イタリア映画祭2012『七つの慈しみ』 [イタリア映画祭2012]

『七つの慈しみ』

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この映画は細かい説明を省いたような演出がなされている。だから見てるこっちも、自分なりに解釈してかなきゃならない部分が多い。二度見るとより明確になるように思う。
俺は一度見ただけでこの文章を書くので、解釈が違ってるかもしれない。もし後に間違ってたと気づいたら、読解力の浅さを形ばかりだが、恥じておくとする。
カラヴァッジオが「マタイによる福音書」を元に描いた宗教絵画『慈悲の七つのおこない』を、ストーリー展開にあてはめた映画となってる。


『旅人の歓待』

トリノ郊外に不法入国してるモルドバ移民の少女ルミニツァ。おそらく家族と、それを束ねるグループのもと、トレーラーハウスで暮らしてる。暮らすといっても、日中はトリノ市内に出て、スリや置き引きで得た稼ぎを、夜に戻って渡す。どういうことなのか、寝るのはトレーラーハウスではなく、バンの冷たい車内に入れられ、鍵をかけられる。
朝目覚めると、そのバンから出され、別の少女がバンに乗せられ出て行く。悲しげな表情だ。
その少女は町に売春に行かされてるのではないか?ルミニツァが同じようにされないのは、彼女が可愛げのない顔をしてるからか。
まずこの「キャンプ」の風景が暴力的というのか、犬のような生活ぶりだ。

同じトリノ郊外の幹線道路脇の、荒れ果てた空き地で、犬に餌をやる老人がいる。アルベルトという名で、一人で暮らしてる。喉には穴が開いている。自宅で痰の吸引をするため、吸引器が洗面所に置いてある。
いくつもの積まれたタイヤのホイールを業者が回収に来る。業者が帰った後、アルベルトは空き地で古タイヤを燃やし始める。日本だと違法行為にあたるが、そういう仕事を請け負ってるのだろう。肺が悪く見えるのは、その煙のせいか。アルベルトは体調が悪化し、病院に担ぎこまれた。


『病人の見舞い』

ルミニツァはどう当りをつけたのか、トリノの病院で、霊安室の職員の男とつながってる。駅の「3分間写真」で撮った自分の顔写真を持ち込む。
職員の男は、霊安室に運び込まれた女性の遺体と、ルミニツァの顔写真を見比べ「これがいいだろう」と言う。死者の身分証を取得し、イタリア人に成り代わろうというのだ。
だが職員の男は条件をつけた。
「赤ん坊をさらってこい」
誘拐した赤ちゃんの密売組織とつながりのある男なのだ。
金品を掠めるのは難しくはないが、赤ん坊は簡単にはいかない。

ルミニツァは霊安室を訪れたついでに、病室で置き引きを働くために、見舞い客を装う。病室から診察室に移される老人の留守になったベッドを漁り、金目のものを盗んでいく。
その老人とはアルベルトだった。
ルミニツァはアルベルトが退院する日に、後を尾けた。弱弱しい足取りの老人と、同じエレベーターに乗り込み、部屋の鍵を開けたのを見計らい、後ろから襲いかかった。
非力な老人に成すすべはない。ルミニツァは容赦なかった。頭を床に打ちつけ、老人が抵抗示さなくなると、縛り上げ部屋を見回す。
物置のような鉄の扉のある部屋にアルベルトを放りこみ、外からロックした。


『食物の施与』 

台所で適当に炒め物を作り、物置のアルベルトには手で食わせた。腹が減ってたのか、怒りからか、老人はガツガツとかきこみ、皿を放って返した。
当面の住まいも出来たし、あのトレーラーハウスから抜け出せるかもしれない。あとは赤ん坊だけだ。
ルミニツァは覚悟を決めた。モルドバ移民のグループの中に赤ん坊を抱えた少女がいる。
その赤ん坊を盗み出したのだ。


『飲物の施与』

アルベルトはいきなり赤ん坊を連れて戻ってきたルミニツァに驚く。だがアルベルトは肺を病んでいて、言葉を話しづらい。モルドバ移民のルミニツァも、イタリア語はよく解さない。
ルミニツァの子なのかすら老人にはわからない。
赤ん坊は泣き始め、ルミニツァにはあやし方がわからない。
「のどが渇いてるんだろう」
そう感じたアルベルトは、水を自分の小指につけ、それを赤ん坊の口にもってく。
赤ん坊はおとなしくなった。
強盗に家を占拠され、監禁までされてるが、アルベルトは赤ん坊のおかげか、少し心が和んだ。

ルミニツァは、霊安室の男に話をつけるため、アルベルトに赤ん坊を預けて外出する。
病院へ行くと、トレーラーハウスの移民の少年が、彼女を待ってた。ルミニツァのそばによくいた少年は、ルミニツァが赤ん坊を盗んで行ったことで、トバッチリを受け、顔に殴られた痕があった。
「見つかったら殺される」と。
ルミニツァは少年と別れ、アパートに戻ると、物置の扉が開いたままで、老人も赤ん坊もいない。
ルミニツァはパニックとなる。ほどなく帰宅したアルベルトに掴みかかる。
だが赤ん坊をどうしたのか、アルベルトは頑として口にしない。すべて水泡に帰した。


