銀座シネパトスの見納め作になるのか [映画ア行]

『ウェイバックー脱出6500kmー』

img3069.jpg

取り壊しが決まってる、銀座シネパトスでの単館公開ということで、見に行ってきた。
銀座シネパトスは、先日「ロンドン・オリンピック」のメダル選手たちのパレードが盛大に行われた、銀座の目抜き通りの、三越交差点を歌舞伎座方向に2分ほど歩くとある。

「三原橋」という名称になってて、元は晴海通りの横断地下道だった場所に、飲食店と映画館が作られた。
シネパトスより前の時代は「銀座地球座」という館名で、主に洋ピンをかけてたと記憶する。

ヒューマックスシネマの経営会社が母体となって、「銀座シネパトス」として、スクリーンを増やし、3館体勢で営業してきた。
当初は2館で、後から1館増やしたんではなかったか?

初めてここに行った人なら「ここ銀座だよね?」と確認したくなってしまうほどに、ハイソな銀座のイメージにはほど遠い「昭和」の風情が、しぶとく張り付いてる、そんな一角なのだ。

ここと同じく、浅草でも「六区」の大規模な再開発に伴い、「浅草中映」をはじめとする名画座の取り壊しが発表された。
映画館における「昭和」の残像は、もうほとんど感じる場所も無くなる。

「銀座シネパトス」はここでしか封切られないアクション、ホラー、ちょいエロ系の新作と共に、近年では「名画座」としての機能もはたし、古い日本映画の特集上映など、プログラムに工夫を凝らしてきた。
スティーヴン・セガール新作の常設館としても、名は通っている。

俺はそう頻繁に通ったわけではないが、通算すると20回くらいは見に来てると思う。
ただここで何を見たのか、そのタイトルがよく思い出せないのだ。

古い所では1990年の公開されたイタリア・ユーゴ合作のホラー『ザ・トレイン』はここで見た筈だ。
あとスティーヴン・ボールドウィンが主演した潜水艦もの『サブダウン』とか、『スターシップ・トゥルーパーズ2』とか、いやもっとマシなもんも見てたと思うんだが、なぜか思い出せない。

『クライモリ』はここだった気がする。あれは面白かったな。


そんなわけで『ウェイバックー脱出6500kmー』だが、監督ピーター・ウィアーと、この顔ぶれが並んで、シネパトス単館公開とはなぜに?

思えば記憶に残る「パトスショック」としては、
イーストウッド監督・主演の『トゥルー・クライム』がある。
それまでにもイーストウッド監督作で、ごく小規模な公開となる例はあった。
『センチメンタル・アドベンチャー』や『バード』『ホワイトハンター、ブラックハート』など。

だがそれらはいわば彼の「趣味的」な作品で、娯楽映画のフォーマットからは外れていたんで、見る側も公開規模に納得な感じはあったが、『トゥルー・クライム』はイーストウッド王道の犯罪サスペンスの装いだった。
ファンとしては、彼の封切りの「指定席」でもあったパンテオンや渋谷東急、あるいは丸の内ピカデリーといった「松竹・東急系」のロードショー公開と思っていた。

それが「銀座シネパトス」の単館封切りと決まり、
「もうイーストウッドを大きな劇場では見れないのか」と肩を落としたものだ。
まあ映画を見てみれば、あれだけ地味だったら仕方がないなとは思ったが。

銀座シネパトス.jpg

この『ウェイバックー脱出6500kmー』は、主演が『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のジム・スタージェス、『崖っぷちの男』のエド・ハリス、『トータル・リコール』が公開中のコリン・ファレル、『第九軍団のワシ』のマーク・ストロングと、いずれも今年すでに出演作が公開されてる男優陣に、紅一点として『ハンナ』の美少女シアーシャ・ローナンが加わるという、これだけの顔ぶれなのだ。
本来ならシネコンにかかっていい規模だと思う。
それがなぜシネコンにかからなかったのか、見ていく内にわかってきた。


1940年、シベリアの強制収容所を脱走し、インドを目指し6500キロを踏破した男たちの実話に基づいた、細部はフィクションのサバイバル劇だ。

丁度アラスカの大地をサバイバルする『THE GRAY 凍える太陽』も上映中だが、オオカミに襲われたり、危機また危機という展開のあちらと比べて、このシベリア脱出行は、そういうアクション的な見せ場はほとんどない。

オオカミも襲って来ないし、ブリザードに紛れて脱走したんで、足跡も消され、ロシアの警備兵たちもあっさり追跡を断念してしまうのだ。

強制収容所の所長は、新参者たちを集めて言う。
「脱走を試みた所で、この広大なシベリアの大地がお前たちの行く手を阻む」
「脱走者には賞金をかけてあるから、村人にも襲われる」

そう言うんだが、実際は村人に襲われることもない。
外敵からの脅威はなく、ひたすらに歩いて行くのみとなる。

脱走者が何に襲われるかといえば、それは飢えや渇きであり、歩いても歩いても先の見えない徒労感であり、つまりは心が折れそうになる己との戦いとなるのだ。

監督のピーター・ウィアーはそこに焦点を絞って描いていくから、映画の見てくれとしては、地味で淡々と感じられるかも知れない。
だがサバイバルというのは、こういうものかも知れないなとも思う。


物語の中心人物となるポーランド人ヤヌシュをジム・スタージェスが演じてる。
ヤヌシュはスターリン批判とスパイ容疑でシベリア送りとなった。
拷問された彼の妻は、ヤヌシュの前で彼の容疑を裏付ける証言をさせられた。
強制収容所の劣悪な労働環境で、命を落とす者も後を絶たない。
ヤヌシュは中でも死と隣り合わせの炭鉱労働に駆り出され、精神的にも限界だった。

