イタリア映画祭2012『錆び』 [イタリア映画祭2012]

『錆び』

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前にこのブログで「イタリア映画祭」の鑑賞予定作を挙げた時に、チラシに書かれてたこの映画のあらすじから、内容を推測するに、幼年期に遭遇した恐怖体験のトラウマと、30年後に再び対峙することになる登場人物たちが、スティーヴン・キングの『IT/イット』を連想させると書いたんだが、実際見てみると、幼年期の共通体験のトラウマを、払拭できないまま大人になった幼なじみたちの、心のきしみを描いていて、むしろ『ミスティック・リバー』のテイストに近かった。
映画は1970年代の過去と、大人となった主人公たちの現在を交互に描いていく。


1970年代、北イタリアの小さな町。殺風景なアパートが立ち並び、荒涼とした空き地には、廃棄されたサイロと、鉄の廃材が積み上げられてる。それは鉄の洞窟のように、内部には空洞が広がり、通路が不安なほどに長く、奥まで延びている。
親から「あそこでは遊ぶな」と言われる子もいるが、アパートの子供たちにとって、そこは「秘密基地」そのものだった。

イタリアの子供たちの遊びは、驚くほど日本の当時の子供たちと似ている。
オニが壁を背にする「ダルマさんが転んだ」のイタリア版とか、メンコのような遊びにも興じてる。トカゲをつかまえて何匹もビンに入れ「生きた宝物」としてる。

そしてここの子供たちの中にも「大人社会」を写したような力学が働いてる。
ガキ大将のカルミネが、地元北部の子供たちを統率していて、南部イタリアから越してきたような子供たちはイジメの対象にされる。南部イタリアの人間は自分たちより貧しい者という、親の世代の偏見が、子供に伝えられてるのだ。

カルミネは、勝手に自分たちの秘密基地に入りこんだ、南部の子供たちを取り囲んで脅す。
「服を脱いで裸になれ」
少年ふたりは言われるまま、裸になり、嘲笑を浴びる。裸のまま外に出された少年たちは、空き地を走って帰って行った。すれちがった少女たちは、カルミネがなにか悪さしてると察して、鉄の洞窟へ。
残された南部の少女が裸にされる寸前で、止めに入った。

南部の子供たちには、彼らよりずっと年上の兄がいて、報復に来るだろうとカルミネは予想してた。
その兄が凄い剣幕で現われた時も、カルミネたちは、洞窟の内部を縦横に逃げ通し、相手の悔しがる顔を眺めて笑った。

『蠅の王』という、子供たちが残酷さを露にする闘争劇があるが、この映画の子供たちも、無邪気で汚れがないなどという描かれ方ではない。
カルミネが南部の子供たちを裸にさせるのは、性的な意味合いはない。屈辱を与えようという気持ちはあっただろう。
だが遊びの中で時として残酷な表情を見せる子供たちが、彼らの想像を絶する「悪」を目の前にすることになろうとは。


このアパートが立ち並ぶ、閉ざされたコミュニティのような土地に、ベンツを走らせてくる男がいる。ポルドリーニという名の若い医者だった。診療所が一つしかないこの土地に赴任してきたのだ。
町へ向かう道路脇を女の子が自転車を押して歩いている。ポルドリーニは声をかけ、町まで乗せていき、女の子を自宅まで送り届ける。親に挨拶を済ましておく。
「優しいお医者さんが赴任してきた」小さな町ではすぐに住人の耳に行き渡る。
赴任してからというもの、ポルドリーニに対して、子供の親たちからの評判は上々だった。

ベンツに乗るような住人はいないため、外で遊ぶ子供たちには、ポルドリーニのベンツはすぐ目につく。
それも空き地の真ん中とか、およそ用事もなさそうな場所で見かけるのだ。遠くから身を潜めて様子を眺めてると、車から降りてズボンを履き直したりしてる。
「あんなトコでウンコしてんのか?」子供たちは笑った。
「あいつ何かおかしいよな」
親たちからは、善良な医者と思われてるポルドリーニへの違和感が、子供たちの間には芽生えていた。


