日米「森のアニメ」を見る② [映画マ行]

『メリダとおそろしの森』

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『おおかみこどもの雨と雪』を見た後に、同じシネコンでハシゴしたんだが、初日なのに客が少ない。
「おおかみこども」の半分も入ってなかった。
ディズニー/ピクサー作品としては、従来のものと違ったアプローチで臨んでいるように思えた。

中世のスコットランドを舞台にしていて、城や自然の景観など、かなりリアルにCGで描きこんでる。
森に囲まれていて、森というのは昼間でも鬱蒼として、うす暗いから、このアニメは明るい光をあまり取り入れないように描いてる。

メリダの父親は国王だが、当時のスコットランドの城は、煌びやかでもなく、内部の装飾も質素なものだ。この城と森の描写がほとんどなんで、つまりはカラフルな色が乱舞するような、いままでの作品とは印象が異なる。

赤毛のカーリーヘアのヒロインというのも思い切った。赤毛はスコットランド人よりも、アイルランド人に多いのだが、いずれにせよ、それにジャガイモみたいな輪郭のルックスなのだから、ヴィジュアル的にも一般ウケは難しいと思われるが、見てくうちに愛着感じるようになってくる。

ディズニーで「プリンセスもの」となれば、彼女の窮地を救ったり、恋のお相手となる王子とか、イケメンとか出てくるものだが、そういう二枚目キャラもなし。
メリダの母親エリノアが、おてんば娘に王女の自覚を持たせようと、勝手に結婚話を進めてしまうんだが、候補として城を訪れた近隣領主の長男3人は、いずれもボンクラなキャラなのだ。

さらに言うとメリダの冒険の物語を盛り立てるような「賑やかし」キャラも出てこない。メリダの歳のはなれた赤毛の三つ子が、ヤンチャぶりを見せるが、正直かわいくない。
意図的に「この要素を入れとけばウケる」というものを、外していってるとすら思うのだ。

音楽もスコットランドの伝統音楽的なムードを持たせており、パンフに掲載された監督のコメントには
「このアニメは、単にアニメを見るということではなく、スコットランドを見るというものにしたかった」とある。
作り手の思い入れはわかるとして、だが見に来た子供たちはスコットランドを見に来たわけじゃないだろう。
俺の席のまわりの家族連れの様子を覗っても、子供たちの反応が薄い感じがした。
笑い声とかほとんど聞かれない。

いろんな意味で過去のディズニー/ピクサー作品の定石を破ろうという、作り手の野心的な試みは、大人の観客には伝わる所があるだろうが、それにしては肝心の「物語」が、野心とは縁遠い、古色蒼然とした展開なのは痛い。


王女としての気品と振る舞いを身につかせようとする母親エリノアと、それに反発するメリダの「親子の揉め事」に始まり、結局はそこから話が広がっていくことがない、この「内々な」感じはどうしたものか?
ついには親子で大ゲンカとなって、メリダは家宝のタペストリーを切り裂いて、家を飛び出し、母親も思いあまって、メリダの大切な弓を、暖炉に投げ込んでしまう。

森に彷徨いこんだメリダは、青白く光る鬼火を見る。
幼い頃に「鬼火は運命に導いてくれる」と聞かされていたメリダは、その後を追うと、森の中に不意に「ストーンヘッジ」が現れる。
無数の鬼火が道を照らし、導かれていくと、森の奥には小屋があり、そこには魔女が住んでいた。

メリダは自分を自由にさせてくれない母親の束縛から逃れたいと、
「運命を変える魔法をかけてほしい」と頼み込む。魔女は
「これを母親に食べさせなさい」と、小さなケーキをメリダに渡す。


メリダは城に戻り、母親エリノアに「謝罪のしるしに自分で焼いた」とケーキを差し出すが、それをひと口食べたエリノアは、突然苦しみだし、気がつくと大きなクマに姿を変えていた。
「大変だ!こんな所をパパに見られたら!」
父親の国王ファーガスは、まだメリダが小さな頃に、城を襲った巨大なクマと格闘し、片足を失う大怪我をしてたのだ。
モルデューと呼ばれたそのクマには逃げられ、以来目の仇のように思ってる。

クマになった母親をなんとか城から連れ出して、メリダは魔法を解いてもらうために、再び魔女の小屋を訪れるが、魔女の姿はなく、
「2度目の夜明けを迎えると、魔法は永遠に解けなくなる」との置き書きが。

