隠し砦の白雪姫とジブリの森 [映画サ行]

『スノーホワイト』

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グリム童話の「白雪姫」がけっこう陰惨な物語だということは、すでに知られてる通りで、この映画も、いわゆる「ディズニー」的なアレンジではなく、原作の基調に忠実なダーク・ファンタジーに設えてある。
その暗さやシリアスさを牽引してるのが、シャーリーズ・セロンだ。若さと美貌の維持に執着し、継娘スノーホワイトの心臓を奪おうとする、王妃ラヴェンナを、エキセントリックに演じている。

キャスティングに関しては、当初はシャーリーズ・セロンの王妃より、スノーホワイトを演じるクリステン・スチュワートの方が美しいという設定には疑問の声が上がったほどに、シャーリーズは確かに美しいのだ。
ベテラン女優らしい、見栄の切り方も熟知した演技で、序盤は彼女の映画となってる。
だが彼女の演技も、その美しさの表現も、なにか映画を突き抜けるような、そういう迫真性は感じられない。

クリステン・スチュワートは、演技経験も、シャーリーズとは比較できないほどに浅いし、感情表現も一本調子に思う。
だがここが残酷な所だが、クリステンの、女優として戦う術をまだ身につけてないというのか、その無手勝流な「若さ」が、皮肉にも映画の枠をはみ出すような美しさとなって、こっちに迫ってくる。

俺は別に彼女は好きでも嫌いでもないという立場だが、泥まみれになって、幽閉された城を脱出し、恐ろしいガスの充満する「黒い森」で朦朧と彷徨う彼女を、美しいなと思った。
「若い」という野生の美があったのだ。

それはカメラによる所もあるかもしれない。シャーリーズ・セロンを撮る場面は、フィクスして、アップでも過剰に寄らず、きっちり画面に収めてる。
対してクリステンを撮るカメラは大胆に寄りの画をおさえたり、表情の生々しさを捉えようとしてる。
「芝居を撮るか素材を撮るか」という違いが感じられるのだ。

これが例えば王妃ラヴェンナを別の女優が演じていて、「若さには敵わないわよねえ」なんていう感じで、王妃の滑稽さを滲ませるような余裕の演技で見せていれば、また印象は違ったかもしれない。
シャーリーズは、そういう腹芸抜きに、王妃自身の過去のトラウマと、美への渇望をマジに演じてしまうんで、女優と加齢というテーマが、役の世界以上に際立ってしまってる。
「おとぎ話のはずなのに、シャレになりませんね」ということだ。


この映画が「気楽にファンタジーを楽しもう」と思うとアテが外れるのは、役者たちと個性の「濃さ」にもある。
王妃ラヴェンナの弟フィンを演じるサム・スプルエルは、イギリスのテレビドラマの世界でキャリアを積んできてる役者だが、ポール・ベタニーを思わせる「白い顔」で、クセの強い悪役ぶりを見せる。
その表情演技は迫力があった。

この映画の最大の収穫は、原題にある「白雪姫と狩人」の狩人役、クリス・ヘムズワースだろう。
『マイティ・ソー』を見た時には別段どうとも思わなかった役者なんだが、印象が変わった。

この映画ではもう方々で指摘されてるが、黒澤時代劇における三船敏郎を彷彿とさせる風貌であり、役どころなのだ。これがハマってる。
姫を守りながら城を目指すというのは『隠し砦の三悪人』であり、途中で出会う7人の小人たちは、あの映画の千秋実と藤原鎌足の役回りだ。

『隠し砦』だけでなく、スノーホワイトと狩人が、葦で覆われた、女たちだけの水辺の村を訪れるくだり。
ここがフィンたち追っ手に焼き討ちにされるんだが、その場面で姫を守って戦う狩人の姿は、
『七人の侍』で、燃え盛る水車の前に、置き去りにされた赤ん坊を、抱きかかえた菊千代が
「この赤ん坊は俺だ!」と叫ぶ、あの三船敏郎の名芝居の場面を思い出した。


7人の小人たちを、ボブ・ホスキンズ、イアン・マクシェーン、エディ・マーサン、レイ。ウィンストンといった、イギリスの渋い名優たちに演じさせてるのが贅沢!
しかもCGによって、本当にあの体形に違和感がない。演じた本人たちが、出来上がった画を見て、一番喜んだだろうね。

