フランス映画祭⑦女と男と育児を描く2作 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『理想の出産 』
『わたしたちの宣戦布告』

この2本の映画を、続けて見れるように上映スケジュールが組まれてたのは、考えがあってのことだろう。
先に上映された『理想の出産 』は、女性の妊娠がわかり、出産、そして子育てにいたるプロセスを、女性の本音に沿って描いてる。

『わたしたちの宣戦布告』は、出産に喜ぶ若い夫婦が、その後子供に脳腫瘍ができてることがわかり、看病と葛藤の日々を送るという、実話に則した内容のドラマだった。
スタッフ、キャストもまったく違うが、この2本を一組の男女の物語と捉えることもできるのだ。


『理想の出産 』

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この映画をを見た後にこの監督が男性と知って驚いた。
『わたしたちの宣戦布告』と同じに女性の手によるものと思い込んでたからだ。
男には窺い知れない出産にまつわる女性の本音が、あからさまなほどにてんこ盛りとなってる。

俺は当たり前だが、まず出産は経験できないし、結婚もしてないし、当然育児も経験ないし、この映画に関しては、門外漢な要素が、ミルフィーユのように積み重なってるわけだが、そんな俺でも相当面白く見れてしまったのだから、演出と脚本がよく練られてるってことだろう。

だから出産を経験した女性が「あるある」ネタとして共感持って見れることはもちろんだが、むしろ男性にこそ積極的にアピールすべき内容だと思う。

俺は見てないけど、『アデル/ファラオと復活の秘薬』で冒険ヒロインを快活に演じてたという、ルイーズ・ブルゴワンが、大きなおなかのボディスーツをつけて熱演してる。
ベッドから降りる時にどういう体の動かし方をしなきゃならないのか、とかその大変さがわかる。

おなかが大きくなり始めると、夫の方もいろいろ気が引けてくるらしいが、映画によると、妊娠中はホルモンの働きも激しくなるんで、性欲も一時的に増すんだそう。
ルイーズ・ブルゴワン演じる大学院生バルバラが、ランチの店で女友達と「ヤリた~い!」みたいな会話を交わしててウケた。


身体だけでなく、メンタルな部分でも不安定になったりする。夫にいろいろ話しを向けるんだが、どうも噛みあわない。
「男ってどうしてすべての問題にかんして、簡単に流してしまうんだろう?」
このセリフは核心を突かれるようでドキッとするね。
そのほかにも吹き出すようなセリフが散りばめられていて、もう一度見直したいくらいだ。

いまは出産前に性別がわかってしまうが、バルバラが夫のニコラに
「医師には、出産前に私に言わないでと頼んでおいて」
と話してたのに、ニコラはすっかり忘れて、女医があっさり
「ほら画像見て、女の子よ」と告げるんで
「出産前に知りたくないって言ったでしょ!」
とバルバラがキレて、夫と女医が気まずい顔をする場面とか、細かい描写にも実感がこもってる。

いよいよ陣痛がはじまり出産という場面に、夫のニコラも立ち会うんだが、浮き足立っちゃってるんで、足を覆うビニールは頭に被っちゃってるし、いきんでる妊婦の顔を冷やすためのスプレーを、看護士に手渡されて、自分の顔に吹き付けて「いや彼女に」とか言われてるし、妻の絶叫とともに、胎児が外に出始めるのを見て卒倒してるし、この場面は、ニコラを演じるピオ・マルケルの振る舞いに場内爆笑だった。
笑い事ではないんだろうが、出産場面でこれだけ笑いを取れるというのが凄い。


ここまでは「あとのことは出産してから考えましょー」的な勢いで、主人公たちとともに、映画も軽快にすっ飛ばしていくんだが、産後にバルバラは「マタニティ・ブルー」のような状態に陥っていく。