魔法を解く鍵となるメッセージも書かれてたが、具体的にどうすればいいのか見当がつかない。
途方に暮れたメリダとクマのエリノアは、森で一夜を明かすことに。


クマとなった母親は空腹を覚えるが、獲物の取り方などわからない。メリダは手製の弓と矢で、川の魚を射抜いて母親に渡した。
そのうちクマのエリノアは川に入り、自分で魚を取ろうと奮闘し始めた。
生の魚を食べ、獲物を狙う目つき。母親エリノアは、野生のクマに変貌しつつある。
焦ったメリダは、自分が切り裂いてしまったタペストリーに、魔法を解く鍵が隠されていることに気づく。

だがそんな二人の前に、以前ファーガスの片足を奪った、あの凶暴なクマのモルデューが現れた。
メリダを噛み殺そうと襲いかかるモルデューに、母親エリノアは果敢に立ち向かった。
野生のクマの迫力そのままに。
死闘の末、モルデューはストーンヘッジの下敷きとなり、果てる。

身を挺して自分を守ってくれた母親。口うるさいだけの母親と思っていたメリダは、その母の愛に身を震わせた。
2度目の夜明けまで残された時間は僅か。メリダは母親とともに、再び城を目指した。

ジブリを思わせるような日本題名から、勝気な王女が森で敵と戦いながら成長していく、みたいな物語なのかと、勝手に想像してたんだが、そういう意味では、観客の予断をはぐらかすような、このストーリー展開も、定石を破ったものと言えなくもない。


人間がクマに変えられるという話は、前にもディズニー・アニメにあって、偶然にも俺は公開当時に見に行ってる。2003年の『ブラザー・ベア』だ。

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何で見に行ったのかというと、俺は動物の中ではクマとゴリラが好きなのだ。
クマが主人公と聞くと見たくなってしまう。
同じディズニーの着ぐるみ実写映画『カントリー・ベアーズ』も見に行った。

でその『ブラザー・ベア』だが、最初は画面がビスタサイズなのだ。主人公がクマに変えられて、森で生きてくことになる、その場面から画面がシネスコに広がっていく。
森の描写に力が入っていて、目の前に深い森がバアーッと広がってくのが爽快だった。

元は人間の青年だったクマは、母親を失くした子グマと出会い、一緒に旅を続けるのだが、やがてその母グマを猟で仕留めたのが自分だったと知り苦悩する。

この『メリダとおそろしの森』の、クマになった母親とメリダが森で過ごすくだりは、
『ブラザー・ベア』の変形といえる。

「親と子が互いの気持ちを思い図って、和解に至る」という、そのちんまりした話の畳み方がなあ。
ここ最近のピクサー作品は、なにかジブリと同じような道を辿ってるというか、同じ壁に直面してる気がする。それは「物語の弱さ」だ。


俺はジブリのアニメは『風の谷のナウシカ』から、ずっと劇場で見てきてはいる。
だが近年のジブリは「昔のジブリ」を超えられない状態が続いてると思う。

『もののけ姫』は宮崎駿監督としても最大の野心作だと思うし、あの作品から何か大きなメッセージを込めようという、そういうストーリーに変わってきてる。
だが込めたいメッセージの方が強くなって、物語自体がうまく畳み切らなくなってる。

特に『ハウルの動く城』以降は、どれも終わり方がぼんやりした感じで、なんというか見てる側に残尿感を抱かせる。
宮崎駿監督は「子供に見てもらう」とこを主眼にしてるはずなんだが、テーマが子供には呑み込めないレベルに来てしまってる。
息子の宮崎吾郎監督になると、もはや子供に見てもらうことは想定してないようにも思える。

「ジブリだから見に行こう」という家族連れの観客は、「ああ、面白かったね!」と素直に言わせてもらえず、なんかぼんやりと劇場を出てくることになる。


ピクサー作品は、抽象的なメッセージこそ込めてはいないが、物語に新鮮味が薄れてきてると思う。

『カールじいさんの空飛ぶ家』も、冒頭10分の描写は高く評価されたが、物語は『春にして君を想う』というアイスランド映画の設定を、借りて作ったような所があった。
『カーズ2』は見てないが、公開当時はピクサーにはあまり無かったほどの酷評が並んでた。

今回いくつか共通点のある『おおかみこどもの雨と雪』と『メリダ』をハシゴしたわけだが、ディズニーに代表されるアメリカの家族向けアニメは、その物語の保守性を破ることはできないようだ。

直接的な描写はないが、おおかみおとこと、人間の女性が肉体関係を持つことを、はっきり提示してる『おおかみこども』のような物語の語られ方は、アメリカではあり得ないと受け取られるだろう。

だが細田守監督の主眼はそこにあるわけではないし、「子供に見せるから子供向けに」という考え方でもないのだと思う。
アニメで伝えられる物語の枠を広げて行きたい、そんな意気込みが感じられるのだ。
対して今回のピクサー作品には、意気込みはあるものの、その方向性が若干ズレてはいまいか?と思ってしまったわけだ。

2012年7月22日

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