なにがしたかったのかホアキン [映画ヤ行]

『容疑者、ホアキン・フェニックス』

容疑者ホアキン.jpg

突然「俺は俳優辞めてラッパーになる!」と宣言し、映画の表舞台から消えたホアキン・フェニックスの2年間を、義弟のケイシー・アフレックがカメラに収め続けたもの。フェニックス家とアフレック家はつながりあったのかと驚いたら、ケイシーがホアキンの妹と数年前に結婚してたんだと。
義兄に「おまえ、俺を撮れ!」というノリで決まったのかね。

熊みたいに太ってヒゲもじゃのホアキンが、俳優仲間や音楽関係のセレブに「俺ラッパーになるんだよ!」と、言って回る姿と、リアクションに窮する人たちを眺めてると、サッシャ・バロン・コーエンの『ボラット』なんかを思わせる。ボラットは作りこんだキャラだが、ホアキンは本人だし。

この映画一番のショットは偶然飛行機に乗り合わせたラッパーのモス・デフが、ホアキンから
「ボヘミアン・ラプソディをラップでやろうと思ってんだよ!」と言われ、
「あー、あっそう…そりゃすごいね…」
と一瞬ポカンとなるところ。

基本手のこんだ「ドッキリ」をやろうとしてるんだが、わりと早い段階から「ヤラセ」疑惑がアメリカのメディアでは囁かれてたようだ。「ドッキリ」なら最後にプラカード掲げてチャンチャンで終わるんだろうが、ホアキンはそれをするつもりはなかったんだろう。

このドキュメンタリーだか、モニュメンタリーだが何でもいいんだが、作品の中で、ホアキンのラッパーぶりがサマになってないというのが重要だ。
ホアキンはラッパーのパロディをやろうとはしてない。彼が書いたリリックは、韻はあまり踏まれてないが、自分の内面を照射したシリアスなものだった。
だがそれを音に乗せる、パフォーマーとしてのスキルが稚拙なんで、オーディエンスが乗ってこない。シラッとしたムードが会場を包んでしまう。
オーディエンスにしてみりゃ「ギャグならギャグで笑かしてくれよ」って感じなんだろう。

だがホアキンは『ウォーク・ザ・ライン』でジョニー・キャッシュのパフォーマンスを、声質に至るまで「完コピ」した男だ。2年間も費やしてるんだから、ラッパーのパフォーマンスを完コピすること位できただろう。
だがハナからそんなことをするつもりはないのだ彼は。
それをやったら俳優の仕事とおんなじになる。

ホアキンのこの作品におけるテーマは「ぶざま」であることで、徹頭徹尾そうあろうとしてる。
自分があらゆる局面で放つ「いたたまれなさ」を楽しんでる風情すらある。


映画の中で「ぶざまな人生」を演じることは普通にあるだろう。だが「アメリカン・ニューシネマ」に代表されるように、そこには「ぶざま」に見える「カッコよさ」が内在してしまう。
それも一種のナルシズムであって、ホアキンのやろうとしてることは、「ぶざま」さをそのままに見せることだ。
当初「ヤラセ」を疑ってたメディアも、段々シャレにならない印象を持つようになる。
そしてヘタなラップを晒す、元映画スターを嘲笑し始める。
日本でいえば「ワイドショー」の格好のネタであり、トーク番組でも、その風体を
「ユナ・ボマーと知り合いなんだって?」
などと揶揄される。ホアキンは笑われるがままに座ってる。

「演技もうまいハリウッドスター」として、それなりの扱いをしてきたメディアも、今は「トチ狂った人」としてその舌鋒は容赦ない。だが誰もホアキンがなぜこんなことをしてるのか、その彼の内面に慮る者はいない。
だがこの作品を見てる者には、それがおぼろ気にではあるが、つかめたりもする。


どんなにリアルに実像のホアキンを追ってるように見えても、「演技」してることは隠せない。
例えば、部屋でコカイン吸って、すっかりハイになったホアキンが
「ケツの穴の匂い嗅ぎたいから女を呼べよ!」
と言って、コールガールふたりを家に呼ぶ。
さっそくホアキンや、すぐにフル●ンになる同居人(名前忘れた)の男も素っ裸になるが、ホアキンは女の胸の谷間の匂いを嗅いでる。
「そこ場所ちがうだろ!」と俺はツッコむ。言ったならちゃんとやって見せろと。

あとマネージャーの金髪の男に暴言を吐く場面。
「お前の顔にまたがってクソしてやる!」
と言ったホアキンが、その金髪に「寝起きドッキリ」をかまされるんだが、その場面もちゃんと見えるように撮ってない。直後にホアキンが、絶叫しながら洗面所で顔洗ってる場面に変わってしまう。
はっきり書くと「言ったことを自分がされた」という場面なんだが、実際にされてみろと。

そのあたりの描写が回避されてしまってるのは、映画俳優という職業の、最後の一線は越えられなかったんだろう。
この作品の中では、努めてぶざまで下品で性格がねじくれてていざとなると緊張で吐くほど小心なホアキンが映されるが、それも演技であることに違いはない。

だがそれでもこの企画が単なる酔狂とか、「俺を嗤うヤツらをこっちが嗤ってやる」という手の込んだ企みであるとか、それだけでは済まされない切実さが、漏れ出てきてる。
「引っかかったのはお前らなんだよ!」というカタルシスがあるわけでなく、「笑ってすませてよ」という茶目っ気があるわけでもない。


俺はスポットライトを浴びる側の人間じゃないから、そこにどのようなストレスや葛藤があるのか、実感はできないが、ホアキンがこれをアトラクションのように作ってるわけではない、その生真面目さには打たれるものがある。

日本のアイドルとか、メディアに追い回され、つねに好奇の目に晒されてるような人たちが見ると、なにか本質的な部分で反応できるんではないか?
映画スターという「虚像」を演じる人間が、自らの「実像」を演じようとするが、メディアはその人の「実像」など何の価値も見出さない。だがネガティブな部分が見つかると、そこにはよってたかって食いついてくる。

スターという「虚像」を利用して儲けていながら、その人間の「実像」に関しては、プライベートをほじくり返し「所詮は自分たちと同じ愚かな人間」に陥れることで満足を得る。
週刊誌の表紙を飾ってもらって、部数を伸ばした翌週に、そのスターのスキャンダル記事を大々的に煽って載せることに、なんの倫理観の躊躇もない。
その人間の真実がどうであろうが、どうだっていいのだ。

そのメディアの冷酷さや、それに踊らされる大衆の浅はかさを、まさに「肉を切らして骨を断つ」覚悟で、2年間を費やし暴いてみせたホアキンは「漢」だよなあ。

2012年5月17日

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