しかしあれだけおなかが膨れて、しかも体から「生命」を産み落として、そんな身体が元の形に戻るもんだろうか?
そこんとこも言及されていて、「器官」の形状が変わってしまうケースもあるという。
バルバラもイケメンの医師から、普通にそんなことを指摘されてた。
いづれにしても「女体の神秘」である。

育児に入り、バルバラと夫のニコラの間のズレが大きくなっていく。
バルバラは「母乳」で育てることにこだわり、そういう集まりにも通うようになる。「母乳で育てる母親の会」みたいな所で、啓発セミナーっぽい。
バルバラが名乗って「ハ~イ、バルバラ」って応えるあたりは、アル中患者の会に似てるよ。
「あなた、それはすばらしいことだわ」
と集まった母親たちが語りかける、その笑顔がとり憑かれてるみたいで怖い。


この映画を見てると、この世の中で、男にできて女にできないことは、ほぼないと思うが、その逆は確実にあるんでね。男はどんなに逆立ちしたって「生命」を体から生み出すことはできない。

男が経済活動であれ、芸術活動であれ、身体能力を競う場であれ、料理の味を追求することであれ、とにかくその活動に血道を上げる、その源は、「生命」を生み出すということが叶わない、そのことへの「擬似出産行為」ではないのかと思いたくなってくる。

それは突き詰めれば「自らの痕跡」をこの世に残したいということであり、子供というのは、自分の血の継承者ではあるんだが、自分のおなかの中でゼロから育み、養分を与え、胎児に語りかけながら、その結晶である「作品」を、自ら産み落とす。そういうことができないわけだからね。

この映画は、出産を通して女性の身体と心に起こる変化を、「はしたない」と思うことでも臆せず描くことによって、男性にも当事者の意識をもっと高めてもらおうという意図があるのだろう。

それと同時に、出産から育児へと移った時に、母親となった女性が、いかに夫に疎外感を持たせずに、赤ん坊に向き合わせることが大切かということも描いている。
ユーモアを散りばめて見やすく作られてはいるが、語られてるものは深い。



『わたしたちの宣戦布告』

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本作のユニークさは、これが当事者による「再現ドラマ」であるという点だ。
監督・主演のヴァレリー・ドンゼッリと、共演のジェレミー・エルカイムは実際の夫婦だった。
劇中ではジュリエットとロメオという役名に変えてある。

若者たちが集うクラブで、ひと目で惹かれあった二人。愛を育んだ二人には、やがてアダムという名の男の子が。順調に成長してるかに思えたが、異変は少しづつ顕著になっていった。
ミルクを飲ませても、全部吐くようになる。18ヶ月になっても、足が立たない。

診断した女医はアダムに呼びかけて反応を見る。
「右目の瞳が動いてないわ」
身体も少し傾いでるという。指摘されるまで、若い夫婦は気がつかなかった。

精密検査が必要と言われ、ジュリエットの親族にツテがある、マルセイユの病院に向かった。
ジュリエットはそこでショッキングな診断を下される。
ロメオは新居のアパートの壁の塗り替えを、友達に手伝わせてやっていた。
医師の説明を聞くジュリエットの表情と、友達と気楽に仕事を進めてるロメオとの落差が残酷だ。

「アダムは、脳に腫瘍がある」
ジュリエットからケータイに連絡が入り、ロメオはその場で慟哭する。
両親にそのことを告げ、パリからマルセイユへと急行するロメオ。

この映画はテーマの深刻さに引きずられないようにと思ってか、アクション映画のような、動きのある演出が施されている。


「手術で腫瘍は取り除ける」と聞かされ、マルセイユで手術するか、パリにいる、小児外科の名医を頼るか、二人の意見は割れるが、結局パリの名医に委ねることに。

だがその病院に入院したものの、スタッフからは、その医師が執刀するとは限らないと言われ、夫婦は動揺する。空くと言われた病室も、別のスタッフからは違うことを言われ、ジュリエットのストレスも頂点に。
ロメオは「攻撃的な態度を見せちゃ駄目だ」と諭し、病院側と冷静に交渉し、なんとかアダムと同じ部屋に寝泊りできるようにした。
このあたりの病院とのやりとりは、俺も経験あるし、リアルだった。

