押し入れからビデオ⑰『監督ミケーレの黄金の夢』 [押し入れからビデオ]

『監督ミケーレの黄金の夢』

ナンニ・モレッティ イタリアが笑う.jpg

このブログでは「イタリア映画祭2012」の時にコメント入れた、ナンニ・モレッティ監督の新作
『ローマ法王の休日』が、一般公開されてるが、やはりあのエンディングで途方に暮れてる人は多いようだ。
「新しいローマ法王に選出された司教が、そのプレッシャーに耐え切れず、バチカンを脱け出して、ローマの町で過ごすうちに、自分を見つめなおすヒューマン・コメディ」
というような体裁の予告編をバンバン流した、ギャガによるミスリードが効いてるね。
あの予告からあの結末は想像つかんよ。

こういう状態のことを俺は「感動難民」と呼んでる。
感動できそうな予告編につられて見に行って、映画のエンディングで取り残されてしまうような観客を指す。『ツリー・オブ・ライフ』の時にも大量の難民が生まれてたようだが。

難民にならないためにはどうすればいいか?
映画を見に行く前に、その監督がどんな映画を作ってきたのか調べておけばいいのだ。
調べるだけでなく、できれば旧作を見ておく。

『ツリー・オブ・ライフ』だって、テレンス・マリック監督の映画を見ていれば、感動のエンディングなんてものを志向しない監督だと、納得できたはずだ。
ナンニ・モレッティ監督にしても同じこと。『ローマ法王の休日』のエンディングはまさしくモレッティの映画だとわかるのだ。
ただテレンス・マリックの旧作は全部DVDで見ることができるけど、モレッティの旧作は、例えばレンタル店で目にすることが難しい。


モレッティ監督作は新作『ローマ法王の休日』を除くと9本が日本公開されてるが、レンタル店の棚で手に取れるのは、2001年のカンヌ・パルムドール作『息子の部屋』くらいだろう。

1985年の『ジュリオの当惑(とまどい)』
1993年の『親愛なる日記』
1998年の『ナンニ・モレッティのエイプリル』は、
DVD化はされてるが、セル専用でレンタル店の棚には並ばないからだ。

それよりもまず、モレッティの作家性を知るのに格好な、「ミケーレ」シリーズ4部作が、1本もDVD化されてないのが痛い。
1978年の監督デビュー作『青春のくずや~おはらい』
1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』
1984年の『僕のビアンカ』
1989年の『赤いシュート』だ。
その内、前の3本はTDKコアというメーカーから、昔ビデオで一挙に発売された。

今回紹介する『監督ミケーレの黄金の夢』も、そのビデオを中古で手に入れたものだ。
メーカー名からわかるようにTDKが洋画のライセンスを買って、ビデオを出してた。
ビデオメーカーバブルの時代で、音響機器関係の会社が、次々に映画ビデオビジネスに参入しては、撤退してった時期だった。
東芝は有名な方で、レコード針のナガオカや、カーステレオのクラリオン、ゲームメーカーのコナミも参入してたな。

監督ミケーレの黄金の夢.jpg

この『監督ミケーレの黄金の夢』で、ナンニ・モレッティ自身が演じる映画監督ミケーレは、過去に2本撮った映画がそこそこ成功を収めて、3作目の構想に入ってるんだが、一向に進んでない。
過去の自作の上映会の引き合いはあり、上映後にQ&Aを行うため、上映会場に出向いて行く。

小さな町の集会所であったり、大学の講堂であったり、時には修道院にまで出向くが、どこへ行っても必ずいる男が、必ず同じ発言をしてくる。
「あなたの映画は、家族と学校と若者と1968年と、こればかりだ」
「地方の労働者や、トレビーソ市の主婦や、羊飼いがこれを楽しめるのか?」

なんでその男が修道院の上映会にまで居るのか謎だが、ミケーレもうんざりしてる。
俺も映画祭に行くと、上映後のQ&Aを聞いてたりすることがあるが、大抵はありきたりな質問が飛び交っていて、「監督もこんな質問何十回も聞かされてるんだろうなあ」と眺めてる。

映画監督が主人公の映画というのは、それこそフェリーニの自画像的な
『8 1/2』をはじめ、けっこう数もあると思うが、この映画は、監督の屈折がちょっとシュールな笑いで表現されてるのが特徴的なのだ。


ミケーレが以前に自分の映画かけてくれた映画館を訪れる場面。支配人はもう憶えてない。
館内に案内されると、ミケーレの後継者と目されてる新人監督チミノの映画が上映されてて、本人も見に来てる。広い客席が埋まってるように見える。
だがよく見ると空いてる席には、客のかわりに胸像が置いてあるのだ。支配人曰く
「広い客席に客がまばらだと寂しいので」

テレビ出演の依頼があり、地方の小さな局だが、映画について意見を語らせてくれるというので、ミケーレはスタジオに入る。カメラが1台と、スタッフ1人しかいない。
カメラが回り始め、ミケーレが話し出すと、スタッフは何かの用で、スタジオから出て行く。
誰もいないカメラに向かって話し続けるが、ついには
「助けてぇ!」「助けてぇ!」
とスタジオ内で叫び出すミケーレ。

