの尻尾を持ってた。
「まだ生きてるんだ。奇蹟だろ?」
その尻尾を手のひらにのせ、マルタは微笑んでた。


イタリア映画には海がよく出てくる。ラストの風景とかにも。この映画の海岸の場面は、フェリーニの『甘い生活』のラストを思わせる。夜通しバカ騒ぎを繰り返したマストロヤンニが、明け方の海岸で、視線の先に白いドレスの少女を見つける、あの場面だ。
出世や見栄えのことに気をとられてるマリオ神父、生徒に神の慈しみを説きながら、子猫の命には一瞥もくれない女性教師サンタ。その欺瞞を見つめるマルタの視線は、『甘い生活』の海岸の少女に重なるようだ。


アリーチェ・ロルバケルという女性監督が、似たような自分の体験を基に映画にしていて、女性ならではのヒリヒリするような感覚がある。
マルタが姉の誕生日に手製のケーキを焼いて、叔父の家族たちとの食事の場に並べるんだが、お世辞にもうまく焼けてるようには見えない。
姉も手をつけないし、誰も手をつけない。マルタの母親が思いあまって
「じゃあ、食べてみようかな」と手を伸ばす。
口に頬張って「とっても美味しいわよ」
マルタはその言葉に笑顔になるが、どこかバツの悪いというか、淋しげな笑顔だ。
イタリア人の気質で「まずそうなモンは食わない」ってことなんだろうが、食べてやれあの場面では、と日本人の俺は思う。

それからマルタが風呂場で、姉のブラを拝借してつける場面で、裸の胸が映される。
1993年の『かぼちゃ大王』というイタリア映画にこれと同じ場面があった。主人公も同じ13才の少女という設定。
2年後に岩波ホールで公開され、俺もその時見てるんだが、この映画はビデオリリース時には『私が愛した少女』というロリコン物みたいな題名に変えられてた。
小児精神科医の若い医者と、患者の少女の交流を描いたシリアスな内容で、この題名は噴飯ものと思ったが、その後DVD化はされてない。
少女の胸が映る場面がコードにかかるらしい。
それでいくと、この『天空のからだ』も一般公開は難しいかも。

しかしどちらの映画も監督は女性なのだ。その場面も日常のひとつの動作として撮ってるにすぎない。
この『天空のからだ』には性的な描写は一切ないし。
その場面を見て性的刺激を受ける人間もいるだろう。だがそれを言ったら、どんな描写でも、たとえば少女の首筋を映しただけの場面にでも、劣情を催す人間もいるだろうし、きりがないぞ。
それを指摘されることを恐れて、作品を封印してしまうとか、描写を控えてしまうとか、表現を自ら狭めてしまうことはバカバカしいことだ。

マルタが劇中で自ら長い髪をバッサリ切った後、彼女の表情が前より強くなる。そのあたりの少女の変化なども、鋭く捉えられていて、今現在は配給会社も決まってないようだが、一般公開が実現するといい。

2012年4月30日

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