いよいよ手術の日。二人はまだ親の言葉を理解できないアダムに、かけられる限りの愛情を込めた言葉で送った。ここは涙出てくるよ。

7時間に及ぶ手術。執刀した小児科の名医は、夫婦を部屋に呼んだ。
「手術は無事成功しました。後遺症もないでしょう」
二人に安堵の表情が。
「だが、腫瘍は悪性でした。再発もあるし、最低5才までは生きられるとしか今は言えません」

ジュリエットとロメオは、病院の外に集まってた互いの家族たちに「手術は成功したよ!」と告げた。
抱き合って快哉を叫ぶ家族たちを眺めながら、ロメオは妻に言った。
「強くなろう、ジュリエット」


それから若い夫婦は、子供の闘病とともに、自分たちも強くなろうと、覚悟を決める。
それが彼らの「宣戦布告」なのだ。
だがアダムの脳は、さらに治療の困難な腫瘍ができ、いつ終わるともわからない看病の日々に、二人は次第に疲弊してくる。

クラブ通いを再開したり、友達とバカ騒ぎしたり、二人は努めて日常を屈託なく過ごそうとする。
子供はずっと病院の中にいる。看病するといっても、家族にできることは限られてるのだ。その空白に何もしないでいると、「子供の病気」のことばかりが、心を侵食していってしまう。
そういう日々に抗うように、若い夫婦はハメをはずそうとする。

子供との闘病生活が始まる当初、無心論者の二人は神に祈ろうとする。だがジュリエットの祈り方を見て、ロメオは「そんな祈り方じゃ駄目だ」と言う。

闘病を見守る日々が長引き、二人の生活からも笑顔が消えてしまった時、ロメオはふと
「なんで僕らの子供がこんな目に?」
と呟く。ジュリエットは
「乗り越えられると(神様が)思うからよ」

おぼつかない祈りを捧げてた彼女の内面が変わったと、見る者に悟らせるセリフだった。
自分たちは試練に打ち克てるかわからない。でも、そう思ってくれてるはずだと。
この二つの場面が対となってるように思わせる、その脚本もいい。


この映画は音楽の挿入の仕方もユニークで、それはジェレミー・エルカイムの、音楽的知識の豊富さによるものと、監督のヴァレリー・は述べてた。
クラシックのほかにも、アダムが手術室に運ばれる場面は、多分なにかの映画音楽が使われてた。雰囲気としてはイタリアのマカロニか活劇系のものだと思うが、俺は何の映画の曲かはわからなかった。

なんといっても感心したのは、夫婦で観覧車に乗る場面で、ローリー・アンダーソンの『オー・スーパーマン』が使われてたことだ。
彼女はテクノの時代でも、その前衛的なアプローチで異彩を放ってたアーティストで、留守電のメッセージのような歌の調子がインパクト残した曲だった。
この曲が流行った当時は、曲のユニークさにしか関心向かなかったが、この映画で、歌詞が父親と母親の心情に、痛いほどフィットするもんだと、初めて知らされた。
ここは名場面だと思う。

劇中のジュリエットとロメオは結局は別居する道を選ぶことになるんだが、それは実際の、ヴァレリー・ドンゼッリとジェレミー・エルカイムの関係を反映してる。

それだけに別れた後も、こうして自分たちを振り返って、ふたりで脚本を練って、ふたりで演じて見せるというのは、勇気もあるし、こういうつながり方があってもいいと思わせる。

トークショーに二人で登壇したヴァレリーとジェレミーは、晴れ晴れとした表情をしていた。
彼らの表情の意味するところは、映画のエピローグで明かされる。

2012年6月28日

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