女の子の死体が空き地で発見された。どんな風に殺されたのか、子供たちには想像つかないし、その殺害が意味するところも察しようもなかった。
だがポルドリーニへの疑いは、子供たちの直感の中にあった。
親たちに話してもまともに取り合ってもらえない。子供たちはポルドリーニを注意深く監視するほかなかった。

ポルドリーニ自身の言動もおかしくなり始めていた。
カルミネのグループの一員で、内気なサンドロは、咳が出るため、母親に連れられ、診察を受ける。
ポルドリーニは「薬を飲めば、すぐに女の子と“ヤレる”ようになる」
と言い、母親は耳を疑った。
「遊べるようになる」と言う所を、ポルドリーニは無意識に言い間違えたのだ。
その場は取り繕ったが、サンドロは早速グループの子供たちに、その発言を報告した。

そしてまた犠牲者が出た。カルミネとサンドロたちは、自分たちの身は自分たちで守らなければならないと覚悟した。そんな矢先に、今度はカルミネの妹が姿を消した。


事件から30年後の現在、あの時の子供たちの中で、サンドロの描写に時間が割かれている。
サンドロは父親となり、当時の自分くらいの歳の息子と二人で暮らしている。

あんな事件を体験してるから、人一倍、子供には愛情を注ごうと思ってるようだ。父親に甘えたい子供に、思い切りスキンシップで応える。サンドロは自分の父親から愛情を受けなかった。
「早く大人になれ」が父親の口癖だった。息子とじゃれ合っていて、ついその口癖が出てしまう。
「早く大人になれ」
そしてスキンシップの延長で、息子を驚かせてやろうと、暗がりから吼えかかる時、脳裡にあのポルドリーニの姿が掠める。
「自分はポルドリーニじゃない、あんな怪物では…」

遊び仲間の女の子たちが殺されたあの時、どんな理由でポルドリーニが彼女たちを毒牙にかけたのか、その意味を知るのは、もう少し成長してからだったはずだ。
そして戦慄しただろう。世の中には子供を性欲の対象にする大人がいるということに。
その毒牙に自分がっかってたかも知れないということに。
そしてまさかと思うが、人の親となった今、自分の中にポルドリーニが潜んでいやしまいかということに。

直接に性的虐待を受けた人間でなくても、自分がごく身近で体験した、そのおぞましさのトラウマが、こういう形でべっとりと張り付いている。
作劇としては、過去と現在が何かのきっかけでリンクするという描き方にはなってないが、それだけに苦悩の深さが感じられる。


ただ演出としては、過去を描く場面で、弱いと感じる部分があった。
ポルドリーニ医師が、登場するそのノッケから「明らかにペドフィリアだね」と分かるような演出になってしまってる。
子供たちも住民も誰も見てない場面での妙な振る舞いとか、それは映す必要ないんでは?
その辺の思わせぶりな演出が、映画のテンポを悪くしてて、ちょっとタルい。

これは子供たちが、医者の裏の顔を少しづつ感じ取ってく展開なのだから、あくまでポルドリーニの姿は「子供視線」から描いていくべきと思うのだ。映画を見る側にも、段々と化けの皮が剥がれてく過程を見せてくようにね。

それと同時に、殺人など起こったこともないような小さな町で、いきなり女の子が殺害されるわけだから、普通は他所から来たばかりのポルドリーニを、住民は疑うだろう。
子供たちの警告に親が耳を貸さないのは、それだけ新任の医者を信頼してるってことだから、その部分をきっちり描いてないと説得力に欠ける。


なんで映画が「ひとりサイコ風」な描写に尺を割いたのか、その理由はポルドリーニを演じてるのが、フィリッポ・ティーミだからかも。
彼は『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』で、ムッソリーニと、その隠し子とされる若者の二役を演じてたが、敢えてアクの強さを前面に出してる感じのテンションの高さは、「イタリアのマイケル・シャノン」と呼びたい程だった。
そのフィリッポの、振り切れ演技を見せたいという意図があって、そういう場面を用意したんじゃないか?

でも映画の内容からしたら、昨年の東京国際映画祭で上映された、少年を何年も地下室に監禁してる保険外交員を描いた『ミヒャエル』の主演俳優みたいな、いかにも地味な見た目の方がよかったように思うのだ。

2012年5月4日

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