マーク・ストロング演じるロシア人のカバロフは、脱走する気があるなら、方法はあるぞと、ヤヌシュの表情を覗う。
南に向かいバイカル湖に辿り着けば、湖沿いを歩いて、モンゴル国境に出るという。
一人で脱走は無理だ。ヤヌシュは、アメリカ人の地下鉄技術者スミスに声をかけた。

エド・ハリス演じるスミスから出たのは意外な言葉だった。
「カバロフを信用するな。あいつは脱走する気などない」
「脱走に希望を抱く若い人間の姿を見ることで、それを生きる糧にしてるにすぎない奴だ」

その言葉通り、仲間を数名募って、カバロフに決行の手順を尋ねるが、曖昧な返事しか帰って来ない。
だがヤヌシュはやると決めていた。

スミスは収容所内でのヤヌシュの行いを見てきた。
「お前が脱走するならついて行く」
「お前の弱点が役に立つからだ」
「僕の弱点?」
「お前は優しい。人を見殺しにはできない奴だ」

脱走の計画を練ってることを嗅ぎつけた、荒くれ者のロシア人ヴァルカが、ヤヌシュにナイフを突きつけ、俺も加えろと迫った。
コリン・ファレル演じるヴァルカは、犯罪集団上がりで、平気で人を刺すこともわかってたが、ヴァルカの手にするナイフは、サバイバルに役立つとヤヌシュは考えていた。

脱走するのはヤヌシュ、スミス、ヴァルカの他に、ポーランド人が2人とラトビア人、ユーゴ人の計7人となった。カバロフの姿はなかった。
後になり、ヴァルカが密告を怖れてカバロフを刺し殺したことを知った。


ブリザードを突いて脱走は敢行され、追っ手の警備兵や犬もなんとか振り切った。
ヤヌシュはヴァルカからナイフを借りると、木の皮を剥いで、即席の吹雪よけマスクを作った。
影ができる位置から、方角を指し示す。
ヤヌシュのサバイバル能力に感服したヴァルカは、彼をリーダーとして忠誠を誓うと言った。

バイカル湖を目指す過程で、すでに蓄えてきた食糧も底を尽きてきた。
オオカミが仕留めた獲物を横取りして、オオカミのように輪になってかぶり着いた。
栄養失調で夜盲症となったポーランド人の若者カジクは、焚き木を集める間に道に迷い、翌朝凍りついた死体で発見された。


6人となった一行はようやくバイカル湖に辿り着いた。だがその森で何者かが後を尾けてきた。
賞金を狙う村人かと身構えるが、そこには少女がひとり立っていた。

名をイリーナといい、集団農場から逃げ出してきたという。何も食べてないようだ。
スミスたちは「足手まといになる」と反対するが、ヤヌシュはイリーナの同行を許した。
イリーナを演じるのはもちろんシアーシャ・ローナンで、彼女もこの後、容赦ないサバイバルの道行きを余儀なくされるわけだ。

バイカル湖を抜けて、シペリア鉄道の線路を越えると、そこはモンゴルの国境だ。
だがモンゴルに入り、砂漠に立つ門に、スターリンの肖像画が描かれているのを見て、
「ここも安全ではない」と愕然とする。
その先へ行くしかないが、そこはゴビとタクラマカンという、絶望的に広大な砂漠が広がっているのだ。


サバイバルでお決まりの展開というなら、一人の女を巡って、人間性を剥ぎ取った男たちが争うといった描写が入るようなもんだが、この映画はそうはならない。

男たちは常に飢えと渇きと、精神的な消耗にさらされる。
その殺伐とした足取りの中で、少女の存在が心を和ませるものになっていく。
自分が生き残るという気持ちから、この少女を守ろうという気持ちへと、モチベーションが外に向うことで、活性化されるのだ。

イリーナも、道中で男たち一人一人と、取り留めもない会話を交わしていく。
男たちの間では交わされない、それぞれの家族のことや、いままでの人生のこと。
それがイリーナを媒介に、互いの理解を深めることに繋がっていく。

スミスは水も食料も尽き果て、進退きわまるような状態になっても、なお前へ進むことを諦めないヤヌシュに、なぜそこまでと尋ねる。

ヤヌシュは妻を恨んでなどなかった。
むしろ拷問を受け、夫をシベリア送りにしたことへの、妻の罪悪感がいかばかりか。
妻は家に戻され、平穏に暮らしてるだろう。
だが一生その罪の意識に苛まれる。
彼女を救うために、自分は彼女の元へ帰らなければならないのだと。


極限の状態に陥った時でも、人を人たらしめているものがあるとすれば、それは何か?
ピーター・ウィアー監督の映画にいつも感じる、ある種の折り目正しさというか、人間に備わった「モノ」に対する信頼の視線を、この映画にも感じることができる。

もちろんこのサバイバルは甘くはない。男の体力でもギリギリまで消耗する砂漠の横断に、イリーナの体力は持たない。
日射病で動けなくなったイリーナを男たちが見つめる。
この場面は悲しいが、同時に人間の精神の美しさが静かに描写され、胸がつまる。


このサバイバル劇と同じような実話が以前に映画化されている。
2001年のドイツ映画『9000マイルの約束』だ。

これは2004年に日本公開されてるが、こちらはやはりシベリアに抑留されたドイツ兵が、脱走して3年がかりで、祖国の土を踏んだという内容だった。
9000マイルといえば、1万4千キロ以上はあるんで、『ウェイバックー脱出6500kmー』より全然過酷ってことになってしまうが。
しかもイランのテヘランまで追跡の手が伸びてきたというし。

なので脱走サバイバル劇としては、後塵を拝する形にはなるが、役者の顔ぶれもいいし、刻々と移りゆくロケーションも見応えあって、やはり単館では勿体なくはないか?

2012年9月9日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。