バーで静かに酒を飲んでても、なまじ顔を知られてるから、話しかけられる。
「アメリカ映画がいい。頭を使わないからね」という男に、
「そうかい、ではチャオ」
と場を離れようとすると、
「ちょっと待て、チャオは俺が言うんだ。これじゃ俺が君に見限られたみたいだろ」
そう言われて元の場所に戻されると
「ではチャオ」
と言って男は立ち去る。


ミケーレは30過ぎだが、独身で母親と一緒に暮らしてる。
母親はイタリアの国政にも意見を持ってるが、息子は新聞は一面読んだら、あとは映画欄しか見ないとくさす。ついには掴み合いのケンカになって
「もう家を出ていきなさい!」
「出てくもんか!」
「マザコンの何が悪いんだ!」と逆ギレ。
その自身の鬱屈は脚本に反映され、フロイトはマザコンだったという、新作の撮影にかかる。

ミケーレが脚本を書いてる場面と、撮影中の映画の場面をシンクロさせてるのも可笑しい。
フロイト役の役者がセリフを言ってるんだが、ミケーレのペンが止まってしまう。
役者もしゃべれないままだ。
ミケーレが「ここはなにか即興で…」とつぶやくと、撮影中の役者が
「フロイトが即興なんてできるはずないだろ!」
とキレてる。撮影もスムーズに進まない。

現場で役者の芝居をつけてると、ミケーレはなにか臭うと言う。
「タバコですか?」
そんな臭いじゃない。気になってしょーがないので、ミケーレは臭いの元を探って行く。
セットの壁をずらすと、スタッフの男と女が熱い抱擁を交わしてた。
そんな臭いがわかるのか?


ミケーレは高校で教師の職も持ってるんだが、映画監督としてのスランプは、教師としての授業っぷりにも反映され、ほとんど情熱も感じられない。
だから生徒もチェスをしたり、物を食べたり、まともに聞いてない。
そんな生徒を次々追い出し、無表情で授業を続ける。

女子学生のシルヴィアは、そんなミケーレに真っ向意見する。
「先生は年寄りとおんなじ。自分の部屋の外のことには何の関心も持ってない」
「そんな教師の授業を聞く価値はないわ」
シルヴィアの言葉と強い視線に射抜かれ、まともに目も見れない。
それにシルヴィアはちょっと美人だ。

ベッドで夢にうなされる。シルヴィアの後を校門から追っているミケーレ。
彼女はボーイフレンドと歩いてる。
そしてアパートの窓際でキスを交わしてる。
それを柵越しに見ながら「シルヴィア~!」と叫ぶ。
『望郷』のジャン・ギャバンのように。

別の晩には、またシルヴィアの夢。彼女はボーイフレンドと共に、南アフリカに旅立つという。
二人の前に立ちはだかったミケーレは、子供のように地面で「イヤイヤ」をしてる。


新作『フロイトの母』はなんとか完成のメドもついてきた。
ミケーレの後継者と呼ばれる新人監督チミノは、学生運動をミュージカル化した新作で評判を取っていた。
テレビのバラエティショウで、ミケーレとチミノは、どっちが監督として優れてるか、さまざまなゲームで競うことになった。

最初のディベートでは、ミケーレの「お前のかあさんデベソ」的な、ただの悪口攻めが効を奏し先制。
だがセックス観を語るコーナーでは、観客からまさかの総スカンを食う。
ならばと隠し芸コーナーでも、歌を披露するがまったくの音痴で勝負にならない。
ボクシングでは体格差を生かしてポイント稼いだが、最後にペンギンの着ぐるみで、どっちが先に巨大な卵を割れるでしょーゲームで負けを喫し、チミノは名実ともに(?)ミケーレを凌ぐ映画監督の座を勝ち取ったのだ。

町はずれの小さな映画館で封切りの日を迎えた『フロイトの母』。
その夜、ミケーレはまたシルヴィアと夢で再会する。

南アフリカから帰ってきたシルヴィアと、レストランの席で向かい合うミケーレ。
だが彼女が手を触れようとした時、ミケーレの手は毛深く変わり、顔は狼男に変貌していた。
叫び声を上げて逃げ出すシルヴィアを、ミケーレは追いかけていくのだった。


映画はここで終わりだ。つまりなんか解決するとかそういうことはないのだ。モレッティの映画では。
この1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』と、新作の『ローマ法王の休日』には通じる部分がある。
それはどちらの主人公も、自らの境遇を「荷が重い」と感じてることだ。

監督ミケーレは観客から新作を期待されてるが、自分の中にはもう大したものがないことを悟ってる。
後輩の監督の前では尊大な態度を通すが、そのプライドも何の役にも立たないことを、あのバラエティショウの場面で思い切り戯画化してるのだ。

モレッティはその自意識過剰っぷりを、さらにデフォルメすることで笑いへ転化させている。
ウディ・アレンが似た作風でありながら、映画としてまとめ所には気を遣ってるのに対し、そんな自分にすんなり折り合いはつけられないという、悪あがきをそのまま提示して終わらせる。
そこにモレッティという人の生真面目さを見る思いがするのだ。

2012年8月29日

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