『衣服の施与』

なんの気力も起きずベットに横たわるルミニツァ。アルベルトは何を思ったか、彼女の靴を脱がせ、次にジーパンに手をかけた。だがルミニツァは反応しない。おぼつかない手つきでジーパンを脱がせると、今度は彼女の上体を起すよう、手振りで示し、彼女もその通りにする。
上着を脱がせ、シャツと下着だけになったルミニツァに、アルベルトは洋服タンスの中に畳まれた服を渡す。
「これを着なさい」
それは老人の妻が着てたものなのか、娘のものなのか、女らしい服に着替え、ルミニツァの表情も和らいでる。


『囚人の看護』

台所のテーブルに二人は向かい合わせに座った。ルミニツァは料理を作り、アルベルトが食べるのを眺めた。アルベルトは彼女の手をとり、フォークを持たせ、自分に食べさせるよう促した。ルミニツァは黙って従った。
風呂に湯を張り、アルベルトを入れてやると、身体を洗ってやった。
病院で看護士に身体を拭かれる時には、苦痛の表情を見せてたアルベルトは穏やかに目を閉じていた。
ルミニツァは痰の吸引を手助けし、アルベルトの喉に開いた穴に指を触れてみた。


『死者の埋葬』

部屋の中にもはや敵意は流れてなかったが、やがてアルベルトはまた具合を悪くし、入院することに。
ルミニツァは看護士に「身内のもの」と言って、アルベルトの病床に付き添った。
症状が治まったアルベルトは、ルミニツァに「ここから出してくれ」と言い、彼女は病院から連れ出す。アルベルトはそのまま彼女をある場所に案内する。


キリスト教の福音書をあてはめながら、この二人はどちらも宗教による癒しから遠ざかった人生を送ってる。
モルドバという貧しい国から移民してきたルミニツァは、生きるために他所の国で、なりふり構わぬ振る舞いをしてる。とても「歓待されるべき旅人」ではない。

俺がこの少女より目を奪われるのは、老人アルベルトの方だ。
彼は神の慈悲から遠ざかる生き方を、自ら選んできたように見える。もう随分と長いこと、家族の温もりなどに触れることもなくきたのだろう。

ロベルト・ヘルリツカという、両親はチェコ人で、イタリア国籍を持つ俳優が演じてるんだが、もうその顔に刻まれた皺の深さも凄いし、希望とかいったものを自ら拒絶するような光のない目も凄い。
この映画の撮影時は74才だから、今にすればそれほど歳でもないんだが、
「人生の末期」という佇まいそのものだ。

俺の父親も入院してるが、おんなじような身体つきしてた。肉がなくなると、身体を拭かれるだけで、神経にダイレクトにくるから、痛みが走る。
監督・脚本のジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ兄弟は、実際に自分の父親を看護した経験をベースに、この物語を作ったということで、そういう細かい描写はリアルだ。

ただ痰の吸引が必要ということは、呼吸器の働きが悪くなってるわけで、そうなると食べたり飲んだりして時に誤嚥(ごえん)といって、気管にものが入ってしまい、それが肺炎を引き起こすようになる。
なので映画に描かれてた、炒め物をガツガツ食べるようなことは無理なはずなんだけどね。
アルベルトはかなり症状も重そうだったし。

『七つの慈しみ』の中の最後の『死者の埋葬』だが、死者とは誰のことを指してるのか?普通に考えれば、余命いくばくもなさそうなアルベルトなんだが、映画の中で彼が死ぬ描写はない。
ルミニツァとモルドバ移民の少年がバスに乗ってるラストシーンに、その暗示がある。

敵同士のような存在として出会ったルミニツァとアルベルトが、最後に辿り着いたのは何なのか。
それは「赦し」ではないか。
互いに神も信じないような人生を歩んできた者同士が、互いに対して、何かを施すような行いをするに至り、自分の人生への「赦し」をそこに見出したように俺には思えた。


イタリア映画でありながら、ルミニツァを演じたオリンピア・メリンテなど、ルーマニア人キャストのせいでもないだろうが、どこかしら東ヨーロッパの映画の感触がある。
ルーマニア映画の『4ヶ月、3週と2日』や、監督がインタビューでも言及してる、ポーランドのクシュシュトフ・キエシロフスキ監督の作品、あるいはベルギーのダルデンヌ兄弟の映画を思わせもする。

ヨーロッパというのは日本人がイメージする以上に、国境でくっきりと国民性や文化や風土が色分けできるものでもなく、「地続き」という感覚があるんじゃないか?

にしても他所の国に「無断」で入って、傍若無人な振る舞いを見せるルミニツァのような存在に、共感を持つことは困難だ。
自分の生まれた国が生き難いといって、他所の国に逃れることは止むを得ないことかもしれない。
だがその他所の国も、願いを叶えられる国である保障などない。冷たい扱いを受けることも当然ある。
だがどんな状況が待ってようが、「人の家に上がる」際のマナーってもんがあるだろう。

しかし実際イタリアでは、ルーマニアからの移民の女性が、病院で介護士として働いているという。
介護士のなり手が足りず、インドネシアから試験を受けて来て貰ってる最近の日本と、同じ状況が生まれてるんだな。
それは自国民より安い賃金で、きつい仕事をこなしてくれるという事があるからだ。
移民の問題は難しい。今回のイタリア映画祭ではそのことを随分と考えさせられた。

2012年5月6日

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