彼らは映画の後半は活躍の場も多いのだが、この『スノーホワイト』のパンフには、キャラと出演者の紹介ページはおろか、その全身を写した場面スチルすらない。
差別表現かなにかに配慮でもしたんだろうか?そういうことが余計なんだよ。

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アメリカ映画界では「小人症」の俳優たちが、映画などでキャリアを積める環境ができており、そういう人たちを画面に出すことが差別につながるなどという考えは、逆にその人たちの労働する権利を奪うことになる、そう捉えられているのだ。しごく真っ当な考え方だと思うよ。

むしろこの映画で問題にするとすれば、「小人症」ではない役者にCGを施して、そういう役を演じさせたという点だろう。だって仕事の機会を奪われたわけだからね。

ピーター・ディンクレイジやジョーダン・プレンティスといった、顔の知られた役者もいるのに。
競作となったジュリア・ロバーツ主演の『白雪姫と鏡の女王』には、小人役として、そのジョーダン・プレンティスが出てるんで、そちらの方はCG処理とかではないのだろう。


『スノーホワイト』は役者たちの演技も含め、けっこうシリアスなアプローチで臨んでるわりには、スト^リーには粗も目立つ。
スノーホワイトには幼なじみのウィリアムがいる。幼い頃、王妃の手勢の者に拉致されたスノーホワイトを助けることができなかったウィリアムは、長じて弓の名手となり、王妃に抵抗する公爵の息子として、幾度となく王妃の軍隊に奇襲をかけていた。

ウィリアムはスノーホワイトが、幽閉されてた王妃の城を脱走したことを伝え聞いた。
そして王妃の弟フィンが組織する追っ手に、弓の名手として身分を隠して加わろうとする。
弓の腕前を認めたフィンは、一隊に加える。

そこがまずね。ウィリアムはそれまで再三、王妃の軍隊を襲ったりしてるわけで。なんでフィンは疑いもなく、隊に加えるのか?
葦の村で追っ手が襲撃かけた時も、ウィリアムは追っ手の兵隊に弓を射掛けてる。
しかしそこでもバレずに、なおも一隊に加わってるのだ。
フィンは狡猾なキャラに設定されてるが、これじゃ「節穴」。

そしてウィリアムに関連して、王妃ラヴェンナの魔法の効力の実効性もはっきりしない。
ラヴェンナはスノーホワイトが、脱走して「黒い森」に逃げ込んだと聞かされる。
「あの森では私の魔力は通じない」と言ってたから、弟に追わせるのはわかる。
逆に言えば、森を抜ければ、魔力でどうとでもできるという事だ。

スノーホワイトと、ウィリアムが、再会を果たしたあと、そのウィリアムに化けて、スノーホワイトに毒リンゴを齧らせる場面があるんだが、ラヴェンナは何でウィリアムがスノーホワイトと再会したことを知ったんだ?
二人が幼なじみだということは、小さい頃一緒に遊んでるのを見てたかも知れないから、認識してたとしても。

弟のフィンが、ウィリアムの素性を知った上で、追っ手に加え、スノーホワイトと再会させておいて、姉の王妃にそれを伝える。そこまで企んでたという解釈もできるが、残念ながら、王妃に知らせる前に、フィンは狩人と戦って殺されてるのだ。


その王妃ラヴェンナが、自らの若さと美貌を保つために、少女たちの生気を吸い取って、いわば「死をもたらす」存在なのに対し、スノーホワイトは「生命をもたらす」存在に描かれている。

スノーホワイトとその一行が、黒い森を抜け、妖精たちの「聖域」という森に足を踏み入れると、森の花や生物たちが一斉に芽吹き始める。痛風だなんだと体の悪かった7人の小人たちも、すっかり具合が良くなる。それは彼女のおかげなんだと。

だがそのわりには、追っ手の矢で射抜かれた小人の一人を、死から救うことはできなかったり。
なんか設定がぐらついてないか?

とまあシリアスに作ってる分だけ、気になる所も出てきてしまうが、俺はジブリの影響も感じられると言われる「黒い森」の描写とか、その色のない世界から、妖精の森がどんどんカラフルになってく描写とか、色彩設計に力が入っているのが、見てて楽しかったのはたしかだ。

2012年7月27日

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