『ハンガーゲーム』は併行世界のアメリカ [映画ハ行]

『ハンガーゲーム』

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ジェニファー・ローレンスが予め主役を演じることを当て込んでたわけではないだろう、にも関わらず、不思議なくらいに、『ウィンターズ・ボーン』とリンクするような内容だった。


『ハンガーゲーム』の舞台は、もとはアメリカであった全体主義国家パネム。
キャピトルという支配者層が暮らす都市があり、その都市の繁栄に寄与させるため、国土を12の地区に分け、住人たちは異なる産業に従事している。

74年前に、大規模な反乱戦争が起こり、12地区の住人が一斉に蜂起した。
だがキャピトルはそれを鎮圧し、再び全土を統治すると、国民に絶対的な服従を課すために、毎年恒例のイベントを催す。

12地区に住む、12才~18才までの男女それぞれ各1名づつが抽選で選ばれる。
これは「刈り入れの日」と呼ばれ、地区の住人はその抽選の場に集められる。

選ばれた24名はキャピトルに送られ、「競技場」の中で、生き残りを賭けて闘うことを強いられる。
広大な森林地帯で、僅かな武器を手に、飢えに晒される「ハンガーゲーム」。

勝者は他の23名との闘いに勝ち残った1名のみ。
その勝者と、勝者の出身地区は相応の富を手にできる。

そのゲームは12地区全土に生中継され、国民は見ることを義務づけられてる。
それは強大な国家の力を見せつけるためでもあり、反面、臨場感たっぷりの娯楽として提供することで、搾取され続ける国民の鬱憤に対する「ガス抜き」の作用として働いてもいた。
そういう世界観の設定になってる。


ジェニファー・ローレンス演じるカットニスは、抽選で選ばれた12才の妹に代わって、自分が「ハンガーゲーム」への参加を志願する。

カットニスは、石炭産業に従事させられてる「第12地区」の出身で、父親は炭鉱の事故で命を落とし、母親はそれ以来、生きる気力を失ってる。
妹の面倒はカットニスが見てきたのだ。


『ウィンターズ・ボーン』でジェニファー・ローレンスが演じるリーという少女は、ミズーリ州オザーク山地の村に住む、貧しい白人一家の長女だ。

父親は失踪していて、母親は同じように廃人同様となってる。
長女のリーが幼い弟と妹の面倒を見てる。
狩りの方法や、獲物の捌き方も教えてる。
カットニスも弓の名手で、狩りの技術に秀でてる所も似てる。

リーは、家を抵当に入れたまま失踪した、父親の行方を探るのだが、土地を支配する一族の掟の前に、自らの身も危険に晒すことになる。

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ミズーリ州のこのあたりには、かつては炭鉱もあり、石炭産業で栄えたことがあったようだが、
『ウィンターズ・ボーン』で描かれるこの土地には、さしたる産業もなく、住人たちの多くが、一族が仕切る麻薬の製造に関わってるという設定になってた。

『ハンガーゲーム』での、全体主義国家で、炭鉱労働に従事させられる、貧しい「第12地区」の描写と、自由主義国家アメリカの現在の、ミズーリ州の山村の生活が、さして変わらないように映るのが皮肉だ。


『ハンガーゲーム』では意図的に、国民たちの着る服などが、古い時代のものになってる。
『怒りの葡萄』とか、あの大恐慌時代の頃の雰囲気だ。
女性の簡素なドレスとか、若い男の髪の撫でつけ方とか。
『ハンガーゲーム』はSFではあるから、遠い未来の話とも思えるし、だが時代設定がされてないので、「併行世界」という設定と捉えることもできる。

第2次大戦で、アメリカもまた核の惨禍を浴び、国土が焼き尽くされ、その後に全体主義国家として統治されるという。

この映画は2012年に製作されてるが、そこから映画の「74年前の反乱戦争」に沿って年表を遡れば、
1938年という「第2次世界大戦」前夜に合致する。
国民の服装を鑑みても、「あり得たかも知れないアメリカの現在」という解釈も可能だろう。


深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』との類似も指摘されてるが、あの映画は、いきなり中学の教師に「今日はみなさんに殺し合いをしてもらいます」
と宣言された生徒たちが、否応なく生き残りをかけたサバイバルの場に放り込まれてた。

この『ハンガーゲーム』の場合は、少年少女たちにとって、極端化された「通過儀礼」のように見えたりもする。
カットニスという一人の少女に焦点を合わせることで、彼女の心の葛藤を捉えていくのだ。
カットニスはもちろんゲームの残酷さをわかってるし、参加だってしたくはない。
だがやる以外に選択肢はない。

キャピトルに送られる過程で、今までの貧困生活では経験したことのない世界を垣間見ることになる。
「戦士」としてキャピトルの観衆の声援を浴びる。
煌びやかなドレスに化粧を施され、少女はその興奮に揺れる。
誰からも顧みられることもなかった自分が、注目を浴びる存在になってるのだ。

印象的な場面がある。カットニスが、審査員の期待値を得点に換算するための、デモンストレーションに臨む。
カットニスは得意の弓を的に放つが、審査員たちは飲食にかまけて、まるで見ていない。
そこでカットニスは、審査員席に弓を向け、料理を射抜いて、ド肝を抜かせる。
無関心に対する怒りの一矢だった。


「通過儀礼」と書いたのは、よく昔「驚異の世界」とかいうドキュメンタリー番組が放映されてて、未開の部族たちの村の慣習で、成人の儀式なんかを紹介してた。
バンジージャンプの元祖みたいなことをさせられたりね。
その意味するところは、
「この試練を乗り越えることができれば、お前を一人前の大人として認めてやる」
という、大人社会からのお墨付きのようなものだ。

だがそれが成立するためには、若者にとっての「大人社会」が畏れを抱く、絶対的な価値観として存在してなければならない。

目上の者から生きる知恵を授かり、社会の規範を叩き込まれる。
今でもそういう「小さな村社会」の集合体として、生活を営んでる人たちは、この地球上に存在してるだろう。
だが先進国といわれる国にそれはない。
ないというより、なし崩し的に、そういった慣習が消え去ったということだ。

規範意識の希薄な大人たちが形作った社会で、少年少女たちは、なんのハードルも課されることなく、20才になれば「はい成人おめでとう」と言われる。
「これからは酒もタバコもOKです」
って、そんなもん中学の頃からやってるよ、たいがい。
20才というのは、19才の翌年にはなるものという意味合いしか持たない。

よく成人式で騒ぎ起こしてるのが、ニュースで流れてて「バカだなあ」とは思うが、一方で形骸化した
「成人の儀式」に、苛立ちを感じてる部分があるかもなとも思う。
市長が出てきて訓示垂れたって、「だからなんだよ」という気分だろう。

「これを乗り越えたから大人と認める」というハードルがない。
逆にいえば「お前は20才かも知れんが、大人とは認められない」
と言われることがあってもいいんじゃないか?

もちろんそんな事を言った所で、具体的な「通過儀礼」なんて、成立しようもない。
「徴兵制度」がその役を成してはいないことは、お隣の国を見ればわかることだし。

アメリカの十代の観客の大きな支持を受けて、この『ハンガーゲーム』が大ヒットしたという背景には、もちろん原作小説の内容の奇抜さとか、あるだろうが、主人公のカットニスが、過酷な試練に晒される、その過程を我が身に置き換えて、感情移入できるからではないか。


それは「通過儀礼」というものに対する、ある種の憧れだ。
カットニスが審査員の無関心に、怒りの矢を放った場面には、自分が成人しようがしまいが、大人は関心を持ってくれない、という事への、少年少女たちの苛立ちが込められてるように映った。

この映画が『バトル・ロワイヤル』のような、殺伐とした子供たちの殺し合いを、正面きって描かずに、カットニスの行動と心の動きにフォーカスしてるのは、そういう理由によるものだろう。

殺しあう描写はあるが、残酷さは抑えられてる。
なのでセンセーショナルな内容を期待すると肩すかし食らう。

キャストに関しては、とにかくジェニファー・ローレンスで支えられてる映画だ。
最初からシリーズ化が決まってたようだが、もし彼女が降板するなんてことになったら、相当しょぼくなってしまうだろう。
監督のゲイリー・ロスは、この1作目を大成功に導いたにも関わらず、続編の監督を辞退してる。

2012年9月29日

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